ロイの案内を終えたローズは、真っ直ぐ伯爵邸へと向かった。
「ローズ様をかけて大陸の王が私に決闘を……?」
「……はい」
ベアトリーチェはローズが告げる前に予想はしていたようで、さほど驚いた表情はしなかった。
「そうですか。わかりました。それでは、私は彼と戦わねばなりませんね」
ただ覚悟を決めたように、静かにそう言うだけだった。
「……でも」
ローズは唇を噛んでベアトリーチェを見つめた。
ベアトリーチェの瞳は新緑だ。髪も、彼に与えられた肩書も――何もかもが、彼が地属性においては誰よりも優れていることを示している。
しかしロイのあの赤い瞳を思い出すと、ローズはベアトリーチェに「勝って」とは言えなかった。
彼女自身が知っている。
赤い瞳を持つ人間。
それがこの世界で、どれほど重用されるか。その理由も。
「……ローズ様は、私が負けると思ってらっしゃるのですか?」
「そんなことは……」
「大丈夫。私は必ず勝ちますよ。貴方のことは私が守る。だから貴方は、何も心配しなくて大丈夫です。どうか信じていてください。貴方が私を信じてくださるなら、それが私の力になる」
ベアトリーチェはそう言って、いつものようにローズに笑みを作った。
そして騎士が誓いを立てるように、彼はローズの前に膝をついた。
「貴方に勝利を誓います。ローズ様。だから貴方は、私のそばにいてください」
以前は平気だったはずの彼の手の甲への口づけが、ローズは恥ずかしくてたまらなかった。
◇
「やはり、そうきましたか」
「……レオン」
その頃レオンとリカルドは、王城で報告を聞いていた。
「最初から、どう考えてもローズ狙いでしょう。今この時期に、わざわざやってくるなんて」
「他国に彼女が嫁ぐなら、この国にとって有益な王族のもとに。自国で結婚するならば、強い魔力を持つ者に。そう思ってはいたが、まさかかの王が自らやってくるとは」
リカルドは溜め息を吐いた。
モス目を溺愛している公爵が、ベアトリーチェであれば問題ないと判断し結ばれた婚約。
しかしそのせいで、王族でない相手と婚約している自国の公爵令嬢を、大国の王が妃に欲しいと自らやって来るのはリカルドも予想外だった。
「そもそも大陸の王である彼自身が、一週間も滞在することがおかしいのです。決闘のためでなければ、彼はそう国を空けられる立場ではない筈。臣下たちにも、ローズを妃として迎えるためにこの国に行くと言ったに違いありません」
「…………」
「ですが、彼女を他国に譲るわけにはいかない。『鍵の守護者』を他国に出せば、何かあったときに必ずこの国も責を問われる。彼女の彼の結婚は、絶対に認められない」
父とは違い、レオンは予想していた。だからこそ最初から、自分の婚約者になってほしいと思った面もある。
ローズを巡る面倒な争いに、自分の国を巻き込まないために。
「――父上。私は、幼少の頃よりローズを愛してきました。彼女はまだ、この思いを受け止めてくれてはおりません。ですが私は、やがてこの国を背負いたいと考えております。その王妃に、私は彼女を選びたい。私が決闘に名を連ねることを、どうかお許しください」
レオンは父リカルドに頭を下げた。
今この時に国王に決闘の許しを乞うのは、レオンのローズへの愛の誓いそのものだった。
「お前が、ローズ嬢を……」
「眠りにつく前から。ずっと、彼女だけを愛してきました。この気持ちに、嘘偽りはありません。この国を愛する彼女こそ、私の王妃に最も相応しい」
「……そうか」
リカルド・クリスタロスは、悩んだ末に首を垂れる息子の名を呼んだ。
リカルドはベアトリーチェの過去を知らぬわけではない。
ベアトリーチェを生かしたのはリカルド自身で、そのため彼個人に、特別な思いを抱いてもいた。
ただ、彼は王だ。
幸福を願う少年と少女の婚姻を祝福したいと思っても、それにより国が脅かされるなら、彼は後者の方をとる。
「レオン。ベアトリーチェ・ロッドとの決闘を許可する。彼に勝ち、その力を彼女に示しなさい」
「ありがとうございます」
◇
「……まさかあの方が、本気で来られるとは思いませんでした」
ベアトリーチェは城から届いた手紙を見て、静かに言った。
レオンがローズを奪う決闘に正式に名を連ねると――手紙にはそう書かれていた。
