……やっべ。とうとうクレームを入れられてしまうのか。
ちょっと、どんだけ時間かかってんのよ。私はね、絶妙な甘さが美味しくて見た目も美しいマニーフラッペを早く飲みたいの。チンタラしてんじゃないわよ。白人ならとっとと英語で対応しなさいファックユー! とか、禁止用語を織り交ぜながら怒鳴られてしまうのか……!?
思わず身構える。
だが、俺のこんなアホみたいな心配とは裏腹に、彼女は男性客の隣に立って口を開いた。
「大哥,你需要帮忙吗」
ん……?
彼女、いま、中国語を喋ったか?
「你要低咖啡因拿铁,是吗」
状況がいまいち理解できていない俺をよそに、彼女は流暢な中国語でお客さんと話しだした。
なにを言ってるのかさっぱりだ。もはや宇宙語に聞こえる。
俺がカウンター越しで茫然としていると、彼女がパッとこちらに顔を向けた。
「このお客さん、カフェインレスのホットラテがほしいんですって」
「えっ」
俺は一瞬、言葉が出てこなかった。
たった一秒前まで早口で中国語を話していた彼女が、いきなり日本語を口にしている。それも、とても綺麗な発音で。
この人は中国語が喋れる日本人なのか。いや……それとも日本語が話せる中国人?
まあ、そんなことはどうでもいいか。
とにかく、彼女はこのピンチから俺を救おうとしてくれているようだ。なんて、ありがたいんだろう。
彼女は肩をすくめ、眉を潜める。
「なにボーッとしてるのよ。さっさとこのお客さんにラテを用意してあげたら?」
彼女の言葉にハッとした。
「あ……申し訳ありません。カフェインレスのホットラテですね、ただ今ご用意します」
テンパるのは一旦やめだ。
俺はラテを丁寧に、なおかつ超特急でカップに注いだ。
「お待たせしました。こちら、カフェインレスのホットラテです」
どうにかこうにか会計を済ませ、無事にお客さんに商品をお渡しできた。満足そうな顔をして、彼は店内から去っていく。
よかった。要求に応えられて……。
安堵しながらも俺は、中国語で助けてくれた彼女に向かって深く頭を下げる。
「ありがとうございました。助けていただいて」
「別に。早く注文したかっただけだから。顔上げて」
そう言われ、俺はゆっくりと面を上げる。
──このとき、改めて彼女の顔をはっきりと見た。
よく手入れされた長めのショートボブは、艶のある黒色がとても印象的だった。こちらを見つめるブラウンの瞳は大きくて、どこか冷めたような表情を浮かべている。
やっぱり。間違いない。
先日、学校の屋上で会ったあの彼女だ。
彼女が生きている。その事実だけで、俺は安心した。
「君はあの日の」
と俺が問いかけようとすると、彼女は大きく首を横に振った。
「新商品って今日からよね?」
「えっ」
「注目。していい?」
「は……はい」
彼女はメニュー表を眺め、俺の目を一切見ない。まるで「他人」と接しているように。
まさか、忘れられているわけじゃないよな?
深く訊きたかったが、あくまでも今はバイト中だ。お客さんとして来店している彼女に対して、下手なことはできない。
仕方がない。俺はマニーカフェの店員として接客を続ける。
「お待たせしてしまい、すみませんでした。新商品のチョコレートチップ抹茶フラッペでよろしいですか」
「ええ。Sサイズをちょうだい」
「かしこまりました。ただ今お作りいたします」
会計を済ませ、俺はドリンク作りを開始した。
抹茶ミルクとホワイトクリームをカップに注ぎ、丁寧にチョコチップを載せていく。
ただ機械的に入れるだけではダメだ。マニーカフェのドリンクは見た目も大事。美しく、色鮮やかに作らなければならない。
……と、関さんから教わった。
全身全霊で商品を作り終え、俺はそっと彼女にカップを差し出した。
「お待たせしました。期間限定販売のチョコレートチップ抹茶フラッペです」
彼女は商品を眺めながら、ふっと微笑んだ。
「すごく綺麗ね」
「ありがとうございます。ほろ苦い抹茶の味とホワイトクリームの甘さがほどよくマッチしていて、すごく美味しいんですよ」
「そう。味わっていただくわ」
「ぜひ! ごゆっくりどうぞ」
フラッペを片手に、彼女は客席へ歩いていった。カウンターから背を向ける形で窓際の席に座る。
なにかの参考書を開き、どうやら勉強するらしい。
──と、俺が彼女のことを気にしている、そんなときだった。
背後から、殺気が漂ってきた。恐る恐る、振り返ってみる。
案の定と言うべきか。やはり睨まれていた。
……恐怖の先輩、関さんに!
