騎士団の訓練場は、二人のせいで甘い雰囲気が漂っていた。

 誰よりも早く訓練場へと向かい訓練をしていたが、ベアトリーチェが訓練場にやって来た直後顔を真っ赤にして剣を落としたローズに、彼が直接指導することになったからだ。

 『剣神』という2つ名を持つローズでも、日々の訓練は必要になる。
 それに魔法を使った戦闘には、属性の相性もある。
 風属性のユーリには勝利したローズだが、全属性扱えるといっても、他の属性(なれないあいて)に即座に完璧に対応出来るかと言うと、そうではないからだ。

「ローズ様。職務中にそう顔を赤くされては、私の方が困ってしまいます。ちゃんとこちらを見てください。――ほら、目をそらさないで」

「……申し訳ありません。私自身、どうしていいかわからないのです。貴方を見ると、昨日のことを思い出してしまって」
「愛らしく頬を染めていただけるのは嬉しいですが、それで怪我でもされたら困ってしまいます。今は訓練中です。午後はまた城に向かわねばなりませんが、今はこちらに集中してください」

 ベアトリーチェは、ローズの握る剣にそっと手を添えた。
 「愛らしい」なんて言われたことのないローズは更に照れた。
 気高く咲き誇る薔薇を見て、愛らしいという人間は少ない。
 「美しい」とは言われても、ローズはこんなふうに『少女』のような扱いはされたことは無いのだ。

 実年齢では年の離れているベアトリーチェは、ローズのことを年下の女性として扱う。
 それがローズにはとても不思議な感覚だった。
 本来の姿であれば長身の成人男性なのに、普段は小さな少年の姿。

 そんな彼から自分のことを「愛らしい」などと言われ甘やかされると、これまで自分より小さいものは特に守るべきと考えていた考えが、根本から覆されてしまうような感じがした。
 そのせいで、更に頭が混乱する。

 ――これでは駄目だ。剣が鈍る。

「ビーチェ様。私は……」

 ローズは懇願するかのように彼の名を呼んだ。
 今日これ以上、ここに居るのは絶えられない。恥ずかしい。周りだって自分たちを見ている。家族に見られるのだって恥ずかしいのに、多くの同僚に見られるのはもっとつらい。
 しかしローズの意図を理解しているベアトリーチェは、彼女にそれを許さなかった。

「駄目です。これからもここで一緒に過ごすのですから、貴方には慣れていただかなくては」

 真っ赤になるローズと、平然としているベアトリーチェという構図。
 それはまるで異世界の『少女漫画』のような光景だった。

 ローズは騎士団の紅一点。
 ひそかにローズに思いを寄せていた未婚の男性陣たちの顔色は暗い。
 冷やかせる空気でもなく、騎士たちは無言でその光景を見つめていた。
 凛々しい男装の騎士は、婚約者のせいで今は可憐な少女に見える。
 はっきり言って目に毒だ。
 その様子を見ていた若い騎士たちは、集まってこそこそと話をしていた。

「団長これ見たら落ち込みそう。……って、あれ? そういえば団長は?」
「団長なら、ずっと一人で訓練してる」
「え? 訓練? 何で一人で」
「それは俺もわからないけど……」
「そういえば昨日、夜にさ、なんか物音がするなあって第二訓練場を覗いてみたら、団長が居たんだよね」

 若い騎士の一人が言う。
 それはここ最近、ユーリが夜行っている特別訓練だ。
 第二訓練場は風魔法を使う人間専用のようなところもあって、あまり利用する者は少ない。空を飛べなければ危険な訓練場は、一歩間違えれば命を失う可能性だってある。

「ああ。それ俺も見たことある。何ていうかさ、前は副団長と比べて、ちょっと抜けてるなあって感じだったけど、最近は少し雰囲気違う気がする」
「ああわかる! やっぱり、ローズ様のことが原因なんだろうな。決闘、王子と王様が相手らしいし。ローズ様、守るのも奪うのも大変だよな。副団長は渡すつもりゼロみたいだし」

「副団長も雰囲気変わったよな。前はもっととっつきにくい感じの人だったのに、人間味? が出てきたっていうかさあ……。弟二人平等に可愛がってたりするのも見るし、なんかイメージ変わった」
「でもさあ、結局副団長とローズ様って、出会ったのは最近なんだろ? それなのに、これは……。団長が不憫なのは見てて面白かったけど、なんかちょっと可哀想だなっても思うんだよな。団長、頑張ってるし」

