ラブゲームとは
4ポイントを連取して取ったゲーム
又は
4ポイントを連取されて取られたゲーム
を意味するテニス用語である
僕が大学を卒業してすぐ都立西ケ丘高校の英語教師になってから、早くも一年が過ぎた。西ケ丘高校は偏差値的には上の下といったところで、取り立てて目立つ特徴もない、どこにでもありそうな都立高校だった。
僕は高校からテニスをやっていたので、女子テニス部の顧問に任命された。部員たちの実力も偏差値と同様で、都立の中でも決して強い方ではなかった。もちろん私立との比較は論外だった。
とは言うものの部員たちは活動に熱心で、毎日まじめに練習に取り組んでいた。そんな生徒たちの姿を見ているのは心地が良かった。長く主顧問をしている山田先生が基本的には全て仕切ってくれていたので、僕はお気楽な身分だった。
ところが、二年目から、僕は早くも女子テニス部の主顧問に任命されてしまった。山田先生が転勤になり、僕にお鉢が回ってきたのだ。
一年目、僕は生徒の練習相手になったり、球出しをしたりと、とにかく山田先生に言われたことをしているだけで良かった。しかし、主顧問となるとそうはいかなかった。
事務的なことは引継ぎがきちんとできた。練習は今までのパターンを踏襲することを基本にして、後は自分自身の部活経験をそこに盛り込んでゆけば良いだけだった。
しかし、僕は部活のことで困り果てていた。間もなく始まるインターハイ予選の団体戦、そのメンバーを決めあぐねていたのだ。
勤務校を含め多くの学校では、この団体戦の終了と共に三年生が引退する。故に、この団体戦にかける生徒たちの意気込みも凄いのだ。
都内のあちこちの会場に散らばって、たった一人で応援もないままに戦わなければならない個人戦と違って、団体戦はそれまで苦楽を共にしてきた部員たちが力を合わせて挑む。部員全員の応援を受けて戦い、負ければ引退することになるのだ。仲間と共に有終の美を飾りたいという思いが芽生えて当然だった。
団体戦はシングルスが二名、ダブルスが一組のチームで争われる。二勝したチームが勝ちである。
僕はメンバーを選ぶに当たり、シングルス1とダブルスは、簡単に決めることができた。問題はシングルス2に誰を選ぶかだった。
シングルス1は部長の稲本の他には考えられなかった。稲本は小学生の頃からテニススクールでコーチにテニスを教わってきた。従って他の四人とはまるで実力が違っていた。
三月までは、もう一人、黒沢という生徒がいた。黒沢はその時点で他の四人の部員と稲本の中間ぐらいの実力があった。だから、三月までは黒沢がシングルス2となるべきだと思っていた。しかし、黒沢は親の都合で、四月付で関西の学校に転校してしまった。そのせいで、シングルス2選びが極めてやっかいなものになってしまったのだ。
黒沢の後に続く、海野と山本は中学時代もソフトテニスでペアを組んでいて、親友同士だった。高校に入学して、テニスに転向後も海野と山本はペアを継続していた。二人のシングルスの実力はほぼ互角だったが、わずかながら海野の方が上だった。
双子の姉妹である花谷裕子と花谷涼子はシングルスの実力では、海野と山本にはやや劣っていた。しかし、ダブルスとなると花谷姉妹の方が強かった。だから、ダブルスには花谷姉妹を選ぶのが順当だった。
山本は、一つ上の学年の団体戦にひどく感動して、団体戦の出場に向けて、たゆまぬ努力を続けていた。山本の目標は黒沢を追い抜くことだったので、中学からのダブルスパートナーであり、親友でもある海野を直接的なライバルとはみなしてこなかった。努力の甲斐あっって、黒沢が去るまでに、山本の実力は海野とまったく互角になっていた。
したがって、僕は山本と海野のどちらをシングルス2として起用すべきか迷っていたのだ。
そんなある日の朝練前のことだった。ノックの音と共に職員室のドアが開き、山本の声がそれに続いた。
「失礼します。杉村先生はいらっしゃいますか?」
僕は自席に腰を下ろしたまま答えを返した。
「ああ、山本か。入ってきなさい」
「失礼します」
山本は一礼すると僕のすぐ横までやってきた。山本の表情にはいつもにも増して真剣さが浮かんでいた。
「あの、先生、お願いがあるんです」
山本は怖いくらいな目で僕を見ると、お願いの内容を語った。
「先生、明日から、朝三十分早く来ていただけませんでしょうか?私、先生に特訓をして欲しいんです」
その言葉を聞いて、僕は一瞬、答えにつまった。僕を見る山本の目がそうさせたのだ。立場上、山本の必死の願いを撥ねつけなければならないのが辛かった。僕は山本に納得してもらえるように慎重に言葉を選んだ。
「山本、申し訳ない。結論から言うと君の要望には応えてあげられないんだ。三十分早く来るのが嫌なわけじゃない。その位のことなら、喜んでしてあげたいんだけれど、そうもいかないんだ。山本の真剣さはよく分かるんだけど、君一人を特別扱いすることはできないんだ。僕は立場上、部員全員に対して公平に接しなければならないんだ。だから、山本の要望には応えられない。聡明な君のことだから、分かってもらえるよね?」
必死の願いを、ありきたりの理屈で跳ね返されたのがよほど悔しかったのか、山本は俯いたまま、しばらく黙っていた。しかし、冷静に考えれば、僕の言ったことを受け止めざるをえないと諦めたようだった。
「先生の仰る通りです。我儘を言って済みませんでした。失礼します」
山本は一礼すると職員室から出て行った。
僕の立場からすれば仕方がないことだったが、冷酷な仕打ちをしたようで心が痛んだ。
山本は、とにかく努力家で真面目な生徒だった。練習の時は、いつも誰よりも早くコートに現れた。倉庫からテニスマシンを出してきては、一人で黙々とストークの練習をしていた。そして、嫌というほど僕にアドバイスを求め、質問を投げかけてきた。
山本の努力はテニスだけにとどまらなかった。僕が担当する英語の授業でも、取り組みは積極的で、発言も多かった。授業中、休み時間ともに質問を受けることも多く、僕は一度昼食を取りそこなったことがあった。
しかし、山本は生徒の間では地味な存在だった。学級委員になって他の生徒を引っ張ってゆくような性格ではなかった。目立たないところでコツコツと働くタイプで、保健委員長として養護教諭の先生から絶大な信頼を得ていた。
人付き合いはごく普通だったが、入学以来ずっとボーイフレンドはいないようだった。声を掛けてくる男子は結構いるが、みんな蹴散らしてしまうのだという話を部員たちがしているのを聞いたことがあった。
その日の昼休み、今度は海野が職員室の僕の所にやってきた。話しがあると神妙に言うので、僕は海野を職員室の端の方にある相談コーナーに座らせた。
僕が海野の向かいに座ると、海野が話を切り出してきた。
「実は団体戦の件です。たぶん先生は、シングルス1は稲本さんで、ダブルスは花谷さんたちとお考えだと思います。違いますか?」
図星だったが、そうは言えなかった。
「いや、それはまだ何とも言えないな」
