深紅のドレスを纏う少女の手の甲に、少年は恭しく口付ける。
 雪がとけるように柔らかく、そっと肌に触れた感触は、幻かのようにすぐに離れた。

「お招きありがとうございます。ローズ様」
「お越しいただきありがとうございます。ビーチェ様」

 ローズは公爵令嬢らしく、ベアトリーチェに挨拶した。
 今日のローズは騎士としての団服ではなく、美しいドレスを着ていた。ベアトリーチェの婚約者として過ごす時は、父にドレスを着るように言われたためだ。 

 赤い薔薇の花咲く公爵家。
 その庭に設けられた白い鉄製のテーブルには、ローズとベアトリーチェ二人が座るテーブルと、その他にテーブルが二つあった。

 『Afternoon tea』
 それぞれのテーブルには、三段重ねのケーキスタンドが置かれている。
 下から順に、サンドイッチ、スコーン、ケーキ。
 スコーンには、クロテッドクリームと赤薔薇のジャムが添えられている。
 『Afternoon tea』は、元々この世界には無い文化だったが、異世界からの転生者《まれびと》にもたらされてからは、貴族の茶会でよく見られるようになった。
 ただ飲み物は、紅茶以外であることも多い。

 ベアトリーチェとローズのテーブルには、真っ白なテーブルクロスの上に、彼女の名と瞳の色と同じ、赤い薔薇が飾られていた。

 今回の茶会は、二人の婚約を祝って設けられたものだったが、ローズは公爵令嬢《こんやくしゃ》として彼と顔を合わせる状況に、少し緊張していた。
 サンドイッチで気持ちを落ちつかせ、次にスコーンを食べる。
 その後ケーキに手を伸ばそうとしたところで、ローズはベアトリーチェに声を掛けられた。

「ローズ様はケーキがお好きなんですよね? 私は大丈夫ですので、どうぞ全部召し上がってください」

 ユーリから聞いていた話で、ベアトリーチェはローズが甘党であることを知っていた。

「貴方が嬉しそうに食べてくださるのを見るが、私も嬉しい」
「あ……ありがとうございます」

 何故彼が自分の嗜好を知っているのだろうかと疑問に思いつつ、ローズは言葉に甘えてケーキを食べた。
 しかし『Afternoon tea』用の菓子は小さく、甘党のローズはすぐに食べつくしてしまった。

 ――美味しい……。
 いつもの気高い薔薇のような雰囲気から、ローズの雰囲気が少し柔らかくなるのがわかって、ベアトリーチェは微笑んだ。
 ローズは甘いものを食べている時は、少しだけ幼く見える。

 テーブルに並んだ今日の『ティーフーズ』のうち、サンドイッチはローズが作ったものだ。
 スコーンとケーキは、ローズ・ミリア・アカリの三人で作ったものだが、ほぼほぼアカリ作である。

 アカリは手先が器用だったらしく、見た目も味も、職人が作ったものと大差なかった。
 聖女としての才能はまだ開花していないものの、彼女は菓子職人としての才能は持ち合わせているようだった。

「ローズ様はお料理もお上手なのですね」
「い、いえ……。私は褒めていただけるほど上手くは……このケーキ、アカリがほぼ作ってくれたようなものですし」

 ローズは慌てて訂正した。
 そもそも貴族の令嬢は料理なんてしない。
 ローズは幼い頃の習慣でサンドイッチなら作れるが、所詮その程度だ。
 するとベアトリーチェは、少し驚いたような顔をしてから苦笑いした。

「アカリ様にそんな才能が? ……そうですか。それはそれで、少し妬けてしまいますね。貴方に今、こんな表情をさせているのが彼女だなんて」
「??」

 ベアトリーチェはそう言うと、何故か自分の左手の人差し指を、唇に押し当てた。
 まるで『貴方にだけの秘密ですよ』、とでも言うように。

「ローズ様。実は私も、菓子を作るのは割と得意なのです」

 彼が明かした事実にローズには目を瞬かせた。
 この世界で貴族で、しかも男性で菓子を作る人間は少ない。

「お菓子……?」
「食いつかれましたね」

 ベアトリーチェはすかさず指摘した。

「す、すいません。甘いものには目が無くて……」
 ローズは思わず頬を染めた。
 子供のような反応をしてしまった自分を恥じる。

「構いませんよ。それに貴方さえ良ければ、ぜひ私が作るお菓子も召し上がっていただきたいですし」
「本当ですか? 是非!」

 先程の緊張はどこへやら。
 ローズは感情のまま、ベアトリーチェの言葉に反応してしまっていた。

「本当にお好きなのですね。……ただ、そのように目を輝かせられると、貴方の口に合わなかったときが少し怖くなってしまいます」
「?」
 無邪気ともとれる彼女の反応に、ベアトリーチェは静かに笑う。