「団長なあ……。『貴方の為に強くなる』って感じだもんなあ。身分差あるから、仕方ないんだろうけど」
「俺も団長応援したいなあ。だって初恋の相手なんだろ? 自分の初恋の相手を、ぱっとでの部下に奪われるなんて最悪だろ。……でもさあ。あ~~。やっぱ女の子って、大人の魅力ってやつに弱いのかなあ」
「団長、見た目はああだけど、中身子どもっぽいとこあるからな。その点は副団長は逆だよな」

 若い騎士たちは、ベアトリーチェ派とユーリ派に分かれていた。
 彼らは自分たちの上司での恋愛について、興味津々だった。

「でもさ。副団長、ローズ様のことめちゃくちゃ大事にしてるし、ローズ様もそれを受け入れてるとこある気はするんだよね」
「いや、それはどうだろう。ローズ様、前好きな人いないって言ってたし。前の婚約者はあの王子だし、ああいうアプローチされ慣れてなくて照れてるんだろうなあって俺は思ってたけど」

 冷静な少年の呟きに、若い騎士たちはしんとなった。
 
「いやいやそんなまさか……。ローズ様公爵令嬢だからさすがにそれは……」
「でもさあ、完璧すぎる女の子って高根の花だから、ローズ様も案外あそこまで迫られた経験は無い可能性もあると思う。前の婚約者の王子はスキンシップとかしなさそうだし。だから耐えられないってかんじなんだと……それに今回の婚約って、そもそも公爵様が決められたことなんだろ? ローズ様、貴族にしては珍しいって言うか、本当に家族が大好きっては聞くし、周りから応援されてる結婚だからって思ったら、副団長のこと結婚相手として意識するのは仕方ないんじゃないかな」

 少年の指摘に、若い騎士たちの顔色が曇った。
 確かに、言われてみればそうなのかもしれない――……。

「え……じゃあローズ様、別に副団長のことそこまで好きというわけではなかったりするかもしれないってこと……?」
「さあ。それは本人に聞いてみないとわからないけど」

 アルフレッドではあるまいし、彼らがローズに訊けるはずはなかった。

「待って待って! じゃあどういうこと!? ローズ様、副団長に押されまくって、今すぐにも結婚しちゃいそうな勢いなんだけど!? 団長あんなに頑張ってるのに!?」

 それだと、今の状況は非常にまずいのでは――。
 ベアトリーチェ派も、ユーリの頑張りを知らないわけではないので、無理やりベアトリーチェがローズを妻にするというのはいただけないと思い始めていた。

「これは時間の問題ですね……。ローズ様が結婚を承諾するか、団長が覚醒するか……」
「覚醒って、ちょっとかっこいい響きだよな……」
「ああそれわかる……じゃなくて! 今はそういう話したいんじゃないんだよ馬鹿! 団長の初恋の行方の話をしてんの! 頑張ってる団長を俺は応援してんの! 確かにあの人ヘタレだけど、一途で真面目なのは確かだし!」

 騎士は叫んだ。
 なんだか知らぬ間に少年漫画の戦闘シーンみたいな話になってきたが、もともと恋愛の話だった筈だ。

「でもさ、ちょっと待って。確か決闘って、王族の婚約者の場合は例外だよな?」
「ああ……そっか。ということは、団長覚醒前に副団長が負けたら、そこで初恋終了ってこと……?」
「えっえっ? じゃ、今は団長を応援するにしても副団長を応援するにしても、副団長が勝たなきゃいけないってこと……?」
「そういうことだな」

 冷静な若い騎士は言う。

「……多分あの二人にさえ負けなかったら、副団長の敵は居ない。だからもし、副団長が負けずにいてくれたら一年後には――可能性はある。副団長、団長のことよく見てるし、団長ならローズ様任せてもいいって思ってるかもしれない」