「ああ、そうですね。先生の立場なら、まだ言えないのは当然ですね」
海野は笑顔で理解を示した後、本題に入った。
「でも、もしそうお考えでしたら、お願いがあるんです。シングルス2は山本さんにして欲しいんです」
意外な提案だった。
「どうしてそう思うの」
「山本さんは、団体戦に向けて、ものすごい努力をしてきました。私は中学の時からずっと山本さんを見てきました。でも、今ほど努力をしているのを見たことがありません。山本さんは試合に出ることだけではなくて、何かをかけて努力をしています。私は、そんな山本さんの努力は報われてほしいと思うんです」
「自分を犠牲にしてでもか」
「はい、私は山本さんからシングルス2の座を奪い取りたいとは思いません」
海野は終始笑顔だった。親友のために身を引くことに、いささかも迷いがないことが見てとれた。
とはいうものの、海野の提案をあっさりと受けることはできなかった。
「君たちの力は全くの互角だ。僕が山本を選ぶ理由が明確じゃないだろう」
海野は笑顔のまま言い返してきた。
「いいえ、山本さんが努力しているのは皆が知っています。だから、先生が山本さんを選んでも、誰も異を唱える人はいないと思います。去年も一昨年も、山田先生がメンバーを決めていましたから問題はないと思います」
海野の穏やかな表情は相変わらず揺らぐことはなかった。
「君はそれでいいのか?君だって最後の団体戦は出たかったんじゃないのか?」
僕のその言葉に、海野の表情が少しだけ揺らいだ。
「はい。出たくなかったと言えば?になります。でも、私は山本さんが傷つく顔なんて見たくないんです。山本さんと私が戦力的に互角なら、どちらが出ても大勢に影響はないと思います。私は山本さんが出られない団体戦に自分が出たいとは思いません。山本さんの努力を踏みにじるようなことはできません。そんな辛い思いをすることと比べたら、私が試合に出られないことなんて何でもありません。だから、先生、どうか山本さんをシングルス2に選んであげてください」
言い切った海野の顔は再び笑顔に戻っていた。親友を思う純粋な気持ちが伝わってきた。だからといって、すぐに海野の提案を受け入れることはできなかった。
「君の思いは良く分かった。しかし、即答はできない。一応、意見として聞いておくけれど、それでいいかな?」
自分の提案がすぐに受け入れられることを期待していたのか、海野はわずかながら戸惑った様子を見せたが、すぐに答えを返してきた。
「もちろんです。私も、最終的には先生のご判断を尊重するつもりです」
海野の口調には、最終的には自分の提案は受け入れられるだろうという自信めいたものが感じられた。
「では、失礼します」
海野は立ち上がって一礼すると職員室から出て行った。
山本の努力は目を引くものがあったが、海野の練習態度も決して悪いものではなかった。海野もまた、真剣にテニスに取り組んでいた。
海野と山本は、部活以外の学校生活においては対照的だった。海野はクラスでは目立つ存在だった。積極的に人前に出るタイプで、リーダー的な存在だった。学級委員を務めることも多く、生徒会役員への立候補も期待されていた。僕からも立候補を勧めてほしいと生徒会担当の先生に頼まれたことがあった。一応勧めてみたが、部活に専念したいとあっさり断られた。
海野は交友範囲も広く、今は高校に入って二人目のボーイフレンドと仲良くやっているというのが他の部員たちの話だった。
そんな海野の性格からすると、自ら試合の出場機会を放棄するというのは、海野らしくない気がした。裏を返せば、海野にとって山本はそれだけ重要な存在だということだった。自分を犠牲にしてでも、親友の望みを叶えてあげたいという思いに嘘はなく、それが美しい友情であることは確かだった。
その日の放課後、部活が始まる前に、今度は部長の稲本が僕の所にやってきた。海野と同じ様に相談コーナーで話を聞いた。
「先生、実は今度の団体戦のメンバーについてなんですが、私をメンバーから外して欲しいんです」
予想だにしなかった稲本の提案に僕はひどく驚かされた。
「何を言っているんだ、君はうちのポイントゲッターじゃないか。外すことなんて考えられない。どうしてそんなことになるんだ?」
動揺した僕は少し早口になっていた。
まるで立場が逆になったかのように稲本は極めて冷静に話を続けた。
「先生は、たぶん、シングルス1は私で、ダブルスは花谷さんたち、そしてシングルス2は山本さんか海野さんのどちらかと考えているんじゃありませんか?」
「今の段階では、まだ何も言えない」
「そうですね。先生のお立場は分かります。ですから、はっきり答えてくれなくて結構です。でも、今の状況からすると、山本さんと海野さんでシングルス2の座を争うことになりますよね。私は、あの二人に、そんな戦いはして欲しくないんです。私が抜ければ全ては丸く収まります」
僕はようやく稲本の真意が読み取れた。
「二人の友情のために君が犠牲になるということだね」
「そんな大げさなことじゃないと思います。私は、二人と違ってジュニアの大会に出る機会がいくらでもありますし、インターハイの団体予選も、昨年先輩方と一緒に出させていただきました。だから、もう十分です」
稲本はまるで悟りきったかのように淡々とした口調で話したが、団体戦出場に何の未練もないとは思えなかった。だから尋ねた。
「でも、君も最後の大会を同級生と一緒に戦いたいと思う気持ちは有るんじゃないか?」
「全くないと言えば嘘になります。でも、私は部長ですし、山本さんと海野さんの二人が揃って出た方が、部全体として良い雰囲気で活動を締めくくることができると思います。私にとっては、そちらの方が重要なんです」
友を思う気持ちと部長としての責任を語る稲本はえらく大人に見えた。
しかし、稲本の案の実行には大きな問題があった。
「でも、一番実力のある君が抜けるなんて、他の部員は誰も納得できないんじゃないか?」
「そんなの問題ありません。私がケガをしたことにすれば良いだけです」
痛いところをついたつもりだったが、稲本はさらりと言ってのけた。
「でも、それは嘘をつくってことじゃないか」
「でも、優しい嘘に罪はないと思います」
稲本は驚くほど大人の顔でそう答えた。
海野の提案と同様に稲本の提案もすぐに受け入れられるものではなかった。だから僕は同じような対応を取った。
「即答できるような問題じゃない。とりあえず、意見として聞いておくが、それで良いか?」
「はい、それで結構です。最終的には先生のご判断を尊重します。では、失礼します」
稲本の方も、海野とまるで同じ言葉を残して職員室から去っていた。
稲本は大人だった。他の生徒と比べて明らかに精神的な面での成長が早かった。それは稲本の今までの経験がそうさせたのだろうと僕は思っていた。
稲本は小学生の頃からジュニアの世界で数々の試合をこなし、修羅場を潜り抜けてきていた。所属するテニスクラブでは、両親や教員といった人たちとは異なる様々なバッググラウンドを持つ大人たちとも接触してきたはずだった。
