痛みに耐えるようにこめかみを押さえる美海。発作のように頭痛が起きることはしばしばあるけれど、今回は痛みがひどすぎる。深呼吸を繰り返して頭痛を紛らわせ、机の横にかけているリュックを片手で漁ろうとした。どこかのポケットに鎮痛剤が入っているはずだけど、どこに入れたのか痛みのせいで全く思い出せない。不安がどんどん募って、手が震え始める。保健室に行った方がいいかもしれない。でも、震えのせいで上手く声が出ないかもしれない。どうしたら……とぎゅっと目をつぶったとき、背後から声が聞こえてきた。
「先生!」
旭は手を挙げて、声を張り上げる。授業をしていた先生だけじゃなく、クラス中が旭を注目した。
「青崎さん、気分が悪いそうなので保健室に行きたいみたいです。俺が付き添ってもいいですか?」
美海は驚き、ゆっくり振り返った。旭と目が合う、彼は「大丈夫だよ」と言わんばかりに大きく頷いた。
「あら、青崎さん、大丈夫?」
「あ、あの……」
「君、池光君だっけ? 転校してきたばかりだけど、保健室の場所は分かる?」
「はい。そこは担任の先生に最初に案内してもらっているんで大丈夫です。行こう、美海」
頼りたくない、でも、頼らざるを得ない。美海がよろよろと立ち上がると、旭は美海の肩を抱いて支えてくれた。
「薬、リュックに入ってるんだろ? これも持っていこう」
美海を支えたまま、片腕で器用にリュックを抱える旭。保健室に行くまでも、ゆっくりとした美海の足取りに合わせてくれた。
「あれ? 先生いない?」
保健室に着いたけれど、肝心の先生がいなかった。旭は先生の代わりに美海の看病を始めようとしていた。彼を頼りたくないと思っていた気持ちより、感謝の方が大きくなっていく。美海は白いベッドに横になりながら、水を用意して薬を探す旭を見つめた。
「痛み止め、これだろ」
「うん……」
少しだけ起き上がって、美海は薬を飲む。
「先生が戻ってくるまで俺もいるよ。美海は横になって休んだ方がいい」
「……いいよ、別に。授業に戻ったら?」
「夏葉なら絶対にこうする。美海を一人に置いていくことなんてしないはずさ」
旭はベッドの近くにあった丸椅子に座る。じっと美海を見つめる旭の視線に慣れなくて、美海は寝返りを打ち彼に背を向けた。
「気づいてくれて、ありがとう。薬も……よくわかったね」
見えないけれど、なんとなくだけど、旭は微笑んでいるような気がした。
「夏葉も同じ薬飲んでいたのを見たことがあるから。すぐに分かった」
美海は思わず振り返る。旭は美海が予想した通りに笑っていたけれど、それを見た美海の胸はドキッと強く締め付けられた。口角の上げ方、目の細め方、優しい笑みが夏葉そっくりだった。とっさに顔を背けてしまう。
「今日はどうする? もう帰るの?」
「……ううん。少し休んで、薬が効いたら教室に戻るけど……」
「わかった。無理するなよ、何かあったらすぐ俺に言ってね」
頷いてしまいそうになったのを堪える美海。しばらくもしないうちに先生が戻ってきた。旭が保健室の先生に事情を話している声を聞きながら、美海は目を閉じた。薬が早く効きますように、と眠ろうとするけれど……瞼の裏には夏葉の笑顔と、新しく焼き付いた旭の優しい笑みが交互に現れてくる。鬱陶しさよりも、にじみ出るような安心感がそこにはあった。
三時間目が始まる前、ようやっと美海は教室に戻る。教室の前では美海が戻ってくるのを待っていたのか、旭が待ち構えていた。
「大丈夫?」
「うん。なんとか」
席に戻ると、どこからか刺さるような視線を感じた。美海がキョロキョロと教室を見渡すと、野乃花と目が合った。彼女は美海を睨むように目を細めてから、すぐにそっぽを向く。美海が旭と親しげなのが気に入らないに違いない。野乃花が抱いている嫉妬心、美海は子どもみたいと心の中で彼女に気付かれないよう一蹴する。でも、これ以上女の子たちから悪意や敵意を向けられるのは、なるべく避けたい。けれど、原因となっている旭はそれに気づいていないのかわざとやっているのか、美海に次から次へと話しかけてくる。
「四時間目、体育だけど美海は出るの? 大丈夫?」
「えっと……体育は見学することになっているから」
女子の視線が痛い。これ以上注目を浴びたくなくて、美海は席に座りなおして本を読むふりを始めた。旭もようやっと諦めてくれたのか大人しく次の授業の準備を始めていた。すぐに授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。時折感じる真後ろからの視線が気になって、美海はいまいち授業にも集中できなかった。
体育の時間、美海はジャージに着替えることなく制服のまま体育館の壁を背もたれにして座っていた。しばらくバスケットボールが続くらしく、ボールが弾む音が体育館中に響き渡る。不規則な重たい太鼓のような音がどんどん美海の耳の奥に突き刺さっていって、その音のせいか気持ち悪くなってきてしまう。今度から体育の時間は保健室で休もうかな、と考え始めた時、座っている美海の真横の壁に、勢いよくボールが投げつけられた。ドンッという大きな音、頬を掠めていく冷たい空気、美海の脈拍が一気に早くなっていく。床に落ちて小さく弾むボールを、野乃花が拾いに来た。