「レオン様の参加は、普通に考えれば彼への牽制でしょうね。レオン様のローズ様への思いがいかほどかは私にはわかりかねますが、少なくともあの方は、この国の王族であることを自負している。『鍵の守護者』であるローズ様を他国に出してはならないという思いから、名乗りを上げられたのでしょう」
「兄様……」
ベアトリーチェはローズと結婚したら、新しい屋敷に移ろうと考えていた。
今はまだ伯爵邸に住んでいる彼だが、元々自分の屋敷を持つことは考えており、一年後には結婚するし、いい機会だと思って新しく屋敷を建てていた。
完成は数か月先だが、一年後には確実に出来上がる予定だ。
ベアトリーチェは着々と、ローズを迎える準備をしていた。
だというのに。
手紙を読む兄の背を、ジュテファーは不安げな瞳で見つめた。
兄は強い。分かっている。でも、兄がいくら強くても同時に二人何て、そんなのは反則だ。
「そんな顔をしてはいけませんよ。ジュテファー。貴方の兄様は、未来の姉様を必ず守りきってみせます」
「はい」
兄を慕う弟は、いつものように微笑む兄に、何も言うことが出来なかった。
◇
「兄上が決闘……」
兄レオンが決闘に名を連ねるという話を聞いた後、リヒトは自室で机に向かって考え事をしていた。
よくやるものだ、とも彼は思った。
魔力をぶつけ合って自分の力を示す。
この世界の伝統は、いつもリヒトに己が弱者であることを突きつける。
リヒトはなんとなく、自身の魔法を発動させた。
しかし指先からちょろちょろと水が流れるばかりで、リヒトは沈黙の後に溜め息を吐いた。
これでは、自分が彼らに名を連ねて戦えるはずはない。
「……いやいやいや! なんで俺が戦わなきゃいけないんだ!?」
ふと、頭に浮かんだ考えを否定する。
リヒトは頭を振って、机の上の紙の束に目を移した。
魔法学院への留学。
ロイに示された期間はおよそ半年。
本来は数年かけて行うものらしいが、リヒトに1年間の期限があるために、彼はリヒトのためだけに半年で学ぶカリキュラムを用意してくれると言った。
そのための前準備。
入学の為の試験と渡されたテストは、どれもがリヒトにとって初歩的なものに思えた。
これがこの世界の一般的な魔法理論だというのなら、自分はもう十年前にそのラインには到達していたのかもしれないとも思う。
でも、知識があっても何にもならない。使えなくては意味がないのだ。
与えられた問題は、頁が進むに連れ難易度があがっていく。
ロイは、解けるところだけ解けばいいと言った。リヒトは一問もあけることなく、全ての問題に回答した。
びっしり埋まった解答用紙を見て、リヒトは手に力を込めた。
わかる。わかるのだ。全部、全部、わかるのに。
――どうしてこの体は、魔法が使えない?
「あ、れ……?」
回答を終えた問題用紙に、どこからか落ちた滴が、インクの文字を滲ませる。
もし魔法が使えたら。
もし自分が、誰かに認めてもらえたら。
そんな自分に自信を持つことができたら。
――王に相応しい炎属性を、自分は手にすることができるだろうか?
いいや。無理だ。自分には出来ない。リヒトはそう思った。
言葉は呪いのように降りかかる。
父に与えられた存在の否定の言葉は、どんなに他者に評価されてもリヒトの中からは消えてくれない。
自分はきっと一生、炎属性は得られない。
その時、リヒトの中でふと、以前『彼』にかけられた言葉が浮かんだ。
それは尊敬する、もう一人の『兄』の言葉。
「王様になれなくても」
彼の頬を、涙が伝う。
「生きてはいける」
でもそれを認めてしまったら、リヒトはこれまでの自分を、全て否定することになるような気がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ガレット・デ・ロワ?」
翌日、ロイに呼び出されたローズ、ベアトリーチェ、レオンの三人は、城の庭に設けられたテーブルを見て驚いた。
リカルド・クリスタロスが許したにしても、他国の王城の庭に巨大なテーブルを用意し、主が座るべき場所に自ら陣取るなんて、余程の自信家か愚か者のどちらかだ。
三人は、確実にロイは前者だろうと思った。
他国の地にありながら、傲慢を許される自分という人間を、この国の王子や貴族である三人に印象付けさせるための『遊び』だと。
「ええ」
ベアトリーチェの言葉に、ロイはにっこり笑った。
「いきなり戦うなんて、そんな野蛮な真似はいたしませんよ。私も彼女と交友を深めたいところですし、彼女の好きなお菓子で勝負していただけたらと思いまして」
「彼女を得る勝者を菓子で決めると?」
