ふたつ星は君の願いのために輝く


 夜が来るたびに、星が瞬くたびに、流れ星を探してしまう。
 一瞬だけ輝く星に、乗せきれないほどの願いを込める。どうか彼女の夢が叶いますように、奇跡が起こりますように。
 いつか、彼女の願いを叶えてくれる星が現れますように。そして、ずっと永遠に彼女のそばに――。

 ☆☆☆

 心が落ち着かないときや怖くて仕方がないとき、美海はいつも幼馴染である夏葉のことと彼と交わした約束のことを思い出すことにしていた。目を閉じると、瞼の裏にはいっぱいの星空が広がる。満天の星空から小さな星がいくつも流れていく。
 海が見える高台で流星群を見たとき、美海の隣にいた夏葉はこの夢みたいな光景に感動したのか大きなため息をついた。美海も空を見上げる。自分に向かってシャワーみたいに降り注ぐ星々、今ならどんな願いだって叶うんじゃないかな? と期待してしまった。いくつもの願い事を心の中で唱える。『自分も夏葉も、病気が治りますように』とか『夏葉といつまでも一緒にいられますように』とか。高台から入院している病院に帰るとき、彼は「いつかまた一緒に流星群を見に行こう」と言っていた。美海は彼の言葉に大きく頷いて、指きりもした。この約束が果たされますように、と最後に流れていった星に願ったけれど……でも、流れ星は願いをひとつも叶えてくれなかった。だからそれ以来、美海は流れ星が大嫌い……いや、一番大っ嫌いなのは自分自身かもしれない。

 「青崎さん、検査、終わりましたよ」

 脳の断面図を撮影する検査は無事に終わり、美海は看護師のその言葉を聞いてから立ち上がった。すっかり慣れた検査だ。

 「お母さんと診察室の前で待っててくださいね、先生からお話がありますから」
 「……はい」

 フラフラと廊下に出ると、美海の母親が駆け寄ってきた。

 「美海、体調は大丈夫? 疲れていない?」
 「平気だよ、お母さん」

 実はほんの少しだけ頭痛がして気分が悪いけれど、お母さんを心配させたくなくて美海は嘘をつく。美海の母は娘を労わるみたいに手を取ったまま、診察室の前まで一緒に向かった。窓の向こうには桜の花がはらはらと散り始めている。桜の花が咲くのを見るのは、もう最後かもしれない。そんな予感が美海にはあった。
 呼ばれるのを待っている時も、検査結果が怖いのか、美海の母はずっと美海の手を握っていた。その手のひらは冷たいのにじんわりと汗がにじんでいて、美海にまでその緊張が伝わる。次第に美海の心も荒れた海のように大きく騒めき始めた。少しでも気持ちを落ち着かせようと、美海は目を閉じて大きく深呼吸を繰り返している。また、夏葉と流星群を見た時のことを思い出そうとした瞬間、診察室から美海の名前が呼ばれた。

 「……失礼します」
 「青崎さん、どうぞ」

 丸椅子に座ると、美海の主治医である藤森はモニターに先ほどのMRIの画像と、先月撮影した画像を映し出す。口元は固く引き締まり、眉もしかめている。話を聞かなくても、それを見るだけで結果が分かってしまうくらい難しい顔だった。

 「比べてみるとわかると思いますが、先月より脳の萎縮が進行しています。中央の空洞も大きくなり、記憶を司る脳の海馬や、生命維持に関わる脳幹にも委縮が始まっています」
 
 医師の説明を聞いている母の体が、わずかに震える。それが美海の視界の端に写り込んだ。藤森はずっと難しい顔で、淡々と病状について説明している。強いショックを受けている母とは違い、美海は終始落ち着いていた。7年前、この病気が分かってから、いつかはこうなる運命なのだと準備していたからかもしれない。

 7年前、まだ美海が9歳だったとき。美海は次第に脳が縮んでいってしまう難病であると告知された。徐々に脳が委縮していき、記憶がなくなったり、やがて生命を維持する機能も働かなくなり亡くなってしまうだろうと医師から説明を受けた。症例は少なく、研究も進んでいないため治療法もまだ見つかっていない。その診断にショックを受け青ざめる父親と、崩れ落ちるように泣きだした母を見て、美海は自分の病気の深刻さを理解した。いつか治療法が見つかれば……両親のそんな願いの元、ただひたすら病院に通っては検査を繰り返す。けれど、検査は【エックスデー】がいつ頃なのかを予想する手段になっていった。

 藤森は、モニターに違う脳の画像を映し出す。

 「こちらは美海さんと同じ症例の患者が……1年ほど前、この病院で撮影した画像になります」

 藤森は少し言いにくそうだった。その言葉を聞いて、美海はハッと息を飲む。これは夏葉の画像だ、と聞かなくてもすぐに分かった。

 「脳の萎縮が、今の美海さんより同じくらいか……いや、美海さんの方が進んでいるようにも見えます。こちらの症例を参考にすると、余命はあと1年か、もっと短いかもしれません」
 「……っ」

 美海の母は悲鳴をあげるのを我慢して、強く唇を噛んだ。血がにじんでしまいそうなくらい強く。美海はその痛みに寄り添うように、震える母の手に自分の手を乗せる。何で余命を告げられている自分の方がこんなにも心に余裕があるのだろう? 夏葉と同じところに行くと思ったら、怖くないのかな? 美海はモニターに映し出されている夏葉の画像を見る。

 美海と夏葉は、この病院で出会った。世界的に見てもとても珍しい病気なのに、まさか同じ街にしかも同い年の患者がいるなんて! 美海がその奇跡に感動したのと同じくらい、夏葉も運命を感じたに違いない。二人はすぐに仲良くなった。同じ時期に検査入院することも多くて、一緒に過ごす時間は家族の次に長い。共に過ごす時間が長くなれば長くなるほど、美海の心に『仲間意識』以上の感情が芽生え始める。美海にとって夏葉は初恋の相手で、とても大好きな男の子。けれど、二人とも遠くない未来にはもう存在しない身。この気持ちを伝えてもいいのだろうか、と美海が悩み始めた頃、夏葉は重たい口を開いた。今から、一年ほど前のことだった。冬の名残が残る冷たい雨が降った日だった。

 「来週、転院することが決まったんだ」
 「転院って……違う病院に行くの? もしかして治る方法が見つかったの?!」

 思わず大きな声が出てしまう。夏葉の病状は美海よりも進行が早くて、彼がポツリと「もうだめかもしれない」と弱音を吐いていたのは美海もよく覚えている。期待を込めて前のめりになったけれど、夏葉は静かに首を横に振るだけだった。

 「父さんと母さんの故郷に行くことにした。そっちの方が親戚もお見舞いに来やすいからって……そこで最期を迎えようって、家族で決めた。」

 言葉を失う美海。彼がこの病院からいなくなってしまうことよりも、夏葉が覚悟を決めていることの方がショックだった。もうそんなところまで病気が悪くなっているなんて、美海の呼吸が震える。

 「……うん、うん、わかった」
 「あのさ、美海」
 「……なに?」
 「いや、あの……理解してくれて、ありがとう。多分、もう美海に会うことはないだろうけれど……美海と会えて本当に良かった。いい人生だった」

 美海に止める権利はない。夏葉の考えを尊重するように、自分の気持ちを押し殺すみたいに何度も頷く。この時、ちょっとでもわがままを言えば良かった。他の病院なんて行かないでずっとそばにいて! って叫べば良かった。そんな後悔が美海の心を占めるようになったのは、夏葉が転院した数か月後。……彼が亡くなったという知らせを聞いてから。
 夏葉が亡くなったと美海が聞いたとき、まるで頭を後ろから殴られたような、雷で全身を射抜かれたような鋭く強いショックを受けた。指先から体が冷たくなって、早くなった心臓の音がとても大きく聞こえてきて、それ以外は耳に入ってこなかった。その真実を受け止めたくないのに、目からは涙がボロボロと溢れてくる。美海の心にできた深い悲しみの海、彼女はまだその底に沈みこんでいる。彼が亡くなってもうすぐ一年、美海にはもう、夏葉がいないこの世界で生きる気力がなくなっていた。

