ずっと、気になってるひとがいた。
いつもにこにこしていて、なんでもこなす天才的なひと。
でもあるとき、たまたま街で見かけたそのひとは、険しい顔をして、問題集と向き合っていた。
難しい問題なのかな。
気になるな。
完璧だと思っていたひとは、努力の天才だった。
繊細で、とても優しいひとだった。
親近感が湧いた。
君が同じような悩みを持っていると知って、驚いたけれどそれ以上に嬉しかった。
力になりたいな。
やっぱり、好きだなぁ。
想いは、そう簡単に消えることはないのだと思い知らされた。
***
「おまたせ」
しばらくして、制服に着替えた音無くんが私のテーブルにやってきた。
「あ……うん。お疲れさま」
音無くんは片付いたテーブルを見て、
「勉強はもう終わり?」
と訊ねる。
「うん」
「じゃ、もう帰る?」
「あ、うん。じゃあお会計だけしてくるから、外で待ってて」
「分かった」
会計を済ませ、外へ出ると、音無くんが店の入口に立って待っててくれていた。
私は声をかけながら、音無くんのもとへ駆け寄る。
「ごめん、おまたせ」
声をかけると、スマホを見ていた音無くんが顔を上げた。そのままじっと見つめられ、私は首を傾げる。
「……音無くん?」
どうしたんだろう、と思っていると、音無くんは我に返ったように瞬きをした。
「ご、ごめん。帰ろっか」
「うん」
くるりと身体を回れ右させて歩き出す音無くんのあとに続く。
何気なくその背中を見ていて気が付く。
音無くんの耳は、僅かな光しかない中でもほんのり赤らんでいるように見えた。
――……もしかして、緊張してるのかな。
音無くんの緊張の理由が、私にまだ気持ちが残ってるからなのか、私がふだんあまり話さない異性だからなのか、はたまたそれ以外なのかは分からないが。
もちろん私も、かなり緊張している。
男子とふたりきりで話すこともあまり慣れていないし、音無くんがそもそも、どういう気持ちで私を誘ったのかも分からない。
空を見上げる。
星なんてひとつも見えない曇天模様だ。
そういえば、さっきまで雨が降っていた気がしたが、帰るタイミングで止んだようだ。
夜の街は、まだ雨の匂いに包まれている。
「そういえば今日、ずっと雨だったよな」
沈黙の中、先に口を開いたのは音無くんだった。見ると、音無くんも空を見上げている。私は頷く。
「そうだね。ちょうど止んだみたいで、タイミング良かったね」
「……清水は、雨、きらい?」
「え?」
音無くんがちらりと私を見る。
「……ううん。晴れより好きかな。雨の方が、なんだか景色が優しい感じがして」
街が薄くけぶっているさまは、まるで世界にカーテンが引かれたみたいだと思う。
目にうっすらと見える優しい幕。それらは街だけでなく私のことも包んでくれるようで、ほっとする。
太陽が眩しい晴れの日は、なんだか裸で街を歩いているようであまり落ち着かない。
「……俺も。雨のが好き」
「……意外!」
明るい音無くんは、なんとなく晴れの方が似合う気がする。
「え、そう?」
「音無くん人気者だし、太陽みたいだなって思ってたから」
すると、音無くんはどこか自嘲気味に笑った。
「そんなことないよ」
「…………」
再び沈黙が落ちて、私の心はまた騒ぎ出す。
必死に次の話題を探していると、音無くんが口を開いた。
「……あのさ、告白のこと、ごめんな」
「えっ」
弾かれたように顔を上げる。
まさか、その話題が来るとは思わなかった。
驚く私を見て、音無くんは気まずそうに曖昧な笑みを浮かべている。
「よく考えたら、ほとんど喋ったこともない奴からいきなり告白されても、困るよな」
「…………」
思わず黙り込む。
音無くんからの告白には、たしかに戸惑った。
告白以来ちょっと気まずさを感じて、接しづらかったことは事実だ。
現に私は、音無くんと目が合うと未だに緊張してしまう。