にこやかな笑みを浮かべるロイに対し、ベアトリーチェは不快感を顕わにした。
『ガレット・デ・ロワ』
これもまた、異世界から齎されたとされる文化の一つだ。
テーブルの上には、紙製の王冠ののったパイが置かれている。
これは、中に入ったフェーヴと呼ばれる陶器の人形の入ったパイを選んだ人間が『王様《ロワ》』となって王冠を被り、祝福されるという運試しだ。
「いえ。今回はまず小手調べ。決闘は後ほど行っていただきたく思います。けれど、運も実力のうちと言うでしょう? 何事も、力が全てとは限らない。彼女を守るためには、時には運だって必要となるかもしれない。私は、まずそれを貴方方と競わせていただきたい。――ローズ様」
「はい」
決闘の勝敗を見守るために呼ばれたローズは、今日はドレスを纏っていた。
「今回の勝者への景品は、貴方からの口付けでよろしいですか?」
「は……はい!?」
ローズは、思わず声を裏返えさせた。
――この方は、一体何を言っているのか。
「唇に、とは言いません。そうですね。勝者への祝福のキス。額に口づけていただければ嬉しいのですが……」
「……っ!」
ローズは思わずベアトリーチェを見た。
こんな話は受けられない。ローズは必死にベアトリーチェに目で助けを訴えたが、彼はすんなりロイの提案を受け入れた。
「かしこまりました。受けて立ちましょう。豪運と呼ばれる貴方なら、確かに運はお持ちでしょうし、それを試したいと思われるのももっともなことです。ただこの勝負、持ち出してきたのはそちらで、私は正式な彼女の婚約者です。最初に選ぶ権利は、私が頂いてもよろしいですね?」
「ビーチェ様……」
――この人は、自分の婚約者が他の男にキスしても平気なんだろうか?
そう思うと、ローズは複雑な気分だった。だいたい、景品という扱いがもやもやする。
「安心してください。ローズ様。私は負けたりなんてしませんよ」
ベアトリーチェは不敵に笑った。
「?」
ローズはベアトリーチェの笑みの意味が分からなかった。
もともと仕掛けられた勝負。ベアトリーチェが最初に当てなければ、彼は確実に負けてしまうに違いない。
「私の勝ちです」
だが、ローズの心配は杞憂に終わった。勝敗はすぐについた。
ベアトリーチェは最初の選択で、見事フェーヴを引き当てたのだ。
フェーヴは王冠の形をしていて、まるでロイが、自分の勝利を確信しているかのような形だった。
それを指で挟んで持ち上げて、ベアトリーチェはにこりと笑う。
ローズはベアトリーチェの笑みを見てほっと胸を撫で下ろした。
引き当ててくれたのが、彼でよかったと。
でも。
「ローズ様」
席を立って自分に近付いてきたベアトリーチェに艶のある声で名前を呼ばれ、彼女は自分に向けられた笑みの意味を理解して頬を染めた。
――この勝負の、景品は自分だ。
「約束通り私に口付けをしてくださいますか?」
ベアトリーチェはそう言うと、ローズの前に膝をついた。
「……は、はい……」
ベアトリーチェは目を瞑る。
そんな彼の額に、ローズは恐る恐る口付けた。
「きゃ……っ!」
ベアトリーチェは何を思ったか、自分にキスしたローズをそのまま抱き上げた。
「お二人にはっきりと申し上げましょう。他国の王、自国の王子とはいえ、私は婚約者を譲るつもりは毛頭ございません。彼女は私の婚約者です」
ローズは何が起こったのかわからず目を白黒させた。
混乱と周知で頬を染めるローズに、囁くように彼は続ける。
「ローズ様。いかに彼が豪運の持ち主でも、貴方に『幸運』を与えられた私が、負けるはずがないでしょう?」
「……っ!」
そういえば、そうだった。
ベアトリーチェは、沢山の人間に幸福の植物を与えられたことがある。そんな彼が運試しで負けるはずはなかったのだ。
「ローズ様。貴方は私の婚約者、そうですね?」
「……はい」
ベアトリーチェの腕の中で、ローズは静かに返事をした。
ベアトリーチェはその答えに満足そうに微笑んで、彼女を抱えたままロイとレオンの方を見た。
「貴方はまだしばらくこちらにいらっしゃるとか。血統は一日一つが決まりの筈です。今日はこれで彼女と一緒に下がらせていただきます」
「……」
「そもそも今の私に賭け事で挑もうとする方が愚かしいことです。私から彼女を奪いたいなら、正々堂々正面から戦ってきたらどうですか?」
ベアトリーチェはロイとリヒトに皮肉を言って微笑むと、ローズを抱えたままアーチの方へと歩いた。
