夜が来るたびに、星が瞬くたびに、流れ星を探してしまう。
一瞬だけ輝く星に、乗せきれないほどの願いを込める。どうか彼女の夢が叶いますように、奇跡が起こりますように。
いつか、彼女の願いを叶えてくれる星が現れますように。そして、ずっと永遠に彼女のそばに――。
☆☆☆
心が落ち着かないときや怖くて仕方がないとき、美海はいつも幼馴染である夏葉のことと彼と交わした約束のことを思い出すことにしていた。目を閉じると、瞼の裏にはいっぱいの星空が広がる。満天の星空から小さな星がいくつも流れていく。
海が見える高台で流星群を見たとき、美海の隣にいた夏葉はこの夢みたいな光景に感動したのか大きなため息をついた。美海も空を見上げる。自分に向かってシャワーみたいに降り注ぐ星々、今ならどんな願いだって叶うんじゃないかな? と期待してしまった。いくつもの願い事を心の中で唱える。『自分も夏葉も、病気が治りますように』とか『夏葉といつまでも一緒にいられますように』とか。高台から入院している病院に帰るとき、彼は「いつかまた一緒に流星群を見に行こう」と言っていた。美海は彼の言葉に大きく頷いて、指きりもした。この約束が果たされますように、と最後に流れていった星に願ったけれど……でも、流れ星は願いをひとつも叶えてくれなかった。だからそれ以来、美海は流れ星が大嫌い……いや、一番大っ嫌いなのは自分自身かもしれない。
「青崎さん、検査、終わりましたよ」
脳の断面図を撮影する検査は無事に終わり、美海は看護師のその言葉を聞いてから立ち上がった。すっかり慣れた検査だ。
「お母さんと診察室の前で待っててくださいね、先生からお話がありますから」
「……はい」
フラフラと廊下に出ると、美海の母親が駆け寄ってきた。
「美海、体調は大丈夫? 疲れていない?」
「平気だよ、お母さん」
実はほんの少しだけ頭痛がして気分が悪いけれど、お母さんを心配させたくなくて美海は嘘をつく。美海の母は娘を労わるみたいに手を取ったまま、診察室の前まで一緒に向かった。窓の向こうには桜の花がはらはらと散り始めている。桜の花が咲くのを見るのは、もう最後かもしれない。そんな予感が美海にはあった。
呼ばれるのを待っている時も、検査結果が怖いのか、美海の母はずっと美海の手を握っていた。その手のひらは冷たいのにじんわりと汗がにじんでいて、美海にまでその緊張が伝わる。次第に美海の心も荒れた海のように大きく騒めき始めた。少しでも気持ちを落ち着かせようと、美海は目を閉じて大きく深呼吸を繰り返している。また、夏葉と流星群を見た時のことを思い出そうとした瞬間、診察室から美海の名前が呼ばれた。
「……失礼します」
「青崎さん、どうぞ」
丸椅子に座ると、美海の主治医である藤森はモニターに先ほどのMRIの画像と、先月撮影した画像を映し出す。口元は固く引き締まり、眉もしかめている。話を聞かなくても、それを見るだけで結果が分かってしまうくらい難しい顔だった。
「比べてみるとわかると思いますが、先月より脳の萎縮が進行しています。中央の空洞も大きくなり、記憶を司る脳の海馬や、生命維持に関わる脳幹にも委縮が始まっています」
医師の説明を聞いている母の体が、わずかに震える。それが美海の視界の端に写り込んだ。藤森はずっと難しい顔で、淡々と病状について説明している。強いショックを受けている母とは違い、美海は終始落ち着いていた。7年前、この病気が分かってから、いつかはこうなる運命なのだと準備していたからかもしれない。
7年前、まだ美海が9歳だったとき。美海は次第に脳が縮んでいってしまう難病であると告知された。徐々に脳が委縮していき、記憶がなくなったり、やがて生命を維持する機能も働かなくなり亡くなってしまうだろうと医師から説明を受けた。症例は少なく、研究も進んでいないため治療法もまだ見つかっていない。その診断にショックを受け青ざめる父親と、崩れ落ちるように泣きだした母を見て、美海は自分の病気の深刻さを理解した。いつか治療法が見つかれば……両親のそんな願いの元、ただひたすら病院に通っては検査を繰り返す。けれど、検査は【エックスデー】がいつ頃なのかを予想する手段になっていった。
藤森は、モニターに違う脳の画像を映し出す。
「こちらは美海さんと同じ症例の患者が……1年ほど前、この病院で撮影した画像になります」
藤森は少し言いにくそうだった。その言葉を聞いて、美海はハッと息を飲む。これは夏葉の画像だ、と聞かなくてもすぐに分かった。
「脳の萎縮が、今の美海さんより同じくらいか……いや、美海さんの方が進んでいるようにも見えます。こちらの症例を参考にすると、余命はあと1年か、もっと短いかもしれません」
「……っ」
美海の母は悲鳴をあげるのを我慢して、強く唇を噛んだ。血がにじんでしまいそうなくらい強く。美海はその痛みに寄り添うように、震える母の手に自分の手を乗せる。何で余命を告げられている自分の方がこんなにも心に余裕があるのだろう? 夏葉と同じところに行くと思ったら、怖くないのかな? 美海はモニターに映し出されている夏葉の画像を見る。