けれどそれは、音無くんのせいだけじゃない。私が音無くんを前にすると緊張してしまうのは、音無くんの気持ちにまっすぐ向き合えなかったじぶんの中でのうしろめたさがあるからだ。
「俺もじぶんに置き換えて考えたら、ちょっとキモかったかもって思ったし。だから、もう本当に気にしないで。忘れてくれていいからさ」
音無くんのよりどころのない表情に、胸がズキズキと痛む。
「でも俺、清水とはできれば仲良くしたいんだ。だから、今までどおりっていうか……まぁ、べつに今までも特別仲が良かったわけじゃないけどさ。それでも、ふつうに接してくれると嬉しい」
私は、じぶんばかりが傷付いてると思っていた。
私を好きなんて、見る目がない。どうせ、私の反応を見てからかってるんだろう。そんなふうに思っていた。
そんなわけないのに。
告白するのに、どれだけの勇気がいるか。
ふられたときのショックがどれほどのものか。
好きなひとに避けられたとき、どれほど悲しいか。
少し考えれば分かるはずなのに。
今さら、音無くんの顔を見て気付いた。
――既に傷付いている音無くんを、私はさらに追い詰めたんだ……。
罪悪感に胸が押し潰されそうになった。
「……違うの」
音無くんが顔を上げる。その視線に、心臓の鼓動が早まっていく。
「私、音無くんのこときらいになって避けてたんじゃないの!」
今までずっと言えずにいた……いや、気付いてすらいなかった本音を、私は音無くんに告げる。
「え、じゃあなんで……?」
困惑の色が滲んだ眼差しで、音無くんは私を見つめる。
「私ね、音無くんから告白されたとき、怖くなったんだ」
「怖くなった?」
こくりと頷く。
「私……じぶんに自信がなくて、だから仲がいいわけでもない音無くんが告白してきたとき、嬉しいとかそういう感情より先に、本当なのかなとか、からかってるんじゃないかとか思っちゃって」
音無くんが勇気出して伝えてくれた思いを、信じることすらできなかった。
「それに私……学校ではキャラ作ってるっていうか……みんなに優等生って思われてるでしょ? でも、本当は私、ぜんぜん優等生なんかじゃない。みんなよりスペック低くて、今だって成績保つのに必死で……」
音無くんからの告白は、驚いたけれど嬉しかった。でも、あのときの私には、嬉しさより恐怖のほうが大きかったのだ。
本当のじぶんを知られたら失望されるんじゃないかって、そればかり考えてしまった。
「だから……音無くんからの好意を、素直に信じられなかったの。本当の私を知られたら、きっときらわれるって思ったら怖くて……ごめんなさい」
「なんで清水が謝るんだよ」
「だって、音無くんの気持ちにちゃんと向き合ってなかったから。ごめんなさい」
もう一度頭を下げてから、顔を上げた。
音無くんを見上げて、私はずっと言えていなかった言葉を一年越しに伝える。
「今さらになっちゃったけど、私のこと好きになってくれてありがとう」
「…………」
音無くんは黙り込んだあと、突然その場にしゃがみ込んだ。
「えっ!? ちょっ……どうしたの?」
慌てて音無くんのとなりにしゃがみこむ。
音無くんはしゃがみ込んだまま、深く息を吐いていた。
「いや、だって……ぜったいきらわれてると思ってたから。目が合っても、すぐ逸らされるし……」
「そ、それは……ごめん」
今日、学校で目が合ったときのことを思い出す。
やっぱり、傷付けていた。
「……ううん。でも、清水の本心聞けてめちゃくちゃほっとした。ありがとな」
「……うん」
パッと顔を上げた音無くんはどこか嬉しそうに、だけどちょっと恥ずかしそうにはにかんでいた。
それを見ていたら私まで恥ずかしさが込み上げてきて、思わず俯く。
「よし! 帰るか!」
音無くんが明るい声を出し、すくっと立ち上がる。
再び沈黙の中歩いていると、となりで小さく吹き出す声が聞こえた。
見ると、音無くんの肩が小刻みに震えている。
「ってか、緊張し過ぎじゃない? 俺たち」
