『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』大陸の王編

「いいですか? お嬢様」

ベアトリーチェとの婚約が決まってから、ミリアはローズに対して厳しくなった。
夫を得る淑女たるもの。
その心得を、彼女は毎日ローズに言い聞かせた。

「お嬢様はベアトリーチェ様の婚約者なのです。一年待つと仰ってくださいましたが、その間、決して他の方に心を許してはなりません」

ローズの髪を結い上げながら、ミリアは言い諭す。

「私から見て、今この国にあの方以上にお嬢様に相応しい方はいらっしゃいません。確かに体は少し小さな方ですが、心は人一倍大きい方です」

 ――それ、街でも聞きました。
 ローズはミリアの話を聞きながらそう思った。

「お嬢様。お話はちゃんと聞いてください」
「……はい」

 鏡越しに、ミリアはローズの顔を見ていた。
  付き合いの長い彼女に、ローズは心を見透かされてしまったと反省した。

「私は――お嬢様には、誰よりも幸せになっていただきたいのです。あの方は、きっとお嬢様を幸せにしてくださる。だから私は、お二人の結婚を楽しみにしています。……それに」

 いつも通りのポニーテール。
 鏡の中のローズは、国を守る凛々しい騎士だ。

「お二人とも、きっと人から祝福される相手は限られている。そう考えると、私はやはりあの方が、お嬢様に最も相応しい方だと思えてなりません」
「ミリアは、まるで私のお母様みたいね」

 ローズが騎士になったばかりの頃は、ローズとミリアはぶつかることもあったが、今はギルバートの帰還もあって、二人の関係は平穏を取り戻していた。

「……私にとってお嬢様は、世界で一番大切な人ですよ」

 ミリアはローズに微笑んだ。
 ローズはそんなミリアを見て、やはりベアトリーチェが、自分に一番相応しいい人なのかもしれないと思った。
 自分を愛してくれる家族《ひたとち》が祝福してくれる結婚。
 ローズにとってはそれが、一番大切なことに思えた。

 ベアトリーチェはローズに優しい。
 彼はローズを愛してくれる。
 愛が甘すぎて胸焼けしそうではあるけれど、そういう結婚《かんけい》もいいのかもしれないとも思う。
 幼いときに亡くなっているせいでローズに母の記憶はほとんどないが、それでも父が未だに母を想っている姿を見ると、死んでも思い続けてくれる人がいることは、ローズにはとても幸福な事のように思えた。
 おそらくベアトリーチェは、ローズたちより長く生きるだろう。
 彼ならずっと、自分のことを想って時を過ごしてくれるだろう。

『貴方の心を私にください』
 ただ彼が自分に向ける言葉を思うと、ローズはすぐには返事が出来ずにいた。
 一年より早く、彼との結婚を周りは望んでいる。そして彼も、直接は言葉にはしないけれど本当は――……。

「…………」
 そう思うと、ローズは彼の前で上手く話せなくなるのだった。
 今のローズには、自分に与えられる分だけの感情を、彼に返せる気がしなかった。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇  
 
 『赤の大陸』グラナトゥム王国の国王、『大陸の王』ロイ・グラナトゥムがクリスタロス王国にやってきたとき、人々はその光景に目を見張った。

 黒い巨大なドラゴン。
 その背に乗ってやってきたのは、王と小さな子どもだった。
 そして王を守る近衛騎士もまた、強い魔力がなければ従わないとされるドラゴンに乗ってやってきた。

 王族のみならず、騎士がドラゴンと契約できる程の能力を持つ国。
 それだけで、クリスタロス王国とは異なる国力を持つ国である証明となる。
 リカルドもドラゴンと契約しているが、その大きさはグラナトゥムの騎士のものより、少し大きいくらいだった。
 ロイ・グラナトゥムの乗るドラゴンの大きさは、レオンのレイザールとほぼ同等。
 もしそれと同等のドラゴンがこの世にいるとするならば、フィンゴットしかありえない。
 


「大きい……」
 訓練をしていたローズは、上空を遮る物体に気づいて空を見上げた。

 黒い翼が、日輪を遮っている。
 それが何体も――その光景は、かつて自分やアカリに求婚してきた王子たちのときと似ていたが、統率のとれたその動きが、彼らが全く別の存在であることを示していた。

 個としてではなく、集団として力を持つ飛行生物。
 王に従う騎士の兵。
 騎士の従える強い力を持つ生命体。

 ローズはまだ、生物との契約はしたことがなかった。
 生物との契約は、血を与えて魔力を与え続ける必要があるため、兄たちのことがありローズは契約が出来なかったのだ。

 契約獣は血を覚える。
 その血を与えてくれる主が自分に相応しくないと判断した場合、主を食べるという話もあるほどだ。故に契約は、古来より慎重に行うべきとされている。
 なかでも、『最も高貴』とされるレイザールとフィンゴットは、強い魔力だけでは従わないと言われている。

 心臓から送り出される、血液に含まれる魔力。
 その魔力量が彼らの満足なものでなければ、契約は結べない。
 そんなドラゴンが、こんなにも――……。

「壮観ですね」
「……ビーチェ様」
「ドラゴンは、私も以前契約を結びたいと思ったことはあるのですが、相性が悪いようで結局結べなかったのです。地属性の適性が偏って強いことは、空を飛ぶ生き物はあまり好まないという話もあるようで。輝石鳥とは結べたのですが……」

 ベアトリーチェは公私を分ける人間だった。
 騎士としての彼は、ローズに甘い言葉を吐く紳士ではなく、国を守る騎士の一人だ。

「おいで。セレスト」

 ベアトリーチェはそう言うと、空に向かって手を掲げた。
 すると一羽の鳥が、小さな翼を羽ばたかせて彼の指の上に降りた。

「ピィ!」
「以前手紙を届けてくれた子ですね」
「はい。私の可愛い小鳥です」

 最近彼に甘い言葉を囁かれているせいか、ベアトリーチェにそのつもりはないとわかっているのにローズはドキリとした。

『貴方は、私の可愛い小鳥です』

 今のベアトリーチェなら言いかねない。 
 そう思って、ローズは頭を振った。

 ――これでは駄目だ。私が彼を意識しすぎている。

「ローズ様は、契約なされないのですか?」
 そんなローズに、ベアトリーチェは問いかけた。

「貴方なら、この国では陛下に続いて二人目の、ドラゴンとの契約者になれる可能性が高い」
「そうですね……」
 白い鳥はピィと鳴く。

「でももし結ぶなら、この子みたいに白い子がいいですね……」
 この世界に存在する白いドラゴンはフィンゴットのみだ。
「……」
 微笑みながら自分の愛鳥に触れるローズを見ながら、ベアトリーチェは苦笑いした。



「お初にお目にかかる。リカルド・クリスタロス殿。私はロイ・グラナトゥム。『赤の大陸』グラナトゥム王国の国王です」

 赤い髪に赤い瞳。
 王になるべくして生まれた存在。
 そんな色を宿した彼は、リカルドの前に微笑んだ。
 傍に控えていたレオンとリヒトは、噂とは違わぬロイの纏う色に目を見張った。

 ローズもロイと同じように赤い瞳をしているが、この世界に赤い瞳を持つ人間はそうはいない。

 『光の巫女』の息子であり、前クリスタロス王国騎士団騎士団長ローゼンティッヒ・フォンカートは、母が王族であったため金髪に赤に近い目をしており、ローズの兄であるギルバートも赤に近い色ではあるが、完全に赤というのはこの国ではローズだけだ。

 絶対的な強者の証。
 その色を瞳に宿しながら、ロイはまるでクリスタロス王国が自国と同等の国であるかのように礼をとり、微笑みを浮かべていた。

「クリスタロス王国とグラナトゥム王国は、古い時代は親交深い国でありながら、ながらくその親交を断っておりました。だからこそ私の代から、再び強固な関係を結ばせていただきたく――今回私自ら訪れたのはそのためです」

「…………」

「一週間の滞在をお許しください。リカルド・クリスタロス殿。『水晶の王国』――美しいこの国の風景を、目に焼き付けて帰りたいのです」

 一週間にわたる大国の王の滞在。
 リカルド・クリスタロスは緊張した面持ちで頷いた。

「ロイ・グラナトゥム殿。貴方の滞在を心より歓迎しよう。貴方の案内は、我が息子レオン・クリスタロスに任せる。――レオン、失礼のないように」
「かしこまりました」

 父に名前を呼ばれたレオンは、王子らしく綺麗に頭を下げた。
 隣に立っていたリヒトは、その様子を横目に眺めていた。



「父上は兄上を跡継ぎにしたいんだろうなあ……」

 リカルドに仕事を任されなかったリヒトは、今日も謎の物体の制作に勤しんでいた。
 先日の事件で解決に役に立った、魔力を可視化するメガネの精度をあげ、期間を長く出来ないか試みたが、両立させることはやはり難しいようだった。
 魔力は粒子の集合体。 
 小さな粒子ほど消えやすく、可視化するのは難しい。

「ん〜〜! わからん!」

 リヒトは古い本を開いた。
 この世界には千年ほど前に存在していたとされる『古代魔法』についての本が現存している。
 ただ、残されているのは『どういう魔法があったか』という記述のみで、その魔法陣などは一切残っていないのだ。
 後になってわかったことだが、リヒトがローズを驚かせるために作った『紙の鳥』の魔法も、実は『古代魔法』の一つに存在したものである。
 ロイ・グラナトゥム――彼が言う『古い時代の親交』の際は、『紙の鳥』をもってやりとりがあったという記述はあるが、現物は残っていない。

 リヒトはずっと考えていた。
 失われた古代魔法。 
 もしその全てを自分が復活させることが出来れば――レオンとは異なる能力を示すことが出来れば、父に自分の力を認めてもらえるかもしれないと。

 けれどこのリヒトの考えは、かなり難しいものだった。
 古代魔法はこれまで何千何万という人間がその復元に試みながら、失敗してきたものだからだ。

 自由な発想。子供のようなユーモアさ。
 それは千年の時を経てもなお、殆ど復元することが出来なかった。

 『紙の鳥』の魔法。
 病により精神にダメージを受けた重病患者に対する記憶の修復魔法。
 瞳の色を変える魔法。
 魔法式の複製禁止魔法。

 そして研究を進める上で、リヒトはあることに気がついた。
 それは、古代魔法と呼ばれる魔法の多くは、魔力の弱い人間でも使えるよう工夫がされていた可能性だ。

 事実『紙の鳥』も、魔力によって飛行距離は変わるものの、王都の中だけであればリヒトだって扱える。
 リヒトが使えるということは、本来その有用性を認めてられれば、魔力を持たないとされる平民でさえも使える可能性があるということだ。
 一般的にあまり知られていないが、魔法は使えなくても平民も魔力自体は持っている。
 しかし魔力を溜めおくための器や回復量の少なさから、『魔法』を使える人間はごく一部になってしまっているのだ。
 リヒトが本を開いて唸っていると、突然図書室の扉が開かれて、彼は思わず振り返った。

「こちらが図書室です」
「……」

 レオンがロイを連れて図書室に入ってきた。
 目と目があう。

「何をやっているんだ。リヒト。部屋にいなさいと言われただろう」
「……」

 兄に叱られてリヒトは黙った。
 舌を向いて暗い顔をしたリヒトに、ロイは微笑んだ。

「はじめまして。リヒト・クリスタロス殿」
「はじめ……まして……」

 にこりとロイに微笑まれ、リヒトは途切れ途切れに返した。

「リヒト様は本がお好きなのですね。いつもこの場所で読書を?」

 ロイはそう言うと、リヒトが読んでいた本に触れた。
 『古代魔法』――赤に金色の装飾の施されたその本は、どの国でも同じ形で出版されている。
 研究は行われながら、ある種おとぎ話のような扱いもされているけれど。

「? リヒト様は目がお悪いのですか?」
「いえ、目は悪くはないのですが、これをかけていると目が疲れないので……」

 リヒトがかけている眼鏡も彼の発明品だ。
 リヒトの言葉にロイは少し目を大きくすると、リヒトの手をぎゅっと掴んだ。

「なんと! それは実に面白そうな研究ですね。詳しく話を聞かせていただきたい」
「……? 別に構いませんが……」

 大陸の王ロイ・グラナトゥムは、何故かリヒトに興味を示した。
 彼はリヒトのこれまでの研究の話――特に彼が復活させた『紙の鳥』の魔法の話を聞いた時は、目の色を変えた。

「『紙の鳥』の魔法を? そのような魔法を生み出されながら、何故貴方は発表されないのですか?」
「自分は魔力が弱いので……なかなか難しいんです。それにもし、不完全な魔法と評価されたとき、この国に迷惑がかかるかもしれない」 

「そんなことはありませんよ。新しい技術の進歩。その兆しが見えるなら、それを知らしめることは大切なことです。失敗を恐れていては何も出来ない。貴方には才能がある。才能があるのにそれを認められないなら、それは社会が悪いのです。貴方さえよければ、私が貴方の功績を世に広められるよう助力いたしましょう」

「――え?」
 ロイの言葉に、リヒトは思わず目を丸くした。

 ――自分に、才能……?

「我が国は、優秀な人材を育てる学問の国。貴方のような方が、才能を発揮出来ず燻っていらっしゃるのは、いわば世界の損失です」

 グラナトゥムが学問の国であることは、誰もが知るところだ。
 実在した『三人の王』。
 『赤の大陸』グラナトゥム、『蒼の大海』ディラン、『水晶の王国』クリスタロス。
 遠い昔、その王たちが集まり、広く魔法を学ぶための学校をグラナトゥムに作った。
 その彼が認めたとあれば、魔力の低いリヒトの研究であっても、認められる可能性が出てくる。
 ロイはそう言うと、リヒトの手をとった。

「聞けば貴方は第二王子だとか。もしこの国で、貴方が評価されないことをお嘆きになるなら、私の国にいらっしゃいませんか? 私は貴方を歓迎します。学院には、各国の王子や姫も通っています。貴方がこの国の王になりたいと仰るなら、他国の王族との繋がりは必要なはず。悪い話ではないはずです。そしてもし、貴方が王になられなくとも、貴方が魔法の研究を続けたいと仰るなら、貴方には我が国で是非研究を続けていただきたい」

「えっ。あ、その……」
「貴方は才能がある。それを伸ばすことは、才能を与えられた者の宿命です」
「……」

 生まれてこの方一六年。
 そんなことを言われたのは、リヒトは初めてのことだった。

「レオン殿、もう少しリヒト殿とお話がしたいのですがよろしいでしょうか? この城の案内も、よけれびリヒト殿にお任せしたい」 
「リヒトはまだ子どもです。貴方の相手は務まらないかと」

「とんでもない。リヒト殿は類まれなる才能をお持ちのようだ。クリスタロス王国は優秀な王子が二人もいて幸せですね。さあ、リヒト殿。今日は宜しくお願いします。貴方のような方と出会えただけでも、この国に来たかいがありました」

 ロイはそう言うと、リヒトに再び微笑みかけた。
 一人残されたレオンは、不安要素しかない弟の背を静かに見送った。



「……疲れた」

 ロイの案内を終えたリヒトは、その後精神的な疲労を感じて自室に戻った。

「なんなんだ? あの人」

 レオンと別れた後、リヒトはロイに質問攻めにあった。
 魔法に対する知識・理論について。
 リヒトは魔法こそ使えはしないものの知識はある。リヒトがロイの質問にすべて答えると、ロイはくすくす笑った。
 
『今の問題は、先日発表されたばかりの内容ですよ。リヒト殿はなぜご存知なのですか?』

 ご存知も何も、数年前に自分が発見したから知っているだけだ。
 魔法を使えるようになりたい。その気持ちだけで生きてきた一六年。
 けれど今も研究成果の発表を父には許されない。
 だからこそ出来損ないのレッテルは、いつまでもリヒトにつきまとう。

「――俺のことを、認めてくれた人は初めてかもしれない」

 リヒトの中に、父の顔が浮かぶ。
 『一年間』。
 父が自分に与えた時間の中で、リヒトは父の自分への評価を変えたかった。
 自分は必要な人間だと、この国に役に立つ人間だと、そう認めてもらいたかった。
 リヒトは静かに目を瞑った。
 すると、かつて父に掛けられた言葉を彼は思い出した。
 それはリヒトが決して越えられない壁を、突きつけられたような想いがした瞬間だった。 

『お前の魔法は認められない。発表することは許さない』
『何故。何故ですか……!』
『不完全な魔法。もしその魔法に何か不具合があったとき、お前は責任が取れるのか? そんなことがあれば、お前への評価も、この国の評価も、今よりも悪いものになる。可哀想だが、それがこの世界なのだ。魔力の弱い人間の作った魔法は、認められない。諦めなさい。リヒト』

 この世界の全ては魔力で決まる。
 この世界にある格差も、魔力によって生まれたものだ。
 それでも、諦めたくないと努力したのだ。
 いつか認めてくれる人が現れる。自分の努力は報われる。
 そう、信じて。

「そういえば」
 ベッドに顔を埋めていたリヒトは顔を上げて呟いた。

「明日の城下の案内、誰がすることになるんだろう……?」

 昔から、悪い予感はよく当たる。特に光属性に適性を持つ人間ほど――。

「今日は城下を見て回りたいと思うのですが、実は頼みたい方がいるのです。案内役はこちらで指名させていただいてもよろしいですか?」
「貴方がそう仰るならば……」

 大国の王のお願いに、リカルドは逆らえない。
 ロイはニコリと笑って、クリスタロス王国の二日目の案内に、現在婚約者のいる少女を指名した。

「公爵令嬢『剣神』ローズ・クロサイト嬢を」

 ベアトリーチェ・ロッドの婚約者。
 一年間の婚約期間にあるローズを。



 騎士団での訓練途中、城からの使者があり、ローズは急遽王城に召されることになった。

「……『大陸の王』がローズ様を?」

 使者が来た時ローズ以上に険しい表情をしたのは、ベアトリーチェとユーリだった。
 特にベアトリーチェは、あからさまな不快感を示した。
 馬車に乗る彼女の手のとって、ベアトリーチェは少し心配そうな表情《かお》をしてローズを見上げた。

「ローズ様。なにか困ったことがあったらすぐに教えてください」

 そして彼女が城へ向かう馬車を見送りながら、彼は弟の名を呼んだ。

「アルフレッド」
「はい。兄上」
「すいません。騎士団で、闇属性の魔法を使える人間は少ない。貴方には暫くローズ様の様子を見守ってほしいのですが、宜しいですか?」
「わかりました」

 アルフレッドは頭を下げる。ベアトリーチェは騎士団長であるユーリを見た。

「彼女は騎士の一人ですが、指輪と聖剣を守る守護者でもある。この国にとって大切な公爵令嬢でもあるのですから、守りは必要かと。――ユーリ」
「わかってる」
 ユーリは頷いた。
「国王陛下には、俺からそう伝えよう」



「はじめまして。ローズ・クロサイト公爵令嬢。お会いできて光栄です。私は、赤の大陸グラナトゥムの国王、ロイ・グラナトゥム。噂に違わぬ美しい男装の騎士なのですね。貴方の前では、どんな花も霞んで見えることでしょう」

「……はじめまして。クリスタロス王国公爵ファーガス・クロサイトの娘、ローズ・クロサイトと申します。本日はこのような格好で、大変申し訳ございません」

 騎士の格好でロイに頭を垂れたローズは、大陸の王との接見とあらばドレスニキが得るべきだったと後悔した。
 自分は確かにこの国の騎士だが、大国の王を相手にするならば、公爵令嬢としての身嗜みを整えるのが適切だったと。

「いいえ。大丈夫ですよ。こちらこそ、訓練の最中にお呼びして申し訳ございません。魔王討伐の際は貴方に助けていただいた身ですから。是非貴方に直接会って礼を言いたいと、つねづね思っていたのです」

 しかしロイは気にしていないふうで、ローズの手の甲に口付けた。

「何でも最近ご婚約されたとか?」
「ええ……」
「それでは、名乗りを上げるなら、今しかないということですね?」

 ロイはそう言って妖艶な笑みを浮かべた。ローズは、彼が何を言いたいのか察して口を噤んだ。

「…………」

「婚約期間の決闘は、本来自国のみの人間を対象とする。けれど、私はそれでも貴方が欲しい。私は王という地位にありますが、まだ妃のいない身。貴方には、是非我が国の王妃となっていただきたい。この国と強固な関係を結びたい――この国を愛する騎士であり、公爵令嬢である貴方との婚姻をもって。私は、貴方に会うためにこの国に来ました」

 彼はベアトリーチェから自分を奪うために、決闘を挑むつもりでやって来たのだと。 

 この世界の全ては魔力で決まる。
 持つ者と持たざる者。
 強い魔力を持つ者の子は、強い魔力を宿していることが多い。
 だからこそ地位を持つ者は、自分の結婚相手に魔力を望む。

 だからこそ決闘は、古くからある伝統なのだ。
 強い力を残すには、強い者同士が結ばれること望ましい。
 決闘とは、婚約者が相手に相応しい力を持つ者か示すもの。婚約者が決闘を挑んだ相手に敗北した場合、その婚約は無効となり、勝者が婚約者に選ばれる。
 強い魔力を持つ者により支えられたこの世界に、決闘に勝てない弱い人間の血は必要無い。

「ベアトリーチェ・ロッド殿。――彼よりも、私が貴方に相応しい男だと、私は貴方に証明します。彼に勝った暁には、私と共に国に来てくださいませんか?」

 男の瞳の色は赤。
 それはこの世界で、強い魔力を持つ証だ。
 ベアトリーチェは強い。この国ではきっと、一ニを争うほどに。
 しかしいくらベアトリーチェが強いと言っても、一国の王であるロイとどこまで戦えるかは、ローズにもわからなかった。

「貴方に助けられたこの命。私は、貴方への永遠の愛を誓いましょう。――ローズ様。私は、貴方が欲しい」

 ベアトリーチェとは違い、彼は「心は」とは言わなかった。
 それでもローズを見つめる赤い瞳は、今その瞬間だけは、まるで自分に愛を乞う一人の男のように、ローズの目には映るのだった。
 ロイの案内を終えたローズは、真っ直ぐ伯爵邸へと向かった。

「ローズ様をかけて大陸の王が私に決闘を……?」
「……はい」

 ベアトリーチェはローズが告げる前に予想はしていたようで、さほど驚いた表情はしなかった。

「そうですか。わかりました。それでは、私は彼と戦わねばなりませんね」

 ただ覚悟を決めたように、静かにそう言うだけだった。

「……でも」

 ローズは唇を噛んでベアトリーチェを見つめた。
 ベアトリーチェの瞳は新緑だ。髪も、彼に与えられた肩書も――何もかもが、彼が地属性においては誰よりも優れていることを示している。
 しかしロイのあの赤い瞳を思い出すと、ローズはベアトリーチェに「勝って」とは言えなかった。 

 彼女自身が知っている。
 赤い瞳を持つ人間。
 それがこの世界で、どれほど重用されるか。その理由も。

「……ローズ様は、私が負けると思ってらっしゃるのですか?」
「そんなことは……」
「大丈夫。私は必ず勝ちますよ。貴方のことは私が守る。だから貴方は、何も心配しなくて大丈夫です。どうか信じていてください。貴方が私を信じてくださるなら、それが私の力になる」

 ベアトリーチェはそう言って、いつものようにローズに笑みを作った。
 そして騎士が誓いを立てるように、彼はローズの前に膝をついた。

「貴方に勝利を誓います。ローズ様。だから貴方は、私のそばにいてください」

 以前は平気だったはずの彼の手の甲への口づけが、ローズは恥ずかしくてたまらなかった。



「やはり、そうきましたか」
「……レオン」

 その頃レオンとリカルドは、王城で報告を聞いていた。

「最初から、どう考えてもローズ狙いでしょう。今この時期に、わざわざやってくるなんて」
「他国に彼女が嫁ぐなら、この国にとって有益な王族のもとに。自国で結婚するならば、強い魔力を持つ者に。そう思ってはいたが、まさかかの王が自らやってくるとは」