稲本は自分を見る目も冷静だった。中学の時点で自分の才能に既に見切りをつけていた。稲本には、いわゆるテニスの強豪校と呼ばれる所からも誘いは有ったようだった。しかし稲本は、テニスは趣味に留め、普通の都立高に入学して大学受験をする道を選んだのだ。
稲本は自分より遥かに技術が劣る他の部員を見下すことはなかった。アドバイスを求められれば丁寧に応えたが、自分から他人のテニスに口出しをすることはなかった。強く自己主張をするタイプではなく、周囲に目を配り、他者を尊重するように努めていた。
テニスの技術が飛びぬけていたので部長に任命されたが、本来なら、冷静な目で物事を判断し、リーダーを支える参謀的な役割が似合う生徒だと僕は思っていた。
その日、部活が終わった後、僕は職員室で思案に暮れた。いつの間にか残っているのは僕だけになっていた。海野と稲本が予想外の提案をしてきたので、僕の頭の中は更に混乱していた。
どうしたら良いのかまるで分らなかった。ただ、二人の提案のどちらを採用しても山本は試合に出られる結果になった。山本の努力を認めてあげたいという思いは、海野、稲本、そして僕に共通する思いだった。
僕が山本の努力を認めてあげたいと思っていたのは、決して僕が山本に良からぬ思いを寄せているからではなかった。僕は山本を純粋に一生徒としてしか見ていなかった。対象が山本でなくても、山本ほどの努力をしている生徒が目の前にいたら、その努力を評価したいと思うはずだった。
だが、僕が努力を認めてあげたいと感じる理由は、確かに僕の個人的な経験に由来していた。
中学時代、僕は柔道部に所属していた。柔道を始めるきっかけはテレビアニメの影響というつまらないものだった。そして、まだ小学生気分が抜けていなかった僕の選択が、愚かだったということにはすぐに気づかされた。
身長は低くなかったが、どちらかと言えば細身の僕は体重が軽かった。団体戦に出られるのは五人だったが、そのうち四つの席は体格の良い四人の部員にしっかりとキープされた。
残りの一席を僕と、田川、永末の三人で争うことになった。三人の中では僕が一番努力をしていた。顧問の谷垣先生もそれはよく承知のはずだった。しかし、結果的に最後の一席を勝ちとったのは永末だった。
三年次、最後のメンバー発表があった時も、僕の名前が呼ばれることはなかった。発表の直後、僕は赤くなった目で顧問の谷垣先生を睨みつけた。こんなに努力してきたのに、どうして僕を使ってくれないのだという無言の問いに谷垣先生が答えることはなかった。
それ以来、僕はずっと谷垣先生を恨み続けていた。その先生は去年、癌で亡くなったと聞いたが、僕は通夜にも葬式にも顔を出さなかった。
中学卒業と同時に、僕はきっぱりと柔道から足を洗った。高校の柔道部の先生からお誘いも受けたが丁重にお断りし、柔道とはまるで正反対のようなテニス部に入部した。どうも僕はそちらの方に才能があったようだ。決して強い学校ではなかったが、2年次から団体戦のメンバーに名を連ねるようになっていた。
高校卒業後、さすがに体育会の部活に入るほどの実力はなかったが、サークルではそれなりの活躍もできた。お陰で僕は今、女子テニス部の主顧問を任されているという訳だ。
そして僕は今、中学生の時の自分とまるで反対の立場に置かれていた。生徒の中らから選手を選ぶ立場になったのだ。自らの過去の経験から、僕は努力を認めてあげたいという思いが強くなっていた。しかし、それを理由にして山本を選ぶことには踏ん切りがついていなかった。袋小路に追い込まれた僕は、今まで思いもよらなかったことに不意に気づいた。気がついてみると、自分の愚かさに胸が痛んだ。
九年も経って、僕はようやく気がついたのだ、あの時、谷垣先生も今の僕と同じように悩んでいたはずだと。
あの頃は怒りに目がくらみ、気がつかなかった。しかし、冷静に思い返してみると、谷垣先生は僕の努力を全く評価していないわけではなかった。
谷垣先生は一年と三年の時の区大会の団体戦では僕を使ってくれた。2年生の団体戦では田川を使っていた。都大会ばかりに目が行っていた僕は、そういった気遣いにはまるで目がいっていなかった。そういったことに気づかないままに、僕はずっと谷垣先生を恨み続けていた。
申し訳ないことをした。できることなら、謝りたいと思った。しかし、今となっては、それはもう叶わないことだった。取り返しのつかないことをしてしまったという思いがつい口に出た。
「谷垣先生、済みませんでした」
「そうか、やっと気づいてくれたか」
僕の言葉に応える声に驚いて、声のした方向を見た。
僕の左隣の湯川先生の席に谷垣先生が座っていた。
「え、先生、どうして・・・」
驚きのあまり、僕はその後の言葉が続かなかった。
「死んだはずだって言いたいんだろう。ああ、確かに俺は死んだよ」
「・・・」
「お前がもうちょっと早く気がついてくれれば、一緒に酒でも飲めたのにな」
谷垣先生は右手でお猪口から酒を飲むような振りをしてみせた。その様子を見ながら、僕はようやく平静を取り戻した。そして、改めて谷垣先生に謝罪の言葉を口にした。
「すみません。先生を恨んだりして申し訳ありませんでした。今、やっと自分の愚かさに気つきました」
「ああ、もういい。済んだことだ」
先生は面倒くさそうに右手を顔の前で振ってみせた。
「それに、お前だけが悪いわけじゃない。俺の方にも反省すべきことがあったんだ」
意外な話だった。だから、思わず僕は確認をとった。
「先生の方にですか?」
「ああ、俺はお前や田川にもっと気をつかってやるべきだったんだ。あの頃、お前と田川の実力は、わずかだが、間違いなく永末より劣っていた。俺は柔道の専門家だったから俺の目には狂いはねえ。それは今でも自信を持って言える。だが、自分の判断に間違いは無いんだから、それをいちいちお前たちに説明する必要などないと思い込んじまったのがいけなかったんだ。そのせいで、俺はお前や田川の気持ちを大切にすることを怠った。俺は、お前や田川にもっと丁寧に接するべきだったんだ。もっと言葉を掛けてやるべきだった。しかし、俺はそれを怠った。だから、お前に恨まれても当然だったんだ」
「そうだったんですか」
「でもな、永末を選んだ俺の判断自体は断じて間違っていない。俺はお前の努力は良く知っていた。たぶん、他の部員もそうだっただろう。しかしだ、その努力を評価して都大会の団体戦にお前を使うことはできなかった。区大会ならお前が負けても、他の四人がいれば優勝できるのは分かっていた。だから、お前を使った。二年の時には田川も使った。しかし、都大会ではそうはいかない。俺にはベストだと思うチームを作る義務があった。そうじゃなければ他の四人に申し訳ないだろう。だから、お前の努力に目をつぶってでも永末を選ぶしかなかった」
先生は一度言葉を切ると、一つため息をつき、また話し始めた。