そう言って笑う音無くんは、いつもより子供っぽい笑みを浮かべていて。私はじぶんの頬がぼっと熱くなるのを自覚する。
「……たしかに」
つられるように私も笑う。
「なんか、こうしてちゃんと話すのって初めてだから変な感じ」
「私も。一年以上も同じクラスなのにね」
「本当だよ」
不思議だ。さっきまでずっしりと重かった鞄が、少しだけ軽く感じる。
目の前の信号が、青点滅から赤に変わり、私たちは横断歩道の前で足を止めた。
「……あのさ、余計なお世話かもしれないけど、清水って、どうしてそんなに自信がないの?」
顔を上げると、音無くんのまっすぐな眼差しと目が合った。
「さっきも思ったんだけどさ、清水はじぶんを卑下し過ぎじゃない? 友達もたくさんいるし、努力してるぶん、成績だっていいじゃん。それなのに、どうしてそんなにじぶんを認めてあげないの?」
脳裏にお姉ちゃんの顔が浮かぶ。
「それは……」
言葉につまり、きゅっと唇を引き結ぶ私を見て、音無くんが言う。
「……ごめん。言いづらかったらいい。無理して聞きたいわけじゃないから」
音無くんはやっぱり優しい。
「…………」
今までの私だったら、音無くんにどう思われるかを気にして、きっと言わなかったと思う。
でも、今なら聞いてほしいと思う。きっと音無くんなら、私の気持ちを否定したりしないと分かるから。
意を決して、私は口を開いた。
「……うまく言えないんだけど、努力してるところを見られるのが苦手なんだ。あんなに努力してるのに、この程度の実力なんだって思われたりするのがいやっていうか……怖くて」
「怖い?」
「うん。……私ね、お姉ちゃんがいるの。今、青蘭医大の三年生なんだけど」
「へぇ」
音無くんが驚いた顔をする。
「お姉ちゃんは天才型で、大抵のことはセンスでうまくできちゃうひとなんだ。おまけに、小さい頃から医者になるって夢があって。私はいつも、お姉ちゃんと比べられてきた」
周りからは、お姉ちゃんと同じで柚香ちゃんもきっと才能のある子なんだろうねと言われて、期待の眼差しを向けられてきた。
「……でも、私はお姉ちゃんみたいに器用じゃないから、努力しないとついていけない。私には、お姉ちゃんみたいなひとの役に立つ夢もない」
すぐ近くに本物の天才がいたら、自信なんて持てない。
「……だからいつも優等生のふりをして、みんなの期待に応えてきた。幻滅されないように」
周りは勝手だ。勝手に期待して、私がその期待に応えられなければ裏切られたと勝手に幻滅する。
他人からの評価なんて、気にしなくてもいい。頭では思うけれど、それでも、どうしても幻滅されたくないと思ってしまうのは、おかしいことだろうか。
だって。
私には価値がない、なんて思われたくない。
失望されたくない。
だから、辛くても踏ん張ってきた。
心を守るためには、そうするしかないのだと思っていた。
「……こんなことで自信を失くすなんて、変かな」
打ち明けてから、ひゅっと気持ちが沈んでいく。
軽蔑されたらどうしよう。
くだらないと笑われたら……。
音無くんがそんなふうに思うはずないとは頭では分かっているけれど、マイナスなことばかりが頭に浮かんで、顔を上げられない。
「……変じゃないよ」
静かな夜の街に、音無くんの声が凛と響いた。
決して声を張ったわけじゃないのに、音無くんのその言葉は、私の心の深いところまですっと届いた。
ゆっくりと顔を上げると、音無くんの澄んだ瞳が私を捕らえる。
「ぜんぜん、変じゃない。……だって俺、一年のときから清水があのファミレスで勉強してること知ってたし。いつもひとりで遅くまで勉強して疲れてるはずなのに、学校ではいつもにこにこしてて、大変そうな顔とかぜんぜん見せないし。……そういうの見て、いいなって思ってたから」
「え……」
音無くんの優しい声が、私の胸にどこまでも深く沁みていく。