ローズの剣を抱えたジュテファーは、兄の後を小走りで追いかける。
自分より小さな相手にお姫様抱っこされたローズは、頭が混乱していた。
こんな女の子扱いをされたのは、ローズは生まれて初めてのような気がした。
頭の中の整理が出来ない。
ベアトリーチェは伯爵家の馬車にローズを乗せると、自身も馬車に乗り込んだ。
「ビーチェ様、あの……」
「貴方を、賭けの対象のようにするような真似をして、申し訳ございませんでした。ですがこれも貴方との未来の為。どうか耐えてください」
ベアトリーチェは、ローズの前に座った。
隣で無かったと思う半分、赤くなった自分の顔が彼にはばっちり見えているのかと思うと、ローズは恥ずかしくてたまらなかった。
ベアトリーチェから視線を逸らすローズに対して、彼はこんなことを言った。
「ローズ様」
「……はい」
「貴方が額に口づけてくださる権利が欲しくて勝負を受けたと言ったら、やはり怒ってしまわれますか?」
にこり。
ベアトリーチェは、悪戯っ子のように笑った。
「ローズ様の唇は、とても柔らかいのですね」
「……っ!」
婚約期間中の決闘。
その間は、職務よりも決闘を優先することが許される。
これは、魔力の強い貴族のみの特例だ。
ローズとベアトリーチェは、それに該当している。
国のこれからを決めかねない婚姻は、それほど重視されるということだ。
それに魔法は心から生まれる。守りたいと思う相手を思う程、奪いたいと思う気持ちが強いほど、彼らの魔法は強くなる。ユーリ・セルジェスカがそうであるように。
「結婚が決まったら是非貴方から、私に口付けてほしいものです」
ベアトリーチェはそう言うと、年上の男らしくどこか艶っぽい笑みを浮かべた。
◇◆◇
「――夜分に、不躾な方ですね」
その日の夜遅く、手紙で呼び出されたベアトリーチェは軍服に身を包み一人空を見上げていた。
月の光が降り注ぐ。
彼の静寂の世界を乱したのは、赤い髪と瞳の長身の男だった。
「『青い薔薇』の守護者、『地剣』ベアトリーチェ・ロッド。君は本当に、面倒な男だな」
「こんな時間に人を呼び出す貴方の方が、面倒なのではありませんか?」
ベアトリーチェは振り返り彼を睨んだ。
『大陸の王』――ロイ・グラナトゥムを。
「王である俺にその口の利き方。神の祝福を受けたとはいえ元平民の君が、本当に俺に敵うとでも?」
昼間の彼と同一人物とは思えない。
傲慢極まりないその男は、ベアトリーチェの出生をせせら笑った。
「ええ。思っております。私は絶対に彼女を守る。貴方には渡さない」
「そう言っていられるのも今の内だけだ。なんでも最近、屍花を君の魔力無しで咲かせる方法が出来たとか? ……だったら」
ロイはにやりと笑った。
「婚約者が死んでひとり身になった可哀想な女性の心を慰めた優しい男に、彼女が惹かれても文句は無いだろう?」
「――それは私を殺すと、そう仰っているのですか?」
「さあ? それはそちらの行動次第だ」
最早脅しと同じだった。
ローズを渡さなければお前を殺すと。
けれどベアトリーチェは、彼に向けられた殺意から逃げようとはしなかった。
「貴方には……貴方にだけは、絶対に彼女は渡さない」
「力づくで奪ってやる。あれは俺にこそ相応しい」
王となるべくして生まれた者。
赤い色を持つその男は、高慢な笑みを浮かべる。
「『鍵の守護者』は、俺のものだ」
彼が見ているのは、ローズではなく彼女が守る物。
それを理解したベアトリーチェの顔色は、ますます険しいものとなった。
「貴方は、そのためにローズ様を……っ」
「まあそれが無くとも、彼女にも興味はあるさ」
彼女を愛し守る者。そのために命がけで戦おうとする目の前の人間を、王たるロイは小馬鹿にするように笑って言った。
「魔王を倒したほどの器なら、強い魔力を持つ子どもが期待できそうだからな」
強い魔力を持つことが、どれほどこの世界で重視されているか。
ベアトリーチェは知っている。自分がその恩恵を、多く得てきたからこそ――。
でも、だからこそベアトリーチェは嫌なのだ。
自分の幸福を願ってくれた相手を、そのような輩に渡してなるものか。
たとえこの想いが、王族とも争う自分の好意が、体に流れる血ゆえに相応しくないと言われても。
この世界で自分にもう一度、女性《ひと》を愛したいと思わせてくれた少女を、傷付けることは許せなかった。