美海と夏葉は、この病院で出会った。世界的に見てもとても珍しい病気なのに、まさか同じ街にしかも同い年の患者がいるなんて! 美海がその奇跡に感動したのと同じくらい、夏葉も運命を感じたに違いない。二人はすぐに仲良くなった。同じ時期に検査入院することも多くて、一緒に過ごす時間は家族の次に長い。共に過ごす時間が長くなれば長くなるほど、美海の心に『仲間意識』以上の感情が芽生え始める。美海にとって夏葉は初恋の相手で、とても大好きな男の子。けれど、二人とも遠くない未来にはもう存在しない身。この気持ちを伝えてもいいのだろうか、と美海が悩み始めた頃、夏葉は重たい口を開いた。今から、一年ほど前のことだった。冬の名残が残る冷たい雨が降った日だった。
「来週、転院することが決まったんだ」
「転院って……違う病院に行くの? もしかして治る方法が見つかったの?!」
思わず大きな声が出てしまう。夏葉の病状は美海よりも進行が早くて、彼がポツリと「もうだめかもしれない」と弱音を吐いていたのは美海もよく覚えている。期待を込めて前のめりになったけれど、夏葉は静かに首を横に振るだけだった。
「父さんと母さんの故郷に行くことにした。そっちの方が親戚もお見舞いに来やすいからって……そこで最期を迎えようって、家族で決めた。」
言葉を失う美海。彼がこの病院からいなくなってしまうことよりも、夏葉が覚悟を決めていることの方がショックだった。もうそんなところまで病気が悪くなっているなんて、美海の呼吸が震える。
「……うん、うん、わかった」
「あのさ、美海」
「……なに?」
「いや、あの……理解してくれて、ありがとう。多分、もう美海に会うことはないだろうけれど……美海と会えて本当に良かった。いい人生だった」
美海に止める権利はない。夏葉の考えを尊重するように、自分の気持ちを押し殺すみたいに何度も頷く。この時、ちょっとでもわがままを言えば良かった。他の病院なんて行かないでずっとそばにいて! って叫べば良かった。そんな後悔が美海の心を占めるようになったのは、夏葉が転院した数か月後。……彼が亡くなったという知らせを聞いてから。
夏葉が亡くなったと美海が聞いたとき、まるで頭を後ろから殴られたような、雷で全身を射抜かれたような鋭く強いショックを受けた。指先から体が冷たくなって、早くなった心臓の音がとても大きく聞こえてきて、それ以外は耳に入ってこなかった。その真実を受け止めたくないのに、目からは涙がボロボロと溢れてくる。美海の心にできた深い悲しみの海、彼女はまだその底に沈みこんでいる。彼が亡くなってもうすぐ一年、美海にはもう、夏葉がいないこの世界で生きる気力がなくなっていた。
「美海、大丈夫?」
診察室を出た時、美海の母はよろよろと覚束ない足取りだったけれど、必死に美海の体を支えようとしていた。肩に冷たくなった手が添えられるけれど、その優しさは今の美海にとっては重荷だ。
「大丈夫。私、トイレ行ってくるから、会計のところで待ってて」
母の返事を聞かないまま、美海は母から離れる。急ぎ足で廊下を抜けて、誰も座っていないベンチに腰掛けた。このまま花が散っていくみたいに消えることができたら、どれだけ楽だろう? そんなことを考えていたら、なんだか頭の中がぼんやりとしてきた。大きく息を吐いたとき、体の力も一緒に抜けてしまったのか、持っていた診察券がポロリと落ちていった。ツルツルと廊下を滑り、近くを歩いていた男の人の足元で止まった。美海が顔を上げると、背の高い少年と目が合う。彼は何かに驚いているのか、目を大きく丸めていた。
「あの、なにか……?」
診察券を拾おうと彼に近づく。美海はまだ呆然と自分を見つめている少年に声をかけた時、彼は細め、なぜか優しい笑みを浮かべた。
「君、美海でしょ? 青崎美海」
「……えっ?」
彼は美海を見つめたまま診察券を拾って、美海に差し出す。これを見たから自分の名前を知ったのだろうか? いや、彼はずっと美海を見ていて、診察券に目を通した隙をなかったと思う。ならばなぜ、彼は美海の名前を知っているの? どうして? と言おうとしても、喉が震えて声が出てこない。困惑の次に、恐怖がやってくる。どうして自分の名前を、見知らぬ少年が知っているのか。この少年は一体何者なのか。美海は診察券をひったくるように受け取ると、少年は驚いたように眉を上げた。今はそれらを理解するよりも、ここから逃げ出した方がいいのかもしれない。
「あ、あの、俺……!」
美海を引き留めようとする声が聞こえてきたけれど、美海はそれに構わず逃げるように走り出した。会計で待っていた母親にとても心配されるくらい汗だくになってしまったけれど、この時ばかりは宣告されたショックよりも、見知らぬ少年が「自分のことを知っている」という、ぞわぞわと全身を冷たく覆うような恐怖の方が大きかった。
(……何者なの、あの人)
美海は変な人に会ったことを忘れようと思ったけれど、一晩経ってもその怖さを忘れることはできなかった。