 話の流れを変えた騎士の言葉に、他の騎士たちは首を傾げた。
 血統までして守った自分の婚約者を一年後に譲り渡すなんて、そんな馬鹿な話があるものか。

「何でそう言えるんだよ?」
「俺の兄さん、騎士団と植物園の両方で働いてるんだけどさ、副団長、何でも初恋の相手を病気で亡くしてるらしいんだよ。それでずっと縁談断ってたって話だし。だからあの人にとって、多分初恋っていうものは、きっと大切なものなんだ。だから、ローズ様が初恋の相手って知ってる団長には、どこかで期待してるのかもしれない」

 彼はベアトリーチェをよく知る騎士を兄に持つ弟だった。
 彼の兄は酔った時、ベアトリーチェの話を弟に聞かせていた。
 彼の過去。初恋と、その終わり。
 『精霊病』と名付けられた病で失われた彼の初恋と、その後の話。
 『神に祝福された子ども』『国の未来を変える者』――その肩書を与えられてなお前を向いて生きるからこそ、自分は彼の下でずっと働きたいのだと。
 そして弟でもある彼もまた、その話を知っているからベアトリーチェを尊敬していた。

「……どういうこと?」
 何も知らない若い騎士たちは、一様に首を傾げていた。
 全てを知る彼は静かに言った。

「あの人がローズ様が好きなのは本当だと思う。でも、あの人はきっとどこかで願ってるんだ。――この世界には、どんな障害をも乗り越えて、叶う初恋があるんだって」

「それは……俺にはよくわからん」
「僕も」
「なんか話飛び過ぎてない?」
「……ってかさ、なんでお前そう思うわけ?」

 彼の予想に、賛同する者は誰もいない。
 だからこそ彼は答えた。
 若い騎士たちの知る筈のない、ベアトリーチェの魔法の秘密を。

「だってそうだろ。副団長の剣の石、あれって――……」

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 

「さて、行きましょうか。ローズ様」
「――はい」

 何とか午前の訓練を終えたローズは、ベアトリーチェの婚約者として馬車から降りた。

 伯爵家の紋章の描かれたこの馬車に、最近よく乗っている気がして、ローズは彼に手を借りて馬車から降りる間、ずっと胸が高鳴ってしまっていた。
 相変わらず、ベアトリーチェは今日も完璧すぎるほど紳士である。
 城の一角にある広場には、今日の決闘の為に、闇魔法で半透明の結界が張られていた。
 この空間の中で使われた魔法は、空間内のみしか影響を与えず、攻撃が外に漏れることは無い。

 ローズの手には、契約水晶と呼ばれる水晶が抱えられていた。
 通常、これは国にとって重要な契約を結んだ際に、情報を守るために神殿で保存されているものだ。
 貴族の結婚は家同士での関係を結ぶ契約でもあるため、各国の王都にある神殿の契約水晶に、契約内容が刻まれ保管される。婚約の場合も同様だ。
 決闘期間中は、その『書き換え』を行う必要がある可能性があるため、特別に持ち出しが許可される。

「ベアトリーチェ・ロッド。今日は君を跪かせてやるから覚悟しておけ」
「???」
「???」

 大陸の王がベアトリーチェに向けた言葉に、ローズとレオンは首を傾げた。
 昨日までのロイと雰囲気が一致しない。
 ベアトリーチェはわけがわからないといった表情のレオンに対して、少ししゃがむよう合図してから耳打ちした。