 「美海、大丈夫?」

 診察室を出た時、美海の母はよろよろと覚束ない足取りだったけれど、必死に美海の体を支えようとしていた。肩に冷たくなった手が添えられるけれど、その優しさは今の美海にとっては重荷だ。

 「大丈夫。私、トイレ行ってくるから、会計のところで待ってて」

 母の返事を聞かないまま、美海は母から離れる。急ぎ足で廊下を抜けて、誰も座っていないベンチに腰掛けた。このまま花が散っていくみたいに消えることができたら、どれだけ楽だろう? そんなことを考えていたら、なんだか頭の中がぼんやりとしてきた。大きく息を吐いたとき、体の力も一緒に抜けてしまったのか、持っていた診察券がポロリと落ちていった。ツルツルと廊下を滑り、近くを歩いていた男の人の足元で止まった。美海が顔を上げると、背の高い少年と目が合う。彼は何かに驚いているのか、目を大きく丸めていた。

 「あの、なにか……?」

 診察券を拾おうと彼に近づく。美海はまだ呆然と自分を見つめている少年に声をかけた時、彼は細め、なぜか優しい笑みを浮かべた。

 「君、美海でしょ? 青崎美海」
 「……えっ?」

 彼は美海を見つめたまま診察券を拾って、美海に差し出す。これを見たから自分の名前を知ったのだろうか? いや、彼はずっと美海を見ていて、診察券に目を通した隙をなかったと思う。ならばなぜ、彼は美海の名前を知っているの? どうして? と言おうとしても、喉が震えて声が出てこない。困惑の次に、恐怖がやってくる。どうして自分の名前を、見知らぬ少年が知っているのか。この少年は一体何者なのか。美海は診察券をひったくるように受け取ると、少年は驚いたように眉を上げた。今はそれらを理解するよりも、ここから逃げ出した方がいいのかもしれない。

 「あ、あの、俺……!」

 美海を引き留めようとする声が聞こえてきたけれど、美海はそれに構わず逃げるように走り出した。会計で待っていた母親にとても心配されるくらい汗だくになってしまったけれど、この時ばかりは宣告されたショックよりも、見知らぬ少年が「自分のことを知っている」という、ぞわぞわと全身を冷たく覆うような恐怖の方が大きかった。

 (……何者なの、あの人)

 美海は変な人に会ったことを忘れようと思ったけれど、一晩経ってもその怖さを忘れることはできなかった。


☆☆☆

 診察の翌日は、美海が通っている高校の始業式だ。美海も高校二年生になる。制服を着て玄関に向かったとき両親は美海のことをとても心配しているのか、彼女を引き留めようとしていた。

「大丈夫? 無理していかなくてもいいのよ」
「平気だって。それに、自分で決めたんだもん。症状が落ち着いているときはなるべく生活を変えないようにするって」
「そうだけど……でも、お母さん、やっぱり心配よ」

 不安そうな声を出す母の肩に、美海の父は手を添えた。

「美海がそう言うなら、ちゃんと尊重してあげよう。美海もわかっているだろうけれど、少しでも体調が悪くなったらすぐに連絡するか保健室に行くこと。連絡があればずぐに迎えに行くから」
「はーい」

 ローファーを履いた美海は駅に向かう。美海が通っている高校までは、電車に乗って30分ほど。もう1年通った道だから、今さら忘れようもない。玄関に張り出されたクラス名簿を確認して、美海は新しい教室に向かう。廊下からはもう賑やかな声が聞こえてきた。それを尻目に教室に入り、美海は指定された席にリュックを置いた。青崎、という名字の美海は出席番号が1番になることが多く、最初に指定される席はいつも最前列の最もドアに近い席。後ろの席の子はまだ来ていないみたいで空席のまま。席に座って、美海はあたりを見渡した。もうグループを作っている女の子たち、窓を見て何やら話している男子たち、その中で、美海に話しかけてくるクラスメイトはいない。美海は大人しく、リュックから本を取り出して読み始めた。

 彼女の病が分かった頃から、美海は積極的に友達を作ろうとはしなくなった。友達ができても、いずれ別れがやってくる。それが分かっているから、今さら友達を作ったり、誰かと仲良くするのはなんだか相手に悪いような気がしていた。

 美海が教室に入ってから10分ほど経ってから、担任の先生が入ってきた。ベテランそうな男の先生、クラスメイトの男子が「うわ~」と嫌そうな声を上げた。生活指導が厳しいんだよ、と後ろから声が聞こえてくる。美海はふと後ろを振り返った、真後ろの席はまだ空いたままだ。休みなのかな、と美海は首を傾げる。

「さっそくだが、このクラスに転校生がいるから、先に紹介しておく」

 挨拶もそこそこ、先生が言ったその言葉に教室がワッと湧き上がる。美海は廊下を見た、スラックスの裾が見える。どうやら転校生は男子生徒みたいだ。

「池光、入ってこい」
「はい!」

 池光と呼ばれた男子が教室に入ってきた瞬間、美海は驚きのあまり息が止まってしまった。目を大きく丸めて、背の高い少年を食い入るように見つめる。

(この子、昨日の……!?)

 病院で出会った不審な少年、まさかこんなところでまた出会うなんて! あの時感じた恐怖が蘇る。美海の視線を感じたのか、彼も美海を見る。目が合い、美海はとっさに視線を逸らした。

「池光 旭と言います。どうぞよろしくお願いします!」

 ハキハキと大きな声で名乗り、ニッコリと笑みを見せる旭。それだけでクラスメイト全員に彼の明るい人柄が伝わったに違いない。……美海以外、全員に。

「池光の席はそこの、前から二番目の空いているところだからな」

 担任のその言葉に美海は勢いよく後ろを振り返った。転校生の彼はまた「はい!」と明るく返事をして、美海の真後ろの席にやってくる。

「よろしくね」

 美海は上手く返事ができなかった、どう接するのが正解なのだろうか? 曖昧に頷き前を向く。とりあえず、彼と関わるのはやめておいた方がいいかもしれない……昨日出会ったときのことを思い出して、人知れず深く頷いた。

 始業式もつつがなく終わり、帰る支度を始める美海。背後の席ではもう転校生が女の子に囲まれていた。

「ねえねえ、どこから来たの?」
「部活は? どこ入るか決めてる?」
「家はどこ? バス使うなら、一緒に帰らない?」

 明るくて背が高くて、顔だってまあまあ悪くない。女子に囲まれるのは理解できるけれど、美海にとってはなんだかうるさくて煩わしい集まりだった。誰にも挨拶せずにひっそりと教室を出ていこうとしたとき、ガタッと机と椅子が動く音が聞こえてきた。

「み……あ、青崎さん!」

 名前を呼ばれて、ひぃっと美海は心の中で悲鳴を上げる。

「良かったら俺と一緒に帰らない?」

 女の子たちを振り切って美海に近づく転校生。女子たちの冷たい視線が美海に注がれる。しかし、どうして彼がこんな風に美海に話しかけてくるのか分からなくて、美海には旭の存在の方が恐ろしかった。美海は首をブンブンと横に振って教室を飛び出す。

「あ、ちょっと! 青崎さ……美海!」

 どうして私のフルネームを知っているの!? 逃げながら美海は心の中で叫んでいた。
 廊下を走り抜ける美海。学校の廊下は走っちゃいけないとか、病院で「あまり激しい運動をしてはいけない」と言われたこととか、そういう身を守るための決まりを全部振り切るように急いで玄関に向かう。どうして彼がこんな風に美海に声をかけてくるのか、そんなことは後で考えよう。まずは、逃げる。息を切らしながら玄関に辿り着き、美海はリュックを背負いなおして靴を履き替えようとした。その時――。