「じゃあ、音無くんは……私があそこで勉強してるの知って、好きになってくれたの? 私の外キャラを見て好きになったんじゃなくて?」
「……って、恥ずいからそーゆうこと、今さら言わせんなよ」
じわじわと涙が込み上げてくる。
「……ごめんっ、そうだよね」
ごしごしと制服の袖で涙を拭う。
ずっと、努力しているところを見られるのが怖かった。どう思われるかと気にして、だれにもこの思いを打ち明けることができなかった。
――でも。
頑張ってることを知っててくれるひとがいるって、こんなにも嬉しいことなんだ……。
「……でも、俺、やっぱり声をかけるべきじゃなかったよな。清水の気持ちも考えずに、軽々しく声かけてごめん」
「え……なんで、音無くんが謝るの?」
謝られる意味が分からず、首を傾げる。
「だって、俺に知られるのもいやだっただろ」
申し訳なさそうな顔をする音無くんに、私はぶんぶんと首を振った。
「……そんなことない」
最初はたしかにどうしようと焦った。
でもそれは、幻滅されると思ったからだ。
音無くんの本音を聞けた今、むしろ話してよかったと思っている。
「今はちょっとほっとしてる」
本心を告げると、音無くんは「そっか」と微笑んだ。
「たぶん私、このことをずっとだれかに話したかったんだと思う」
だれかに聞いてほしくて、でもだれにも言えないままひとりで抱え込んでいた。
苦しさに目を伏せたところで、その苦しみが軽くなるわけもないのに。
その証拠に、だれかのちょっとした言葉で大袈裟に傷ついてしまうじぶんがいた。
でも、音無くんと話して気付いた。
私は今まで、悪意でもなんでもない言葉で傷付いていたのかもしれない。
「こんなにすっきりするなら、もっと早く話してればよかった!」
「……そんなにすっきりする?」
「うん! したした! なんなら、鞄振り回せるくらい!」
「それは危ないからやめな」
音無くんがくすっと笑う。
「はは、だね!」
私は目尻に溜まった涙をさっと拭って、笑い返す。本当に身体が軽い。こんなに気持ちが昂っているのはいつぶりだろう。
さまざまな店が立ち並ぶ通りを抜け、閑静な住宅街に出る。
坂道を下りながら空を見上げると、深い灰色の雲の隙間に、すっと亀裂が入っている。
「あっ、星だ」
さっきは気付かなかった、曇っていると思っていた夜空に晴れ間がのぞいていた。
「……本当だ」
いつの間に。
「雲しか見えないと思ってたけど、ちゃんとあったんだね、星」
もしかしたら、曇っていたのは私の視界のほうだったのかもしれない。
その場に立ち止まって、僅かな晴れ間を見上げる。
しばらくお互い無言のまま空を見上げていると、おもむろに音無くんが呟いた。
「……駅の近くに、星カフェってあるだろ?」
唐突に、音無くんが言う。今日美里と行ってきたところだ。私は夜空から音無くんへ視線を移した。
「? ……うん」
「あれさ、実は兄貴がやってる店なんだよね」
「えっ!」
驚きが声に出た。
店主の美しい顔を思い出す。音無くんとはあまり似ていないように思えた。
「そ、そうなんだ……」
戸惑いが声に現れてしまって、しまった、と思って音無くんを見る。
「……俺と兄貴、ぜんぜん似てないだろ」
音無くんが自嘲気味に笑う。きっと、私の反応を察してしまった。
「いや……」
私はなんと言えばいいのか分からなくて、俯いた。
「……ごめん」
「大丈夫大丈夫。じぶんでも分かってるし。兄貴、すごいんだ。十五のときに海外留学に行って、色んな国で珈琲とかお菓子の勉強してさ。俺にはこれしかないって感じで無我夢中で勉強して、店を開いて。あっという間にこの街の人気店だよ」
「……そっか」
すごいね、と言いそうになって、口を噤む。
私なら、その言葉は嬉しくない。
お姉ちゃんのことを聞かれたとき、みんなが口を揃えて言う「すごいね」が私はずっと苦手だった。
だって、私はすごくない。
それなのにみんな、私にすごいねと言う。なんで?