「ローズ様は甘党ですね」
「?」
「お菓子も甘いほうがお好きですよね?」
「はい……」

 それがどうしたのだろう、とローズは首を傾げた。

「普段は甘さを控えているのですが、貴方のために作るのですから、貴方好みにして差し上げたい」
「…………!」

 『貴方《ローズ》に合わせる』。
 彼の言葉に、ローズはどきりとしてしまった。
 彼と初めて道を歩いた時、彼が自分に合わせて歩いてくれたことを思い出す。

「ああそうだ」
 彼はあの頃から紳士だった――照れるローズに、ベアトリーチェは更に甘い言葉を吐いた。

「私がお菓子を作ってきたら、貴方にてずから召し上がっていただいても構いませんか?」

 『てずから』?
 ローズはきょとんとした顔をした。彼の言っている意味がよく分からない。

「ええ。――こうやって」

 ベアトリーチェはそう言うと、砂糖の入っていた器の中の、陶器のスプーンを持ち上げて、それをローズの方へと向けた。
 さらさらと砂糖が落ちる。
 困惑するローズを前に、ベアトリーチェは微笑んだ。

「…………っ!」
 ベアトリーチェの意図を理解して、ローズの顔が朱に染まる。


 そんなローズを見て、ミリアは感激していた。

「ああ! 本当にベアトリーチェ様はお嬢様に相応しいお方です! こんなに可愛らしいお嬢様を見ることが出来るなんて!」

 ローズの反応は当然とも言えた。
 これまで異性と婚約者らしい触れ合いをしたことのない彼女にとって、手に口付けられることはまだいいが、ここまで好意を示されるのは経験がなかった。

 ベアトリーチェがローズに与える甘さは、彼女がこれまで体験したことのないものばかりだった。
 婚約者としての愛情。囁かれる自分のためだけの愛からの言葉。
 手に触れる時の仕草まで、ベアトリーチェは完璧すぎるほど『ローズのための紳士』だった。

「ローズさんが照れてる……」

 アカリはサンドイッチを食べながら呟いた。彼女のテーブルはユーリと一緒だ。あともう一つの席はギルバート。
 椅子が三脚用意されていたテーブルはこの三人が囲み、椅子が二つの方のテーブルには、リヒトとレオンが座っていた。
 ミリアは、ユーリやアカリはともかく、レオンとリヒトがいることに少し腹を立てていた。

「何故貴方方がここにいらっしゃるのです?」

 レオンとリヒトの席は、急所用意されたものだ。
 当初、二人は招かれる予定ではなかった。
 どこから情報をききつけたのか、今朝方レオンがリヒトを連れてやって来たのだ。

「ローズが婚約したっていうからね。奪い返しに来たんだ」

 レオンは真っ黒なコーヒーを飲みながら、ベアトリーチェに聞こえるよう少し大きな声で言った。
 レオンの挑発するような発言に、ベアトリーチェはすぐに言葉を返した。

「レオン様。貴方と言えど、愛する人はお渡し出来ません」

 ――『愛する人』。
 ベアトリーチェの言葉に、ローズの顔がまた赤くなる。
 穴があったら入りたいと顔を赤くするローズを見て、ミリアはうんうんと頷き、ローズの父ファーガスは、ベアトリーチェがローズとの婚約を了承してくれたことに、心から感謝した。

「これなら、二年後には初孫が見られるかもしれない……」


 指輪強奪事件が解決した翌日。
 ベアトリーチェは正式に、ローズとの婚約をしたいと公爵に申し出た。
 ただその時、彼はこう付け加えた。

「是非、彼女と婚約させていただきたく思います。結婚は、一年後でもよろしいでしょうか? 私と彼女はまだ出会ってから日も浅く、彼女の心が私には無いのに、無理に結婚を迫ると言うのは心苦しい。一年をかけて、彼女自身に私の妻になりたいと思っていただきたいのです。勿論、期日より早く彼女が私を受け入れてくださるなら、喜んで私は彼女と結婚させていただきます」

 最長一年の婚約期間。
 一年が経てば、ローズは正式に彼の妻になる。
「……なんでローズはあんなに赤くなっているんだ」
 リヒトは不機嫌そうにぼやく。自分の見たことのないローズが今そこに。
「そんな顔をして。まさか敵に塩を送ったとでも思っているのかい? だとしたら君は本当に愉快な子だね。リヒト」
「……」
 弟に厳しいレオン・クリスタロス。今日もリヒトの心をえぐるのが彼の日課だ。

「そもそも君が自分で手放したんだろう。それに君の好きなのはアカリって子じゃなかったのかな?」
「アカリに婚約を申し込んだけど、『すいませんリヒト様。私はローズ様が好きなので結婚も婚約も出来ません』って……」
「女の子を理由に振られたんじゃあどうしようもないね?」
「ローズにアカリのこと好きなのかって聞いたら、『アカリのことは大好きですよ』って」
 本人にそれぞれ聞いたのかこの子は。
 レオンは、恋愛に対して相変わらず成長のない弟に気付いて溜め息を吐いた。
「あの子は少しずれているから。君の質問の意味なんて、ちゃんと理解はしてはいないさ。多分、ギルのせいだけど」
「俺がなんだって?」
 レオンの言葉に反応するかのように、ギルバートがやって来た。彼にしては珍しく、髪も服装も整えている。

「やあ、ギルバート」
「こんにちは、ギル兄上」
「……リヒト? なんでレオンも一緒に。今日お前たちは来ないって聞いていたんだが」
 ギルバートはリヒトを見て首を傾げた。
「……兄上に何故か連れてこられたんです…………」
「最近部屋に籠りがちだったから連れてきたんだよ」
 にこにこと笑うレオンに対し、リヒトの表情は暗い。それを見て、ギルバートはレオンを咎める様な視線を送る。