「レオン様。彼はこっちが素なのです。私は昨晩呼び出されて軽く脅されました」
「脅された?」
「ええ。ローズ様を渡さなければ身の安全は保障しないと」

 ベアトリーチェは表現を柔らかくしてレオンに伝えた。

「それは……」

 ベアトリーチェの話を聞いて、レオンの顔が歪む。

「それと、どうやら彼はローズ様を鍵の守護者として狙っているようです。勿論彼女自身……魔力の高い女性としても、興味はお持ちのようですが」

「……やはり、そうか」
 話を聞いたレオンの表情は厳しかった。

「予想していらっしゃったのですか?」
「ああ。彼がここに来る前から、嫌な予感はしていたよ。だから僕がローズの婚約者になろうとも思っていたんだ」

 ベアトリーチェの問いにレオンは唇を噛んだ。
 ベアトリーチェは、軽薄そうなに見えたレオンの真意を知り、僅かに表情を和らげた。

「貴方が決闘を私に申し込まれたのは、それが理由の全てですか?」
「?」

 ベアトリーチェの問いにレオンは首を傾げた。

「レオン様はローズ様のことを、一体どのようにお考えなのです? 私に決闘を挑まれるのは、国を守るためですか? 幼馴染としての好意ですか? ……それとも」

 ベアトリーチェは僅かに間を作って訊ねた。

「レオン様は本当に、彼女を心から愛していらっしゃるのですか?」
「……っ!」

 レオンはベアトリーチェから顔を背けた。
 新緑の瞳は、表情の変化を見逃さない。

「レオン様。私は貴方の本心が知りたい。それによっては、私も態度を改めます」
「……僕は」

 レオンが、ベアトリーチェの言葉に答えようとした時。

「何をコソコソ話をしているんだ?」

 ロイの退屈そうな声が響いて、ベアトリーチェはレオンから離れた。

「昨日の貴方の素行など。とても褒められたものではございませんでしたので、レオン様にも危害を加えられる前に報告をしたまでです」
「?」

 レオンとベアトリーチェ。
 二人の会話を知らないローズは再び首を傾げた。
 ――昨日、何があったと言うんだろう?

「君は本当に腹が立つ男だな。ベアトリーチェ・ロッド。心配しなくても、彼に手出しはしないさ」
 ロイはにやりと笑った。

「君より弱い他国の王子に、手出しをしても何にもならない」
「……!」

 その言葉に、レオンの手が剣に伸びる。
 ベアトリーチェはそれを視界の端でとらえて、静かに目を瞑った。

「くだらない話はやめましょう。愛する婚約者の瞳に、彼女を思う他の男たちを映すのも面白くはありませんので」

 彼は自分たちの後方にいるローズに向きなおり、地面に剣を立て片膝をついた。

「ローズ様。この剣にかけて、私は貴方に勝利を誓います」

 ベアトリーチェはそう言うと、立ち上がって不敵に笑んだ。

「さあ、決闘を始めましょうか? 負けるつもりは微塵もございませんが」



 ベアトリーチェが相手をするのはロイとレオンだが、婚約者に決闘を挑んだ人間が複数の場合、決闘を挑んだ人間は、他の人間を攻撃しても構わないことになっている。
 潰したい本命はベアトリーチェだが、ロイがレオンに攻撃しても、それは決闘の内の行動として認められている。

 他の敵を蹴落とすのも認められた完全な実力勝負。
 大陸の王はレオンにも攻撃を加えつつ、ベアトリーチェを追い詰めていた。

「――『地剣』の名は伊達ではないな。だがこれではどうだ?」
「ビーチェ様!」

 ローズは思わず叫んだ。
 空を飛べる人間はこの中には居ない。
 彼らを見下ろすように土の上に立っていたベアトリーチェを、巨大な黒炎が包みこむ。

 こんなのはあんまりだ。ベアトリーチェが死んでしまうと、ローズは指輪に手を伸ばした。

 けれど、あること気づいてローズは手を止めた。
 ローズであれば彼を炎から救うことも可能だが、婚約者が決闘中に手出しをすることは、婚約者であるベアトリーチェとの間に、信頼関係がないと評価されることにも繋がる。
 ローズの手は震えていた。
 誰もが祝福してくれる婚約者。それは自分にとって、多分幸せなことなんだろう。でもそのせいで、彼が傷付くのも、周囲から愛されている彼が傷付くことで、周りの人間が傷付くのもローズは嫌だった。

 『自分のために戦わないで』何て馬鹿げたことは言いたくはないが、この決闘は見ていられない。

「こんな攻撃、私に通じるとでも?」

 ローズが水魔法を使おうとした時。
 燃え上がる炎の中から、ベアトリーチェの声が聞こえた。
 ローズは目を見開いた。
 嘘だ。こんなことは有り得ない。彼が使える魔法は地属性だけの筈なのに、なぜ彼が無事なのか。