 リカルドは溜め息を吐いた。
 モス目を溺愛している公爵が、ベアトリーチェであれば問題ないと判断し結ばれた婚約。
 しかしそのせいで、王族でない相手と婚約している自国の公爵令嬢を、大国の王が妃に欲しいと自らやって来るのはリカルドも予想外だった。

「そもそも大陸の王である彼自身が、一週間も滞在することがおかしいのです。決闘のためでなければ、彼はそう国を空けられる立場ではない筈。臣下たちにも、ローズを妃として迎えるためにこの国に行くと言ったに違いありません」
「…………」

「ですが、彼女を他国に譲るわけにはいかない。『鍵の守護者』を他国に出せば、何かあったときに必ずこの国も責を問われる。彼女の彼の結婚は、絶対に認められない」

 父とは違い、レオンは予想していた。だからこそ最初から、自分の婚約者になってほしいと思った面もある。
 ローズを巡る面倒な争いに、自分の国を巻き込まないために。

「――父上。私は、幼少の頃よりローズを愛してきました。彼女はまだ、この思いを受け止めてくれてはおりません。ですが私は、やがてこの国を背負いたいと考えております。その王妃に、私は彼女を選びたい。私が決闘に名を連ねることを、どうかお許しください」

 レオンは父リカルドに頭を下げた。
 今この時に国王に決闘の許しを乞うのは、レオンのローズへの愛の誓いそのものだった。

「お前が、ローズ嬢を……」
「眠りにつく前から。ずっと、彼女だけを愛してきました。この気持ちに、嘘偽りはありません。この国を愛する彼女こそ、私の王妃に最も相応しい」
「……そうか」

 リカルド・クリスタロスは、悩んだ末に首を垂れる息子の名を呼んだ。
 リカルドはベアトリーチェの過去を知らぬわけではない。
 ベアトリーチェを生かしたのはリカルド自身で、そのため彼個人に、特別な思いを抱いてもいた。
 ただ、彼は王だ。
 幸福を願う少年と少女の婚姻を祝福したいと思っても、それにより国が脅かされるなら、彼は後者の方をとる。

「レオン。ベアトリーチェ・ロッドとの決闘を許可する。彼に勝ち、その力を彼女に示しなさい」
「ありがとうございます」



「……まさかあの方が、本気で来られるとは思いませんでした」

 ベアトリーチェは城から届いた手紙を見て、静かに言った。
 レオンがローズを奪う決闘に正式に名を連ねると――手紙にはそう書かれていた。

「レオン様の参加は、普通に考えれば彼への牽制でしょうね。レオン様のローズ様への思いがいかほどかは私にはわかりかねますが、少なくともあの方は、この国の王族であることを自負している。『鍵の守護者』であるローズ様を他国に出してはならないという思いから、名乗りを上げられたのでしょう」
「兄様……」 

 ベアトリーチェはローズと結婚したら、新しい屋敷に移ろうと考えていた。
 今はまだ伯爵邸に住んでいる彼だが、元々自分の屋敷を持つことは考えており、一年後には結婚するし、いい機会だと思って新しく屋敷を建てていた。
 完成は数か月先だが、一年後には確実に出来上がる予定だ。
 ベアトリーチェは着々と、ローズを迎える準備をしていた。

 だというのに。
 手紙を読む兄の背を、ジュテファーは不安げな瞳で見つめた。
 兄は強い。分かっている。でも、兄がいくら強くても同時に二人何て、そんなのは反則だ。

「そんな顔をしてはいけませんよ。ジュテファー。貴方の兄様は、未来の姉様を必ず守りきってみせます」
「はい」
 兄を慕う弟は、いつものように微笑む兄に、何も言うことが出来なかった。



「兄上が決闘……」

 兄レオンが決闘に名を連ねるという話を聞いた後、リヒトは自室で机に向かって考え事をしていた。

 よくやるものだ、とも彼は思った。
 魔力をぶつけ合って自分の力を示す。
 この世界の伝統は、いつもリヒトに己が弱者であることを突きつける。 
 リヒトはなんとなく、自身の魔法を発動させた。
 しかし指先からちょろちょろと水が流れるばかりで、リヒトは沈黙の後に溜め息を吐いた。
 これでは、自分が彼らに名を連ねて戦えるはずはない。

「……いやいやいや! なんで俺が戦わなきゃいけないんだ!?」

 ふと、頭に浮かんだ考えを否定する。
 リヒトは頭を振って、机の上の紙の束に目を移した。

 魔法学院への留学。
 ロイに示された期間はおよそ半年。
 本来は数年かけて行うものらしいが、リヒトに1年間の期限があるために、彼はリヒトのためだけに半年で学ぶカリキュラムを用意してくれると言った。

 そのための前準備。
 入学の為の試験と渡されたテストは、どれもがリヒトにとって初歩的なものに思えた。
 これがこの世界の一般的な魔法理論だというのなら、自分はもう十年前にそのラインには到達していたのかもしれないとも思う。
 でも、知識があっても何にもならない。使えなくては意味がないのだ。
 与えられた問題は、頁が進むに連れ難易度があがっていく。
 ロイは、解けるところだけ解けばいいと言った。リヒトは一問もあけることなく、全ての問題に回答した。
 びっしり埋まった解答用紙を見て、リヒトは手に力を込めた。
 わかる。わかるのだ。全部、全部、わかるのに。
 ――どうしてこの体は、魔法が使えない?

「あ、れ……?」
 回答を終えた問題用紙に、どこからか落ちた滴が、インクの文字を滲ませる。

 もし魔法が使えたら。
 もし自分が、誰かに認めてもらえたら。
 そんな自分に自信を持つことができたら。
 ――王に相応しい炎属性を、自分は手にすることができるだろうか?

 いいや。無理だ。自分には出来ない。リヒトはそう思った。

 言葉は呪いのように降りかかる。
 父に与えられた存在の否定の言葉は、どんなに他者に評価されてもリヒトの中からは消えてくれない。

 自分はきっと一生、炎属性は得られない。
 その時、リヒトの中でふと、以前『彼』にかけられた言葉が浮かんだ。
 それは尊敬する、もう一人の『兄』の言葉。

「王様になれなくても」
 彼の頬を、涙が伝う。

「生きてはいける」

 でもそれを認めてしまったら、リヒトはこれまでの自分を、全て否定することになるような気がした。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ガレット・デ・ロワ?」

 翌日、ロイに呼び出されたローズ、ベアトリーチェ、レオンの三人は、城の庭に設けられたテーブルを見て驚いた。

 リカルド・クリスタロスが許したにしても、他国の王城の庭に巨大なテーブルを用意し、主が座るべき場所に自ら陣取るなんて、余程の自信家か愚か者のどちらかだ。

 三人は、確実にロイは前者だろうと思った。
 他国の地にありながら、傲慢を許される自分という人間を、この国の王子や貴族である三人に印象付けさせるための『遊び』だと。

「ええ」
 ベアトリーチェの言葉に、ロイはにっこり笑った。

「いきなり戦うなんて、そんな野蛮な真似はいたしませんよ。私も彼女と交友を深めたいところですし、彼女の好きなお菓子で勝負していただけたらと思いまして」
「彼女を得る勝者を菓子で決めると?」

 にこやかな笑みを浮かべるロイに対し、ベアトリーチェは不快感を顕わにした。

 『ガレット・デ・ロワ』
 これもまた、異世界から齎されたとされる文化の一つだ。
 テーブルの上には、紙製の王冠ののったパイが置かれている。
 これは、中に入ったフェーヴと呼ばれる陶器の人形の入ったパイを選んだ人間が『王様《ロワ》』となって王冠を被り、祝福されるという運試しだ。

「いえ。今回はまず小手調べ。決闘は後ほど行っていただきたく思います。けれど、運も実力のうちと言うでしょう? 何事も、力が全てとは限らない。彼女を守るためには、時には運だって必要となるかもしれない。私は、まずそれを貴方方と競わせていただきたい。――ローズ様」
「はい」  

 決闘の勝敗を見守るために呼ばれたローズは、今日はドレスを纏っていた。

「今回の勝者への景品は、貴方からの口付けでよろしいですか?」
「は……はい!?」

 ローズは、思わず声を裏返えさせた。
 ――この方は、一体何を言っているのか。

「唇に、とは言いません。そうですね。勝者への祝福のキス。額に口づけていただければ嬉しいのですが……」
「……っ!」

 ローズは思わずベアトリーチェを見た。
 こんな話は受けられない。ローズは必死にベアトリーチェに目で助けを訴えたが、彼はすんなりロイの提案を受け入れた。

「かしこまりました。受けて立ちましょう。豪運と呼ばれる貴方なら、確かに運はお持ちでしょうし、それを試したいと思われるのももっともなことです。ただこの勝負、持ち出してきたのはそちらで、私は正式な彼女の婚約者です。最初に選ぶ権利は、私が頂いてもよろしいですね?」
「ビーチェ様……」 

 ――この人は、自分の婚約者が他の男にキスしても平気なんだろうか? 
 そう思うと、ローズは複雑な気分だった。だいたい、景品という扱いがもやもやする。

「安心してください。ローズ様。私は負けたりなんてしませんよ」
 ベアトリーチェは不敵に笑った。

「?」
 ローズはベアトリーチェの笑みの意味が分からなかった。
 もともと仕掛けられた勝負。ベアトリーチェが最初に当てなければ、彼は確実に負けてしまうに違いない。
 
「私の勝ちです」
 だが、ローズの心配は杞憂に終わった。勝敗はすぐについた。
 ベアトリーチェは最初の選択で、見事フェーヴを引き当てたのだ。

 フェーヴは王冠の形をしていて、まるでロイが、自分の勝利を確信しているかのような形だった。
 それを指で挟んで持ち上げて、ベアトリーチェはにこりと笑う。
 ローズはベアトリーチェの笑みを見てほっと胸を撫で下ろした。
 引き当ててくれたのが、彼でよかったと。
 でも。

「ローズ様」

 席を立って自分に近付いてきたベアトリーチェに艶のある声で名前を呼ばれ、彼女は自分に向けられた笑みの意味を理解して頬を染めた。
 ――この勝負の、景品は自分だ。

「約束通り私に口付けをしてくださいますか?」
 ベアトリーチェはそう言うと、ローズの前に膝をついた。

「……は、はい……」
 ベアトリーチェは目を瞑る。
 そんな彼の額に、ローズは恐る恐る口付けた。

「きゃ……っ!」

 ベアトリーチェは何を思ったか、自分にキスしたローズをそのまま抱き上げた。

「お二人にはっきりと申し上げましょう。他国の王、自国の王子とはいえ、私は婚約者を譲るつもりは毛頭ございません。彼女は私の婚約者です」

 ローズは何が起こったのかわからず目を白黒させた。
 混乱と周知で頬を染めるローズに、囁くように彼は続ける。

「ローズ様。いかに彼が豪運の持ち主でも、貴方に『幸運』を与えられた私が、負けるはずがないでしょう?」
「……っ!」

 そういえば、そうだった。
 ベアトリーチェは、沢山の人間に幸福の植物を与えられたことがある。そんな彼が運試しで負けるはずはなかったのだ。

「ローズ様。貴方は私の婚約者、そうですね?」
「……はい」

 ベアトリーチェの腕の中で、ローズは静かに返事をした。
 ベアトリーチェはその答えに満足そうに微笑んで、彼女を抱えたままロイとレオンの方を見た。

「貴方はまだしばらくこちらにいらっしゃるとか。血統は一日一つが決まりの筈です。今日はこれで彼女と一緒に下がらせていただきます」
「……」
「そもそも今の私に賭け事で挑もうとする方が愚かしいことです。私から彼女を奪いたいなら、正々堂々正面から戦ってきたらどうですか?」

 ベアトリーチェはロイとリヒトに皮肉を言って微笑むと、ローズを抱えたままアーチの方へと歩いた。
 ローズの剣を抱えたジュテファーは、兄の後を小走りで追いかける。

 自分より小さな相手にお姫様抱っこされたローズは、頭が混乱していた。
 こんな女の子扱いをされたのは、ローズは生まれて初めてのような気がした。
 頭の中の整理が出来ない。
 ベアトリーチェは伯爵家の馬車にローズを乗せると、自身も馬車に乗り込んだ。

「ビーチェ様、あの……」
「貴方を、賭けの対象のようにするような真似をして、申し訳ございませんでした。ですがこれも貴方との未来の為。どうか耐えてください」

 ベアトリーチェは、ローズの前に座った。
 隣で無かったと思う半分、赤くなった自分の顔が彼にはばっちり見えているのかと思うと、ローズは恥ずかしくてたまらなかった。
 ベアトリーチェから視線を逸らすローズに対して、彼はこんなことを言った。

「ローズ様」
「……はい」
「貴方が額に口づけてくださる権利が欲しくて勝負を受けたと言ったら、やはり怒ってしまわれますか?」

 にこり。
 ベアトリーチェは、悪戯っ子のように笑った。

「ローズ様の唇は、とても柔らかいのですね」
「……っ!」

 婚約期間中の決闘。
 その間は、職務よりも決闘を優先することが許される。
 これは、魔力の強い貴族のみの特例だ。
 ローズとベアトリーチェは、それに該当している。

 国のこれからを決めかねない婚姻は、それほど重視されるということだ。
 それに魔法は心から生まれる。守りたいと思う相手を思う程、奪いたいと思う気持ちが強いほど、彼らの魔法は強くなる。ユーリ・セルジェスカがそうであるように。

「結婚が決まったら是非貴方から、私に口付けてほしいものです」

 ベアトリーチェはそう言うと、年上の男らしくどこか艶っぽい笑みを浮かべた。

◇◆◇
 
「――夜分に、不躾な方ですね」

 その日の夜遅く、手紙で呼び出されたベアトリーチェは軍服に身を包み一人空を見上げていた。
 月の光が降り注ぐ。 
 彼の静寂の世界を乱したのは、赤い髪と瞳の長身の男だった。

「『青い薔薇』の守護者、『地剣』ベアトリーチェ・ロッド。君は本当に、面倒な男だな」
「こんな時間に人を呼び出す貴方の方が、面倒なのではありませんか?」

 ベアトリーチェは振り返り彼を睨んだ。
 『大陸の王』――ロイ・グラナトゥムを。

「王である俺にその口の利き方。神の祝福を受けたとはいえ元平民の君が、本当に俺に敵うとでも?」

 昼間の彼と同一人物とは思えない。
 傲慢極まりないその男は、ベアトリーチェの出生をせせら笑った。

「ええ。思っております。私は絶対に彼女を守る。貴方には渡さない」
「そう言っていられるのも今の内だけだ。なんでも最近、屍花を君の魔力無しで咲かせる方法が出来たとか? ……だったら」

 ロイはにやりと笑った。

「婚約者が死んでひとり身になった可哀想な女性の心を慰めた優しい男に、彼女が惹かれても文句は無いだろう?」
「――それは私を殺すと、そう仰っているのですか?」
「さあ? それはそちらの行動次第だ」

 最早脅しと同じだった。
 ローズを渡さなければお前を殺すと。
 けれどベアトリーチェは、彼に向けられた殺意から逃げようとはしなかった。

「貴方には……貴方にだけは、絶対に彼女は渡さない」
「力づくで奪ってやる。あれは俺にこそ相応しい」

 王となるべくして生まれた者。
 赤い色を持つその男は、高慢な笑みを浮かべる。

「『鍵の守護者』は、俺のものだ」

 彼が見ているのは、ローズではなく彼女が守る物。
 それを理解したベアトリーチェの顔色は、ますます険しいものとなった。

「貴方は、そのためにローズ様を……っ」
「まあそれが無くとも、彼女にも興味はあるさ」

 彼女を愛し守る者。そのために命がけで戦おうとする目の前の人間を、王たるロイは小馬鹿にするように笑って言った。

「魔王を倒したほどの器なら、強い魔力を持つ子どもが期待できそうだからな」

 強い魔力を持つことが、どれほどこの世界で重視されているか。
 ベアトリーチェは知っている。自分がその恩恵を、多く得てきたからこそ――。

 でも、だからこそベアトリーチェは嫌なのだ。
 自分の幸福を願ってくれた相手を、そのような輩に渡してなるものか。
 たとえこの想いが、王族とも争う自分の好意が、体に流れる血ゆえに相応しくないと言われても。
 この世界で自分にもう一度、女性《ひと》を愛したいと思わせてくれた少女を、傷付けることは許せなかった。

「彼女を物としか扱わない貴方に、私は彼女を渡さない!」
 騎士団の訓練場は、二人のせいで甘い雰囲気が漂っていた。

 誰よりも早く訓練場へと向かい訓練をしていたが、ベアトリーチェが訓練場にやって来た直後顔を真っ赤にして剣を落としたローズに、彼が直接指導することになったからだ。

 『剣神』という2つ名を持つローズでも、日々の訓練は必要になる。
 それに魔法を使った戦闘には、属性の相性もある。
 風属性のユーリには勝利したローズだが、全属性扱えるといっても、他の属性(なれないあいて)に即座に完璧に対応出来るかと言うと、そうではないからだ。

「ローズ様。職務中にそう顔を赤くされては、私の方が困ってしまいます。ちゃんとこちらを見てください。――ほら、目をそらさないで」

「……申し訳ありません。私自身、どうしていいかわからないのです。貴方を見ると、昨日のことを思い出してしまって」
「愛らしく頬を染めていただけるのは嬉しいですが、それで怪我でもされたら困ってしまいます。今は訓練中です。午後はまた城に向かわねばなりませんが、今はこちらに集中してください」

 ベアトリーチェは、ローズの握る剣にそっと手を添えた。
 「愛らしい」なんて言われたことのないローズは更に照れた。
 気高く咲き誇る薔薇を見て、愛らしいという人間は少ない。
 「美しい」とは言われても、ローズはこんなふうに『少女』のような扱いはされたことは無いのだ。

 実年齢では年の離れているベアトリーチェは、ローズのことを年下の女性として扱う。
 それがローズにはとても不思議な感覚だった。
 本来の姿であれば長身の成人男性なのに、普段は小さな少年の姿。

 そんな彼から自分のことを「愛らしい」などと言われ甘やかされると、これまで自分より小さいものは特に守るべきと考えていた考えが、根本から覆されてしまうような感じがした。
 そのせいで、更に頭が混乱する。

 ――これでは駄目だ。剣が鈍る。

「ビーチェ様。私は……」

 ローズは懇願するかのように彼の名を呼んだ。
 今日これ以上、ここに居るのは絶えられない。恥ずかしい。周りだって自分たちを見ている。家族に見られるのだって恥ずかしいのに、多くの同僚に見られるのはもっとつらい。
 しかしローズの意図を理解しているベアトリーチェは、彼女にそれを許さなかった。

「駄目です。これからもここで一緒に過ごすのですから、貴方には慣れていただかなくては」

 真っ赤になるローズと、平然としているベアトリーチェという構図。
 それはまるで異世界の『少女漫画』のような光景だった。

 ローズは騎士団の紅一点。
 ひそかにローズに思いを寄せていた未婚の男性陣たちの顔色は暗い。
 冷やかせる空気でもなく、騎士たちは無言でその光景を見つめていた。
 凛々しい男装の騎士は、婚約者のせいで今は可憐な少女に見える。
 はっきり言って目に毒だ。
 その様子を見ていた若い騎士たちは、集まってこそこそと話をしていた。

「団長これ見たら落ち込みそう。……って、あれ? そういえば団長は?」
「団長なら、ずっと一人で訓練してる」
「え? 訓練? 何で一人で」
「それは俺もわからないけど……」
「そういえば昨日、夜にさ、なんか物音がするなあって第二訓練場を覗いてみたら、団長が居たんだよね」

 若い騎士の一人が言う。
 それはここ最近、ユーリが夜行っている特別訓練だ。
 第二訓練場は風魔法を使う人間専用のようなところもあって、あまり利用する者は少ない。空を飛べなければ危険な訓練場は、一歩間違えれば命を失う可能性だってある。

「ああ。それ俺も見たことある。何ていうかさ、前は副団長と比べて、ちょっと抜けてるなあって感じだったけど、最近は少し雰囲気違う気がする」
「ああわかる! やっぱり、ローズ様のことが原因なんだろうな。決闘、王子と王様が相手らしいし。ローズ様、守るのも奪うのも大変だよな。副団長は渡すつもりゼロみたいだし」

「副団長も雰囲気変わったよな。前はもっととっつきにくい感じの人だったのに、人間味? が出てきたっていうかさあ……。弟二人平等に可愛がってたりするのも見るし、なんかイメージ変わった」
「でもさあ、結局副団長とローズ様って、出会ったのは最近なんだろ? それなのに、これは……。団長が不憫なのは見てて面白かったけど、なんかちょっと可哀想だなっても思うんだよな。団長、頑張ってるし」

「団長なあ……。『貴方の為に強くなる』って感じだもんなあ。身分差あるから、仕方ないんだろうけど」
「俺も団長応援したいなあ。だって初恋の相手なんだろ? 自分の初恋の相手を、ぱっとでの部下に奪われるなんて最悪だろ。……でもさあ。あ~~。やっぱ女の子って、大人の魅力ってやつに弱いのかなあ」
「団長、見た目はああだけど、中身子どもっぽいとこあるからな。その点は副団長は逆だよな」

 若い騎士たちは、ベアトリーチェ派とユーリ派に分かれていた。
 彼らは自分たちの上司での恋愛について、興味津々だった。

「でもさ。副団長、ローズ様のことめちゃくちゃ大事にしてるし、ローズ様もそれを受け入れてるとこある気はするんだよね」
「いや、それはどうだろう。ローズ様、前好きな人いないって言ってたし。前の婚約者はあの王子だし、ああいうアプローチされ慣れてなくて照れてるんだろうなあって俺は思ってたけど」

 冷静な少年の呟きに、若い騎士たちはしんとなった。
 
「いやいやそんなまさか……。ローズ様公爵令嬢だからさすがにそれは……」
「でもさあ、完璧すぎる女の子って高根の花だから、ローズ様も案外あそこまで迫られた経験は無い可能性もあると思う。前の婚約者の王子はスキンシップとかしなさそうだし。だから耐えられないってかんじなんだと……それに今回の婚約って、そもそも公爵様が決められたことなんだろ? ローズ様、貴族にしては珍しいって言うか、本当に家族が大好きっては聞くし、周りから応援されてる結婚だからって思ったら、副団長のこと結婚相手として意識するのは仕方ないんじゃないかな」

 少年の指摘に、若い騎士たちの顔色が曇った。
 確かに、言われてみればそうなのかもしれない――……。

「え……じゃあローズ様、別に副団長のことそこまで好きというわけではなかったりするかもしれないってこと……?」
「さあ。それは本人に聞いてみないとわからないけど」

 アルフレッドではあるまいし、彼らがローズに訊けるはずはなかった。

「待って待って! じゃあどういうこと!? ローズ様、副団長に押されまくって、今すぐにも結婚しちゃいそうな勢いなんだけど!? 団長あんなに頑張ってるのに!?」

 それだと、今の状況は非常にまずいのでは――。
 ベアトリーチェ派も、ユーリの頑張りを知らないわけではないので、無理やりベアトリーチェがローズを妻にするというのはいただけないと思い始めていた。

「これは時間の問題ですね……。ローズ様が結婚を承諾するか、団長が覚醒するか……」
「覚醒って、ちょっとかっこいい響きだよな……」
「ああそれわかる……じゃなくて! 今はそういう話したいんじゃないんだよ馬鹿! 団長の初恋の行方の話をしてんの! 頑張ってる団長を俺は応援してんの! 確かにあの人ヘタレだけど、一途で真面目なのは確かだし!」

 騎士は叫んだ。
 なんだか知らぬ間に少年漫画の戦闘シーンみたいな話になってきたが、もともと恋愛の話だった筈だ。

「でもさ、ちょっと待って。確か決闘って、王族の婚約者の場合は例外だよな?」
「ああ……そっか。ということは、団長覚醒前に副団長が負けたら、そこで初恋終了ってこと……?」
「えっえっ? じゃ、今は団長を応援するにしても副団長を応援するにしても、副団長が勝たなきゃいけないってこと……?」
「そういうことだな」