「人の屋敷で寛ぐなよ」
「昔から、城よりもこの庭が一番落ち着くんだ」
 しかしそれをものともしないのがレオンである。相変わらずのマイペースだ。


 公爵家の庭は、十年前のように賑やかだった。
 その日々を知らないベアトリーチェは、静かに『彼ら』に視線をやって、ふうを溜息を吐いた。
 自分とローズのデートの筈なのに、何故か彼女の幼馴染の男が三人。
「ローズ様は本当に、たくさんの方に好かれていらっしゃいますね……」
 実を言うと、ベアトリーチェは彼女と婚約して、レオンのようなことを言われたのは今回が初めてではなかった。
 婚約はしているものの、一年待つという言葉は、結果として彼女が一年後ベアトリーチェのものになる前に、彼から彼女を奪おうという不届きもののあぶり出しに成功している。
 ベアトリーチェは、それらの人間を全て蹴散らしつつ日々を送っている。
 愛情深さと天然故に、好意を寄せられても本人が気づかないという厄介なこの状況で、今一番被害をこうむっているのは間違いなくベアトリーチェだった。

「すいません、妹が。少し天然な妹ですが、俺にとっては大切な妹なんです」
「いえ」
 ベアトリーチェは、ローズが自分のために選んだという紅茶を飲んで微笑んだ。
 今日の彼のティーカップには、他のメンツのものとは異なり、ローズとお揃いで赤い薔薇が描かれている。
 婚約者の特別仕様だ。

「ギルバート様は、とても妹思いな方なのですね」
「ええ。たった一人の妹ですから」
 ギルバートはいつもの彼にしては珍しく、貴族らしく微笑んだ。そんなギルバートを見てレオンが笑う。
「今日の君は貴族に見えるな」
「未来に弟になるかもしれない相手にはちゃんと話すに決まっているだろ」
「…………」
 リヒトは、多分ローズがリヒトと婚約していたときギルバートが普通に生活していれば、自分に対してタメ口が継続されていたような予感がした。

「貴方は心から妹のことを思ってくださっている。貴方であれば自分も、妹をまかせることが出来ます。どうか妹を宜しくお願いします」
 ギルバートはそう言うと、静かに頭を下げた。
「頭を上げてください。それにこれは……私の性分というか。無理強いが嫌いなのです。それに結婚するのであれば、彼女には私を選んで結婚してほしい」
 次期公爵。
 そして自分の未来の義理の兄になるかもしれない相手を前に、ベアトリーチェは珍しく少し慌てた。
「……私は彼女に時間を頂いたので。私はそれを、彼女に返したいのかもしれません」
「妹の気持ちをくんでくださってありがとうございます。貴方のような方であれば、いずれ妹のあの破天荒さも、少しは落ち着くかもしれません」
「私は今のままのローズ様を好ましく思っておりますよ。剣をとるあの方も、ドレスを纏うあの方も。二つの魅力を持つ彼女に、この心は惹かれてなりません」
「そう言っていただけて光栄です」
 ギルバートは公爵令嬢の兄として笑みを浮かべる。
「……失礼ですが、ギルバート様は本来、今のような話し方はされない方なのですよね?」
「ええ、まあ……」
 ギルバートの返事は歯切れが悪い。
「ギルバート様は、私の友人に少し似ている気がします。顔立ちはまるきり違うのですが……何というか、雰囲気が。もしよろしければ、私にはもう少し砕けて話をしてくださいませんか?」
「……貴方とは仲良く出来そうだ」
 ギルバートはそう言うと、貴族の仮面を脱いでふっと笑った。

「ローズ様。お兄様と未来の旦那様の仲は良好そうですよ。よかったですね」
 ミリアとギルバートは、ちょうどローズを挟むようにして立っていた。
 母親代わりのような面もあるミリアは、ローズに笑いかけて言う。 
 更にローズの顔に熱が集まる。
 父が婚約者を決めた時まではさほど意識しなかったものの、家族に外堀が埋められていく感覚を、ローズは実感していた。
 敬愛する兄もベアトリーチェを気に入っている。
 兄に祝福される結婚という事実が、彼女の中でちくりと胸が痛ませるのと同時、現実にそう遠くない未来、ベアトリーチェと結婚するという自分の未来を思い描かせる。
 ローズは軽く現実逃避していた。
 恥ずかしい。部屋に戻りたい。もしくは彼と二人きりがいい。それならまだ、周りの人間に真っ赤になる自分の姿を見られずに済むのだから。

 しかし二人っきりになった場合、ベアトリーチェの甘い雰囲気が延々と自分に向けられると思うと、それはそれで心臓が耐えられる気がしなかった。
 ――胸が苦しい。
 頬を赤らめる今のローズは、可憐な花そのものだった。
「ミリアは……ビーチェとローズ様の結婚には賛成なのか?」
 そんなミリアに、ユーリが小声で尋ねる。
「当たり前です。お嬢様の心を守ってくださる方が一番相応しいに決まっているでしょう」
 ミリアはそんなユーリに侮蔑の目を向けた。