「私の力を見誤らないでいただきたい。私の薔薇は、一人だけではありません」

 炎の中には巨大な水球が見えた。

「――私に、力を貸してください。ティア」

 ベアトリーチェはそう言うと、自分の剣に嵌る青い石に口付けた。
 その瞬間、剣から溢れ出した水が炎を消し、炎で傷付いていた筈の彼の体は、光を纏い癒えていく。

「ほう」
 その光景に、大陸の王は感心したような顔をした。

「『精霊病』の人間の心臓の石。まさかここまでとは」
「この戦い、私は一人では戦わない」

 ベアトリーチェは水と光を纏う。
 水と回復。
 それはロイの魔法とは、対極をなす魔法だ。

「今の私は、光属性と水属性も使えます」
 きらきらとした光りを纏い、ベアトリーチェは再び剣を構えた。

「魔力を保存出来るわけではありません。ですがどうやら、精霊病にかかった人間の所持していた魔法を、石の所持者には扱える」

 ベアトリーチェは一〇年前、初恋の相手を病で亡くした。
 病名は『精霊病』。
 心臓が石になる病であり、病で死んだ人間の心臓は、魔法式の書き込める石となる。
 彼が持つ剣に嵌るのは、その初恋の相手の心臓《いし》だ。

 ティア・アルフローレン。
 ベアトリーチェの初恋の相手は死の直前、才能がありながらその魔法を扱うための石を持っていなかったベアトリーチェに、自分の心臓《いし》を使って戦うことを望んだ。
 大きな魔法を使うためには、多くの情報を書きこめる石が必要で、それは基本的に『硬度』に準ずる。
 ただ精霊病で死んだ人間の心臓は、ローズの持つ金剛石をも凌駕するほどの可能性を秘めていた。
 まさにベアトリーチェの為の心臓《いし》。
 一六歳。今のローズの年齢と同い年の亡くなった彼の初恋の相手の少女の適性は、光と水だった。

「これまでは使うつもりはありませんでしたが、ローズ様を守るためであれば、私も全力で行かせていただきます」

 地・水・光。
 その3つを組み合わせた魔法。
 それが、ベアトリーチェの今の『全力』だ。

「まさか俺の炎に匹敵するとは……」
 かかってこいとでも言いたげなベアトリーチェの表情に、ロイは怪しく笑った。

「なるほど、面白い」
 炎と水では、圧倒的にベアトリーチェが圧倒的に有利だ。
 水浸しになったロイ・グラナトゥムの喉元に、ベアトリーチェは剣を突きつけた。

「――私の勝ちです」
 その声は彼がロイに向ける剣のように、鋭く尖った声だった。 

「ははははははは! まさか俺が負けるとは。実に面白い男だ。ベアトリーチェ・ロッド。まさか君がこれほどの力を持っているとは。何故君ほどの力を持つ人間が、副団長などという中途半端な場所に居るのか理解に苦しむ。君の年下の騎士団長が、君に敵う器とはとても思えないのに」

 ベアトリーチェは自分に対する評価はどうでもよかった。ただユーリのことを馬鹿にされて、ベアトリーチェは眉間に皺を寄せた。

 ベアトリーチェは静かに剣を下ろした。ロイがベアトリーチェに向かって、敗北の意思を見せたからだ。
 立ち上がったロイは、濡れたせいで自分の体についた泥を払いながら、炎の魔法では自分に押し負け、ベアトリーチェには剣を奪われて呆然としていたレオンを見下ろした。

「それに比べ、君にはがっかりだ」
 冷たい声が、レオンに向けられる。

「『氷炎(ひえん)の王子』。君はもっとやれる男だと思っていたが、一〇年の月日は、君から名声を奪うかもしれないな」

 『氷炎(ひえん)の王子』。
 それは、レオンが眠りにつく前までの、彼の魔法《さいのう》を称賛する呼び名だ。
 当時、どの王子よりも素晴らしい資質を持っていると言われた彼は、魔法においても美貌においても、並ぶものが無いと評価されていた。
 世界で一番完璧な王子様。
 それが当時のレオンの評判で、そんな彼だったからこそ、『魔王』の最初の贄に選ばれたのではと、今は考えられている。

「世界で最も王子として優秀だともてはやされた君も、時間には抗えなかったということか?」
「……っ!」

 レオンは息を飲んだ。
 それは、彼自身どこかで思っていたこと。
 魔法を使っていなかった一〇年間。レオンの時間は止まったままで、今の彼が使えるのは、八歳当時から少し威力が増したものに過ぎない。
 一年をかけて彼の父は失った時間を取り戻せと言い、目が覚めてから日々訓練はしているものの、そうやすやすと、一〇年の欠落は埋められるものではない。

