朝日が登る。
 ローズが肌寒さに目を開くと、一人の子どもが自分を見下ろすように立っていた。
 相変わらず粗末な服を着た子どもは、見目には不似合いな口調でローズに言った。

「やっと、めをさまされましたか」
「シャル、ル……? どうして、私はここに……?」

 ローズは、頭の痛みに目を細めながら周囲を見渡した。
 随分と空が近い。ローズは塔の上かと推測したが、いつどうやってここに来たかは、彼女の記憶にはなかった。
 格好は、就寝時の薄着のまま――まだ少し寒い朝の外気に、ローズは体を震わせた。

「確か私、林檎を……」
 ローズは、覚醒しない頭で気を失う前のことを思い出そうと努力した。
 そうだ。そうだった。自分は、目の前の少女に林檎を渡されて、それで――。

「わたしがあなたをつれてきました」
 顔色を曇らせるローズに、淡々とシャルルはこたえた。

「連れてきた? ……でも、門はどうやって……?」
 ローズは、今自分が居る場所は、クリスタロス王国の城の一角だと思っていた。
 しかし、そう考えるといろいろとおかしいのだ。
 何故なら王城の門も公爵家の門も、本来『魔封じ』により固く閉じられている。
 最も安全とされる守護魔法を突破し、自分を攫う程の力がシャルルにあるとは、ローズにはとても思えなかった。

「りゆうは、かんたんです。せいれいは、じぶんがみえるにんげんを、せいれいのいとしごとよびだいじにする。せいれいは、しにかけたいとしごを、たすけることがあるのです。わたしは、せいれいのいとしご。わたしはせいれいにたすけられた。『まふうじ』は、『しにちかいもの』にはつうじない。だからわたしに、『まふうじ』はつうじない」

「一度死にかけた人間……?」
 ローズの友人である『七瀬明』は『精霊の愛し子』だ。
 彼女に『魔封じ』は通じない。
 彼女はこちらに来る前に、自分は一度死んだのだとローズに話した。
 だから自分に、帰る場所は無いのだと。だからこそ、精一杯この世界で生きたいのだと――。
 実はローズはずっと、アカリのこの言葉に疑問を持っていた。
 
 一度死んだはずだと言っていたアカリには、召喚されたときになんの外傷もなかった。
 それにどの過去の文献をみても、『聖女』は『転移者』であって『転生者』ではないとされていた。
 アカリが、事実を誤認した理由――シャルルの言葉を信じるなら、ローズは全ての辻褄が合う気がした。

 つまり『七瀬明』は、精霊によって生かされ、『精霊の愛し子』となった存在であると。

 ローズはアカリの言葉を信じている。
 ただ、アカリはこの世界を『Happiness(ゲーム)』の世界に似ていると言ったが、似ているとしても、ローズは自分の生きるこの世界が、虚構だとはは思えなかった。

 だからこその逆転の発想だ。
 アカリの世界にある『物語《ゲーム》』が、この世界と何らかの関わりがある人間によって作られた可能性。
 この世界に異世界の転移・転生者が存在するように、もし別の世界でも、同じ現象が起きているならば――……。
 可能性は、ある。

 そしてアカリが生きていたという『西暦《ねんだい》』よりも、未来を生きていたという異世界転移者の本がすでにこの世界にはあることから、ローズは二つの世界の間にある『世界の壁』のようなものを超えたとき、経過している時間は、必ずしも一致しない可能性もあると考えていた。
 だとするなら。

「……アカリが、帰れる……?」

 自分の呟きに、ローズは驚きを隠せなかった。
 自分の生きる世界が虚構でなく、アカリがまだ死んでいないとするなら、過去の『聖女』の中に元の世界に帰還した記録はあることから、アカリが元の世界に戻ることが出来る可能性は高い。

 アカリは優秀な人間だ。今の健康な体で元の世界に帰ることが出来れば、アカリはきっと、成功できるだろう。
 こちらの世界のように『聖女』として余計な期待をされることもなく、自由に彼女らしく生きていけるに違いない。
 『元の世界に帰る』ことはアカリにとって幸せなことの筈なのに、ローズはそれを喜べない自分に気がついた。