 冷静な若い騎士は言う。

「……多分あの二人にさえ負けなかったら、副団長の敵は居ない。だからもし、副団長が負けずにいてくれたら一年後には――可能性はある。副団長、団長のことよく見てるし、団長ならローズ様任せてもいいって思ってるかもしれない」

 話の流れを変えた騎士の言葉に、他の騎士たちは首を傾げた。
 血統までして守った自分の婚約者を一年後に譲り渡すなんて、そんな馬鹿な話があるものか。

「何でそう言えるんだよ?」
「俺の兄さん、騎士団と植物園の両方で働いてるんだけどさ、副団長、何でも初恋の相手を病気で亡くしてるらしいんだよ。それでずっと縁談断ってたって話だし。だからあの人にとって、多分初恋っていうものは、きっと大切なものなんだ。だから、ローズ様が初恋の相手って知ってる団長には、どこかで期待してるのかもしれない」

 彼はベアトリーチェをよく知る騎士を兄に持つ弟だった。
 彼の兄は酔った時、ベアトリーチェの話を弟に聞かせていた。
 彼の過去。初恋と、その終わり。
 『精霊病』と名付けられた病で失われた彼の初恋と、その後の話。
 『神に祝福された子ども』『国の未来を変える者』――その肩書を与えられてなお前を向いて生きるからこそ、自分は彼の下でずっと働きたいのだと。
 そして弟でもある彼もまた、その話を知っているからベアトリーチェを尊敬していた。

「……どういうこと?」
 何も知らない若い騎士たちは、一様に首を傾げていた。
 全てを知る彼は静かに言った。

「あの人がローズ様が好きなのは本当だと思う。でも、あの人はきっとどこかで願ってるんだ。――この世界には、どんな障害をも乗り越えて、叶う初恋があるんだって」

「それは……俺にはよくわからん」
「僕も」
「なんか話飛び過ぎてない?」
「……ってかさ、なんでお前そう思うわけ?」

 彼の予想に、賛同する者は誰もいない。
 だからこそ彼は答えた。
 若い騎士たちの知る筈のない、ベアトリーチェの魔法の秘密を。

「だってそうだろ。副団長の剣の石、あれって――……」

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 

「さて、行きましょうか。ローズ様」
「――はい」

 何とか午前の訓練を終えたローズは、ベアトリーチェの婚約者として馬車から降りた。

 伯爵家の紋章の描かれたこの馬車に、最近よく乗っている気がして、ローズは彼に手を借りて馬車から降りる間、ずっと胸が高鳴ってしまっていた。
 相変わらず、ベアトリーチェは今日も完璧すぎるほど紳士である。
 城の一角にある広場には、今日の決闘の為に、闇魔法で半透明の結界が張られていた。
 この空間の中で使われた魔法は、空間内のみしか影響を与えず、攻撃が外に漏れることは無い。

 ローズの手には、契約水晶と呼ばれる水晶が抱えられていた。
 通常、これは国にとって重要な契約を結んだ際に、情報を守るために神殿で保存されているものだ。
 貴族の結婚は家同士での関係を結ぶ契約でもあるため、各国の王都にある神殿の契約水晶に、契約内容が刻まれ保管される。婚約の場合も同様だ。
 決闘期間中は、その『書き換え』を行う必要がある可能性があるため、特別に持ち出しが許可される。

「ベアトリーチェ・ロッド。今日は君を跪かせてやるから覚悟しておけ」
「???」
「???」

 大陸の王がベアトリーチェに向けた言葉に、ローズとレオンは首を傾げた。
 昨日までのロイと雰囲気が一致しない。
 ベアトリーチェはわけがわからないといった表情のレオンに対して、少ししゃがむよう合図してから耳打ちした。

「レオン様。彼はこっちが素なのです。私は昨晩呼び出されて軽く脅されました」
「脅された?」
「ええ。ローズ様を渡さなければ身の安全は保障しないと」

 ベアトリーチェは表現を柔らかくしてレオンに伝えた。

「それは……」

 ベアトリーチェの話を聞いて、レオンの顔が歪む。

「それと、どうやら彼はローズ様を鍵の守護者として狙っているようです。勿論彼女自身……魔力の高い女性としても、興味はお持ちのようですが」

「……やはり、そうか」
 話を聞いたレオンの表情は厳しかった。

「予想していらっしゃったのですか?」
「ああ。彼がここに来る前から、嫌な予感はしていたよ。だから僕がローズの婚約者になろうとも思っていたんだ」

 ベアトリーチェの問いにレオンは唇を噛んだ。
 ベアトリーチェは、軽薄そうなに見えたレオンの真意を知り、僅かに表情を和らげた。

「貴方が決闘を私に申し込まれたのは、それが理由の全てですか?」
「?」

 ベアトリーチェの問いにレオンは首を傾げた。

「レオン様はローズ様のことを、一体どのようにお考えなのです? 私に決闘を挑まれるのは、国を守るためですか? 幼馴染としての好意ですか? ……それとも」

 ベアトリーチェは僅かに間を作って訊ねた。

「レオン様は本当に、彼女を心から愛していらっしゃるのですか?」
「……っ!」

 レオンはベアトリーチェから顔を背けた。
 新緑の瞳は、表情の変化を見逃さない。

「レオン様。私は貴方の本心が知りたい。それによっては、私も態度を改めます」
「……僕は」

 レオンが、ベアトリーチェの言葉に答えようとした時。

「何をコソコソ話をしているんだ?」

 ロイの退屈そうな声が響いて、ベアトリーチェはレオンから離れた。

「昨日の貴方の素行など。とても褒められたものではございませんでしたので、レオン様にも危害を加えられる前に報告をしたまでです」
「?」

 レオンとベアトリーチェ。
 二人の会話を知らないローズは再び首を傾げた。
 ――昨日、何があったと言うんだろう?

「君は本当に腹が立つ男だな。ベアトリーチェ・ロッド。心配しなくても、彼に手出しはしないさ」
 ロイはにやりと笑った。

「君より弱い他国の王子に、手出しをしても何にもならない」
「……!」

 その言葉に、レオンの手が剣に伸びる。
 ベアトリーチェはそれを視界の端でとらえて、静かに目を瞑った。

「くだらない話はやめましょう。愛する婚約者の瞳に、彼女を思う他の男たちを映すのも面白くはありませんので」

 彼は自分たちの後方にいるローズに向きなおり、地面に剣を立て片膝をついた。

「ローズ様。この剣にかけて、私は貴方に勝利を誓います」

 ベアトリーチェはそう言うと、立ち上がって不敵に笑んだ。

「さあ、決闘を始めましょうか? 負けるつもりは微塵もございませんが」



 ベアトリーチェが相手をするのはロイとレオンだが、婚約者に決闘を挑んだ人間が複数の場合、決闘を挑んだ人間は、他の人間を攻撃しても構わないことになっている。
 潰したい本命はベアトリーチェだが、ロイがレオンに攻撃しても、それは決闘の内の行動として認められている。

 他の敵を蹴落とすのも認められた完全な実力勝負。
 大陸の王はレオンにも攻撃を加えつつ、ベアトリーチェを追い詰めていた。

「――『地剣』の名は伊達ではないな。だがこれではどうだ?」
「ビーチェ様!」

 ローズは思わず叫んだ。
 空を飛べる人間はこの中には居ない。
 彼らを見下ろすように土の上に立っていたベアトリーチェを、巨大な黒炎が包みこむ。

 こんなのはあんまりだ。ベアトリーチェが死んでしまうと、ローズは指輪に手を伸ばした。

 けれど、あること気づいてローズは手を止めた。
 ローズであれば彼を炎から救うことも可能だが、婚約者が決闘中に手出しをすることは、婚約者であるベアトリーチェとの間に、信頼関係がないと評価されることにも繋がる。
 ローズの手は震えていた。
 誰もが祝福してくれる婚約者。それは自分にとって、多分幸せなことなんだろう。でもそのせいで、彼が傷付くのも、周囲から愛されている彼が傷付くことで、周りの人間が傷付くのもローズは嫌だった。

 『自分のために戦わないで』何て馬鹿げたことは言いたくはないが、この決闘は見ていられない。

「こんな攻撃、私に通じるとでも?」

 ローズが水魔法を使おうとした時。
 燃え上がる炎の中から、ベアトリーチェの声が聞こえた。
 ローズは目を見開いた。
 嘘だ。こんなことは有り得ない。彼が使える魔法は地属性だけの筈なのに、なぜ彼が無事なのか。

「私の力を見誤らないでいただきたい。私の薔薇は、一人だけではありません」

 炎の中には巨大な水球が見えた。

「――私に、力を貸してください。ティア」

 ベアトリーチェはそう言うと、自分の剣に嵌る青い石に口付けた。
 その瞬間、剣から溢れ出した水が炎を消し、炎で傷付いていた筈の彼の体は、光を纏い癒えていく。

「ほう」
 その光景に、大陸の王は感心したような顔をした。

「『精霊病』の人間の心臓の石。まさかここまでとは」
「この戦い、私は一人では戦わない」

 ベアトリーチェは水と光を纏う。
 水と回復。
 それはロイの魔法とは、対極をなす魔法だ。

「今の私は、光属性と水属性も使えます」
 きらきらとした光りを纏い、ベアトリーチェは再び剣を構えた。

「魔力を保存出来るわけではありません。ですがどうやら、精霊病にかかった人間の所持していた魔法を、石の所持者には扱える」

 ベアトリーチェは一〇年前、初恋の相手を病で亡くした。
 病名は『精霊病』。
 心臓が石になる病であり、病で死んだ人間の心臓は、魔法式の書き込める石となる。
 彼が持つ剣に嵌るのは、その初恋の相手の心臓《いし》だ。

 ティア・アルフローレン。
 ベアトリーチェの初恋の相手は死の直前、才能がありながらその魔法を扱うための石を持っていなかったベアトリーチェに、自分の心臓《いし》を使って戦うことを望んだ。
 大きな魔法を使うためには、多くの情報を書きこめる石が必要で、それは基本的に『硬度』に準ずる。
 ただ精霊病で死んだ人間の心臓は、ローズの持つ金剛石をも凌駕するほどの可能性を秘めていた。
 まさにベアトリーチェの為の心臓《いし》。
 一六歳。今のローズの年齢と同い年の亡くなった彼の初恋の相手の少女の適性は、光と水だった。

「これまでは使うつもりはありませんでしたが、ローズ様を守るためであれば、私も全力で行かせていただきます」

 地・水・光。
 その3つを組み合わせた魔法。
 それが、ベアトリーチェの今の『全力』だ。

「まさか俺の炎に匹敵するとは……」
 かかってこいとでも言いたげなベアトリーチェの表情に、ロイは怪しく笑った。

「なるほど、面白い」
 炎と水では、圧倒的にベアトリーチェが圧倒的に有利だ。
 水浸しになったロイ・グラナトゥムの喉元に、ベアトリーチェは剣を突きつけた。

「――私の勝ちです」
 その声は彼がロイに向ける剣のように、鋭く尖った声だった。 

「ははははははは! まさか俺が負けるとは。実に面白い男だ。ベアトリーチェ・ロッド。まさか君がこれほどの力を持っているとは。何故君ほどの力を持つ人間が、副団長などという中途半端な場所に居るのか理解に苦しむ。君の年下の騎士団長が、君に敵う器とはとても思えないのに」

 ベアトリーチェは自分に対する評価はどうでもよかった。ただユーリのことを馬鹿にされて、ベアトリーチェは眉間に皺を寄せた。

 ベアトリーチェは静かに剣を下ろした。ロイがベアトリーチェに向かって、敗北の意思を見せたからだ。
 立ち上がったロイは、濡れたせいで自分の体についた泥を払いながら、炎の魔法では自分に押し負け、ベアトリーチェには剣を奪われて呆然としていたレオンを見下ろした。

「それに比べ、君にはがっかりだ」
 冷たい声が、レオンに向けられる。

「『氷炎(ひえん)の王子』。君はもっとやれる男だと思っていたが、一〇年の月日は、君から名声を奪うかもしれないな」

 『氷炎(ひえん)の王子』。
 それは、レオンが眠りにつく前までの、彼の魔法《さいのう》を称賛する呼び名だ。
 当時、どの王子よりも素晴らしい資質を持っていると言われた彼は、魔法においても美貌においても、並ぶものが無いと評価されていた。
 世界で一番完璧な王子様。
 それが当時のレオンの評判で、そんな彼だったからこそ、『魔王』の最初の贄に選ばれたのではと、今は考えられている。

「世界で最も王子として優秀だともてはやされた君も、時間には抗えなかったということか?」
「……っ!」

 レオンは息を飲んだ。
 それは、彼自身どこかで思っていたこと。
 魔法を使っていなかった一〇年間。レオンの時間は止まったままで、今の彼が使えるのは、八歳当時から少し威力が増したものに過ぎない。
 一年をかけて彼の父は失った時間を取り戻せと言い、目が覚めてから日々訓練はしているものの、そうやすやすと、一〇年の欠落は埋められるものではない。

『魔法を使うということ。一〇年間の月日は、そう簡単に取り戻せるものではありませんから』

 ベアトリーチェの言葉はそういうことだ。
 決闘の最後の様子。
 防壁の魔法が解かれた時、偶然通りかかったリヒトは、自分の兄が砂を掴む姿を見て目を丸くした。
 自分の兄は、この世界で最も優秀と言われていた人なのに。
 その兄が何故このように、自分のように地面に体を付けているのか。

「…………兄上?」

 出来そこないの自分とは違って『完璧』だと、誰もが言っていた筈のあの兄が。



 背中を地面につけて空を仰ぐ。
 夜の第二訓練場。ユーリ・セルジェスカはまだそこに残っていた。

 一定のラインーー限界まで魔力を使い切ることを繰り返せば、魔力は少しずつだが上がると言われている。
 しかしこの行動にはかなりの負荷が伴う。
 心理的にも肉体的にも、限界まで自分を出し切るということなのだから。
 星々を見上げて息を吐く。
 愛する彼女も、この空を見上げているだろうか――そんな感傷的なユーリの世界を遮ったのは、自分から最愛の女性を奪った相棒だった。

「ユーリ。私はちゃんと、今日も勝ってきましたよ」
「…………」
「全く、夜も寝ずに訓練だなんて。体を壊しては元も子もないということがわからないのですか?」

 いつもの調子の相棒に、ユーリは腕で目元を隠して訊ねた。
 今の自分はぼろぼろで、とても彼と顔を合わせる気分になれない。

「なんで隠してたんだ」
「何をです?」
「本当は、水と光も使えるって」

 ベアトリーチェが地属性以外にも魔法を使えること。
 このことは、決闘の勝敗を知らされた騎士団にも情報としてもたらされた。

「別に隠していたわけではありませんよ」
 ベアトリーチェはユーリの問いに、何でも無いように答えた。

「これまでは必要が無かったので使っていなかっただけです。……それにこれまでの私なら、この力で戦おうとは思えなかった」

 でも、ローズの話をするときのベアトリーチェの声は少しだけ優しくて、ユーリは胸が苦しくなった。
 彼は本気だと、そうわかって。

「そう私に思わせてくださったローズ様だからこそ、私は彼女を渡す気はありません。――勿論ユーリ、貴方にも」

 ユーリには分かってしまった。
 ベアトリーチェは本気で自分から、彼女を奪って返さないつもりなのだと。
 ――でも。

「一人で訓練を続けることに対しては目を瞑ります。今は私もこちらに長く入れますし、貴方がこれまでのように目を光らせておく必要はない。でも、貴方が無理をして、体を壊すことは許しません」

 そう言いながらも相変わらず、ベアトリーチェはユーリに優しかった。
 ベアトリーチェはユーリに触れた。光魔法だ。
 傷だらけだったユーリの体が癒えていく。動かせないと思っていた体が、少しずつ楽になる。

「……わかった。ありがとう」

 いずれ自分が決闘を申し込むだろう相手に、怪我を治してもらうというのは妙な話だ。
 ユーリはそうも思ったけれど、ベアトリーチェがいつもと変わらぬ目で自分を見つめていたので、それを指摘する気にはならなかった。
 ただ、ユーリはふとあることを思い出した。

「今思ったんだが」
「はい」
「もしかして俺が殴った時にお前だけすぐ怪我が治っていたのは、こっそり光魔法を使ったからか?」
「ご想像にお任せします」

 ベアトリーチェはこれまで、自分に与えられた罰は甘んじて受けてきた。
 そのためいつも傷を放置していたところを、心配したメイジスが光魔法をかけてくれていたのだが、それを言うつもりはベアトリーチェには無かった。

「び、ビーチェ! お前……ッ!」
「ユーリ。悔しかったら貴方も光魔法を使えるようになれば良いのです。それなら自分の怪我くらい、自分で治すことが出来ますよ?」

 にこり。
 自分に向けられた笑顔に、ユーリはイラッとした。いい年をした大人の癖に、自分をからかって遊ぶなんて許せない。
 
 そしてベアトリーチェの言葉は、ユーリの性格上、今は無理だった。
『ロイ! ロイ! なあ、ロイ、聞いてるか?』

 今日もまた、遠くで誰かの声がする。
 昔から、現実のように思えていたものが目が覚めたら夢だったと気付くことがよくあって、そういう時目が覚めたら、自分はよく泣いていた。
 幸福な記憶。優しい声。夢は俺に生きる力をくれた。
 現実はくだらない。

『どうして年々あの人に似てくるの?』
『近寄らないで』
『貴方なんか産まなきゃよかった』

 今日もまた、馬鹿な女の声がする。
 いずれ王となる自分に、こんな言葉を吐く彼女は愚かしいとしか言えない。
 でも、別にどうでもいいことだ。
 親に愛されなくても、かつてのこの記憶があれば、俺の魔法は強くなったから。

 『大陸の王』。
 かつてそう呼ばれた赤の大陸の王の名を知らぬ者は、この世界には居ない。
 そして俺は、自分がその魂を継いでいることを理解していた。

『流石はロイ様!』
『貴方は天才です』
 違う。知っているのだ最初から。
 この魂は記憶を引き継いでいる。
 過去読んだ本の知識。それを小出しにするだけで、誰もが俺のことを褒めたたえた。

 全く以て馬鹿な世界だ。
 見下した世界には、つまらない人間ばかり。
 世界はどこまでも無価値に思えたけれど、そんな俺にも一つだけ願いがあった。

 つまらない現実とは違う。夢の中に響く笑い声。
 夢の中のその声に、どれ程救われたかわからない。
 それは幸福な記憶。闇を照らす、光そのもの。

 荒んだ世界で、前を向く力をくれた『彼』に会いたい。それが幼い頃からの、俺のたった一つの願いだった。

 そんな『彼』との記憶の始まりは、かつての『大陸の王』――俺の結婚式だった。

 大国の王の婚姻に、世界中から金銀財宝の祝いの品が届く中、とある国の王だけが、物ではなく心から嬉しい贈り物を自分にくれた。

『ご結婚おめでとうございます。私からもささやかながら贈り物を』

 一体何をくれるというんんだろう? 俺と、今日妻になったばかりの女性が首を傾げれば、『彼』は手を掲げた。
 すると光を帯びた紙の鳥が一斉に空へと舞い上がり、空からは光が降った。
 とある植物を咥えた紙の鳥は人々の手に止まり、掌の上でその身を崩した。
 そこに書かれていたのは。

【これは幸福《ハピネス》とよばれる植物です。
 四枚の葉のうち一枚を与えられた人間は、貴方が持つ幸運の一部を受け取ることができます。
 貴方の愛する人に、どうか渡してあげてください】
 
『お二人のこれからに、貴方方の結婚を祝う全ての人に、たくさんの幸福がありますように』

 『彼』はそう言うと、自分が手にしていた二つの幸福の葉を千切って、俺と隣にいる女性へと捧げた。

 金色の髪が揺れる。
 不思議な価値観を持つその王に、俺は惹かれて興味を持った。

 宝石の産出国。
 水晶の王国と呼ばれるその国の王と、俺は交友を深めた。
 面白い男が居る。
 父の姉の娘――『海の皇女』と呼ばれていた従姉妹も随分『彼』に懐いて、彼女を連れてよく『彼』の国に遊びに行った。

『海の皇女、大陸の王。ようこそ友よ。我がクリスタロス王国へ!』
 『彼』はよく笑う人だった。

『我が君!! 貴方はまた執務をさぼって……! 今日の仕事を終えないと遊べませんからね!』
『ユーゴ! せっかく二人が来てくれているんだ。今は仕事をしている場合じゃないんだ!』
『貴方が判子を押してくださらないとまわらないのです! 貴方に振り回される私の身にもなってください! 我が君!』

 『彼』の傍には小さな少年。

『神に祝福された子ども』
 そう呼ばれる存在を、『彼』は自分の宰相に選んでいた。
 『彼』の国に遊びに行く度に、俺は、与えられた仕事を放棄して自分たちと話をしたがったり、伴もつけずこっそり城下で遊んだりして忙しない日々を送る『彼』を見ているだけで、王として執務に追われる日々から抜け出して、違う世界に居るような、そんな気分になれた。

 どんな立場の人間も、自由でいいと思わせてくれるような――『彼』は、そんな人だった。
 『彼』は本来仕事をさぼるような人ではなかったと思うけれど、自分の部下に自分を追いかけさせては、怒られながらよく笑っていたのを俺は覚えている。

 『彼』のサボりは、ある意味周りの人間のためだった。
 自分がしたいこと。自分が見ている風景。
 そういうものをわかってほしくて、『彼』は姿を消した自分を見つけた人に、願いを託しているのだと言っていた。

『俺はかくれんぼをしているんだ』

 子供か、と思った。
 ただまあ少し、『彼』が抜けていたのは事実だった。
 完璧な王ではない。でもだからこそ、『彼』の周りには人が集まっているようだった。

 放っておけない。『彼』に手を貸してあげたい。
 『彼』は人に愛される人で、それ以上に『彼』自身、人を思い遣る人だった。
 お伽噺のように美しい、幸福な国。
 そんな国の王は温かで、『彼』のおかげで国は光り輝いて見えた。

『――平民も貴族も。みんなが平等に通える学校を作りたい。俺はみんなが笑い合える世界が好きだ。この世界を変えたいんだ。協力してくれ。大陸の王、海の皇女!』

 だから『彼』が自分たちに、学校を作りたいと言った時に協力した。
 『彼』の願いなら、きっとこの世界の、幸福に繋がるに違いないと思ったから。

『君がそう願うなら。俺は君に力を貸そう』
『貴方がそう願うなら、私も協力してあげる』
『ありがとう! 二人は俺の親友だ!』
『きゃ!』
『うわ!』
『全く君は……』
『貴方って人は……』

 自分たちに抱き付く『彼』は、王というより昔からの友人のようで。
 王という身分を忘れさせてくれる『彼』のことが、多分自分と同じように、『海の皇女』も好きだった。

 大陸を統べる国。海を統べる国。それに比べると『彼』の国は、とても大きな国とは言えなかった。
 それでも、本当は自分たちより立場の低い『彼』に普通に話してほしいと言ったのは、自分や海の皇女からだった。

 ――君かいるこの国を、俺は愛し守ろう。
 ――あなたがいるこの国を、私は愛し守りましょう。
 『彼』が居たから繋がった。自分たちは、そういう関係だった。

『俺は人の笑顔が好きなんだ。ロイ。君にも。ずっと笑っていてほしい。そしたら俺はとても嬉しい』

 今日もまた、優しい声がする。
 『彼』の国。お伽噺のような優しい国。
 俺は差し伸べられる手を掴んだ。

「――待ってくれ。君は……」

 そのはずなのに目が覚めたら、いつだって『彼』は居ない。
 記憶はとぎれとぎれで、大事なところは欠落している。

 学院の創立者。
 歴史に残る『三人の王』。
 『大陸の王』ロイ・グラナトゥム。
 『海の皇女』ロゼリア・ディラン。
 そして――最後の王の名は、『賢王』レオン・クリスタロス。