「頓珍漢と、ヘタレと、たらし。それに対してベアトリーチェ様のローズ様への愛と包容力。ローズ様が婚約破棄されたのは、きっと彼と出会うためだったに違いありません。私はお二人の結婚を心から願っております」

「とんちんかん……」
「もしかして俺がへたれ……」
「たらしって僕のこと言ってる?」
 落ち込む二人に対し、レオンは一人、くすくす笑う。
 ちなみに一番目がリヒトで二番目がユーリの言葉だ。
 女たらしと言われたレオンだったが、まるきり反省の色は無かった。
 百合の花が書かれたティーカップを片手に、彼は不敵な笑みを浮かべる。
「まあいい。期間は一年あるんだし、その間にローズを取り戻せばいいだけのこと」
「懲りない方ですね、レオン様。貴方は昔からこのように、ローズ様に執着なさっているのですか?」
 ベアトリーチェがすかさず彼に言った。
 今もレオンに対して忠誠の意思を見せるベアトリーチェだが、ローズのことが絡むときはそういうわけにもいかない。

「当然だろう。この国で、最も王妃に相応しい魔力を持っているのは彼女なのだから、いくら君とは言っても、そうやすやすと譲るつもりはないよ」
「彼女を物のように扱う方には、私は絶対に彼女は譲れません」
 ベアトリーチェは、ローズのためならレオンと争う気満々だった。
 しかし、レオンの言葉はもっともとも言えた。

 古くから、国力とそこに住む人間の魔力の強さは強い関わりがある。
 故に、魔力の強い人間を絶やさぬために、貴族たちは同程度の魔力を持つ人間同士で婚姻を結んできたのだ。
 クリスタロス王国も例外ではなく、これまでのこの国の王族の結婚は全て魔力によって決まっており、レオンが眠りにつくまでは、ローズとレオンの結婚を疑う者は誰も居なかった。
 だからこそ他国の王子たちも、魔王討伐後アカリやローズを求めた。
 それは恩義半分、優秀な血を迎え入れたいという思いも大きい。
 レオンが言っていることは、ベアトリーチェに国の為にローズを差し出せと言うようなもの。
 だからこそ、ベアトリーチェは認められない。
 何故ならその場合、ローズが心から幸せになれる結婚とは言い難いからだ。

「彼女に戴いた幸福の分、私は彼女を幸せにして差し上げたい。私から彼女を奪いたいと言うなら、自分の方が彼女を幸せに出来ると証明してくださらない限り渡すつもりはございません」
 ベアトリーチェは、自分を見つめる瞳から目を逸らさない。
 自分から、ローズを奪う可能性のある物たちの瞳から。
「勿論この中に、そんな方は誰一人としていらっしゃらないと思いますが?」
 誰も言い返せなかった。
 見た目は彼が一番小さいが、年は彼が一番上だ。
 レオンは十年間執務に携わっておらず、リヒトは昔からポンコツなため、彼が本気を出せば、ベアトリーチェが年上の男としての威厳を失うことはない。
 ベアトリーチェは次期伯爵という地位ではあるものの、国王からの信頼は、ローズの父である公爵にも劣らない。
「ローズ様。貴方のことは、心は、私が守ります。ですから安心して、私のことだけを考えていてください」
「目の前でよくやるね」
「そうですね。今のレオン様であればまだ負ける気は致しませんし」
「ふうん?」
「魔法を使うということ。十年間の月日は、そう簡単に取り戻せるものではありませんから」 
 ベアトリーチェの言葉に、ピクリとレオンは反応した。

「――へえ? 面白いことを言うね。だったら試してみるかい? ローズをかけて、この場で」
「私に勝利を譲ってくださるとは、レオン様はお優しい。貴方が一生ローズ様から手を引いて下さると言うなら、私は喜んで今すぐにでも貴方と戦いましょう」
 甘い雰囲気から殺伐とした雰囲気に。
 リヒトはそれを見て、はあと溜息を吐いて眼鏡をかけた。
 魔法で勝負なんて、リヒトが勝てる要素は微塵もない。
 外野は無視して持ってきた本を読むために眼鏡を掛ける。
 デザインが悪すぎると言われたため改良したそれは、少しだけ知的に見える。

「前より随分よくなりましたね」
 そんなリヒトに、ローズは席を立って話しかけた。
「不評だったからな。かけてみるか?」
 リヒトはそう言うと、ローズに自分の書けていた眼鏡をかけた。眼鏡を掛けて、ローズはあることに気付く。
「……音がしない?」
「防音機能を付けてみたんだ」
 リヒトは頷いてから言う。
「会話は聞こえるが生活音などは極力抑えて聞こえる。読書するときには良いと思って」
「なるほど……」
 ローズは感心した。彼にしてはガラクタではない発明品かもしれない。
「普通の状態には、ここをこうすると」
 リヒトはそう言うと、自分がかけたローズの眼鏡に手を伸ばし、あるボタンの部分を押した。しかしその時ローズと目が合って、リヒトは思わず顔を背けた。
「…………ほ、欲しいならやるぞ」
「いえ、結構です」
 興味を示してくれたと思ったのに、さらっと断られてリヒトは軽く傷つく。
「物音が聞こえないとなると、突然攻撃された時に困りますので」
「……」
 公爵令嬢の言葉とは思えない。
 突然の攻撃に常に備える公爵令嬢とは一体……?