 自分の身が危険にさらされているというのに、ローズはアカリのことで頭がいっぱいだった。
 だからこそ、ローズは気付けなかった。
 今の自分の置かれた状況を。

「わたしのまほうは、きょうかまほう。もんをのぼることは、わたしにはたやすい。もんをあけるなんて、わたしにはかんたんでした」
「……」

 ローズはシャルルの方を見た。
 アカリと同じ『精霊の愛し子』。しかし纏う空気はまるで違う。

「だからこそそんなわたしを、りようするわるいおとなは、たくさんいました。めのまえで、たくさん、ひとがしにました。なんにんも、なんにんも。わたしは、それでも、もんをひらきました。そうすれば、ごはんをくれたから。いきるためには、そうすることがただしいのだと、ずっと、そうおもっていました。みつかったら、ころされる。だったら、ころされるまえに、ころせばいい。そんなわたしのせかいを、おうさまはかえてくれた」

 ローズは以前、他国で『魔封じ』が暴かれた事件が多発した時期があったことを思い出した。
 結局犯人は捕まらず、『魔封じ』の効かない『死人《アンデッド》』の仕業ではないかと話を聞いた。

 本来、百年に一度しか生まれないともされる希有な存在。
 数が少ないからこそ記録も少なく、文献が殆ど残っていない『精霊の愛し子』が関わっていたからこそ事件が迷宮入りしたというのなら、ローズには納得できるような気がした。

 そしてこの事件が起きてから、門以外の鍵は普通の鍵を用いている屋敷が増えた。
 それは『魔封じ』を突破された時の、保険のようなもの。
 二つの異なる鍵を用意することで、外部からの侵入を防ぐことが可能になる。
 しかしもし、その両方を突破出来る『人間』が居るとしたら――それはローズの持つ『鍵』と同じように、今の世界において、脅威となり得る存在だ。

「ほんをよんでくれた。ことばをおしえてくれた。なにもしなくても、おうさまは、わたしにいばしょをくれた。もう、だれもころさなくていい。おうさまは、へいわなくにをのぞんでいる。そのために、ちからをもったおきさきさまが、ひつようなのです。だから、あなたにはきてもらわなくてはならない。わがくにに、あなたのちからがひつようなのです。――だから」

 シャルルのチョーカーに嵌められた石が光る。
 ミリアと同じ強化の魔法。
 しかしその魔法は、ローズを守るために魔法を使ってくれるミリアとは違い、害するために発動される。
 ローズは自分の指輪に手を伸ばした。
 相手は幼い少女。他国の王の臣下に反撃するのは憚れたが、今の相手は一度自分を攫った子どもだ。多少反撃しても問題にはなるまい。

「え?」
 しかし、ローズは魔法が使えなかった。
 その時、漸く指輪がないことに気付いたローズは、シャルルの手に握られた指輪に気付いて、思わずそう声を漏らした。

◇◆◇

「ローズさんの姿が見えないというのは本当ですか!?」

 翌朝、ローズの不在が明らかになり、その件はベアトリーチェをはじめアカリ達にも伝えられた。

「ああ……ローズの部屋にこの手紙があって。読んだ跡はあるんだが」

 ギルバートはそう言うと、ローズの部屋から持ってきた手紙を見せた。

「昨日の夜、私が手紙を出したんです! これは、その時の手紙です……!」
「鳥を飛ばしたのは夜、か。ならば少なくともその時間までは、ローズは家にいたことになるな」

 ギルバートは冷静に、アカリの言葉から情報を整理した。

「この鳥は、追跡は行えないのですか?」
「無理だ。紙の鳥は、匂いなんかを追っているわけじゃないからな。範囲指定はできるが特定の人物に届けるのは難しい。場所の指定が基本必要だ。ある程度場所が絞れていれば、優先的に人物を指定はできるが、どこにいるかわからない人間には飛ばせない」