 『彼』の名前は夢の中で、いつだってきちんと聞こえない。
 『彼』は、『レオン』のはずだ。だってそうでなければ俺たちに、名を連ねるはずがない。



「おうさま。おうさま。だいじょうぶですか?」
「……なんでもない」
「おうさま?」

 今日もまた、伸ばされた手は何も掴めない。
 心配そうな目をシャルルに向けられて、ロイは目に浮かんだ涙を拭った。
 ずっと会いたかった『彼』の、魂を継いでいる可能性のある王子。
 十年前からずっと、ロイはレオンが眠りから覚めるのを待っていた。
 ずっと『彼』に会いたかったから。
 馬鹿げていると思われてもかまわない。それでも『彼』に、自分と同じように前世の記憶があるのかきいてみたかったから。
 しかしいざ会ってみれば、レオンは記憶が無いどころか、まるきり夢の中の『彼』とは違った。

 だからだろうか。
 自分の親友の名を語る若い王子に、ロイは苛立ちがおさまらなかった。
 ロイは机の上の小箱をみた。銀細工の施されたその箱は、彼のものにしては些か彼に不似合いだった。

「本当にがっかりだ。君が、『彼』である筈がない。――俺は君が、この国の王になるのは認めない」
 ロイは静かに宙を睨んだ。

「『彼』が愛したこの国の王に、君は相応しくない」



「リヒト殿。何をお考えですか?」
「……」

 相変わらず、自分に対してにこやかな笑みを浮かべる大国の王の顔を、図書室で本を読んでいたリヒトは、ピクリと眉を動かした。

 何故かやたらと自分に興味を示す男を見つめる。
 確かにロイはベアトリーチェには敗北した。
 けれど、ロイが自分の兄を倒した人間であることに違いはない。
 リヒトはずっと兄と比べられて生きてきた。
 そして兄は周りから優秀と持て囃され、自分は出来損ないと言われ続けてきた。
 ロイは兄に勝った強者であるはずなのに、彼が自分のことを異様に褒める理由を、リヒトはどう判断すべきなのかわからなかった。

 ロイ・グラナトゥムは、敵か味方か。

「凄いですね。実は先日預かった解答を拝見したのですが、なんと全問正解でした。流石、長らく魔法の研究を続けられていただけのことはある」
「あれくらいなら数年前から解ける」
「なんと! それは本当ですか? それが事実なら、貴方は間違いなく天才ですね」

 これまで誰にも言ってもらえなかった言葉を、ロイはリヒトに簡単に与えた。

「……兄に勝った貴方が、自分のことをそこまで気に入ってくださる理由がわかりません」

「何を仰っているのです? 兄上よりも、貴方のほうがずっと優れているというのに。いいですか? リヒト様。一〇年という月日は長いのです。特に若いうちの一〇年は。それに二〇を過ぎないうちに功をなした人間が褒め称えられるように、この世界では才能に対する評価を年齢で行うことは多々あるのです。若さ、もしくは、その分野において、明らかに歳を過ぎている場合は、また評価が上がる理由になる。貴方は若い。その才能は、認められる価値のあるものだ。それが認められれば、貴方は彼よりも王に相応しい人間と、認められることでしょう」

「…………」
「レオン・クリスタロス――貴方の兄のことは、確かにかつては私も良き好敵手と思っておりました。しかし一〇年の月日を経た今、彼はかつてのまま変われずにいる。可哀想ですが、今の彼では一年経っても私に追いつくことは叶わないでしょう」

 大国の王は静かに言う。
 レオンよりリヒトのほうが、この国の王に相応しいと。

「レオン王子の力の無さを証明する。その上で、貴方の優秀さを知らしめる。これが出来れば、貴方をこの国の王にと願う人間はきっと多くなる。リヒト様にはぜひ我が学院に入学していただき、多くのことを得ていただきたい。『紙の鳥』、古代魔法を復活させた貴方のような方を、ずっと私は求めていた」
「……」
「貴方には私の国に来ていただきたい。貴方が承諾してくださるなら、帰国の際にでも、是非我が国にお招きしたい」

 ロイはそう言うと、リヒトに紙の束を渡した。
 魔法学院入学のための書類だ。
 そこにサインをすれば、リヒトはこの国からしばらく出ることとなる。

「貴方の悪評を広めた兄など、貶めてしまえばよいのです。リヒト殿。私は貴方に、この国の王になっていただきたい」

 自分を見つめる赤い瞳に、リヒトは頷くことができなかった。

 ロイとの話を終えたリヒトは、決闘を終えた兄がまた一人で魔法の訓練をしている様子を見かけた。

「兄上だ」

 目が覚めてからずっと、兄がこうやって毎日訓練していることをリヒトは知っている。
 兄は昔から天才と呼ばれていたけれど、毎日努力していたことを、リヒトは知っている。
 でもそれを、顔に出さないのがレオンだということも。

 才能がある人間が努力している。
 その成長速度は明らかに人と違って、才能がない自分がどんなに頑張っても、追いつけないと思い知らされる。

「兄上、頑張ってるなあ」

 リヒトはポツリ呟いた。
 それは、リヒト出来ない努力だ。
 リヒトは魔法を極限まで使う以前に、魔法をろくに発動出来ない。
 レオンは、ベアトリーチェに言われてユーリがしていることを、目覚めてからずっと行っている。

『貴方の悪評を広めた兄など、貶めてしまえばよいのです』

 リヒトは確かに兄にされたことで傷付いたが、兄を貶めたいとは思えなかった。

「俺は……どうしたいんだろう…………?」

 リヒトの言葉は自分への問いに、まだ答えを出すことが出来なかった。


「ローズ嬢、顔を上げなさい」
「はい、国王陛下」

 ロイ・グラナトゥムがこの国にやってきて五日目の午後のこと。
 一人城に召されたローズは、王の前に頭を垂れていた。

 クリスタロス王国国王、リカルド・クリスタロス。
 クリスタロス王国王族の証である金色の髪の王は、穏やかそうな外見ながらも、厳格な雰囲気を纏っていた。
 炎属性と地属性を持つ彼は、レイゼル・ロッドとどこか似ていて、リヒトやレオンの父ということもあり、ローズが幼い頃からずっと第二の父のように慕ってきた人物だ。

「君を呼んだのは他でもない。ロイ・グラナトゥム殿のことについてだ」
「――はい」

 リカルドの声は、どこか緊張しているようにローズには聞こえた。
 しかしそれは当然とも言えた。
 クリスタロス王国とグラナトゥム王国では、国の規模が違いすぎる。もしロイの不況を買おうものなら、何をされるかわかったものではない。

 ローズがリカルドに呼び出されたのはまさにそのロイについてだった。
 七日日。
 当初滞在期間について、そう告げていたロイだったが、急遽リカルドに延長を申し出てきたのだ。
 大陸の王。
 そう呼ばれるかの王は、ベアトリーチェにまだ勝負をするつもりらしかった。

 決闘には一応ルールがある。
 一日一回まで、そして最大七回という回数制限。
 最大が七というのは、この数字がこの世界で、『祝福の数字』とされているためである。
 つまりまだ数回、ベアトリーチェは、決闘を挑まれる可能性があった。

「ローズ嬢、おそらくロイ殿は何らかの策を練るために、私に滞在期間の延長を申し出たに違いない。彼が君を自国に迎えたいのは本気らしい。君は『鍵の守護者』。私は、グラン殿に剣を託された君から剣を奪えば、周囲が不審がるに違いないとも考え、君に剣と指輪の守護を任せた。この国で最も魔力が高く、剣の腕もあり、魔法も使える。魔王を倒せた者ならば、鍵を守ってくれると思ったからだ。しかし今、かの王は君だけでなく、鍵も狙っているという話も聞く」

「……」
「あらゆる魔法の『鍵』となるかもしれないその指輪と剣。もし他の国にわたり何らかの問題が起きたとき、それを知りながら公表しなかったことは責任を問われるに違いない。かと言って今それを明かせば、その鍵をめぐり争いが起こる可能性もある。石を破壊する方法がわからぬ今、鍵を手にする君を国外に出すわけには行かない。だからこそ、君に頼みたい。あの王が何を考えているのか分からない今、もし彼が負けそうなときは」

 リカルドは目を伏せる。
 そして彼は、静かな声でローズに告げた。

「――君には、彼と結婚してほしい」
「……結婚、ですか?」
「そうだ。婚約でなく結婚であれば、彼も君に手出しをしてくることは無いだろう。君には彼か、もしくはレオンを選んでほしい」

 ローズの結婚相手を殺す可能性があるのも確かだが、決闘を挑み敗北の上ローズに拒絶され、不慮の事故か何かで相手が死亡してローズに求婚となると、ローズの知名度から考えてロイが不審な目で見られるのは大国の王とはいえ免れない。

 リカルドはだからこそ、ローズに選択してほしいと思った。
 ベアトリーチェか、レオンとの結婚を。

「……れ、レオン様でございますか?」

 リカルドからの提案に、ローズの驚きを隠せなかった。
 まさか王自ら、願われることなど無いと思っていたから。
 普段のレオンはローズをからかってばかりで、どうせ王妃になってほしいといっても国のため――リカルドは一国の王とはいえ、ローズの意志を尊重してくれる相手だと思っていたから。
 
 そんな相手が、まさかレオンとの結婚を望むだなんて。

「あの子は……あまり感情を表に出すような子ではないのだが、あの王が君との決闘を挑むと言った時、君を王妃に迎えたいと言ったんだ」

 ――ほら、やっぱり。
 ローズは顔には出さず苦笑した。
 レオンが自分を好きなんて、どう考えてもありえないのだ。

「……レオン様は『鍵』が国外に出るのを防ぐために、名乗りを上げられたのでしょう?」
「今のあの子に、ベアトリーチェ殿に敵う力は無い。それでもあの子は、戦わせてほしいと言ったんだ」
「…………」

 レオン・クリスタロスは、自分の実力を見誤るような人間ではない。
 そんな人が、負けると分っていて決闘を申し込んだ?
 ローズには、レオンの想いがどこにあるのか分らなかった。
 レオンが自分を本気で好きだなんて、ローズはこれまで一度も感じたことがなかったから。

「彼との婚約を許した私が、今更こんなことを言うのは筋違いかもしれない。しかしあの子が、本当に幼い頃から君を思っていたのなら――私は親として、あの子の想いを叶えてやってほしいとも思うのだ。君の父が、君をリヒトから遠ざけたいと思う気持ちも分からないわけではない。だからレオンを望まなかった気持ちもわかる。ただ君は今もリヒトとも普通に接してくれているようだし、もし君がレオンと結ばれて私の娘となってくれるなら、私も安心して王の座を譲り渡すことができる」

 リカルドはそう言うと、ローズに微笑んだ。
 リカルド・クリスタロスは厳格な王だが、不器用なりに子ども想いの優しい人だということをローズは知っている。
 だからこそ彼は、一方的に婚約破棄を宣言した出来そこないの息子に、アカリとの婚約を許さず注意はしても、厳しい罰は与えなかった。
 リヒトがそうなってしまう原因は、魔力の弱さのせいだと知っていたから。

 そしてだからこそ彼は、努力しても変わらない現実を、リヒトに問いて聞かせた。

 魔力使えなくても、出来ることはある。
 リカルドはリヒトに、それを学んでほしいと思い続けてきた。指輪が壊れて、魔法が殆ど使えなくなってしまってからは尚更。

 誰もからも慕われていた優秀な王子。
 そのレオンが帰って来たからこそ、リカルドはリヒトに自由を与えてやりたかった。

 王になろうとしなくてもいい。
 魔法が使えなくとも、いい。
 認められない努力をやめて、魔法を諦めることも、正しい選択だと――リヒトには、一年をかけてリカルドは気付いてほしかった。
 どんなに努力をしても、リヒトはレオンには勝てないのだから。
 リカルドは子どもの幸福を願っていた。
 そしてそれは、レオンも同様に。

「かしこまりました。……ただ、申し訳ございません。考えがまとまらないので、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「こんなこと、突然言われても君が困るのは分かっていた。……すまない。この国の王族は、君に苦労をかけてばかりだな」

 リカルドは申し訳なさそうに少し苦笑いした。

「いいえ」
 ローズはリカルドに微笑んだ。

「私はこの国を愛しております。この国のためになることであれば、私は苦労とは思いません」
「君が昔からそう言ってくれることに、私はずっと救われているよ。本当にありがとう。話はこれで終わりだ。急に呼び出してすまなかった」


「ビーチェ様が呼ばれなかったわけです……」
 婚約者が決まっている自分を、国王が一人呼び出すなんておかしいとは思ったのだ。
 しかしどうもわからない。レオンが自分を好きだなんて、本当にあり得るのだろうか?

「からかって遊んでいるだけにしか思えないのですが……」

 幼い頃の記憶を辿る。
 もう十年も昔の話。
 公爵家の庭にはいつも、幼馴染たちがいた。

 ギルバート、ローズ、レオン、リヒト、ユーリ。そしてミリア。
 ギルバートとレオンとユーリは、ローズの祖父である『剣聖』グラン・クロサイトから指導を受けていた。
 ローズとリヒトは、いつもそんな彼らを眺め、ミリアは二人を見守るためにそばにいた。

 訓練の終わりには、いつもサンドイッチをみんなで食べた。
 午後の訓練の途中ではお菓子が出され、ローズはその時間も大好きだった。

 特に大好きだったのがフィガル。
 フィガルはハート型をしたパイで、砂糖がたっぷりまぶしてあるのが大好きだった。
 今でも好物ではあるが、甘いものの食べ過ぎは体に良くないと、先日ローズは兄に怒られたばかりだ。
 ローズは兄には逆らえない。

 そんなローズの、幼い頃のこと。
 ローズはいつもどおりケーキを食べていた。
 甘いものは美味しい。思わず顔がほころぶ。

『ロースは甘党だねぇ。よかったらこれも食べていいよ』
『あ、ありがとうございます』
 すると、何故かレオンが自分にケーキののった皿をローズに渡してきた。
 レオンはさっき食べていなかっただろうかと思いつつ、ローズは渡されたケーキをもぐもぐ食べた。
 すると。

『僕のケーキが無い!』
 ローズの背後で誰かが叫んだ。
『ああ、それはもう食べないのかと思ってローズにあげてしまったよ』
 ローズはその言葉を聞いて手をとめた。

『何で食べるんだよ! ローズ!』
『だ、だってレオン様が』
 ――食べていいって。
『確かにそうはいったけど。でも、食べたのはローズだよ?』
 ローズが弁明しようとすると、にっこり笑ってレオンが言った。
 リヒトは怒ったままで、ローズはどうしていいかわからず慌てた。

『リヒト様』
 ローズが困っていると、リヒトにケーキののった皿が差し出された。
『良かったらこれを。まだ、手は付けておりませんので』

『ユーリ! いいのか?』
 ユーリからケーキを受け取ったリヒトは、ぱあああっと表情を明るくさせた。
 しかしその明るさは、少しずつ萎んでいった。
『……でも、これだとユーリの分がなくなるし……。ああ、そうだ!』
 リヒトはケーキは食べたいが、ユーリのケーキがなくなるのは嫌らしかった。

『半分こしよう!』
 リヒトの言葉を聞いて、ミリアが新しい皿を持ってきた。
 リヒトはケーキを半分に切り分けると、苺ののっている方をユーリに渡した。
 しかしユーリは、リヒトが差し出した方でない方の皿を手に取った。

『私はこちらをいただきます。リヒト様は苺がお好きでしょう? 我慢しなくていいんですよ』
 ユーリは優しく微笑み、リヒトの表情は明るくなった。

『ありがとう! ユーリ!』
 リヒトは大きく手を広げ、ユーリに抱き付いた。

 ローズがまだ小さかった頃。
 ユーリは『お兄さん』で、自分たちのことをいつも見守ってくれていたことを、ローズは思い出していた。
 確かにユーリが抜けているのは昔からだが、当時四歳下のリヒトのことを、彼はとても可愛がっていたのをローズは覚えている。

 祖父が見つけた剣の才能。心優しく正しい騎士。
 ローズにとって、ユーリはそういう人だ。

 だからそれから数日後、ユーリがリヒトのためにケーキを用意したときに、転んでローズにぶつけた時は、ローズはユーリに何度も謝られた。

 服はべとべとだったけれど、彼が買ってきてくれたケーキをちょっと掬って食べてみたら、口いっぱいに甘さが広がって、なんだかどうでもよくなってしまったことも、ローズははっきり覚えている。

 優しい時間。宝物のような思い出。
 けれど時間が経つ中で、誰もが大人になっていく。
 自分にとって彼らは幼馴染で、家族のような存在だったのに、関係性は変わっていく。

 ローズはその変化を、心のどこかで受け止め切れていない自分に気が付いた。
 ローズは時々、自分の時間がいつからか止まっているように感じていた。

 大切な人を守りたい。その為に強くなりたい。
 そう強く決意して生きてきた彼女にとって、『好き』は家族で、この国そのものだ。
 その思いが強すぎて、自分のことに関心が抱けない。部屋も服も、自分を取り囲む全ては、周りの人間が選んだもの。これまでローズの最優先は、ずっと自分ではなくこの国そのものだった。

 止まっていた自分の時間。
 少しずつだけれど、最近それが動いているようにもローズは感じていた。
 ベアトリーチェとの結婚を意識すると、ローズは自分の中で、何かが変わっていくような気がした。

 心の中に少しずつ、ベアトリーチェが増えていくのを感じる。
 温かな人。厳しさもあるけれど、愛情豊かな優しい大地のような人。
 仲間い間、水の上をぷかぷか浮かんで漂流していた自分に、やっと与えられた大地は、ほんの少しだけ安心すると同時に、今までとは違い過ぎて落ち着かない。

「そういえば……ユーリとリヒト様は幼い頃は本当に仲が良かったのに、どうして最近はあんなに仲が悪そうなのでしょうか?」

 ローズの問いの答えがわからないのは、恐らくローズただ一人だけだった。

 ◇◆◇

 とてとてとてて。とてとてとてて。

 小さな足は傷だらけ。
 痩せっぽっちのちいさな体の、子どもの足は随分速い。
 くんくん。くんくん。
 どこからか漂ってくる甘い匂いに、吸い寄せられるように子どもは動く。
 普通の人間なら嗅ぎ分けられない匂い。わずかに開いた窓から嗅ぎ分けた子どもは、壁を登って三階の窓近くに張り付いた。



「ローズさん、喜んでくれるかな? ローズさん、甘いもの大好きだって言ってたから、私ももっと上手に作れるようになりたいな」

 その日、『光の聖女』アカリ・ナナセは上機嫌だった。
 それもそのはず、今日アカリは聖女としての訓練などの予定もなく、ローズとお茶の予定があったからだ。
  午後に来るとローズから知らせを聞いたアカリは、ローズのために朝からクッキーを焼いていた。

「この間のお菓子も褒めてもらえたし。ローズさんのためなら、なんだって頑張れる気がする!」

 アカリの部屋には、たくさんの本が積み上げられていた。
 この世界に来て約五ヶ月――特にこの二ヶ月は、アカリは魔法だけにとどまらず、地理や歴史の知識を増やし、そしてお菓子作り腕もメキメキと上げていた。

 これまでの異世界転移・転生者に感謝だ。アカリはそう思った。
 なんと中には炎属性の使えるパティシエもいたらしく、オーブンを使ったかなり細かいレシピなども残っていた。

 今のこの世界において、『異世界召喚』は魔王討伐の際にしか許されないという法律があることもあり、『転移者』はかなり歴史を遡らなくては存在しないが、『転生者』は少なからず今も存在している。
 
 しかし科学者はこれまで存在しなかったようで、この世界にはまだ電子レンジなどの電子機器は存在していない。
 それもあり、炎魔法が使えないアカリがお菓子を作るのは本来難しいことだったが、彼女には光魔法の適性以外に、他の人間とは違う特別な点が存在していた。

『アカリ! アカリ!』

「サラ」

『アカリ、アカリ。他にして欲しいことはない?』

 アカリがサラと呼んだ生き物は、半透明の羽を使って宙に浮かんでいた。

 実はこの世界には、妖精や精霊と呼ばれる生き物がいる。
 しかし多くの人間には彼らは見えず、そして彼らは『見えない者』には力を貸さない。
 故に彼らを目視することが出来、その不思議な力を借りることが出来る人間は、この世界で『精霊の愛し子』と呼ばれる。 

「今日はもう大丈夫。みんなありがとう」

『アカリ。何かあったらまた僕のことを呼んでね! ボク、アカリの為ならなんだってやってあげたい!』

「うん。また必要なときはお願いするね。ありがとう。サラ」

『アカリがボクのことを呼んでくれること、ボク待ってる! じゃあね。アカリ!』

 サラ――炎属性のサラマンダーの眷属と思われる妖精は、そう言うと窓から出て行っていった。
 そして窓の方に視線を移したアカリは、窓にへばりついている人間と目が合い悲鳴を上げた。

「…………あまい、におい」
「きゃああああああああああ!!!」

 ここは、三階のはずなのに――アカリの悲鳴を聞きつけて、ローズはノックをせずにアカリの部屋の扉を開けた。 

「アカリ!?」
「ローズさん!」
 アカリは思わず部屋には入ってきたローズに抱きついた。

「大丈夫ですか? 一体何があったのです?」
「……ま、窓の外に、人が」
「人??」

 ローズは、アカリを安心させるために彼女の体を優しく抱きとめてから窓の外を見た。
 すると、子どもが窓に顔を押し付けてじっとこちらを見つめているのが見えた。

「…………っ!?」

 ローズは思わず声にならない声を上げた。

「ろ、ローズさん……っ!」

 ローズは、怯えるアカリを彼女を背に庇った。
 たとえ子どもであろうと、アカリを狙うなら容赦はしない。
 ローズは子どもを睨んだ。しかしその緊迫した雰囲気は、窓の外から聞こえた音によって掻き消された。

 ぐううううううううううううぎゅるるるる。

「……え?」
 ローズは思わず耳を疑った。

 ――これは一体……。

「お腹の音?」
 アカリの部屋は甘い香りで満たされている。彼女の手作りのお菓子の匂いだ。
「……あまいにおい」
 盛大に腹の虫を慣らしながら個と度が呟いた言葉を聞いて、ローズは剣を下ろした。



 ばくばくばくばく。

「そんなに焦って食べなくてもなくなりませんよ? ゆっくり食べなくては、喉につめてしまいます。どうしてそんなにお腹が減っていたのですか?」
「ごはんをたべられるときにたくさんたべるのはじょうしきです」
「……」

 見ず知らずの子どもを部屋に招くわけにはいかず、アカリとローズは子どもに食事を与えることを告げ、壁から降りてもらうことにした。
 フードのついた、黒のローブを着た少女。
 夕焼け色の髪と瞳。赤とオレンジと金色。不思議な色をした子どもの髪は長く、その体や服は薄汚れていた。

 城の庭にある花園。
 アカリとローズは、両手でクッキーをひたすら食べ続ける子どもを見つめていた。
 食べると言うより、詰め込んでいるという方が適切だ。
 アカリはその様子を見て、まるでハムスターみたいだと思った。

 アカリがローズのために作った大量のお菓子は、みるみる間に減っていく。その点については、アカリは少し複雑な気持ちになった。
 お腹の減った子どもの為なら仕方は無い。けれど元々ローズのためにつくったクッキーで、チョコレートで可愛く顔をかいたりしていたというのに、問答無用で子どもの腹の中に消えていく。

 『ローズさんをイメージして作ったんです』と言うために、わざわざアイシングを施した薔薇のクッキーも、当然のように粉砕される。
 アカリ渾身のクッキーは、僅か数秒でこの世から姿を消した。

「随分と痩せていますし、この格好……家族は居ないのですか? お父様や、お母様は?」
「ちちとはははいません」
 ローズの質問に、子どもは静かにこたえた。

「そうですか……。傷つけてしまったら申し訳ありません。では、次に貴方がここに入れた理由を聞いてもいいですか? 私はこれまで、王城で貴方を見たことがありません。貴方はどうやってこの場所に入ったのです? 城の門には魔封じがある。ただの子どもが入ることは出来ないと思うのですが……」
「……」

 ローズの問いに、子どもが顔を上げる。その時ローズは、少女の首にあるものを見つけた。

「チョーカー……?」
「あれ? このチョーカー、石が付いてますよ。ローズさん」
「……ではこの子も魔法を?」

 ローズは首を傾げた。
 魔法を使える人間は、優遇されるのが普通だ。
 もし魔法を使えながらこの待遇となると、一般的な扱いと比べかなり悪い。
 それなのに、この子は一体どうして……? ローズが思案していると、焦りを含んだ声が聞こえて、ローズは声の方を振り替えった。

「シャルル……シャルル、どこにいる!?」

 『大陸の王』ロイ・グラナトゥム。
 彼は誰かを探しているようだった。

 ――この国で、一体誰を……?