「待って……み、美海ってば!」

 また美海の背筋が恐怖で震えあがった。振り返ると、転校生の彼が追いついていたのだ。彼も急いで走ってきて息苦しいのか、胸を押さえて大きく肩を上下している。

「まさか逃げられるとは……はぁ、ちょっと待ってくれたっていいじゃないか……」
「あの、さようなら!」
「待ってってば! 美海!」

 転校生の彼は美海の手首を掴んだ。振り払おうとしても力が強くて離れない。

「は、離して……」
「離すから! その前にちょっと話させてよ、ちょっとだけだから!」

 どれだけ急いだのか分からないけれど、彼はまだ肩で呼吸を繰り返している。美海が「わかった」と大人しく頷くとようやっと手を放してくれた。人がいないところに行こうといわれ、美海と旭は学校の裏庭に向かって歩き出す。逃げてもまた追いかけてくるかもしれない、そう考えるとまた怖くなってきた。抵抗せず、大人しく彼についていく。

「それで、話って何? 名前、池光君って言ったっけ?」

 声にイライラとした感情が乗る。

「旭でいいよ」

 彼――旭は美海がいら立っていることに気付いていないのか、のんびりとそう言って、自分のカバンを漁り始めた。

「えっと……ここに入れていたはずなんだけど、あったあった」
「ねえ、私、早く帰らなきゃいけないんだけど」
「大丈夫、時間は取らせないから。すぐ終わるから」

 旭は顔を上げて、美海をまっすぐ見つめた。曇りのない真っ黒な瞳はまるで夜空みたいだった。

「夏葉のこと知ってるよね?」

 美海は自分の耳を疑う。この人、今、なんて言った? 震える脚で一歩だけ旭に近づき、美海は彼のブレザーの胸のあたりを掴んだ。

「どうして、君が夏葉のことを知っているの!?」

 瞬きの回数が増える美海。旭はブレザーを掴まれて、少し困惑している様子だった。

「私、君のことなんて知らない! 夏葉からも聞いたことない!」
「それはそうだと思うよ。俺と夏葉が出会ったのは、夏葉がこの街を出た後、亡くなる少し前だから」

 旭は美海の手を取って、ゆっくり自分から引きはがしていく。彼女は話を聞いてくれるみたいだ、と旭はほっと胸を撫でおろした。まずは第一関門、自分が夏葉の友人だったということを理解してもらわなければならない。

「美海のことは夏葉からいつも聞いていたよ。写真も見せてもらったから、君に病院で会ったときすぐに美海だってわかった」

 昨日、旭と出会ったときのことを思い出す。あの時が初対面だったはずなのに美海の名前と顔を知っていたのは、そういう理由があったからか……でもいまいち信じられない。詐欺師が騙す相手を口説く時の手口みたい。

「俺は君に会うためにこの街に来たんだ。……それが俺の役割だから」
「どういうこと。池光君と夏葉、一体どうやって、どこで知り合ったの!?」

 夏葉と旭がどんな関係だったのか、美海はそればっかりが気になるけれど旭は教えてくれそうもない。旭は美海の話を逸らしながら、カバンから一冊のノートを取り出す。

「これを君に渡してほしいって、夏葉に頼まれた」
「なに、これ……?」

 どこにでも売っていそうな薄いブルーの表紙のノート。美海はそれを受け取り、そっと開く。

「それは夏葉が遺していった『死ぬまでにやりたいこと』のリストだよ」

 懐かしい夏葉の文字だった。1ページ目の1行目を読んでいると鼻の奥がツンと痛み、目からポロポロと涙が溢れる。美海はノートを汚さないように、ハンカチを出して目を拭う。

「なにこれ……美海と海に行きたいって……」

 彼が最初に綴った『死ぬまでにやりたいこと』がそれだった。もう美海に会うことはないだろうと言ってこの街を出ていったのに、どうしてこんな叶えるつもりもない願いを残していったのか。なんだか、無性に腹が立ってくる。
 ノートを汚さないようにページをめくっていく。けれど、彼が遺していった『死ぬまでにやりたいことリスト』は数ページで終わっていた。最後のページの文字は手が震えていたのか、体がいうことを聞かなくて文字が書けなくなってしまったのか分からないけれど、ガタガタとしていて読むことができない。彼がどんな風に死んでしまったのか、自分にどんな未来がやってくるのか……恐ろしくなって美海はノートを閉じてしまった。けれど、すぐにいつくしむみたいにノートをそっと抱きしめる。

「あの、ありがとう……これ」
「ううん。言っただろ、それが俺の役割だって」
「……変な人だって思ってごめんなさい。そこまで悪い人じゃなさそうだね、池光君」
「あれは仕方ないよ。知らない人から声かけられたら、誰だって逃げるのは当たり前だし。俺もちょっと反省してる」

 美海はリュックにそのノートを大切に仕舞う。

「それじゃあ、ね。また学校で……」

 そのまま美海が帰ろうとするので、旭は慌てて美海の腕を掴んで引き留める。美海は「今度は何?」と嫌そうなため息をつく。

「待って! 話はまだ終わってないから!」
「え?」
「託されたのはノートだけじゃないんだ! 俺の役目はそれだけじゃない、夏葉に美海のことを頼まれてるんだよ」
「は?」
「自分の代わりに美海のことを支えてほしいって! どうか美海と会ってほしい、そしてその時はどうか美海と一緒に過ごしてくれないかって」

 旭の言葉の意味が分からなくて、美海は彼を疑うように首を傾げる。

「夏葉は美海の話ばっかりしていたし、ずっと君のことを心配していたよ。自分がいなくなった後、今、どんな風に生きているのか。自分が死んだあと、生きることを諦めていないだろうかって」

 やっぱり夏葉には隠し事ができないみたいだ。夏葉に自分の心が見透かされていたみたい、それが嬉しいのか悲しいのかもわからなくて、美海は自分のつま先を見て小さく笑った。

「家族のために転院したって俺は聞いたけれど……もしかしたら本音では、最期の瞬間まで美海と一緒にいたかったんじゃないかって、俺は勝手にそう思った」

 美海の手首を掴む旭の力がさらに強くなる。

「君が夏葉のことを一番信頼していたのも、ちゃんとわかっているつもりだ。俺だって夏葉の代わりになるとも思っていない……でも、ちょっとでも俺のことを頼ったり、一緒に楽しい時間を過ごしてほしいんだ。それが夏葉の願いでもあるから」
「……ごめんなさい!」

 ふっと旭の手が緩んだ瞬間、美海は勢いよくその手を振りほどいた。

「このノートのこと、感謝してる。池光くんが夏葉と友達だったっていうことも信じる、でも……やっぱり、私は君を頼りにするようなことはないと思う」
「それが夏葉の願いだとしても」
「でも君は、夏葉じゃない」

 美海が想像していた以上に、自分の声はとても冷たかった。けれど旭は、そう言われることがあらかじめわかっていたみたいに小さく微笑む。

「夏葉が言ってた、美海は人見知りするからすぐに仲良くなるのは難しいかもって」
「そう……。私、今度こそ帰るからっ」
「バイバイ、美海。また明日……俺、美海と仲良くなるの諦めないから!」

 美海は駆け出す。旭はその後姿を見て、ふうっと長く息を吐きだした。夏葉と友達だったことを信じてもらえただけ、今日は良かったのかもしれない。少しずつ仲良くなれたらいいのだけど、その考えを振り切るように首を横に振る。いや、彼女にそんな時間はもう残されていない。夏葉がたどった運命、彼女も同じように進んでいくに違いない。それも全部夏葉から聞いていたから、よく知っている。旭は空を仰ぎ見る。春の日差しは柔らかく降り注ぎ、青空は無限に広がっているように見えた。けれど、永遠も無限も存在しないのだと旭が一番よく知っている。限りある時間をどう使っていくか。旭は空にいるであろう夏葉に向かって呟く。

「大丈夫だよ、夏葉。お前との約束は絶対に守る。夏葉との約束を果たすことが、俺の使命なんだから」

☆☆☆

 翌日、恐る恐る学校にやってきた美海。本当はサボってしまおうかって考えたけれど、仮病を使ったらお母さんが恐ろしいほどに心配するのが簡単に想像できた。これ以上心配や迷惑をかけたくないし、もしかしたら旭は考えを改めてくれたかもしれない。そんな期待を膨らませて教室に踏み込んだけれど、それはいとも簡単にしぼんでいった。