 ギルバートに伴い城を訪れていたミリアの問いに、開発者であるリヒトが返す。

「そうなのですね……」
 ミリアは他の者に気付かれないよう、手に力を込めた。
 やはり彼の魔法道具は、肝心な時に役に立たない――行方がわからないのがローズということもあって、ミリアは苛立ちを募らせる。

「みんなで探しましょう! ローズさんに何かあったら心配です!」
「ローズだから大丈夫とは思うけどな」

 レオン、リヒト、ギルバート、ミリア。
 四人に行動を促したアカリに対し、ギルバートは静かに言った。
 これまで、ずっと『自慢のお兄様』の話をローズから聞かせられていたアカリはかちんときた。
 妹のことを大切に思ってくれる優しい『お兄様』? 今のギルバートを見て、アカリはそうは思えなかった。
 
「ギルバートさん! ローズさんは強くても女の子なんです! 大丈夫とか大丈夫じゃないとか、そういう問題じゃありませんっ!!」
「同感です」

 憤慨するアカリにミリアが頷く。

「お嬢様は、突然行方をくらませるような方ではありません。何かあったと考えるべきです」
「だが、そうなると鍵は? 鍵がないのに出入りが出来るなんてことがあるのかな? もしそんな人間がいるなら、それは死人しかありえない」

 三人のやり取りを眺めていたレオンは、腕を組んでギルバートとミリアに尋ねた。

「たしか公爵家の鍵は門が『魔封じ』だった筈。あの鍵は、普通の人間は『解呪の式』と、鍵となる魔力がなければ風の人間には開けられない。君たちの話だと、公爵家の鍵が何者かに悪用されていたということになる」
「……え?」
 レオンの言葉の意味が分からず、アカリは首を傾げた。

「知らなかったのかい? 通常生きている人間が無理に開けようと『魔封じ』の門に触れた場合、魔法なんかが発生するようになっているんだよ。ただ、アンデッド――魔物き、死せるものと呼ばれる存在には、『魔封じ』は通用しない。あれはあくまで、対生き物の用のものでしかないんだ」
「しかし、死人がお嬢様を攫ったというのは考えづらいです。お嬢様がその程度の輩に負けるはずありませんし、第一魔王討伐後、そのようなものが現れたという話は聞いておりません」
「考え方を変えるべきなのかもしれないな。ローズが普通の敵に連れ去られるような失態をする筈がない。それが出来るとしたら、自分より魔力か立場が上の人間。もしくは――」

 ギルバートは、すっと目を細めた。

「――ローズを攫ったのが、自分より弱く、攻撃出来ない相手だった、とか」
「攻撃できない? どういうことですか?」
 リヒトは首を傾げた。ギルバートは話を続ける。

「そういえば、床にこんなものが落ちていた。誰か、見覚えは?」
 彼はそう言うと、布にくるんでいた物体を彼らに見せた。
 それは――。

「赤い、林檎……?」
 少しだけ齧られた、真っ赤に熟れた林檎。
レオンとリヒトとミリアは首を傾げた。

「『白雪姫』……?」
 そんな中口を開いたのは、アカリただ一人だけだった。
「『しらゆきひめ』? それは、どういう……?」 
 リヒトが首を傾げていると、『大陸の王』ロイ・グラナトゥムが、息を荒げて彼らに尋ねた。 

「シャルルを知らないか!?」

 ロイは、明らかに動揺しているようだった。

「……シャルル?」
「俺が、この国に連れてきた子どもだ。朝起きたら部屋に居なかった」
「見ていない。それより、ローズを見ていないか?」
「見ていない」
 リヒトの問いにロイは首を振った。

「……くそ。やっぱり見当たらないか」
「……?」
 ロイは珍しく、感情を露わにしていた。そんな彼を見て、リヒトは首を傾げた。
 その時、空からきらきらとした粒子が降りてきて、アカリは顔を上げた。