「彼女を物としか扱わない貴方に、私は彼女を渡さない!」
「ローズ様をかけて大陸の王が私に決闘を……?」
「……はい」
ベアトリーチェはローズが告げる前に予想はしていたようで、さほど驚いた表情はしなかった。
「そうですか。わかりました。それでは、私は彼と戦わねばなりませんね」
ただ覚悟を決めたように、静かにそう言うだけだった。
「……でも」
ローズは唇を噛んでベアトリーチェを見つめた。
ベアトリーチェの瞳は新緑だ。髪も、彼に与えられた肩書も――何もかもが、彼が地属性においては誰よりも優れていることを示している。
しかしロイのあの赤い瞳を思い出すと、ローズはベアトリーチェに「勝って」とは言えなかった。
彼女自身が知っている。
赤い瞳を持つ人間。
それがこの世界で、どれほど重用されるか。その理由も。
「……ローズ様は、私が負けると思ってらっしゃるのですか?」
「そんなことは……」
「大丈夫。私は必ず勝ちますよ。貴方のことは私が守る。だから貴方は、何も心配しなくて大丈夫です。どうか信じていてください。貴方が私を信じてくださるなら、それが私の力になる」
ベアトリーチェはそう言って、いつものようにローズに笑みを作った。
そして騎士が誓いを立てるように、彼はローズの前に膝をついた。
「貴方に勝利を誓います。ローズ様。だから貴方は、私のそばにいてください」
以前は平気だったはずの彼の手の甲への口づけが、ローズは恥ずかしくてたまらなかった。
◇
「やはり、そうきましたか」
「……レオン」
その頃レオンとリカルドは、王城で報告を聞いていた。
「最初から、どう考えてもローズ狙いでしょう。今この時期に、わざわざやってくるなんて」
「他国に彼女が嫁ぐなら、この国にとって有益な王族のもとに。自国で結婚するならば、強い魔力を持つ者に。そう思ってはいたが、まさかかの王が自らやってくるとは」
リカルドは溜め息を吐いた。
モス目を溺愛している公爵が、ベアトリーチェであれば問題ないと判断し結ばれた婚約。
しかしそのせいで、王族でない相手と婚約している自国の公爵令嬢を、大国の王が妃に欲しいと自らやって来るのはリカルドも予想外だった。
「そもそも大陸の王である彼自身が、一週間も滞在することがおかしいのです。決闘のためでなければ、彼はそう国を空けられる立場ではない筈。臣下たちにも、ローズを妃として迎えるためにこの国に行くと言ったに違いありません」
「…………」
「ですが、彼女を他国に譲るわけにはいかない。『鍵の守護者』を他国に出せば、何かあったときに必ずこの国も責を問われる。彼女の彼の結婚は、絶対に認められない」
父とは違い、レオンは予想していた。だからこそ最初から、自分の婚約者になってほしいと思った面もある。
ローズを巡る面倒な争いに、自分の国を巻き込まないために。
「――父上。私は、幼少の頃よりローズを愛してきました。彼女はまだ、この思いを受け止めてくれてはおりません。ですが私は、やがてこの国を背負いたいと考えております。その王妃に、私は彼女を選びたい。私が決闘に名を連ねることを、どうかお許しください」
レオンは父リカルドに頭を下げた。
今この時に国王に決闘の許しを乞うのは、レオンのローズへの愛の誓いそのものだった。
「お前が、ローズ嬢を……」
「眠りにつく前から。ずっと、彼女だけを愛してきました。この気持ちに、嘘偽りはありません。この国を愛する彼女こそ、私の王妃に最も相応しい」
「……そうか」
リカルド・クリスタロスは、悩んだ末に首を垂れる息子の名を呼んだ。
リカルドはベアトリーチェの過去を知らぬわけではない。
ベアトリーチェを生かしたのはリカルド自身で、そのため彼個人に、特別な思いを抱いてもいた。
ただ、彼は王だ。
幸福を願う少年と少女の婚姻を祝福したいと思っても、それにより国が脅かされるなら、彼は後者の方をとる。
「レオン。ベアトリーチェ・ロッドとの決闘を許可する。彼に勝ち、その力を彼女に示しなさい」
「ありがとうございます」
◇
「……まさかあの方が、本気で来られるとは思いませんでした」
ベアトリーチェは城から届いた手紙を見て、静かに言った。
レオンがローズを奪う決闘に正式に名を連ねると――手紙にはそう書かれていた。
「レオン様の参加は、普通に考えれば彼への牽制でしょうね。レオン様のローズ様への思いがいかほどかは私にはわかりかねますが、少なくともあの方は、この国の王族であることを自負している。『鍵の守護者』であるローズ様を他国に出してはならないという思いから、名乗りを上げられたのでしょう」
