鈍色の空、かすかな晴れ間に星を見る。


 ずっと、じぶんじゃないだれかに憧れた。
 お姉ちゃんのようになれたら。
 あの子のように、素直になれたら。
 あの子みたいに、芯の強い子になれたら。
 ……だって私は、なにも持っていないから。

 でも本当は、ほかのだれかになる必要なんて、ないのだ。
 私は、なにも失くしてはいなかった。
 私はただ、じぶんからじぶんの大切なものを手放していただけだったんだ。

 私たちは、だれもが主人公(ヒロイン)
 物語の始まりは、主人公はなにかが足りない。
 私たちは欠けているからこそ、物語の主人公になれるんだ。

「――好きなんだ。清水(しみず)のこと」
 それは、高校一年生のときだった。
 私はクラスメイトの男子から、告白された。
 告白してくれた子の名前は音無(おとなし)優希(ゆうき)くん。
 明るくて優しくて、クラスにあぶれてる子がいたら、真っ先に声をかけにいくような、すごく思いやりがある子。
 男女問わず好かれてる人気者。
 そんなひとが、どうして私なんかを選んだんだろう。
 私より可愛い子も、きれいな子も優しい子も、頭のいい子だってたくさんいるのに。
 私は、私がきらい。
 だいっきらい。
 ――だって。
 意思も夢もなくて、
 いつもだれかの顔色をうかがって、
 本当の友達なんてひとりもいやしない私に、好きになる要素なんてある?
 私でさえ愛せない私を、好き?
 なにそれ。冗談でしょ。
 私を好きだとかいうひとなんて有り得ない。信じられない。
「ごめんなさい。私今は勉強以外のことあまり考えられなくて……」
「……そ、そっか」
 うん、分かった。じゃあ、これからも友達としてよろしくな。
 音無くんはそう言って、ぎこちなく笑った。
 紅葉が色付く秋のことだった。

 昼下がりの進路相談室。
 色褪せたカーテンが窓から吹き込んだ風に揺れている。
「えーっと、柚香(ゆずか)さんは青蘭(せいらん)大の医学部志望でしたね」
 私と、お母さんの向かい側の席に座る担任の先生が、私が提出した進路希望調査表を見ながら問いかける。
「はい」
 先生と目が合い、背筋を伸ばして私は頷く。
「うん。成績も合格圏内だし、この調子でいけば大丈夫そうですね。柚香さんは生活態度もいいですし」
 高校二年生になって初めての三者面談。
 私が通う東京都立(とうきょうとりつ)明穂野(あけほの)学園(がくえん)高等部(こうとうぶ)は、進学率が九割を超える都内有数の進学校だ。
 その明穂野学園に入学して、一年と二ヶ月。
 二年に進級して初めての中間テストと模試が終わり、今日はその結果を元に三者面談が行われている。
 今回私はテストの結果もまずまずで、志望校の合格判定もB。面談は終始穏やかなムードで進んでいた。
 このままなにごともなく終わってくれと願いながら、私はお母さんのとなりでいつもどおりの笑みを浮かべる。
「柚香さんはいつもにこにこしているから、場が華やかになっていいですね。お友達にもよく、お勉強を教えてあげているところも見ますし」
「まぁ、そうですか。それを聞いて安心しました。この子、家ではあまり学校の話をしなくて……友達関係とか今はなかなか難しいって聞くから、ちょっと気になっていたんですよ」
 お母さんはよそ向けの高い声音を華麗に使いこなして、先生と話している。
「いえいえ、柚香さんはとても人気者ですよ。人間関係に関しては、ぜんぜん心配ありませんよ」
「まぁ、そうですか」
 お母さんは、にこにことした顔を私に向ける。
「安心したわ、柚香」
 なにが?
 うんざりする。作り笑顔も甚だしい。どうせ、私のことなんてどうだっていいくせに。
 内心でそう思いながら、私はそれを笑顔の仮面で華麗に交わした。
「そういえば」
 先生が不意に私を見る。
「柚香さんは、将来どの分野のお医者さんになりたいとかは決まってるの?」
 先生が私に話を振った。矛先がこちらに向くと思っていなかった私は、咄嗟の問いかけに言葉を詰まらせる。
「……あ……えっと」
 ――どうしよう。
 大学に進んだ先のことなんて、一ミリも考えていなかった。
 だって、私が受けるのは国立医大だ。そう簡単に入れるような大学ではない。今は入試の勉強でいっぱいいっぱいで、その先のことなんて考える余裕なんてない。
「柚香も、お姉ちゃんと同じで小児科志望かしらね?」
 私が黙り込んだままでいると、お母さんが言った。
「あら、お姉さまも医学生でしたか」
 と、先生が驚いた顔をお母さんへ向ける。
「えぇ。実は上の子が青蘭(せいらん)医大(いだい)に通ってるんです。だから柚香もそこにしたらどうかって私が勧めたんですよ。上の子は面倒見が良くて、幼い頃からよく柚香の面倒を見ていてくれたんです」
 あ、始まった、と思った。
 お母さんはいつも、私と引き合いにお姉ちゃんの話をする。私の話題で気まずくなると、お姉ちゃんの話に切り替えるのだ。
「柚香さんが同じ学校に入ったら、親御さんとしても安心ですものね」
「えぇ、そうなんですよ。ただ……」
 私は黙ったまま膝の上に置いた手を握り込み、お母さんの自慢話が終わるのを待つ。
「上の子は、昔から医師になりたいと言っていたんですが、この子はあまりものを言わないから、大学に受かってもちゃんと続くかどうか心配で……」
 流されやすいといいますかねぇ。と、母さんはわざとらしいくらいに困った顔をする。
 あまりものを言わない?
 ――違う。
 言いたいことなら、いっぱいある。
 私はべつに、医者になんかなりたくない。そもそもなりたいものだってない。
 青蘭医大を目指しているのは、私もお姉ちゃんみたいに医者を目指したいと言えばお母さんの機嫌が良くなるからだ。
 お姉ちゃんみたいに立派になりなさい。
 あなたくらいの頃は、お姉ちゃんはもっと成績よかったわよ。
 お姉ちゃんが受かったんだから、あなたも大丈夫よ。
 お母さんの口癖。
 本当はうんざりしている。
 ――私はお姉ちゃんじゃない。
 私は、お姉ちゃんとは違う。
 私とお姉ちゃんを比べないで。
 私を見て!
 本当は言いたい。
 でも、言わない。
 言ったって、お母さんは私の話なんて聞いてくれないから。
 なら、あなたはなにになりたいの?
 そう訊かれたら、困るから。
 だって私は、それに対する答えを持っていない。だから、黙るしかない。
 海の底に沈む貝のように黙り込んでいると、先生が口を開いた。
「大丈夫ですよ、柚香さんだってちゃんと考えてると思います。ね、柚香さん?」
「……はい」
 同意を求められ、俯いたまま返事だけする。でも、心にはぽっかりと穴が空いたまま。
「それにしても、姉妹揃って国立の医大目指されてるなんて、すごいですねぇ」
 気まずい空気を察したのか、先生が話題を変えた。
「とんでもないです」
 まんざらでもなさそうに笑うお母さんを横目で見て、暗い気持ちになる。
 ――本当に、お姉ちゃんが好きなんだな。
 お母さんにとって私は、お姉ちゃんをより立派に見せるための比較素材のようなものだ。
 私も、お姉ちゃんのように優秀だったら。
 だれからも好かれる天真爛漫な女の子だったら。
 でも、私ではどんなに努力してもお姉ちゃんのようにはなれないから。
 私がそばにいると、よりお姉ちゃんのすごさが際立つ。
 私はただの引き立て役。それ以外に、なんの価値もない。
「じゃあ柚香さんもお姉さんに続けるよう、頑張らないとね!」
「お姉ちゃんだって一発で受かったんだもの。柚香なら大丈夫よね?」
「……はい」
 浮かべた笑顔が引き攣りそうになる。
 ――あぁ、もう。早く終わらないかなぁ。
 ちくちくと痛む胸に気付かないふりをして、私は笑顔で面談をやり過ごした。


 ***


「おかえりー、ゆず」
 面談が終わり、お母さんと別れて教室に戻ると、クラスメイトの美里と葉乃がふたつの机をくっつけて勉強をしていた。机の上には教材だけでなく、お菓子も散らばっている。
「ただいまー。勉強してるの?」
「うん!」
 元気よく頷く美里の向かいで、葉乃が「いや」と言う。
「見かけだけ。ただお菓子食べながら柚香を待ってた」
「だと思った」
 美里が真面目に勉強なんてするはずがない。
「えーそんなことないってば。ちゃんと勉強してるよー?」
「一問も解いてないじゃん」
「うっ……」
 私は笑いながら美里のとなりの席に座り、身体の向きをふたりのほうへ向ける。
「で、面談どうだった?」
「疲れたよー」
 言いながら、私は固まった肩を片手でほぐす。
「おつかれい! ポッキーあるよ。食べる?」
 美里が私の頭を撫でながら、ポッキーを一本差し出してくる。
「ありがとー、食べる」
「面談って、どんな感じのこと訊かれた?」
「あー中間の成績と、志望校のレベル照らし合わせての現状を言われる感じかなぁ」
「うわ、マジか。私面談明日だよー。やだなぁ……成績下がったし、ぜったい怒られるじゃん」
「あれ、美里、中間点数悪かったの?」
「順位結構下がっちゃったんだ。模試判定もBだったし」
 机の上に身体を投げ出しながら、美里が情けない声を上げる。
「しかも私、お母さんに結果見せてないんだよ……」
「うそ!? それはまずいでしょ!」
「だよねぇ。でも怒られるの分かってたら怖くて出せなくない?」
「うん、まぁ気持ちは分かるけど……」
「どうしよ〜!!」
「テストの点数が下がったのは自業自得でしょ。美里、あんた中間テストのとき、勉強サボってアイドルのライブ配信観てたじゃん」
 葉乃がすました顔で言った。
 美里がギクリと肩を揺らす。言い当てられたことが悔しかったのか、視線で私に助けを求めてきた。
「ゆず〜」
「仕方ないなぁ。ついていけなくなりそうなとこ、分かる? 私でよければ教えるよ」
「本当!? 神! じゃあじゃあ、まずはこの問三なんだけど……」
 美里は数学の問題集を広げて、私に向けた。
「放っておきなよ。柚香のほうが難しい大学受けるんだから、ひとの心配してる場合じゃないでしょ」
 葉乃が呆れたような視線を私に送ってくる。
 葉乃の言うとおり、本当は私も勉強はいっぱいいっぱいで、ひとに教えている余裕はない。だけど、美里も困っているようだし、この問題なら私も分かる。
「大丈夫だよ。教えることで私の勉強にもなるし」
 ……それに、美里にとっての私の価値はたぶん、『優しく勉強を教えてくれるいい子』だから。
 そうじゃない私じゃ、友達でいる価値なんてない。だから、美里の望む『私』を演じる。
「さっすがゆず〜! 葉乃と違って優しい!!」
「悪かったね、私は優しくなくて」
 葉乃は頬杖をつき、不貞腐れたような顔のまま問題集に視線を戻した。
 解きかたを教えていると、美里が言った。
「ゆずってほんと、教えるの上手いよね!」
「……そう?」
「うん! 分かりやすい!」
 ふと面談で言われた言葉が蘇る。
『柚香さんは、将来どの分野のお医者さんになりたいとかは決まってるの?』
「……美里の志望校って、陽都(ようと)大だったっけ?」
「うん! 陽都大の法学部!」
「法学部かぁ……」
 陽都大と言えば、都内でも五本の指に入る名門大学だ。
 中間の順位が下がったといえど、二年生の時点で名門国立大学の合格判定にBをもらっている時点で、美里のポテンシャルの高さがうかがえる。
「美里んち、お父さんもお母さんも裁判所勤務だもんね」と、葉乃が言う。
「えっ! そうなの? 裁判官ってこと? すごいね」
 驚いて訊ねると、美里は笑って「違う違う」と手を振った。
「ふたりとも調査官だよ」
「調査官? ……って、なにするひと?」
 私だけでなく、葉乃も首を傾げる。
 法曹界の職業といえば、テレビドラマでよく聞く弁護士や検事くらいしか知らない。調査官という職種は初めて聞く。
「私も詳しくは知らないけど、裁判にかかわる証拠を調べに行ったり? あとは関係者に話を聞きに行ったりしてるみたいだけど」
「……そうなんだ。美里は、なんで調査官になりたいと思ったの? 美里って、前は教師になりたいって言ってなかったっけ?」
 訊ねると、美里は「あーね! そうなんだけど〜」と曖昧に笑う。
「うーん、なんていうか、調査官のこと調べてみたら、教師よりも興味が出てきたっていうか。昨年進路のこと相談してたらね、お母さんに裁判の傍聴を勧められたんだ」
「裁判の傍聴?」
 私は、テレビドラマでよく見る法廷の光景を想像する。
「そ。で、いろんな家庭の裁判を見てるうちになんとなく教師よりいいかもって思い始めた感じかなぁ。うちのお母さん、家庭裁判所の調査官だから、結構虐待家庭の担当をしててさ。調べてみたら子供がらみの信じられない事件がたくさんあるんだ。そういうの知ったらなんか、調査官もいいかもって思って」
「……そうなんだ。でも、ちょっと意外かも」
 一年のとき、美里は教師を目指していた。
 いじめっ子もいじめられっ子もいない楽しい学級を作るんだ! とはりきっていたし、美里には教師以外の選択肢なんてないと思っていたから、この時期になっての進路変更は驚いた。
「そうなんだけどさ、子供に関わる仕事って、べつに教師とか保育士じゃなくても、いろんな仕事があるんだって、親の仕事を詳しく知ったときに気付いたんだよね」
「なるほど……」
「ま、まだなれるか分かんないけどさ。まずは期末と模試対策だよ〜。ヤバい、受験に関係ない科目ほどやる気にならないー!」
 頭を抱えて叫ぶ美里をなだめつつ、私は葉乃へ視線を向ける。
「葉乃もたしか、美里と同じ大学だよね?」
「うん。私も陽都大。警察に入りたいから、犯罪心理学学ぶつもり」
 裁判所職員に、警察官。
「そっか……ふたりともすごいなぁ……」
 ちゃんと地に足つけて、前に進んでいる。
 それに比べて、私は。
 夢を持つふたりと私は、なにが違うんだろう。
 同じ歳で、同じ学校で、同じクラスなのに。
 私とふたりのあいだには、まるで見えない切り取り線でもあるみたい。世界がぱっくり別れている気がしてならない。
「ほら、くよくよしたってテスト結果は変わらないんだから、ポッキー食べて元気出せ」
 葉乃が小袋からポッキーを一本取り出し、美里の口に持っていく。
「うん、ありがと……って、それ私のじゃん!」
「バレたか」
「もう、ゆず〜! 葉乃がいじめるよ〜!」
 葉乃への文句を言いながら抱きついてくる美里を、私は笑いながら抱きとめた。
「よしよし。じゃあ私からももう一本」
「だからそれ私のだってば!」
「じゃあ、たけのこの里にする?」
「だからそれも私の〜!」
 束の間の朗らかな時間に、ほっとする。
 美里と葉乃とは、高校で知り合った。
 いつも明るく無邪気な美里と、冷静で少し大人びた性格の葉乃は一見すると合わないように思えるが、親友同士だ。
 ふたりは同じ私立中学出身の外部受験組で、幼馴染みらしい。
 入学当初、私は同じ中学だった子たちと固まって、お昼を食べたりしていたけれど、選択教科が美里たちと同じになったことがきっかけで仲良くなった。
「にしてもゆずはすごいよねぇ。国立大今から余裕で圏内の成績なんだもん」
 手のひらで退屈そうにペンを回しながら、美里が言う。さっき一問教えてから、問題は一問も進んでいない。
「さすがだよね」
 葉乃も頷いて賛同する。
「そんなことないよ」
 こういうとき、どういう反応がいちばん正しいのか分からず、私はいつも「そんなことないよ」と曖昧に笑ってやり過ごす。
「しかもお姉ちゃんは国立大医学部現役合格でしょ? 遺伝子レベルで私らとは違うよね!」
「だね」
「しかも塾にも行ってないとか、マジで天才」
「…………」
 ふたりと過ごすのはきらいじゃない。でも、こういう話はあまり好きじゃない。
 強く違うと否定しても場が冷めるし、ノリ良く「だよね〜」なんて言ったら、それはそれでマウント取ってるとか、ウザいと思われかねない。
 こういう模範解答がないような話は苦手だ。胃が痛くなる。
「もういいでしょ。それよりほら、勉強しようよ」
 苦笑いで言うと、「またまた〜」と美里が私の肩を小突く。
「羨ましいよ、エリート遺伝子! ちょっとやっただけで学年順位五位以内に入れる遺伝子、私にも分けてよ〜」
 結局私はなにも言えないまま、ただ笑って過ごした。
 ふたりも、先生も家族も、みんな私のことを誤解している。
 私はみんなが思うような優等生ではないし、いい子でもない。
 私は、ふたりのほうがずっと羨ましい。
 美里のようなひたむきさや、葉乃のような芯の強さがあればと何度思ったか分からない。
 私が勉強する理由は、美里や葉乃とはぜんぜん違う。
 ただ、お母さんのご機嫌取りのため。
 勉強さえしていれば、お母さんはうるさく言ってこないから。
 お姉ちゃんが優秀だから、私も優秀でなければならない。そういうプレッシャーの元で育ったから、ただ仕方なく勉強をしているだけ。
 でも本当は、勉強が苦しくてたまらない。
 私にとっての勉強は、終わりの見えない真っ暗なトンネルの中をひたすら進んでいるような感覚に近かった。
「ねぇ、それよりお腹減った! 駅ナカのファミレスあたり、どっか寄っていかない?」
 三者面談である今週は毎日半日授業のため、いつもよりも帰りが早いのだ。
 時計を見ると、時刻は午後一時過ぎ。
 普段なら部活がある美里も今日はサボったらしく、お弁当は持ってきていないらしい。もちろん、帰宅部の私と葉乃はお弁当を持ってきていない。
「あ、じゃあ私マック食べたいな」
 葉乃が言う。
「おっ! いいね、それ採用!」
 美里の提案により、私たちは寄り道をして帰ることになった。