『どうしたの? アカリ』

「サラ!」
 アカリが宙に向かって話し出すと、周りの人間はぎょっとして彼女を見た。
 精霊や妖精を目視することが出来るのは、『愛し子』と呼ばれる人間だけだ。

「ローズさんがいないの! どこにいるかわからない?」

『ローズ?』
 サラは首を傾げた。
 精霊は、愛し子以外に基本興味を示さない。
 ただ、アカリの真剣な瞳を見て、サラはアカリに尋ねた。

『ローズが見つかったら、アカリ、嬉しい?』

 アカリは大きく頷いた。
 するとサラは、くるくると宙で2回回転してから、ぱっとその小さな手を上げた。

『わかった! じゃあみんなで、ローズのこと、探してくる!』

「みんな?」

『うん! 今呼んだから、安心して! アカリ、待っててね!』

「――ありがとう!」
 サラの言葉に、アカリはほっと息を吐いた。
 そして、精霊たちの探索は程なく功を為した。

『ローズ、居たよ。あっちの塔のうえ! 愛し子と一緒にいる!』

「サラの……精霊によると、ローズさんはあっちの塔の上だそうです! いとしご? と一緒に居るって……」

 アカリの言葉を聞いて、一同の顔が明るくなる。
 アカリを凝視していた、大陸の王を除いては。

「……君も精霊の愛し子なのか。じゃあ、ローズ嬢と一緒にいるのは……。……くそっ!」

 アカリの声に、誰よりも早く一歩を踏み出したのはロイだった。

「私達も行きましょう!」
 次にアカリ。そして他の者も続く。

「しかし、塔の上……?」

 リヒトは、アカリが指差した方向を眼鏡を掛けて観察した。
 そして『あること』に気付き、リヒトはレグアルガを呼ぶために左手を上げようとしたロイに体当たりをして、体を地面に押さえつけた。

「来い! レグアルぐあッ」
「馬鹿! 契約獣を呼ぶなよ!」
「何のつもりだ。リヒト・クリスタロス……!」
 地を這うような声で、ロイはリヒトを呼んだ。

「ドラゴンなんか呼んだりしたら、ローズたちが落ちるかもしれないだろうが!」
「……」
 子どもに叱りつけるかのように叫んだリヒトの言葉に、同じくレイザールを呼ぼうとしていたレオンも動きを止めた。



 指輪を奪われ、魔法が使えない。
 その状況の中、一歩一歩自分を際へと追いやる子供を、ローズは目をそらすことなく見上げていた。
 ローズには、強化魔法特有の空気の揺らぎが、シャルルの体を包んでいるのが見えていた。

 それはシャルルがやろうと思えば、この塔を一瞬破壊できるということを意味していた。
 水や地、雷や炎などという他の属性とは異なり、強化の魔法は適性さえあれば少ない魔力でも扱える。
 あらゆる壁を打ち破る破壊の力。
 故に強化の魔法は、『運命を打ち破る者に与えられる』といわれている。

「おうさまは、わたしをたすけてくれた。おうさまはわたしに、ひかりをあたえてくれた。だから、おうさまのねがいをかなえることが、わたしのしめい。おきさきさまが、どうしてもあのかたのねがいを、かなえてくれないというのなら。わたしがあなたに、『はい』といわせるまで」

 シャルルはそう言うと、ローズが寄りかかっていた壁に拳を打ち込んだ。
 パラパラと、砕けた石が音を立てて落ちる。

「ゆびわがなければ、あなたはまほうをつかえない。やさしいあなたは、わたしをきずつけられない。いってください。おきさきさま。かれではなく、おうさまをえらぶと」
「……」

 自分より小さな生き物に、ローズは暴力をふるえなかった。
 決闘期間中、婚約者を変える方法は、ローズ自身がそれを認め、口にすること。
 それを『契約水晶』に聞かせることで、契約は書き換えられる。
 婚約者の名前から、決闘を挑んだ名前へと。
 そして過去の決闘の歴史の中で、婚約者を殺されかけた人間が、相手を変えた前例はある。
 シャルルの手には、ローズの指輪と水晶があった。

「――さあ」
 ローズは眉間に深く皺を刻んだ。
 剣も魔法もない今、足場を崩すことが可能な相手に手を出すのは、命に関わることだ。
 ローズは動けなかった。
 その時だった。