「兄様……」
ベアトリーチェはローズと結婚したら、新しい屋敷に移ろうと考えていた。
今はまだ伯爵邸に住んでいる彼だが、元々自分の屋敷を持つことは考えており、一年後には結婚するし、いい機会だと思って新しく屋敷を建てていた。
完成は数か月先だが、一年後には確実に出来上がる予定だ。
ベアトリーチェは着々と、ローズを迎える準備をしていた。
だというのに。
手紙を読む兄の背を、ジュテファーは不安げな瞳で見つめた。
兄は強い。分かっている。でも、兄がいくら強くても同時に二人何て、そんなのは反則だ。
「そんな顔をしてはいけませんよ。ジュテファー。貴方の兄様は、未来の姉様を必ず守りきってみせます」
「はい」
兄を慕う弟は、いつものように微笑む兄に、何も言うことが出来なかった。
◇
「兄上が決闘……」
兄レオンが決闘に名を連ねるという話を聞いた後、リヒトは自室で机に向かって考え事をしていた。
よくやるものだ、とも彼は思った。
魔力をぶつけ合って自分の力を示す。
この世界の伝統は、いつもリヒトに己が弱者であることを突きつける。
リヒトはなんとなく、自身の魔法を発動させた。
しかし指先からちょろちょろと水が流れるばかりで、リヒトは沈黙の後に溜め息を吐いた。
これでは、自分が彼らに名を連ねて戦えるはずはない。
「……いやいやいや! なんで俺が戦わなきゃいけないんだ!?」
ふと、頭に浮かんだ考えを否定する。
リヒトは頭を振って、机の上の紙の束に目を移した。
魔法学院への留学。
ロイに示された期間はおよそ半年。
本来は数年かけて行うものらしいが、リヒトに1年間の期限があるために、彼はリヒトのためだけに半年で学ぶカリキュラムを用意してくれると言った。
そのための前準備。
入学の為の試験と渡されたテストは、どれもがリヒトにとって初歩的なものに思えた。
これがこの世界の一般的な魔法理論だというのなら、自分はもう十年前にそのラインには到達していたのかもしれないとも思う。
でも、知識があっても何にもならない。使えなくては意味がないのだ。
与えられた問題は、頁が進むに連れ難易度があがっていく。
ロイは、解けるところだけ解けばいいと言った。リヒトは一問もあけることなく、全ての問題に回答した。
びっしり埋まった解答用紙を見て、リヒトは手に力を込めた。
わかる。わかるのだ。全部、全部、わかるのに。
――どうしてこの体は、魔法が使えない?
「あ、れ……?」
回答を終えた問題用紙に、どこからか落ちた滴が、インクの文字を滲ませる。
もし魔法が使えたら。
もし自分が、誰かに認めてもらえたら。
そんな自分に自信を持つことができたら。
――王に相応しい炎属性を、自分は手にすることができるだろうか?
いいや。無理だ。自分には出来ない。リヒトはそう思った。
言葉は呪いのように降りかかる。
父に与えられた存在の否定の言葉は、どんなに他者に評価されてもリヒトの中からは消えてくれない。
自分はきっと一生、炎属性は得られない。
その時、リヒトの中でふと、以前『彼』にかけられた言葉が浮かんだ。
それは尊敬する、もう一人の『兄』の言葉。
「王様になれなくても」
彼の頬を、涙が伝う。
「生きてはいける」
でもそれを認めてしまったら、リヒトはこれまでの自分を、全て否定することになるような気がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ガレット・デ・ロワ?」
翌日、ロイに呼び出されたローズ、ベアトリーチェ、レオンの三人は、城の庭に設けられたテーブルを見て驚いた。
リカルド・クリスタロスが許したにしても、他国の王城の庭に巨大なテーブルを用意し、主が座るべき場所に自ら陣取るなんて、余程の自信家か愚か者のどちらかだ。
三人は、確実にロイは前者だろうと思った。
他国の地にありながら、傲慢を許される自分という人間を、この国の王子や貴族である三人に印象付けさせるための『遊び』だと。
「ええ」
ベアトリーチェの言葉に、ロイはにっこり笑った。
「いきなり戦うなんて、そんな野蛮な真似はいたしませんよ。私も彼女と交友を深めたいところですし、彼女の好きなお菓子で勝負していただけたらと思いまして」
「彼女を得る勝者を菓子で決めると?」