「俺は、そういうことをお前にきちんと話すべきだった。俺はこう言うべきだったんだ。『お前の努力は良くわかっている。できれば使ってやりたかった。しかし、柔道部全体のことを考えるとそれはできない。申し訳ないが我慢してほしい』とな。そう言っていれば、お前は理解してくれたんじゃないかと思う。悔しさは残ったとしても、あんな目で俺を睨むことも、何年も恨み続けることもなかったような気がする。お前は頭の良い奴だからな」
「僕はそんなに頭は良くありませんよ」
「何言ってるんだ。早大の英語英文学科に受かったんだろう。大したものじゃないか。お前のことだ、相当努力したんだろう」
「ええ、まあ」
「努力が実ってよかったな」
その言葉を聞いて、僕はやっと谷垣先生に認められたような気がした。
谷垣先生は、そんな僕の様子を嬉しそうに眺めながら、話題を別の方向に振った。
「しかし、お前の生徒たちはいい子ばかりだな。友達思いの二人も。必死に努力している子も。お前にはもったいない」
「そうですね。教師冥利につきます」
それから谷垣先生は両腕を頭の後ろに組むと、呆れたような調子で妙なことを言ってきた。
「しかし、お前の鈍感なところは変わらないな。お前、マネージャーの本山がずっとお前に片思いをしていたことに気づいてなかっただろう」
「ええ、そうなんですか?」
「ああ、そうだ。周りはみんな気づいてたんだ。気づかなかったのはお前だけだ。相変わらず鈍感で罪作りな奴だな、お前は」
谷垣先生は少しいたずらっぽく笑った。それから、不意に何かを思い出したかのような顔つきになった。
「おっと、こんな話をするために来たわけじゃなかったな」
谷垣先生には何か他の目的があるようだったので尋ねた。
「先生、どうして、こちらにお見えになったんですか?」
「なぜって。不肖の弟子が、あんまり情けない面して悩んでるから、気になって来ちまったんじゃねえか」
「そんなに僕は情けない顔をしていますか?」
「ああ、してるよ。団体戦の選手決めができずにウジウジとして、見ちゃいられねえな」
「済みません。返す言葉もありません」
「いや、お前が迷うのも無理はない」
「先生だったら選手選び、どうしますか?」
僕が意見を求めると、谷垣先生は少し怖い顔をした。
「俺だったらどうするか言うのは簡単だ。でも、俺はお前じゃない。俺が出す答えはお前の答えじゃない。今の女子テニス部の主顧問はお前だ。だからお前が考えろ。そして、出した答えには責任を持て」
「そですね。仰る通りです」
教師になったとはいえ、谷垣先生の前では、僕は未だ一生徒でしかないことを思い知らされた。そして、谷垣先生の厳しい教えは更に続いた。
「いいか、大人に見えても生徒たちは、まだまだ子供だ。きちんと考えているようで、そうでないこともある。事実、お前はあの二人の提案を安易に受け入れる気にはならなかったんだろう。受け入れればお前が望むように山本という子の努力が報われるのにも関わらずだ。それは、お前が大人で、教師の目で物事を見ているからだ」
「そうかもしれません」
「いいか、お前は自分の判断でベストだと思う道を選べ、そして、一旦選んだら、生徒が何を言おうと揺れるな、ぶれるな。お前が毅然としていないと、生徒はそれぞれの意見を主張しだして収集がつかなくなる」
そのやり方は、少々独裁が過ぎるような気がして不安になった。
「谷垣先生、それは生徒の気持ちを無視することになりませんか?」
「そうかもしれん。だがな、一旦決めたら押し通せ。お前が正しいと信じた道を進めば生徒も必ず分かってくれる・・・と言いたいところだが・・・」
「え・・・」
「そう言いたいところだが、現実の教育現場は学園ドラマのように都合良くいくとは限らない。お前がどれだけ生徒のことを考えて最善と思う道を進んだとしても、それは生徒に伝わらないかもしれない。嫌われるかもしれない。憎まれるかもしれない。
しかしだ、お前はお前の考えを貫き通せ。嫌われたり、憎まれたりするのを恐れるな、避けるな。好かれることも重要だが、嫌われたり、憎まれたりするのも教師の仕事だと思え。それを恐れて自分を曲げていたら、お前は良い教師にはなれない。部活の顧問などしていれば、今度みたいなことはこれから何度もあるはずだ。お前も、これからずっと教師をやっていくつもりなら覚悟を決めろ」
「なかなか大変な覚悟ですね」
「そうだ。大変だ。まあ、自分が納得する答えが見つかるまで、じっくり考えてみることだな。焦ることはない。精いっぱい時間を使って考えろ」
「はい、そうします」
「そうか、じゃあな」
そう言うと谷垣先生は姿を消した。
帰宅後、僕は谷垣先生の言葉を思い出しながらゆっくりと考えた。しかし、答えは簡単にはみつからなかった。答えが見つかったのは、それから三日後のことだった。しかし、答えは見つかったものの それを実行することは容易ではないこともよく分かっていた。だが、やるしかなかった。僕は覚悟を決めた。
翌日、午後の部活の初めに、僕は生徒を集合させることにした。
「整列」
僕が声を掛けると、三年生を一番前にして、生徒たちが学年毎に並び、三つの列が僕の前に出来上がった。
「これからインターハイ予選団体戦のメンバーを発表します。皆さんそれぞれに考えはあると思いますが、これは僕が主顧問として熟慮して決めたことです。不本意に思う人もいるかもしれませんが、決定には従ってもらいます」
僕の普段とは少し違う高圧的な物言いに、生徒たちが少し動揺しているのが感じられた。そんな中、僕は発表を始めた。
「まず、ダブルスは花谷・花谷組」
誰もが予想していた通りだったので、特別な反応はなかった。
「次にシングルス1は稲本」
これもまた予想通りなので、稲本以外には特別な反応はなかった。稲本は僕の決定に、やや不服そうな表情を見せたが、僕の決定を尊重すると言った手前、何も言ってこなかった。
「最後のシングルス2は・・・」
僕が口を開くと生徒の間に緊張が走るのが分かった。僕はその後の言葉をつなぐのに一瞬恐れをなした。しかし、もう後戻りはできなかった。
「シングルス2は、これから海野と山本に試合をしてもらい、勝った方をシングルス2とします」
僕の言葉が最後まで終わらないうちに花谷祐子が叫んだ。
「先生は鬼ですか。海野さんと山本さんを戦わせて決めるなんて、どうしたらそんなひどい仕打ちができるんですか?」
僕は一瞬、祐子の剣幕に押された。そうだ、そうだと他の部員たちも心の中で叫んでいるような気がした。
「試合で決めるのは、テニスのことはテニスでけりをつけるべきだからだ」
僕は裕子の言葉を退受けて、そう言い切った。その言葉は生徒たちにとって、この上なく冷酷に響いたような気がした。
すぐさま、今度は花谷涼子が食って掛かってきた。
「そんなのプロの話じゃないですか。ここは部活ですよ。強さだけが全てじゃないと思います。先生はずっと二人のことを見てきたんですから、なにも親友同士の二人を無理に戦わせなくても、先生が決めてくれればいいじゃないですか」
涼子の言葉には確かに一理あった。そうだ、そうだという言葉が、また聞こえてくるような気がした。しかし、僕は涼子の言葉も退けなければならなかった。