「おはよう、美海!」

 自分の席で女の子たちに囲まれていた旭が、美海を見た瞬間立ち上がって一気に距離を詰めてくる。彼は美海のパーソナルスペースも考えずにズカズカと踏み込んでくる、美海にはそれが鬱陶しかった。美海は小さく頭を下げて、自分の席にリュックを下ろす。美海は無視しようと思っているのに、旭は構わず話しかけてくる。

「美海、今日昼は?」
「え?」
「お弁当? 学食? それとも売店? 俺、学食って行ってみたいんだけど。行ったことないし」
「いや、あの……お弁当だから。いいです、私は一人で……」

 自分の席に座って、旭に背を向ける。旭は美海に嫌がられていることに気付いているのかいないのか、どんどん話しかけてくる。美海はそれに適当な相槌を打って、最後はほとんど無視する形になった。

「旭君、学食行きたいなら私たちと一緒に行こうよ。学校の中も案内してあげるし!」

 そう言ってクラスメイト・佐原 野乃花が旭を誘う。美海は心の中で、全然話したことのない野乃花を応援した。美海と違っていつもキラキラしている女子は少し苦手だけど、旭の気を逸らしてくれたら、相手は誰だっていい。

「大丈夫だよ、ありがとう。わかんないことあったら美海に聞くし」

 美海はその言葉を聞いて、首をブンブンと横に振った。拒否しているはずなのに、背後からは旭の笑い声が聞こえてくる。二人の様子を見て、女の子たちは不思議そうに首を傾げたり、顔を見合わせたり……その輪から、小さな舌打ちも聞こえてきた。

「なんか、青崎さん態度悪くない? ムカつくんだけど」

 野乃花の冷たい声が美海の心のテリトリーを鋭く切り込んでいく。他の子が「やめなよ」と諫めてくれたからそれ以上悪く言われることはなかった。美海は、旭に対する自分の態度を反省する。けれど、自分の心の中にズカズカと踏み込んでくる旭に気を許すことはできない。ストレスのせいか、少しだけ頭痛を感じる。薬を飲むほどではないけれど……。

 けれどその頭痛は、1時間目の途中からどんどん悪化していった。頭の真ん中からズキズキという痛みが広がっていく。

 痛みに耐えるようにこめかみを押さえる美海。発作のように頭痛が起きることはしばしばあるけれど、今回は痛みがひどすぎる。深呼吸を繰り返して頭痛を紛らわせ、机の横にかけているリュックを片手で漁ろうとした。どこかのポケットに鎮痛剤が入っているはずだけど、どこに入れたのか痛みのせいで全く思い出せない。不安がどんどん募って、手が震え始める。保健室に行った方がいいかもしれない。でも、震えのせいで上手く声が出ないかもしれない。どうしたら……とぎゅっと目をつぶったとき、背後から声が聞こえてきた。

「先生!」

 旭は手を挙げて、声を張り上げる。授業をしていた先生だけじゃなく、クラス中が旭を注目した。

「青崎さん、気分が悪いそうなので保健室に行きたいみたいです。俺が付き添ってもいいですか?」

 美海は驚き、ゆっくり振り返った。旭と目が合う、彼は「大丈夫だよ」と言わんばかりに大きく頷いた。

「あら、青崎さん、大丈夫?」
「あ、あの……」
「君、池光君だっけ? 転校してきたばかりだけど、保健室の場所は分かる?」
「はい。そこは担任の先生に最初に案内してもらっているんで大丈夫です。行こう、美海」

 頼りたくない、でも、頼らざるを得ない。美海がよろよろと立ち上がると、旭は美海の肩を抱いて支えてくれた。

「薬、リュックに入ってるんだろ? これも持っていこう」

 美海を支えたまま、片腕で器用にリュックを抱える旭。保健室に行くまでも、ゆっくりとした美海の足取りに合わせてくれた。

「あれ? 先生いない?」

 保健室に着いたけれど、肝心の先生がいなかった。旭は先生の代わりに美海の看病を始めようとしていた。彼を頼りたくないと思っていた気持ちより、感謝の方が大きくなっていく。美海は白いベッドに横になりながら、水を用意して薬を探す旭を見つめた。

「痛み止め、これだろ」
「うん……」

 少しだけ起き上がって、美海は薬を飲む。

「先生が戻ってくるまで俺もいるよ。美海は横になって休んだ方がいい」
「……いいよ、別に。授業に戻ったら?」
「夏葉なら絶対にこうする。美海を一人に置いていくことなんてしないはずさ」

 旭はベッドの近くにあった丸椅子に座る。じっと美海を見つめる旭の視線に慣れなくて、美海は寝返りを打ち彼に背を向けた。

「気づいてくれて、ありがとう。薬も……よくわかったね」

 見えないけれど、なんとなくだけど、旭は微笑んでいるような気がした。
 
「夏葉も同じ薬飲んでいたのを見たことがあるから。すぐに分かった」

 美海は思わず振り返る。旭は美海が予想した通りに笑っていたけれど、それを見た美海の胸はドキッと強く締め付けられた。口角の上げ方、目の細め方、優しい笑みが夏葉そっくりだった。とっさに顔を背けてしまう。

「今日はどうする? もう帰るの?」
「……ううん。少し休んで、薬が効いたら教室に戻るけど……」
「わかった。無理するなよ、何かあったらすぐ俺に言ってね」

 頷いてしまいそうになったのを堪える美海。しばらくもしないうちに先生が戻ってきた。旭が保健室の先生に事情を話している声を聞きながら、美海は目を閉じた。薬が早く効きますように、と眠ろうとするけれど……瞼の裏には夏葉の笑顔と、新しく焼き付いた旭の優しい笑みが交互に現れてくる。鬱陶しさよりも、にじみ出るような安心感がそこにはあった。

 三時間目が始まる前、ようやっと美海は教室に戻る。教室の前では美海が戻ってくるのを待っていたのか、旭が待ち構えていた。

「大丈夫?」
「うん。なんとか」

 席に戻ると、どこからか刺さるような視線を感じた。美海がキョロキョロと教室を見渡すと、野乃花と目が合った。彼女は美海を睨むように目を細めてから、すぐにそっぽを向く。美海が旭と親しげなのが気に入らないに違いない。野乃花が抱いている嫉妬心、美海は子どもみたいと心の中で彼女に気付かれないよう一蹴する。でも、これ以上女の子たちから悪意や敵意を向けられるのは、なるべく避けたい。けれど、原因となっている旭はそれに気づいていないのかわざとやっているのか、美海に次から次へと話しかけてくる。

「四時間目、体育だけど美海は出るの? 大丈夫?」
「えっと……体育は見学することになっているから」

 女子の視線が痛い。これ以上注目を浴びたくなくて、美海は席に座りなおして本を読むふりを始めた。旭もようやっと諦めてくれたのか大人しく次の授業の準備を始めていた。すぐに授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。時折感じる真後ろからの視線が気になって、美海はいまいち授業にも集中できなかった。

 体育の時間、美海はジャージに着替えることなく制服のまま体育館の壁を背もたれにして座っていた。しばらくバスケットボールが続くらしく、ボールが弾む音が体育館中に響き渡る。不規則な重たい太鼓のような音がどんどん美海の耳の奥に突き刺さっていって、その音のせいか気持ち悪くなってきてしまう。今度から体育の時間は保健室で休もうかな、と考え始めた時、座っている美海の真横の壁に、勢いよくボールが投げつけられた。ドンッという大きな音、頬を掠めていく冷たい空気、美海の脈拍が一気に早くなっていく。床に落ちて小さく弾むボールを、野乃花が拾いに来た。

「ごめーん、手が滑っちゃった。大丈夫? 青崎さん」

 大丈夫? なんて口では心配しているけれどニヤニヤと野乃花が笑っていた。手が滑ったなんて、彼女の嘘であることがその表情だけで分かった。これは美海への嫌がらせだ。嫌がらせにどう返したらいいのだろう? 困っている内に野乃花は友達の元へ走っていく。楽しそうな声や「いい加減にしなよ」と笑いながら諫める声が聞こえてくる。美海はそれを浴びながら、膝を抱えて小さくなった。新学期早々こんな形で目を付けられるなんて……美海はボールを投げている旭を睨んだ。睨んでいる内にボールを投げる練習は終わり、早速ゲームが始まるらしい。美海はさらに邪魔にならないように、隅っこに移動する。