「やめるんだ! シャルル!」

 塔の階段を上り終えたロイが、ローズを追い詰める子どもにむかって叫んだ。

「……おう、さま?」

 シャルルは振り返り、怯えた声で主君を呼んだ。

「俺はこんなことは望んでいない! お前が手を汚しても何もならない。ローズ嬢を離すんだ!!」 

 ロイの声には、怒りがにじんでいた。
 シャルルは、彼にそんなふうに叱られたのは、それが初めてのことだった。

「そん、な……」
 ゆっくりと自分に近付く『おうさま』が、今のシャルルは怖かった。

「……わたし、は。おうさまが、よろこんでくれると、思って」
「そんなことをしても俺は喜ばない。だから、はやくこちらへ来るんだ」

 ロイは険しい表情でシャルルを見ていた。そんな彼の顔を見て、シャルルは泣きそうな声で言った。

「い、いや。そんなめでみないで。わたしをきらわないで。おうさま」
「シャルル」
「いやっ!!!!」

 シャルルは、水晶と指輪をロイの方に投げつけた。
 その時、レンガに足をとられ、子どもの体は後方へと傾いた。
 その先には何も無い。

「シャルル!」
 ローズは思わず子どもに手を伸ばした。
 しかしその時、塔に亀裂が走り、ローズの体は宙に投げ飛ばされた。

「え?」
 ローズは壁に手を伸ばした。
 しかし、剣も魔法も無い今の彼女では、指の数本で体を支えるなんてとても出来なかった。
 そして僅かに掠めた指先は、そのまま宙を掴んだ。

「「ローズ!」」

 レオンとリヒトは、幼馴染みの少女の名を叫んで駆け出した。しかし二人の手は、彼女の手を掴むことが出来なかった。
 ロイは躊躇いなく、亀裂の広がるほうへと駆け出した。だが彼が掴んだ手は、自分が求婚した相手ではなく、幼い子どもの方だった。

「シャルル!」
 ロイは子どもの名を叫ぶと、体を引き上げて抱きしめた。
 大きくて温かな温もりに包まれた子どもは、ぽろぽろと涙を流してロイに縋りついた。
 シャルルは無事だ。
 しかし彼女《こども》を助けようとしたローズは、いまだ落下を続けていた。

「ローズ!」
 リヒトは、墜落するローズに手を伸ばして叫んだ。
 リヒトの魔法では、彼女を救うことは出来ない。そしてレオンにも、ロー無傷で助けることは出来なかった。

 氷と炎では、魔法自体がローズを傷付ける。
 レイザールを呼ぶのは間に合わない。
 そして水魔法を持つはずのギルバートは、何故か今、その場に居なかった。
 どんなに手を伸ばしても、その手はローズには届かない。

「どいてください!」

 立ちすくむ二人を薙ぎ払い、ミリアは魔法を発動させた。
 ミリアは空を飛ぶことはできない。
 けれど自分の命と引き換えになら、強化の魔法を持つ自分なら、助けることは可能だと彼女は思えた。

 ――思い出せ。思い出せ。
 ミリアは心の中で呟いて、床を強く踏みしめた。
 彼女の中で、幼いローズが自分に笑う。

『貴方の手は、人を守ることが出来る手なのね』

 ミリアが、塔から飛び降りようとしたまさにその時――ミリアのよく知る声が、彼女の主の名前を呼んだ。

「ローズ様!」

 土の階段を駆けあがる。
 彼はその手を空へとのばし、墜落するローズの体を抱きとめた。
 衝撃を予期して目を瞑っていたローズは、予想より小さな衝撃に、ゆっくりと瞼をおしあげて目を瞬かせた。
 騎士団の副団長である彼が、団長であるユーリと共に城に来るのに、些か他の人間より時間を要したことは幸運だった。
 後からやって来たユーリは、突然ベアトリーチェが魔法を発動させた理由に気付いて、目を見開いた。