「ローズさん!」
 軽く落ち込むリヒトをどうしたのだろうとローズが眺めていると、アカリに名を呼ばれ彼女は振り返った。
「も、もう少しそのままで」
 アカリは、きらきらした目でローズを見つめていた。
「あのっ!! 『良く出来ました。良い子ですね』って、言ってもらえませんか??」
 席を立ってローズの元に近付いたアカリは、何故かそんなことをローズにお願いしてきた。
「??」
 意味が分からずローズは首を傾げる。
「今、ローズさんに言ってもらえたら、今日の座学、頑張れそうな気がしますっ!」
「わかりました」
 意味は分からないが、どうやらそうするとアカリは元気が出るらしい。ローズは眼鏡をかけたまま、最上級の笑顔をアカリに向けた。

「良くできました。アカリはいい子ですね。この調子で、これからも頑張りましょうね」
「ああっ! はい! 頑張ります。眼鏡…………最高……!」
「……『光の聖女』は、少し変わった方のようだね?」
 その様子を見ていたレオンは苦笑いした。
「気持ちも分からなくはありませんが」
 ベアトリーチェもまた同じように。
「好きな相手の知らない一面――特に、他の人間が知らない一面を知ることを、嬉しいと思うのが人間でしょう?」
「それはそうだろうけれど」
 ローズを巡って言い争いをしていた二人は、それ以外では普通に話をしていた。ベアトリーチェは席を立つと、そっとローズの背後に立った。

「ローズ様」
「はい?」
 婚約者に声を掛けられ、薔薇の少女は振り返る。
 どうして名前を呼ばれたのだろうと不思議な顔をするローズの顔に、ベアトリーチェは手を伸ばした。
「これ以上は、駄目ですよ。私というものがありながら、私以外の異性と仲良くするなんて、貴方はいけない方ですね?」
 ベアトリーチェはそう言うと、眼鏡をローズから外して自分がかけた。
 元々知的な雰囲気の彼だ。彼に眼鏡は、似合い過ぎて怖いくらいだ。
「そんなことばかりしていると、貴方がまだ許して下さっていないこの場所に、彼らの前で口付けたくなってしまいます」
 ベアトリーチェは、先程自分の唇を触った指をチョンとローズの唇に押し当てた。
 一年後の結婚式。
 その日までは、ローズが許さない限り唇にはキスをしない。
 ベアトリーチェは、そうローズに約束した。
 そしてその期日が来る前に、ローズが彼にそれを許した日には、一年を待たずに結婚してほしいと。
「それとも」
 艶のある声で、ベアトリーチェはローズに愛を囁く。
「それがお望みで、私の前でこのようなことを?」
「い、いえ……」
 ローズは体を強張らせた。
 ベアトリーチェには不思議な魅力があって、ローズは彼に囁かれると動けなくなることが多々ある。

「ローズ様」
 静かな声で、彼はローズの名前を呼ぶ。
「そのような無垢な少女のような顔をされていては、私を煽るだけですよ」
 ベアトリーチェは微かに笑う。
 その手はそっとローズの首の後ろに伸ばされ、ベアトリーチェより身長の少し高い彼女は、前にかがむような体勢になる。
 耐えられない。心臓が鳴りやまない。
 ローズはぎゅっと目を瞑り、ベアトリーチェはそれを了承ととったのか、彼女に顔を寄せていく。
 一年と待たずに、今結婚が決まりそうだ――。

「す、すとっぷ!」
 動けないローズを、ベアトリーチェから引きはがしたのはアカリだった。
「駄目です! ローズさんはこういうのに慣れていないんです。そのために一年待ってくれるんじゃなかったんですか!?」
「あ、アカリ……」
 ローズには、今は何故かアカリが凛々しく見えた。
「ローズさん、私はローズさんの味方ですからね!」
 アカリはそう言うと、ローズの手をぎゅっと握った。ベアトリーチェは黙ってその光景を見ていた。
「同性っていうのは役得だよねえ……」
 この光景を見ていたレオンはぽつり呟く。
「でもまあ、この世界で一番ローズと遠いのは彼女だし、おおめに見なければならないか」
 レオンは薄く笑った。
 ローズの魔力が弱ければ、周囲はここまで彼女には早く結婚しろなんて言わない。
 公爵家は二代にわたり恋愛結婚、伯爵家は当代のみ恋愛結婚。
 政略結婚が当たり前の世界で、ベアトリーチェのように相手に心を望むことは、本当に稀なことだ。
 結婚して子供を生み、家庭を築く。
 家を守り、血を繋ぎ、国を守る。
 そこで生まれた関係が、夫婦の絆であるというこの世界の貴族の古くからの考え方と、ベアトリーチェは違う考え方を持っている。
 だからこそ、ベアトリーチェは一年待つと言ったのだ。
 レオンから言わせてみれば、甘いとしか言いようがない。
 そんなもの、肉食獣の取り囲む世界で、血の滴る獲物を得ながら喰らわないことと等しい。

