『ロイ! ロイ! なあ、ロイ、聞いてるか?』

 今日もまた、遠くで誰かの声がする。
 昔から、現実のように思えていたものが目が覚めたら夢だったと気付くことがよくあって、そういう時目が覚めたら、自分はよく泣いていた。
 幸福な記憶。優しい声。夢は俺に生きる力をくれた。
 現実はくだらない。

『どうして年々あの人に似てくるの?』
『近寄らないで』
『貴方なんか産まなきゃよかった』

 今日もまた、馬鹿な女の声がする。
 いずれ王となる自分に、こんな言葉を吐く彼女は愚かしいとしか言えない。
 でも、別にどうでもいいことだ。
 親に愛されなくても、かつてのこの記憶があれば、俺の魔法は強くなったから。

 『大陸の王』。
 かつてそう呼ばれた赤の大陸の王の名を知らぬ者は、この世界には居ない。
 そして俺は、自分がその魂を継いでいることを理解していた。

『流石はロイ様!』
『貴方は天才です』
 違う。知っているのだ最初から。
 この魂は記憶を引き継いでいる。
 過去読んだ本の知識。それを小出しにするだけで、誰もが俺のことを褒めたたえた。

 全く以て馬鹿な世界だ。
 見下した世界には、つまらない人間ばかり。
 世界はどこまでも無価値に思えたけれど、そんな俺にも一つだけ願いがあった。

 つまらない現実とは違う。夢の中に響く笑い声。
 夢の中のその声に、どれ程救われたかわからない。
 それは幸福な記憶。闇を照らす、光そのもの。

 荒んだ世界で、前を向く力をくれた『彼』に会いたい。それが幼い頃からの、俺のたった一つの願いだった。

 そんな『彼』との記憶の始まりは、かつての『大陸の王』――俺の結婚式だった。

 大国の王の婚姻に、世界中から金銀財宝の祝いの品が届く中、とある国の王だけが、物ではなく心から嬉しい贈り物を自分にくれた。

『ご結婚おめでとうございます。私からもささやかながら贈り物を』

 一体何をくれるというんんだろう? 俺と、今日妻になったばかりの女性が首を傾げれば、『彼』は手を掲げた。
 すると光を帯びた紙の鳥が一斉に空へと舞い上がり、空からは光が降った。
 とある植物を咥えた紙の鳥は人々の手に止まり、掌の上でその身を崩した。
 そこに書かれていたのは。

【これは幸福《ハピネス》とよばれる植物です。
 四枚の葉のうち一枚を与えられた人間は、貴方が持つ幸運の一部を受け取ることができます。
 貴方の愛する人に、どうか渡してあげてください】
 
『お二人のこれからに、貴方方の結婚を祝う全ての人に、たくさんの幸福がありますように』

 『彼』はそう言うと、自分が手にしていた二つの幸福の葉を千切って、俺と隣にいる女性へと捧げた。

 金色の髪が揺れる。
 不思議な価値観を持つその王に、俺は惹かれて興味を持った。

 宝石の産出国。
 水晶の王国と呼ばれるその国の王と、俺は交友を深めた。
 面白い男が居る。
 父の姉の娘――『海の皇女』と呼ばれていた従姉妹も随分『彼』に懐いて、彼女を連れてよく『彼』の国に遊びに行った。

『海の皇女、大陸の王。ようこそ友よ。我がクリスタロス王国へ!』
 『彼』はよく笑う人だった。

『我が君!! 貴方はまた執務をさぼって……! 今日の仕事を終えないと遊べませんからね!』
『ユーゴ! せっかく二人が来てくれているんだ。今は仕事をしている場合じゃないんだ!』
『貴方が判子を押してくださらないとまわらないのです! 貴方に振り回される私の身にもなってください! 我が君!』

 『彼』の傍には小さな少年。

『神に祝福された子ども』
 そう呼ばれる存在を、『彼』は自分の宰相に選んでいた。
 『彼』の国に遊びに行く度に、俺は、与えられた仕事を放棄して自分たちと話をしたがったり、伴もつけずこっそり城下で遊んだりして忙しない日々を送る『彼』を見ているだけで、王として執務に追われる日々から抜け出して、違う世界に居るような、そんな気分になれた。