「ごめーん、手が滑っちゃった。大丈夫? 青崎さん」
大丈夫? なんて口では心配しているけれどニヤニヤと野乃花が笑っていた。手が滑ったなんて、彼女の嘘であることがその表情だけで分かった。これは美海への嫌がらせだ。嫌がらせにどう返したらいいのだろう? 困っている内に野乃花は友達の元へ走っていく。楽しそうな声や「いい加減にしなよ」と笑いながら諫める声が聞こえてくる。美海はそれを浴びながら、膝を抱えて小さくなった。新学期早々こんな形で目を付けられるなんて……美海はボールを投げている旭を睨んだ。睨んでいる内にボールを投げる練習は終わり、早速ゲームが始まるらしい。美海はさらに邪魔にならないように、隅っこに移動する。
「美海、さっき俺の事見てただろ?」
「睨んでたの」
「またまた。何か用があるなら声かけてくれていいだよ」
元凶である旭が近づいてきた。また女の子たちの視線が気になってくる。
「池光君、男子は試合だって先生言ってたけど、こんなところで油うっててもいいの?」
「あぁ……俺はいいの、別に」
旭は美海の隣に座る。美海はげんこつ二個分くらいの距離を取った。旭は持っていたボールを小さく投げてはキャッチするのを繰り返している。その横顔は、初めてのおもちゃを手に入れた子供みたいに美海には見えた。
「気になってたんだけど、もしかして美海って友達いないの? ぼっちってヤツ?」
急にとても不躾なことを言い出す旭に美海はギョッとする。
「そういうの失礼な質問、気にしていても聞かないのがマナーじゃない?」
「ごめんごめん」
あまり悪いと思っていなさそうな謝罪だ。
「私の友達は夏葉だけだよ」
「でも、夏葉と知り合ったのは病気になってからだろ? 病気が分かる前からの友達は?」
「いなくなった。病気が分かって、検査とか入院で学校に行けなくなる日が増えて……」
美海は当時のことを思い出す。病気が分かってから、美海の生活は大きく制限された。検査のせいで学校に行けなくて友達と一緒に過ごす時間もずいぶん減ったし、それになにより、美海が病院や家から出ていくことを心配性な母が嫌がった。たまに学校に行ってもどんなことが流行っているのか、みんなは今何にハマっているのか分からなくて話についていけなくなる。ちょっとずつ生まれていったすれ違いはやがて大きな断絶となり、確実に友達と離れていった。
「それに……やっぱり、夏葉がいなくなっちゃったのも大きい。夏葉がいなくなって、私、初めて『友達』が死んじゃうのってこんなに辛いんだって思った。自分の心が欠けてなくなっちゃったみたいな」
「……うん」
「だから、もし私にこれから『友達』ができたとしても……その子にも同じ思いをさせてしまうかもしれないでしょ? こんな辛い思いをする人は少ない方がいいよ、絶対」
「わかる気がする。美海がそうだったみたいに、俺にとっても夏葉は大切な友達だったから。唯一の」
唯一? 美海は首を傾げる。彼にも友達はいなかったのだろうか? でも、そんなことは考えられない。クラスメイト達には親し気に接していて、美海にはこんなに馴れ馴れしくて、コミュニケーション能力がこんなにも高いのに。美海が不思議そうに自分を見つめていることに気付いていないのか、旭は遠くを見た。ボールが弾む音、騒々しい足音も彼の五感から遠ざかっていき、真っ黒な瞳がさらに暗くなっていく。それくらい、彼の意識はここから遠くにあった。
「俺は夏葉を看取っていないんだ。最期の瞬間に立ち会えなくて……後から、彼が亡くなったって聞いた。でも、その時、自分の体の半分がなくなったんじゃないかっていうくらいの喪失感というか、それぐらいショックのショックを受けた。あんなに親しくなったのは夏葉が初めてだったから、本当に絶望して……」
旭はそこで言葉を区切る。瞳に光が戻ってきた。
「もうこの話はやめよう。友達のいなかった俺が言えることじゃないけれど、美海、もう少し他のクラスメイトに心開いた方がいいんじゃない? まずは俺からでどう?」
「嫌。絶対に嫌」
そっぽ向いた美海を見て旭はまた笑った。美海の心に、もやもやとしたものが溜まっていく。夏葉と旭は、一体どんな関係だったのだろう? 夏葉のことを唯一の友達だったと話す旭、彼に美海とノートを託した夏葉。
「夏葉と池光君は、どんな感じの友達だったの? そもそも、どこでどうやって出会ったの?」
聞いてみても、旭ははぐらかしてしまう。旭が教えてくれないし、夏葉はもうこの世界にいない。どうしたら二人の関係が分かるのだろう? 美海は少し考えて、ハッとひらめいた。やりたいことリストに何か残されているかもしれない!