 ローズが首を傾げていると、子どもは菓子を食べていた手を止めて彼を呼んだ。

「おうさま」
「え?」
 子ども椅子から降りると、とてとてと小さな足でロイのほうへと走っていく。

「おうさま。シャルルはこちらです」

 ロイの後ろに立つ。
 子どもは表情を変えず、赤い色を宿す王を見上げた。

「……シャルル! 何故俺の部屋に居ない? 勝手に出歩くなと言っただろう!」

 振り返って子どもを見下ろす。ロイは眉間に皺を寄せた。
 幼子を怒鳴りつけるロイにを見て、ローズとアカリは慌てて子どもを追いかけた。

「そんなに怒らないであげてください! この子、お腹が減ってたんです。子どもにご飯を上げずに放置して出かける方がどうかしてます!」
「失礼ですが、この子は貴方が面倒を? チョーカーに精霊晶《いし》が付いているようですし、この待遇は……」

 アカリは怒り、ローズは怪訝な表情でロイに尋ねた。ロイは二人の言葉に、ハッと鼻で笑った。

「チョーカー? 違う。それは首輪だ」
「『首輪』……?」
「ではこれは、貴方がこの子に首輪として与えたものだと言うんですか?」

 ローズの表情が険しくなる。
 アカリは、信じられないという表情を浮かべた。
 違う世界を生きてきたアカリは、実際に首輪を付けられる人間を見たことがなかった。

 犯罪や戦争。
 そういうもので奴隷となる人間は、クリスタロス王国にはないものの、他国にはいることをローズは知っている。けれどそれは魔法を持たぬもの限定で、やはり魔法を持つ者は、首輪を与えられたりなどしない。

 力ある者は優遇される。
 それが、この世界の構造だから。

「そうだ。俺のものをどうしようが、俺の勝手だろう?」
「酷いです! そんな言い方ないじゃないですか。この子が可哀想です!!!」

 アカリは叫んだ。
 しかし怒りに震えるアカリにロイは近付いて、赤い瞳で冷たく見下ろした。

「『光の聖女』――君は他人の所有物に口を出すのか。お節介も甚だしいな」
「なん……っ!」 

 お節介と言われ、アカリはカッと顔を赤くした。
 これまで『光の聖女』であるアカリに、そんな失礼なことを言う人間は居なかった。

 勿論それは、これまでのアカリが他人と深く関わろうとしなかったせいもあるが――。
 自分への嫌悪を表に出したアカリを見て、ロイは嘲笑うような笑みを浮かべた。

「まあいい。――首輪は外すなよ。シャルル」
「はい。おうさま」

 少女は頷く。

「行くぞ」
 ロイはそれだけ言うと、ローズたちに背を向けた。

 シャルルと呼ばれた子どもはその背を追いかけたが、一度ピタリと足を止め、ローズたちに振り返り頭を下げると、再び彼を追いかけた。
 行儀はなっていなかったが、礼儀はわきまえているらしい。
 ローズとアカリは、遠くなる二人の背を見送った。

 二人の背が見えなくなる頃、アカリはおさえていた感情を爆発させた。

「なんなんですかあの人! あんな小さな子を物みたいに!!! ローズさん。私、あんな人がローズさんと結婚なんて絶対嫌です! あんな人、ローズさんに相応しくありませんっ!!!!」
「……」

 珍しく本気で怒っているアカリを見て、ローズは苦笑いした。
 ローズはロイとまだ出会って数日だが、彼が他人に向ける視線が常に上から目線なのは気になっていた。まあそれは王だからしかたないのだろうが……。
 ただ、あることが気になってローズは静かに目を伏せた。

『シャルル……シャルル、どこにいる!?』

 小さな子どもを探す彼の声。
 その声だけは、ローズは自分の知る『ロイ』とは、少しだけ違ったような気がした。

「私、あの人嫌いです!! ローズさん!!」
「アカリ。そう怒っていては可愛い顔が台無しですよ」

 ぷんすか怒るアカリに、ローズは笑みを作った。
 異世界から来たアカリとローズとでは考え方が違う。
 公爵令嬢であるローズは立場をわきまえている。他国の人間関係に、口を出し過ぎるのは歓迎されないことは知っている。

「かっ可愛い……!?」
 不意に囁かれたローズの言葉に、アカリは再び顔を真っ赤に染めた。
 アカリは自分の顔を手で覆った。そんなアカリにローズは尋ねた。

「アカリ。そう言えばこのお菓子、本当は私に作ってくれたものだったんですか?」
「あ、はい……」

 アカリは小さな声で返事をして下を向いた。
 ローズはアカリを見て微笑むと、クッキーを一つ手に取ってぱくりと食べた。

 ――甘くて美味しい、大好きな味だ。

「ありがとう。とても嬉しいです。アカリの作ってくれるお菓子は、甘さも全部私好みで大好きです」
「……私、ローズさんの為に、もっとお菓子作り頑張ります!」

 アカリは元気よく手を上げて宣誓した。
 二つの拳を胸の前で握る様子は、ローズには可愛らしい少女として目に映った。

「アカリ」
 ローズはそっと、アカリの手を両手で包んだ。

「私の為に頑張ってお菓子作りのお勉強をしてくれるのは嬉しいのですが、貴方は光の聖女という役目もあるので、あまり私の為に頑張らなくていいのですよ?」
「え……?」
「アカリが無理をして体を崩したら悲しいですし……」

 ローズは苦笑いした。
 兄たちのことがあって、あまり他の令嬢と深くは付き合ってこなかったローズにとって、アカリは初めて出来た親しい女友達だ。
 『光の聖女』という立場以上に友達として、ローズはアカリが心配だった。

 心から心配そうに自分を見つめるローズ――そんな彼女を見て、アカリはとあることを決意した。
 握られていた手をするりとすり抜けて、今度はアカリがローズの手を包み込んだ。

「わかりました。私、ローズさんに心配をかけないよう気を付けつつ頑張ります!」
「???? あの、アカリ……?」

 ローズは首を傾げた。
 自分の心配は、彼女には伝わらなかったんだろうか――困ったという表情《かお》をしたローズに、アカリは元気よく笑った。

「大丈夫です! ローズさんが応援してくれるなら、私は何だって出来る気がするんです。ベアトリーチェさんの石のことも、ローズさんの役に立ちたいって思ったら出来たので」
 ローズの手を包むアカリの手に力が籠る。

「私にとってローズさんの笑顔が、頑張れるパワーの源なんです!!」

 『だから心配しないでください』とでもいうように、えへへ笑うアカリに、ローズはくすりと笑った。
 建前や嘘などではなく、自分に真っ直ぐに好意を向けてくれる相手には少し戸惑うこともあるけれど、やはり嬉しい。

「ありがとう。アカリ。私は貴方が大好きです」

 香り立つ薔薇のように、ローズはアカリに向かって微笑んだ。
 ただ、自分の笑顔を見たアカリが頬を染めた理由は、やはりローズにはよくわからなかった。
 翌日、アカリがロイ・グラナトゥムの部屋に向かって少女を呼ぶ声を、ローズは黙って傍で聞いていた。

「しやーるーるーちゃーん!」
「なんでしょう……?」

 勿論その『少女』とは、昨日二人が出逢った『首輪の少女』だ。
 アカリの声に、ひょこりと窓から顔を出したシャルルに向かって、アカリは手を振って満面の笑みを浮かべた。

「こっちにおいでー!」
「……おうさまから、へやからでるなといわれています」

 シャルルはサラッと断った。
 しかしアカリは諦めない。アカリはシャルルの返事を聞いて、笑みを浮かべてからもう一度叫んだ。

「シャルルちゃ〜〜ん!! そんなこと言わずに! シャルルちゃんのためにお菓子とご飯用意したんだよ〜〜!!」

 アカリはそう言うと、皿いっぱいのお菓子と料理を取り出した。
 それを見たシャルルの目が輝く。

「おかし!! ごはん!!!」
「アカリ……それではまるで誘拐犯のやり口です……」

 アカリたちのやり取りを側で見ていたローズは、珍しくツッコミをいれて顔を曇らせた。


 
 話は少し前に遡る。
 シャルルと出会った日の翌朝、アカリに呼び出されたローズは王宮を訪れていた。
 騎士として護衛をアカリに頼まれたからである。
 『光の聖女』として魔王討伐に助力したアカリには、常に騎士団の人間が護衛についている。
 いつもは交代で受け持っているのだが、今日は急遽アカリからの『お願い』で、ローズに担当することになった。
 男性の騎士を連れて街を出歩くのも気が引けるとか、息抜きをしたいからという理由で自分を指名したのかとローズは思っていたのだが、アカリがローズを指名したのは、違う意図があったらしかった。

「絶対に許せないのでこっちも出るとこ出ます」
「……アカリは最近、たくましくなった気がしますね」

 昨日からのアカリの怒りは、まだ収まっていないらしかった。
 『大陸の王』ロイ・グラナトゥムに腹を立てるアカリを見て、ローズはくすっと笑った。

「だって! あんな小さな子にあの扱い! 許せません!!!」

 顔を赤らめて、眉間にしわを作る。
 初めて会ったときと比べて、アカリは表情が増えたようにローズは思った。そしてそんなアカリを見て、ローズは少し嬉しかった。
 『病院』暮らしで、人と関わったことが無かった彼女が、心からの怒りという感情を抱くのはというのは大きな変化だ。そして『聖女』である彼女が怒っている理由が、自分の正義を信じているからだということも、ローズにとっては好ましく思えた。

「アカリの世界では、子どもがこういう扱いをされることは無いのですか?」

 ローズは、どこか諭すよう名声で訊ねた。
 どんなに平和な世界でも、人に意思がある限り、差別や偏見、格差のない完全な幸福などありえない。
 アカリは、あくまで冷静なローズを前に、きゅっと唇を噛んだ。

「それは……そうではない、ですが」

 ローズはアカリから、『アカリの国』に奴隷は居ないと話で聞いていた。
 けれどアカリが召喚されたらしい世界についての書物を読むと、差別や奴隷についての記述があることをローズは知っていた。

「……確かに、私の世界のすべてが、誰も飢えることなく争いもないと言ったら違います。あの子みたいに、親がいない子だっている。放置されて死ぬ子もいる。私の国に、虐待をされない子が居ないとは言いません。私の国の、すべてが平和だって言うわけじゃありません。それでも……。それでも私は、人は、誰もが幸せになる権利があるって、そう信じたいんです」

 ローズの問いに対するアカリの答えは、彼女が『光の聖女』と呼ばれるにふさわしく、『愛』や『夢』、そして『希望』に満ち溢れていた。
 美しいものを信じ、それを正義として内に抱える。『七瀬明《ひかりのせいじょ》』の言葉を、ローズは黙って聞いていた。

「……私は、あの子が今幸せだなんて思えません」

 アカリが語り、望む世界は美しい。 
 だからこそ、ローズはアカリに問いかける。

「それは、本当にそうでしょうか?」
「?」
「貴方には、彼女の幸せを決めることなんて出来ない。それに、『誰もが幸せになる権利がある』――貴方はそう言うけれど、だとしたらたった一人を特別視するというのもどうなのでしょう? 平等なんて、有り得ない。全てを救うことなんて、貴方には出来ません」
「……」

「この世界では、魔力の強さが重視される。それはアカリ、貴方だって例外ではなく。貴方がこの国で、皆に歓迎されたのは、ひとえにその力あってこそです」

「それは、わかっています。……でも」

 アカリは拳を握りしめた。
 自分の味方だと思っていたローズに否定されるなんて、アカリは思っていなかった。
 それでも自分の意見を覆すことも出来ず、『七瀬明《ひかりのせいじょ》』として、アカリはローズの目を真っ直ぐに見て言った。

「目の前でいじめられている人が居たら、私は放っておけない。たとえそれがどんなに偉い人だって、私は悪いと思ったら立ち向かいたい。……昔の私には、出来なかったから。誰か一人しか救わない、じゃありません。一人が集まって、世界が作られているのなら――。世界を変えるために、まず一人を救うことこそが、私は世界を変えることだと信じたいと思うんです」

 アカリの言葉はどこまでもまっすぐで、希望に満ち溢れていた。
 子どもが理想を語るような、そんなアカリの姿を見て、ローズは微笑んだ。
 世界を変えるためには一人一人を変えねばならないのは本当だろうが、結果よりも原因を変える方が重要だという思いの方が、ローズは強かった。

 上流の水の汚染で下流の水が飲めなくなるならば、長い目で見て必要なのは、下流の水を飲料水に変える方法ではなく、上流の問題を解決することだ。
 次期王妃として期待され、公爵令嬢として育ったローズからすれば、アカリの考え方は結局、たった一人を特別視して投資するだけに過ぎない。

 けれどそうは思いながらも、自分の正義を信じて疑わない彼女を見ると、ローズはアカリを否定するよりも、彼女の信じる美しい世界の先を、見てみたいと思ってしまった。

 『七瀬明』は無知ではない。
 でも、それでも自分の信じる美しいものを信じたいと叫ぶ姿は、ローズには誰かと似ているような気がした。

「アカリがそう願うなら、私は貴方に協力します」
「ありがとうございます」

 人には向き不向きがある。 
 同じ問題を前にして、求められる役割は異なって構わない。
 先を見据えて原因を解決する人間と、既に発生した問題に対処する人間は、異なるのが普通だろう。ローズはそう思った。

 結局人は一人きりで、世界を変えることはできない。
 長い目で見れば、前者が多く貢献したと思われるかもしれない。けれど今を、現実を生きる者たちにとっては、後者のほうが希望となりうる場合もある。
 自分の思う『正しさ』だけが、人の心を動かすわけじゃない。
 『えいえいおー!』と声を上げながら右手を掲げるアカリを見て、ローズはふと、そんなことを思った。



 ――……そして話は冒頭に戻る、というわけである。
 ばぐばぐと食事をするシャルルを、アカリは満足気に眺めていた。
 世界がどんなに変わってもいつの時代でも、空腹は人の敵だ。
 だから空腹時にご飯を与えてくれる相手は、正義のヒーロー(ヒロイン)というに相応しい。
 だが当の正義のヒロインは、何故か針で布をチクチク縫っていた。

「名付けて、『シャルルちゃん改造計画』です!」
 アカリは自信満々に宣言した。

「私、服を作るのが得意なんです。病院で作っていた時期があって」
「凄い。やはり、アカリはとても器用ですね。縫い目も綺麗です」
「ありがとうございます!」

 ローズに褒められて、アカリの布を縫う手が早くなった。

「よーし、出来たっ!」

 そして、ぱちんと糸切狭で糸を切る音がすると、アカリの元気な声が響いた。
 アカリが作ったのは、真っ赤な赤いフード付きのローブだった。

「シャルルちゃん、来て!」
「はい?」

 顔に菓子の屑をつけたシャルルが振り返る。

「??」
 アカリは、そんなシャルルに服を被せた。少し大きめの猫耳フード付きの服は、華奢なシャルルにはよく似合っている。

「可愛い~~! 赤ずきんみたい!」

 少し薄汚れてはいるものの、シャルルが元々着ていたワンピースの白い色が、彼女が動く度に赤の間から見えて可愛らしい。
 アカリは満足げに大きく頷いた。

「『赤ずきん』?」
 だがうんうんと頷くアカリに対し、ローズは首を傾げていた。

「あれ? ローズさんご存知ないですか?」
「ええ……。この世界の話ではないですよね?」
「はい。そうですね。元々は私の世界のお話なんですけど、昔の異世界人《まれびと》さんが書いたっていう本の中には残っていますよ。ただ、図書館にあった本は絵が怖かったのと私が読んだ本と少し言葉が違ったので、私が完全再現して書き直した本がこちらに」

 三分クッキング風紹介と共に、アカリは自作の本を取り出した。
 表紙に描かれているのは、赤い猫耳頭巾を被った、どこかシャルルに似た女の子だ。

「……もしかして、アカリは本の内容を全て覚えているんですか? 一言一句違わず?」
「はい! これは私の特技というか…… 一度読んだ本は全部覚えてます」
「……『あかずきん』」

 シャルルは珍しく、自分に似た少女の描かれた本に興味を示していた。
 普通の子どものように目を輝かせるシャルルを見て、微笑むアカリをローズは穏やかな目で見つめていた。

 七瀬明の現在のスペック。
 『光の聖女』
 『精霊の愛し子』
 お菓子作りが得意。
 裁縫が得意。
 絵が得意で本を作ることができる。
 一度読んだ本を全て記憶。

 光の聖女でなくても、アカリはこの世界で彼女は生きていける気がする。ローズはしみじみそう思った。
 そしてもし彼女が病魔に悩むことがなければ、きっと彼女は元の世界でも、その才能を賞賛されていたに違いないだろうと。

「アカリは、本当に多才ですね」
「わ、私の場合、ベッドの上で出来ることが少なかっただけで手を使う作業が得意というだけで」

 アカリの頬に朱が走る。
 『大したことは無いです』そう言うアカリを見て、ローズはふっと笑った。

「やはりリヒト様とアカリは、どこか似ていますね」
「へっ?」
 まさかの人物の名を出され、アカリは思わず首を傾げた。
「ど、どこがですか?」

「――『出来ない』の先に、何かを見つけようとするところでしょうかね。あとは、婚約破棄の時。勿論レオン様などのことも理由にはあるんでしょうが、リヒト様も、私を糾弾された時は本気で私に怒られていました。まっすぐ過ぎて周りが見えていないというか、そういうところは似ているなと思います」

「す、すいません。視野狭窄で……」

 ローズの言葉に、アカリの表情が曇った。アカリの変化に気付いて、ローズは言葉を付け足した。

「別に、責めているわけではないんです。それに私には、それが眩しく映ることもありますから」
「……眩しく?」

「――ええ。公爵令嬢として生きてきた私は、やはりどこかで自分の意思よりも立場を優先してしまいます。今は騎士としての立場もありますし。私はどうしても、どこかで周りのことを考えてしまう。だから二人のように、自分の意思を貫き通すことは、私には難しいことのように感じるときがあるのです」

 ローズは苦笑いした。
 昨日シャルルがロイに不当な扱いをされていたとき、ローズはアカリのように、ロイに怒れなかった。
 いけないとは思っても、やめてほしいとは思っても――自分でも気付かない心の奥底で、感情が制限されてしまうようにローズには思えた。
 自分が発言したり行動することで、周りに迷惑がかかってしまうという考え方は、ローズがこれまで生きてきた中で身についたものだ。
 ベアトリーチェの時だってそうだ。
 悪役を買ってでて、それで自体を収めようとした根底には、生まれ育った価値観が根付いていた。

「だからでしょうか? アカリが、彼女に何かしてあげたいという思いを、私はやはり積極的には賛成できない。けれど貴方がそれを望むなら、貴方がどんなことをしてくれるのか、私は興味を持ってしまうのですよ」

「ローズさん……」
 自分を見つめるアカリのきらきらとした瞳に、ローズは苦笑いした。
 何かを変える。何かを為す。
 物語を突き動かすための圧倒的な力は、きっと既存の概念にとらわれない自由さから生み出される。

「だから貴方はどうか、そのままで」
「――……はい」
 優しく微笑むローズを見て、アカリは少しだけ頬を染め、静かに頷いた。



 アカリから『赤ずきん』の格好をさせられたシャルルは、相変わらずお菓子を頬張っていた。
 飢餓により腹が出るという症状はないものの、小さく細い体は、やはり彼女が普段まともな食事をしていないせいだろうとアカリは考えた。
 許せない、と思う。
 けれど、出会ったばかりの少女の幸福を、自分が決めてはいけないとローズに言われたのを思い出して、アカリは口を噤んだ。

「アカリ。赤ずきんという少女は、食べられて終わりなのですか?」

 シャルルと共に本を読んでいたローズだったが、本をすっかり気に入ったシャルルが本を独占してしまい、ローズはアカリに尋ねた。

「いいえ。赤ずきんちゃんは助かりますよ。だって――」

 アカリが、本の続きを話そうとした時。
 ほとんど喋ることのなかったシャルルが、珍しく口を開いた。

「へいきです。あかずきんはおおかみにたべられても、おうさまがたすけてくれるのです」
「……おうさま?」

 シャルルの語る内容が自分が思っていた内容とは異なり、アカリは思わず訊ねた。

「確か、赤ずきんを助けるのは猟師だったかと……」
「ちがいます。おうさまが、わたしをたすけてくれるのでへいきなのです」
「?????」
 ますます訳が分からない。

「それって、どういう……?」
 アカリは、赤いフードの下でまっすぐに自分を見る少女に手を伸ばした。
 小さな子供の手には、自分が書いた本が握られている。

 しかし。

「シャルル!」
 昨日と同じく、取り乱したロイ・グラナトゥムが現れ、アカリはその手を止めた。

「……ここにいたのか」

 小さな溜め息。
 ロイはシャルルの前の皿の上の菓子を見て、あからさまに顔を顰めた。

「俺以外から、物を受け取るなと言っただろう」
「もうしわけございません」
 シャルルは静かに謝罪した。

「そんな……なんでシャルルちゃんが怒られなきゃいけないんですか! 貴方の方が、児童虐待で訴えられるレベルなのに!」

 この世界に、アカリの言う法律は無い。
 この世界にあるのは、この世界の慣習だけだ。
 王と慕う相手《ロイ》の命《めい》に、僕であるシャルルが逆らう筈がなかった。

「おかえしします」
 シャルルは服を脱ぐと、本と一緒にアカリに返した。

「……シャルルちゃん」
「わたしは、おうさまのものです。だから、おうさまのいうことはぜったいなのです」
「そんな……」

 アカリは愕然とした。
 自分の意思よりも、王《しゅじん》を優先するという子どもの言葉を、アカリは受け入れることが出来なかった。

「そういうことだ。『光の聖女』」
 そんなアカリを見て、ロイはアカリを馬鹿にしたような声で言った。

「人の物に勝手に手を出さないで貰おうか。不愉快だ」
「な……!」

 アカリは怒りで顔を赤らめた。屈辱だ。人間として最低の相手に、どうして自分がこんな暴言を吐かれなきゃいけないのか理解出来ない。

「ローズ嬢」
「はい」

 二人のやり取りを無言で眺めていたローズは、溜息まじりの声でロイに名を呼ばれて返事をした。

「君がこんなことに付き合う人間とは思わなかった。昨日のことといい、君はもう少し、自分の立場を考えて行動するべきじゃないか?」
「……」
「――ローズ・クロサイト。君はそこまで、愚かな人間ではないだろう?」

 ローズは口を噤んだ。
 アカリの願いでなければ、ローズも受け入れはしなかった。それは確かだ。
 しかし、ただの奴隷に食事を与えただけで、ここまでロイに非難されるとはローズは思っていなかった。
 ローズは沈黙した。
 牽制を終えたロイは子どもの手を引くと、ローズとアカリに背を向けた。

 シャルルたちの姿が見えなくなる頃、アカリは小さな声で呟いた。
「……嫌い、です」
「あ……アカリ?」
 拳を強く握って、アカリは今度は大きな声で叫んだ。
「やっぱり私、あの人嫌いです ! ローズさん!!!」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「なるほど。アカリ様は最近、そのように行動されるようになられたのですね」

 その夜、ローズはベアトリーチェに招かれて伯爵家の屋敷を訪れていた。
 若い二人で食事をということで、ベアトリーチェの他の家族たちは、ローズに挨拶をすると下がってしまった。
 てっきりジュテファーやレイゼルも一緒だと思っていたローズは話に困り、今日の出来事を話すことにした。
 ベアトリーチェは、いつもと同じように最後まで黙ってローズの話を聞いた。
 自分の話に相槌を打ちながら聞いてくれるベアトリーチェに、ローズはどこかほっとしていた。
 外見こそ幼げだが、やはり年の功というものなのかもしれない。