 どんな立場の人間も、自由でいいと思わせてくれるような――『彼』は、そんな人だった。
 『彼』は本来仕事をさぼるような人ではなかったと思うけれど、自分の部下に自分を追いかけさせては、怒られながらよく笑っていたのを俺は覚えている。

 『彼』のサボりは、ある意味周りの人間のためだった。
 自分がしたいこと。自分が見ている風景。
 そういうものをわかってほしくて、『彼』は姿を消した自分を見つけた人に、願いを託しているのだと言っていた。

『俺はかくれんぼをしているんだ』

 子供か、と思った。
 ただまあ少し、『彼』が抜けていたのは事実だった。
 完璧な王ではない。でもだからこそ、『彼』の周りには人が集まっているようだった。

 放っておけない。『彼』に手を貸してあげたい。
 『彼』は人に愛される人で、それ以上に『彼』自身、人を思い遣る人だった。
 お伽噺のように美しい、幸福な国。
 そんな国の王は温かで、『彼』のおかげで国は光り輝いて見えた。

『――平民も貴族も。みんなが平等に通える学校を作りたい。俺はみんなが笑い合える世界が好きだ。この世界を変えたいんだ。協力してくれ。大陸の王、海の皇女!』

 だから『彼』が自分たちに、学校を作りたいと言った時に協力した。
 『彼』の願いなら、きっとこの世界の、幸福に繋がるに違いないと思ったから。

『君がそう願うなら。俺は君に力を貸そう』
『貴方がそう願うなら、私も協力してあげる』
『ありがとう! 二人は俺の親友だ!』
『きゃ!』
『うわ!』
『全く君は……』
『貴方って人は……』

 自分たちに抱き付く『彼』は、王というより昔からの友人のようで。
 王という身分を忘れさせてくれる『彼』のことが、多分自分と同じように、『海の皇女』も好きだった。

 大陸を統べる国。海を統べる国。それに比べると『彼』の国は、とても大きな国とは言えなかった。
 それでも、本当は自分たちより立場の低い『彼』に普通に話してほしいと言ったのは、自分や海の皇女からだった。

 ――君かいるこの国を、俺は愛し守ろう。
 ――あなたがいるこの国を、私は愛し守りましょう。
 『彼』が居たから繋がった。自分たちは、そういう関係だった。

『俺は人の笑顔が好きなんだ。ロイ。君にも。ずっと笑っていてほしい。そしたら俺はとても嬉しい』

 今日もまた、優しい声がする。
 『彼』の国。お伽噺のような優しい国。
 俺は差し伸べられる手を掴んだ。

「――待ってくれ。君は……」

 そのはずなのに目が覚めたら、いつだって『彼』は居ない。
 記憶はとぎれとぎれで、大事なところは欠落している。

 学院の創立者。
 歴史に残る『三人の王』。
 『大陸の王』ロイ・グラナトゥム。
 『海の皇女』ロゼリア・ディラン。
 そして――最後の王の名は、『賢王』レオン・クリスタロス。

 『彼』の名前は夢の中で、いつだってきちんと聞こえない。
 『彼』は、『レオン』のはずだ。だってそうでなければ俺たちに、名を連ねるはずがない。



「おうさま。おうさま。だいじょうぶですか?」
「……なんでもない」
「おうさま?」

 今日もまた、伸ばされた手は何も掴めない。
 心配そうな目をシャルルに向けられて、ロイは目に浮かんだ涙を拭った。
 ずっと会いたかった『彼』の、魂を継いでいる可能性のある王子。
 十年前からずっと、ロイはレオンが眠りから覚めるのを待っていた。
 ずっと『彼』に会いたかったから。
 馬鹿げていると思われてもかまわない。それでも『彼』に、自分と同じように前世の記憶があるのかきいてみたかったから。
 しかしいざ会ってみれば、レオンは記憶が無いどころか、まるきり夢の中の『彼』とは違った。

 だからだろうか。
 自分の親友の名を語る若い王子に、ロイは苛立ちがおさまらなかった。
 ロイは机の上の小箱をみた。銀細工の施されたその箱は、彼のものにしては些か彼に不似合いだった。