「――何を、やっているのですか。これが、貴方のやり方ですか。こんな、こんなことが……!」

 ベアトリーチェは塔の上のロイを睨みつけた。
 だが、ローズに服をひっぱられ、ベアトリーチェは感情を抑えた。
 ベアトリーチェの動揺は、『現象』として現れる。ベアトリーチェは自分の特性を思い出し、言葉を飲み込んでローズに尋ねた。

「……大丈夫ですか? ローズ様」
「ビーチェ、様……」
「心臓が、止まるかと思いました」

 ベアトリーチェはローズを抱く手に、少しだけ力を込めた。

「怖かったでしょう……? ああ、本当に。貴方は目が離せない。元気に動き回る貴方も好きですが、貴方にもしものことがあるかと思ったら、いつでも貴方を守れるように貴方から離れたくないと思ってしまう」

 ベアトリーチェはいつものように、ローズに向かって笑みを浮かべた。
 そんな彼の姿に、ローズは最近の自分の日常が戻った気がして表情を和らげた。

「執着深い男はお嫌いですか?」
「い、いえ……」
「ならよかった」

 ベアトリーチェの言葉に、ローズは顔を赤くして、彼からまた目を逸らした。
 穏やかな雰囲気が二人を包む。
 しかしそれからすぐ、ベアトリーチェは再び塔を見上げて、問題の発端であろう男を睨み付けた。
 その声からは、先程のような甘さは微塵も感じられない。

「ロイ・グラナトゥム様」
「……」
「彼女は私の婚約者です。私を害するならまだしも、彼女を傷付けるのは絶対に許しません」

 ベアトリーチェはそう言うと、ローズを抱きかかえたまま階段を下りた。そんなベアトリーチェの背に向かい、リヒトは彼の名前を呼んであるものを投げつけた。

「ベアトリーチェ!」
「……リヒト様。人に物を投げないでください」

 リヒトが投げた『それ』を気配で察して受け取ったベアトリーチェは、振り返って不機嫌そうな表情でリヒトを見上げた。

「その姿だと大変だろ」
「……」

 リヒトの言葉の意味が分からなかったベアトリーチェだったが、手のひらを開いて納得した。
 リヒトが投げたのは、ローズの指輪だった。

「まああの王にはばれていることですし、まあいいでしょう」
「ビーチェ様?」

 ベアトリーチェはローズに優しく微笑んで、指輪を自分の指へと通した。
 その瞬間、子どものようだった彼の体を、光の粒子が包みこんだ。
 四つ葉の効果が発動される。
 光が消える頃に現れたのは、この世の人と思えないほど美しい姿をした、青年の姿のベアトリーチェだった。

 神秘的という言葉が似合う。
 精霊のような青年に抱かれたローズは、思わず言葉を失った。
 以前より距離が近すぎて、どう反応していいかわからない。
 目を白黒させるローズに、ベアトリーチェは微笑んだ。

「この姿で貴方を抱えていると、貴方が私より年下の女性だと感じられてよいですね」
「……」

 幼な妻発言にローズは無言になった。外見と言動の印象が一致しない。
 精霊とも見まごう姿。
 清らかな外見で言われると、どこか背徳的なものがある。

「ユーリ。申し訳ございませんが、警護を頼みます。今の私では戦えませんので」
「……わかった」

 ベアトリーチェの頼みに、ユーリは静かに首肯した。
 公爵家にローズを送るまで、ベアトリーチェはずっと彼女を抱きかかえていた。
 娘を抱えた美しい見知らぬ男の登場に、彼の本当の姿を始めてみるファーガス・クロサイトは呆然とした。

「き、君は……」
「申し訳ございません。ベアトリーチェ・ロッドです。ローズ様の部屋に案内していただいてもよろしいですか?」
「君が……?」

 ファーガスは目を瞬かせた。
 狐にばかされているのではと目を擦るローズの父に、ユーリが耳打ちする。

「彼の言葉は本当です」
「君が言うなら本当なのか……。申し訳ない。娘が迷惑をかけたようだ」
「いいえ。婚約者なのですから当然ですよ」

 ベアトリーチェの言葉は信じなかったファーガスが、ユーリの言葉はすぐ信じたことに、ベアトリーチェは苦笑いした。 

◇◆◇

 初めてローズの部屋を訪れたベアトリーチェは、彼女をベッドに横たえると、自分も軽く腰掛けて、ローズの部屋を見渡した。
 薔薇に溢れた室内は、騎士としてのローズの印象と少し異なる。