 しかもベアトリーチェが日々ローズを口説いているせいで、ローズの魅力は増していくのだ。周りが放っておくはずがない。
 結婚した男女に手出しすることは厳しく罰せられるが、血統や魔力で婚姻をすることが多いこの世界では、婚約中に実力で婚約者を奪ったという例は少なからずある。
 それにより国力が増すと考えられても居るため、禁じられてもいない。だから婚約期間は、通常長くても半年だ。
 優れた血を残し、他家に譲らないために、力で奪う。
 そういう風習は、この世界の貴族には昔からあること。だと言うのに、今回ローズに与えられた時間は一年。この長さは、彼の彼女への愛情の深さの証だ。
 婚約期間が長いほど、婚約者を守るために戦わねばならないのだから。
 婚約期間の戦いに巻き込まれないのは王族くらいのものである。
 ただ、それを実力で覆したのが、ローズの祖父グラン・クロサイトだ。当時ローズの祖母は、王子の婚約者だった。
 だからこそクロサイト家の先代当主グランは、別の意味でも有名なのだ。
 王家に嫁ぐ予定だった女性を、実力で奪った騎士として。

 他人に厳しく自分にはもっと厳しく。
 国を守るために剣をとった強く美しい男装の騎士は、彼女を愛する一人の男によって、以前より女性らしい表情をするようになった。
 薔薇の芳香は香りを増して、多くの人間を惹きつけてやまない。
「……最後に笑うのは誰だろうね?」
 他の人間が砂糖やミルクを入れる中、彼だけが苦いまま。
 レオンはそう言うと薄く笑って、静かにコーヒーを飲み干した。


「申し訳ございません。せっかくお招きいただいたので参りましたが、二人同時に騎士団を長く空けるわけには参りませんので、そろそろ下がらせていただきます」
 公爵家の屋敷にベアトリーチェとユーリが来て暫くして、ベアトリーチェはそう言うとカップをソーサーに置いた。
 ローズは婚約者として見送るために、彼と共に席を立った。

「お見送り、ありがとうございます」
 門を前にしたところで、ベアトリーチェはそう言ってローズに頭を下げた。
「……ローズ様」
 ベアトリーチェはローズの右手をそっと持ち上げた。
 いつもの彼の行動だが、ローズはレオンの時とは違ってどきりとしてしまう。
「本日は本当にありがとうございました。貴方の新しい一面が知れて、とても嬉しかったです。これからも、私に貴方のことを沢山教えてくださいね。……出来ればそれが私だけだと、もっとと嬉しいですが」
 ベアトリーチェは優しく笑う。
「騎士としての貴方も好きですが、やはり女性らしい服装をされて顔を赤らめていらっしゃる姿を見ると、可愛らしくて貴方の全てを守って差し上げたくなってしまいます。たとえ貴方自身が、自分のことは自分で守れる方であったとしても」
 ローズの顔が、赤く染まる。愛らしいなんて言葉を、彼女は向けられたことは無かったからだ。

「……また、顔が赤くなりましたね」
 自分の僅かな変化を、ベアトリーチェは指摘する。
 その度に、ローズの胸は早くなる。
「私の赤い薔薇。貴方のことを愛しています」
 ベアトリーチェはいつも通りローズの手の甲に口付けると、そっとその瞳を閉じた。そしてゆっくりと開くと、ローズの瞳を見て微笑んだ。
「貴方をそのように染めるのは、私だけであってほしい」
「……はい」
 「自分だけを見ていてください」ベアトリーチェはローズに、よくそんなことを言う。その度にローズは、じわりじわりと、彼が自分の中で増えていく感じがして胸が苦しくやる。
「では、これで。本日はありがとうございました。またこのように、貴方とお話がしたい」
「――はい」
 ローズは顔を赤く染めたまま返事をした。ベアトリーチェは彼女の返事に笑みを浮かべると、ユーリの方を見た。
「本日はお招きいただき、ありがとうございました。私も失礼致します」
 そうして、ベアトリーチェとユーリは公爵家を後にした。
 レオンとリヒトは、まだ帰るつもりが無いらしく、公爵家の門の近くにはユーリを除いた幼馴染の面々が残っていた。

「よくもまあズラズラとああ言葉が出てくるよねえ」
 二人を見送った後、レオンは小馬鹿にしたように言った。
「ベアトリーチェ様は軽薄な貴方と違って、心からお嬢様だけを愛していらっしゃるのです。レオン様」
「君は僕に対して昔から遠慮がないな。もしかして僕を怒らせたいの?」
 レオンはそう言うと、ミリアの腰にそっと手を伸ばした。妖艶な笑みを浮かべて。
「それとも、僕の気を引きたいのかな?」
 しかしそれは、ギルバートによって阻まれる。
「ミリアに手を出すなら、お前であっても許さない」
 ミリアを抱きしめたギルバートはレオンを睨み、レオンはそんな幼馴染の二人を見てクスクス笑う。
「冗談だよ」
「ギルバート様! 何急に抱き付いていらっしゃるのですか!? 離して下さい!」
 ちょっといい雰囲気になりそうだったが、そうはいかないのがミリアとギルバートだ。
「げほっ!」
 不意打ちで肘鉄を溝内に食らったギルバートは、奇声を上げて蹲った。



