教室には誰もいなかった。ロッカーにしまっていた運動靴を取ってからなんとなく自分の机に目を向けると机の中に紙が入っているのが見えた。

 私はいつも空っぽにして帰るようにしているはずなので、本当に忘れ物でもしてしまったのかと思い机の中に入っていた紙を手に取った。

 A4のルーズリーフを半分に折りたたんだだけのそれは見覚えのないものだった。そのまま捨ててしまえば傷つかなくて済むのに、それでも私はそれを開いてしまった。

 色々な人の文字が書かれたそれはまるで寄せ書きのような、歴史の授業で習った傘連番状のような、縦書きの文字が紙の中心に向かって円形に並んでいた。

【調子に乗るな】【ブス】【近寄るな】【勘違い野郎】などなど、小学生のような悪口が約二十個ほど。私や真人君を特定できる言葉が入っていない辺り、悪知恵は働くようだ。

 こんな小学生みたいなものに私は涙を流していた。せっかく秋野さんがぬぐってくれたのに頬には涙の線が出来上がっている。

 とどめは二文字だった。【死ね】という文字を見るともう涙が止まらなくなった。

 私は何か間違ったことをしたのだろうか。ただ真人君に初詣に誘われて、一緒に行っただけではないか。ただ皆と同じように真人君のことを好きになっただけではないか。なんでこんな言葉を書かれなければならないのだろうか。

 自分へのいじめが始まったのだと自覚するとぶつけようのない怒りや悲しみが湧いてきた。手や唇が震えて、落ちる涙で悪口が書かれたルーズリーフをふやけさせていき、やがて簡単に破けるようになった。

 言葉が書かれた紙が破けても、その言葉たちはすでに私の心に傷をつけてしまっている。この傷は一生消えない。椅子に座って、紙の全てがふやけてぼろぼろに破けてしまうまで私は泣き続けた。

 ひとしきり泣き終えると少しだけ気が楽になり、ゴミはゴミ箱に捨てて家に帰ることにした。

 早く帰らないとお母さんやお父さんが仕事を終えて帰ってきてしまう。濡れたブーツをそのまま置いておけないのでドライヤーで乾かさないといけないが、その姿を見られるわけにはいかない。

 私はまだ大丈夫。死ねと言われても死にたいとは思わない。

 真人君ともっと仲良くなって、いっぱい試合を応援に行って、たまに一緒に遊びに行って、いつか彼女にしてもらいたい。ずっとそばにいたい。

 美月の恋を成就させて生涯の友達になる。お姉ちゃんになってもらう。勉強で競い合って高め合って高校受験のリベンジを一緒に果たさなければならない。一緒に自転車の練習もしないといけない。バレンタインはチョコの作り方を教えてもらわないといけない。

 伊織には色んなことをお返ししないといけない。感謝も仕返しも両方だ。そして真人君と同じコートに立って試合をしているところを見届けないといけない。

 佐々木さんとももっといっぱい話したい。彼女は私の知らない世界、知ろうとしなかった世界を見せてくれる気がする。あの強さを少しでも分けてもらいたい。

 まだまだやりたいことはたくさんある。だから私は大丈夫。きっと明日には嫌なことなんて忘れて元気でやっていける。

 日中の日差しのおかげで道路に積もった雪のほとんどは解け、日陰に残っているくらいまでになっている。おかげで運動靴でも特に不便することなく歩くことができた。

 私が朝に作った雪だるまたちは陽が一番あたる時間帯にちょうど日陰になっていたのかほとんど形を変えずに残っていた。私はそれを蹴飛ばして、踏みつけて、跡形もなく消し去って家の中に入った。

 濡れたブーツをドライヤーである程度乾かして、丸めた新聞紙を詰めた。ドライヤーを使うほどだと何かあったのかと怪しまれそうなラインだが新聞紙を詰めるくらいならよくあることだと思ってもらえるだろう。

 ドライヤーでブーツを乾かしているとき、なんで私はこんなことをしているのだろうと虚しくなって悲しくなったが、ここには敵はいないんだと思ってなんとか心を落ち着かせた。

 お母さんが帰ってきてもお父さんが帰ってきても平常心を作り、いつも通り接することができた。伊織が帰ってくるとすぐに夕食となる。早めに食べ終え、何か言いたげな伊織の視線を感じながら自分の部屋に戻った。

 勉強するからと言って部屋には入ってこないように釘を刺したが、伊織はお構いなしに、ノックもなしに私の部屋に入ってくる。

「入るぞ」

「……もう入ってる」

 ベッドに横たわり小さくなっていた私を見て伊織はため息をつきながらベッドに腰かけた。勢い良く腰掛けるものだから反動で私の身体が小さく飛び跳ねたが文句を言う気力もない。

「今日の真人全然駄目だった。シュート入んないし、ドリブルミスるし、パスも取り損ねるし、あれじゃあただの木偶の坊。あんな集中してない真人、初めて見た」

「たまにはそういうときもあるんだよ」

「真人から連絡は?」

「……まだ、ない」

「だろうな、あいつも何ができるのか悩んでた。そもそも自分が誘ったのが原因なのに、自分が詩織をかばうようなことをしたら火に油じゃないかって。でも詩織のことが心配で、嫌な思いをしているんじゃないか泣いたりしてないかって心配してた。今も自分に何ができるか必死に考えてる。とりあえず今日の詩織のことは俺に任せろって言ってきた」