「思っていたよりもずっと、可愛らしいお部屋ですね」
「……装飾の類などは、全てミリアと父が選んだので」
「なるほど」

 ローズの返答に、ベアトリーチェは頷いて少し笑った。

「貴方は本当に、周りの方に大切にされていらっしゃるのですね」
「……」

 しかし今度の言葉に、ローズは言葉を返すことが出来なかった。
 ベアトリーチェは、そんなローズの頭を優しく撫でて、ベッドから立ち上がった。

「今日はもう、ゆっくり休まれてください」
 しかし、部屋から出ていこうとしたベアトリーチェの服を、ローズは掴んで引き止めた。

「ローズ様?」
 ベアトリーチェは困ったように彼女の名を呼んだ。

「……ビーチェ、様……」 
 ローズの声は震えていた。
 接触禁止を申し渡され、漸く会えたベアトリーチェの顔を見ていると、ロイから言われた心無い言葉が、ローズの中に蘇った。

『君に指輪は必要ない。君に剣は必要ない。君はただ花として、俺の隣にいればいい。高潔な薔薇の騎士か。全く呆れたものだ。何も選べないだけの人間を、どうして人はそうもてはやすのか。馬鹿馬鹿しい。この国の人間は総じて愚かだ。誰からも愛され守られる――だからこそ、綺麗でいられる。汚れを知らぬ君のような人間を、屈服させるのは面白そうだ』

 闇魔法による記憶の追体験。
 そして先程、魔法を使えず死を覚悟したせいで、ローズは今一人でいるのが怖かった。
 ベアトリーチェはローズの行動に苦笑いすると、もう一度ベッドに腰かけて彼女の頭を撫でた。

 自分を心配そうに見つめる彼の優しい目を見ていると、ローズは胸が苦しくなった。
 優しい人。美しい人――彼は、愛を知る人だ。
 そんな彼にこうも思われている筈なのに、どうして自分は選べないのか、ローズにはわからなかった。

『国のために結婚する。それのなにがおかしい? 国を守ることが俺たちの義務だ。君も、君の周りの人間も。立場をわきまえて行動すべきことを何もわかっていない。王侯貴族の婚姻など所詮そのようなものだ。力あるもの同士の結びつき。王に望まれた者は逆らうことを許されない。君の役目は望まれたとおりに行動することだ。誰も傷つけたくないと思うのなら、さっさとその身を俺に差し出せばいいだけのこと。――どうせ君は、本当は彼を好きでも何でもないんだろう?』

『彼が傷付くのは君のせいだな。好きなら結婚すればいいだけの話。君はこの国にとどまりたい。その理由に彼との婚約が必要で、君は彼を利用しながら、褒美はあたえてやらないらしいな? 恋だの愛だの馬鹿らしい。所詮君が守っているものなんて、やがて失われるものに過ぎない。一度失ってしまえばもう価値はなくなる。最初にこだわりたがる人間は、愚かしいとしか言いようがない』

 自分を嘲笑う王の声が頭に響く。ローズは、声を振り払おうと頭を振った。
 しかしその後彼女の中に響いた声は、ロイの蔑みの言葉より、強く彼女の心を切り裂いた。

『次泣くときは、俺じゃなくてアイツのところじゃなきゃ駄目だ。アイツは、お前のために戦ってるんだから』

 ローズは静かに口を開いた。

「……私に、キスをしてください」

 結婚は、幸せなことだと父は昔ローズに言った。けれどベアトリーチェの求婚を受ける決意をしたはずなのに、ローズは泣いてしまいそうだった。

 ――大丈夫。彼はこんなに自分を思ってくれる。愛してくれる。この人とならば私は、きっと幸せになれる。みんなが、この結末を願っている。だったら、これが私の選ぶべき『正解』だ。