 ***


「なににするー?」
 お店につき、メニューを三人で選ぶ。
「私、このセット」
「私はこっちにしよーかな。ゆずは?」
「私は……うーん……とりあえずポテトでいいかな」
 悩むのも面倒になって、私は単品のポテトを選ぶ。
「えっ、ポテトだけ? お腹減らない?」
 美里が心配そうな顔で私を見る。
「でも私、いつもポテトだけでおなかいっぱいになっちゃって、バーガーに辿り着けないんだよね。……まぁ足りなかったら、またなんか頼むし」
「そっか。あ、じゃあ私のひとくちあげるよ!」
「えっ、いいよ。そういうつもりじゃなかったし」
「いいのいいの。ゆずにはいつもお世話になってるし! ねっ! 葉乃」
「……そだね」
 ちょっと歯切れの悪い反応だったような気がして、ちらりと葉乃を見る。
 目が合うと、葉乃はにこりと笑いかけてくる。
 気のせいだったようだ。
 注文を済ませて、テーブル席に座る。
「私、奥入っちゃっていい?」
「いいよー」
 先頭を歩いていた私は、空いていたテーブル席の奥側に入る。私のとなりに美里が入り、向かいに葉乃が座った。
 じぶんのトレイにポテトを箱からざっと出すと、美里もじぶんのポテトを私のトレイに同じように混ぜてくる。
「あは。大量だね」
「ヤバいよね、カロリー爆弾! 葉乃も合わせよーよー」
 美里が面白がって言うと、葉乃も私のトレイにポテトをあけた。
「そうだ、ゆず! コレ見てよ〜」
 美里がじぶんのスマホを私に見せてくる。
「なになに?」
 私は身体を寄せて、美里のスマホを覗き込む。
「猫動画!」
「あぁ、メメちゃんだっけ?」
「そう! うちの猫ね、マジで面白いの。お菓子の箱をガサッてするだけで、飛んでくるんだよ〜」
「わっ! ほんとだすごっ!」
「でしょー!」
「なにこれ、超可愛い」
 美里が見せてくれた動画を見て笑っていると、ふと向かい側に座っている葉乃がぽつんとしていることに気がついた。
「あっ、葉乃はメメちゃんのこの動画、もう見た?」
 慌てて話を振ると、静かにポテトを食べていた葉乃が顔を上げる。
「……え、あ、ううん。まだ見てない」
 いつもより少し低い声にひやひやする。
「葉乃も見てよこれー!」
 美里は葉乃の様子には気付いていないのか、いつもの調子でスマホを葉乃に向ける。
 美里が話しかけると、葉乃のどこか強ばっていた表情がふっと緩んだ。
「ほんとだ、可愛い」
「ねーっ!」
 いつも通りの葉乃に安堵して、私は立ち上がる。
「美里、ちょっと出してもらってもいい?」
「はいよー。トイレ?」
「いや、喉乾いたから、ドリンクだけ買ってこようかなって」
「それなら私の飲む? 結構量多くて飲み切れないから」
「えっいいの? じゃあもらおうかな。今度学校でいちごミルク奢るね」
「おっ! やった〜!」
 結局美里がそのまま奥へ入り、私はそのとなりの通路側に座り直して美里のコーラをもらう。
「わーちょっとぬるい」
「あは! 正直!」
「でもありがと」
「あ、これも食べてみ? 美味いよ!」
 美里が、ずいっとハンバーガーを私の前に突き出してくる。
「照り焼きチーズだっけ?」
「そーそー! 私のお気に入り!」
「ありがとー。あ、ほんとだ、美味しい!」
 美里と葉乃と三人でポテトをつまみながら話していると、気が付けば既に外は陽が傾いていた。
「そろそろ帰ろっか」
「だね」
 駅で美里と別れ、葉乃とふたりで電車に乗り込む。
「はぁ〜楽しかったね」
「……ねぇ、柚香ってさ、一年のとき一組の島本(しまもと)さんたちと仲良かったよね」
 座席に座る葉乃の正面で、吊革に体重を預けたまま首を傾げる。
「え? うん、まぁ中学が一緒だったからね」
「今も仲良いの?」
「たまに映画とか誘われたりはするけど、メッセのやりとりとかはそんなしてないかなぁ」
 でも、どうしてそんなことをいきなり訊くんだろう。
 葉乃を見るが、俯いているせいで表情は見えない。
「葉乃、なにかあった?」
「え?」
 葉乃がようやく顔を上げる。
「ううん。柚香って、本当にいい子だなって思って」
「えーなにそれ。茶化さないでよ」
「茶化してないって」
 よかった。いつもより暗い気がしたけど、ふつうに笑ってくれている。
『まもなく、乾多(かわた)。乾多。お出口は、左側です』
 電車のアナウンスが流れ、葉乃が鞄を肩にかけて立ち上がる。
「じゃあ、行くね」
 ドアの前へ向かう葉乃に、私はいつものように「また明日ね」と手を振る。
 ドアが開くと、葉乃は私から視線をすっと外して、電車を降りた。
 ふっと息を吐き、私は葉乃が座っていた場所に座る。座った途端、肩の力が抜けた。
 向かいの車窓から見える景色は、燃えるような真っ赤な夕焼け。
 チカチカと眩しい。
 ――今日も外キャラ疲れた……。
 美里や葉乃と一緒にいるのは楽しいけれど、どうしても気を遣う。
 いつの間にか勝手に作られたイメージの『私』を演じなきゃいけないから。
 学校は、真空状態だ。
 酸素がない。
 ――……頭痛い。
 私は視界を潰すように、ぎゅっと目を閉じた。
鎌栄(かまさか)ー、鎌栄ー。お出口は、右側です』
 自宅の最寄り駅につき、よろよろと電車を降りる。
 駅の時計を見ると、時刻はまだ午後五時を過ぎたところだった。
 このまま帰ったら、いつもよりずっと早い帰りになる。
 普段なら、今頃はまだ家の近くのファミレスでひとりで勉強している時間だ。けれど、今日はなんとなく勉強する気分にはなれなかった。
 ――今日はもう帰ろう……。
 お母さんに『今から帰るね』とメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
 返信が来る。
『気を付けてね』
 可愛いスタンプも送られてきた。
 顔を合わせるとお姉ちゃんの話しかしないくせに、メッセージだとふつうの母親みたい。
 ――私のことなんてどうだっていいくせに……。
 そう思いながら、私はスマホの電源を落として制服のポケットにしまった。

 その日の夜、晩ご飯を済ませた私は、じぶんの部屋で動画を見ていた。
 今日美里に見せてもらった猫の動画がすごく可愛かったから、寝る前に動物の動画を見て癒されようと思ったのだ。
 SNSで検索してみると、たくさんの動画がヒットする。
「こんなにあるんだ……」
 猫とカワウソの動画を見ていたとき、部屋の扉が叩かれた。
 スマホの画面を消し、「はーい」と扉に向かって返事をする。
「私だけど。入ってもいいー?」
 お姉ちゃんの声だった。私は扉のほうを向き、返事をする。
「いいよー」
 声をかけると、すぐに扉が開いてお姉ちゃんが入ってきた。
「……あ、ごめん。もしかして勉強してた?」
 お姉ちゃんがちらりと机を見る。
「……ううん、開いてただけ。なんかやる気にならなくて」
 そう返しながら、私は開いていた問題集を閉じた。
 お姉ちゃんは私のベッドに腰を下ろしながら、そばにあったクマクッションを膝の上に置いて抱き締める。
 お姉ちゃんは帰宅したばかりなのか、外着のままだった。
 黄色の薄いハイネックに、スキニーっぽいジーンズ。
 初めて見る服だ。
 ――……またお母さんに買ってもらったのかな。私は服なんて、しばらく買ってもらってないのに。
「……どうしたの? こんな時間に」
 私は椅子をくるりと回転させた。
「うん……ま、最近どうかなって? 勉強とか学校とか、いろいろ」
「べつに……ふつうに順調だと思うけど」
「そっかそっか……」
 お姉ちゃんは少し目を泳がせた。
 なんだろう。
 言いたいことがあるならはっきり言ってほしい。
「なに?」
 少し強い口調で訊くと、お姉ちゃんはようやく口を開いた。
「いや……お母さんがさ、今日柚香の三者面談だったって言ってたから」
「……そうだけど」
 なにを聞きたいんだろう。お姉ちゃんには、私の進路なんてなんの関係もないはずなのに。
「あのさ、柚香」
 お姉ちゃんは、膝の上のクマクッションをいじりつつ、ちらりと私を見た。
「大学、本当に青蘭医大にするつもり?」
「……うん、今のところはだけど」
「なんで?」
 ――なんで?
 私は思わず眉を寄せた。
「は? なんでって、なにが?」
「柚香、医者になりたいの? そんな話、柚香の口から一回も聞いたことないけど」
 ストレートな言葉とどこか批難するような視線に、私はなにも言えなくなる。
「柚香が青蘭医大を受験したい理由ってさ、お母さんに言われたからなんじゃないの?」
 どきりとする。
「……違うよ」
 否定した声は、弱々しく空間に溶けて消えていく。
「あのさ、こんなこと言いたくないけど、ちゃんとした理由もないのに青蘭来たって、たぶん勉強についていけないよ。高校と違って、周りはみんな受験を突破してきてるとんでもなく頭いい子たちばかりなんだからね」
「……そんなの、言われなくたって分かってるし」
 国立医大に入れば、周りにはお姉ちゃんのような本物の秀才だらけなんだろう。
 だから、私だって勉強してる。
 二年のうちからB判定。まだ一年ある。状況は悪くないはずだ。
 お姉ちゃんがちらりとベッド脇の本棚を見る。
 本棚には、勉強しつくしてぼろぼろになった大量の参考書や教材が詰め込まれている。
 バカにするような眼差し。
 恥ずかしさや悔しさや、ほかにもいろんな感情がとぐろを巻いて、目頭がカッと熱くなる。
「……なにそれ」
 じっとりといやな汗が手のひらに滲んでいく。私は汗ばんだ手をぎゅっと握り締めて俯いた。
「お姉ちゃんはわざわざ、私には青蘭医大は無理だって言いにきたわけ?」
 低い声が出る。苛立ちを露わにした私に向かって、お姉ちゃんは呆れたようなため息を漏らした。その見えないため息は、私の胸を深く抉る。
「そうじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
 私には、そう言っているようにしか聞こえない。
 コツを掴むのが早く、大体のことはそつなくこなせる天才形のお姉ちゃんと違って、私は不器用だ。
 人並み以上の努力をしないと、お姉ちゃんには追いつけない。
 おまけに幼い頃からお姉ちゃんと比べられてきたせいか、人前で努力することも苦手だった。
 美里や葉乃の前では、強がっているだけだ。
 塾に行っていないのは本当だが、実際は放課後、門限まで毎日ファミレスで勉強している。
 できて当たり前。私の家は、そういう家。
 失敗した。
 こんなことなら、帰ってこなければよかった。
 いつものように近所のファミレスで勉強していればよかったんだ。そうすれば、こんな惨めな思いしなくて済んだのに。
 ――勉強サボろうとしたから、バチが当たったのかな……。
 お姉ちゃんはきっと、必死に勉強する私に呆れているんだろう。
 そんなに努力しても、この程度なんだとか思っているんだろう。
「柚香、あんたもうすぐ十七歳でしょ。ちゃんと現実を見なさいよ。いつまでもお母さんに甘えてないで」
 ――甘える?
「べつに……甘えてなんか」
「いい加減、ちゃんと考えなさいよ」
「……考えてるつもりだし」
「つもりじゃダメでしょ」
「…………」
 私は、甘えているのだろうか。
「……うるさいなぁ」
「私は柚香のことを思って言ってんのよ」
 ――柚香のことを思って?
 なにそれ。
 私のなにを思ってるっていうんだろう。
 私のなにが分かってる?
 私の本心に気付いてるなら、やること違うでしょ。わざわざ追い詰めるようなこと言わないでよ。
 なにかが切れるような、プツンという音が聞こえた気がした。
「……意味分かんない。……お姉ちゃん、私のなにを思って言ってるの? 私の気持ちなんてなんも分かってないくせに」
「はぁ?」
「しかもなに。じぶんは受かったからって上から目線? 何様なわけ? そーゆうの、マジでウザくてストレスだからやめて」
 お姉ちゃんの眉間に皺が寄る。
 お姉ちゃんの鋭い眼差しに睨まれ、私も負けじと睨み返した。
 なんで親でもないお姉ちゃんに責められなきゃいけないの?
 夢がないのって、そんなに悪いこと?
 夢を持っていることって、そんなに偉いことなの?
「……柚香っていつもそう。言い合いになっても感情的に喚くだけ。言いたいことがあるならもっと具体的になにが不満なのか、はっきり言ってみなさいよ」
 ――仕方ないじゃない。
 怒ってるときに頭なんて回らないよ。
 感情が先に立つに決まってるじゃん。
「……言わない」
「なんで?」
 言いたいことなんて、いっぱいある。
 みんながお姉ちゃんみたいに夢を持てるわけじゃないし、面談のときだって、お母さんはずっとお姉ちゃんの自慢話ばっかりだった。
 私の面談なのに。私はこんなに頑張っているのに。
 ……だけどそれは、結局じぶんが平凡な人間であると言っているようなもの。
 わざわざ口にしたって、虚しくなるだけだ。
 だから言わない。
「お姉ちゃんになんか、言いたくないから」
「……あっそ」
 物心ついた頃から、お姉ちゃんには『医者になる』というはっきりとした意思があった。
 終着駅が決まっているお姉ちゃんは、目的地に着くまでただ電車に乗っていればいいだけ。
 そんなひとに、私の気持ちなんて分からない。迷子の私の気持ちなんか。
 黙り込んだままの私に、お姉ちゃんがまたため息をつく。
 私は涙がこぼれ落ちないように、ぐっと手を握った。
「ま、べつに私の人生じゃないし、どうでもいいけど。ただ、大学は高校なんかよりもずっと自由なんだからね。入ってから思ったのと違ったとか、お母さんに言われたからとか、そういう下らない文句を言うのはやめなよ」
 突き放すような言いかたに腹が立ち、私はとうとう声を荒らげる。
「分かってるよそんなこと! だから、そういうのがウザいって言ってんじゃん!」
「あぁ、そう! だったらもう勝手にすれば!」
 お姉ちゃんはクマクッションを投げ出し、立ち上がった。その拍子にクッションが床に落ちる。
「ちょっと! クッション落ちたんだけど!」
 私を無視して、扉へずんずんと歩いていく。
 バタン、とけたたましい音を残して、お姉ちゃんが部屋を出ていく。
 耳鳴りがするくらいの静寂が戻る。
 途端に虚しさが荒波のように押し寄せてきて、私は下唇を噛み締めた。
 みるみる、目に透明な涙の膜ができる。
「……なによ」
 くだらない?
 文句を言うな?
 そんなこと、いちいち言われなくても分かってる。
 私は無造作に落ちたクッションを取り上げ、ベッドに投げる。
 ベッドの上で弾んだクッションが、再び床に落ちた。
「あぁ、もう!」
 そもそもこれまで、一度も文句なんて言っていない。それなのに、なんでわざわざ言われなきゃならないんだろう。
 クッションを拾うため、軽く屈むと涙が頬をすべり落ちた。
 両手でごしごしと目元を拭うけれど、涙は引くどころか溢れてくる。クッションに、小さな染みがぽつぽつと広がる。
「私だって……」
 お姉ちゃんみたいに夢があったら。
 そう、何度思ったか分からない。
 お姉ちゃんと違って、私にはなにもないから。
 お母さんに言われるままに勉強して、なにが悪いの?
 だからこそ分かる。国立有名大学の医学部に現役合格したお姉ちゃんは、天才だ。
 ――柚香もお姉ちゃんみたいに立派にならないとね。
 お母さんの口癖。
 ――柚香ちゃんは、立派なお姉ちゃんがいていいわねぇ。
 いつも、だれからもそう言われてきた。
 ――柚香ちゃんもきっと、お姉ちゃんみたいに優秀なんでしょうね。
 いつだって、私はおまけ。
 お姉ちゃんはすごい、と言われることがあっても、柚香ちゃんはすごい、と言われることは決してない。
 どれだけ努力しても、お姉ちゃんには追いつけない。
「バカみたい……」
 どうしていつもこうなんだろう。
 いつも感情を抑圧しているせいか、お姉ちゃんの前では抑えられなくなる。
 じぶんがいやになる。
 お姉ちゃんの言いたいことは分かる。
 私はお姉ちゃんみたいにはっきりと医者になりたいと思ってるわけじゃない。志もないのに同じ医大を目指すなんて、お姉ちゃんには目障りに映って仕方がないのだろう。
 ――でも、だからって。
 分かっていることをわざわざ言わないでよ。
 そんな目で見ないでよ。
 これでも、私なりに頑張っているんだよ。
 お姉ちゃんを前にすると、私はどんどんいやな人間になる。
 やっぱり、家で勉強なんてするんじゃなかった。

 翌朝、お姉ちゃんと顔を合わせるのが気まずかった私は、いつもより少し早く起きて家を出た。
 玄関を出たところで、灰色の空が視界に入る。
 今にも雨が落ちてきそうな空模様だ。
 私は一度立ち止まって、鞄の中に折りたたみ傘が入っているのを確認してから、家を出た。
 昇降口に入ったところで、傘立てにひとつビニール傘が置いてあるのに気付く。
 まだ校舎が開いて間もないはずなのに、私より早く学校に来ている生徒がいるとは思わなかった。
 しかも、傘が置いてあるのは私のクラスの傘立てだ。
 だれだろう、と思いながら教室へ向かう。
 扉に手をかけて、引こうとしたその手を止めた。
 教室にいたのは、クラスメイトの音無(おとなし)優希(ゆうき)くんだった。
 音無くんとは一年のときから同じクラスだ。けれど、あまり会話という会話を交わしたことはない。
 その理由は……。
「清水?」
 扉越しに、呟くような声が聞こえてハッとする。目が合った。
 ……バレてしまった。もう逃げられない。
 私はそろそろと扉を開けた。
「おはよう」
 緊張しつつ挨拶をすると、音無くんが振り返った。
「おはよ。早いな」
 音無くんから挨拶が返ってきてほっとする。
「うん。今日はなんだか、早く目が覚めちゃって。音無くんこそ、いつもこんなに早いの?」
 じぶんの机に鞄を置きながら訊ねる。
「あー、うん。俺、朝型だから、早起きして勉強するほうが集中できるんだ」
「へぇ……そっか」
 羨ましい。私は朝は苦手だ。
「清水も勉強?」
「うん……自習室でやろうかなって思って」
 ――うそ。
 本当は、教室で自習するつもりだった。
 でも、よりによって音無くんがいるなんて。
 さすがにふたりきりは気まずい。
 音無くんだって、いつもひとりで勉強しているなら、私がいると気が散ってしまうかもしれないし。
 鞄から英語の単語帳を取り出すと、私は音を立てないようこっそりと教室を出ていく。
 教室を出る直前、音無くんの視線を感じたけれど、私はそれに気付かないふりをした。
 音無くんと喋ったのは、告白されたあの日以来だった。
 友達としてよろしく。
 あの日、告白を断ったとき、音無くんにはそう言われたけれど。
 ――無理だよ。
 なにを話せばいいのか分からないし、どうしたってあの日のことが過ぎってしまう。
 実際にそんなふうに気を遣わずにいられる男女なんて、この世にいるんだろうか。