「本当にがっかりだ。君が、『彼』である筈がない。――俺は君が、この国の王になるのは認めない」
 ロイは静かに宙を睨んだ。

「『彼』が愛したこの国の王に、君は相応しくない」



「リヒト殿。何をお考えですか?」
「……」

 相変わらず、自分に対してにこやかな笑みを浮かべる大国の王の顔を、図書室で本を読んでいたリヒトは、ピクリと眉を動かした。

 何故かやたらと自分に興味を示す男を見つめる。
 確かにロイはベアトリーチェには敗北した。
 けれど、ロイが自分の兄を倒した人間であることに違いはない。
 リヒトはずっと兄と比べられて生きてきた。
 そして兄は周りから優秀と持て囃され、自分は出来損ないと言われ続けてきた。
 ロイは兄に勝った強者であるはずなのに、彼が自分のことを異様に褒める理由を、リヒトはどう判断すべきなのかわからなかった。

 ロイ・グラナトゥムは、敵か味方か。

「凄いですね。実は先日預かった解答を拝見したのですが、なんと全問正解でした。流石、長らく魔法の研究を続けられていただけのことはある」
「あれくらいなら数年前から解ける」
「なんと! それは本当ですか? それが事実なら、貴方は間違いなく天才ですね」

 これまで誰にも言ってもらえなかった言葉を、ロイはリヒトに簡単に与えた。

「……兄に勝った貴方が、自分のことをそこまで気に入ってくださる理由がわかりません」

「何を仰っているのです? 兄上よりも、貴方のほうがずっと優れているというのに。いいですか? リヒト様。一〇年という月日は長いのです。特に若いうちの一〇年は。それに二〇を過ぎないうちに功をなした人間が褒め称えられるように、この世界では才能に対する評価を年齢で行うことは多々あるのです。若さ、もしくは、その分野において、明らかに歳を過ぎている場合は、また評価が上がる理由になる。貴方は若い。その才能は、認められる価値のあるものだ。それが認められれば、貴方は彼よりも王に相応しい人間と、認められることでしょう」

「…………」
「レオン・クリスタロス――貴方の兄のことは、確かにかつては私も良き好敵手と思っておりました。しかし一〇年の月日を経た今、彼はかつてのまま変われずにいる。可哀想ですが、今の彼では一年経っても私に追いつくことは叶わないでしょう」

 大国の王は静かに言う。
 レオンよりリヒトのほうが、この国の王に相応しいと。

「レオン王子の力の無さを証明する。その上で、貴方の優秀さを知らしめる。これが出来れば、貴方をこの国の王にと願う人間はきっと多くなる。リヒト様にはぜひ我が学院に入学していただき、多くのことを得ていただきたい。『紙の鳥』、古代魔法を復活させた貴方のような方を、ずっと私は求めていた」
「……」
「貴方には私の国に来ていただきたい。貴方が承諾してくださるなら、帰国の際にでも、是非我が国にお招きしたい」

 ロイはそう言うと、リヒトに紙の束を渡した。
 魔法学院入学のための書類だ。
 そこにサインをすれば、リヒトはこの国からしばらく出ることとなる。

「貴方の悪評を広めた兄など、貶めてしまえばよいのです。リヒト殿。私は貴方に、この国の王になっていただきたい」

 自分を見つめる赤い瞳に、リヒトは頷くことができなかった。

 ロイとの話を終えたリヒトは、決闘を終えた兄がまた一人で魔法の訓練をしている様子を見かけた。

「兄上だ」

 目が覚めてからずっと、兄がこうやって毎日訓練していることをリヒトは知っている。
 兄は昔から天才と呼ばれていたけれど、毎日努力していたことを、リヒトは知っている。
 でもそれを、顔に出さないのがレオンだということも。

 才能がある人間が努力している。
 その成長速度は明らかに人と違って、才能がない自分がどんなに頑張っても、追いつけないと思い知らされる。

「兄上、頑張ってるなあ」

 リヒトはポツリ呟いた。
 それは、リヒト出来ない努力だ。
 リヒトは魔法を極限まで使う以前に、魔法をろくに発動出来ない。
 レオンは、ベアトリーチェに言われてユーリがしていることを、目覚めてからずっと行っている。

『貴方の悪評を広めた兄など、貶めてしまえばよいのです』

 リヒトは確かに兄にされたことで傷付いたが、兄を貶めたいとは思えなかった。

「俺は……どうしたいんだろう…………?」

 リヒトの言葉は自分への問いに、まだ答えを出すことが出来なかった。