「どうしてそう思われるのです?」
「いえ。私が初めてあったときの彼女は、少し挙動不審、という印象でしたから」
「挙動不審……ですか?」

「まあ、仕方ないと言えば、仕方なかったのでしょうね。ただ、やはり光の聖女として過ごされる以上、光魔法をまだ使いこなせてはないにしても、少しずつでもこの世界に慣れていただけるのは良いことだと思います。……だからこそ、この世界の常識に、反発されることも多いとは思いますが」

「はい。ただ私はアカリには、そのまま変わらないでいて欲しいとも思うのです。そんな彼女のことを、私は好ましいと思いますし」
「……おや。ローズ様は、アカリ様のことが本当にお好きなんですね。――そう楽しそうに話されると、少し妬けてしまいます」

 そんな彼が、いたずらっこのような笑みを浮かべたのに気付いて、ローズは首を傾げた。

「??」
「ローズ様。実は今日は貴方のために、特別に用意したものがあるんです」

 ベアトリーチェがそう言うと、ガラガラという音と共に、新しい料理が運ばれてきた。

 クロッシュの中から現れたのは、『フォンダンショコラ』と呼ばれる菓子だった。
 好物の登場に、ローズは瞳を輝かせた。そんなローズを見てベアトリーチェはくすりと笑った。

「貴方のお口に合うとよいのですが」

 ベアトリーチェはそう言うと、席を立ってローズの菓子をひとすくいした。
 とろりとしたガナッシュが、白い器に広がっていく。

「あ、あの。ビーチェ様……?」
「言ったはずですよ。私が食べさせてさしあげると」

 断ることは許さない。
 優しい口調にそんな意思を感じて、ローズは身動きが出来なかった。

「食べたくはないのですか?」
「そ、それは……」

 ――食べたい、けれど。
 ローズは、顔を赤く染めてベアトリーチェから目を逸らした。
 食べたいけれど、異性に食べさせてもらうという状況は、恥ずかしくてl耐えられない。

「なんだかそういう顔をされると、私が貴方をいじめてしまっているようですね」
「?」
「加虐趣味はないつもりだったのですが、他の人間が知らない貴方の一面を知れるとあれば、少し楽しくなってしまいますね」
「び……ビーチェ様!」

 ローズは思わず声を上げた。
 冷静で思慮深い。誰からも信頼される年上の異性から、甘く微笑みながら甘い言葉をさ囁かれて、ローズは頭がパンクしてしまいそうだった。

「ふふっ。申し訳ございません。……でも、そもそも貴方が、私を夢中にさせるのがいけない」
「決闘中に私を助けようとされて結局はされなかった。私は、それが嬉しかった」
「……」

 ベアトリーチェはそう言うと、どこか寂し気に目を細めた。
 その姿に、ローズは胸が痛むのを感じた。
 長命であるという彼の瞳は、まるで長い時を生きるという精霊のように、温かく涼やかで、そして儚さを感じさせる。

「貴方が信じてくだされば、それが私の力になる」

 ベアトリーチェの人生と、周りの人間の人生は重ならない。
 彼はいずれ一人取り残される。
 そんな運命に苦しみ、縁談を断り続けていた彼が、今は自分に対して好意を示す――そこに込められた思いの深さが分からないほど、ローズは幼くはなかった。

 関係が深くなればなるほど、ベアトリーチェは残された後に傷を抱えるに違いない。
 それでも、婚約者として自分を選び、戦ってくれている。だとするなら、それに見合う『決意』をしめすべきだろうとローズは思った。
 完璧な形をしていた筈のチョコレートは、とろりとした内側を曝け出していた。
 甘い香りが部屋の中に充満する。胸やけをおこしそうな甘い香りに、ローズはほんの少しだけ眩暈がした。

 甘い、甘い。
 そのことが嬉しい筈なのに、何故か苦しい。
 このお菓子も、彼が自分に与えてくれる感情も。
 その理由は、ローズにはわからなかった。

「だから頑張った私に、一口だけご褒美をくださいませんか?」
「……わかり、ました」

 ローズは顔を手で覆って、ゆっくりと口を開いた。
 するとカチャリという音がして、ローズの手に体温の高い誰かの手が、そっと添えられた。

「駄目ですよ。顔を隠さないでくださいと、そう言いました」
「……ビーチェ、様」
「今は仕事中ではないのですから。私で照れている貴方を堪能させてください」

 ふわりとベアトリーチェが笑う。
 その笑顔を見て、ローズは呼吸を止めた。
 少しだけ目を伏せて、彼が差し出した菓子を食べる。
 とろけたチョコレートは口の中で広がって、自分の中に甘いものが広がっていくのをローズは感じた。
 微笑みを浮かべるベアトリーチェを見つめる。
 彼は――ベアトリーチェは、レオンとは違った意味で意地悪かもしれない。ローズはそう思った。

「貴方のいろんな表情を、この目に焼き付けさせてください」

 ローズは、自分に向けられた言葉の意味に気付いて、思わず彼の名を呼んでいた。

「ビーチェ様……」
 胸が締め付けられる。

「……やはり甘い、ですね」
 そんなローズを前に、ベアトリーチェは先程ローズに差し出したスプーンで、自分の菓子を食べた。

「……っ!」
「照れ過ぎですよ。ローズ様?」

 ベアトリーチェは静かに言った。

「これでその反応となると、貴方から口づけていただくには、まだ時間がかかりそうですね?」

 ベアトリーチェは、羞恥で撃沈しているローズに、ニッコリと笑みを作った。

「ビーチェ様は、意地悪です……」
「申し訳ございません。でもそうやって顔を赤くされて、拗ねたように『意地悪』だなんて言われても、『可愛いなあ』としか思えません」
「……」
「好きな子を苛めたくなる男の気持ちが、私にも少しわかってしまいました」
「…………ッ!」

 くすくす笑うベアトリーチェ。
 それが本当の『意地悪』なら、拒絶も出来るはずなのに。
 彼の言葉や行動からは、自分への好意しか感じられず、ローズはやめてほしいと言えない自分に気付いた。

 少しずつ少しずつ。
 自分の中に、よくわからない感情が増えていく。
 『意地悪』されて嫌なはずなのに、彼が幸せそうに笑うのは嬉しいと思ってしまう。
 その感情に名前を与えることが出来ずに、ローズはベアトリーチェから視線を逸らした。
 顔が赤いのも、心臓の鼓動が何時もより速いのも、きっとそう気のせいなのだ。

「ビーチェ様、今夜はありがとうございました」

 食事を終えたローズは、ベアトリーチェに見送られて門の前に立っていた。門の前には、公爵家の馬車が停まっていた。
 ローズは自分を迎えに来た馭者のミリアを仰ぎ見た。
 ベアトリーチェと過ごす自分をミリアがどう見ているのか、ローズは確かめたかったが、月の薄明かりに照らされた彼女の顔は良く見えず、ローズはほんの少し不安になった。
 赤の瞳が微かに揺れる。

「……貴方を帰したくないな」

 その時、ベアトリーチェはローズの手を引いた。
 予想していなかった彼の行動に、ローズはベアトリーチェに倒れ込んだ。

「び、ビーチェ様?」
 いつもは見下ろす顔が、今は見上げる顔だ。

「――もし、よければ。泊まっていかれませんか? ローズ様」
 ベアトリーチェは、ローズの耳元で甘く囁く。

「け……結構です!」
 現実に引き戻される。
 公爵令嬢としての振る舞いを心がけているローズだったが、動揺のあまり声は裏返っていた。

「それは残念」
 そんなローズに、ベアトリーチェは小さく笑った。
 体勢を崩したローズに手を差し出し立ち上がらせる。
 ローズはベアトリーチェの顔を見ることができず、ずっと下を向いていた。
 そんなローズの手をとって、ベアトリーチェはいつものようにその甲に口付けた。

「次にいらした時は、貴方が『はい』といってくださるよう、一層努力致しましょう」

 閉じた瞳をゆっくり開く。
 ベアトリーチェは、今度はローズの顔を見上げた。
 相変わらず赤いローズを見て、ベアトリーチェは微笑んだ。
 ベアトリーチェはローズが馬車までエスコートし、遠くなる馬車を見送りながらポツリ呟いた。

「……やはり、既婚者のテクニックは伊達ではないようですね」

 ベアトリーチェの口説き方は、アンクロットに確実に影響を受けていた。

 元騎士にして今は植物園の職員、メイジス・アンクロット。
 ベアトリーチェは知っていた。
 彼は亡き妻を思い再婚を考えてはいないようだが、実は幅広い年齢の女性から人気があることを。
 顔は中の上と言ったところなのだが、声や立ち振る舞い、紳士さが、周りの女性をひきつけてやまないらしい。

「ローズ様があんな顔をなさるなんて……」

 声を裏返らせたときの表情。
 いつもの照れと理性の理性で揺れる彼女ではなく、素で照れていた彼女の顔を思い出して、ベアトリーチェはくすりと笑った。 
 自分にだけ見せてくれる女性としての表情が、もっと増えてくれるといい。―――。
 自分の中に産まれる温かな感情に、ベアトリーチェは苦笑いした。まさか自分が、『彼女』以外に好意を持つ日が来るなんて、つい先日まで思いもしなかった。
 でも、だからこそ心が落ち着かないのもまた事実だった。

「早く。貴方を私の屋敷に迎えたい」

 一年間待つという約束が、他の男が彼女に付け入る隙を与える。
 ただ無理に彼女にそれを願うことを、ベアトリーチェ自身望むことは出来なかった。
 彼女の心が欲しい。これから、自分たちの前に誰が現れようと、その関係が崩れることのない確かな証がほしい。決闘で負けるかもしれないから選ばれるなんて、そんなことは絶対に嫌だった。

「指輪をお借りして言ってみたら、また別の反応がかえって来るのでしょうか……?」

 ローズに口付けた自分の唇を、ベアトリーチェは静かになぞった。
 そしてふと、とある手紙の内容を思いだして、彼は表情を険しくした。

「そういえば……あの男がなんのために時間を与えたかが気になるところです」

 決闘は明日再開される。その内容は、ローズが屋敷に来る少し前に、輝石鳥によって届けられた。

「契約獣参加での決闘、ですか」

 『決闘形式 契約獣参加での決闘』
 愛する鳥が運んできた手紙に記されていた内容は、ベアトリーチェの予測の範囲内だったが、彼には厳しい内容だった。

「ピィ」
「セレスト、貴方は連れていけませんよ」

 神々の住まうという至上の空の色。
 その名を与えた小さな鳥が、心配そうに自分を見ている事に気が付いて、ベアトリーチェはそっと鳥の頭を撫でた。

「お気遣いありがとうございます」

 カーテンは開いている。窓枠の向こう側には、美しい夜空が広がっていた。
 ベアトリーチェは一人、鳥を肩にとめたまま空を仰いだ。
 深淵を思わせる、夜の闇の中に光る月光。
 青い薔薇の咲く植物園で、一人ガラス越しに差し込む光を眺めていた頃の彼はもう居ない。
 今の彼には守るべき人間が居る。その相手は、この世界に今生きている。簡単に、誰かに奪わせるつもりはない。
 ――でも。

「……はあ」
 自分一人だけの力なら、ベアトリーチェは絶対に負けない。
 では、他の力を借りていいというのなら――?
 ベアトリーチェは強い。ただ地属性が強すぎる彼は、本来その魔力があれば結べるはずの空を飛ぶ生き物との契約が結べない。

「……全く。どうしていつもこうなのか」

 『地剣』ベアトリーチェ・ロッドは空を飛べない。



 同刻。
 窓の向こう側に見える月の光を、少年は一人見上げていた。
 体を抱くようにして窓辺に座り込む。そんな彼の手には、手に収まる程度の小さなものが握られていた。
 月の光を浴びてきらめく銀色の時計には、百合の花が刻まれている。

 沈黙。
 彼の部屋からは、物音一つしやしない。ただ動くのは、時計の中の針だけだった。
 がた、がたがたがたっ。
 そんな静寂を切り裂いたのは、窓を揺らす音だった。

「レイザール」

 静かで、優しい。窓を開いた彼は、そんな声で愛すべき生き物の名を呼んだ。
 カーテンが大きく揺れる。机の上に置かれた書類が、鳥の羽ばたきのせいで地面に落ちる。

「僕は平気だ。明日はよろしく頼むよ?」

 僅かな月の光では、彼の表情は読み取れない。

「――絶対に。ローズは渡さない」

 それでも、彼が呟くその声には、確かな意思が宿っていた。
 ドレスを纏ったローズは、契約水晶を手にベアトリーチェに伴って決闘場へと赴いた。
 相変わらず自信たっぷりな赤眼の王は、目があったローズを見てニヤリと笑った。

「そうしていると、君はまるでただの花のようだな」
「私の婚約者に話しかけないでいただけますか? 減ります」
「君も心が狭いな。それとも俺の力に怯えているのか?」
「昨日負けた貴方が、私に勝てるとでも?」

 自信たっぷりのロイを、ベアトリーチェはせせら笑った。
 昨日の決闘で、圧倒的な力を見せたベアトリーチェは、ローズを背に隠してロイを見据えていた。

「勝てるさ」

 しかしそんなベアトリーチェを前に、ロイは全く怯む様子は見せなかった。
 相変わらず、自分の勝利を疑わない。そんな傲慢さを宿す瞳を細めて、長身のロイはベアトリーチェを見下ろしていた。

「――こちらには翼がある」
 ロイはそう言うと、高く左手を上げた。

「来い。レグアルガ!」

 するとその背後から、彼がこの国にやってきたときに乗っていたあのドラゴンが、高い声を上げて現れた。
 鋼のような、硬質な鱗を持つドラゴンの身体はてらてらと輝き、翼を羽ばたかせるたびに風が起こる。
 ローズの長い髪が、強い風に大きく揺れる。乱れた髪をそのままに、ローズは瞠目した。

「契約獣のことなんて、一度も……」

 決闘がどのようにして行われるのか、ベアトリーチェは聞いていたはずだ。
 だというのにベアトリーチェが自分に教えてはくれなかったという事実に気付いて、ローズは自分の前に立っていたベアトリーチェの服を掴んだ。

「ビーチェ、様……」
 しかし、ベアトリーチェは振り向かない。
 ベアトリーチェが瞳に映しているのは、ロイと彼の契約獣だけだった。

「お前の魔法がどんなに優れていても、その魔法が俺に届かなければいいだけのこと」
 ロイは少し口端をあげ、低い声で言った。

「王の生き物を舐めるなよ」

 ドラゴンはロイの後ろに着地した。
 ロイが体を撫でてやると、ドラゴンは見目とは裏腹に気持ち良さそうな声を上げる。
 力あるものに従属する獣。
 その信頼関係は、決して彼が『王』だからではないということを物語っていた。

「契約獣も、決闘への参加は認められてはいる。君は、彼女に何も言っていないのか?」

 ベアトリーチェの服を不安げに掴むローズの姿を見て、ロイはまた笑った。

「これだけ体を張っても自分を選ばない彼女には、何も言えないということかな?」
「私はただ、愛する婚約者に余計な負担をかけたくないだけです」
「本当に君は、『お優しい』な」

 まるでベアトリーチェを嘲笑うような声だった。
 二人のやりとりをそばで見ていたもう一人の決闘者であるレオンは、自分の存在を示すかのように足音を立てた。

「おや。レオン王子。貴方はもう諦めたかと」
「ローズは貴方には渡さない」
 レオンは静かな、けれどはっきりとした意思の籠もった声で言った。ただその言葉を、ロイは真面目に受け取ろうともしなかった。

「ははははは。実に愉快。君が俺にかなうとでも!?」
「レイザール」

 一瞬唇を噛んだレオンは手を上げた。
 すると、太陽を隠すほどの大きな黒鳥が現れ、宙を旋回してレオンのそばに降りたった。

「なるほど。『最も高貴』とされる生き物。だが……」

 レイザールの美しさは、ロイの契約獣であるレグアルガとは全く違う。
 侵すことのできない漆黒。
 闇夜を思わせるその色は、この世界を生きる生き物の中で最も美しいと言われる、双璧をなす生き物のうちの一つだ。

 『氷炎の王子』――レオンがかつてそう持てはやされたのは、彼がレイザールの契約者であったことが理由でもある。

 力ある生き物は、力を持つ主を選ぶ。
 レイザールは、レオンの力の象徴でもあるのだ。
 だというのに、ロイはその生き物を見ても、顔色ひとつ変えなかった。
 いや、正確に言うと――どこか冷めた目で黒鳥を見たロイは、つまらなそうにこう呟いた。

「やはり君の契約獣は、フィンゴットではないんだな」
「?」

 ロイの言葉の意味がわからず、レオンは首を傾げた。
 レイザールと双璧をなすドラゴンは今は眠りにつき、卵から目覚めないという話なのに。
 ――この男は一体、何を言っているんだ……?
 訝しむレオンの隣で、ベアトリーチェは閉じていた目をゆっくり開いた。

「もう、いいですか? さっさと決闘を始めましょう」
「いいだろう」
 ロイは余裕たっぷりに言った。

 地上でしか戦えない場合と、飛行が可能な場合は、大きく戦闘が異なる。
 自身の契約獣の背に乗るレオンとロイに対し、ベアトリーチェはいつものように薔薇の剣を手にしていた。
 そんな彼を揶揄するかのように、ロイは飛び立つ瞬間、わざとドラゴンにベアトリーチェに向かって翼を羽ばたかせた。

「……っ!」
 飛ばされぬよう、剣を地面につきたて手を体を支えたベアトリーチェを、ロイは嘲笑った。

「空を飛べない人間は、地面に這いつくばっているのがお似合いだ」
「ビーチェ様!」

 ローズは婚約者の名を呼んだ。魔法を使う戦闘の前から、これでは分が悪すぎる。

「ロイ・グラナトゥム殿」
 そんなロイに向かって、レオンは訊ねた。

「私の弟に、やたらとかまっていらっしゃる理由を教えていただきたい」

 怒りを隠すような低い声。
 ローズには、レオンが今なぜそれを聞くのかわからなかった。
 レオンは――レオン・クリスタロスは、弟であるリヒトを嫌っているはずなのだ。そのはずの彼がなぜこの瞬間、わざわざ弟のことを聞くのか。
「こたえてください」

「傀儡にできそうな人間が王になる方が、御しやすいと思っただけだ」

 ロイはそう言うと、小馬鹿にするように笑った。
 レオンの表情は変わらない。けれどその手は、僅かに震えていた。

「……わかりました」
 レオンはそう短く言うと、さっと左手を高く上げた。

「レオン、様?」
 彼のもう片方の手は、ベアトリーチェの手を掴む。
 彼は自分の契約獣の背に、ベアトリーチェを乗せた。そして、自身もまたその背に乗った。

「れ……レオン様?」
「――飛べ。レイザール」
「何の真似だ? レオン・クリスタロス」
「僕は、この国を守る王子だ」
 その声は時期国王に相応しく、王の威厳を宿らせる。

「名声なんて必要ない。誰に非難されても、否定されても。僕はこの国を……ローズを選ぶ。貴方のような人に、ローズは……。ローズは、渡さない!」
「レオン、様……?」

 ベアトリーチェは空を飛べない。
 彼は慣れない空の上で、振り落とされないよう鳥の背を掴んでいた。

「レイザール。僕の魔力の全てを与えよう。かの王から、僕らを守る壁を作れ」

 この世界に、『最も高貴』とされる生き物は二ついる。
 全てを阻む闇属性のレイザール、光の祝福を与えるフィンゴット。
 ただその二つの生き物は、強い力の代償に、どの契約獣よりも主に魔力を要求する。
 力ある生き物は力を持つ生き物を選ぶ。
 一説には、彼らには主の魔力を自分の中で増幅させる機能を持つ力があるといわれている。

「レオン様」
「単純な魔力だけなら、君の方が強い筈。これで彼には勝てるだろうね?」

 レオンはベアトリーチェの方を振り返りはしなかった。
 レオンからは敵意を感じず、ベアトリーチェは静かに頷いた。

「……はい」
 レオンの助力を得て、ベアトリーチェはロイを見据えた。
 空中戦対空中戦ならば、ベアトリーチェにも勝機はある。

「私の勝ちです」

 ドラゴンから振り落とされたロイに突きつけられたのは、鋭い剣の切っ先だった。
 だが、ベアトリーチェの肩は上がっていた。
 一方、負けたはずのロイにはまだ余裕があった。
 それを物語るかのように、武器を向けられているというのに、ロイの表情はいつもとそうかわらなかった。
 まるでこれまでの全てが、盤上の遊戯でてもあるかのように――そんな余裕を感じさせる雰囲気は、どこかいつものレオンと似ていた。

 しかしレオンとロイには、大きな違いがあった。
 それは二人の持つ気質が、どれほどの時をもって培われたかによる差だ。
 レオンとギルバートは、十年間眠っていた。
 二人は当時から、子供らしくない子供だった。だからこそ周囲は理解していないが、この十年眠り続けた今の二人は、十年前の心そのままに、姿が変わっただけに過ぎない。
 加えて二人の年の差は、ロイにレオンとは異なる威圧感を与えていた。

「――それはどうかな?」
「え?」
「この戦い、勝つためのものではない。これで手の内はわかった。やはり君は、空を飛べない」
「……!!!」
「勝負など、最後に勝てばいいだけの話。暇つぶしはここまでだ」
「……貴方は。最初から、そのつもりで」

 ベアトリーチェの言葉に、ロイは不敵な笑みを浮かべた。

 幸運・魔法・精霊晶。そして、空を飛べるかどうか。
 最後には勝てばいい決闘で、三回行われたこれまでの戦いは、小手調べに過ぎないと言われたベアトリーチェは顔を顰めた。
 そしてベアトリーチェの横で、ぐらりと何がが倒れ込んだ。
 ロイを睨んでいたベアトリーチェは、少女の悲鳴に我に返って、漸く異変に気が付いた。

「――レオン様! レオン様!」
 それは、この勝利の代償。

「挑発にのせられるとは馬鹿な男だ。『偽物』風情が出しゃばるな」 
「――レオン、様……!」

 ベアトリーチェは、レオンの名を呼んで駆け寄った。
 かつて自分が主君に望み頭を垂れたその相手は、国と少女を守るために、魔力を枯渇させて意識を失った。

◇◆◇

「……ローズ?」
「お体は、大丈夫ですか?」

 レオンが目を覚ましたのは、彼が倒れて三時間ほど後のことだった。
 そばで光魔法をかけ続けていたローズは、幼馴染《レオン》の無事を見てほっと息を吐いた。

「倒れたのか……僕は」

 天井をぼんやりと見つめる。まだ体に力が入らないのか、レオンは動けないようだった。

「はい。決闘の、その後すぐ」
「……そうか。――全く、情けないな。今の僕は」

 『今の僕』。彼の言葉の意味に気付いて、ローズは何も言えなかった。
 『氷炎の王子』――そう持てはやされた過去のレオンは、目覚めてからの彼とはあまりにかけはなれている。
 ただそれは、レオンのせいではないのも事実だった。
 眠り続けたこの十年、彼は何も出来なかったのだから。 
 ただそれを考慮してくれるほど、世界は甘くないことをレオンは知っていた。
 だから彼は目覚めてから、血の滲むような努力した。
 それでも、駄目なのだ。月日はそう簡単には取り戻せない。

「あの王は、僕が気に入らないらしい」
「あの方は、一体何を考えていらっしゃるのでしょうか……?」

 ローズの呟きに、レオンは苦笑した。ローズの言葉にはレオンも同意だった。
 レオンを『偽物風情』と罵ったり、ロイの行動には謎が多すぎるのだ。
 まるで自分達の知らない意図をもってこの国に来て、そのために戦っているようにも――ただそれがなんなのかは、ローズもレオンも思いつかなかった。
 うーんとローズが腕を組んで顔を顰めていると、自分をじっと見つめる瞳に気がついて、ローズは顔を上げた。