 ***


 八時少し前になったところで、私は教室へ戻ろうと自習室を出た。廊下には、既に登校してきた生徒たちの姿がちらほらとある。
 階段を降りて教室がある二階に差し掛かると、ちょうど階段を上がってきた生徒に声をかけられた。
「あれ? 柚香早くない?」
 振り向くと、美里と葉乃が教室へ向かってきていた。
「あ、美里、葉乃! おはよう。今日はちょっと早起きしちゃって」
「へぇー珍し。柚香って朝苦手じゃなかった?」
「うん、苦手」
「だよね」
 ふたりと一緒に教室に入りながら、ちらりと窓際を見る。
 音無くんは、近くの席の男子と談笑していた。
「ゆず、今日何時に来たの?」
 美里に声をかけられ、我に返る。
「えっ? あ、えっと六時半くらい、かな……」
「えー! メッセージくれたら私たちも早く来たのに! ねぇ、葉乃」
 と、美里が葉乃に話を振る。
 葉乃はそれについてはなにも言わず、じっと私を見上げて言った。
「それより、そんな早く来たってことは音無いたでしょ?」
「えっ」
 思わず声を上げる。
 ちらりと、窓際の席を見る。
 黒髪のさらさらとした猫っ毛に、優しげな瞳。
 朝からたくさんのクラスメイトに囲まれる音無くんは、さながら太陽系のようだ。
 ――そういえば、音無くんってモテるんだった。
「音無くんが朝早いこと、葉乃知ってたの?」
「まぁね」
 声をひそめて訊く私に、葉乃は涼しい顔をしたまま答える。
「あらまぁ。じゃあなに、ふたりで話した?」
 美里の『ふたりで』という言葉に、びくりとする。
「いや……」
 理由を知る美里が、にまにましながら私の肩を小突く。
「挨拶だけだよ」
「ほんとかぁ?」
「ほんとだって。もう、あんまり話してると聞こえちゃうからやめてよ。ほら、もうチャイム鳴るし、早く席つこ?」
「はーい」
 ふたりが音無くんとの関係についてしつこい理由は、前に私が音無くんからの告白を断ったことを知っているから。
 ふたりは音無くんが私に気があることを既に知っていたらしく、私が音無くんと距離を取り始めると、すぐに勘づいて関係を追及してきた。
 そのため、なにかあるたびこうやってちょこちょことからかわれる。
『――好きなんだ。清水のこと』
 当時私は音無くんのことをよく知らなかったし、その告白を断ってしまった。
 二年に進級するとき、六クラスあるからさすがにもう同じクラスにはならないだろうと思っていたけれど……。
 ちらりと音無くんを見ると、運悪く目が合ってしまった。
 ハッとして目を逸らす。逸らしてから、しまった、と思った。
 今の態度はちょっと印象が悪かったかもしれない。
 音無くんと目が合うと、私は未だに緊張してしまう。
 音無くんのほうはもう、ぜんぜん私のことは意識していないみたいだけれど。
「そこで音無くんの話をぺらぺらとしないところがゆずだよねぇ」
 美里がのんびりとした声で言った。私は笑って「なにそれ」と返す。
「柚香はいい子だから」
 不意に、葉乃がどこかバカにしたように笑った。
「……え」
 どくっと心臓が大きく跳ねる。背筋に氷を入れられたような心地になった。
 葉乃を見るが、目が合わない。葉乃はじっと、窓の外のどこか一点を見ていた。
 ――なんだろう、この感じ……。
 一瞬で手汗が噴き出す。
 葉乃の今のひとことは美里のひとことと違って、若干、皮肉が混ざっているような気がする。気のせいだろうか。
「もー……からかわないでってば」
 どうにか笑みを浮かべて言い返すと、葉乃は「ごめん」と笑った。
 ――なんだ、ふつうだ。
 いつもと変わらない笑顔に、ほっとする。
 ほどなくして始業のチャイムが鳴り、私は内心ほっとして自席についた。
 すぐに、先生が入ってくる。
「ほら早く席につけー」
 先生の登場に、それまで騒がしかった教室は一気に静かになり、生徒たちはそれぞれ自席へとつく。
 机の中から文庫本を取り出し、文章を目で追うものの、ページは一向に進まない。
『柚香はいい子だから』
 葉乃のあの顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
 私はなにか、葉乃を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
 考えてみるけれど、思い当たる節はなかった。


 ***


「ゆずー。これから星カフェ行かない?」
 放課後、終礼のチャイムが鳴り止むと同時に、美里に声をかけられた。
「星カフェ?」
「昨日で全員面談終わったし、パーッと星カフェでスイーツ食べに!」
「くだらな……」
 葉乃が呟きながら私の席までやってくる。
「柚香、星カフェって知ってる?」
「あぁ、うん。駅近くのお店だよね」
 星カフェ『ミカヅキ』は、最近この街にできた店だ。店主はイケメンと噂の青年で、特に若い女子に人気がある。
「そ。美里、あそこの常連なの。店主のお兄さんがイケメンなんだって」
 案の定、美里はイケメン店主が目当てのようだ。
「あぁ……なるほど」
 いつもながら、こういう提案をするのは美里だ。
 彼女はいつも、行きたい、やりたいということを羨ましいくらい素直に口にする。
「マジ、めっちゃイケメンなんだよ! ゆずも会えば分かるって!」
「ふーん……」
 心ここに在らずの反応をしていると、葉乃が笑った。
「柚香はイケメンとか、興味なさそうだね」
 ぎくりとした。
「……え、いやべつにそんなことはないよ。私も何回か行ったことあるし」
「えっ! 意外! じゃあ春希(はるき)さんに会ったでしょ? どうだった? かっこよかったでしょ!?」
「あー……」
 春希さん、というのが店主の名前らしい。というか、名前まで知っているとは。
 美里は私が星カフェに行ったことがあるというのが意外だったのか、身を乗り出して聞いてくる。
「わ、私は友達の付き添いで行ったから、正直あんまり覚えてないんだよね」
「えーあんなイケメンなのにー?」
 本当は覚えていたが、覚えていると言ってもそれはそれで反感を買いそうだったので、私は笑って濁した。
「あ、でもゆずが春希さんのこと好きになっちゃったら勝ち目ないから、逆によかったかも!」
 ほら、やっぱり。口にしなくて正解だった。
「あーハイハイ」
「ちょっ、興味ないの分かりやすすぎだよ、葉乃!」
「だって興味ないんだから仕方ないじゃん」
「ひどーい!」
 葉乃にあしらわれた美里が私に泣きついてくる。
「ゆず〜! 行かない?」
 美里の懇願するような眼差しに、私は困惑気味の声を漏らす。
「うーん……」
 正直、今日こそはがっつり勉強したい。
 ――……でも。
 ここで断ったら、きっとふたりの印象が悪くなってしまう。
 ただでさえ今日は葉乃の機嫌もあんまりよくないみたいだし、学校は勉強も大切だけど、なにより大切なのは友人関係だ。友達を失ったら、それはすなわち学校での居場所を失くすということ。
 ここは、星カフェを優先させたほうが面倒が少なそうだ。
「うん、いいよ」
「ほんと!? やったー! ありがとねっ、ゆず!」
「ううん、楽しみだね」
 心の中の思いを誤魔化すようにして、私は美里に笑顔を向ける。
「楽しみ! ねぇ葉乃! 葉乃も行くよね!?」
「あー私はいいや。ふたりで行ってきて」
 いつも美里に誘われると断ったりしない葉乃が、珍しくノーと言う。
 私は少し驚きつつ、葉乃の様子をうかがう。
「えー葉乃も行こうよ」
 美里が食い下がるが、葉乃は変わらず首を横に振った。
「ごめん。今日はちょっと用事があるから」
 そう言って、葉乃はちらりと私を見た。すぐに逸らされる。
 ――なに、今の。
 その視線に、少なからず意図を感じる。動けなくなる私を葉乃は無視して、美里へだけ視線を向けて言った。
「次は行くから」
 ごめんね、と謝りながら、葉乃は自席に戻って帰り支度を始める。
「ちぇー。なんだあいつー。ね、ゆず。じゃあ今日はふたりで行こ?」
「……あ、うん……」
 ――もしかして、私、避けられてる?
 心臓が再び加速していく。
 ――でも、どうして?
「ゆず?」
 気づかないうちに、私は葉乃になにかをしてしまったのだろうか。
 心当たりがなく、私は困惑する。
「ゆずー行こーよー!」
 美里が、用意を終えて私の元へやってくる。不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
 私は慌てて笑みを作る。
「あ、うん……」
 鞄を肩にかけながら、戸惑いがちに葉乃を見る。葉乃は一度こちらを見たものの、私の視線を避けるようにそそくさと教室を出ていってしまった。
 ――もしかしたら、葉乃は私が誘いを断ることを期待してた?
 葉乃は星カフェに、美里とふたりで行きたかったのかもしれない。
 ふたりは幼なじみだし、小学校から一緒だ。
 ふたりの中に突然新参者の私が入って、気を悪くしている。大いに有り得る可能性だ。
 私は美里に声をかけられたことがきっかけで仲良くなったが、葉乃のほうは、美里が私と仲良くしているから仕方なくそばにいてくれているだけで、もともと私のことは好きじゃなかったのかもしれない。
 もし、そうなら。
 ――今まで葉乃は、我慢して私と接してたのかな……?
 ぐるぐる考え込んでいると、ふと窓際にいた男子と目が合った。
 音無くんだ。
 私たちの話が聞こえていたのかもしれない。
 目が合った瞬間、音無くんは私からパッと視線を逸らした。
 ――今日はみんなに目を逸らされるな……。
 私は重い気分のまま、美里と星カフェに向かった。


 ***


 星カフェは、学校の最寄り駅のすぐそばにある。
 店の周りを淡いブルーの電球が彩ったその店は、放課後ということもあって地元の学生で賑わっていた。
 運良く二人がけの席がひとつ空いていたため、待たずに店内に通される。
「いらっしゃいませ。こちらメニューになります」
 席に着くと、女性の店員さんがメニューとお冷を持ってきてくれた。
 メニューを渡されると、美里はそのメニューで顔を半分隠しながら小声で囁く。
「見てみてゆず! あのカウンターの奥にいるひと! あのひとが春希さんだよ」
 美里の視線を追いかけるように、何気ない仕草でカウンターを見る。
「あぁ……ほんとだ。かっこいいね」
「でしょー! ねね、ゆずは彼、いくつくらいだと思う?」
「うーん、見た感じは大学生くらいかな? ……でも、店長ってことはもっと上なのかな?」
 美里は春希さんを熱い眼差しで見つめながら、
「はぁ〜。彼女いるのかなぁ」
 と呟いていた。
「あっ、それより注文しよ! ゆずはなににする?」
「うーん、そうだなぁ」
 メニューを見ると、甘いドリンクやカロリーの高そうなケーキの名前がずらりと並んでいる。
 その中に、大好きなガトーショコラもあった。
 ――どうしよう。最近ちょっと太ったから節制していたけど、今日くらいは気にせず食べてもいいかな……?
 最近いろいろあってむしゃくしゃしていたし、甘いものを我慢せず食べたい気分だ。
「私は……」
 これにする、と言おうとしたところで、美里が話しかけてきた。
「あっ、ねぇ、ゆずってムース好き? 私このラズベリーのムース気になってるんだけど、こっちのプリンも気になってるんだよね〜。一緒に頼んで半分こしない?」
「あー……」
 ラズベリーは好きだけど、プリンはちょっと苦手だ。でも、もしここで私が断ってしまったら、葉乃とくればよかったと思われるかもしれない。
 葉乃にきらわれて、しかも美里にまで愛想を尽かされてしまったら、私は今度こそひとりになってしまう。
 頷く以外の選択肢は、私にはなかった。
「……いいよ。じゃあそのふたつにしよ!」
 笑顔で言うと、美里は嬉しそうに笑った。
「ありがと〜! じゃ、頼むね!」
 せっかく誘ってくれたんだし、来たいと言っていた美里に合わせてあげるのがきっと正しい。
 じぶんの心にそう言い聞かせて、私は楽しそうな美里を向かいの席から眺めていた。
 ほどなくしてラズベリーのムースとプリンが届き、美里がはしゃいだ声を出す。
「うわぁ〜美味しそう!」
 ムースをつつき合いながら、美里と他愛のない話をする。
「そういえばさ、美里と葉乃ってどうやって仲良くなったの?」
 話の中で、私は思い切って葉乃のことを美里に訊ねてみた。
「んー? なに急に」
 美里がきょとんとした顔で、私を見る。
「や……なんとなく気になって」
「まぁ、葉乃とは小学校から一緒だったからねぇ。ふつうに仲良くなったよ。きっかけとかはべつにないかなぁ。話してみたら楽しかったから一緒にいる、みたいな? なんつーか、友達ってそんな深く考えるもんじゃなくない?」
「……そっか」
 純粋なその眼差しを見て、あらためて思う。
 美里はいい子だ。
 いつも明るくて、思ったことをはっきりと言える美里は、みんなに好かれている。
 ただ、そういう美里のはっきりとした性格が合わないという子もクラスには数人いる。
 そういう子たちが、影で美里の悪口を言っていたりするところもたまに見かけるけれど、美里はそれすら気にしていない。
 私だったら、彼女たちの視線が気になって学校に行けなくなっているかもしれないけれど、美里はそんなことにはならない。
 ――羨ましい。
 美里は学校が楽しそうで。
 鼻歌交じりにケーキを食べる美里を眺めながら、私は心の隅でそんなことを思った。


 ***


 美里と別れたあと、私はほぼ毎日のように通い詰めている地元のファミレスに入った。時刻は午後四時前。門限は七時だから、あと三時間は勉強できる。
 昨日はサボってしまったから、今日こそはちゃんと勉強しなくては。
 いつもと同じいちばん端の窓際の席に座って、ドリンクバーだけ注文すると、私は鞄から物理の問題集を取り出し、勉強を始める。
 私はいつも、このファミレスで勉強をする。
 基本、学校が終わってから夕飯七時まで。
 家にいるのは窮屈だったし、かといって図書館だと同じ高校のひとがいたりして気が散って集中できない。
 その点、ここなら高校からも適度に離れているから、四季野宮学園の生徒はあまり来ないし都合がいいのだ。
 だから私は、ここで――だれも私を知らないこの場所で勉強する。
 そうすれば、偏見の目で見られることはないから。『かわいそう』と言う目で見られずに済むから。
 勉強を始めて数時間が経っていた。
 動かしていた手を止め、きゅっと目頭を押さえる。
 ――頭痛い。
 疲れた。
 もうやめたい。
 私は、あとどれだけ勉強すればいいんだろう。
 あとどれだけやれば、認められる?
 大学に受かる?
「だれか教えてよ……」
 ひとりごちる。
 もうやめたいけれど、家に帰るわけにはいかない。
 いつもより早く帰ったら、お母さんにまた、あなたはお姉ちゃんと違ってと小言を言われかねない。
 けれど、将来の夢も目標もない私にとって、勉強は苦痛以外のなにものでもない。
 でも、私はお姉ちゃんのような天才じゃないから、努力しなければならない。
 お姉ちゃんは優秀なのに、妹は残念ね。
 そう言われないように。
 馬鹿なままでは、私に価値はないから。
 お母さんの言う通りにしないと、呆れられてしまうから。
「こちら、どうぞ」
 レモンサイダーで喉を潤し、再び問題集に目を通していると、目の前にお皿が置かれた。
 え、と顔を上げる。
 お皿にあったのは、今日食べ損ねたガトーショコラだった。雪のようなぽてっとした生クリームつきだ。
 美味しそうだけど、これは私が頼んだものではない。
 皿をすっとテーブルの脇、店員さんの前に置く。
「あの……これ、違います。私、ケーキなんて頼んでません」
 言いながら、ガトーショコラを持ってきた店員さんを見上げて、思わず「えっ」と声を上げる。
「お、音無くん……!?」
「はは。気づくの遅いよ」
 ガトーショコラを運んできてくれたのは、クラスメイトの音無くんだった。
 こんなところで会うなんて思いもしていなかった私は、驚いて瞳を瞬かせる。
「え、な、なんで……」
 困惑する私に、音無くんは苦笑混じりに言った。
「俺、ここでバイトしてるんだ」
 呆然とする私に、音無くんは続ける。
「なんなら俺、何回か清水に接客してたんだよ」
「えっ! う、うそ!?」
 衝撃的な事実に、私は目を丸くした。
「清水、いつもすごく集中して勉強してたからな」
 頬の辺りがじわじわと熱くなってくる。
 これまでずっと音無くんに勉強しているところを見られていたと思うと、恥ずかしくて逃げ出したくなる。
「あ……あの、私がここで勉強してたこと、みんなには黙っててくれない?」
「え? ……あ、うん、まぁいいけど」
 音無くんは不思議そうな顔をしながらも、こくんと頷いた。
 その目を見て、ふと告白されたときのことを思い出した。
『好きなんだ』
 まっすぐに私を見て、音無くんは言った。
 私はその告白が、不思議でならなかった。
 音無くんは人気者だ。頭もいいし、運動もできる。その上朗らかな性格をしているから、いろんなひとに囲まれている。
 そんなひとが、なんで私なんかを好きになってくれたんだろうと思った。
 挨拶を交わす以外、ほとんど話したことがないから、音無くんは私のことなんてなにも知らないはずだ。知っているとすれば、優等生の仮面を被った私だけ。
 もし音無くんが本当の私を知ったら、どう思うだろう。
 ……きっと、離れていくんだろう。
 そんなひとだと思わなかった、とか言われるかもしれない。
『ごめんなさい』
 音無くんのことは、それが怖くて断ったのだ。
 今は受験に集中したいからなんて、もっともらしい理由をつけて。
 私は本音を隠し、音無くんにうそをついた。
 あのときの音無くんの傷ついた顔は、今もときどき思い出す。
「……あのさ」
 俯いていると、音無くんが控えめに声をかけてきた。
「俺、あと三十分くらいでバイト終わるんだけど、終わったら少し話できる?」
「え?」
「それまでにこれ食べちゃって! サービスだから」
 音無くんはそう言って、私の返事も聞かずに厨房へ戻っていってしまった。
 ――三十分。
 時計を見る。
 時刻は午後六時。あと三十分なら、門限には間に合う。
 ひとり取り残された私は、テーブルにぽつんと置かれたガトーショコラを見る。
 音無くんはサービスと言ったけれど、本当にもらっちゃっていいのだろうか。
 迷いつつケーキを見ていたら、思い出したようにお腹が鳴った。
 そういえば、ファミレスに入ってかれこれ三時間以上経つけれど、ドリンクバーだけで食べ物はなにも注文していなかった。
 ケーキをそろそろと引き寄せ、フォークを手に取る。
 フォークを刺すと、ずっしりとした生地の感触が手に伝わる。
 甘さ控えめのチョコレートと生クリーム。
「……美味しい」
 ちらりと厨房のほうを見るけれど、音無くんの姿はない。
 ふと、疑問が浮かぶ。
 音無くんは、いつからここでバイトしていたんだろう。私がこのファミレスに通い始めたのは、一年の夏前くらいだった気がする。
 もしかしたら、その頃からずっとすれ違っていたのだろうか。
 気づかないところで見られていたかもしれないと思うと、やっぱり恥ずかしさが込み上げてくる。
 私は、頬の熱を誤魔化すようにガトーショコラを口いっぱいに頬張った。

 ずっと、気になってるひとがいた。
 いつもにこにこしていて、なんでもこなす天才的なひと。
 でもあるとき、たまたま街で見かけたそのひとは、険しい顔をして、問題集と向き合っていた。
 難しい問題なのかな。
 気になるな。
 完璧だと思っていたひとは、努力の天才だった。
 繊細で、とても優しいひとだった。
 親近感が湧いた。
 君が同じような悩みを持っていると知って、驚いたけれどそれ以上に嬉しかった。
 力になりたいな。
 やっぱり、好きだなぁ。
 想いは、そう簡単に消えることはないのだと思い知らされた。