『魔法を使うということ。一〇年間の月日は、そう簡単に取り戻せるものではありませんから』

 ベアトリーチェの言葉はそういうことだ。
 決闘の最後の様子。
 防壁の魔法が解かれた時、偶然通りかかったリヒトは、自分の兄が砂を掴む姿を見て目を丸くした。
 自分の兄は、この世界で最も優秀と言われていた人なのに。
 その兄が何故このように、自分のように地面に体を付けているのか。

「…………兄上?」

 出来そこないの自分とは違って『完璧』だと、誰もが言っていた筈のあの兄が。



 背中を地面につけて空を仰ぐ。
 夜の第二訓練場。ユーリ・セルジェスカはまだそこに残っていた。

 一定のラインーー限界まで魔力を使い切ることを繰り返せば、魔力は少しずつだが上がると言われている。
 しかしこの行動にはかなりの負荷が伴う。
 心理的にも肉体的にも、限界まで自分を出し切るということなのだから。
 星々を見上げて息を吐く。
 愛する彼女も、この空を見上げているだろうか――そんな感傷的なユーリの世界を遮ったのは、自分から最愛の女性を奪った相棒だった。

「ユーリ。私はちゃんと、今日も勝ってきましたよ」
「…………」
「全く、夜も寝ずに訓練だなんて。体を壊しては元も子もないということがわからないのですか?」

 いつもの調子の相棒に、ユーリは腕で目元を隠して訊ねた。
 今の自分はぼろぼろで、とても彼と顔を合わせる気分になれない。

「なんで隠してたんだ」
「何をです?」
「本当は、水と光も使えるって」

 ベアトリーチェが地属性以外にも魔法を使えること。
 このことは、決闘の勝敗を知らされた騎士団にも情報としてもたらされた。

「別に隠していたわけではありませんよ」
 ベアトリーチェはユーリの問いに、何でも無いように答えた。

「これまでは必要が無かったので使っていなかっただけです。……それにこれまでの私なら、この力で戦おうとは思えなかった」

 でも、ローズの話をするときのベアトリーチェの声は少しだけ優しくて、ユーリは胸が苦しくなった。
 彼は本気だと、そうわかって。

「そう私に思わせてくださったローズ様だからこそ、私は彼女を渡す気はありません。――勿論ユーリ、貴方にも」

 ユーリには分かってしまった。
 ベアトリーチェは本気で自分から、彼女を奪って返さないつもりなのだと。
 ――でも。

「一人で訓練を続けることに対しては目を瞑ります。今は私もこちらに長く入れますし、貴方がこれまでのように目を光らせておく必要はない。でも、貴方が無理をして、体を壊すことは許しません」

 そう言いながらも相変わらず、ベアトリーチェはユーリに優しかった。
 ベアトリーチェはユーリに触れた。光魔法だ。
 傷だらけだったユーリの体が癒えていく。動かせないと思っていた体が、少しずつ楽になる。

「……わかった。ありがとう」

 いずれ自分が決闘を申し込むだろう相手に、怪我を治してもらうというのは妙な話だ。
 ユーリはそうも思ったけれど、ベアトリーチェがいつもと変わらぬ目で自分を見つめていたので、それを指摘する気にはならなかった。
 ただ、ユーリはふとあることを思い出した。

「今思ったんだが」
「はい」
「もしかして俺が殴った時にお前だけすぐ怪我が治っていたのは、こっそり光魔法を使ったからか?」
「ご想像にお任せします」

 ベアトリーチェはこれまで、自分に与えられた罰は甘んじて受けてきた。
 そのためいつも傷を放置していたところを、心配したメイジスが光魔法をかけてくれていたのだが、それを言うつもりはベアトリーチェには無かった。

「び、ビーチェ! お前……ッ!」
「ユーリ。悔しかったら貴方も光魔法を使えるようになれば良いのです。それなら自分の怪我くらい、自分で治すことが出来ますよ?」

 にこり。
 自分に向けられた笑顔に、ユーリはイラッとした。いい年をした大人の癖に、自分をからかって遊ぶなんて許せない。
 
 そしてベアトリーチェの言葉は、ユーリの性格上、今は無理だった。