「美海、さっき俺の事見てただろ?」
「睨んでたの」
「またまた。何か用があるなら声かけてくれていいだよ」

 元凶である旭が近づいてきた。また女の子たちの視線が気になってくる。

「池光君、男子は試合だって先生言ってたけど、こんなところで油うっててもいいの?」
「あぁ……俺はいいの、別に」

 旭は美海の隣に座る。美海はげんこつ二個分くらいの距離を取った。旭は持っていたボールを小さく投げてはキャッチするのを繰り返している。その横顔は、初めてのおもちゃを手に入れた子供みたいに美海には見えた。

「気になってたんだけど、もしかして美海って友達いないの? ぼっちってヤツ?」

 急にとても不躾なことを言い出す旭に美海はギョッとする。

「そういうの失礼な質問、気にしていても聞かないのがマナーじゃない?」
「ごめんごめん」

 あまり悪いと思っていなさそうな謝罪だ。

「私の友達は夏葉だけだよ」
「でも、夏葉と知り合ったのは病気になってからだろ? 病気が分かる前からの友達は?」
「いなくなった。病気が分かって、検査とか入院で学校に行けなくなる日が増えて……」

 美海は当時のことを思い出す。病気が分かってから、美海の生活は大きく制限された。検査のせいで学校に行けなくて友達と一緒に過ごす時間もずいぶん減ったし、それになにより、美海が病院や家から出ていくことを心配性な母が嫌がった。たまに学校に行ってもどんなことが流行っているのか、みんなは今何にハマっているのか分からなくて話についていけなくなる。ちょっとずつ生まれていったすれ違いはやがて大きな断絶となり、確実に友達と離れていった。

「それに……やっぱり、夏葉がいなくなっちゃったのも大きい。夏葉がいなくなって、私、初めて『友達』が死んじゃうのってこんなに辛いんだって思った。自分の心が欠けてなくなっちゃったみたいな」
「……うん」
「だから、もし私にこれから『友達』ができたとしても……その子にも同じ思いをさせてしまうかもしれないでしょ? こんな辛い思いをする人は少ない方がいいよ、絶対」
「わかる気がする。美海がそうだったみたいに、俺にとっても夏葉は大切な友達だったから。唯一の」

 唯一? 美海は首を傾げる。彼にも友達はいなかったのだろうか? でも、そんなことは考えられない。クラスメイト達には親し気に接していて、美海にはこんなに馴れ馴れしくて、コミュニケーション能力がこんなにも高いのに。美海が不思議そうに自分を見つめていることに気付いていないのか、旭は遠くを見た。ボールが弾む音、騒々しい足音も彼の五感から遠ざかっていき、真っ黒な瞳がさらに暗くなっていく。それくらい、彼の意識はここから遠くにあった。

「俺は夏葉を看取っていないんだ。最期の瞬間に立ち会えなくて……後から、彼が亡くなったって聞いた。でも、その時、自分の体の半分がなくなったんじゃないかっていうくらいの喪失感というか、それぐらいショックのショックを受けた。あんなに親しくなったのは夏葉が初めてだったから、本当に絶望して……」

 旭はそこで言葉を区切る。瞳に光が戻ってきた。

「もうこの話はやめよう。友達のいなかった俺が言えることじゃないけれど、美海、もう少し他のクラスメイトに心開いた方がいいんじゃない? まずは俺からでどう?」
「嫌。絶対に嫌」

 そっぽ向いた美海を見て旭はまた笑った。美海の心に、もやもやとしたものが溜まっていく。夏葉と旭は、一体どんな関係だったのだろう? 夏葉のことを唯一の友達だったと話す旭、彼に美海とノートを託した夏葉。

「夏葉と池光君は、どんな感じの友達だったの? そもそも、どこでどうやって出会ったの?」

 聞いてみても、旭ははぐらかしてしまう。旭が教えてくれないし、夏葉はもうこの世界にいない。どうしたら二人の関係が分かるのだろう? 美海は少し考えて、ハッとひらめいた。やりたいことリストに何か残されているかもしれない!

 その日、美海はすぐに家に帰って、お母さんに「課題があって集中したいから部屋に入ってこないで」と伝えてから部屋にこもる。机の引き出しの中に大事にしまっていた夏葉のやりたいことリストを取り出し、そっと開いた。パラパラと見たことはあったけれど、じっくりと読むのは初めて。1ページ目、2ページ目……目を皿のようにして、一文字も逃さないように読んでいく。

「……どこにも書いてない」

 やりたいことリストに旭の名前は一文字もない。ただ純粋に夏葉がやりたかったことだけが箇条書きになっている。リストだけじゃ二人がどんな関係だったのかは分からないまま。もしかしたら、夏葉の両親に聞いてみたらわかるかもしれない。でも、夏葉が亡くなってから連絡するのも憚られて疎遠になってしまっているし……もしくは、旭が話す気になるのを待つか。あの調子なら聞いてもはぐらかされそうな気がするけれど。美海はため息をつく。

旭の名前はないけれど、リストには美海の名がたくさん記されていた。リストのひとつ目を指でなぞる。

「『美海と一緒にまた海に行きたい』か……約束してたもんね、夏葉」

 自分の名前が登場するたびに、夏葉の心の中にいた自分の存在が想像していた以上に大きいことを知る。もしかしたら美海と同じ気持ちだったのかも……そう考えると、嬉しい気持ちが膨らんでいく。暖かいひだまりにいるみたいな心地よさ。けれど、それはすぐに現実という波がさらっていってしまった。美海の心に残されたのは、あの暖かい気持ちの源だった夏葉はもういないという事実と絶望感。夏葉がやりたかったことを一緒にできたら、どれだけ自分は幸せだっただろうと美海は思う。残された限られた時間、それら全てを使ってでも大好きだった夏葉と一緒にいたかった。ノートの上にぽたぽたと涙が落ちる。ノートが汚れないように遠ざけて、美海は両手で顔を覆った。嗚咽が漏れる。本当は声を出して泣きたいけれど、リビングにいる母に心配をかけたくなくてできるだけ声を潜めて泣いた。溢れる涙を拭こうとしたとき、美海の手はふっと止まった。

「……そっか。夏葉はまだ、私の中で生きているはずだよね」

 美海はあることに気付いた。夏葉はもういない。けれど、自分の心の中で彼はまだ生きている。美海が死ぬまで、彼との思い出は何度でも美海の中で蘇る。心の中で息づいている夏葉を抱きしめるように、ノートを手に取って抱きしめた。

「うん、そうだね、夏葉。……ずっと一緒だよね、これからも」

 ノートを胸に抱く美海。そして顔を上げた。夕日が決意に満ちた美海の横顔を照らす。陽が沈んでいくのを横目で見ながら、美海は何度もその決意を心の中にいる夏葉に語り掛けた。

 残りの人生全部使ってでも、このノートに遺された「夏葉の願い」を叶えていく。それこそがきっと自分に託された使命なんだ、と美海は思う。目を閉じると、すぐそこに夏葉がいるような気がした。

「うん。これからも、ずっと一緒だよ、夏葉」

 美海の呼びかけに答えてくれる夏葉はいない。けれど、きっと彼も喜んでくれているような気がした。

 さっそくその週末から「夏葉のやりたかったこと」を叶えていくことに決めた。リストの一つ目は『美海と一緒にまた海に行きたい』だから、美海は両親を何とか説得して一人で外出する許可をもらう。お母さんが手ごわかったけれど……。

「海? 一人じゃ危ないでしょ、お母さんもお父さんも付いていくから」
「でもうちから電車で30分くらいでしょ。そう遠くないじゃん。一回行ったことあるから、大丈夫だって」
「子どもの頃に行ったきりで、それだって病院のみんなで行ったんじゃない。危ないからダメ」

 仕方なく、まるで三つ葉葵の印籠を出すみたいに夏葉のノートをお母さんの前に置いた。

「なに、それ。学校の課題?」
「ううん。これ、夏葉のやりたかったをまとめたノートなの。夏葉の死ぬまでにやりたいことリストなの」
「夏葉君……?」
「そう。夏葉の転院先でできた友達っていう人が、たまたま私のクラスに転校してきて、その子からもらったの! 私、どうしてもこのリストを叶えていきたい!」