まるであなたとは違うのねと、責められているような気がする。
そのとき、私がほしかった言葉はすごいねじゃなくて、
「……辛かったね」
音無くんが、顔を上げて私を見た。
「清水の話を聞いたからかな。なんか、清水も同じように悩みとかあるんだって安心したっていうか……聞いてほしくなっちゃった」
音無くんは泣き笑いのような顔をしていた。
「……本当、一緒だね」
どんなに努力しても敵わないひとが近くにいるというのは、辛い。
圧倒的な差を見せつけられて、心を折られる。
だけど大好きだから憎めなくて、でももやもやを吐き出す場所もなくて、だれもこの気持ちを分かってくれないんだと、悲しくなる。
音無くんは唇を噛み締めた。
「もし兄貴だったら、っていつも過ぎるんだ。もし告白したのが俺じゃなくて兄貴だったら、清水は告白を断らなかったんじゃないかな、とか。……だから、兄貴のことはだれにも言ったことなかったんだ。比べられることが分かってたから」
音無くんはかすかに震える声で、呟く。かける言葉が見つからず、私はただ足元を見つめる。
音無くんは、どうして私にこんな話を打ち明けてくれたんだろう……。
「でも、勝手に想像して、自信を失くしてただけだったのかもな」
「……そうだね」
私も同じだ。
周りの視線を、勝手に比較の視線と感じていた。
そうでないこともあったかもしれないのに、そうだと決めつけていた。
頷く私に、音無くんは眉を下げたまま微笑む。
音無くんの表情を見て、ふと思う。
他人にとったは、なんでもないことのように思える。
けれどこれは、音無くんにとってはきっととても大きなことなのだろう。
私にとってのお姉ちゃんの存在の大きさと同じように。
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……そういえば音無くんって、どこ志望なの?」
眼下に見える夜景をぼんやりと眺めながら、私は音無くんに訊ねた。
「うーん、大学はまだ決めてないかなぁ。なんとなく、心理学をやりたいとは思ってるけど」
「……心理学か……そうなんだ」
具体的な分野の話が出てきたことに、なんとなくショックだった。
音無くんが私と同じような悩みを抱えているからといって、なんでもかんでも同じなわけないのに。
「清水は国立?」
「うん。今のところ青蘭医大」
「青蘭か。じゃあ、清水は医者になりたいんだ?」
「……ううん。青蘭医大を目指してるのは、お母さんに言われたからだから」
二の腕をぐっと押さえる。
「呆れるよね、親に言われたとおりに生きてるなんて……でも私、やりたいこととかなくて」
「うーん、べつに呆れはしないけど……」
音無くんは足を止めて、私を見る。
「清水は、それでもいいの? 気持ち的に」
「気持ち……?」
「親に言われた目標でも、気持ちが重要じゃない? そーゆうのって。親に言われた道でも納得してるなら、それはじぶんで選んだって思えると思うし。……だから清水はさ、今までなんのために勉強してきたの?」
「……なんのためって、それは……」
家族や先生たちの期待に応えるため。それから、美里や葉乃たち、友人に慕ってもらうため。
だって、いい子でいないと私に価値はないから。
言葉につまる私に、音無くんが問う。
「清水自身は、青蘭医大でなにがやりたいの?」
「なにがやりたい……?」
言葉が出てこなかった。
だって、そんなの。
「……分からない」
私にはお姉ちゃんのような立派な夢は持っていないし、学びたいこともない。
目的が分からないのに、大学なんて決められるわけもない。
「……そっか。分からないなら、入ってから見つけたらいい」
俯き、黙り込んだ私に、音無くんがからりとした声で言う。
「入ってから?」
思わず呆然とした顔のまま、視線を上げる。
「やってみなきゃ分かんないことってあるし。だれになにを言われたからとか関係なく、じぶんで納得できればそれでよくない?」
「……じぶんが、納得できれば……」
「清水ってさ、夢がなきゃいけないって思ってるだろ?」
「それは……そうだよ。だって、夢がなきゃなにをすればいいかも分からないし、成長できないでしょ」
「まぁ、あったほうがいいのかもしれないけどさ、ないからダメってことでもないと思う。清水は、夢がないじぶんはお姉さんより劣ってると思ってるみたいだけど、そんなことないと思うよ」
「…………」
「清水は俺なんかよりずっと頭が良い。努力だって惜しまないし、優しいし。たぶん、みんなが慕ってるのは、清水が優等生だからってわけじゃないと思うよ」
「え……じゃあ、なんで……」
「清水が頑張ってるからだよ」
「私が頑張ってるから……?」
「清水がアピールしてなくても、そういうのは行動に出てるもん。学級委員とか、実行委員いくつもかけ持ちしてたことあっただろ? だからなんとなく清水って、学校にいるとずっと走ってるイメージあったんだよな」