 ***


「おまたせ」
 しばらくして、制服に着替えた音無くんが私のテーブルにやってきた。
「あ……うん。お疲れさま」
 音無くんは片付いたテーブルを見て、
「勉強はもう終わり?」
 と訊ねる。
「うん」
「じゃ、もう帰る?」
「あ、うん。じゃあお会計だけしてくるから、外で待ってて」
「分かった」
 会計を済ませ、外へ出ると、音無くんが店の入口に立って待っててくれていた。
 私は声をかけながら、音無くんのもとへ駆け寄る。
「ごめん、おまたせ」
 声をかけると、スマホを見ていた音無くんが顔を上げた。そのままじっと見つめられ、私は首を傾げる。
「……音無くん?」
 どうしたんだろう、と思っていると、音無くんは我に返ったように瞬きをした。
「ご、ごめん。帰ろっか」
「うん」
 くるりと身体を回れ右させて歩き出す音無くんのあとに続く。
 何気なくその背中を見ていて気が付く。
 音無くんの耳は、僅かな光しかない中でもほんのり赤らんでいるように見えた。
 ――……もしかして、緊張してるのかな。
 音無くんの緊張の理由が、私にまだ気持ちが残ってるからなのか、私がふだんあまり話さない異性だからなのか、はたまたそれ以外なのかは分からないが。
 もちろん私も、かなり緊張している。
 男子とふたりきりで話すこともあまり慣れていないし、音無くんがそもそも、どういう気持ちで私を誘ったのかも分からない。
 空を見上げる。
 星なんてひとつも見えない曇天模様だ。
 そういえば、さっきまで雨が降っていた気がしたが、帰るタイミングで止んだようだ。
 夜の街は、まだ雨の匂いに包まれている。
「そういえば今日、ずっと雨だったよな」
 沈黙の中、先に口を開いたのは音無くんだった。見ると、音無くんも空を見上げている。私は頷く。
「そうだね。ちょうど止んだみたいで、タイミング良かったね」
「……清水は、雨、きらい?」
「え?」
 音無くんがちらりと私を見る。
「……ううん。晴れより好きかな。雨の方が、なんだか景色が優しい感じがして」
 街が薄くけぶっているさまは、まるで世界にカーテンが引かれたみたいだと思う。
 目にうっすらと見える優しい幕。それらは街だけでなく私のことも包んでくれるようで、ほっとする。
 太陽が眩しい晴れの日は、なんだか裸で街を歩いているようであまり落ち着かない。
「……俺も。雨のが好き」
「……意外!」
 明るい音無くんは、なんとなく晴れの方が似合う気がする。
「え、そう?」
「音無くん人気者だし、太陽みたいだなって思ってたから」
 すると、音無くんはどこか自嘲気味に笑った。
「そんなことないよ」
「…………」
 再び沈黙が落ちて、私の心はまた騒ぎ出す。
 必死に次の話題を探していると、音無くんが口を開いた。
「……あのさ、告白のこと、ごめんな」
「えっ」
 弾かれたように顔を上げる。
 まさか、その話題が来るとは思わなかった。
 驚く私を見て、音無くんは気まずそうに曖昧な笑みを浮かべている。
「よく考えたら、ほとんど喋ったこともない奴からいきなり告白されても、困るよな」
「…………」
 思わず黙り込む。
 音無くんからの告白には、たしかに戸惑った。
 告白以来ちょっと気まずさを感じて、接しづらかったことは事実だ。
 現に私は、音無くんと目が合うと未だに緊張してしまう。
 けれどそれは、音無くんのせいだけじゃない。私が音無くんを前にすると緊張してしまうのは、音無くんの気持ちにまっすぐ向き合えなかったじぶんの中でのうしろめたさがあるからだ。
「俺もじぶんに置き換えて考えたら、ちょっとキモかったかもって思ったし。だから、もう本当に気にしないで。忘れてくれていいからさ」
 音無くんのよりどころのない表情に、胸がズキズキと痛む。
「でも俺、清水とはできれば仲良くしたいんだ。だから、今までどおりっていうか……まぁ、べつに今までも特別仲が良かったわけじゃないけどさ。それでも、ふつうに接してくれると嬉しい」
 私は、じぶんばかりが傷付いてると思っていた。
 私を好きなんて、見る目がない。どうせ、私の反応を見てからかってるんだろう。そんなふうに思っていた。
 そんなわけないのに。
 告白するのに、どれだけの勇気がいるか。
 ふられたときのショックがどれほどのものか。
 好きなひとに避けられたとき、どれほど悲しいか。
 少し考えれば分かるはずなのに。
 今さら、音無くんの顔を見て気付いた。
 ――既に傷付いている音無くんを、私はさらに追い詰めたんだ……。
 罪悪感に胸が押し潰されそうになった。
「……違うの」
 音無くんが顔を上げる。その視線に、心臓の鼓動が早まっていく。
「私、音無くんのこときらいになって避けてたんじゃないの!」
 今までずっと言えずにいた……いや、気付いてすらいなかった本音を、私は音無くんに告げる。
「え、じゃあなんで……?」
 困惑の色が滲んだ眼差しで、音無くんは私を見つめる。
「私ね、音無くんから告白されたとき、怖くなったんだ」
「怖くなった?」
 こくりと頷く。
「私……じぶんに自信がなくて、だから仲がいいわけでもない音無くんが告白してきたとき、嬉しいとかそういう感情より先に、本当なのかなとか、からかってるんじゃないかとか思っちゃって」
 音無くんが勇気出して伝えてくれた思いを、信じることすらできなかった。
「それに私……学校ではキャラ作ってるっていうか……みんなに優等生って思われてるでしょ? でも、本当は私、ぜんぜん優等生なんかじゃない。みんなよりスペック低くて、今だって成績保つのに必死で……」
 音無くんからの告白は、驚いたけれど嬉しかった。でも、あのときの私には、嬉しさより恐怖のほうが大きかったのだ。
 本当のじぶんを知られたら失望されるんじゃないかって、そればかり考えてしまった。
「だから……音無くんからの好意を、素直に信じられなかったの。本当の私を知られたら、きっときらわれるって思ったら怖くて……ごめんなさい」
「なんで清水が謝るんだよ」
「だって、音無くんの気持ちにちゃんと向き合ってなかったから。ごめんなさい」
 もう一度頭を下げてから、顔を上げた。
 音無くんを見上げて、私はずっと言えていなかった言葉を一年越しに伝える。
「今さらになっちゃったけど、私のこと好きになってくれてありがとう」
「…………」
 音無くんは黙り込んだあと、突然その場にしゃがみ込んだ。
「えっ!? ちょっ……どうしたの?」
 慌てて音無くんのとなりにしゃがみこむ。
 音無くんはしゃがみ込んだまま、深く息を吐いていた。
「いや、だって……ぜったいきらわれてると思ってたから。目が合っても、すぐ逸らされるし……」
「そ、それは……ごめん」
 今日、学校で目が合ったときのことを思い出す。
 やっぱり、傷付けていた。
「……ううん。でも、清水の本心聞けてめちゃくちゃほっとした。ありがとな」
「……うん」
 パッと顔を上げた音無くんはどこか嬉しそうに、だけどちょっと恥ずかしそうにはにかんでいた。
 それを見ていたら私まで恥ずかしさが込み上げてきて、思わず俯く。
「よし! 帰るか!」
 音無くんが明るい声を出し、すくっと立ち上がる。
 再び沈黙の中歩いていると、となりで小さく吹き出す声が聞こえた。
 見ると、音無くんの肩が小刻みに震えている。
「ってか、緊張し過ぎじゃない? 俺たち」
 そう言って笑う音無くんは、いつもより子供っぽい笑みを浮かべていて。私はじぶんの頬がぼっと熱くなるのを自覚する。
「……たしかに」
 つられるように私も笑う。
「なんか、こうしてちゃんと話すのって初めてだから変な感じ」
「私も。一年以上も同じクラスなのにね」
「本当だよ」
 不思議だ。さっきまでずっしりと重かった鞄が、少しだけ軽く感じる。
 目の前の信号が、青点滅から赤に変わり、私たちは横断歩道の前で足を止めた。
「……あのさ、余計なお世話かもしれないけど、清水って、どうしてそんなに自信がないの?」
 顔を上げると、音無くんのまっすぐな眼差しと目が合った。
「さっきも思ったんだけどさ、清水はじぶんを卑下し過ぎじゃない? 友達もたくさんいるし、努力してるぶん、成績だっていいじゃん。それなのに、どうしてそんなにじぶんを認めてあげないの?」
 脳裏にお姉ちゃんの顔が浮かぶ。
「それは……」
 言葉につまり、きゅっと唇を引き結ぶ私を見て、音無くんが言う。
「……ごめん。言いづらかったらいい。無理して聞きたいわけじゃないから」
 音無くんはやっぱり優しい。
「…………」
 今までの私だったら、音無くんにどう思われるかを気にして、きっと言わなかったと思う。
 でも、今なら聞いてほしいと思う。きっと音無くんなら、私の気持ちを否定したりしないと分かるから。
 意を決して、私は口を開いた。
「……うまく言えないんだけど、努力してるところを見られるのが苦手なんだ。あんなに努力してるのに、この程度の実力なんだって思われたりするのがいやっていうか……怖くて」
「怖い?」
「うん。……私ね、お姉ちゃんがいるの。今、青蘭医大の三年生なんだけど」
「へぇ」
 音無くんが驚いた顔をする。
「お姉ちゃんは天才型で、大抵のことはセンスでうまくできちゃうひとなんだ。おまけに、小さい頃から医者になるって夢があって。私はいつも、お姉ちゃんと比べられてきた」
 周りからは、お姉ちゃんと同じで柚香ちゃんもきっと才能のある子なんだろうねと言われて、期待の眼差しを向けられてきた。
「……でも、私はお姉ちゃんみたいに器用じゃないから、努力しないとついていけない。私には、お姉ちゃんみたいなひとの役に立つ夢もない」
 すぐ近くに本物の天才がいたら、自信なんて持てない。
「……だからいつも優等生のふりをして、みんなの期待に応えてきた。幻滅されないように」
 周りは勝手だ。勝手に期待して、私がその期待に応えられなければ裏切られたと勝手に幻滅する。
 他人からの評価なんて、気にしなくてもいい。頭では思うけれど、それでも、どうしても幻滅されたくないと思ってしまうのは、おかしいことだろうか。
 だって。
 私には価値がない、なんて思われたくない。
 失望されたくない。
 だから、辛くても踏ん張ってきた。
 心を守るためには、そうするしかないのだと思っていた。
「……こんなことで自信を失くすなんて、変かな」
 打ち明けてから、ひゅっと気持ちが沈んでいく。
 軽蔑されたらどうしよう。
 くだらないと笑われたら……。
 音無くんがそんなふうに思うはずないとは頭では分かっているけれど、マイナスなことばかりが頭に浮かんで、顔を上げられない。
「……変じゃないよ」
 静かな夜の街に、音無くんの声が凛と響いた。
 決して声を張ったわけじゃないのに、音無くんのその言葉は、私の心の深いところまですっと届いた。
 ゆっくりと顔を上げると、音無くんの澄んだ瞳が私を捕らえる。
「ぜんぜん、変じゃない。……だって俺、一年のときから清水があのファミレスで勉強してること知ってたし。いつもひとりで遅くまで勉強して疲れてるはずなのに、学校ではいつもにこにこしてて、大変そうな顔とかぜんぜん見せないし。……そういうの見て、いいなって思ってたから」
「え……」
 音無くんの優しい声が、私の胸にどこまでも深く沁みていく。
「じゃあ、音無くんは……私があそこで勉強してるの知って、好きになってくれたの? 私の外キャラを見て好きになったんじゃなくて?」
「……って、恥ずいからそーゆうこと、今さら言わせんなよ」
 じわじわと涙が込み上げてくる。
「……ごめんっ、そうだよね」
 ごしごしと制服の袖で涙を拭う。
 ずっと、努力しているところを見られるのが怖かった。どう思われるかと気にして、だれにもこの思いを打ち明けることができなかった。
 ――でも。
 頑張ってることを知っててくれるひとがいるって、こんなにも嬉しいことなんだ……。
「……でも、俺、やっぱり声をかけるべきじゃなかったよな。清水の気持ちも考えずに、軽々しく声かけてごめん」
「え……なんで、音無くんが謝るの?」
 謝られる意味が分からず、首を傾げる。
「だって、俺に知られるのもいやだっただろ」
 申し訳なさそうな顔をする音無くんに、私はぶんぶんと首を振った。
「……そんなことない」
 最初はたしかにどうしようと焦った。
 でもそれは、幻滅されると思ったからだ。
 音無くんの本音を聞けた今、むしろ話してよかったと思っている。
「今はちょっとほっとしてる」
 本心を告げると、音無くんは「そっか」と微笑んだ。
「たぶん私、このことをずっとだれかに話したかったんだと思う」
 だれかに聞いてほしくて、でもだれにも言えないままひとりで抱え込んでいた。
 苦しさに目を伏せたところで、その苦しみが軽くなるわけもないのに。
 その証拠に、だれかのちょっとした言葉で大袈裟に傷ついてしまうじぶんがいた。
 でも、音無くんと話して気付いた。
 私は今まで、悪意でもなんでもない言葉で傷付いていたのかもしれない。
「こんなにすっきりするなら、もっと早く話してればよかった!」
「……そんなにすっきりする?」
「うん! したした! なんなら、鞄振り回せるくらい!」
「それは危ないからやめな」
 音無くんがくすっと笑う。
「はは、だね!」
 私は目尻に溜まった涙をさっと拭って、笑い返す。本当に身体が軽い。こんなに気持ちが昂っているのはいつぶりだろう。
 さまざまな店が立ち並ぶ通りを抜け、閑静な住宅街に出る。
 坂道を下りながら空を見上げると、深い灰色の雲の隙間に、すっと亀裂が入っている。
「あっ、星だ」
 さっきは気付かなかった、曇っていると思っていた夜空に晴れ間がのぞいていた。
「……本当だ」
 いつの間に。
「雲しか見えないと思ってたけど、ちゃんとあったんだね、星」
 もしかしたら、曇っていたのは私の視界のほうだったのかもしれない。
 その場に立ち止まって、僅かな晴れ間を見上げる。
 しばらくお互い無言のまま空を見上げていると、おもむろに音無くんが呟いた。
「……駅の近くに、星カフェってあるだろ?」
 唐突に、音無くんが言う。今日美里と行ってきたところだ。私は夜空から音無くんへ視線を移した。
「? ……うん」
「あれさ、実は兄貴がやってる店なんだよね」
「えっ!」
 驚きが声に出た。
 店主の美しい顔を思い出す。音無くんとはあまり似ていないように思えた。
「そ、そうなんだ……」
 戸惑いが声に現れてしまって、しまった、と思って音無くんを見る。
「……俺と兄貴、ぜんぜん似てないだろ」
 音無くんが自嘲気味に笑う。きっと、私の反応を察してしまった。
「いや……」
 私はなんと言えばいいのか分からなくて、俯いた。
「……ごめん」
「大丈夫大丈夫。じぶんでも分かってるし。兄貴、すごいんだ。十五のときに海外留学に行って、色んな国で珈琲とかお菓子の勉強してさ。俺にはこれしかないって感じで無我夢中で勉強して、店を開いて。あっという間にこの街の人気店だよ」
「……そっか」
 すごいね、と言いそうになって、口を噤む。
 私なら、その言葉は嬉しくない。
 お姉ちゃんのことを聞かれたとき、みんなが口を揃えて言う「すごいね」が私はずっと苦手だった。
 だって、私はすごくない。
 それなのにみんな、私にすごいねと言う。なんで?
 まるであなたとは違うのねと、責められているような気がする。
 そのとき、私がほしかった言葉はすごいねじゃなくて、
「……辛かったね」
 音無くんが、顔を上げて私を見た。
「清水の話を聞いたからかな。なんか、清水も同じように悩みとかあるんだって安心したっていうか……聞いてほしくなっちゃった」
 音無くんは泣き笑いのような顔をしていた。
「……本当、一緒だね」
 どんなに努力しても敵わないひとが近くにいるというのは、辛い。
 圧倒的な差を見せつけられて、心を折られる。
 だけど大好きだから憎めなくて、でももやもやを吐き出す場所もなくて、だれもこの気持ちを分かってくれないんだと、悲しくなる。
 音無くんは唇を噛み締めた。
「もし兄貴だったら、っていつも過ぎるんだ。もし告白したのが俺じゃなくて兄貴だったら、清水は告白を断らなかったんじゃないかな、とか。……だから、兄貴のことはだれにも言ったことなかったんだ。比べられることが分かってたから」
 音無くんはかすかに震える声で、呟く。かける言葉が見つからず、私はただ足元を見つめる。
 音無くんは、どうして私にこんな話を打ち明けてくれたんだろう……。
「でも、勝手に想像して、自信を失くしてただけだったのかもな」
「……そうだね」
 私も同じだ。
 周りの視線を、勝手に比較の視線と感じていた。
 そうでないこともあったかもしれないのに、そうだと決めつけていた。
 頷く私に、音無くんは眉を下げたまま微笑む。
 音無くんの表情を見て、ふと思う。
 他人にとったは、なんでもないことのように思える。
 けれどこれは、音無くんにとってはきっととても大きなことなのだろう。
 私にとってのお姉ちゃんの存在の大きさと同じように。
 そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……そういえば音無くんって、どこ志望なの?」
 眼下に見える夜景をぼんやりと眺めながら、私は音無くんに訊ねた。
「うーん、大学はまだ決めてないかなぁ。なんとなく、心理学をやりたいとは思ってるけど」
「……心理学か……そうなんだ」
 具体的な分野の話が出てきたことに、なんとなくショックだった。
 音無くんが私と同じような悩みを抱えているからといって、なんでもかんでも同じなわけないのに。
「清水は国立?」
「うん。今のところ青蘭医大」
「青蘭か。じゃあ、清水は医者になりたいんだ?」
「……ううん。青蘭医大を目指してるのは、お母さんに言われたからだから」
 二の腕をぐっと押さえる。
「呆れるよね、親に言われたとおりに生きてるなんて……でも私、やりたいこととかなくて」
「うーん、べつに呆れはしないけど……」
 音無くんは足を止めて、私を見る。
「清水は、それでもいいの? 気持ち的に」
「気持ち……?」
「親に言われた目標でも、気持ちが重要じゃない? そーゆうのって。親に言われた道でも納得してるなら、それはじぶんで選んだって思えると思うし。……だから清水はさ、今までなんのために勉強してきたの?」
「……なんのためって、それは……」
 家族や先生たちの期待に応えるため。それから、美里や葉乃たち、友人に慕ってもらうため。
 だって、いい子でいないと私に価値はないから。
 言葉につまる私に、音無くんが問う。
「清水自身は、青蘭医大でなにがやりたいの?」
「なにがやりたい……?」
 言葉が出てこなかった。
 だって、そんなの。
「……分からない」
 私にはお姉ちゃんのような立派な夢は持っていないし、学びたいこともない。
 目的が分からないのに、大学なんて決められるわけもない。
「……そっか。分からないなら、入ってから見つけたらいい」
 俯き、黙り込んだ私に、音無くんがからりとした声で言う。
「入ってから?」
 思わず呆然とした顔のまま、視線を上げる。
「やってみなきゃ分かんないことってあるし。だれになにを言われたからとか関係なく、じぶんで納得できればそれでよくない?」
「……じぶんが、納得できれば……」
「清水ってさ、夢がなきゃいけないって思ってるだろ?」
「それは……そうだよ。だって、夢がなきゃなにをすればいいかも分からないし、成長できないでしょ」
「まぁ、あったほうがいいのかもしれないけどさ、ないからダメってことでもないと思う。清水は、夢がないじぶんはお姉さんより劣ってると思ってるみたいだけど、そんなことないと思うよ」
「…………」
「清水は俺なんかよりずっと頭が良い。努力だって惜しまないし、優しいし。たぶん、みんなが慕ってるのは、清水が優等生だからってわけじゃないと思うよ」
「え……じゃあ、なんで……」
「清水が頑張ってるからだよ」
「私が頑張ってるから……?」
「清水がアピールしてなくても、そういうのは行動に出てるもん。学級委員とか、実行委員いくつもかけ持ちしてたことあっただろ? だからなんとなく清水って、学校にいるとずっと走ってるイメージあったんだよな」
「うそ!?」
 たしかに昨年の秋は、いくつかの委員をかけ持ちしてやっていて忙しいときがあったけれど。そんなふうに見られていただなんて知らなかった。
 音無くんと話していると、つくづくじぶんだけでは生まれなかった考えかたや価値観に驚かされる。
「清水はもう少し、じぶんを許してあげてもいいと思うよ」」
「え……」
「強がって、みんなの理想を演じて、それはすごいことだと思う。でもそれを続けてたら、きっといつか限界が来る。せめてじぶんだけは、じぶんを認めてあげるべきだ。肝心の清水自身がじぶんを否定しちゃったら、清水がかわいそうだよ」
「……かわい、そう?」
「夢に向かって努力するのはすごいことだけど、ないからダメなんてこと、ぜったいにないと思う。だれも清水を責めてなんていないよ。責めてるとしたら、清水自身だ」
 全身の力が抜けていくようだった。
 ずっと、いちばんになるために努力してきた。
 でも、どんなに頑張っても上には上がいて、努力に終わりが見えなくて。
「……私、いちばんになれなきゃ、意味がないと思ってた」
 いちばんになれなかったら、それまでの努力はすべて無駄だったのだと切り捨てていた。
 でも、違うのかもしれない。
 たとえいちばんになれなくても、いちばんを目指して努力したことが無駄なわけないのに。
「俺、思うんだ。夢がないっていうのは、交差点の真ん中にいるようなものなんじゃないかなって。周りをちゃんと見れば、めちゃくちゃいろんなものがあるし、じぶんの前にも横にも、もちろんうしろにも道があって、だからどの道を選んでもいいんだ。清水はこれから、どこにだって行けるんだよ」
「……でも、私たちもう高校二年生だよ。迷ってる時間なんてない。のんびりしてたら、あっという間に受験と卒業になっちゃう」
 すると、音無くんがさらりと言った。
「たかが、卒業じゃん」
「……たかが?」
「だってさ、俺らまだ十七だよ? 人生まだまだこれからだろ。焦ることなくない?」
「……それは、音無くんがやりたいことが決まってるから言えるのであって……」
「俺だって、ぜんぜん将来のことなんて分かんないよ。心理学も、ただ気になるなってだけ。それを仕事にしようとかまでは思ってないし。そもそも大学行ったらまたいろんな出会いや発見があるだろうからやりたいことも増えるだろうし、ぜんぜん変わるかもしれないだろ?」
「じゃあ……具体的な目標が決まってないのに、勉強してるの?」
「そりゃそうだよ。ふつう、目標がないから勉強するんじゃない?」
「…………目標が、ないから?」
「そうだよ。いつ、どんな夢ができたとしても追いかけられるように勉強はするもんだよ」
「そっ……か……」
 音無くんの言うとおりだ。
 勉強は、夢を叶えるための手段でもあるけれど、まだ見ぬ夢へ近づくためのものでもあるのかもしれない。
 いや、そうであるべきものだと思う。
「俺たちはもう、親になんでもかんでも決めてもらわなきゃいけない子供じゃない」
「……じぶんで決めていい……?」
「うん」
「……そっか……」
 私は、お母さんにも、お姉ちゃんにも従わなくていい。
 私の人生なんだから、私の人生を生きていいんだ。
 ぜんぶじぶんで決めていいんだ。
 夢を持つか、持たないかも。
「正しい道なんてないよ。どんな道を選んでも、心ひとつで正しくも間違いにもなる」
 ずっと、夢がなければいけないと思っていた。
 いくら勉強ができても、お姉ちゃんのように立派な夢がなければ、だれも認めてくれないから。
 夜景が、じわりと滲む。
「いいのかな……夢がなくても」
 込み上げる思いは、涙に変換されてあふれてくるようだった。
「私……私ね、みんなみたいに立派な夢がなくて……目標もなくて」
「うん」
 優しい相槌が返ってくる。
 顔を上げると、柔らかな顔をした音無くんと目が合った。
 嗚咽が漏れる。
「……ずっと……お姉ちゃんみたいになにかひとつ、目指すものがあればって思ってた」
「うん」
「そうしたら、迷わずじぶんの道を行けるのにって……でも私、お母さんの言うことを曲げてまでやりたいものがなくて……夢がないなんてって、いつもお母さんにもお姉ちゃんにも呆れられて……。ずっと、お姉ちゃんが羨ましかった」
「……うん」
「……夢がないって、変じゃないかな……?」
 訊ねると、音無くんはまっすぐに私を見つめて、
「変なわけない」
 はっきりと言った。
 夢がなくて、目標すらない私には、価値なんてないと思ってた。
「夢がないってのは、意思がないってことじゃないよ」
 音無くんが言う。
「夢がないって、むしろラッキーじゃん。だって、これからいくらでも変われるし、なににでもなれるってことなんだからさ!」
 ――ラッキー?
「そう……かな?」
「それに、夢がなくても清水はここまで生きてこれたじゃん」
「…………」
「これまでだって、たくさん分岐点はあったはずだろ? 高校受験だって、部活だってそうだけど、ひとつひとつ選んできたから、清水は今ここにいる」
「……でもそれは、お母さんとか先生にこっちのほうが向いてるからとか、そうやって言われたから」
「だとしてもだよ。じぶんひとりで選んだ道じゃないとしてもさ、そのおかげで今の清水と、清水を慕う友達や環境があるんだったら、それでよくね?」
 そう言って、音無くんはにっと笑った。
「……そうだね」
 音無くんの言うとおりだ。
 これまでの私がいるから、今の私がいる。今の私が好きかどうか聞かれたら、決して好きとは言えないけれど、それでも少なからず好きなものもある。
 分かれ道に差し掛かり、音無くんが立ち止まる。
「清水はあっちだよな。俺、こっちだから」
「うん」
「じゃあな」
 音無くんは軽く手を上げ、住宅街へ続く階段を降りていく。
「また」
 徐々に遠ざかっていく後ろ姿に、ヤキモキする。
 このまま、さよならしていいのだろうか。
 今日一日、私は音無くんに気を遣われてばかりだ。
 ケーキをもらって、私を不安にさせないために、言いたくなかっただろうじぶんの秘密まで打ち明けてくれた。
 それなのに私は、なにひとつお礼をできていない。
 ……いや、違う。
 いつまで私は上から目線なんだろう。
 お礼ももちろんしたい。
 だけど、今は。
 今はただ、音無くんのことをもっと知りたい。
「音無くん!」
 音無くんが振り向き、「なにー?」と叫ぶ。
「あの……明日も朝、早く登校したりする?」
 音無くんは一瞬驚いた顔をしてから、頷く。
「するよ!」
 手をぎゅっと握り込んで、顔を上げる。
「……私も、行ってもいいかな? 朝……学校で勉強しようかなって」
「じゃあ、一緒に勉強しよーぜ!」
「本当?」
「うん! 約束!」
 音無くんはからっと笑って、手を振ってくれた。
 知らなかった。
 音無くんって、あんなふうに笑うひとなんだ。