「それは、私が彼に負けると思っているということですか?」

 ローズはどこかで、ベアトリーチェが自分の選択を喜んでくれると思っていた。
 しかし予想とは違い悲しげな目を向けられて、ローズは胸が苦しくなった。

「……違います」
「でも、私が好きだからそうおっしゃるわけではないのでしょう? だったら私は受け入れられない」
「……」

 ローズはベアトリーチェのことを、好きか嫌いかといえば好きだ。
 ローズは自分の『一番好き』は、この先も一生わからないような気がした。
 だったら、彼に選ばれて選ぶことが、自分にとってもいいのではないかと、やっと思えたつもりだったのに。
 ベアトリーチェは、それではだめだとローズに告げた。

「心を下さいと、そう言ったでしょう? 国の為に、貴方を縛るのは嫌なのです」
「――私は」
「貴方が本当に私を想ってそう言ってくださるなら、私からでなく貴方から、私に口付けてください」
「……ビーチェ、さま」

 縋るような声で、ローズは再び彼の名前を呼んだ。
 ベアトリーチェはいらえるように小さく笑って、それからその瞳を閉じた。
 自分の気持ちがわからない。それが、今のローズの本音だった。
 でも、『彼を選べばこれ以上誰も傷つけずに済むだろう』――それだけは、ローズには確かなことに思えた。
 ローズはベッドから起き上がった。
 自分のベッドに腰かけるその人に、少しずつ自分から近付く。

 精霊のように美しい人。
 ローズは震える手を伸ばした。
 さらりとのびる長い髪は、絹のように柔らかい。

 これでいい。自分の選択は、周りから祝福される。自分はきっと幸せになれる。この選択は正解だったと、きっといつかそう思える。
 ――これでもう、全部が終わる。
 ローズは目を瞑った。
 何故か涙が目に滲んだ。

「駄目です」
 しかしローズが触れたベアトリーチェの唇は、何故か少し硬かった。
 ローズは目を開けた。

「……ビーチェ様?」
「すいません。少し、いじわるをしてしまいました」

 ベアトリーチェはそう言うと、いつものように微笑んだ。
 ローズの唇が触れていたのは、彼の唇ではなく指だった。

「でも私は、やはりそのように震える貴方に、口付けて欲しくない」

 そう言うと、ベアトリーチェはローズのベッドから立ち上がった。
 彼女が触れた自分の指を、彼女の唇に押し当てる。

「私が好きで好きでたまらないと、そういう口付けが私は欲しい。私以外見えていないと、そう思ってくださる貴方の心が欲しい」
「ビーチェ様……」
「……だから、今の貴方の口付けを、私は受け取ることは出来ません」

 ベアトリーチェはそう言うと、そっと唇から指を離した。
 逃げることは許さない。
 懇願するような瞳を自分に向けるローズに、彼は向き合うことを諭した。

「……」
「おまじないです。貴方がゆっくり眠れるように」

 ベアトリーチェは、ローズの頭を優しく撫でた。まるで彼女の兄が、彼女にするように。
 ローズは静かに目を瞑った。光魔法特有の温かさが、彼女を包みこんでいた。

「貴方は、私が守ります」
 その言葉は、願いに近い。

「だから――今は」

 指輪を外したベアトリーチェは、指輪をローズの指に嵌めた。
 彼はそのまま彼女の手を取ると、いつものように口付けた。
 ローズの手の甲、手のひらに。そしてそのまま手首へと。
 かつてベアトリーチェが愛した少女にあった『精霊病』の茨の印。ローズの手にそれは無い。
 白いローズの手を見た彼は困ったように少し笑って、ローズに愛を囁いた。

「私は、貴方が好きです。ローズ様」
「ビーチェ」
 しかしその声を遮るように、ユーリが扉の向こうで彼の名前を呼んだ。

「何でしょう?」
「今、少しいいか?」

 ユーリに呼ばれたベアトリーチェが部屋を出る。
 瞼を押し上げたローズは、辿られた彼の唇の感触に、顔を真っ赤に染めた。