にこやかな笑みを浮かべるロイに対し、ベアトリーチェは不快感を顕わにした。
『ガレット・デ・ロワ』
これもまた、異世界から齎されたとされる文化の一つだ。
テーブルの上には、紙製の王冠ののったパイが置かれている。
これは、中に入ったフェーヴと呼ばれる陶器の人形の入ったパイを選んだ人間が『王様《ロワ》』となって王冠を被り、祝福されるという運試しだ。
「いえ。今回はまず小手調べ。決闘は後ほど行っていただきたく思います。けれど、運も実力のうちと言うでしょう? 何事も、力が全てとは限らない。彼女を守るためには、時には運だって必要となるかもしれない。私は、まずそれを貴方方と競わせていただきたい。――ローズ様」
「はい」
決闘の勝敗を見守るために呼ばれたローズは、今日はドレスを纏っていた。
「今回の勝者への景品は、貴方からの口付けでよろしいですか?」
「は……はい!?」
ローズは、思わず声を裏返えさせた。
――この方は、一体何を言っているのか。
「唇に、とは言いません。そうですね。勝者への祝福のキス。額に口づけていただければ嬉しいのですが……」
「……っ!」
ローズは思わずベアトリーチェを見た。
こんな話は受けられない。ローズは必死にベアトリーチェに目で助けを訴えたが、彼はすんなりロイの提案を受け入れた。
「かしこまりました。受けて立ちましょう。豪運と呼ばれる貴方なら、確かに運はお持ちでしょうし、それを試したいと思われるのももっともなことです。ただこの勝負、持ち出してきたのはそちらで、私は正式な彼女の婚約者です。最初に選ぶ権利は、私が頂いてもよろしいですね?」
「ビーチェ様……」
――この人は、自分の婚約者が他の男にキスしても平気なんだろうか?
そう思うと、ローズは複雑な気分だった。だいたい、景品という扱いがもやもやする。
「安心してください。ローズ様。私は負けたりなんてしませんよ」
ベアトリーチェは不敵に笑った。
「?」
ローズはベアトリーチェの笑みの意味が分からなかった。
もともと仕掛けられた勝負。ベアトリーチェが最初に当てなければ、彼は確実に負けてしまうに違いない。
「私の勝ちです」
だが、ローズの心配は杞憂に終わった。勝敗はすぐについた。
ベアトリーチェは最初の選択で、見事フェーヴを引き当てたのだ。
フェーヴは王冠の形をしていて、まるでロイが、自分の勝利を確信しているかのような形だった。
それを指で挟んで持ち上げて、ベアトリーチェはにこりと笑う。
ローズはベアトリーチェの笑みを見てほっと胸を撫で下ろした。
引き当ててくれたのが、彼でよかったと。
でも。
「ローズ様」
席を立って自分に近付いてきたベアトリーチェに艶のある声で名前を呼ばれ、彼女は自分に向けられた笑みの意味を理解して頬を染めた。
――この勝負の、景品は自分だ。
「約束通り私に口付けをしてくださいますか?」
ベアトリーチェはそう言うと、ローズの前に膝をついた。
「……は、はい……」
ベアトリーチェは目を瞑る。
そんな彼の額に、ローズは恐る恐る口付けた。
「きゃ……っ!」
ベアトリーチェは何を思ったか、自分にキスしたローズをそのまま抱き上げた。
「お二人にはっきりと申し上げましょう。他国の王、自国の王子とはいえ、私は婚約者を譲るつもりは毛頭ございません。彼女は私の婚約者です」
ローズは何が起こったのかわからず目を白黒させた。
混乱と周知で頬を染めるローズに、囁くように彼は続ける。
「ローズ様。いかに彼が豪運の持ち主でも、貴方に『幸運』を与えられた私が、負けるはずがないでしょう?」
「……っ!」
そういえば、そうだった。
ベアトリーチェは、沢山の人間に幸福の植物を与えられたことがある。そんな彼が運試しで負けるはずはなかったのだ。
「ローズ様。貴方は私の婚約者、そうですね?」
「……はい」
ベアトリーチェの腕の中で、ローズは静かに返事をした。
ベアトリーチェはその答えに満足そうに微笑んで、彼女を抱えたままロイとレオンの方を見た。
「貴方はまだしばらくこちらにいらっしゃるとか。血統は一日一つが決まりの筈です。今日はこれで彼女と一緒に下がらせていただきます」
「……」
「そもそも今の私に賭け事で挑もうとする方が愚かしいことです。私から彼女を奪いたいなら、正々堂々正面から戦ってきたらどうですか?」
ベアトリーチェはロイとリヒトに皮肉を言って微笑むと、ローズを抱えたままアーチの方へと歩いた。