 ***


 翌日、昨日と同様、少し早く家を出て学校に向かう。ほんの少し期待して入った教室に、音無くんの姿があって胸が弾んだ。
 しかし、おはよう、と声をかけようとして、私は言葉を飲み込んだ。
 音無くんは、女子と話しているようだった。
 女子の横顔には見覚えがある。二組の小林(こばやし)(あずさ)ちゃんだ。
 私はほとんど話したことがないけれど、たしか葉乃と仲が良かった子のような気がする。
 音無くんが特定の女子と話しているところはあまり見ないから、少し意外だ。
 ふたりは扉の前に立つ私に気付かないまま、楽しそうに笑い合っている。
 ――すごく仲が良さそう……。
 もしかして、付き合っているのだろうか。
 しばらくその様子を見ていると、気配を察したのか、梓ちゃんがくるりと私がいる前扉のほうを向いた。
「あ! おはよー! えっと、柚香ちゃんだよね! 早いね!」
 梓ちゃんは私に気付くと、人懐っこい笑顔で声をかけてくる。
 目が合って、我に返った。
「あ、おはよう。……ごめん、邪魔しちゃった?」
 ふたりに挨拶を返しながら、私はそろそろと教室に入った。
「ううん、ぜんぜん。私こそ、三組に勝手に入っちゃっててごめんね。じゃ、私はもう行くね! ばいばい優希!」
 梓ちゃんは音無くんに手を振って、軽やかな足取りでじぶんの教室に戻っていった。
 ――優希。
 梓ちゃん、音無くんのこと下の名前で呼んでるんだ……。
 教室に静寂が戻り、緊張で心臓がバクバクとし始める。
 結局音無くんに話しかけられないまま、鞄から教科書を取り出していると、音無くんが私の前までやってきた。
 そのまま前の席の椅子を引き、私と向き合うように座る。
「おはよ、清水」
「あ……お、おはよう」
 私は緊張気味に挨拶を返す。
「本当にきたんだな」
「……昨日、約束したから」
「うん、待ってた!」
 音無くんは笑顔で頷くと、手に持っていた英語の教科書を開く。
「英語やろーぜ!」
「うん」
 私も英語の教科書を取り出し、勉強を始めた。
 英文を目で追いながらも、頭の中では音無くんと笑い合う梓ちゃんの姿が頭から離れない。
 勉強を始めてしばらくした頃、音無くんは集中が切れたのか、「休憩!」と教科書をぱたんと閉じた。
 ぐいっと大きく伸びをする音無くんに、私は恐る恐る訊ねてみる。
「……ね、音無くんって梓ちゃんと仲良いの?」
「え、小林? あーまぁ、小林とは、部活が一緒だからね」
「えっ、音無くんって部活入ってたの?」
「うん、天文部だよ」
 驚いて音無くんを見ると、音無くんは「知らなかった?」と軽く苦笑いしていた。
「うん……ごめん」
「べつに謝ることじゃないだろ」
 そうだけど、ショックだった。
 思えば、私は音無くんについてなにも知らない。一年以上一緒のクラスなのに。
『――好きなんだ。清水のこと』
 今さらになって、告白された当時の記憶が蘇った。
 音無くんに告白されたのは、一年の秋休み前のことだった。
 放課後、学級委員の仕事で先生に呼び出されていた私が教室に戻ると、音無くんが残っていた。
 あのときはたまたま出くわしただけだと思っていたけれど、たぶん私の鞄が残っていることに気付いて、待っていてくれたのだと思う。
 いつものように、また明日ねと挨拶をして教室を出ようとしたとき、『あのさ』と呼び止められた。
 振り返ると、音無くんはどこか緊張した面持ちで、私を見つめていた。
 真剣な眼差しになんだろう、と思っていると、音無くんが言った。
『あのさ……好きなんだ。清水のこと』
 まっすぐなあの視線が、頭から離れない。
 我に返って、顔を上げる。
 正面には、あの日の眼差しを彷彿とさせる音無くんの横顔。
 ――音無くんは今、私のことをどう思っているんだろう……。
 梓ちゃんのことは?
 すぐ近くで音無くんの息遣いを感じながら、心臓の鼓動が高まっていくのを感じていた。
「あ、そこの答え間違ってるよ」
「え、どこ?」
「これ。この問二」
「え、うそ……わっ、本当だ」
 思い切りケアレスミス。じぶんでも驚く。
「清水でもそんな間違いすんだな」
「ちょっ、もう笑わないでよー」
 音無くんの指先が、私のノートを指している。思いのほか骨張っていて、じぶんの手とはずいぶん大きさが違う。
「……あの、音無くん」
「ん?」
「昨日はありがとね。話聞いてくれて。音無くんのおかげで、すごく心が軽くなった」
「そっか。ならよかった」
 今まで、『意外』と言われることが怖かった。マイナスな意味だと捉えていた。
 でもそれは、知らないから。
 音無くんの笑いかたは意外だった。でも、知れてうれしかった。
『意外』というのは、『またひとつ、あなたを知れた』ということと、同義なのだ。
 もっと知りたい。音無くんの『意外』な一面も、『思っていたとおり』の一面も。
「……あのさ」
 音無くんの視線が、私を射抜く。
「もし良かったらなんだけど、その……連絡先教えてくれないかな?」
「え……俺の?」
「う、うん」
 声が震える。緊張で、今にも心臓が口から飛び出しそうだ。
 落ちた沈黙が、一分にもそれ以上にも思える。
「……ごめん、無理にじゃないんだ。今さらこんなの都合がいいって分かってるし、ごめ……」
 気が付けば、早口で撤回しようとしていた。
 覚悟を決めて口に出したはずなのに、どうしてこんな一瞬で自信を失くしてしまうのだろう。
「あ、待って待って! 教えるよ、いくらでも」
「え……」
「ごめん、今のはちょっと驚いちゃって」
「驚いて……? じゃあ、いやだったわけじゃないの?」
「当たり前だろ。めっちゃ嬉しいってば」
 音無くんの頬は、ほんのり薄紅色に染まっている。
「……ほんと?」
「ほんとほんと。はい、これ俺のID」
「あ、ありがと」
 画面を開いた音無くんが、スマホをぐいっと差し出してくる。私は音無くんのスマホを見ながら、じぶんのスマホに音無くんのIDを打ち込んでいく。
「できた?」
「うん」
 無事IDの入力が終わると、メッセージアプリの友達欄に音無くんのアカウントが表示される。
「あ、俺のとこにもきた」
 音無くんが上機嫌にスマホをいじる。
 ピコン、と通知音がした。
「?」
 手元のスマホを見ると、音無くんからスタンプが届いていた。
「可愛い!」
 パンダのスタンプだ。音無くんにならって私もネコのスタンプを送り返す。
「可愛いスタンプだな」
「でしょ。お気に入りなの。美里が誕生日にくれたんだ」
「へぇ」
 スタンプの話から美里や葉乃たちの話になり、文化祭や体育祭の話になり、今度は中学時代の話になる。
 不思議だ。昨日まで、音無くんとはほとんど話したことなんてなかったのに、会話がどんどん広がっていく。
 いちばん弱い部分を、お互いに見せ合ったからだろうか。
 それまで感じていた気まずさなんて、どこかへ吹き飛んでいた。

 ――いつも、涼しい顔をしてた。
 感情に平坦で、一歩引いて、周囲を俯瞰(ふかん)する大人のふり。
 だけど本当はただ、じぶんに自信がないだけ。平気なふりをしてるだけ。
 本当はただひとりになりたくなくて、周りにナメられないようにいきがってただけ。
 そうやっていたらいつしか、あの頃大きらいだったはずのいちばんいやなやつに、私自身がなってた。


 ***


 以前から葉乃に感じていた違和感が決定的になったのは、三者面談が終わってすぐの昼休みのことだった。
 四時限目終了のチャイムのあと、私は美里と葉乃とお弁当を食べる前に、一度トイレへ立った。
 三者面談週間だった先週は午前で学校が終わっていたから、お弁当を食べるのは久しぶりな気がする。
 トイレから戻り、バッグからお弁当を取り出してふたりの席へ向かう。
 が、定位置にふたりの姿はなかった。
 どこに行ったのだろう、と周囲を見ていると、ちょうど近くを通りかかった音無くんと目が合った。
「どうしたの?」
 声をかけられる。
「あ……あのさ、美里と葉乃知らない?」
一ノ瀬(いちのせ)は見てないけど、後藤(ごとう)なら、さっき弁当持って教室出ていったけど」
「えっ」
 ――どういうことだろう……。
 今日は外で食べる話になっていたわけでもないのに。
 冷や汗が背筋をつたう。
 ――探しに行く?
 でも、もし避けられているんだとしたら。
 追いかけたらいやな顔をされてしまうかもしれない。それに、もし私のいないところで悪口でも囁かれていたら、それこそショックで立ち直れない。
 ――どうしよう……。
 マイナスな考えばかりが浮かんで、動けなくなる。頭が真っ白になって、涙が出そうになる。
 ぐるぐると考え込んでいると、音無くんが「ねぇ」と声をかけてきた。
 ハッとして顔を上げる。
「俺、天文部の部室でいつも食べてるんだけど、よかったら清水も来る?」
「え……でも、私部員じゃないのにいいの?」
「ほかの奴らも友達ふつうに連れ込んでるし。それぞれ自由に天文部の部室を使ってるって感じだから、たぶん大丈夫だと思う」
「そうなんだ」
 教室でひとりで食べるのは視線を集めそうだし、かといってほかのグループに混ざったら、その子たちにどう思われるか分からなくて怖い。
「じゃあ……お邪魔してもいいかな?」
「じゃあ、行こうぜ」
 私は音無くんの好意に甘えて、天文部の部室でお昼を食べることにした。
 天文部の部室は、講堂のとなりの小さなプレハブ小屋みたいなところだ。
 中に入るが人気はない。
「今日はだれもいないなー」
 音無くんは、部室を見回しながら言った。
「今日は?」
「うん。いつもは割と、だれかしら部員がここで食べてたりする」
 部屋の中は、運動部の部室のような汗臭さはないものの、部室特有の少し埃っぽい匂いがした。
「みんな、いたりいなかったりって感じなんだね」
「そうそう。天文部員自体、名前だけ置いておく幽霊も多いし」
 言いながら、音無くんは中央の長テーブルに座り、惣菜パンを食べ始めた。
 私は少し悩んで、手前にあった小さなひとりがけのソファに座る。
 膝の上で弁当箱を開くが、あまり食欲が湧かない。
「……後藤たちとなんかあった?」
 控えめな声に顔を上げると、音無くんが心配そうに私を見つめていた。
 私は手に持っていた箸を置くと、できるかぎり感情を抑えて言った。
「……私、葉乃にきらわれてるっぽい」
「……喧嘩でもしたの?」
「……喧嘩はしてないけど……なんか避けられてるような気がして。前々から、なんとなく感じてはいたんだけど……」
 この前、美里に星カフェにさそわれたときだってそうだ。
 私が行くと言った途端、葉乃の様子が変わった。
「一ノ瀬も?」
「ううん、美里はふつうに接してくれる。だから余計、美里まで私を置いてお弁当食べに行っちゃったことがショックで……」
「なら、一ノ瀬に一回聞いてみれば?」
「でも……美里はたぶん、葉乃の様子に気付いてないし……それに、美里と葉乃は私よりずっと前から友達だから、いざとなったら、私より葉乃との友人関係を優先するかもしれないし……」
 そう思うと、怖くて言い出せない。
「……さっきから清水は『もし』ばっか口にしてるけど、後藤の気持ちは、後藤にしか分かんないんじゃない?」
「え……?」
「後藤にきらわれてるかもしれないっていうのは、あくまで想像だろ? 今分かるのは、清水自身が後藤のことをどう思っているかだけだと思うけど」
「私が……」
 葉乃のことを、どう思っているか。
「清水は後藤のこと、きらいなの?」
 考えてみる。
 私はまっすぐ音無くんを見て、首を横に振る。
 悩んではいるが、葉乃のことは好きだ。もちろん、美里のことも。
「じゃあ、そう本人に伝えてあげたらいいんじゃない?」
「伝える……?」
「伝えて、本人の口から本音を聞けばいいじゃん。俺らが仲良くなったときみたいにさ」
「そっか……!」
 喉に詰まっていたなにかが、すとんと落ちたような気がした。
 美里といて心地いいのは、美里が裏表がなくてまっすぐじぶんの感情を伝えてくれるからだ。
 だから安心して、心を許せる。
 一方で葉乃は大人びていて、なにを考えているのか分からないところがある。
 だから、ちょっとしたことが気になって、過敏になってしまう。
 でもそれは当たり前のことで、葉乃も私に同じような感情を抱いているのかもしれない。
「……私、葉乃とちゃんと話してみる」
「おう」
 音無くんとお弁当を食べ終え、教室に戻ると、美里と葉乃はそれぞれじぶんの席にいた。
 目が合うと、美里が笑顔で私に手を振ってくる。
 いつもどおりの笑顔にほっとしつつ、それならどうして、私になにも言わずにお昼にいなくなってしまったんだろうと疑問がさらに大きくなる。
 そのまま葉乃へ視線を向けると、葉乃のほうは私からパッと目を逸らした。
「がんばれ」
 うしろにいた音無くんが、私にだけ聞こえるように呟きながら、私を追い抜いて席につく。
 話してみなきゃ分からない。じぶんの心に言い聞かせて、私も席についた。