「花谷の言うことはもっともだ。もし、海野と山本のどちらかの練習態度に問題が有るというような客観的な事実があれば、それも考慮して選ぶのが部活の在り方だと思う。しかし、今回の場合、二人には全くそういう問題はない。僕が見る限り、二人の実力は全くの互角だ。だから、僕が主観で選ぶのはフェアじゃない。だから、二人には酷かもしれないが、みんなが納得できる方法で、試合で雌雄を決する以外にはない」
「でも・・」
言いかけた涼子の言葉を僕は遮った。
「さっきも言った通り、これはもう決めたことだ。それぞれに意見はあるだろうが、決定を翻すつもりはない」
生徒の意見を受け付けようとしない僕に対して、反抗的な視線を送ってくる生徒もいたが、それ以上何も言わせないように僕は指示を送った。
「一年生は部室から、シングルスポールとスコアボード、記録用紙、それと公式戦用のニューボール二缶持ってきなさい」
その場の雰囲気もあり、一年生はすぐに返事をしなかった。
「返事はどうした?」
僕は意識的に声を荒げた。
「はい」、僕の声に押されて四人の一年生がようやく答えた。
「何をしている。早く行け」
僕の言葉は、いつになく命令口調になっていった。それに驚いた一年生たちは慌てて部室に駆けて行った。
得点版が運び込まれ、ネットにシングルスポールが立てられ、試合の準備が進む間に、海野と山本はウォームアップを済ませていた。そうして、ついに二人の試合の準備が全て整った。
「整列」
僕が声を掛けると、先ほどと同じように生徒たちが僕の前に並んだ。
「それでは、これから海野と山本の試合を始める。その前に二人に言っておくことがある。他のみんなも良く聞いておけ」
僕はそこで一度言葉を切った。それから肩を並べた海野と山本の方に視線を向けた。二人は真剣な目で僕の方を見返していた。それから僕は二人に向かって語り掛けた。
「海野、山本、わざと負けてあげようなんて決して思うな。そんなことをしたら、傷つくのは相手の方だ。全力で勝ちにいけ。そして、勝った方は自分がシングルス2に相応しかったのだと自信を持て、負けた方は相手が相応しかったんだと納得しろ。全力で相手を倒してやるのが本当の友情だと思え。分かったか?」
「はい」、二人は同時に返事をした。その四つの目には、もはや迷いはないように見えた。
「他のみんなは二人の勝負をしっかりと見ておけ。特に一・二年生、来年に向けて役に立つことがあるはずだ」
「はい」
部員全員が返事をした。部員たちも、見たくないと言っていた勝負を見届ける覚悟ができたようだった。
「では、これから試合を始めます。主審は僕がやります」
僕はそう言って審判台に登ろうとした。
「じゃあ、副審は私がやります」
直後に稲本が名乗りをあげた。
「わかった。よろしく頼む」
僕は一年生から記録用紙を受け取り審判台に登った。稲本は副審の位置に移動していった。
僕が審判台に腰を下ろすと、花谷姉妹がネット際に片膝をついて座った。二人はボールパーソンをするつもりのようだった。ボールパーソンは選手の体力の消耗を防ぐために、選手がネットにかけたボールを拾いに行く、いわば球拾いだ。当然、それは本来なら一年生の仕事だった。
それを見た一年生二人が、花谷姉妹の元に駆け寄った。
「先輩、私たちがやります」
その言葉を花谷姉妹は受け入れなかった。そして、裕子が言った。
「いいのよ。これは三年生の戦いだから」
「でも・・・」
引き下がらない一年生に次に声を掛けたのは涼子だった。
「これは私たちの仕事なの。だから、あなたたちには任せられない」
凛とした花谷姉妹の姿を見て、一年生はコートの後ろの方に下がっていった。
その後、二年生の一人が一・二年生を集めた。少し話をすると二年生一人が得点係として得点板の元に残り、他の生徒たちはコートの四隅へと散っていった。コートの後ろに飛んだ球を拾うつもりのようだった。
トスに勝ったのは山本の方だった。山本のサービス、海野のレシーブで試合が始まることになった。
テニスの試合は基本的には4ポイントを先に取った方が1ゲームを取る。そして、6ゲームを先にとった方が1セットを取る。高校生の試合は大抵は1セットマッチだから、先に6ゲームをとった方が勝ちである。
「それでは山本のサーブで1セットマッチの試合を行います。プレイボール」
僕は二人の試合の開始のコールをした。
山本は、数回ボールを地面についた後、一つ深呼吸をすると最初のサーブを放った。ボールは奇麗に相手コートに入った。海野は、まずは無理をせずに慎重にレシーブを返した。そして、二人の試合の最初のラリーが始まった。
海野と山本のテニスは正に対照的だった。
海野のテニスは攻撃型だった。地面に落ちてから大きく弾むトップスピンや、高速のフラットを多用した。相手をねじ伏せようという力とスピードのテニスだった。
それに対して、山本のテニスは守備型だった。地面に落ちてから低く滑ってゆくスライスや、ゆるい山なりのロブを多用した。相手の攻撃を上手く受け流しながら、打ちにくい所にボールを打ってゆくという技とコントロールのテニスだった。
したがって、二人の試合は、海野がひたすら攻め、山本が守りきるという展開になった。もちろん、二人はこれまでも何回もシングルスの試合をしていた。しかし、中学からペアを組んでいる親友同士ということもあり、今ひとつ真剣さが欠けるところがあった。しかし、今、二人にそんな様子は見られなかった。二人の目は真剣そのものだった。全力で相手を倒そうという闘志に満ち溢れていた。
そして、いつしか僕は、山本の努力云々に関して考えることをすっかり止めていた。どちらに加担することもなく、二人をただの選手として平等に見ていた。できれば審判などしないで一人の観客として二人の試合を見たかったと思った。
コートの四隅に散っていった一・二年生たちは、自分に近い方にいる先輩に声援を送ると決めていたようだった。ポイントが途切れる度に、泣き出しそうな声で必死に声援を送っていた。
緊迫した打ち合いの末、第一ゲームは山本がサーブをキープした。ゲームカウントが山本から見て1-0になり、コートチェンジになった。テニスでは奇数ゲームが終了する度にプレーする場所を入れ替わることになっていた。
学校のテニスコートは防球ネットを挟み一階の職員室の前にあった。防球ネットと職員室の間には校門へと続く通路があった。校舎と敷地の関係上、その通路は多くの生徒が通過する場所になっていた。
職員室の反対側には体育館があり、防球ネットと体育館の間も通路になっていて、こちらも多くの生徒の通り道になっていた。
顧問である僕が審判台に座っていること、普段はしない声援が聞こえること、それらは進行中の試合が重要なものであることを感じさせたのだろう。足を止めて防球ネット越しに試合に見入る生徒が現れ始めた。
第二ゲームは接戦の末、海野がサーブをキープしてゲームカウントは1-1のタイになった。続く第3ゲームも競った打ち合いが続いたが、最後は山本がサーブをキープし、ゲームカウントは山本から見て2-1になり、再びコートチェンジとなった。