 美海の熱意に先に折れたのは父だった。

「わかった。でも、少しでも体調が悪くなったらすぐに連絡すること。すぐに迎えに行くからね」
「ちょっと、美海に一人で外出なんて危ないことさせないで!」
「今だって一人で学校に行っているじゃないか。それに……美海だって、夏葉君と二人になりたいんだよ。そういう時期なんだよ」

 美海の父は美海にノートを返す。

「ちゃんと約束は守るんだよ」
「うん、ありがとう」

 リュックに飲み物や軽食、何かあったとき用の薬を詰め込んで、学校に行くよりも早い時間に家を出た。
 美海が暮らしている街は海が近い。海が見えなくてもたまに風に乗ってきた潮の匂いを感じる時がある。でも、美海が海に行ったのは一回きり。入院していた時に、小児科のレクレーションで行った。その時、夏葉も一緒だったけれど……あまり楽しい思い出ではなかった。海に行ったのに泳いで遊ぶこともできない上、レクレーションに参加していた子の機嫌が悪くなってしまって、予定していた時間よりも早く病院に帰ることになってしまった。不満しか残らなかったレクの記憶。今思い出しても少しイライラしてしまい、こめかみのあたりがギュッと痛む。薬、飲んでから家を出れば良かったと美海は後悔していた。多少のストレスで頭痛が起きるなんて、本当に嫌になる。

 電車の中は少し混みあっていて、美海は吊革につかまりながらぼんやりと外の景色を見つめた。目的地が近づき、電車は海沿いを走る。朝日に反射して、まばゆい光が美海の目に飛び込んでくる。

(ちょっと、マズいかもしれない……)

 美海はぎゅっと目を閉じる。じりじりと、頭の真ん中から痛みが生まれ始めていた。なんだか気持ち悪くて、ポケットからハンカチを取り出して口元を押さえる。一度降りて、薬を飲もう。けれど頭の中はガンガンと大きく揺れていて、めまいもする。まっすぐ歩くこともできない。痛みと気持ち悪さを堪えることができなくて、美海はその場にうずくまった。

「大丈夫ですか?」

 近くに立っていた女の人が心配そうに声をかけてくれるけれど、美海は返事することもできない。どうしよう、どうしよう……不安ばかりが渦巻いて、身動きが取れない。

 そんな時、誰かが美海の肩を抱いた。

「すいません、俺の連れです。大丈夫、美海?」

 その声に驚き、美海はハッと顔を上げた。

「い、池光君……?」

 まさか、なんで、どうしてこんなところに旭がいるのだろう? 混乱している内に電車は止まり、気づけば美海は旭に抱えられるように電車から降りていた。



「美海、これ、薬」

 旭は美海をホームのベンチに座らせて、彼女が持っていたリュックから薬と水を取り出した。美海に薬を渡すのももう二度目だから、とても慣れた手つきだ。

「あ、りがとう……」

 震える手でそれらを受け取り、美海は薬を飲む。突然やってきた発作的な痛みは、薬のおかげかゆっくりと波が引いていくみたいになくなっていく。痛みが軽くなってきたころを見計らって、旭は心配そうに口を開いた。

「大丈夫か? 家まで送ろうか?」

 美海は首を横に振る。確かに、両親と約束したけれど……どうしても夏葉の願いを叶えたい。今日というチャンスがなくなったら、もしかしたら自分はもう二度と海に行けなくなるかもしれない。残された時間を逆算する美海、夏葉のやりたいことだって『海に行く』だけじゃない。これからもっとたくさん、彼の願いを果たしていきたいのだ。旭は「わかった」と言って、彼も水を飲んだ。

「ていうか、どうして池光君がここにいるの?」
「旭って呼んでよ。前にも言ったじゃん」

 美海は旭の横顔を睨む。茶化してしまった彼は少し申し訳なさそうに、口を開いた。なんだか言いづらそうだ。

「朝から駅で待ってたんだよ、美海のこと」
「はぁ! 私を待ち伏せしていたってこと? 引くんだけど……」
「ほら、絶対にドン引きされると思ったから言いたくなかったんだ!」
「なんで私が駅に行こうと、海に行こうとしているの知っている訳?」
「だって、書いてあるじゃん」

 旭は美海のリュックを指さす。

「夏葉のやりたいことの一つ目、海に行く、だろ」
「なんで知ってるのよ」
「ちょっと前まで俺が持ってたんだぜ。中身なんて暗記してるよ」
「気持ちわる」
「自分が気持ち悪い男なのは分かってるよ。でも、美海に週末の予定聞くチャンスなかったし。連絡先だって知らないだろ? だから、朝から駅で待ち構えるしかないんだよ。すぐ来てくれて助かった」

 旭は駅に現れた美海に声をかけようとしたけれど、急いで電車に乗る美海を追いかけるので精いっぱいだったらしい。見失わないように見張っていたら、急に美海が倒れ込んだ。とてもびっくりしたと話す旭、美海は嫌悪感に満ちた息を吐いた。

「もし私が今日海に行こうとしなかったら?」
「それなら、明日も駅に行って待ってたよ。明日じゃなかったら来週でも。でも、美海なら絶対に現れるって確信してたから」

 旭は「美海は、夏葉のためならなんだってするだろう?」と付け加える。美海は小さく頷く。旭は美海の気持ちを見抜いていたのだ。

「薬も効いてきたし、私、次の電車で行くから」
「俺も行く。美海を一人にしたら危ないし」
「……ついてくるなら、勝手にして」
「わかった」

 流れ込んできた電車に乗る。今度は空いていたから、二人は並んで席に座った。夏葉は正面の窓を、まるで宝物を見つけた子供みたいにキラキラとした目で見つめている。二人の眼前には海が広がっている。

「俺、初めてなんだ。海に行くの」

 だからこんなにも嬉しそうなんだ、と美海は旭の横顔を見る。

「ずっと行ってみたかったんだ、海。俺の夢も叶ったよ、ありがとう、美海」
「どうして私にお礼なんか。別にそんなことを言われるようなことしているつもり、ないんだけど」
「いや……美海がいなかったら、多分、俺はここに来なかっただろうからさ」

 まだ海水浴シーズンではないから、海に近い駅で降りる人はほとんどいなかった。降り立った瞬間、旭は胸いっぱいに息を吸い込んだ。潮の匂いが体に染みわたるような気がした、こんなに海が近いと空気も少ししょっぱい気がした。二人は潮風の匂いを頼りに海に近づいていく。パッと目の前に紺色の海が現れた瞬間、旭は一気に走り出した。

「ちょっと、危ないよ! 濡れちゃうって!」

 スニーカーのまま海に入っていこうとする旭の背中に美海は声をかけた。旭は「そうだった!」と笑いながら、砂浜でスニーカーと靴下を脱ぎジーンズの裾をめくってから、今度こそ波打ち際に足を踏み入れた。

「冷たっ! 海ってこんなに冷たいの?」
「まだ春だもん。冷たいに決まってるじゃん」
「そっか!」

 波打ち際に立っていると、波が押し寄せるたびに冷たい海水が足の甲をくすぐり、引くときは足もとの砂がさらさらと攫われていく。初めて味わう感覚、旭の気持ちはどんどん昂る。昂りすぎて胸が苦しくなっていくくらいだ。けれど、それすら楽しかった。

「海、冷たくて気持ちいい。俺、生きてるって感じがするよ」
「何それ」
「……死んでたら、冷たいのも暖かいのもわからないだろ?」
「そうだけど……」

 美海は砂浜に座った。持ってきた日傘を差し、ちゃぷちゃぷと足首まで海に浸かって一人はしゃいでいる旭を見た。あんなに楽しめていいな、と美海は初めて海に来た時のことを思い出した。

 海水浴シーズンの終わりごろだったけれど、海に入るのは禁止されていた。レクレーションに参加しているのは全員病院に入院している子どもたち。もし海に入って事故が起きたら一大事だ。つま先に入るのもダメ、と強く言われたとき、隣に居た夏葉は肩をすくめた。