 伊織は私の頭の上に右手を乗せ、優しく撫でた。表情は見えないけれどきっと優しい顔をしているはずだ。

「ごめんな」

「なんで伊織が謝るの?」

「……十一月の大会、泊まりがけだったろ? そのときバスケ部の一年で恋バナをして、真人が詩織のことが好きだってことを打ち明けたんだ」

 真人君は私のことが好き。こんなに嬉しいことはないはずなのに喜べない。もうとっくに私の心は機能を停止してしまっていた。

「真人なら良いかなって思って俺は応援することにした。というか他のバスケ部の連中は詩織のことをあんまり知らないからほぼ俺だけが手伝った。初詣に誘うのだって真人が終業式の日までうじうじしてたから急いで手紙書かせたんだ。詩織の性格からして無視するだろうとも思ったから校門で待ち構えてた」

「……そのおかげで真人君と仲良くなれたから、感謝してる」

「そのせいで詩織は今つらい思いをしてる。だから、ごめん。もっと綿密に計画を立てて、誰にもばれないようにやるべきだった。真人がうちの学校でどんな存在なのか考えが足らなかった」

「別に私つらくないよ。ちょっと陰口言われるくらい、昔からあったし。それでも平気だったの知ってるでしょ?」

「……確かに、お前昔から怪我したときくらいしか泣かなかったもんな。強いもんな。でも、本当か? ちょっと陰口言われるくらいで済んでるか? ほんとに平気か? 誰もいないところで泣いてないか?」

「大丈夫だよ」

「じゃあ何でそんな格好してるんだ? 寝るには早いだろ? ほんとは何かされたんじゃないか? 陰口以外にももっと直接何か……」

 佐々木さんは騙せても、お母さんやお父さんは誤魔化せても、伊織は騙せない、誤魔化せない。伊織は親友よりも恋人よりも両親よりも特別な存在。

 二卵性だから遺伝子的には兄妹とあまり変わらないらしいが、お母さんのお腹の中から一緒にいたのだから普通の兄妹とは比べ物にならないほどに長く親密な時間を過ごしている。

 私は最近伊織の考えが分からなくなったと感じることもあるけれど、伊織には私の些細な変化までお見通しだ。

「つらいなら辞めちまうか?」

 一昨日と同じ言葉だ。真人君と関わることを辞める。こうなった原因が取り除かれればやがて収まる。私はつらい思いをしなくて済む。

 でも、私は真人君ともっと仲良くなりたい。思いを伝えて恋人になりたい。私のどこを好きになったのか聞きたい。私が真人君のどこを好きなのか伝えたい。

「大丈夫。なんともないよ」

 伊織は本気で私のことを心配してくれている。だから私が伊織につらいなんて言ったら私を救うために本当に私と真人君を関わらせないようにしてしまう。優しい真人君はそれを受け入れてしまう。

 たとえ伊織には見抜かれようと気にしない、なんでもないということにしなければならない。

「ほら、私勉強するから出てって。真人君にも大丈夫だから心配しないでってメッセージ送っとくから。美月にも送っとくし」

 私は起き上がってベッドから降り、伊織を部屋から追い出して扉を閉めた。

「……無理だけはするなよ。俺も真人も美月さんも、その気になればバスケ部の連中だって詩織の味方だからな」

 扉越しに言葉を残した伊織が自分の部屋に入って行く気配を感じ、私は再びベッドに横になって真人君と美月にメッセージを送ってスマホの電源を切ってしまった。

 今日はもう何もする気が起きない。お風呂に呼びに来られても困るので仕方なしに起き上がって今日はシャワーだけで良いとお母さんに伝えて、シャワーを終えるとそのまま寝てしまうことにした。

 ベッドの中は現実から最も逃れられる場所だと思ったがそんなことはなかった。私の脳内で今日の出来事が勝手に何度も何度も繰り返し再生されて、心を蝕んでいった。

 不安で心が押し潰されそうになる。真人君の声が聞きたい。優しく包み込んでくれるようなあの声を聞いたらきっと不安は和らぐはずだ。でも、今の私にはスマホに手を伸ばすだけの気力すら残っていなかった。

 床に就いたのは午後九時前、朝起きたのは午前六時半。でも全然眠りに就けず、涙を流していた。最後に時間を確認したのは午前二時だったはずだ。

 寝起きは最悪だった。いつもの私は寝て起きれば気分もすっきりして嫌なことなんて忘れることができたのに今回ばかりはそうはいかない。足や腰が重い。ベッドから出たくない。

 どんなに寒くてもいつもはちゃんと出られていたのに、今回ばかりは得体の知れない何かが私の身体をベッドに縛り付けている。

「行かなきゃ」

 行きたくない。初めてそう思った。

 中学で仲の良い友達がいないときでもそんなこと思ったことがなかったのに、高校生に成りたてで美月と出会ってなかったときも思ったことはなかったのに、楽しいことがなくても、学校には毎日通うものだという常識と理性が私の身体を動かしてくれていたのに、今は本能が体を動かさない。

 私には味方がたくさんいる。次、何かされたらちゃんと皆に相談しよう。次こそは勇気を出して相談しよう。そう思い込んで無理やり体を動かした。

 顔を洗って、寝癖を整えて、制服に着替えて、朝食は食べずに軽く歯だけ磨いて、化粧も複雑な髪のセットもしない私の朝の準備はこれで終わりだ。私より出発が遅いお母さんやお父さんの前では平静を装うことに成功し、家を出た。