きっとこれで最後なんですね、とつぶやくと、先輩は振り返って、なぁにそれ、と困ったように笑った。


 私と先輩の住む街には海がある。夏にはそこそこ賑わうけれど、冬に見る海は少し寂しい。あたりまえだけれど人はいないし、薄い色をした空をそのまま映しているせいで海面は暗く、風が吹くたびにざぁぁ……と恨み節のような音を上げて波が立つ。

 冬は嫌いだ。いっそのこと雪でも降ってくれたらいいのに、この街ではただ冷たいからっ風が吹くだけで、空は何の美しさも地上にもたらしてはくれない。手足はかじかんで霜焼けができるし、制服のスカートからのぞく素足には常に鳥肌が立っている。

 冬の海は孤独の色を濃くさせた。夏にはあれだけ人がいたのになぁ、なんて考えると、時間の流れる早さを感じてこわくなる。だから私は、海沿いを歩く時はなるべく海を見ないようにする。マフラーに首をすくめ、自転車を押しながら前を歩く先輩の長い髪をじっと見つめた。

 聞きたいことがたくさんあった。東京の冬は寒いでしょうか。離れても連絡をくれますか。また帰ってきたら会ってくれますか。尋ねようとはしてみるけれど、いざ口を開いたら何も言葉が出てこなくて、しかたなく口を閉じた。せっかく久々に二人で帰れるっていうのに、流れるのは沈黙と波の音だけ。

「もうすぐ(かさね)も受験生だね」

 会話の空白を埋めるように、やけに大きな声で先輩が言った。

「志望校、決まった?」

「……まだです」

「悩みとかあったら、何でも相談してね。累は私の唯一の後輩なんだから」

 唯一なのはそっちも同じでしょう。そう言いかけて、私はまた口をつぐんだ。



 私の所属する書道部は、私と先輩の二人しか部員がいなかった。先輩が引退してしまった今では私が唯一の書道部員で、その私も次の春には三年生になる。来年度に新入部員が入ってこなければ、おのずと廃部が決定してしまうのだ。昨年の夏に先輩が引退した時点で私も部活を続ける理由はなくなってしまったのだけれど、先輩が時折部室に顔を出すので、なんとなくやめるにやめられなくて、今の今まで来てしまった。

 書道をする時の先輩が好きだった。長い髪を一つにまとめて、凛々しい表情で筆を滑らせる姿を見るたびに、美しい、と息を呑んだ。誰もいない教室で肩を並べ、競うように文字を書いたり、お菓子をつまみながらおしゃべりをする日もあった。もう戻れない日々というのは、どうしてこうも尊いのだろう。
 
 一人でも平気だと思っていた。好きな文字を気の済むまで書くのも気楽でよかったし、顧問の先生との雑談もなかなか悪くなかった。それに、受験生なのに大丈夫なのかと心配になるほど、先輩はかなりの頻度で遊びにきてくれたから、寂しさを感じる暇がなかったのだ。さすがに受験直前には顔を出さなくなったけれど、センター利用でさくっと志望校に合格を決めた二月の今日、またこうしてひょっこりとやってきた。

「これからもちょくちょく顔出すからね」

「でも、先輩はもうすぐ卒業じゃないですか。授業もないし」

「ないけど、会いにいく」

「……じゃあ、待ってます」

 言いながら、きっともう会うことはできないんだろうな、と思った。受験というイベントが終わっても、先輩は忙しい。東京で一人暮らしをする部屋を探して、足りない家具や家電を買い揃えて、入学式に着るスーツを買って。そうしているうちに、あっという間に卒業してしまう。会いにいく、なんて口では言っても、そう簡単には来られないだろう。

 きっと先輩はそう言うことで、私が部活をやめないよう脅迫しているのだ。そんな風に言われたら、私はどうしたってサボることができなくなる。もしかしたら来てくれるかもしれない。そんな期待を抱きながら部活を続けることは、やめるよりもずっと苦しいっていうのに。なんて残酷な人だろう。

 突然、先輩が足をとめた。自転車同士がぶつかる直前に、私もなんとか立ち止まった。

「見て」

 弾んだ声で言うもんだから、思わず首を動かしてしまった。見たくもない冬の海は、夕焼けを映してオレンジ色に染まっていた。海面はきらきらと宝石のように輝いて、今にも夕日を飲み込もうとしている。

「きれいだなぁ」

 ひとりごとのようにつぶやく先輩に、もう一度目を向ける。夕日に照らされた先輩の横顔は、ほんのり赤く輝いていた。

 そうですね、と答えたら、なんだか声がかすれてしまった。ああ、やっぱり海なんて見るんじゃなかった。明日からもきっと、海を見るたびに先輩を思い出すのだろう。夕日に照らされた先輩を思い出しながら、一人でこの道を歩くのだろう。





 うみ先輩、と、声を出さずに名前を呼んだ。あなたと同じ名前のこの海を、わたしはやっぱり好きになれない。



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