コートチェンジの休憩の途中、コートの隅にいる下級生に防球ネット越しに質問をするものがあった。この試合に団体戦への出場権がかかっているという情報がコートの外に伝えられた。そして、それはあっと言う間に観戦中の生徒の間に伝わっていった。
そして、その情報はSNSを通して拡散したようだった。女生徒を中心にして、更に多くの生徒が観衆に加わっていった。そのほとんどが山本と海野の友人たちのようだった。
ポイントの合間毎に、
「海野さん頑張って」
「山本さん負けるな」
そんな声援が響くようになった。
二人の試合は、両者一歩も退かず、どちらも自分のサービスゲームを落とすことなくキープ・キープの展開が続いた。山本から見てゲームカウント4-3のコートチェンジの際、少し、緊張が解けた僕は、山本の担任の渡部先生と海野の担任の菱山先生が観衆の中に混じっているのに気づいた。二人は、どちらも自分の学年の生徒ということもあり、声を上げてどちらかを応援することはなかった。しかし、僕には、二人が心の中では自分のクラスの生徒の応援をしているだろうことは容易に想像がついた。
結局、二人の試合は5-5までもつれ込んだ。テニスの試合は6ゲーム先に取った方が勝ちだ。しかし、スコアが5-5になると、どちらかが続けて2ゲームを取り、7-5にならないと試合は終わらなかった。
山本がサービスをキープし先に王手をかけたが、海野はプレッシャーに負けることはなかった。見事にサービスをキープして、スコアは6-6のタイになった。
ゲームカウントが6-6のタイになると、そこからは勝敗の決め方が変わる。タイブレークという試合形式になり、先に7ポイント取った方が勝者になるのだ。
最初のサーブは山本だった。しかし山本はここで、2球続けてサーブが入らなかった。いわゆるダブルフォールトで、最初のポイントを失った。そして、このミスはタイブレークにおいて山本を苦しめることになった。
タイブレークの1ポイント目は山本のサーブだったが、2ポイント目、3ポイント目は海野のサーブだった。それ以降は2ポイント毎にサーブ順が入れ替わるのがタイブレークのルールだった。
山本は2ポイント目を取り返したが、3ポイント目は、また海野に取られた。そして、それ以降は常に海野が1ポイントを先行し、山本がそれに追いつくという展開が続いた。
常に海野に先行されながらも、山本は必死に食らいつき、2ポイント以上のリードは許さなかった。タイブレークに入っても二人の試合はもつれにもつれた。スコアはとうとう6-6になった。
こうなると7-6では勝負はつかず、どちらかが続けて2ポイント取らない限りは永遠にゲームが続くのだ。6-6からの最短の終了スコアは8-6だったが、二人のスコアはあっさりとそれを追い越し、7-7,8-8、9-9、10-10へともつれて行った。常に海野が先行して王手をかける展開が続いたが、山本は必死に耐え抜いた。
そして、試合は海野リードで11―10の局面を迎えた。観衆の数は殆ど減ることはなかった。山本がサーブの体制に入るまで、双方への声援が飛び交った。山本のサーブがコートに入り、そこから長いラリーが始まった。
少し前から、二人のラリーには変化が見られていた。疲れと緊張感が二人のテニスに影を落として始めていた。海野は、もうパワーとスピードのある球を打てなくなっていた。山本も負けている状況では、きわどいコースにボールを打つ危険を冒すことができなくなっていた。双方とも持ち味を生かすことができず、試合は膠着状態に陥っていた。どちらも思い切って勝負にでることができず、コートの中央で安全なボールを打ち合う展開になっていた。
次のポイントを取れば勝ちになる海野の方がもちろん有利だったが、この展開はむしろ山本に味方していた。双方ともにミスを恐れて中央でボールを打ち合っている状況では、コントロールに勝る山本より先に海野がミスを犯す確率が高かった。したがって、次のポイントを山本がとってタイに持ち込めば、情勢が一気に山本の方に傾く可能性があった。
海野もそれが分かっていたのだろう、海野はついに勝負に出た。強烈なフォアハンドで、右のコーナーに向けてボールを放った。虚を突かれた山本は、ラケットの真ん中でボールを捉えることができなかった。弱弱しいボールがネットの白帯に向かって飛んで行った。ボールはネットの上の方に当たって真上に弾んだ。ボールが山本のコートに落ちれば試合終了だった。しかし、もし、海野の方に落ちれば、渾身のショットが決まらず不運なコードボールで失点したショックは計り知れない。ゲームの流れが一気に山本に傾く可能性が大きかった。
落ちてきたボールは、もう一度ネットの上に当たった。勝利の女神すら、まだ勝者を決めかねているように見えた。そして・・・
ボールは山本のコートに落ちた。結局、山本の努力は報われなかった。
「ゲーム・アンド・マッチ・ウォン・バイ・海野」
僕は静かに海野の勝利を告げるしかなかった。その瞬間に、周りの観衆から一斉に拍手が巻き起こった。
僕は審判台から降り、ネットポールの横に立った。僕の横に花谷姉妹と稲本が並んだ。そして、試合を終えた山本と海野が、試合後の握手のためにネットに歩み寄って来た。僕は心配して山本の方を見た。僕の心配は杞憂だった。山本はこの上なく美しい笑顔を浮かべていた。男としてではなく、顧問としてでもなく、ただの一人の人間として僕は山本の笑顔が美しいと思った。
海野と山本はネットの所までたどり着くと、ラケットを置き、試合後の握手を交わした。山本は美しい笑顔を浮かべたまま、親友の勝利を称える言葉を口にした。
「海野さん、おめでとう。団体戦頑張ってね」
次の瞬間、海野はネット越しに親友をきつく抱きしめた。そして、コートの外まで聞こえそうな大声で泣き出した。その様子を見て、周囲から、また大きな拍手が巻き起こった。
インターハイ本戦どころか、その予選に出る選手を決めるための弱小校の部内戦、身もふたもない言い方をすれば、極めて低レベルの試合だった。しかし、この試合に臨んだ二人の思いは、インターハイのファイナリストたちと比べても劣るものではないような気がした。
「整列」
部員たちが落ち着きを取り戻したころを見計らって、僕は集合の合図を掛けた。また、僕の前に生徒たちが並んだ。
「それでは、これで今日の練習は終わります」
「気を付け。礼」
稲本が号令をかけて女子テニス部の長い一日が終わった。
それから、僕は部室に向かおうとした山本を呼び止めた。
「ああ、山本、ちょっと話があるから、ついてきてください」
「わかりました」
僕は少し人目を避けて、外から職員室に入れるドアの前の方へ向かった。僕が振り向くと山本は僕の二メートルくらい前で足を止めた。
僕は山本の努力を褒めてやるつもりだった。山本の努力を評価していたということをしっかりと言葉にして伝えるつもりで口を開いた。