 放課後になると、美里が私の席までやってきた。美里はやはり、いつもと変わらない様子でケロリとしている。
「ねぇ、今日のお昼って、美里はどこか行ってたの?」
 思い切って訊ねてみると、美里はきょとんとした顔をした。
「え? あれ、葉乃から聞いてない? 私、今日は部活の後輩にお昼誘われてるから、ふたりで食べてって葉乃に言っておいたんだけど」
「……あ、そう、なんだ」
 ということは、美里はべつに私を無視していたわけではなかったらしい。
 美里が訝しげに私の顔を覗き込む。
「葉乃と食べなかったの?」
「あ……ううん。そういうわけじゃなくて、詳しく聞いてなかったから、どうしたのかなって気になっただけ」
「そっか!」
「うん……」
 昼休み、葉乃とは話すらしていない。
 けれど、それを言ったらきっと美里が気にしてしまう。
 葉乃の気持ちを聞いていない今はまだ、話すべきではない。
「……ごめんね? 休み時間に急に決まった話だったから、直接言えなくて」
「ううん」
 今の話だと、ふたりで一緒に私を避けたわけではなくて、葉乃が一方的に私を避けたということだ。
 疑念が確信に変わって、気分が沈む。
「さて、帰ろー」
「……うん」
「葉乃ー! 帰るよー!」
 明るい声で、美里が葉乃を呼ぶ。
 葉乃は涼しい顔をして、私の元にやってきた。
 しかし、葉乃は美里のほうを見るばかりで、私と目が合うことはない。
 それどころか、三人で帰っているあいだも、私が話し出すと相槌を返してくれるのは美里だけで、葉乃は黙り込んでしまう。
 美里を中心にして、なんとか場が持っているような状態だった。
 最寄り駅につき、反対方向の美里と別れると、案の定葉乃はひとことも喋らない。
 会話がないまま、ホームのベンチで電車を待つ。
 さっきまでの騒がしさは息を潜め、重い沈黙が私たちの間に漂う。
 気まずくて逃げ出したくなるけれど、ぐっと堪える。
 今踏み出さなきゃ、葉乃とはずっと気まずいままになってしまう。
 それはいやだ。
 意を決して、私は葉乃のほうへ身体を向けた。
「あのさ、葉乃」
 ホームのベンチに腰掛けて、向かいのホームに立つひとたちを見ていた葉乃が、私の声に視線を動かす。
「今日のお昼、なんで教えてくれなかったの?」
「…………」
 葉乃は気まずそうに私から目を逸らした。
 拒絶するような態度に怖くなるけれど、今ここで引いちゃダメだ。
「美里が部活の子と食べるって、葉乃は聞いてたんだよね? 私、知らなかったから、ふたりに無視されたのかなって思って、ちょっとショックだったんだよ」
 声が震える。
 どうしよう。言ってしまった。
 言った途端に後悔の波が押し寄せてきて、逃げ出したくてたまらなくなる。でも、一度口から出た言葉は、もうなかったことにはできない。
 俯きそうになったとき、ふと音無くんの声が脳裏を過ぎった。
『話してみなきゃ、後藤の気持ちなんて分かんないじゃん』
 音無くんの言葉に背中を押される。
 まだ、葉乃の気持ちを聞いていない。
 どうして私を無視したのか。
 どうしてお昼のこと、教えてくれなかったのか。
 逃げちゃダメだ。ちゃんと話さなきゃ。
 ぐっと唇を噛み、顔を上げて葉乃を見る。
「怒ってるとかじゃないけど、言いたいことがあるなら、言ってほしいの。私、なにかしたかな?」
 葉乃は唇をぎゅっと噛み締めるようにして、押し黙ったままだ。
「……葉乃は、私のこときらい?」
 訊いた瞬間、葉乃が表情を強ばらせた。
「……違ったらごめん。……でも、最近なんとなく避けられてるような気がしてたんだ。昨日も、葉乃は帰っちゃったし……お昼のときも感じたけど……私のこと、ハブろうとしてたよね?」
 すると葉乃は、気まずそうに目を伏せた。
「……ごめん」
 肯定ともとれる謝罪に、心臓がどくんと大きく脈打つ。
 泣きそうになるのを堪えながら、私は葉乃を見る。
「……ごめん……だって、このままじゃ美里を取られちゃうと思ったから」
「え……?」
 葉乃の本音は、私が思ってもいないものだった。
「だって、最近ふたりすごく仲良いから、そのうちふたりにハブられるんじゃないかって怖かったの」
 ――私と美里が葉乃をハブる?
「……そんなことするわけないよ。そんなこと、考えてもなかったよ?」
「でも……私は柚香みたいに頭も性格も良くないし。それに、柚香がよくても美里がハブろうとかいうかもしれないじゃん。最近美里、柚香とばっかり話してて、私といるときより楽しそうだったし」
「そんなことないよ。美里はだれかをえこひいきしたりするような子じゃないって、葉乃がいちばんよく分かってるでしょ」
 思ったことを口にしたつもりだった。
「分かったようなこと言わないでよ!」
 聞いたことのない葉乃の大きな声に、私は息を呑んだ。
「美里と出会って間もないくせに! 私のほうが、美里のことぜんぜん知ってるのに……」
 冷静な葉乃らしくない感情的な物言いに、私は動揺を隠せない。
「どうせ、私のこと下に見てたんでしょ」
「そんなこと……」
 ないよ、と言おうとする私を、葉乃が鋭い口調で遮る。
「私は、柚香みたいに完璧じゃない。勉強だって三人の中でいちばんできないし、運動も苦手だし、顔も性格も良くないから、中学のときから美里以外に友達なんてひとりもいなかった。柚香はいいじゃん……私たち以外にもたくさん友達いるし、男子にも人気があるんだし。お願いだから私の大切なもの奪わないで!」
 葉乃から美里を奪うつもりなんてなかった。私は三人で過ごす時間が好きだったのに。
 勝手な解釈でハブられそうになっていたと分かり、悔しさで目頭が熱くなる。
「……なにそれ。そんなの、葉乃が勝手に思ってるだけでしょ! 私だって必死なんだよ!」
 思わず叫んでしまった。葉乃が驚いた顔のまま、私を見つめる。
 お腹の下から、押し込めていた感情がふつふつと湧き上がってくるようだった。
「私は、葉乃が思うような完璧な人間じゃないもん!」
 勉強についていくのにも必死だし、いい子でいるのも本心を言ってきらわれるのがただ怖いだけだ。
 強がって人気者のふりをしていたけれど、実際本音を話せる友達なんて、ひとりもいない。
 葉乃と美里みたいななんでも話せるような幼なじみもいない。気を抜ける場所なんて、家にすらない。
「今日のお昼だって、ふたりに仲間はずれにされてすごくショックだった。葉乃だけじゃない。私だって悩んでるんだよ! なんの努力もしてないみたいに言わないで……!」
 葉乃が唇を引き結ぶ。
「ごめん……」
 鼻をすする音がする。
 葉乃が意気消沈したように話し出す。
「本当は、分かってた。私……今日お昼、ひとりで食べながらずっと後悔してたの。でも……今さら、なかったことにはできないから……謝りたかったけど……勇気が出なくて……ごめん……」
 葉乃はそう言って何度も『ごめん』と謝罪を繰り返す。その横顔は本当に後悔しているようで、複雑な気持ちになる。
 やられたことは、謝られたところで消えはしない。
 それでも、葉乃の顔に後悔の色が見えて、私の心は少しづつ落ち着きを取り戻していた。
「……不安だったの。ひとりになるのはいやだったし、美里を取られたくなくて……」
 私を追い出してでも美里といたいという葉乃の本音に、胸がずきずきと痛んだ。
 でも、きっとそれは私が招いた結果だ。
 私は、これまで一度も葉乃に本音を話さなかった。それに、葉乃の違和感には前から気づいていたのに、なにもしなかった。
 葉乃が私に信頼されていないと思うのも、無理もない話かもしれない。
「……ごめん」
「このこと、美里はなにも知らないの?」
 葉乃はこくりと小さく頷く。
「そっか……」
「美里には、私から話すよ。本当に、ごめん」
 葉乃が呟く。
 その声はか弱く震えていた。
 きっと、このことを話したら美里は怒るだろう。
 葉乃と喧嘩になるかもしれない。もしかしたら、今までのような関係ではいられなくなるかもしれない。
 葉乃の肩が小さく震える。
「葉乃、顔を上げて」
 葉乃が、涙を溜めた瞳を私へ向ける。
「いいよ、言わなくて」
「え……?」
「葉乃はただ、じぶんがひとりぼっちになりたくなかっただけなんだよね? 私をひとりぼっちにさせたかったとか、陥れようとか、そういうんじゃないんだよね?」
「当たり前じゃん……」
 葉乃が嗚咽を漏らしながら、頷く。
「ならいいよ。ひとりぼっちになりたくないのなんて、みんな一緒でしょ。そんな当たり前のこと、わざわざ美里に言うほどのことじゃないし。これまで私も本音を隠してたし、葉乃が不安になるのも仕方なかったと思う。私ももっとちゃんと、葉乃に伝えてればよかった。私は葉乃のことが大好きだし、三人でいる時間も大好きなんだって」
 ずっと伝えられずにいた本音を告げると、葉乃は今度こそ声を上げて泣き出した。
「ごめん、柚香……本当にごめん」
 それからいくつかの電車を見送って、葉乃が泣き止むのを待った。
 葉乃が泣き止む頃には、陽が暮れ始めていた。
「……私ね、前の学校でいじめられてたんだ。中学生のとき」
 泣き止んだ葉乃が、ぽつぽつと話し出す。
「私その頃ちょっと太ってて……しかも、性格も暗かったし。たぶんそれがいちばんの理由で、みんなに無視されてた。男子には小学生の頃からずっとからかわれたりしてたし、だから私、学校がだいっきらいだった」
「葉乃と美里って、たしか私立出身だったよね?」
「うん。小学校からエスカレーター式のとこ」
 ふたりの母校は小中高大一貫の学校で、地元でも有名なところだ。
 知ったとき、どうしてわざわざ外部受験なんかしたんだろうと疑問に思ったことを覚えている。
「みんな、私の悪口を言うか、無視。毎日学校に行くのが辛くて、通学中に吐いたこともある。でもね、二年生になったとき、美里と知り合ったんだ。美里だけは違った。美里は、私の容姿とか関係なく、ふつうに話しかけてきてくれたんだ」
 葉乃は過去を懐かしむように遠くを見つめる。
「私がみんなに無視されていてもおかまいなし。周りの視線を気にすることもなく、私のところに来てくれた。……私、美里がいなかったら、今生きていたかも分からない」
 私はいじめにあったことがない。
 幸い、これまでのクラスでいじめを目撃したこともなかった。
 葉乃が抱えていたものの大きさに、私は愕然とする。
 葉乃がいじめにあっていたなんて知らなかった。これまでたくさん話してきたのに、私は葉乃のなにを見ていたんだろう。
「美里と一緒にいるようになってからは、頑張ってダイエットをして、ナメられないようにファッションも勉強した。そうやって少しづつ、クラスに溶け込んでいったんだ」
「でも」と、葉乃が暗い声を出す。
 中学三年生になった葉乃に待っていたのは、残酷な現実だった。
「最後のクラス替えで、美里とクラスが離れちゃって……代わりに同じクラスになったのは、一年のとき私をいじめてきた派手なグループの女子たちだった」
 葉乃の顔が苦しげに歪む。
 葉乃の苦しみが伝染したように、私の胸もきりきりと痛んだ。
「またいじめられるかもって、すごく怖かった。でも、進級してすぐ、いじめっ子のひとりがふつうに話しかけてきたんだ。一年のときのいじめの記憶なんて、ぜんぜん覚えてなかったみたいに」
「な、なにそれ。最低……!」
「だから私も、必死に忘れてるふりして笑った。そうやってその子たちのグループに入ったとき、あ、私、ここにいていいんだって、ほっとしちゃったんだ」
 大っきらいだったはずなのにおかしいよね、と葉乃は投げやりに笑う。
 その声音には、嫌悪の色が混ざっていた。
 もしかしたら葉乃は、そうやって場の空気に合わせてしまうじぶんがきらいなのかもしれない。
「って、なんで柚香が泣くの」
 指摘されて初めて気付く。私は泣いていた。
「だって……ムカつくんだもん。散々いじめてきたくせに、ある日突然ぜんぶなかったことにしようとするとか……私だったら、ぜったい許せない」
 胸の中が、意味が分からないくらいぐちゃぐちゃになる。泣きながら怒る私に、葉乃は困ったように笑った。
「……笑っちゃダメだよ」
「え?」
 こんなの、ぜんぜん、笑いごとじゃない。
 葉乃の顔から笑みが消える。
「今の話、葉乃にとってはぜんぜん笑える話じゃないでしょ。無理して我慢して、心の中と違う顔をするくせがついちゃったら、どんどん本音が分からなくなっちゃうよ」
 みるみる葉乃の顔が歪んでいく。目から、ぽろぽろと涙があふれ出す。やっぱり、泣くのを我慢していたようだ。
「うん」と、葉乃は肩を震わせながら頷いた。
 葉乃にハブられたと分かったとき、じぶん勝手だと思ったし、ショックだった。
 でも、今なら葉乃のしたことが理解できてしまう。葉乃はこれまで、過去の傷をだれにも打ち明けられないままひとり怯えて、葛藤していたのだ。
「その子たちに合わせなきゃいじめられるかもしれないって思うのは、普通のことだよ。たぶん私が葉乃と同じ立場でも、同じことをしちゃうかもしれない」
 私たちは、ひとりになるとなんの力も持たない。
 たったひとりで完璧に形成された空気に抗うのは、容易なことではない。
 まして、葉乃はいじめられる恐怖を一度味わっている。無茶をしてでもいじめを回避しようと思うのは当然のことだ。
「でも……柚香は私に怒るべきでしょ。私、柚香に最低なことしたんだよ」
「違うよ。先に最低なことをしたのは、その友達だよ。私はその子たちに腹が立つ」
 やっぱり柚香は優しいね、と葉乃は力なく笑う。
「……そのグループね、集まるたびにだれかの悪口を言ってたんだ。あの子感じ悪いよね、とか、あいつウザいからハブろうよ、とか。それで、みんなその言葉に過剰に頷いて。聞いてるだけじゃ保身だと思われるから、それが怖くて私もみんなと一緒になって悪口を言ったりして。中一のとき、私がされていやだったことを別の子にやり返してた」
 葉乃はどこか遠くを見つめて言う。
「そうやってみんなに合わせて笑ってるうちに、どんどんじぶんの性格が悪くなっていってること自覚して、いやになってた」
 気持ちは分かる。
 変わりたいと思いながらも、周囲に流されて、空気に抗えないじぶんがいやだった。
「じぶんのことがきらいできらいで仕方なかった。その子たちと離れたかったけど……でも、同じクラスに美里がいないから、どうしても勇気が持てなくて」
 その言葉で気付いた。葉乃にとっての美里は、私にとっての音無くんと同じなんだ。
「それだけじゃない。私が影でだれかの悪口を言ってるって知ったら、美里にもきらわれちゃうかもしれない。そう思ったら、美里にも相談できなかった」
 呟く葉乃の声は震えていた。
「でも、身動きがとれなくなってる私を助けてくれたのは、やっぱり美里だった」
 中三の夏、美里が突然外部受験をすると言い出した。
「私は教師になりたいから、受験は経験しなきゃダメだと思うんだよね! っていきなり」
 思わず笑う。
「美里らしいね」
「それで、じゃあ私も一緒に受けるってなったんだ。だからね、私が外部受験をしたのは、単に美里と離れるのがいやだったから」
「……そうだったんだ」
 意外だった。
 葉乃は正直、美里以上にじぶんの意思がしっかりしている子だと思っていた。
 外部受験も美里に合わせてではなく、葉乃自身の意思だと思っていた。
「私は、本当は美里がいなきゃぜんぜんダメなの。冷めたふりして強がってたけど、実際はひとりじゃなにもできない」
 葉乃の本音には、自己嫌悪が色濃くあふれ出ていた。葉乃が私へ抱いていた感情の名前を、唐突に理解する。
 劣等感だ。
 私がお姉ちゃんに抱いていた思いと同じ。
 じぶんのことがどうしても好きになれなくて、身近なひとに憧れて、僻んで……。
「美里が柚香とどんどん仲良くなっていくの見て……怖くなったんだ。私だけ置いていかれてるようで……可愛くもなくて性格も悪い私じゃ、勝ち目なんてないから」
 振り絞るような声に、たまらない気持ちになる。
「ずっと、じぶんがだいっきらいだった……柚香みたいに、優しくてなんでもできる子だったら、って、いつも思ってた」
「……私は、葉乃が思うような人間じゃないよ」
「そんなことない。柚香はすごいよ」
「……それなら私だって、ずっと葉乃が羨ましかった」
「え……」
「いつも冷静で、意思がはっきりしてて」
「……そんなことないのに」
「あるよ!」
「ないって!」
 お互い顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。
「なんだか、似たもの同士じゃん私たち」
「だね」
 強いと思っていた葉乃だって、本当は心の中で葛藤していた。
 私と同じように。
 ……みんな、同じなんだ。
「葉乃……話してくれてありがとう」
 葉乃のなかで私がどういうイメージなのかなんて、葉乃にしか分からない。
 同じく、私も葉乃を知っている気になっていただけだった。
『意外』なことばかりだった。
 今、葉乃の本音を聞いて、新しい葉乃を知れたことがなにより嬉しい。
「柚香、今までいやな態度とって本当にごめん」
「私もごめん。美里にも葉乃にもいい顔ばかりして、本音を隠してた。これからは、気を付けるから」
 きらわれるのがいやで、だれにでもいい顔ばかりしていた。
 今回のことだって、音無くんに背中を押してもらえなければ、諦めて葉乃からも美里からも逃げていただろう。心にもやもやを抱え込んだまま。
「……あのさ、葉乃。私は葉乃のことが好きだよ。美里のことも」
「柚香……」
「だから、これからも仲良くしてほしい。……ダメかな」
 葉乃は一度戸惑いがちに視線を揺らして、頷いた。
「私も……柚香のことは好き。でも私……柚香にひどいことしたのに……いいのかな」
 本当に申し訳なさそうにする葉乃に、私は内心ほっとする。
 ハブろうとするくらいだ。葉乃にとって、私はいらない存在だとばかり思っていた。でも、そんなことはなかったようだ。
「じゃあ、星カフェのガトーショコラ一回奢って。それで許す」
 冗談のつもりで言うと、葉乃は少し考えて、スマホを見た。
「……じゃあ、今から行く? 星カフェ」
「えっ! 今から!?」
 驚く私に、葉乃が笑う。
「だってなんか……早く仲直りしたくて」
「行く〜!」
 嬉しくて、思わず抱きつく。
 その後、電車に乗らずに駅を出て、ふたりで星カフェに向かった。
 あれは冗談だからいいよと断ったけれど、葉乃は本当にガトーショコラを奢ってくれた。
「柚香がガトーショコラが好きなんて知らなかった。いつも頼んでなかったよね?」
「あー……うん。まぁダイエットしてたしね」
「えっ、柚香ダイエットなんてしてたの!?」
「うん。最近太っちゃって」
「なにそれ。言ってくれたらマックじゃなくてべつのとこにしたのに」
「いいのいいの。言わなかったのは私だし、それにさ、ふたりと喋るのが目的だったから」