ローズの剣を抱えたジュテファーは、兄の後を小走りで追いかける。
自分より小さな相手にお姫様抱っこされたローズは、頭が混乱していた。
こんな女の子扱いをされたのは、ローズは生まれて初めてのような気がした。
頭の中の整理が出来ない。
ベアトリーチェは伯爵家の馬車にローズを乗せると、自身も馬車に乗り込んだ。
「ビーチェ様、あの……」
「貴方を、賭けの対象のようにするような真似をして、申し訳ございませんでした。ですがこれも貴方との未来の為。どうか耐えてください」
ベアトリーチェは、ローズの前に座った。
隣で無かったと思う半分、赤くなった自分の顔が彼にはばっちり見えているのかと思うと、ローズは恥ずかしくてたまらなかった。
ベアトリーチェから視線を逸らすローズに対して、彼はこんなことを言った。
「ローズ様」
「……はい」
「貴方が額に口づけてくださる権利が欲しくて勝負を受けたと言ったら、やはり怒ってしまわれますか?」
にこり。
ベアトリーチェは、悪戯っ子のように笑った。
「ローズ様の唇は、とても柔らかいのですね」
「……っ!」
婚約期間中の決闘。
その間は、職務よりも決闘を優先することが許される。
これは、魔力の強い貴族のみの特例だ。
ローズとベアトリーチェは、それに該当している。
国のこれからを決めかねない婚姻は、それほど重視されるということだ。
それに魔法は心から生まれる。守りたいと思う相手を思う程、奪いたいと思う気持ちが強いほど、彼らの魔法は強くなる。ユーリ・セルジェスカがそうであるように。
「結婚が決まったら是非貴方から、私に口付けてほしいものです」
ベアトリーチェはそう言うと、年上の男らしくどこか艶っぽい笑みを浮かべた。
◇◆◇
「――夜分に、不躾な方ですね」
その日の夜遅く、手紙で呼び出されたベアトリーチェは軍服に身を包み一人空を見上げていた。
月の光が降り注ぐ。
彼の静寂の世界を乱したのは、赤い髪と瞳の長身の男だった。
「『青い薔薇』の守護者、『地剣』ベアトリーチェ・ロッド。君は本当に、面倒な男だな」
「こんな時間に人を呼び出す貴方の方が、面倒なのではありませんか?」
ベアトリーチェは振り返り彼を睨んだ。
『大陸の王』――ロイ・グラナトゥムを。
「王である俺にその口の利き方。神の祝福を受けたとはいえ元平民の君が、本当に俺に敵うとでも?」
昼間の彼と同一人物とは思えない。
傲慢極まりないその男は、ベアトリーチェの出生をせせら笑った。
「ええ。思っております。私は絶対に彼女を守る。貴方には渡さない」
「そう言っていられるのも今の内だけだ。なんでも最近、屍花を君の魔力無しで咲かせる方法が出来たとか? ……だったら」
ロイはにやりと笑った。
「婚約者が死んでひとり身になった可哀想な女性の心を慰めた優しい男に、彼女が惹かれても文句は無いだろう?」
「――それは私を殺すと、そう仰っているのですか?」
「さあ? それはそちらの行動次第だ」
最早脅しと同じだった。
ローズを渡さなければお前を殺すと。
けれどベアトリーチェは、彼に向けられた殺意から逃げようとはしなかった。
「貴方には……貴方にだけは、絶対に彼女は渡さない」
「力づくで奪ってやる。あれは俺にこそ相応しい」
王となるべくして生まれた者。
赤い色を持つその男は、高慢な笑みを浮かべる。
「『鍵の守護者』は、俺のものだ」
彼が見ているのは、ローズではなく彼女が守る物。
それを理解したベアトリーチェの顔色は、ますます険しいものとなった。
「貴方は、そのためにローズ様を……っ」
「まあそれが無くとも、彼女にも興味はあるさ」
彼女を愛し守る者。そのために命がけで戦おうとする目の前の人間を、王たるロイは小馬鹿にするように笑って言った。
「魔王を倒したほどの器なら、強い魔力を持つ子どもが期待できそうだからな」
強い魔力を持つことが、どれほどこの世界で重視されているか。
ベアトリーチェは知っている。自分がその恩恵を、多く得てきたからこそ――。
でも、だからこそベアトリーチェは嫌なのだ。
自分の幸福を願ってくれた相手を、そのような輩に渡してなるものか。
たとえこの想いが、王族とも争う自分の好意が、体に流れる血ゆえに相応しくないと言われても。
この世界で自分にもう一度、女性《ひと》を愛したいと思わせてくれた少女を、傷付けることは許せなかった。
「彼女を物としか扱わない貴方に、私は彼女を渡さない!」