「山本、試合は残念な結果で終わったけど、僕は君の努力を・・・君の努力を・・・」
僕は、その後の言葉をつなぐことができなかった。辛いのは山本の方だったのに、先に自分が先に泣き出してしまったのだから、なんとも格好が悪かった。
さっきまでは笑顔だったのに、僕の涙を見た途端に、山本の目からも涙が溢れ出した。
「先生!」
そう言って僕の方に駆け寄ろうとした山本が、何をしようとしたのか、鈍感だと言われた僕にも、さすがに分かった。山本は誰かの胸を借りて泣きたかったのだ。だが、僕は立場上、山本を制止せざるを得なかった。
「待て、山本」
僕は右の掌を向けて駆け寄ろうとした山本を制止した。
「先生、どうして」
涙でくしゃくしゃになった山本の顔が、何か不思議なものに遭遇して呆気にとられているように見えた。目の前で起きていることが信じられないと言いたげだった。
「先生、こんなに悲しいのに、こんなに涙が出てくるのに、ちょっとくらい胸を貸してくれてもいいじゃないですか」
大粒の涙が地面に落ちた。
しかし、僕は極めてありきたりの理屈で山本の願いを退けた。
「済まない。僕は教師で、君は生徒だ、だから、そういう訳にはいかないんだ」
山本は俯くと、しばらく沈黙した。その後の反応が僕は怖かった。笑顔で理解してくれることを望んだ。しかし、僕の期待は見事に裏切られた。
山本は、顔を上げると、憎しみに満ちた目で僕を睨んだ。僕は、九年前に谷垣先生に向けた視線が、ブーメランのように戻ってきて自分の胸に刺さったような気がした。
「先生はひどい人ですね。私、先生がこんなにひどい人だとは思っていませんでした。失礼します」
山本は一礼すると部室の方に走っていった。僕は呆然と山本の後姿を見送るしかなかった。
「最悪の結果になっちまったな」
僕の横に谷垣先生が立っていた。
「あの子の努力は実らず、お前はあの子に恨まれたか。やはり現実は、学園ドラマみたいにはいかないもんだな」
「選手決めはともかく、その後の展開は最悪でしたね。僕の対応は間違っていたんでしょうか?」
その通りだと言われるかと思ったが、そうではなかった。
「いや、お前の対応は間違っていない。あの子には恨まれちまったが、仕方がなかったんだ。テレビの学園ドラマなら、あの子に胸を貸してやるお前の姿は、感動的な絵になるだろう。だがな、現実の世界じゃあ、そうはいかないんだ。あの子に胸を貸して肩にでも触れてみろ。事情も知らない奴らが、セクハラだのなんだのと言い出しかねない。下手をしたらお前は懲戒免職だ。お前はそれを冷静に回避した。だから、お前の対応はまちがっていない」
「そう言ってもらっても、少しも気は楽になりませんね」
「まあ、諦めるんだな。お前、部員全員に嫌われる覚悟を決めて、あの子たちに試合をさせたんだろう」
「そうですが、でも、あんな目で睨まれるほど嫌われるとは思いませんでした」
「まあ、因果応報というやつだな」
谷垣先生は少しずるそうな顔をして笑った。
「飲みにでも連れてってやりてえところだが、そうもいかねえ。悪いが一人でやってくれ」
そう言うと谷垣先生は姿を消した。仕方なく僕は、一人で居酒屋に行くとベロベロになるまで一人でやけ酒を飲んだ。飲んでも、飲んでも苦い酒だった。
翌朝、朝練の前に山本が職員室の僕の所にやってきた。僕の席の横まで来ると、急に深々と頭を下げた。
「先生、昨日はどうもすみませんでした」
「いや、気にしてないよ」
我ながら白々しい嘘だと思った。
「昨日、お姉ちゃんに愚痴ったら、思い切り怒られました。『お前は先生の立場をまるで考えていない。自分の感情に溺れて先生にとんでもない迷惑をかける所だった』って言われました。それと、『試合に出られなかった生徒のために泣いてくれる先生なんていない』って」
山本の言葉を聞いて、僕は昨夜からのもやもやも、二日酔いも一気に吹き飛んだような気がした。
「山本、ありがとう。そう言ってもらえると僕も救われるよ」
「いいえ、とんでもないです。悪いのはみんな私の方ですから」
その後、僕は昨日言いかけた言葉をもう一度山本に送ろうとした。
「山本、僕は君の努力を・・・」
言いかけると僕は山本に制止された。
「先生、先生が私の努力を評価してくださったことは良く分かっています。だから、もう大丈夫です」
「そうか」
僕は自分よりも山本の方が大人のような気がした。
「なあ、山本、実は僕は、『努力は人を裏切らない』という言葉が嫌いなんだ」
「先生が、そんなことを言って良いですか?」
山本は昨日の涙が嘘のように大笑いをした。
「ああ。そうだ。君は『努力』に裏切られた、そうは思わないか?」
「ええ、思わなくはないですね」
山本は少し迷っているような表情で答えた。そんな山本に僕は自分の発言の真意を伝えた。
「『努力』なんて奴はひどい奴さ。涼しい顔して、しょっちゅう人を裏切るとんでもない奴だ」
「そうかもしれませんね」
「でもな、何度裏切られても、やっぱり人は努力することを止めたらいけないと思うんだ」
「先生の仰る通りだと、私も思います」
山本は、また少し笑った。昨日の涙の跡は、もうどこにもないような気がした。
「君には、今、もう一つ努力していることがあるよね」
「大学受験ですか?」
「そうだ、今回、君の努力は実を結ばなかったけれど、次はうまくいくことを祈っているよ」
すると、また山本はクスクスと笑いだした。
「先生、祈ってるだけじゃ困ります。ちゃんと指導してください」
「ああ、そうだな。質問があったら、いつでもおいで。早朝特訓には応じられないけどな」
「はい、もちろんです」
山本の顔は、僕の言葉を聞く度に明るくなっていくような気がした。
「ところで、山本、もう第一志望は決まっているのか?」
「はい、決まってます」
「ほう、どこにしたんだ?」
「秘密です。個人情報に当たりますから」
「そうか、まあいい。とにかく頑張れ」
「はい。頑張ります。では、失礼します」
山本は一礼して職員室を出て行こうとしたが、不意に戸口で足を止めて、僕の方を振り返った。
「先生。先生は一つ間違っています。団体戦には出られなくなったけど、私は努力したおかげで、海野さんとあんなに良い試合ができました。それに、先生は私のために泣いてくれました。だから、私の努力は全く報われなかった訳じゃありません」
そう言って山本は廊下の方に消えて行った。
「あの子、良い子だな・・・」
隣の席に、また谷垣先生が座っていた。
「顧問のことをずっと恨み続けていたどっかの誰かさんとは大違いだ」
「耳が痛いです」
「お前にはもったいないな」
「なんですかそれ?」
「大学受験、今度は努力が報われるといいな」
「そうですね」
山本が去ったドアの方をしばらく見つめてから、もう一度隣の席を見ると、もう谷垣先生はいなかった。それきり、谷垣先生は僕の前に姿を現さなくなった。
それから、あっと言う間に時が過ぎ、山本たちの卒業式の数日後のことだった。
昼休み、山本は慌ただしく職員室のドアを開けると、挨拶も何もしないまま、僕の席の所まで駆け寄ってきた。