「なぜ私の顔をまじまじと見ていらっしゃるのですか?」
「……こうやって、君とちゃんと話すのはいつ以来だろうと思って」

 レオンの声はほんの少しだけ、いつもより柔らかかかった。
 いつもの彼は威圧的で、隙あらば婚約者のいるローズをなんのためらいもなく口説いてくるというのに。
 相手が弱っているせいか調子が狂ってしまい、ローズはレオンから顔をそらした。

「……それは、いつもレオン様が、私をからかわれるからでしょう?」
「……ああ。そうだ」

 くすくすとレオンは笑う。やっぱり自覚があるのか、この人は――……。 
 レオンに対するローズの心象は、あまり良いとは言えなかった。
 ほら、やっぱり。いつも私を口説いてくるのは、私をからかっているだけなのだ。そんなことを思って不機嫌になるローズに向かって、レオンは先程より小さな声で、ローズに尋ねた。

「でも……本当に、それだけだった?」
「レオン様?」

 その声は、いつもの彼の声とはどこか違うように彼女には思えた。

「……ねえ、ローズ。君の手を、握ってもいいかな?」
「いつもは勝手に行動されるのに、どうして尋ねられるのです?」
「……なぜだろうね」

 レオンは苦笑いした。
 力の入らない手を精一杯持ち上げて、愛し気に手に触れる。
 いつもは偉そうだとか意地悪だとかしか思えない相手が、弱々しく自分の手を握って、どこか安堵したような笑みを浮かべる。その姿を見て、ローズは怒ることができなかった。

「君の手は、温かいな」
 ポツリ呟かれたその言葉は、やけにローズの耳に残った。

 ベッドに横になるレオンの手をローズが握る。そんな時、とんとんと音がして、部屋の扉が開かれた。

「ローズ様」

 中に入ってきたのはベアトリーチェだった。
 ローズは思わず、レオンに握られていた手を離した。
 ベアトリーチェはローズの行動を見て少し目を伏せたが、責めるようなことはしなかった。

「王族に何かあったとき、貴方は彼らを救う役目を負っている。貴方は私の婚約者ですが、その役目もになっている。今日は、レオン様についていてください」

 『光の聖女』が来る前は、ローズが『光の巫女』の代わりだった。
 ただローズは、王子《リヒト》の婚約者という立場ゆえに、神殿入りしなかっただけだ。
 神殿の巫女は、本来結婚をするのを望まれていない。現国王《リカルド》の妹だった『光の巫女』は、半ば駆け落ちのような形で子を産んだだけで、その後は神殿に身を捧げている。
 彼女の息子である前騎士団長ローゼンティッヒ・フォンカートが、母から引き離され父親の家で育てられたのもそのためだ。

「はい……」
「――レオン様」

 ローズは、何故かベアトリーチェを真っ直ぐ見ることが出来なかった。ベアトリーチェはそんな彼女を責めることなく、レオンを見て言った。

「今回のこと。私はレオン様の評価を、少し改めようかと思います」
「……」
 決闘中の婚約者の言葉にしては、ベアトリーチェは少し異様だった。
 評価を改めるという言葉の真意がわからず、レオンはベアトリーチェを見つめた。

「貴方は、本当はローズ様のことを……いえ」
 ベアトリーチェは言葉を続けようとしたけれど、険しい表情《かお》をしたレオンに気付いて口を噤んだ。

「今の私が、貴方に言えることはありませんね」
 ベアトリーチェはそう言うと、レオンに頭を下げた。
「では、私はこれで」
 ベアトリーチェはそう言うと、二人の居る部屋を後にした。



「ミリア……と、ユーリ?」
「お迎えに参りました」

 その日ローズが城から帰ったのは、夜も深まり始めた時間だった。 
 城門の前、鬼灯の形をした明かりの灯る下で、その男は立っていた。
 ユーリ・セルジェスカ。
 彼はローズのもう一人の幼馴染であり、今は彼女が所属する騎士団の、騎士団長でもある。

「ローズ様。お手を」
 ローズはユーリに言われるままに手を伸ばした。
 けれどその時、彼女は自分の胸が少しざわつくのを感じた。
 差し出される手の温かさに、昔よりも熱を感じる。

「どうかされましたか?」
「い、いえ。……それより、ユーリが何故ここに?」
「ビーチェに代わりを頼まれたので」

 ユーリは当然のようにそう答えた。
 その返事に、ローズはドキリとした。
 自分を迎えに来たのがベアトリーチェでなくてどこか安心していたというのに、彼のはからいと言われては、意識せざるを得ない。

「ローズ様。どうされたのですか?」
 彼が居ないところでも彼を感じる。その時間の積み重ねが、ローズは自分を変えていくように感じられた。

「顔を赤くされて、どうされたのですか?」

『君の手は、温かいな』
 最近やけに高鳴る胸の音に気づくたび、ローズは自分の心がわからなくなった。
 他者《だれか》を本気で異性を意識したことなんて、ローズはこれまではなかったように思った。だから――今はその変化に、心が追いつかない。
 そして今、夜の道を走る馬車の内は、ローズとユーリの二人だけだった。
 ローズがユーリを直視出来ず下を向いていると、突然馬車が大きく揺れた。

「危ない!」

 その瞬間、ユーリはローズに手を伸ばした。
 おかげで、ローズが予測していたような衝撃はなかった。

「……!」
 ユーリが、ローズの体を支えてくれていたためだ。
 あの日ローズが魔王を倒し、空から墜落した時に支えてくれたのと同じように、ユーリはローズを守っていた。

「ローズ様、大丈夫ですか?」

 ユーリの唇が目に入る。
 抱きしめられた手の強さに、ローズは体を強張らせた。

「申し訳ありません。あ……ありがとうございます。ユーリ」

 ベアトリーチェの体は、小さいながらもローズと比べると硬い。
 ユーリの硬さに、自分とは違うものを感じて、ローズは顔を赤く染めた。
 これまでの、ローズのユーリに対する反応とは明らかに異なる――それははじめて、ローズがユーリを意識した瞬間だった。

「……ッ」
 その瞬間、離れようとしたローズの体を、思わずユーリは抱き寄せていた。

「えっ?」
 ユーリの思わぬ行動に、ローズは目を瞬かせた。

「あ、あの。ユーリ?」

 ローズは、ユーリの腕から逃れるために彼の体を押した。
 昔ならなんとも思わなかった性別の違いを感じて、ローズは更に動揺した。

「――ローズ様、お願いします。どうか私に時間をください。私は……私は必ず、貴方に相応しい男になってみせる」

 熱のこもった力強い声。固くて大きな体に抱かれる。
 強く打つ。心臓の鼓動の音がする。
 ローズは息を飲んだ。
 婚約者がいる自分が、他の誰かに心を揺らすなんて、本当はいけないことなのに。
 以前より誰かを意識してしまう自分に、自分の心がまたわからなくなる。

「ユーリ……?」
「お慕いしています。ずっと。貴方が私に、赤い紐を私に結んでくださったあの日から。――貴方を。貴方だけを」

 ユーリはそう言うと、力を緩めてローズを自分から離し、ローズへと顔を寄せた。
 ローズは思わず唇を手で塞いだ。
 婚約者であるベアトリーチェにすら許していない場所を、ユーリに許すわけにはいかない。

「ローズ様が恐れていらっしゃるようなことは致しません」

 目を瞑るその向こう側で、ローズはユーリが微かに笑ったような気がした。
 その声が、少し傷付いているように聞こえたのは、きっと勘違いなどではない。
 ユーリはそう言うと、ローズの瞼に静かに口付けた。
 瞼へのキス。その意味は憧憬。

「ユーリ……」
「ローズ様。貴方のお心が私に無くても、貴方に憧れることだけは、どうかお許しください」
「……っ」

 ユーリはローズを拘束する手を解いた。
 ユーリの体からローズは離れる。躊躇うように触れた唇の熱は、もうそこには残っていない。
 その時ふと、自分の名を呼ぶベアトリーチェの声が聞こえた気がして、ローズは胸を抑えた。
 『好き』だなんて言葉は、婚約者がいる自分が与えられていい言葉ではないはずなのに。
 それでも、震える誰かの手をすぐに拒むことができないのは、それが彼らにとって初めての感情だと、そう思ってしまうからだ。
 誰かが大切に抱えてきた感情を、否定する程の強い思いが、今の自分にはないことに、その時ローズはやっと気がついた。

 ――私は、この国を愛している。それ以上のものを作れない。人にどんなに愛を囁かれても、一番好きはわからない。

 兄を永遠に失うと思った日。
 大切な人を、自分に光を与えてくれた人が死ぬと思った日に宿った強い思いは、自分から彼らのように、誰か個人《ひとり》を思うということを奪ったのかもしれないとローズは思った。

 ――『好き』ならばよくわかる。でも、『愛』はわからない。

 彼らが自分に求めるのは後者の感情だ。
 だからローズは苦しくなる。
 たった一人だけを選ぶことができたら、そしたら自分は苦しくなんてないはずなのに。その感情だけが、ローズにはわからなかった。
 ふと、頭がずきりといたんだ。

『――薔薇の騎士』
 ローズの頭の中で、『誰か』が彼女を呼んだ。誰かがこちらに笑いかける。
 白いドラゴンに乗るその人が、こちらに向かって手を伸ばす。
 『彼』の名前が思い出せない。『彼』の顔がよく見えない。知らない風景。知らない場所。それでも――確かに知っている、そんな気がする。

『空を飛べない君に、俺がこの国を見せてやる』
 その声は、甘く優しく。
 ローズには声の主は、どこか兄と似ているような気がした。知らないはずのその声に、ローズは胸が高鳴るのを感じた。

 ――どうして?

 ローズにはわからない。
 自分は、空を飛べるはずなのに。白いドラゴンは、この世に一つしかいないと聞かされたばかりなのに。
 金色の髪が揺れる背に、そっと『誰か』が手を伸ばす。
 上空から見下ろしたその風景は、ローズの愛するこの国と、よく似ているような気がした。
「ビーチェ様に……接触禁止?」
「『レオン様がいらっしゃらなければ勝てなかった』そう、判断されたということでしょう」
「そんな……」

 契約獣参加の決闘が行われた翌日、公爵家に神殿から届けられた書類を読み上げる、ミリアの表情は険しかった。
 つまり昨日の決闘は、『引き分け』とみなされたということ。
 不安そうなローズに、ミリアは更に穏やかな気分ではいられなかった。ベアトリーチェ不在の中、ロイがローズに会うことは認められたのだ。
 そして特例として、ロイと同じ立場であるレオンが二人っきりであっていたということもあり、ローズと二人で話をしたいというロイの申し出が認められた。

「そう怯えるな。ローズ嬢」
「……」

 ロイがローズを呼び出したのは、人の少ない庭園の一角だった。
 相変わらず何もかもを見通して、傲慢そうにも聞こえる話し方は、ローズはやはり苦手だと感じた。

「ずっと思っていたが、君はどうやら自分の立場を理解していないらしいな」

 口を噤んだままローズが彼から目をそらしていると、ロイは強い口調でローズを責めた。

「国を愛し、そのために自らを犠牲にすることを美徳とし騎士になったというのなら、君の行動は、あまりにその心と乖離している」
「?」
「力ある者は、それを還元させることを求められる。その上に、地位は成り立つ」

 彼の言葉を、ローズは否定はしなかった。
 ローズがベアトリーチェを尊敬しているのは、その言葉が理由だったから。
 ベアトリーチェはこの国を愛している。多くの民に信頼され、彼の周りには笑顔が溢れている。幸運の葉を多くの人に贈られる彼だからこそ、ローズはベアトリーチェに好意を持った。

「俺は王だ。国を守るために血を繋ぎ、そして繁栄をもたらすことが、この命の宿命だ。君も、俺も。王侯貴族に生まれたものは、全てその責任を背負っている」

 ロイはそう言うと、ローズの手を強く握って、ローズを近くの木に追い込んだ。

「国のために結婚する。それのなにがおかしい? 国を守ることが俺たちの義務だ。君も、君の周りの人間も。立場をわきまえて行動すべきことを何もわかっていない」

 赤い瞳の視線が交差する。
 ローズは痛みのあまり顔を顰めた。魔法に男女差がなくても、単純な力比べなら、どうしても力の差は存在する。

「王侯貴族の婚姻など所詮そのようなものだ。力あるもの同士の結びつき。王に望まれた者は逆らうことを許されない。君の役目は望まれたとおりに行動することだ。誰も傷つけたくないと思うのなら、さっさとその身を俺に差し出せばいいだけのこと」

 ロイは、拘束したローズの耳元で冷たい声で尋ねた。

「――どうせ君は、本当は彼を好きでも何でもないんだろう?」
「……!!」
「話を聞けば、彼は君の答えを待っているだけに過ぎないらしいじゃないか」

 ロイはまた、ローズを馬鹿にしたように笑った。
 そしてこの場にいないベアトリーチェのことも、彼は嘲笑っているかのようにローズには感じられた。

「彼が傷付くのは君のせいだな。好きなら結婚すればいいだけの話。君はこの国にとどまりたい。その理由に彼との婚約が必要で、君は彼を利用しながら、褒美はあたえてやらないらしいな?」

「――私、は」
「恋だの愛だの馬鹿らしい。所詮君が守っているものなんて、やがて失われるものに過ぎない。一度失ってしまえばもう価値はなくなる。最初にこだわりたがる人間は、愚かしいとしか言いようがない」

 ロイの赤い瞳は燃えさかる炎のような色をしているのに、その瞳には、なんの感情もないようにローズには思えた。
 あまりに冷淡だ。
 そんなロイの顔が、ゆっくりとローズに近付く。

「あの男が無駄に大事にしている君の最初とやらを、俺が奪ったと知ったら、あの男はどんな顔をするんだろうな?」

 ローズは思わず目を瞑った。

 ――嫌、嫌。一番最初は、好きな人とがいい。こんなふうに強引に、この人に奪われるなんて絶対嫌。

 だがローズは、ロイに対して魔法を使うことが出来なかった。
 もし自分の魔法でロイを傷付けてしまったら――クリスタロスとグラナトゥムの間に荒波を立てることは、ローズには出来なかった。
 少しでも動いてしまえば唇が触れる距離。ロイはその場所でピタリと動きを止めると、ぎゅっと目を瞑るローズを、冷めた瞳で見つめた。
 その時だった。

「そこまでだ!」

 張り詰めた空気を割くように、彼の声は響いた。

「挑戦者と婚約者の、これ以上の接触は認められない」
「……リヒト王子」

 ロイは彼の名前を呼んで、ローズから体を離した。
 自分を睨みつける無力な王子の瞳。そして自分に怯える少女の姿を見て、ロイははあと一つ溜め息を吐いた。

「興が削がれた」
 ロイはローズに背を向けた。

「ローズ!」
 ロイがローズから離れるのを見て、リヒトは彼女に駆け寄った。

「リヒト、様……」
「……わっ!」
 ローズは、自分に駆け寄ってきたリヒトの名を呼ぶと、彼の背の服を掴んで顔を埋めた。

「お、おい。ローズ、何して」
 手の震えが止まらない。でもそれを、ローズはリヒトに見られたくはなかった。
 怖かった。本当に、怖かったのだ。
 自分が選ぶべきはベアトリーチェ。
 でも、幼馴染は大切で。そんな彼らが自分に向けてくれる感情を、ローズはすぐには否定なんて出来ない。

 自分の『好き』は横並びで、彼らが向けてくれる感情に、自分は返せないと知っているから。
 だったら、愛する人たちが一番祝福してくれる相手を選ぶことが、どうして間違いだと言うのだろう――?
 だがローズのその思いも何もかもを、赤い瞳の王は否定する。
 ローズは唇を噛んだ。
 
 誰も選べない。何も捨てられない。そのことが、周りを傷付ける。
 でもだからといって、ローズにはどうすることも出来なかった。

 ――この心は、まだ『恋』がわからないのに。

「ローズ? ……どうしたんだ?」

 異性として扱われるたびに、心が揺れているのがわかる。
 それは、自分の心が人の心を鏡のように移すからだ。
 かつて恋を映さなかったはずの心。心に覆っていた壁を、最初に壊したのはベアトリーチェだった。
 別に誰か一人だけに、心が奪われているわけではない。
 誰かの気持ちを、弄びたいわけじゃない。 
 ただ大切なものが多すぎて、どうしていいかわからない。
 自分はただ、自分が愛するこの国を、この国の民を守り愛していたいだけ。

「申し訳ございません。もう少し、もう少しだけ……このままで……」

 ローズはリヒトの服を掴んで言った。 
 いつも自分の前を歩いていたはずの相手が、自分の背で声を殺して泣いている。その事実に、リヒトは心が落ち着かなかった。

「ローズ」
 リヒトはそっと手を上げた。
 彼女に手を伸ばそうと思ったが、背中で泣かれていては、その頭を撫でてやることもリヒトには叶わなかった。
 リヒトは静かに手を下ろした。
 そしてローズが泣き止むまで、リヒトはずっとそうしていた。

 自らの秘密を、『自分』という存在を開示するときに、人と人は繋がりを深くする。
 人が人に弱さを見せるのは、それを受け入れてほしいと思うからだ。
 弱さを受け入れてくれる相手だと、心の何処かで願うからだ。
 自分が一番辛いときに、手を伸ばしたくなる。そばにいてほしいと、そう願う。
 だとしたらそれは。その感情は、なんと呼ぶべきなのだろう――? 
 
 二人を影からみていた人の少年は、紫水晶《アメジスト》の瞳を煌めかせてポツリ呟いた。
 それは彼が幼い時から、ずっと心に抱いてきた感情。
 差し出されずに枯れていく。花の行方を彼は知る。

「……これだから、感情なんていらないんだ」



「もう、大丈夫か?」
「はい」

 ローズが泣き止むまでのしばらくの間、リヒトは無言で彼女に背中を貸していた。
 けれど彼女が泣き止んで、自分の背から手を離すと、困ったような声でリヒトはローズに諭した。

「ローズ。次泣くときは、俺じゃなくてアイツのところじゃなきゃ駄目だ。アイツは、お前のために戦ってるんだから。それに」

 リヒトは一瞬、言葉を詰まらせた。

「まだ決めてはないんだが、もしかしたら俺は、この国を出るかもしれない」
「え?」

 ローズは目を瞬かせた。
 その瞳は以前より大人びて、リヒトは今は真っ直ぐに、前を見据えているようにローズには見えた。
 兄たちが眠りについてからローズの名声が高まる度に、リヒトは少しずつ変わっていった。自分の変化に、リヒトがどこか不安そうにしていることもローズは知っていた。そしてそのすれ違いを解消する方法がわからないまま、ローズは婚約破棄を言い渡された。
 レオンとギルバート。
 二人が目覚めてからのリヒトは、少しずつだが『昔の彼』を取り戻しているようにローズには思えた。

 魔法の研究も、相変わらずガラクタを量産しているようにしか見えないが、以前よりも顔色がいいことはローズは気が付いていた。
 リヒトは魔法が苦手だった。
 でも、それでも精一杯努力して、涙を拭いながら本に向かう姿を、ローズはずっと見守って来たつもりだった。
 いつか彼が、自分とは違う誰かを選んでも、そんな彼を見守る日々に終わりなんて来ないのだと、ローズは心の何処かで思っていた。

 彼はこの国を愛している。
 だから彼がこの国を出ることはないと、ローズは信じて疑わなかった。
 ――けれど。
 リヒトの瞳を見て、ローズは何も言えなかった。その瞳には確かに、過去たる決意のようなものが感じられた。

「……そんな顏、するなよ」

 何故か兄たちが眠りについてしまった頃のように、不安げに瞳を揺らすローズにリヒトは言った。
 まさかいつだって強気な彼女が、こんな表情をするのをまた見る日が来るなんて、リヒトは思ってもみなかった。  
 けれどどんなに幼馴染が自分との別れを惜しんでくれているように見えても、リヒトは自分の決心を変えようとは思えなかった。

 ここ数日の決闘を見て、リヒトは気付いてしまった。
 兄はこの国を思っている。そして多分、ローズのことも。
 国を守りたいのは本当だ。でも魔法が使えない自分が、果たしてこれから彼のような王たちを相手にしたときに、守れるかというとそうではない。
 自分は、王には相応しくないのかもしれない。
 力の差を思い知らされる。
 自分には所詮、彼らと同じ力はない。
 自分の命をかけてこの国を、ローズを守ろうとする兄を、リヒトは陥れようなんて思えない。
 兄の行動は、自分からこれまでの立場を奪う。でもそれが、この国のための正解ならば。
 ――要らないのは、自分の方だ。

「魔法の研究をしようと思うんだ。王様にはなれなくても、この国を支えられるようなそんな研究を。そのためには、自分は外にでるべきなのかもしれない」

 ローズは何も言えなかった。彼がこの国からいなくなる? そう思うと、何故か泣きたいくらい胸が痛かった。

 ◇◆◇

 赤い色を纏う王の部屋の隅で、首輪を付けた少女はまるで、大きめの籠の中に座っていた。
 周りには食べ物が散らばっていて、少女は床に落ちた果実を拾って、しゃくりと齧る。
 青年はいつものように、本を声に出して子どもに読んで聞かせていた。
 難しい本でさえ彼がそうするものだから、子どもはあまり字を読むことは得意ではないのに、難しい言葉も知っていた。
 いつものような、穏やかな時間が流れる。
 その時、窓の外から、小鳥が部屋の中へと入って来た。
 輝石鳥と呼ばれる鳥には、紙が結わえられていた。

「さいごの一つ、ですか?」
「ああ」
 子供の問いに、青年は頷いた。

「たみは、おきさきさまをのぞんでいます」
「……わかっている」
 吐き捨てるように言う。
 彼はため息を一つついて、再び手の上の紙に目をやった。

「これで全て揃った。君は俺に勝てない。ベアトリーチェ・ロッド」

 自分が持たない全ての属性の精霊晶が集まったという旨の手紙を見て、王になるべくして生まれた男は、赤い炎のような瞳で冷たく世界を見つめていた。


「一人で戦わせてもらいたい」

 次の決闘で、大陸の王ロイ・グラナトゥムは、前回の決闘でベアトリーチェに故意に力を貸したレオンに下がるよう言い渡した。
 本来、自分一人で勝たねばならない戦い。ベアトリーチェがレオンに力を借りることは、反則とみなされた。

「かしこまりました」

 ベアトリーチェは静かに返事をした。
 魔力が完全に回復していない、ふらつく体を引きずっていたレオンは、ロイを前に震える拳を握りしめた。

「――お前は何も出来ない。レオン・クリスタロス」

 嘲笑《あざわら》うかのようなロイの声は、ローズはやはり好ましいとは思えなかった。

「時間をやろうか? ベアトリーチェ・ロッド。空を飛ぶ生き物と、契約を結ぶ時間を」
「……っ!」

 最後の決闘の開始は翌日の午後に決まった。
 だが今更猶予を与えられても、ベアトリーチェのような地属性に特化した人間が、飛行生物と契約するのは難しいのは明らかだった。
 ロイだって、それはわかっているはずなのに。

「ビーチェ様……」
 ローズは不安げに婚約者を呼んだ。

「大丈夫。貴方は心配しないでください」
 ベアトリーチェはローズの手を握ると、いつものように紳士的な優しい笑みをローズに向けた。



 ベアトリーチェが城を去り、ロイはローズと二人きりになった瞬間、彼女の手を痕が残るくらい強く握った。

「ローズ・クロサイト」
「離してください!」
「俺が君と過ごして良い時間はまだ残っている。君に拒否権はない。君はこれで私の妃になると決まったようなものだな。よくしゃべるその口を、今すぐにでも塞いでやろうか」
「おやめください!」
「俺に抵抗するつもりか? ハッ。馬鹿が。契約の出来ないあの男が、俺に勝てるはずがない。君は俺のものだ。俺のものをどう扱おうが、俺の勝手だろう」
「……!」

 この方は、やはりそれをわかって――……。
 ローズはロイを睨み付けた。
 人がどうあがいても埋められない欠点を馬鹿にするなんて、嫌悪に値する。

「諦めろ。石は揃った。あの男が俺に勝つのは、翼を得てももう無理だ。『精霊晶』――俺はあれから、俺の持ち得ない属性のすべてそれを集めた。今の俺は君と同じく、全ての属性の魔法を扱える。所詮この世界の才能なんて、どうやら金で買えるらしいな」