 今日二度目の帰り道、夕陽を眺めながら、葉乃がしみじみとした声を出す。
「……今日、柚香の本音が聞けてよかった。私、今までよりさらに柚香のこと大好きになったよ」
 そう言って、葉乃が私を見る。
 いつもすました顔の葉乃がくしゃっとした顔で笑う。なんとも言えない気持ちになった。
「私も。なんか、安心した」
「ついでに、美里のことも見直した」
「ついでって……美里かわいそー」
 思わず苦笑する。葉乃の口調は、いつも通りだ。
「いーの。今までさんざん迷惑かけられてきたから。正直、美里のそういうところ、いい加減にしてよって思ったときもあったんだ。でも、本当はただ、素直に行動できる美里が羨ましかっただけなんだろうね」
「あー分かる。私も美里の素直さは羨ましい。でも私、葉乃の冷静なところもちょっと辛辣な物言いも好きだよ」
「なにそれ。褒めてる?」
「褒めてるよ!」
 私だけじゃない。
 みんな、じぶんにはないものを持つだれかを羨んだり、憧れたりする。
 当たり前のことだ。だから、そんなことにいちいち恥ずかしがることなんて、本当はないのかもしれない。
「美里、あれでいてなかなか見る目あるわね」
 上から目線の言い方に、思わずぷはっと吹き出して笑う。
「それはなに目線なの?」
「上から目線!」
「もー、やめてよー」
 声を上げて笑い合う。久しぶりに、ふたりで泣くほど笑い合ったような気がする。
「……話さなきゃ、伝わらないんだよね」
「だね」
 泣いたせいで、お互い鼻声だ。
「ねぇ葉乃。私、葉乃と美里と友達になれてよかった」
 すぐとなりにあった葉乃の手をぎゅっと握ると、
「私も」
 と、葉乃も同じ強さで握り返してくれる。
 あたたかなぬくもりが伝わってきて、心がくすぐったくなった。
 不思議だ。さっきまであんなに心細かったのに。
 本音を伝えるのは怖いし、勇気がいる。
 けれど、言わなきゃ伝わらない。
 じぶんを変えるには、勇気を出して動くしかない。他人を待ってるだけじゃ、現実は変わらないんだ。
 電車のアナウンスとともに、線路の向こうから、滑るように電車がやってくる。
「やっときた」
「行こっか」
「うん」
 私たちは手を繋いだまま、電車に乗り込んだ。

 その日の夜、お風呂から上がってスマホを見ると、音無くんからメッセージがきていた。
『どうだった?』
 おそらく、葉乃とのことを心配して連絡してくれたのだろう。
 気にかけてくれていたことが嬉しくて、スマホを見ながら頬が緩む。
『おかげさまで、仲直りできたよ!』
 星カフェで食べたガトーショコラの写真と合わせて送ると、すぐに既読がついた。
『うわ、浮気かよ! 俺のとこのガトーショコラ最高とか言ってたくせに!』
 冗談交じりの返信が返ってきて、さらに笑う。
『じゃあ次あのファミレスに行くときは、葉乃と美里も誘っていくね』
 返信を打って勉強の続きに取り組むけれど、スマホが気になって仕方がない。
 通知が来るたびに光る画面を確認しては、音無くんじゃないと分かると落ち込んで、返信が遅いと寂しくなったりして。
『ごめん、お風呂入ってた』
 たったそのひとことで、それまでのもやもやが晴れていく。
 不思議だ。今までこんな感情になったことはなかった。
 あのファミレスで音無くんと偶然会ってから、私の学校生活はまるで変わった。
 今までいやいややっていた勉強が、今では少し楽しく感じるようになっていた。
 葉乃とも本当の意味で友達になれたし、本音を言うことの大切さも知った。
 ――音無くんは今、なにしてるのかな。
 気付けば、音無くんのことを考えている時間が増えた。
 お風呂から上がってしばらく経つのに熱を持ち始める頬に戸惑いながら、私は問題集と向き合った。


 ***


「恋だね」
「えっ!?」
 美里のどこか得意げな笑みに、私は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、柚香声でかい」
「あっ……ごめん」
 土曜日、私は美里と葉乃と例のファミレスで勉強していた。テーブル席に座り、三人で勉強していると音無くんが注文した料理を運んでくる。
 アイスティーを飲みながら、美里を見る。美里はどうやら、例の星カフェの店主・春希さんの話をしているらしかった。
 美里はこのところ、かなり頻繁に星カフェへ通っている。おかげで顔を覚えられて、最近ではお店に行くとちょっとした会話までするような間柄になったとか。
「それでさ、今度スタジアムで野外シアターイベントがあるんだけど、それに星カフェも出店するんだって! 三人で行かない?」
「いつ?」
「今週の土曜日! 夜の八時から乾多駅前広場でやるんだけど、どう!?」
「私は行けるよ」
 週末の夜。
 ふだん、部活をやらない私の門限は、夜七時。
 八時から映画となると、帰りは早くても十時は過ぎるだろう。行けるものなら行きたいけれど、お母さんに聞いてみないと分からない。
「……ごめん、家に帰ってからあとで返事でも平気?」
「うん、分かった!」
「行けるといいね。 野外シアターとか、私初めて」
「私も! しかも二本立てなんだって!」
「へー」
 ふたりともすごく楽しみにしているようだ。私も話に混ざりながら、お母さんになんて言おうかと考えていた。

 家に帰り、キッチンで夜ご飯を作っていたお母さんに声をかける。
「お母さん。今週末、美里と葉乃と野外シアターに行きたいんだけど、行ってもいい?」
 さっそく打ち明けると、お母さんは私のほうを振り向かないまま、
「べつにいいわよ。でも、門限は守りなさいね」
 と、早口で言った。
 なんとなく、そう言われるような気はしていた。
 しまった、と思う。今日はあまり、お母さんの機嫌は良くないみたいだ。言うタイミングを間違えた。でも、今さらあとには引けない。
「野外だから、映画は八時からなんだって。帰りは十時くらいになっちゃうから、門限には間に合いそうにないんだけど……」
「じゃあダメね」
「お願い、お母さん」
 もう一度懇願すると、お母さんは露骨に不機嫌そうな顔をして、大きなため息をついた。
「……あなたねぇ、いい加減にしなさい」
 うんざりしたような声だった。
「お姉ちゃんは、そんなわがまま言わなかったわよ」
 不機嫌そうに吐き捨てて、時計を見る。
「あぁもう、お父さんも帰ってきちゃうじゃない。ちょっとそこのお皿とって」
「…………はい」
 お皿を差し出すと、お母さんはそれを奪うようにとった。お皿を掴んでいた手が痛い。
「分かってるの? あなた、来年受験なんだからね。お姉ちゃんより出来が悪いのに、そんな遊んでてずいぶん余裕なのねぇ」
 まるで、私がサボっているとでも言いたいみたい。私だって頑張っているのに、どうして分かってくれないんだろう。
 早口で責められて、言い返す気も失せてくる。
「……分かった。断っとく」
「当たり前でしょ。もう、忙しいときに苛立たせないでよ」
 苛立ったようなお母さんの横顔に、私は唇を噛む。
 私は、そんなに苛立たせるようなことを言っただろうか。ただ美里たちと出かけたいと言っただけなのに。
 ――受験生って、たった一日遊ぶのも許されないの?
 部屋に戻り、美里と葉乃と三人のメッセージグループに、『ごめん。やっぱり用事入ってたから行けそうにない』と送る。
 すぐに既読がついて、
『しゃーない』
『じゃあ別の日に三人でどこか行こうよ。いつなら平気?』
 ふたりの優しさに嬉しくなるけれど、それでは星カフェの店主さんのお店に行けなくなってしまう。
『私はいいから、ふたりで行ってきてよ。月曜に感想聞きたいし!』
 送信してアプリを閉じる。
 ふう、と息を吐くが、いらいらは抜けない。
 私はお姉ちゃんとは違う。お姉ちゃんと一緒にしないでよ。
 それに、私は勉強のためだけに学校に行っているわけじゃない。
 どうしてあのとき、そう言い返せなかったんだろう。
 ――私っていつもそう。
 頭に血が上ると、言葉が出なくなる。なにも言い返せなくなってしまう。
 お姉ちゃんにも指摘されたばかりだ。
 ――変わりたくても、なかなか変われないものだなぁ……。
 なんとなく、音無くんの声が聞きたくなってスマホを開くと、メッセージアプリに通知が来ていた。
『今なにしてる?』
 音無くんからのメッセージに心が浮き足立つ。
『ちょうど美里たちと勉強会から帰ってきたとこ』
『電話していー?』
『うん』
 返信してすぐ、スマホが振動した。
「もっ……もしもし!」
『あ、清水?』
 スマホを耳に当てると、音無くんの低い声が聞こえてくる。
「うん……」
『なんか声暗くない? また後藤たちとなんかあったの?』
「ううん。お母さんと喧嘩っていうか……ちょっと揉めて」
『あぁー』
 察したように音無くんが相槌を打つ。
「そういえば今週末、乾多で野外シアターやるんだね。音無くん行くの?」
『俺は行かないかな。清水は行くの?』
「美里と葉乃に誘われたから私も行きたかったんだけど、門限過ぎちゃうからダメって親に言われて」
『あぁ、それで喧嘩になったのね』
「うん……音無くんちは門限とかある?」
『うちは放任主義だから、べつに帰り遅くなってもなにも言われないかな』
「いいなぁ。羨ましい」
『そうか? 俺はなんとなく門限って憧れるけどな』
「えっ、なんで?」
 ないほうが自由なのだから、ぜったいにいいのに。
『だって、心配されてるって感じしない?』
「心配……」
 そうなのだろうか。少し考えて、首を振った。
「違うよ。ぜったい、私が勉強もしないで遊びに行くのが気に食わないだけだよ」
 きっとそうだ。お母さんは、私のことなんて愛していない。
『そうかなぁ』
「愚痴っちゃってごめんね。明日も朝早く行く?」
『うん。そのつもり』
「じゃあ、私も行く。今回数学がついていけなくなりそうで怖くて」
『え、マジ? じゃあ今からする?』
「えっ、今から?」
 音無くんのくすくすという笑い声が、スマホを通じて聴こえてくる。
『うん。どうせ今暇だし』
「それいい! 同じ問題やっていけば、分からないところ教え合えるもんね!」
『どこが分からない? 清水が気になってるところからやろーぜ』
「じゃあ七十三ページの問三から……」
 ――なんでだろう。
 音無くんと話している時間は、勉強している時間ですら心が踊る。
 音無くんと一緒だと勉強すら楽しくて、音無くんに会えると思うと学校に行かなきゃならない平日の朝が待ち遠しくて仕方がない。
「ねぇ、これからもこうやって電話できる?」
 電話を切る直前、私は音無くんに訊ねた。訊かずにはいられなかった。
『いいよ。案外捗ったしね。俺も助かる』
「本当? じゃあ、またね」
『うん、また明日』
 音無くんとの通話を終えてからも、私の心はしばらく浮き足立っていた。


 ***


 週末を終え、月曜日。
 いつものように朝早く教室へ行くと、珍しく音無くんの姿はまだなかった。
 どうやら今日は、私のほうが一足早かったようだ。いつもと同じ電車で来たのに。
 ――今のうちに、飲み物を買ってこようかな。
 鞄から財布を取り出し、いちばん近くの自動販売機へ向かう。
 北棟と南棟の間の渡り廊下に出ると、ちょうど自動販売機の前にだれかがいた。
 音無くんと梓ちゃんだ。咄嗟に私は扉の陰に隠れて様子をうかがう。
「優希ってば笑い過ぎだよ、もー」
 梓ちゃんの溌剌とした声が、静かな空間に凛と響く。
「悪かったって!」
 楽しそうなふたりに、私はその場所へ向かうのをためらう。
 音無くんがこれまで早く学校に来ていたのは、もしかしたら梓ちゃんとこうして話すためだったのかもしれない。
 もしそうだとしたら、私は邪魔をしていたことになる。
 ――約束、したのにな。
 ずきん、と胸が痛んだ。
 結局、私は遠回りをしてべつの自動販売機に向かった。
 アイスココアのストローを咥えながら、空を見上げる。どんどん鮮やかになっている空に目を細める。
 ――せっかく早起きしたのに、朝勉サボっちゃった。
 結局私は、始業時間ギリギリになるまで教室に戻らず、構内をふらふらして時間を潰した。
 ちょうど昇降口前の廊下を通ったところで、登校してきた美里と葉乃とばったり会った。
「あっ! おはよ! 美里、葉乃」
「おはよう、柚香」
「おはよぉ、ゆず」
 笑顔で挨拶をしたものの、ふたりの顔はどこか暗い。ふたりの、というより主に美里の。
 なにかあったのだろうか。
「どうしたの、美里」
 なにかあった? と声をかけると、美里がパッと顔を上げた。目が合うと、美里はみるみる泣き顔になっていく。
「えっ? ちょっ、どうしたの!?」
 慌てる私に、美里が抱きつく。
「ゆず〜っ!!」
「わわっ」
「聞いてよ! 土曜日にね、葉乃とふたりで野外シアター行ったの! そうしたら春希さん、奥さんと一緒にいて……しかも子供までいたんだよ!!」
「……そ、そうだったんだ。この前言ったとき、指輪してたっけ?」
「聞いたら、ふだんは衛生の関係上してなかったんだって……マジショック」
「あぁ……」
「それで、映画の前からこの有様なのよ」
 と、淡々とした口調で、葉乃が説明する。
「大変だったね、葉乃」
「まぁ、春希さんの奥さん、すごい美人だったから、美里が落ち込むのも分かるけど」
 落ち込んだ様子の美里に、私は葉乃と顔を見合わせて、どうしようかと苦笑を漏らす。
「もう美里ってば、いつまでも落ち込んでないで元気出しなよ」
「だって〜」
 子供のようにグズる美里に苦笑しつつも、心の中では美里を羨ましく思った。
 ふと、いいことを思いつく。
「ねぇ、よかったら今日、放課後三人でコスメ見に行かない?」
「……コスメ?」
「ちょうど新しいリップほしかったの。美里もイメチェンしたいって言ってたでしょ? 私、美里にはオレンジ系のリップが似合うと思ってたんだよね〜!」
 美里の顔に、パッと花が咲く。
「なにそれ、行く! 超楽しそうじゃん!」
 よかった。少し明るくなった。
「葉乃も行くでしょ?」
「行く!」
 いつもの美里だ。葉乃を見ると、葉乃が口パクで「アリガト」と言う。
 機嫌を直した美里と葉乃と他愛ない話をしながら、教室へ入る。
 と同時に、始業のチャイムが鳴った。急いで席について、文庫本を机の中から取り出した。