「うそ!?」
たしかに昨年の秋は、いくつかの委員をかけ持ちしてやっていて忙しいときがあったけれど。そんなふうに見られていただなんて知らなかった。
音無くんと話していると、つくづくじぶんだけでは生まれなかった考えかたや価値観に驚かされる。
「清水はもう少し、じぶんを許してあげてもいいと思うよ」」
「え……」
「強がって、みんなの理想を演じて、それはすごいことだと思う。でもそれを続けてたら、きっといつか限界が来る。せめてじぶんだけは、じぶんを認めてあげるべきだ。肝心の清水自身がじぶんを否定しちゃったら、清水がかわいそうだよ」
「……かわい、そう?」
「夢に向かって努力するのはすごいことだけど、ないからダメなんてこと、ぜったいにないと思う。だれも清水を責めてなんていないよ。責めてるとしたら、清水自身だ」
全身の力が抜けていくようだった。
ずっと、いちばんになるために努力してきた。
でも、どんなに頑張っても上には上がいて、努力に終わりが見えなくて。
「……私、いちばんになれなきゃ、意味がないと思ってた」
いちばんになれなかったら、それまでの努力はすべて無駄だったのだと切り捨てていた。
でも、違うのかもしれない。
たとえいちばんになれなくても、いちばんを目指して努力したことが無駄なわけないのに。
「俺、思うんだ。夢がないっていうのは、交差点の真ん中にいるようなものなんじゃないかなって。周りをちゃんと見れば、めちゃくちゃいろんなものがあるし、じぶんの前にも横にも、もちろんうしろにも道があって、だからどの道を選んでもいいんだ。清水はこれから、どこにだって行けるんだよ」
「……でも、私たちもう高校二年生だよ。迷ってる時間なんてない。のんびりしてたら、あっという間に受験と卒業になっちゃう」
すると、音無くんがさらりと言った。
「たかが、卒業じゃん」
「……たかが?」
「だってさ、俺らまだ十七だよ? 人生まだまだこれからだろ。焦ることなくない?」
「……それは、音無くんがやりたいことが決まってるから言えるのであって……」
「俺だって、ぜんぜん将来のことなんて分かんないよ。心理学も、ただ気になるなってだけ。それを仕事にしようとかまでは思ってないし。そもそも大学行ったらまたいろんな出会いや発見があるだろうからやりたいことも増えるだろうし、ぜんぜん変わるかもしれないだろ?」
「じゃあ……具体的な目標が決まってないのに、勉強してるの?」
「そりゃそうだよ。ふつう、目標がないから勉強するんじゃない?」
「…………目標が、ないから?」
「そうだよ。いつ、どんな夢ができたとしても追いかけられるように勉強はするもんだよ」
「そっ……か……」
音無くんの言うとおりだ。
勉強は、夢を叶えるための手段でもあるけれど、まだ見ぬ夢へ近づくためのものでもあるのかもしれない。
いや、そうであるべきものだと思う。
「俺たちはもう、親になんでもかんでも決めてもらわなきゃいけない子供じゃない」
「……じぶんで決めていい……?」
「うん」
「……そっか……」
私は、お母さんにも、お姉ちゃんにも従わなくていい。
私の人生なんだから、私の人生を生きていいんだ。
ぜんぶじぶんで決めていいんだ。
夢を持つか、持たないかも。
「正しい道なんてないよ。どんな道を選んでも、心ひとつで正しくも間違いにもなる」
ずっと、夢がなければいけないと思っていた。
いくら勉強ができても、お姉ちゃんのように立派な夢がなければ、だれも認めてくれないから。
夜景が、じわりと滲む。
「いいのかな……夢がなくても」
込み上げる思いは、涙に変換されてあふれてくるようだった。
「私……私ね、みんなみたいに立派な夢がなくて……目標もなくて」
「うん」
優しい相槌が返ってくる。
顔を上げると、柔らかな顔をした音無くんと目が合った。
嗚咽が漏れる。
「……ずっと……お姉ちゃんみたいになにかひとつ、目指すものがあればって思ってた」
「うん」
「そうしたら、迷わずじぶんの道を行けるのにって……でも私、お母さんの言うことを曲げてまでやりたいものがなくて……夢がないなんてって、いつもお母さんにもお姉ちゃんにも呆れられて……。ずっと、お姉ちゃんが羨ましかった」
「……うん」
「……夢がないって、変じゃないかな……?」
訊ねると、音無くんはまっすぐに私を見つめて、
「変なわけない」
はっきりと言った。
夢がなくて、目標すらない私には、価値なんてないと思ってた。
「夢がないってのは、意思がないってことじゃないよ」
音無くんが言う。
「夢がないって、むしろラッキーじゃん。だって、これからいくらでも変われるし、なににでもなれるってことなんだからさ!」
――ラッキー?