「先生、私、先生の後輩になることになりました。第一志望の早大の英語英文学科に合格しました」
「本当か。おめでとう」
僕は思わず立ち上がり、あまりの嬉しさに山本の快挙を職員室中に響き渡る声で報告してしまった。
「先生方、聞いてください。三年四組の山本さんが、早大の英語英文学科に合格しました」
「本当か?」
「すごいな!」
職員室のあちこちから感嘆の声が上がり、更に大きな拍手がそれに続いた。それから僕の声を聞いて、山本の担任の渡部先生が僕の席の所までやってきた。
「山本、俺は悲しいぞ。担任を差し置いて部活顧問に合格を報告するなんて、お前はなんてひどい奴なんだ。悲しくて、悲しくて涙が出てきたじゃないか・・・」
渡部先生の声が一度途切れた。
「山本、お前、あんなに辛いこともあったのに、よく頑張ったな・・・」
その後しばらく、渡部先生の涙は止まらなかった。
合格発表の翌日から、山本は部活動に復帰した。といっても基本的には自分の練習をするわけではなく、後輩の練習の手助けに徹していた。ただ、今後のためにと、フラットサーブのスピードアップとスライスサーブの曲がりを良くするためのアドバイスを求められた。山本は相変わらず、誰よりも早くコートに出て、黙々とサーブの練習をしていた。そんな山本からは、卒業後も土曜日など暇がある時には、練習の手伝いに来てくれるというありがたい話も聞かせてもらった。
その翌週の土曜日、卒業生の卒部会が行われた。卒部会とは部活の卒業生のお別れ会のことだ。午前中は試合をして、午後は校内でパーティーをするという内容のものだった。
午前中の試合で、僕は山本が稲本と戦っているところを目にした。山本の変化には正直驚かされた。今まで、守り一辺倒と言ってもいいほどだった山本のテニスが、かなり攻撃的なものに変わっていたのだ。結局は負けたが、山本は今まで1ゲームも取れなかった稲本から2ゲームを奪っていた。
午前中の試合が終わりに近づいた頃、僕は海野に声を掛けられた。
「先生、最後にダブルスやるんですけど、私、疲れちゃったので、先生、私の代わりに山本さんと組んでくれませんか?」
「え!」と山本が声を上げた。
「そんなもの、稲本に頼めばいいじゃないか。おーい、稲本、海野の代わりに山本のパートナーをやってくれないか?」
僕は稲本に話を振った。
「だめでーす。私も疲れちゃいました。山本さんのパートナーは先生が良いと思いまーす」
稲本は妙に明るい声で僕の依頼を却下した。
「仕方がないな。じゃあ、やるか」
結局、僕は山本と組んで花谷姉妹とダブルスの試合をすることになった。
生徒が相手なので、もちろん僕は女子高生モードで試合に臨んだ。7ゲーム目までは互角の展開だったが、8ゲーム目に花谷ペアがミスを連発し、僕と山本のペアが先に王手を掛けた。
そして、5-3で迎えた山本のサーブゲームは圧巻だった。それまでは現役時代と同じように入れることに重点を置いたサーブだったが、王手を掛けた所で山本は一気に勝負を決めにかかった。卒業後に練習してきたサーブを打ち始めたのだ。
1ポイント目、山本が放ったスライスサーブは左側のサービスサイドラインいっぱいに入り、更にそこから大きく左に切れて行った。涼子はボールに追いつくことができなかった。これでポイントはフィフティーン・ラブ。
つづく2ポイント目、今度は山本はセンターラインいっぱいにスライスサーブを打ち込んだ。ボールはそこから更に左に曲がり、コートの左側まで飛んでいった。祐子は一歩も動けないままこのボールを見送った。これでポイントはサーティ・ラブ。
3ポイント目、スライスサーブを警戒した涼子が右寄りの位置に立ったのを見て、山本はセンターにフラットサーブを叩き込んだ。予想もしていなかったコースと球種に涼子はあっけにとられるばかりだった。これでポイントはフォーティー・ラブ。
そして最後の4ポイント目、祐子はコースも球種も的を絞れないままにレシーブの構えに入った。山本が右側のコーナーいっぱいを狙ったフラットサーブに裕子は反応はしたものの、ラケットにボールが当たることはなかった。
こうして山本は高校時代最後の試合を、全てサービスエースのラブゲームで締めくくった。
午後は三年生の教室を借りてパーティーが行われた。黒板いっぱいにピンクのチョークで描かれた満開の桜を背景にして、「ご卒業おめでとうございます」という文字が卒業生たちの旅立ちを祝っていた。
近所の弁当屋に注文した弁当を食べ、一・二年生が買い込んできたお菓子やジュースを楽しみながら、明るい雰囲気の会が続いた。
しかし、卒業生への花束と色紙の贈呈の段になると、がらりと様子が変わった。送るものも送られるものも、それぞれに思い出と感謝の気持ちを語り、ただただ、涙、涙だった。不覚にも、僕も自分のコメントの途中で涙ぐんでしまった。
会がお開きになり、これからみんなでファミレスに行くという生徒たちを、僕は校門で見送った。
「私、ちょっと先生に話があるから、みんな先に行ってて」
山本のその言葉を受けて、海野が妙ににやけた顔をして言った。
「どうぞ、ごゆっくり。ああ、来なくても良いから」
海野の言葉が終わらないうちに、生徒たちはファミレスの方に歩き始めた。
「先生、お願いがあるんです」
山本は妙に改まった雰囲気で僕に頼んだ。
「今度の区民大会のミックスダブルス、私と出てもらえませんか?もう、卒業したんですから、それくらい良いですよね?」
「ああ、仕事と日程が重ならなければ、それくらいは良いかな」
「ありがとうございます。私、努力して先生のベストパートナーになって見せますから」
「え!」
私服姿の山本が急に大人びて見えた。
「あれ、先生、今、変な想像をしませんでしたか?ベストパートナーって、ダブルスのって意味ですよ」
「当り前じゃないか、変なことを言うなら出ないからな」
「わかりました。じゃあ、また来週」
「ああ、じゃあな」
「失礼します」
山本は一礼して振り向くと、駆け足で他の部員たちの後を追った。
「鼻の下を伸ばしやがって。お前、今、すごいアホ面をしてるぞ」
僕の隣に谷垣先生が立っていた。
「しかし、あの子、さっきのサービスといい。すごい攻撃をしかけてくるようになったな」
一呼吸おいて、谷垣先生は、また話し始めた。
「お前には、とてもあの子の攻撃は防ぎきれん。この勝負、すでに先は見えたな」
谷垣先生は一度言葉を切ると、右手の人差し指で僕の左胸をつく真似をした。
「お前はすでに負けている」
谷垣先生の台詞は、古い漫画のパクリだった。先生は更に続けた。
「1ゲーム目から、あの子の圧勝だ。ラブゲームでな」
そう言って先生は、まるで女子高生のよう両手の親指と人差し指で左胸の前にハートを作ってみせた。
「先生、それ、オチのつもりですか?」
「ああ、そうだ。おっと、お後がよろしいようで」
谷垣先生は、落語家のように右の掌で額を軽く叩くと、そのまま姿を消した。
僕が谷垣先生の姿を見たのは、それが最後だった。
終