 ***


 放課後になると、私たちはさっそく駅ビルの地下にあるコスメショップに向かった。
「ね、そういえば柚香ってなんの化粧水使ってるの?」
「あっ、私も気になってた! ゆずって肌きれーだしさぁ。私ニキビができやすくて……」
「えー、そんなことないよ。私だって肌荒れするする!」
 女の子の日が近くなると、顔にいくつもニキビができる。
 ニキビがあるときは、常にだれかに見られているような気がしてしまって、落ち着かない。
「分かる! ニキビ顔とか思われてんだろーなーとか!」
「私たちが思うほど、周りはべつに気にしてないんだろうけどね」
「そうなんだけどさぁ」
 ちょっとした悩みだったけれど、話してみるとふたりも似たような悩みを持っているらしい。
「あっ、化粧水ってこのあたりじゃない?」
 私たちは話しながら、化粧水のコーナーへ向かう。すぐ正面の棚に、じぶんが使っているものと同じパッケージの化粧水を見つける。
「あ、これこれ。私はこれ使ってるよ」
 そう言って、私が使っている化粧水を手に取る。
「良さそう! 私も使ってみようかな」
 悩む美里の横で、葉乃は洗顔コーナーを物色していた。
「葉乃はなに見てんの?」
「私は洗顔がほしいんだよね。今使ってるの、洗い上がりがあんまりいい感じしなくて」
「そうなんだ」
「柚香はなに使ってる?」
「私はふだんは化粧しないからこれ。でも、休みの日に化粧したときとかは、お姉ちゃんのクレンジング洗顔借りてる。えっと、これなんだけど……」
「おっ! ゲルか。いいって言うよね」
「私、ゲルはまだ使ったことないな〜」
「あと、角質取りにはスクラブ入りもいいってお姉ちゃん言ってたよ」
「へぇ〜そっか! ありがとう。買ってみる」
 美里と葉乃は、目を輝かせて商品を選んでいた。
 ひととおり買い物を済ませたあと、私たちは駅中にある有名珈琲チェーン店に入った。
「ねね、知ってた? この前SNSで見たんだけど、このフラペチーノのミルクをアーモンドミルクにするとピノのアーモンド味になるらしいよ!」
「えっ! そうなの?」
「私、今日はそれにするんだ!」
「私はカフェモカ」
「葉乃はいつもそれだよね〜。飽きない?」
「私、冒険はしない派。確実に美味しいやつ飲みたいじゃん」
「分かるけど、それじゃつまんないよ〜」
「つまらなくてもいいの。てか、私が保守派になったのはいつも新作選んで失敗してるだれかさんを見てるせいだから」
「それはだれだ?」
「あんただ」
「え、私!?」
「あ、でも味見はしたいから美里と柚香のひとくちずつちょうだいね」
 炸裂する葉乃節に、私は思わず笑ってしまった。
「ゆずが笑ってる〜」
「ごめん。ふたりって本当に仲良いいなって思って」
「そりゃあ、親友だからね」
「だね。で、ゆずはなににする?」
「あー……私は……」
 ――どれにしようかな。
 いつもメニューの中から、じぶんの飲みたいものをパッと選ぶ美里と、ブレない葉乃。
 私はメニューの上で指先をさまよわせたまま、ひとつに決められずに悩む。
 ――どうしようかな。
 あまり迷ってる時間はない。早く決めなければ、ふたりを待たせてしまう。
「あっ、見てみて! この抹茶のやつも美味しそう!」
「ほんとだー。お、これも美味しそう」
「これは悩むね〜! 私、次はこれ飲もうかな」
 ――次。
 ふたりの何気ない会話に、ハッとした。
 ――そっか。次があるのか。
 今、どれを選んだとしても、それがすべてじゃない。
 また、次があるのだ。今回頼んで気に入らなければ、次は違うものを頼めばいい。
 そう考えると、ずいぶん気持ちが軽くなる。
「……私、これ飲んでみようかな」
 選んだのは、ずっと気になっていたエスプレッソシェイク。
 苦いのかもと思って、なかなか手が出なかったけれど思い切って選んでみた。
「あーそれ、私も気になってた!」
「エスプレッソだと苦いのかな?」
「えーシェイクだから甘いんじゃない?」
「飲めば分かるでしょ」
「だね〜」
 ドリンクを注文し、三人がけの空いているテーブル席につく。
「うんま〜!」
 さっそく届いたドリンクを飲んだ美里が、とろけた声を上げる。それを見ていた葉乃が苦笑した。
「あっという間に機嫌直ったね。朝まで死にそうな顔してたのにさ」
「美里、元気出た?」
「うん! ふたりのおかげで元気出たよ! マジでありがと〜。今日この化粧水使うのも楽しみだし!」
 上機嫌におしゃべりを始めた美里に、私も安心してドリンクを飲む。
 初めて飲んだエスプレッソシェイクは、ちょっとほろ苦くて、でもその中にほんのりと優しい甘さもある。
 頼んでよかった。すごく美味しい。
「でもさ、柚香はお姉さんがいるから、コスメとかそういう知識、詳しく教えてもらえていいよね。私たちひとりっ子だからぜんぜん分かんなくて。今日はすごい助かったよ」
「分かる。私も昔お母さんにお兄ちゃんがほしいって駄々こねてたことあった。まぁ、ふつうに無理だったよね」
「しゃーない。子供はそういうことわかんないから。でも兄妹かぁ。それなら私はお姉ちゃんがいいな〜。友達感覚で恋の相談とかできそうだし!」
 盛り上がるふたりに、私はぽつりと漏らす。
「……そんないいものじゃないよ」
 言ってから、しまった、と思った。思わず本音が漏れてしまった。
 美里と葉乃が顔を見合わせる。
「あっ、ごめん。べつに変な意味で言ったんじゃなくてね。ただ喧嘩とかもするし……」
 慌てて誤魔化そうとするけれど、咄嗟にうまい言い訳が出てこなくて、歯切れの悪い言い方になってしまった。
 思わず俯いた私に、美里が控えめに「あのさ」と言う。
「……ずっと思ってたんだけどさ、ゆずってお姉さんとあんま仲良くない?」
「え……」
 返す言葉に詰まっていると、今度は葉乃が気遣うような口調で言った。
「あんまり話したくなかったら、無理には聞かないけど……よかったら聞くよ」
「うんうん。私たち、いつもゆずに助けられてるし。たまには力になりたいよ」
 美里と葉乃のまっすぐな言葉に、心が揺らぐ。
 ――どうしよう。
 本当は話したいけれど、もし本音を打ち明けて、笑われてしまったら。
 そのとき、脳裏に音無くんの声が響いた。
『みんなが慕ってるのは、清水が優等生だからじゃない。清水が頑張ってるからだよ』
 思い切って本音を打ち明けたとき、音無くんがくれた言葉だ。
 ――本当にそうなのかな。
 考える。
 あのときだって、本音を話すのは怖かった。
 私はありのままのじぶんに自信がないし、繕うものを失ったらじぶんを守るものがなくなってしまう。
 でも、音無くんに思いを打ち明けて心が軽くなったことも事実だった。
 戸惑いながらも顔を上げると、ふたりは優しい顔をして私を見つめていた。
『……夢がないって、変じゃないかな……?』
『変なわけない』
 夢がないことを勝手に悪いことと思って、勝手に自信を喪失して。
『俺らまだ十七だよ? 人生まだまだこれからだろ。焦ることないよ』
 でも、音無くんに教えてもらった。
 夢がないことは、意思がないことではない。
 ずっとひとりで抱えていた。だれかに話したかった。でも、怖くていつも言葉を飲み込んでいた……。
 話してみなければ、受け入れてもらえるかどうかは分からないのに。
 現状を変えるには、勇気を振り絞るしかないのに。
 ふぅ、と息を吐く。
 ――……大丈夫。
 もし私がふたりに本音を打ち明けたとしても、ふたりはそれを笑ったりするような子じゃない。
 手のひらをぎゅっと握る。
「……あのさ……聞いてくれるかな」
 思い切って顔を上げると、美里と葉乃はもう一度顔を見合わせて、「もちろん」と、微笑みながら頷いてくれた。
「私ね、ずっと青蘭医大を第一志望って言ってきたけど、本当は医者になりたいわけじゃないんだ。青蘭医大を目指してるのは、お姉ちゃんが行ったからなんとなくで……お姉ちゃんと同じように医者を目指せば、みんなに認められるような気がして……ただの強がりだったの」
 私にとってお姉ちゃんは、目の前に立ちはだかる大きな壁のようなものだった。手を伸ばしても届かなくて、どれだけ強く押しても避けられないもの。
 お姉ちゃんのことは大好きだけど、となりにいるといつも必ず比べられたから、そばにいるのは息苦しかった。
「………私、今までふたりの前では猫被ってた。本当はぜんぜん優等生なんかじゃないんだ。勉強だって、毎日ついていくのに必死で……こそこそひとりで勉強してた。本当はふたりと勉強会とかしたかったし、悩みも聞いてほしかったけど、私がこんなことで悩んでるって知ったら、呆れて離れていっちゃうんじゃないかって思ったら、怖くて言えなくて……ごめんなさい」
 ふたりは口を挟むことなく、私の話にじっと耳を傾けてくれる。
「ゆず……」
 美里の声がどことなく震えているような気がして、私は顔を上げる。
 美里と葉乃の顔を見て、驚いた。
 ふたりは目元をほんのり赤くして、私を見ていた。ふたりの目はしっとりと濡れていて、涙ぐんでいるのが分かる。言葉もなく驚いていると、美里が私に向かって小さく叫んだ。
「バカ! 私たちが親友の悩みをバカにするわけないでしょーが!」
 そう言う美里は、少し怒ったような顔をしている。私は美里が言った言葉に、ぽかんとした。
「しん……ゆう?」
 私たちは、親友だったのか。
 ふたりのことは信頼しているし、友達だと思っている。けれど、ふたりが私のことを親友とまで思ってくれているとは思わなかった。
「私たち……親友なの?」
 ぽつりと漏らすと、美里が青ざめる。
「えっ!? 違うの!? もしかして、親友って思ってたのは私だけ!? なにそれ、めっちゃ悲しいんだけど!」
 その顔は、本気で衝撃を受けているようだった。
「ご、ごめん! そういうつもりじゃなくて……でも私、ふたりとは昨年友達になったばっかだし……そこまで思ってくれてると思わなかったから、びっくりしちゃって」
 となりで葉乃が、ため息をついた。
「まぁ、柚香の気持ちも分かるけどさ。でも、こういえのってたぶん、時間じゃないよ」
「え?」
「友達ってさ、家族とか夫婦とかと違って、血の繋がりも書類上の証明もないし、すごく不安定なものだと思う」
 葉乃はドリンクを両手で包み、ひっそりとした声で言う。
 葉乃は私と目が合うと、ふっと目を細めて、私に優しく問いかけてきた。
「今日、柚香が美里をショッピングに誘ったのは、落ち込んでた美里を元気づけるためだよね?」
「え? う、うん」
 頷くと、葉乃はふっと気を抜いたような笑みを見せる。
「親友って、そういうことだと思う。ちょっとした言葉とか、行動とかでお互いがちゃんと思い合ってるって分かること」
「おお、葉乃いいこと言う!」
 美里が葉乃の肩をつんと小突くと、葉乃はじろりと美里を睨んだ。
「でも私、美里のひとの言動を茶化すところはきらい」
「うっ……ご、ごめん」
 顔をひきつらせて謝る美里を見て、葉乃が「冗談だけどね」と笑う。
「冗談かよ」
 ツッコミながらも、美里の表情は嬉しそうだ。いつもどおりのふたりの痛快なやりとりに、なんだかほっとしつつ、いいなぁと思う。
「……そっか……」
 これまで、私は勉強しているところを見られるのすら不安だった。
 もし、私が努力して今の地位にいることが分かってしまったら、みんな私から興味を失くして離れていってしまうんじゃないかと、怖かった。
 だけど、考え過ぎだったのだ。
 少なくともふたりは、ひとの努力をバカにするような子じゃない。
 一年以上友達として接してきた私は、はっきりそう断言できる。
 それなのに私は、勝手に自信を失くして、怯えていた。
「……あ、あのさ、私……」
「柚香」
 言い淀む私に、葉乃が声を被せてくる。
「私たちはべつに、なんでもかんでも話すのが親友って言いたいわけじゃないよ」
 ふたりは優しい眼差しで私を見つめていた。
「そーそ! ゆずは、言いたいときに言いたいことを言えばいいさ。私もそーするし」
「…………」
 あらためてじぶんの心に問いかける。
 私はべつに、ふたりに本音を言いたくなかったわけではない。
 ただ、今の関係が壊れてしまうかもと考えると怖くて勇気が出なかっただけなのだ。
 ふたりの考えかたを知った今、恐怖心はあまりなかった。
 言うなら、きっと今がいちばんいい。
 ふたりには言いたい。私の弱いところも知っていて、辛いとき助けてほしい。そう、心から思う。
「……うち……お姉ちゃんが優秀だから、親からはあなたもお姉ちゃんみたいに立派になりなさいって言われて生きてきたんだ。でも、頑張っても頑張っても、ぜんぜんお姉ちゃんに追いつけなくて……でも、みんなに立派だねとか、偉いねとか言われてきたから、みんなから慕われるじぶんでいるためには、このくらい努力しなきゃいけないんだって……だからずっと、じぶんの意見は呑み込んでた」
 思いが込み上げて、視界が滲む。
 震える声で本音を漏らすと、そっと頬を挟まれ、顔を上げさせられた。
 葉乃が身を乗り出して、私に触れていた。
「大丈夫。柚香は柚香だよ。どんな柚香だって、私たちは友達のまま。だから、私たちの前では無理して笑わないでよ」
「葉乃……っ、あ、ありがと……」
 葉乃の言葉で、目に溜まっていた涙が頬をつたい落ちていく。
「そうだよっ! ゆずはゆずなんだから、お姉ちゃんなんか関係ないじゃん! ゆずは、ゆずらしくいればいいんだよっ!」
 ふっと全身から力が抜けていくようだった。今までだれにも打ち明けられなかった不満や不安が、葉乃や美里の言葉ひとつできれいに霧散していく。友達の力ってすごい。
「ねぇ、今度三人で夏期講習でも行く?」
「えっ?」
「勉強会とかって気分沈むけど、ふたりと一緒だと楽しそうだし。勉強目的なら、ゆずのお母さんも許してくれるんじゃない?」
「そっか……!」
「ねっ? やろやろ! もうすぐ夏休みだし!」
「昼間のイベントも行こうよ。そういえば、池袋でお化け屋敷が期間限定でやるんだよね! 今度行かない?」
「なにそれ楽しそう!」
 話が持ち上がった途端、ふたりははしゃぎながらスケジュールアプリを開いて予定を立て始める。
 そんなふたりを見つめ、私は心からふたりに話してよかったと思った。

 カフェを出て、駅までの道すがら。
 夕暮れの街の喧騒の中、私はふたりに告げる。
「美里、葉乃、今日は話聞いてくれてありがとね」
「また三人でショッピング行こうね!」
「うん! 行く」
 ふたりと顔を見合わせて、ふふっと笑い合う。
 知らなかった。
 ただ悩みを打ち明けただけなのに、本当のじぶんを受け入れてもらえただけなのに、こんなにも心は軽くなるんだ……。
 私は、硬いアスファルトにたしかに足を踏み出した。

 学校の最寄り駅につくと、私は反対方向の美里と別れて、葉乃とふたりきりで電車を待っていた。
 ホームのベンチに腰掛けて、向かいのホームに立つひとたちを何気なく眺めていると、ふと葉乃が私を呼んだ。
「ねぇ柚香」
「んー、なに?」
「……ありがとね」
「え?」
「私たちに本音話してくれて」
「……私こそ、聞いてくれてありがと。葉乃のおかげで、めちゃくちゃ心が楽になった」
 葉乃が目を大きく開いて、私をまじまじと見た。
「ほんと?」
「うん」
「話を聞いてて思ったんだけどさ。柚香って、お姉さんのことも親御さんのことも、きらいじゃないよね?」
「……きらいじゃない。お姉ちゃんのこともお母さんのことも好きだから……だから余計、辛かった。私を見てほしかったんだと思う」
「そっか」
 葉乃が黙って私の手を握る。
「大丈夫」
「……うん」
 あたたかいぬくもりに、心から話してよかったと思った。


 ***


 家に帰ると、玄関先でばったりお姉ちゃんと出くわした。
「あ……」
 お姉ちゃんとは、あの夜以来ずっと喧嘩したままだ。いい加減ちゃんと話さなきゃと思いつつ、すれ違い続けていた。
 お姉ちゃんは動揺する私にさらりとした声で「おかえり」と言うと、私の横を通り過ぎて靴を履く。
「うん……ただいま」
 靴箱のほうへ身体を寄せて、お姉ちゃんが靴を履いているのを見下ろしていると、ふと視線を感じたらしいお姉ちゃんが顔を上げた。
「柚香、あとで、時間ある?」
「え?」
「来週末とか。ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「あ……うん。大丈夫だけど」
「じゃあ、週末ね」
 お姉ちゃんはそれだけ言うと、振り返りもせずに家を出ていった。


 ***


 朝、部屋のカーテンを開けると、しとしとと雨が降っていた。
 衣替えは済んでいるが、今朝は少し肌寒い。
 私はブラウスの上からサマーセーターを着て、家を出た。
 雨の街を見ていると、音無くんのことを思い出す。以前、音無くんとの会話の中で、雨の話題が出たからだろうか。
 あのときの話は本心だった。
 雨はもともと好きだった。でも、あれから雨がもっと好きになった。
 傘を鳴らす雨音も、田んぼの水面に広がる波紋も。くすむビルの影も、そのなかでも色彩鮮やかな草花も。
 ぜんぶ、音無くんとの思い出にリンクするからだろう。
 私は少し早歩きで学校へ向かった。
「おはよう」
 校門前に差し掛かったところで、ビニール傘を差した音無くんが向かいから歩いてきた。
「おはよう」
 挨拶をすると、音無くんがしみじみと言う。
「やっと会えたわ」
「え?」
「最近清水、俺のこと避けてただろ?」
「あ……ごめん。なんか、邪魔したくなくて」
「邪魔?」
 音無くんが眉を寄せる。
「その……梓ちゃんと仲良いみたいだったし……」
「えっ! なにそれ」
「なんか、ふたりがよく一緒にいるとこ見たから」
「まぁ、小林とはそりゃ同じ部活だから、仲はいいけど。でも、朝勉は一緒にやるって約束してたじゃん。ずっと待ってたんだよ」
「そうだけど……私はそうしたかったけど、でも、もしかしたら音無くんにとっては迷惑だったかなって思って」
「あー、また勝手な解釈!」
 ハッとする。
「あっ……ごめん」
 そうだ。
 私はまた勝手に、じぶんの想像で音無くんから離れようとした。音無くんはきっとこう考えていると思い込んで。
「……そうだよね、ごめん」
「いいよ。癖っていうのは、そう簡単に変わらないよな。俺もそうだし」
「……音無くんも変えたいところがあるの?」
「あるよ、たくさん」
「意外……」
「清水は俺のことなんだと思ってんの? てか、じぶんがめちゃくちゃ好き! なんてひといないと思うけどな」
 本当、そのとおりだ。
「ごめん」
 ぺろりと舌を出して謝ると、音無くんは「もう」と、ぽりぽりと頬をかいていた。
「べつにいいけどさ。俺も、もしかしたらまたなにかして清水にきらわれたのかもって落ち込んでたし」
 ハッとした。私はまた、先入観に縛られていた。
「そんなわけないよ!」
「本当?」
「……う、うん。本当」
 ――むしろ……私は。
 途端に音無くんの目をまっすぐに見るのが恥ずかしくなって、私は俯きがちに歩く。
 ちらりと隣を見て、覚悟を決める。
「……あのさ。私、ずっと音無くんに言いたいことあったんだ」
「なに?」
 音無くんが不思議そうに振り向く。
「あのね、私……音無くんのおかげで葉乃と美里とちゃんと話せた。ずっと、だれにも言えなかったことも言えた。だから、ありがとう」
「……そっか。それは、よかったな」
「うん」
 話しながら、肩を並べて昇降口に入っていく。
 今まで学校は、勉強するための場所だと思っていた。
 でも今は、音無くんに会える学校が、美里や葉乃と笑い合える学校が純粋に楽しみに感じている。


 ***


「そういえば、梓が音無に告ったって噂になってたけど、あれガチかな?」
「えっ、そうなの?」
 昼休み、三人でお弁当を食べていると、葉乃がちらりと言った。
「さぁ……」
 たぶん、葉乃は私が音無くんと仲がいいことを知っているから、わざと言ってくれているのだろう。葉乃のちょっとした優しさに気づけるようになったことが嬉しい。
「本当かどうかは知らないけどね」
 音無くんがモテることは知っていた。
 それから、梓ちゃんが音無くんに好意を抱いているということも。
 ふたりでいるところはよく見かけたし、梓ちゃんが音無くんに教科書を借りに来ることも多々あったから。
 ――音無くんはなんて返事したんだろう……。
 もし、梓ちゃんと付き合い出したのだとしたら、もう今までのように電話したり、会うことはできなくなるのだろうか。
 それは少し寂しい。せっかくやっと仲良くなれてきたのに。
「……ゆず?」
 黙り込む私を、美里が控えめに呼ぶ。
 顔を上げると、心配そうな顔をしたふたりが私を見ていた。
「あ、なに?」
「あのさ、ずっと気になってたんだけど、ゆずって音無と付き合ってるの?」
「えっ!?」
 思わず大きな声が出る。
「つつ、付き合ってないよ!」
 否定すると、葉乃はふぅんと小さく呟き、いちごミルクを飲む。
「でも、好きだよね?」
「え……」
 どきりとする。
「最近よく、音無と話してるとこ見るし」
「…………それは、そうなんだけど」
 隠していたわけではないけれど、なんとなくじぶんの気持ちがまだよく分からなくて、言い出せずにいたのだ。
「その……そもそもなんだけど。好きってどんな感じ?」
「えーそりゃあ、ふとしたときに会いたいなーとか、今なにしてるのかなーとか、気付いたら考えちゃってるって感じよ」
 ――気付いたら考えてる……?
「どう。気付いたら考えてる?」
 葉乃に訊かれ、考える。
「考えてる……かも」
 神妙に頷くと、葉乃はしみじみと頷いた。
「そっか。じゃあ好きだね」
「でも、付き合いたいかって言われると、ちょっと違うかも」
「えーなんで? どーゆうこと?」
 美里が興味津々に訊いてくる。
「今のままでも私は満足してるというか、もし告白して断られたら今までのようには会えなくなっちゃう。そんなのいやだし、それにこれから受験だし……だれの手も煩わせたくないなって」
「あーまぁね。言いたいことは分かるけど」
 葉乃が頷く。
「でもさ、柚香の中で特別なのは間違いないんだね」
「……うん。それはそう」
 音無くんがいなければ、私は今頃もひとりで悩んだままだっただろう。
「じゃあ、音無が他の子と付き合っちゃってもいいって思える?」
「それは……」
 いやだ、と思う。
 でも、それを口にする権利は私にはない。私は、音無くんにとってなんでもないから。
「いやなら、やっぱり思いは伝えたほうがいいんじゃない? 伝えないまま後悔するよりは、言って後悔したほうが、次に進めそう」
「それはあるね。私は結局、不完全燃焼だったから余計、告白には憧れる」
 ――告白、かぁ。
 怖いけれど、踏み出さなければなにも変わらないということを、私はもう知っている。
 音無くんの気持ちは、素直に知りたいと思う。
 もし、告白をして音無くんも同じ気持ちだったら、どうなるのだろう。
 ――付き合うってこと?
 でも、付き合ったらどうするんだろう。
 ――デートとか?
 ふたりで出かけるのは楽しそう。
 でも、それは恋人じゃなくても勇気さえ持って誘えばできてしまう気がする。
 それにもし、付き合ってやっぱりダメになってしまったら。そっちのほうが私は怖い。だって、もしそうなってしまったらきっと、今までのような友達関係には戻れなくなってしまう。
 それはいやだ。
 そんなリスクを負うのなら、今のままでもいいと思ってしまうのは臆病なのだろうか。
 ――恋って、難しいな……。
 もうすぐ期末テストが始まる。そして、期末テストが終わったら夏休みに入る。
 毎年楽しみにしていたはずの夏休みが、今年はなぜか、そんなに嬉しくない。
 卵焼きを頬張りながら、私は味気のない空を見上げた。