「そう……かな?」
「それに、夢がなくても清水はここまで生きてこれたじゃん」
「…………」
「これまでだって、たくさん分岐点はあったはずだろ? 高校受験だって、部活だってそうだけど、ひとつひとつ選んできたから、清水は今ここにいる」
「……でもそれは、お母さんとか先生にこっちのほうが向いてるからとか、そうやって言われたから」
「だとしてもだよ。じぶんひとりで選んだ道じゃないとしてもさ、そのおかげで今の清水と、清水を慕う友達や環境があるんだったら、それでよくね?」
そう言って、音無くんはにっと笑った。
「……そうだね」
音無くんの言うとおりだ。
これまでの私がいるから、今の私がいる。今の私が好きかどうか聞かれたら、決して好きとは言えないけれど、それでも少なからず好きなものもある。
分かれ道に差し掛かり、音無くんが立ち止まる。
「清水はあっちだよな。俺、こっちだから」
「うん」
「じゃあな」
音無くんは軽く手を上げ、住宅街へ続く階段を降りていく。
「また」
徐々に遠ざかっていく後ろ姿に、ヤキモキする。
このまま、さよならしていいのだろうか。
今日一日、私は音無くんに気を遣われてばかりだ。
ケーキをもらって、私を不安にさせないために、言いたくなかっただろうじぶんの秘密まで打ち明けてくれた。
それなのに私は、なにひとつお礼をできていない。
……いや、違う。
いつまで私は上から目線なんだろう。
お礼ももちろんしたい。
だけど、今は。
今はただ、音無くんのことをもっと知りたい。
「音無くん!」
音無くんが振り向き、「なにー?」と叫ぶ。
「あの……明日も朝、早く登校したりする?」
音無くんは一瞬驚いた顔をしてから、頷く。
「するよ!」
手をぎゅっと握り込んで、顔を上げる。
「……私も、行ってもいいかな? 朝……学校で勉強しようかなって」
「じゃあ、一緒に勉強しよーぜ!」
「本当?」
「うん! 約束!」
音無くんはからっと笑って、手を振ってくれた。
知らなかった。
音無くんって、あんなふうに笑うひとなんだ。
***
翌日、昨日と同様、少し早く家を出て学校に向かう。ほんの少し期待して入った教室に、音無くんの姿があって胸が弾んだ。
しかし、おはよう、と声をかけようとして、私は言葉を飲み込んだ。
音無くんは、女子と話しているようだった。
女子の横顔には見覚えがある。二組の小林梓ちゃんだ。
私はほとんど話したことがないけれど、たしか葉乃と仲が良かった子のような気がする。
音無くんが特定の女子と話しているところはあまり見ないから、少し意外だ。
ふたりは扉の前に立つ私に気付かないまま、楽しそうに笑い合っている。
――すごく仲が良さそう……。
もしかして、付き合っているのだろうか。
しばらくその様子を見ていると、気配を察したのか、梓ちゃんがくるりと私がいる前扉のほうを向いた。
「あ! おはよー! えっと、柚香ちゃんだよね! 早いね!」
梓ちゃんは私に気付くと、人懐っこい笑顔で声をかけてくる。
目が合って、我に返った。
「あ、おはよう。……ごめん、邪魔しちゃった?」
ふたりに挨拶を返しながら、私はそろそろと教室に入った。
「ううん、ぜんぜん。私こそ、三組に勝手に入っちゃっててごめんね。じゃ、私はもう行くね! ばいばい優希!」
梓ちゃんは音無くんに手を振って、軽やかな足取りでじぶんの教室に戻っていった。
――優希。
梓ちゃん、音無くんのこと下の名前で呼んでるんだ……。
教室に静寂が戻り、緊張で心臓がバクバクとし始める。
結局音無くんに話しかけられないまま、鞄から教科書を取り出していると、音無くんが私の前までやってきた。
そのまま前の席の椅子を引き、私と向き合うように座る。
「おはよ、清水」
「あ……お、おはよう」
私は緊張気味に挨拶を返す。
「本当にきたんだな」
「……昨日、約束したから」
「うん、待ってた!」
音無くんは笑顔で頷くと、手に持っていた英語の教科書を開く。
「英語やろーぜ!」
「うん」
私も英語の教科書を取り出し、勉強を始めた。
英文を目で追いながらも、頭の中では音無くんと笑い合う梓ちゃんの姿が頭から離れない。
勉強を始めてしばらくした頃、音無くんは集中が切れたのか、「休憩!」と教科書をぱたんと閉じた。
ぐいっと大きく伸びをする音無くんに、私は恐る恐る訊ねてみる。
「……ね、音無くんって梓ちゃんと仲良いの?」
「え、小林? あーまぁ、小林とは、部活が一緒だからね」
「えっ、音無くんって部活入ってたの?」
「うん、天文部だよ」
驚いて音無くんを見ると、音無くんは「知らなかった?」と軽く苦笑いしていた。
「うん……ごめん」
「べつに謝ることじゃないだろ」
そうだけど、ショックだった。
思えば、私は音無くんについてなにも知らない。一年以上一緒のクラスなのに。
『――好きなんだ。清水のこと』
今さらになって、告白された当時の記憶が蘇った。
音無くんに告白されたのは、一年の秋休み前のことだった。
放課後、学級委員の仕事で先生に呼び出されていた私が教室に戻ると、音無くんが残っていた。
あのときはたまたま出くわしただけだと思っていたけれど、たぶん私の鞄が残っていることに気付いて、待っていてくれたのだと思う。
いつものように、また明日ねと挨拶をして教室を出ようとしたとき、『あのさ』と呼び止められた。
振り返ると、音無くんはどこか緊張した面持ちで、私を見つめていた。
真剣な眼差しになんだろう、と思っていると、音無くんが言った。
『あのさ……好きなんだ。清水のこと』
まっすぐなあの視線が、頭から離れない。
我に返って、顔を上げる。
正面には、あの日の眼差しを彷彿とさせる音無くんの横顔。
――音無くんは今、私のことをどう思っているんだろう……。
梓ちゃんのことは?