「それなら、海に来なきゃいいのに」

 その呟きに美海は頷き、二人は顔を見合わせて笑った。夏葉の足元はサンダルで、一応水着も買ったって話していたから、今日が楽しみで仕方がなかったはず。それなのにダメって言われて、美海の目には夏葉が可哀そうに映った。でも、気持ちを切り替えたのか夏葉はパッと顔を上げる。

「仕方ない。貝でも拾おうよ、美海」
「うん! それなら、私、シーグラスも見つけたい」

 シーグラスを知らなかった夏葉に美海は説明する。波に揉まれて砂に削られていくうちに、角が丸み帯びた曇りガラス。本で見た時から自分の目でも見てみたいと思っていた。

「美海はキレイな物好きだからね、星とか」
「うん」
「いいよ、一緒に探そう」
「うん!」

 海には近づかず、二人で黙々と貝やシーグラスを探す。粉々に砕けたガラスの破片や真っ白な貝殻ならいくらでも見つかってけれど、肝心のシーグラスは見つからない。そのうち、一緒に来ていた子の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

「もうヤダ! 暑い! 帰りたい!」

 美海も旭も、おでこから幾筋も汗が流れるくらいの暑さ。付き添いできていたボランティアの人はその子を宥めようとするけれど、癇癪はどんどんひどくなって甲高い叫び声を上げ始めていた。ボランティアはもう諦めて、手のひらを叩いてみんなを呼び寄せる。

「今日のレクレーションはもうおしまい! みんな、病院に帰りましょう」

 夏葉は時計を見た。

「でも、まだ病院に戻る時間じゃない……」
「これ以上いたら、みんな熱中症になってしまうかもしれないでしょう?」
「まだ美海のシーグラス、見つけてない」
「また今度海に来ましょう、ね? 退院した時でもいいんだし。その時に探せばいいのよ」

 美海は「適当なことばっかり」と頬を膨らませる。がっくりと肩を落としている夏葉が可哀そうだった。

「夏葉、大丈夫?」
「うん。ごめんね、美海が欲しがってたシーグラス、見つけることができなくて」
「ううん、いいよ」
「そうだ!」

 夏葉が両手をパチンッと合わせる。何かいいことを思いついたのか、パァアッと表情が明るくなっていく。

「いつか、二人でまた来ようよ、海」
「二人きりで?」
「うん。その時、僕がちゃんと見つけてあげるから」

 そんな約束もしていたこと、海に来るまですっかり忘れていた。そんな思い出なんて最初からなかったみたいに、きれいさっぱり。頭の奥で夏葉の声が響く。些細な約束事でも、自分にとっては大切な宝物だったはずなのに。

「やだな……」

 症状が進行したら、忘れっぽくなったり記憶がなくなったりすると、主治医の藤森先生が言っていた。もしかしたら自分にも病気の症状が、徐々に表れているのかもしれない。やだな、と美海は繰り返す。もし、夏葉のことも忘れてしまったら……考えただけで恐ろしい。膝を抱えて頭を下げて、美海は小さくなる。

「美海! おーい!」

 美海が怯えていることに気付いていない旭が、大きな声で美海の名前を呼んだ。ゆっくりと顔を上げると、旭は美海に向かって大きく手を振っている。

「こっち来てよ、美海!」

 美海、美海! と何度も呼ばれているうちに、周りから変な目で見られているような気がしてきた美海。仕方なく立ち上がり、波打ち際ぎりぎりまで近づいた。

「何?」
「手、出して」

 旭は手を背中に隠し、ニヤニヤと笑っている。まるでいたずらを企てている子どもみたいだ。美海は恐る恐る、旭に向かって手を差し出した。

「これ、美海にプレゼント」
「……これって……」

 美海の手のひらに、小さなガラスの欠片が乗った。長い時間海を漂い、丸みを帯びた美しいシーグラス。手のひらに乗ったそれと旭の顔、交互に見ていると旭は二ッと口角を上げた。

「欲しかったんだろ? シーグラス」

 頷く美海。シーグラスをまじまじと見つめる。

「夏葉から聞いてたんだ、美海と海に行ったときのこと。美海がそれ欲しいって言ってたけれど、見つからなかったって。絶対に見つけてやるって約束したけど……それを果たすことができなさそうだって。だから、夏葉の代わりに俺が見つけてやろうと思って」
「……ありがとう」

 夏葉と旭、両方の想いが美海の手のひらに乗っている。約束を忘れずにいてくれた夏葉と、それを代わりに叶えてくれた旭への感謝。美海が小さく口にすると、彼は「いいって」とまた笑った。

「もしかしたら、ここ、まだあるかも。一緒に探そうよ」
「……うん!」

 美海も靴と靴下を脱ぎ、裾をまくって海に入っていく。旭が波打ち際で砂を掘っているので真似しようとすると、突然高い波が立った。

「美海! 気を付けて!」

 大きな水しぶきが美海を襲おうとした瞬間、旭が海と美海の間に飛び込んできた。彼の体の半分がびっしょりと濡れてしまう。

「池光君! ご、ごめん……」
「いいって、これくらい。美海は大丈夫? 濡れてない?」

 旭が庇ってくれたおかげで、美海はあまり濡れずに済んだ。置きっぱなしだったリュックに戻り、持たされていたタオルを旭に渡す。

「池光君、これ使って」
「お、ありがとう」

 濡れた服を拭きながら旭は、小さく首を傾げる。

「池光君、どうかしたの?」

 心配そうに声をかけてくる美海の言葉に旭は引っかかったらしい。「それだ!」と美海を指さす。

「その『池光君』っていうのやめてよ。他人行儀すぎて落ち着かないんだ、夏葉にも初対面から『旭』って呼ばれてたし」
「で、でも……」

 そんなに親しくないし……と美海が思ったとき、旭は「あ!」と声を上げた。

「シーグラス、もう一個見つけた!」
「え? いいな」
「欲しい?」

 美海が小さく頷くと、旭はまたいたずらっ子みたいな笑みを浮かべる。

「旭って呼んでくれるならあげる!」
「え、あ、ちょっと待って!」

 走り出す旭を追いかける美海。旭は気を遣ってくれたのか元々走るのが早くないのか、美海はすぐに彼に追いついた。

「あ……旭!」

 勇気を出して、一歩だけ踏み込むようにその名を叫んだ。彼は振り返り、そしてとても満足そうな笑顔を見せたのだ。

「はい、美海。これで夏葉のやりたかったこと、一個叶えることができたな」
「……うん!」

 手のひらには二つのシーグラスが乗る。

「ありがとう、旭」
「どういたしまして。体調は? 大丈夫そう?」
「うん、まあ……平気かな」
「もう少しだけ探してさ、早めに帰った方がいいよ。俺、家まで送る」
「……ありがとう、旭」

 二人はそれから何個かシーグラスを見つけて、昼過ぎには帰りの電車に乗っていた。座席に座った美海はハンカチに包んだシーグラスを、旭は窓の向こう、どんどん遠ざかっていく海を見つめている。

「キレイだったな、海」
「そうだね」
「また行きたいな」
「……私も。行けるといいな」

 残された時間のことを、ふとした拍子に考えてしまう。また海に行ける確証はなくて、美海は旭と約束することはできなかった。旭もそれが分かっているのか、小さく頷くだけ。その反応が、美海には少し楽だった。

「美海はこれからも、夏葉のやりたいことリストを叶えていくんだろ?」
「うん、そのつもり」

 限りある時間、それを全て使ったとしても彼の願いを叶えていきたい。それが今の美海にとっての生きる希望だった。

「俺も付き合うよ」
「え?」
「また今日みたいなことがあったら危ないし。それに、一人より二人でやったほうが、きっと楽しいだろう?」
「……うん」
「だから、連絡先教えてよ。これから待ち合わせするときとか、連絡とれなかったら大変だし」

 二人はスマートフォンを取り出して、互いのIDを交換する。親しかいなかったトークアプリの連絡先に、軽快な音と共に旭が現れた。

「次は、タイムカプセルを開けに行く……だっけ?」
「よく覚えてるね、旭は」

電車に揺られながら、二人は並んで座る。なんだか、瞼が重たくなってきて美海は目をこすった。眠たくなってきた美海に気付いたのか、旭は「寝てなよ」と美海の肩を抱いて引き寄せた。その優しさに甘えるように、美海は目を閉じる。