「え……?」
 ローズはベアトリーチェを悪く言うなと、ロイに反論するつもりだった。けれど彼から与えられた情報のせいで、全て頭から抜け落ちた。
 もし本当に彼が自分と全属性を使えるのだとしたら、彼の言うように、ベアトリーチェに勝機は無い。
 空中戦だってもう無理だ。ベアトリーチェが彼に勝てていたのは、属性と回復力だけだったというのに。

 結局必要なのは、魔力《ちから》のみ。
 そんな言葉が、ローズの頭の中に浮かぶ。

「ローズ・クロサイト。君に指輪は必要ない。君に剣は必要ない。君はただ花として、俺の隣にいればいい。……君は『薔薇の騎士』なんて呼ばれているらしいが、そう強気でいられると、その心の心を暴いてやりたくなるな」

 驚きのあまり声の出せないローズを、ロイは嘲笑った。

「知っているか? 昔、人為的に魔法を発現させるために、とある研究が行われたんだ。古代魔法には痛みを忘れるための忘却魔法があったと聞くが、逆の発想もまた面白いものだろう?」

 ロイはローズの顎を掴んで、無理矢理自分の方を向かせた。
 目と目が合う。しかしやはり彼のその瞳には、何の熱も籠っていないようにローズには見えた。

「――何、を」
 陽の入らない暗がりに、ずっと置かれた陶器のような――そんな冷たさを感じて、ローズは息を飲んだ。

「高潔な薔薇の騎士か。全く呆れたものだ。何も選べないだけの人間を、どうして人はそうもてはやすのか。馬鹿馬鹿しい。この国の人間は総じて愚かだ。誰からも愛され守られる――だからこそ、綺麗でいられる。汚れを知らぬ君のような人間を、屈服させるのは面白そうだ」

 まるで物を放るかのように、ロイはローズの体をはらった。
 ローズは受け身をとったが、背後にあった木にぶつかって肩をおさえた。

「……っ!」
 考えが纏まらないせいで判断が鈍る。
 そんなローズを、ロイは無感情に見下ろしていた。
 ロイは知らない。ローズがどんな思いで、今の場所に立つことになったのかを。
 兄であるギルバート、そしてレオンが眠りについていた十年のローズの想いを、ロイが理解できるはずはなかった。
 ただ特別な魔力《もの》を与えられ、それをただ感受する人間にしか、ロイにはローズは映らない。

「闇の魔法よ。騎士がその心に宿す、翳りを暴け」

 それは、ローズが知らない魔法だった。
 彼の詠唱と同時に、黒い糸のようなものがローズの体を縛った。
 それと同時に、心臓をえぐられるような痛みが、ローズを襲った。

「……!!」

 ばちばちと黒い電流が、糸を通してローズに伝わる。そして糸は集約された先で、一つの映像を紡ぎ出した。
 それはローズの始まりの記憶。

『お兄様! レオン様!』
 公爵令嬢だった彼女が、騎士となり魔王を倒すことになった過去の記憶。
 自分を信じ導いてくれた人を、永遠に失うと思った悲しみの瞬間。
 ローズは嘗て感じた胸の痛みに、身が引き裂かれるような思いがした。
 そして、場面はその後すぐに切り替わった。

 不思議なことに、ローズの体は空中を落下していた。
 このままでは死んでしまう。
 ローズは魔法を使わねばと思ったが、何故か風魔法は使えなかった。
 魔王を討伐した時の記憶ではない。
 ではこれは、いつの記憶なのか――ローズは不思議に思ったが、答えはすぐには浮かばなかった。
 代わりに、一つの推測が頭に浮かんだ。
 もしかしたらこれは、『昔の自分』の記憶なのかもしれない、と。
 魔力は魂によって引き継がれる。
 だとしたら自分は、前世は「これ」が原因で死んだのかと――。
 ローズがそう思っていると、墜落する体を、『誰か』が抱きとめた。

『君は、一体何を考えているんだ!』
 珍しく声を荒らげられ、びくりと体を震わせる。

『……君を失うかと思った。もう二度と、こんな危ないことはしないでくれ』

 顔が見えない筈なのに、ローズには彼が、泣きそうな顔をしているのように思えた。

 ――大丈夫。大丈夫、だから……。

 手を伸ばして彼に触れたい。そう思ったけれど、彼に抱かれているのは自分であって『自分』ではないことも、ローズは理解していた。
 映像がまた変わる。今度の場面は、空中ではなかった。

『見てくれ。薔薇の騎士!』
 花の咲く春の丘で、『誰か』に呼ばれて振り返る。笑うその人が手を上げると、空いっぱいに鳥が羽ばたいた。

『これは一体……』
『驚いたか?』
『?』
『紙の鳥が空を飛ぶ。面白い魔法だろう?』

 面白い? 違う。あまりも子供じみている。 
 その理由で、わざわざ高価な白い紙を使う事は誤りだ。ローズの頭の中に、そんな言葉が浮かんで消える。

『……資源の無駄です。一体なぜこんなことを?』
『だって』
 呆れたような、ため息混じりの少女の言葉に、彼はどこか悲しそうに声を漏らした。

『……君が、笑ってくれるかと思ったんだ』
『え?』
 その言葉にローズの胸が高鳴る。
 泣きたくなるほど嬉しいのに、その理由がわからない。
 胸が苦しくて、呼吸が上手く出来ない。

「これは……」
 まさか。これは――『彼』なのか?
 ロイは思わず一歩前に足を踏み出した。
 ずっと掴めなかった『友』の行方。
 『前世の記憶がある』なんて、人に話して探すことは諦めていた。だが今、その手がかりを見つけた気がして、ロイは目を見開いてその光景を見つめていた。
 彼女が何かを知っているなら、聞き出せばいい。いいや、彼女自身が覚えていなくても――魂に残る記憶を引き出せば、『彼』にまつわることがわかるかもしれない。
 ロイにとって大切なのは、ローズよりもローズの中にあるかもしれない『彼』の記憶のほうだった。
 ロイはローズに対する魔法を強めた。ローズの顔が苦痛に歪む。

「君の魂の記憶を。記憶の中の『彼』を教えてくれ」
「……っ!」

 ローズは声にならない声を上げた。
 頭の中に反響する叫び声。
 悲鳴と慟哭。
 曇天も雷雲も、その全てをはねのけて輝くのは、陽だまりのような誰かの笑い声。

 自分に微笑みかける優しい声。
 白いベッドの中にいるその人が、『こちら』に向かって微笑みかける。
 少し痩せたようだ、と何故か思う。けれど、その顔は靄がかかってよく見えない。その人を、自分は知らないはずなのに――今はただその声を聞くだけで、胸がひどく苦しくなった。

『君の手は、温かいな』
 触れる手の温もりが、少しだけ硬い手のひらが、自分より大きなその手が、触れ合う瞬間を愛しく思う。

『ありがとう。薔薇の騎士。君の忠義に感謝する』
 その声を聞くのが嬉しくて。もっと聞きたいと思うのによく聞こえない。
 声も姿も一瞬で、ぼんやりとしたものに変わってしまう。
 場面がまた切り替わる。
 誰かが、誰かの胸に顔を埋めて泣いていた。

『目を、開けてください。……嫌です。こんなの。こんなのは。こんな別れは』
 上手く呼吸が出来ない。
 私を置いていかないで。貴方がいなくては生きていけない。それでももう、失ったものは返ってこない。そんな言葉が、頭の中に浮かんで消える。

 少女が泣いている。
 ローズは胸が痛むのを感じた。心臓の音がしない。目覚めないその人は、兄ではないはずなのに。泣いている少女も、自分ではないはずなのに。
 どうしてこんなに、目が離せないのか理解出来ない。
 涙が静かに頬を伝う。

「――……私の王様」

 自分の唇からこぼれる言葉の意味がわからない。わからないのに、涙が止まらない。
 ローズは体に力が入らなかった。
 ロイの魔法の仕組みは、ローズにはわからない。
 ただ彼の魔法が、かけけられた側の人間に多大なダメージを与えることだけは、確かのようだとローズは思った。

 ――もう、駄目。これ以上は、耐えられない……。
 そんなローズに対して、ロイは非常にも再び魔力を強めようと左手を上げた。
 黒い電流が、ローズを襲おうとした時。

「――鳥よ」
 その声は、響いた。

「光を纏う聖なる鳥よ、邪なる者の呪法を暴け!」

 詠唱と同時、光をまとった鳥が、ロイがローズに絡めていた黒い紐を断ち切っていく。

「他者の魔法の強制的な解除だと……!?」

 ロイは後方を振り返った。
 本来魔法の解除には多大な魔力を使う。だからこそこの世界に、ロイの魔法を解除できる人間はこれまでいなかった。
 しかしそれを、小さな魔力で行うことが出来るとしたら、それはこの世界から失われたはずの魔法だけだ。
 紙の鳥を使った魔法の解除。
 それは、今は失われたはずの古代魔法の一つ。

「紙の鳥の魔法が有効であれば、俺にだって干渉できる」

 リヒトはそう言ってロイを睨みつけると、がくりと崩れたローズの体を支えた。
 精神的な負荷がかかりすぎたせいか、ローズの呼吸は浅かった。
 ――こんなことは許されない。リヒトは唇を噛んだ。
 いつも自分の前を歩いてきた人間を、自分が大切に思う人間を、何故かロイは傷付ける。

 リヒトが最も得意とするのは光魔法だ。
『光の祭典』――そしてその力もあって、彼はリヒトと名付けられた。しかしそれは、王とは最も遠い力。

 誰かの力になりたいと祈る心だけでは、彼一人の力だけでは、世界は動かせない。
 本来、人体に影響を及ぼすには多くの魔力を必要とする。だからそんな魔法を、リヒトが破ることは普通なら出来ない。
 しかし光属性と対極にある闇の魔法を妨害するだけならば、今のリヒトにも可能だった。まして今回のような、断ち切ればいいだけの糸のような魔法なら。

「貴方が誰であろうとも、この国の人間を傷付ける人間を、俺は許さない」
「まるで『王』のようなことを言う。君はこの国では出来そこないと言われているのだろう? せっかく手を貸してやろうと思ったのに、俺の邪魔をするな」

 ロイはリヒトを睨みつけた。
 やっと、『彼』に関する手がかりを見つけたかもしれないのに。
 ロイにとってのローズなど、所詮その程度の価値しかない。そして、それはリヒトも変わらなかった。
 『彼』に比べたら、この世界の殆どは、ロイにとってどうでも良いことだ。

「こざかしい真似はよして正面から戦ったらどうだ? 小手先だけで魔法を操っても、本物の強者には敵わない。そんなものは王とは呼べない」
「守るべき人間を傷付けるようなら、そんな王になるくらいなら、俺は王にはなろうとは思わない!」

 リヒトは力いっぱい叫んだ。

「面白いことを言う」

 そんなリヒトにロイは一瞬驚いたような顔をして、次の瞬間には彼は、ずっとローズに向けていたような冷たい目で、リヒトのことを見つめていた。

「リヒト・クリスタロス。彼女と婚約破棄した君に、それを言う権利はない」
「……?」

 ロイの言葉の意味が分からず、リヒトは首を傾げた。
 ローズと自分の破談が、何故今の話の流れで出てくるのか? そう思っている間に、ローズはリヒトの腕の中で意識を失った。

「ローズ。……ローズ!」
 名前を呼んでも動かない。
 弱り切った彼女を見るのは初めてで、リヒトは唇を噛んだ。
 兄といいローズといい、なぜ彼は自分の大切な人を傷付けるのか。そして彼らを守れない自分の弱さに、彼らと肩を並べられない自分の弱さに、腹が立ってたまらなかった。
 言い返せない。何も。

「……なんで。なんで、俺は」

 ――こんなにも、弱いんだろう?
 ローズを抱く手に力を籠める。そんなリヒトの姿を、ロイは無感情に眺めて背を向けた。

◇◆◇

「……リヒト様」
 目を覚ますと、そこは王宮でかつて魔王討伐の後、ローズが目覚めた部屋だった。
 今のリヒトには、人体に影響を与える光魔法は使えない。ただリヒトは、かつてのアカリのように、ローズが目覚めるまでそばにいた。

「ずっと、そこにいてくださったのですか?」
「放っておくわけにも行かないだろ」

 当然のように言うリヒトに、ローズは少しだけ胸が痛むのを感じた。
 自分に婚約破棄を言い渡した相手。
 だというのに、何故自分を助けてくれたのだろう?
 ローズには、リヒトの気持ちがよくわからなかった。今だって、リヒトはローズの目をちゃんと見ようとはしてくれないというのに。

「今日の決闘は明日に持ち越されることになった。ローズが見てなきゃ、駄目らしくて」
「そうですか」
「……ローズは」
「はい?」
「俺が婚約破棄して傷付いたか?」
「本人にそれを聞きますか?」

 元婚約者の相変わらずの頓珍漢ぶりに、ローズは呆れた。
 十年間婚約していた幼馴染に、大衆の面前で婚約破棄されるなんて、普通の令嬢ならもと傷付いて当然の案件だろうに、彼にはそれがわからないのだろうか?
 いや、違う。気付かないんじゃない。気付かせられなかったのはたぶん自分のせいだ――今のローズにはそう思えた。
 魔力の弱いリヒトを、ローズはこれまで殆ど頼ろうとはしなかった。今になって思えば、自分は彼にとって、可愛げのない女だったに違いない。

「私と貴方は幼馴染だった。婚約は、その延長線上にあったものだったのでしょう?」
「……」
「事実貴方は、私に触れようとはされなかったではありませんか」

 今のローズには、ベアトリーチェがいる。ローズには自分に触れる彼らの感触が、まだ残っているような気がした。
 自分の手に口づけるベアトリーチェ。
 「一年間待ってほしい」そういったユーリは、瞼に口付けた。
 そしていつも髪にキスをして軽口を叩いていたレオンは、ベッドの中で自分の手を握る。 
 そういう触れ合いを、リヒトはローズに与えなかった。

「それに、今はアカリに思いを寄せていらっしゃる」

 今のリヒトはアカリを思っている。
 自分のような可愛げのない女ではなく、彼女のような人が好きだったから、リヒトは自分を選ばなかったのだ。だとしたら、それは仕方のないことだとローズは思った。

 ローズはアカリのようにはなれない。
 女の子らしく可愛くて、子どもに向かって笑顔を向ける。弱者を守るためならば、アカリは王にだって立ち向かう。
 その自由さや、真っ直ぐさは、ローズには絶対ないアカリの魅力だ。
 ローズ自身、アカリの性格を好ましく思っていた。自分がもし男だったら、彼女のような人を選びたいと思うくらいには。

「だから。……私は、貴方と何も無かったことが、今はかえってよかったのかともしれないとも思っています。最初から、形だけの婚約だったから。きっと私は、貴方が誰と結ばれても祝福できる」

 ローズの声は震えていた。その声の僅かな変化に、リヒトは顔を上げてローズの方を見た。

「ローズ……?」
 しかし今度は、ローズの方がリヒトから顔を背けていた。

「心配されなくても、私はこの国から出て行くつもりはございません。私は、ビーチェ様の婚約者です。あの方なら。あの方となら、きっと私は幸せになれる」

 誰もが祝福する、そんな夫婦に。

「だから……私は、大丈夫です」 
 ローズはリヒトには見えないように、ぎゅっと拳を握りしめた。

「どうかしたのか?」
「いいえ。――なんでも、ありません」

 リヒトが心配そうな顔をしてローズに近寄って、触れようとした手からローズは逃れた。
 ローズは今リヒトに触れられるのが、何故か少し怖かった。

 垣間見せる彼らの心に触れる度に、少しだけ心が動きそうになる自分を戒める。
 公爵令嬢であり騎士。次期伯爵《ベアトリーチェ》の婚約者である自分が、他の異性に心をゆるすなど、あってはならないことだ。

「もう、大丈夫ですから。一人にしていただいてもよろしいですか?」
「……わかった」

 ローズの言葉に、リヒトは何も言いはしなかった。ただ静かにそう言って、何事も無かったように部屋を出て行く。
 扉が閉まるその瞬間、ローズは勢いよく扉の方を見た。けれどだからといって、もう一度彼の名前を呼ぶことは無かった。

 自分はこの国に残る。でも彼は――この国を去るかもしれない。
 いつだってそばにあった金色は、いつからか遠く感じるようになった。
 それは婚約破棄される前から。
 いつの間にか生まれた小さなずれは、どんどん大きくなって、今は自分と彼との間には、見えない壁が出来ているような気がローズはした。

「ビーチェ様」
 ローズはいつも彼が口付ける手の甲に、自分の唇をそっとあわせた。
 誰も選べない自分であることは認める。
 でも心が自分に向くまで一年待つと言ってくれた優しい人を、裏切りたくはないと思うことは確かだった。

「いっそのこと、本当に早く貴方に嫁いだ方が、この気持ちは晴れるのでしょうか……?」

 大地のような優しさで全てを包み込んでもらえたら、自分の憂いも何もかもから、目を逸らして生きていけるような気もした。
 ベアトリーチェと過ごすとき。
 ローズの胸は確かに高鳴る。彼は自分の周りにこれまでいなかった部類の人間で、年上の男性で。自分の弱さも何もかもを、全て許してくれるような人だとローズは思う。
 でも、だからこそ怖くなる。
 全てを彼にゆだねた場合、ローズは自分が、自分でなくなってしまうような気がするのだ。
 大切に大切に甘やかされて、自分の全てを肯定されてしまったら――いつの間にかこれまでの自分でさえ、彼の妻としての女性として、造りかえられてしまいそうな気がした。

『妹の破天荒さも、少しは落ち着くかもしれません』

 きっとそれは、周りの人間も望むこと。
 変わることは、公爵令嬢としては正しい未来なのかもしれない。
 でも、自分は――……。

「私は『騎士』で居たい」

 この国を守る高潔な騎士。
 ベアトリーチェは、ローズにそれを許すだろう。けれど許されても、ローズの心が彼に奪われては駄目なのだ。
 愛を囁いてくれるこの人に、相応しい女性になりたいと思う心が、ローズ自身から剣を奪う。
 地属性の人間は、ゆっくりとその心を甘く蝕む。
 その人間が、傍にいないと生きていけなくなるように。

「ビーチェ、様……」
 再び呟かれたその名は、少しだけいつものローズの声より艶っぽかった。



「アルフレッド」
「兄上、ただいま戻りました」

 その夜、隠密活動をしている弟の帰還を、ベアトリーチェはいつものように迎え入れた。
 父であるレイゼルには許可をとっている。
 今のアルフレッドには、伯爵家の門を開く解呪の式も与えられていた。

「大陸の王がローズ様に対して闇魔法を使っていましたが、リヒト王子が助けられたようです」
「リヒト様が?」

 ベアトリーチェは思わず聞き返していた。
 彼女と婚約破棄したリヒトが、なぜ今ローズを庇うのかベアトリーチェにはわからなかった。
 せっかく自分に好意的な存在だというのに、リヒトはロイの反感を買うつもりなのだろうか。
 ベアトリーチェは顔を顰めた。
 状況がまるでわからない。アルフレッドの情報だけでは、自分が見て得られる情報からは劣ってしまう。

「……傍で守れないことがもどかしい」
「あ。そういえば」

 わざわざ自分の為に情報を集めてくれてる弟に悪いとは思いながらベアトリーチェがそう呟くと、アルフレッドが思い出したかのように言った。

「ローズ様が悩ましげな声で兄上の名前を呼ばれていました」
「はい?」

 それは嬉しいような傍で聞きたかったような。いやでも、どういう状況なのか……?

 ◇◆◇

 一方その頃、アカリは机に向かって頭を抱えていた。

「ゲームに存在しないはずの要素。同じ要素。それをふまえれば……」

 アカリはそう言うと、さらさらと紙に文字を書きだした。

『誓約の指輪』
『ベアトリーチェ・ロッドの初恋』

「ゲームに、シャルルちゃんは多分いなかった」
 羽の付いたペンを手にしたまま、アカリは目を瞑る。
 ――赤ずきん、おおかみ、おおさま。そこから導き出されるのは――……。

「もしかして……『シャルル・ペロー』?」

 アカリは記憶力がいい読書家だ。 
 病院でやることがなかったせいもあるが、彼女はこれまで沢山の本を読んできた。

 『グリム童話』、『ペロー童話』。
 アカリの知る世界には、そのように呼ばれていた童話が存在していた。
 アカリの記憶では、『赤ずきん』はそのどちらにも組み込まれていたはずだ。

「確か……大陸の王のキーアイテムは……」

 『Happiness』には、キャラクターごとにグッズ展開のためアイテムが設定されていた。
 リヒトが指輪。
 ユーリは赤い紐。
 ベアトリーチェは四つ葉。
 そして、『大陸の王』は――……。

「『開かない箱』」

 アカリはゲームの途中でこちらの世界にやってきた。
 リヒト、ユーリ、ギルバート、レオン、ベアトリーチェ、ロイと攻略するつもりだったため、レオンの話の途中までしか知らないアカリは、ロイに関してわかっていることはそれだけだ。

「ああもうっ!!! 肝心なことがわからない! 攻略サイト見ておけばよかった……!」

 ベアトリーチェのことはたまたま少し知っていたが、一度読んだら忘れられないアカリは、『ネタバレ』を読んではいなかった。

「とりあえず、ローズさんに相談しよう。何かいいアイディアを出してくれるかもしれないし」

 アカリはそう言うと、ローズにあてた手紙に触れて魔力を込めた。すると紙は自ら形を変え、丁度鳥のような形に変わる。

「ローズさんが違う国に行ってしまうなんて、絶対嫌」

 アカリは窓を大きく開いた。
 夜の冷たい外気が、温かな室内に入り込む。
 夜の空気は、春とはいえまだ寒い。
 いや、春と冬しかないこの国にとっては、季節の変わり目である今は寒くなる時期なのかもしれない。
 ここはアカリが生きてきた世界ではない。
 でも、そんな世界で唯一信じたいと思った相手を、アカリは失いたくは無かった。

「ローズさんのところに、飛んでいけ!」
 アカリはそう言うと、紙の鳥を夜空へと放った。



「アカリから……?」
 公爵家の自室でアカリから手紙を受け取ったローズは、彼女が書いたまだ拙い字の手紙を読んで首を傾げた。
 何かいい案があれば教えてほしいとあるが、今日の事件もあってか、ローズは頭がよく回らなかった。

「『シャルル・ペロー』?? 『開かない箱』……?」

 手紙に書かれた、気になる箇所を読み上げる。
 やはり駄目だ。今はまだ頭痛がする。
 昼間の魔法の影響で、ローズが頭を押さえて机に手をついていると、とんとんと扉を開く音が聞こえた。

「ごめんください。ここをあけてください」

 その声は、ローズのよく知る人物の声だった。

「シャルル?」

 ローズは扉を開けた。
 廊下に立っていたその子どもは、真っ黒なローブを羽織って、籠の中に真っ赤な林檎を持っていた。

「おいしいりんごをもってきました」
「私に、ですか?」

 自分に心を許してくれたということだろうか? ローズはそう思ってシャルルに尋ねた。
 シャルルは大きく頷いて、林檎のうち一つをローズに差し出した。

「たべてください」
「?」

 子どもからの贈り物を無下にすることが出来ず、ローズは彼女から林檎を受け取って少し齧った。
 黒いフードを被った少女。籠の中には艷やかな赤い林檎。それが何を意味するのか、ローズにはわからない。
 ローズが林檎を食べたのは、ほんの少しだけだった。けれどその瞬間、ローズは体に違和感を覚えた。
 体が動かない。

「しゃ、る……る……?」
「おきさきさまには、わがくににきていただかねばならないのです」

 体がしびれて声が出せない。何が起きているのかがわからない。
 床に膝をついたローズを、子どもは無感情に見下ろしていた。

「どう、して……」
「おうさまのねがいは、わたしのねがい。そのためなら、わたしは……」

 その言葉の続きは、もうローズには聞こえなかった。