 ベアトリーチェやユーリが騎士団に帰ると、門の前で待っていたのは小さな二人の少年だった。
「兄様!」
「兄上!」
「ただ今帰りました。二人とも」
 彼らは、目的の人物が扉を開けて入って来ると、忠犬よろしく駆け寄った。
 アルフレッドとジュテファーは、兄の前での弟としては、反応がよく似ている。

 アルフレッド・ライゼン。魔法属性は闇属性と雷属性。 
 ジュテファー・ロッド。魔法属性は地属性。
 アルフレッドはベアトリーチェの血を分けた実の弟、ジュテファーは伯爵家入りしベアトリーチェの義理の弟だ。
 ベアトリーチェは、事件後二人を、正式な自身の補佐に任命した。
 未熟な二人は二人で一人。協力して自分を支え、成長してほしいと願いを込めて。

「ローズ様のご様子はいかがでしたか?」
「今日はドレスを着ていらして可愛らしかったですよ」
 ジュテファーの問いに、ベアトリーチェは笑顔で答える。
「兄上のためにローズ様はドレスを着ていらっしゃったんですね!」
 アルフレッドは目を輝かせた。
「早く姉様とお呼びしたいです。兄様、一年と言わず、今すぐにでもご結婚なさらないのですか?」
「ジュテファー。兄上はローズ様の気持ちを考えて一年間って言ったんだから、そう言うのは兄上が困るだろ」
 ジュテファーの言葉に、アルフレッドが顔を顰める。平民である彼の言葉遣いを、貴族であるジュテファーが叱責することは無い。

「でも貴方だって、早く姉上と呼びたいでしょう?」
「それは……そう、だけど……」
 そんな二人の弟の様子に、ベアトリーチェは微笑んだ。
「二人の仲が良さそうで安心しました」
 ベアトリーチェはそう言うと、自分より少しだけ小さい弟たちの頭を撫でた。
「これからも仲良くしてくださいね。私の可愛い弟たち」
「はい」
「はい!」
 元気よく返事するアルフレッドの後ろで、今日もウィル・ゲートシュタインは船漕いでいた。


 騎士団に帰ったユーリは、少しだけ顔色が暗く、ベアトリーチェと顔を合わせようとしなかった。
 まるで拗ねた子どもだ。
「ユーリ。何落ち込んでいるのです」
「落ち込むに決まってるだろう!」
 ユーリは怒鳴ってベアトリーチェから視線を逸らし、低い声で言った。

「……俺へのあてつけか」
「いいえ」
 ベアトリーチェは首を振る。
「私は、私から彼女を奪う人間を、全員叩きのめしたいだけです」
 叩きのめす。
 さらっと彼が口にした言葉は、ほんの少しだけ黒い。
「貴方が本気で彼女がほしいなら、私を倒して彼女を奪うくらいの気概を見せたらどうですか?」
 身分差で、彼女に好意を寄せても強くアピール出来なかったユーリは、あからさまに上から目線で自分を煽って来る年上の部下を睨んだ。
「わかった。相手になってやる」

 勝敗は、すぐについた。瞬殺だった。
 ユーリ・セルジェスカはベアトリーチェ・ロッドに惨敗した。
「…………え?」
 十年前自分は彼に勝利した。それからというもの、彼は自分の後衛を名乗り出たはずなのに。
 まさかここまで彼が強いとはユーリは思ってもみなかった。
「驚いた顔をしていますね。ユーリ」
 呆然とするユーリに、ベアトリーチェは声を掛ける。
「残念ですが、そう簡単には私は負けてはあげませんよ」
 彼は笑みは浮かべることなく、静かに剣を失ったユーリへと近づいた。
「かつて貴方と戦ったとき、私は全力ではなかった」
 剣の切っ先をユーリに向け、ベアトリーチェは彼を見下ろした。
 新緑の瞳は揺らぐことなく、真っ直ぐにユーリを見据えている。
「そして今の私も。まだ全力ではありません」
 その声は、嘘を吐いているとは、ユーリには思えなかった。

「私の実力を甘く見ないでほしいですね。私は、この国で今最も彼女に相応しいとそう自負しているのですから」
 ベアトリーチェの声は静かだが、その声からは絶対に揺らがない強い意思を感じられる。
「彼女をかけた戦いで、他の男には負けるつもりはありません」
「……っ!」
 ユーリは顔を背けた。
 自分の方がローズより過ごした時間は長い。けれど目の前の相手は、その時間を飛び越えてしまう程、彼女に好意を寄せているような気がして。

「……がっかりです」
 そんなユーリに向かって、ベアトリーチェは溜め息を吐いた。
 まるでユーリ自身に、失望したとでもいうように。
「私の認めた『天剣』は、この程度で諦める人間だったのですか?」
「そんなこと、ない……っ!」
 再び目と目が交差する。
 ベアトリーチェは自分をまっすぐに見るその瞳を見て、ふっと笑った。

「なら、かかってきてください。貴方のその心、折れるまで叩いて差し上げます」
 その声は少し弾んで、まるでユーリを好敵手として認め、歓迎するかのようだった。
「そうすれば貴方の魔法も、私に届くかもしれませんよ?」
 ベアトリーチェの言葉に、ユーリは耳のピアスに触れた。風魔法を発動させ、いっきに飛ばされた剣の元へと移動する。
 その彼の行動を、ベアトリーチェは称賛するような笑みを浮かべる。