☆☆☆

「……何アレ」

 電車に乗っていたのは、旭と美海だけではなかった。少し離れた席から、同じクラスの野乃花が美海を睨みつける。彼らが電車に乗ってきた時から気づいて、バレないようにチラチラと横目で見ていたけれど……まるでカップルみたいな二人の距離感に、野乃花の心にふつふつと怒りがこみあげてくる。

「何よ、アイツ」

 美海が不治の病らしいということは、噂で聞いている。優しくしてあげた方がいいってことも、理性では理解できている。でも……気になっている男の子と親しくしている様子を見ていると、気持ちはざわめき、冷静さが失われていくような気がした。

「ムカつく、青崎さん」

☆☆☆

 二人で海に行ってから数日後。学校が終わってから、美海は旭と病院に向かっていた。夏葉のやりたいことリストに書かれていた願いを叶えるために。

「タイムカプセル、どこに埋めたの?」
「え?」
「掘り返すためにスコップも用意してきたんだぜ。力仕事は任せろよ」

 旭は自分のバッグから真新しい金属のスコップを取り出し、ポーズを決める。その姿がおかしくて美海は吹き出してしまった。

「なんだよ、笑うことないだろ」
「旭、ちょっとは考えなよ。病院の敷地に私物埋めてもいいと思う?」
「あ……」
「タイムカプセルはある場所に預けてあるの。ついてきて」

 美海は旭を連れて入院病棟に向かう。小児科のフロアまでエレベーターに乗っている間も、旭は不思議そうな顔をしていた。

「ここ。私たちが入院していた病棟」

 美海が小児科の入院病棟へ続く扉を開ける。慣れ親しんだ消毒液の匂い。入院している子どもの色んな声が、あちこちから響いていた。

「すみません。看護師の安藤さんっていますか?」

 美海はナースステーションにいた若い看護師に声をかけた。待っている間、旭は美海に尋ねる。

「安藤さんって?」
「私たちがここで入院しているときに、一番お世話になった看護師さん」

 その安藤という看護師はすぐにやってきた。美海を見た瞬間、大きな目いっぱいに涙を浮かべた。

「美海ちゃん……っ」
「やだ、安藤さん。泣かないでよ……」
「ごめんなさいね。夏葉君のことを聞いてから、初めて美海ちゃんに会ったから……」

 安藤は目尻を拭って、さらに涙が出ないように堪えていた。

「それでね、安藤さん。タイムカプセルのことなんだけど」
「美海ちゃんと夏葉君が二十歳になったら開けるって約束していたやつのことでしょう? ちゃんと覚えているわ。でも……」

 安藤は美海の肩に手を乗せる。

「でも、夏葉君はともかく……まだ美海ちゃんは二十歳になっていないじゃない。もう開けるつもりなの?」
「いいの。夏葉がね、やりたいことリストに『タイムカプセルを開ける』って書いていたんだ。でも、きっと私も二十歳まで生きられないと思うし……約束より、夏葉のやりたいことを優先しようと思って」

 とっくに諦めたような美海の表情を見た安藤の目から、再びボロボロと涙がこぼれてくる。それをティッシュで拭い「すぐに戻るからね」とナースステーションの奥へ引き下がっていった。戻ってきた安藤の手には、お菓子の缶があった。

「わぁ、懐かしい」
「ね、本当に懐かしい……。夏葉君と美海ちゃん、二人でタイムカプセルを作ったから、預かってほしいって言われたのが昨日の事みたい」

 美海だって、その時のことをまるで昨日のことのみたいに思い出せた。これを作ったのは十歳になったばかりの頃、考えたのは夏葉だった。テレビでタイムカプセルの話題を耳にして、すぐに影響を受けた。美海が持っていたお菓子の缶詰めにそれぞれ『ある物』を詰めて、安藤に預かってほしいと頼みに行った。

「僕たちが二十歳になったら取りに来るから、お願いします」

 安藤はにっこりと笑って引き受けてくれた。本当にまだ持っていてくれたことに感謝して、美海は深く頭を下げる。

「美海ちゃん……どうか諦めないで、最後まで」
「やだ、安藤さん。急に何言って……」
「夏葉君だってきっとそう願っているはずだと思うの。美海ちゃんが、せめて二十歳までは諦めずに生きていて欲しいって。だから、これを作ろうって考えたんじゃないかな?」

 旭もその言葉に頷いた。美海の命を未来につなぐための手段だったに違いない。けれど、美海は小さく首を横に振るだけ。

「……ありがとうございます、今まで大切に残しておいてくれて」

 安藤の願いに返事をすることなく、美海は深く頭を下げて病棟を後にする。美海と旭は病院の中庭にあるベンチに座ってタイムカプセルを開けることにした。美海は大きく息を吸って、勢いよく缶を開けた。中を見て、旭は声を上げる。

「手紙? 手紙だけ?」

 タイムカプセルの中には手紙が二通入っていた。封筒には「夏葉へ」「美海へ」と書かれている。まだ幼さの残る文字だ。

「うん。二十歳のお互いに向けて書いたの。……私も夏葉も、その頃には大人になれないかもしれないって宣告されていたはず。でも、そんなに深刻に考えていなかったな、私は。当たり前のように夏葉も私も生きていて、このタイムカプセルを開けることができるんだって思ってた」
「……そっか」

 旭が「美海へ」と書かれた手紙に手を出そうとするので、美海はその手を叩いた。

「プライバシーの侵害! 絶対に読まないで!」
「わかったよ」

 美海が自分宛ての手紙を開けた時、旭はそっぽを向く。こっちを見ていないか気を配りながら、美海は夏葉の手紙を読み始める。

(……このころの夏葉の文字、かわいいな)

 漢字の少ない手紙は、便せんいっぱいに彼の想いが綴られていた。彼は初めに、美海が二十歳まで生きていることを喜んでくれていた。良心が痛む、幼い夏葉に約束を破ってしまったことを心の中で謝りながら、美海は先を読み進める。
 
『どうか一びょうでも長く生きて、この世界にあるきれいなものを全部見てから、天国にいる僕に教えに来て欲しい』

 手紙に託した夏葉の思い。きっと彼は、このころから夏葉の方が先に亡くなるという予感をしていたんだ。気づいていなかった、美海は幼かった自分に思いを馳せる。美海はただ、夏葉と毎日一緒にいられるのが嬉しくて……自分の未来なんて能天気な事しか考えていなかった。夏葉の手紙を仕舞い、自分が何を書いたのか思い出す。

(なんか、恥ずかしいことを書いた記憶がある……!)

 青くなったり赤くなったりしている美海に気付いた旭が、美海に声をかけてくる。

「なあ、何かあった? 手紙にどんなこと書いてあったんだよ、少しでいいから教えてよ」
「……だめ」
「じゃあ、美海が何を書いたかとかは?」
「それはもっとだめ!」

 確か『二人とも二十歳になったら結婚したい』とかなんとか、ませたことを書いた覚えがある。あまりの恥ずかしさに頭を掻きむしりたくなってきた、ここでは目立つからしないけれど。美海はその代わりに、深い深いため息をついた。
 
 手紙をリュックに仕舞う前に、もう一度読み返す。最後の一文が気になってしまった。

『さいごに。自分のねがいが叶っていますように』

 夏葉の願い。やりたいことリストに記されているだろうか、美海はノートも開くけれど……それっぽいことは残されていない。

「旭は知ってる? 夏葉の願い」
「十歳の夏葉の願いはさすがの俺もわかんないよ」
「だよね……」

 美海は肩を落としながら手紙とノートを仕舞った。その様子を見る旭は、心の中で美海に謝っていた。

 ――ごめん、もし十歳の夏葉と十六歳の夏葉の願いが同じなら……俺は知っているかもしれない。

 でも、言う時は今じゃない。夏葉がやりたかったタイミングで、彼の最後の願いを美海に伝える。それが自分の役割だ、と旭は前を向いた。