すぐ近くで音無くんの息遣いを感じながら、心臓の鼓動が高まっていくのを感じていた。
「あ、そこの答え間違ってるよ」
「え、どこ?」
「これ。この問二」
「え、うそ……わっ、本当だ」
思い切りケアレスミス。じぶんでも驚く。
「清水でもそんな間違いすんだな」
「ちょっ、もう笑わないでよー」
音無くんの指先が、私のノートを指している。思いのほか骨張っていて、じぶんの手とはずいぶん大きさが違う。
「……あの、音無くん」
「ん?」
「昨日はありがとね。話聞いてくれて。音無くんのおかげで、すごく心が軽くなった」
「そっか。ならよかった」
今まで、『意外』と言われることが怖かった。マイナスな意味だと捉えていた。
でもそれは、知らないから。
音無くんの笑いかたは意外だった。でも、知れてうれしかった。
『意外』というのは、『またひとつ、あなたを知れた』ということと、同義なのだ。
もっと知りたい。音無くんの『意外』な一面も、『思っていたとおり』の一面も。
「……あのさ」
音無くんの視線が、私を射抜く。
「もし良かったらなんだけど、その……連絡先教えてくれないかな?」
「え……俺の?」
「う、うん」
声が震える。緊張で、今にも心臓が口から飛び出しそうだ。
落ちた沈黙が、一分にもそれ以上にも思える。
「……ごめん、無理にじゃないんだ。今さらこんなの都合がいいって分かってるし、ごめ……」
気が付けば、早口で撤回しようとしていた。
覚悟を決めて口に出したはずなのに、どうしてこんな一瞬で自信を失くしてしまうのだろう。
「あ、待って待って! 教えるよ、いくらでも」
「え……」
「ごめん、今のはちょっと驚いちゃって」
「驚いて……? じゃあ、いやだったわけじゃないの?」
「当たり前だろ。めっちゃ嬉しいってば」
音無くんの頬は、ほんのり薄紅色に染まっている。
「……ほんと?」
「ほんとほんと。はい、これ俺のID」
「あ、ありがと」
画面を開いた音無くんが、スマホをぐいっと差し出してくる。私は音無くんのスマホを見ながら、じぶんのスマホに音無くんのIDを打ち込んでいく。
「できた?」
「うん」
無事IDの入力が終わると、メッセージアプリの友達欄に音無くんのアカウントが表示される。
「あ、俺のとこにもきた」
音無くんが上機嫌にスマホをいじる。
ピコン、と通知音がした。
「?」
手元のスマホを見ると、音無くんからスタンプが届いていた。
「可愛い!」
パンダのスタンプだ。音無くんにならって私もネコのスタンプを送り返す。
「可愛いスタンプだな」
「でしょ。お気に入りなの。美里が誕生日にくれたんだ」
「へぇ」
スタンプの話から美里や葉乃たちの話になり、文化祭や体育祭の話になり、今度は中学時代の話になる。
不思議だ。昨日まで、音無くんとはほとんど話したことなんてなかったのに、会話がどんどん広がっていく。
いちばん弱い部分を、お互いに見せ合ったからだろうか。
それまで感じていた気まずさなんて、どこかへ吹き飛んでいた。