 風対地。天と地。
 この世界で交わることのない、正反対とされる二つの属性が、彼らという人間を通して正面からぶつかり合う。
「兄上楽しそう……」
「兄様は、団長をわざと煽っていらっしゃるようですね」
「え?」
「魔法は心から生まれる。兄様は、団長の魔法がまだ強くなると、そう思っていらっしゃるようです」
 ユーリとベアトリーチェの戦闘。
 それを見ていた二人の弟たちは、彼らの知らぬところでそんな話をしていた。

「……はっ。……は……っ」
「――今のは、いい一撃でした」
 結局、勝利したのはベアトリーチェの方だった。
 回復力の低いユーリは、魔法を連続で使ったことでばててしまっていた。
 体に力が入らない。
 地面に背中を付けて浅く息をするユーリを見て、ベアトリーチェは剣をおさめた。
 今日はもう、彼はこれ以上戦えない。
 ユーリは悔しくてたまらなかった。自分の後ろで支えてくれていた相手との、力の差を思い知る。魔法も、剣も、負けてしまう。自分のローズへの思いは届かないと、それを思い知らされる。
 彼の髪を結ぶ赤い紐は、僅かに地面の砂で汚れていた。

「ユーリ」
 そんなユーリの名を、ベアトリーチェは背を向けたまま呼んだ。
「この一年で、私から彼女を奪える可能性があるとするなら、私は貴方だと思っています」
 それはローズの婚約者としての彼と言うより、ユーリの先導者としての彼に似ていた。
「貴方の、彼女への思いは知っています。貴方であれば、ローズ様を幸せにできるかもしれない。でも今の貴方では、ローズ様を守れない」
 ユーリは朦朧とする意識の中、ベアトリーチェの言葉に耳を澄ます。
 彼が自分に言いたいことがつかめない。

「鍵を守る彼女を、その心を守ることのできる人間でなければ、彼女の相手には相応しくないのです」
 ベアトリーチェはそう言うと、ユーリの方に向き直った。
「一年間、待ちましょう。貴方が本当に彼女を愛していると言うなら、私を倒せる男になってください」
「……ビーチェ……?」
 ユーリは思わず彼の名を呼んだ。
 なぜ自分に、彼がそんなことを言うのか分からない。
「私は、彼女に幸せになってほしい。彼女を守れない今の貴方に、ローズ様は渡せない」
 ベアトリーチェはそう言うと、少し荒くなった息を整えてから、ユーリに手を伸ばした。

「――彼女が欲しいなら、強くなりなさい。ユーリ・セルジェスカ」
 身分差を超えてユーリがローズと結ばれるには、現婚約者であるベアトリーチェを倒せなければ、周りが認めることはない。
「…望むところだ」
 ユーリは自分の心の奥底で、何か炎のようなものが宿るのを感じた。
 体が熱い。動かすことが出来なかった筈の四肢に、不思議と力が湧いてくる。
 ユーリはベアトリーチェの手をとって立ち上がった。
 ベアトリーチェは、そんな彼を見て少し笑った。
 


 ベアトリーチェとユーリがそんな話をしている頃。
 公爵家ではテーブルを寄せて、幼馴染の面々が話をしていた。
 さんざん自分のことで言い争いが起きていたにもかかわらず、ローズの警戒心がゼロなのは、彼女が公爵令嬢で政略結婚を当然と思っているせいと、彼らが彼女の幼馴染であるせいだった。
「そういえば、明日からロイ・グラナトゥム殿がいらっしゃる予定だよ」
「大陸の王が?」
 レオンの言葉に、ローズが尋ねる。レオンは静かに頷いた。

「クリスタロスとグラナトゥムは、昔魔法学院の設立の際に協力したということもあって、やり取りがあったようなんだ。今は石の輸出のときくらいしか、関わりはないんだけどね」
 魔法学院というのは、赤の大陸にある魔法を学べる学校のことだ。
 貴族・平民問わず、身分の差なく魔法を学べるようにと作られたその学校は、優秀な人材を多く輩出している、世界で唯一の平民も通える魔法学校だ。

 貴族が通える学校はあっても、平民はこの学校にしか通えない。
 このこともあって、大陸には世界中から優れた人材が昔から多く集まっている。
 大陸の王ロイ・グラナトゥムは、出生の際からその強い魔力から、魔法学院を設立した『大陸の王』の名前からつけられた。
 記録によれば、魔法学院を設立したのは三人の王であるとされている。

 一人目は、『大陸の王』ロイ・グラナトゥム。
 二人目は、『海の皇女』ロゼリア・ディラン。
 三人目は、『賢王』レオン・クリスタロス。

 ロイ・グラナトゥム同様レオンの名も、賢王レオンと同じ金髪に紫の瞳を持って生まれたことから、名づけられた名前である。
 『光の祭典』と呼ばれる昔からある祭りからその名を付けられたリヒトとは違い、レオンは実在した王から名前をとっているのだ。
「ローズさんに何もなければよいのですが……」
 今までのパターンで行くと、大陸の王がローズに何かしらの接触をしてくるのではないかと、アカリは不安になった。
 この世界は確かに違いもあるけれど、アカリの知る乙女ゲームとよく似ているのだ。