『おいてめぇ、お客さんにはもっと丁寧に接客しやがれ!』
と言いたげな目をしているじゃないか。
関さんの鬼の形相を見ただけで俺は息が止まりそうになる。焦りつつアイコンタクトで返事をした。
『いやいや、関さん。あれでも丁重にもてなしたつもりなんですよ』
『つもりになってるんじゃねぇ! 日本語が通じない客でもなんでも、公平に対応しやがれ!』
マジで関さんはおっかない。さすがバイトリーダー。俺みたいなぺーぺーにだって容赦しないんだ。
ここのマニーカフェは海外から来たお客さんが多い。
ただでさえ俺は「白人」だ。ネームプレートにはファーマーと記名もされている。みんながみんな俺を見るなり、英語で対応してくれるものだという前提で話しかけてくるんだ。
俺は無理だよ、英語での対応なんて。心や習慣、言語は日本人なんだ。見た目と血統だけがイギリス人というだけだからな。
それにしても、中国語で助けてくれた彼女は凄かった。日本語も普通に話していた。留学経験があるのか、それともバイリンガルなのか。
マニーカフェの店員である俺が、お客さんに対して私情を聞き出すなんてことはできない。それでも、つい考え込んでしまった。
しかし俺が帰る頃、気になる彼女はとっくに店から姿を消していた。
いつかまた、店に来てくれるのだろうか。
◆
月曜日の朝。
寝起きの身体を無理やりベッドから引きずり出し、自室のカーテンを開ける。
マンションの五階から眺める風景には、今日も忙しなさが描かれていた。アスファルトに塗られた道を歩くサラリーマンや学生たちの姿。彼らは皆、眠そうな目をして町の中を行き交っている。
大型連休が終わり、日常が戻ったんだ。
大きなあくびを一発、俺は学校へ行く準備をはじめた。
洗面所で歯を磨いてから顔を洗い、髭を剃り、フェイスクリームで肌を整える。
軽く髪を梳かして、それから高校の制服に手を伸ばした。
まだまだ新しいワイシャツ。不器用な手で青いネクタイを首に巻きつけ、ダークグレーのブレザーを羽織った。
入学してからそろそろ一ヶ月が経つが、あまり体に馴染んでいない。おまけに鏡に映る自分の姿は、明らかに寝ぼけていてみっともなかった。
寝起きだとしても、俺の腹は朝食を求めて音を鳴らしている。重い足取りでリビングへ移動した。
「おはよう、イヴァン!」
ライトグレーの瞳を俺に向け、母が俺を出迎えた。
表情も声も明るい母は、四十代後半とは思えないくらい若々しい。実子である俺から見ただけでなく、友人たちにだって美人だとよく言われるほど。
そんな母は、料理だってうまい。ちょうどダイニングテーブルに朝食を並べ終わったようだ。
大きな皿の上には目玉焼きとビーンズ、焼いたウィンナーやおにぎりが盛られている。
フォークを手に取り、椅子に腰かけて俺は食事をとりはじめた。日本人の習慣として「いただきます」も忘れずに。
俺が黙々と食事を進める中、やがて父もリビングへやって来た。
「モーニング、ダーリン!」
母は満面の笑みで父にも挨拶をする。
愛おしそうに目を合わせると、父と母は軽くハグをした。
両親は昔から仲がいい。俺の前でも構わずハグやキスをする。小さい頃から見せつけられているから、別に……今さら気にならないが。
ひと通りスキンシップを取った父は、ゆっくりと椅子に腰かける。シワひとつないシャツを着ているが、アッシュブラウンの短髪には寝癖がついたままになっている。癖っ毛の父は、毎朝髪を整えるが大変そうなんだ。
俺の髪質に関しては母親譲りだから、それはよかったと心から思っている。
母も椅子に座り、三人で食卓を囲んだ。夕飯はバラバラになることが多いので、朝は家族団らんの貴重なひとときと言うべきなのかな。
「朝から悪いんだが、二人に話したいことがある」
ミルクティーを一口含んで、父は急に姿勢を正した。
なんだろう、急に改まって。
ふう、と息を吐き、どこか緊張した面持ちでひとことだけ口にした。
「イギリスへ帰ろうと思っている」
その声は、普段よりもはるかに低いものだった。
というか……今、なんて言った? 帰ろう? イギリスへ帰ろう、と言いやがったのか?
妙な胸騒ぎがする。
……いや、慌てるな。帰るといっても、一時的なものだろう。
数年に一度、両親の故郷に帰省しているんだ。今回も、そういうことに違いない。
──しかし、俺の現実逃避な考えなど、あっさりと覆されてしまうものだ。
小首を傾げ、母は父に問いかけた。
「一時帰国する、ということかしら?」
「いいや。向こうで暮らそうという意味だ」
「まあ。突然ね!」
おいおい、嘘だろ。父さん、一体なにを言い出す? イギリスで暮らす、だって? ずいぶんと唐突なんだな!
家族の中で最も驚いたのは、間違いなくこの俺だ。
大袈裟すぎるくらい大きく首を横に振った。
「やめてくれよ。俺は春から高校に入学したばかりなんだぞ。いきなり言われても困る」
「安心しろ。お前が卒業するまでは待ってやる。進学や就職は向こうでするといい」
「簡単に言わないでくれ。父さんは『あの日のこと』を忘れたのかよ」
「いや。ちゃんと覚えているさ。しかしな……お前は、いつまで過去を引きずる気なんだ?」
無神経な父のひとことに、一気に俺の怒りが沸点に達してしまう。顔が熱い。胸くそすぎる。
母が慌てたように父に「やめて」と訴えるが、もう遅い。
「ふざけんな! 俺の気持ち……わかってくれてなかったのかよ? 父さんは、自分の都合ばかり考えてるのか!」
「そんなわけあるか。今回の件は、お前のためを思ってだな」
「どこが俺のためなんだよ! イギリスに帰る理由はなんだ!」
あたかも決定事項というように話を進める父に対して、俺は全力で拒否し続ける。
しんみりした表情になると、父はその理由を語りだした。
「実は、以前働いていたイギリスの会社から、戻ってこないかと言われてな。この機会を逃したくないんだ」
恐ろしいほどに、父の口調は真面目だった。
俺はそれを聞いて、言葉が出ない。
父は元々、英国に本社を置く電子部品関連会社の社員だった。俺が生まれる前から日本の駐在員として働いてたらしいが、十年ほど前に日本企業に転職したという。父はたびたび前職での話を母にしていたから、俺も知っている。
転職してからは給料が下がり、悔やんでいたこともたまに聞いていたな……。
「おれの信頼している元上司が誘ってくれたんだよ。イギリス本社でまた働こうと。長く日本で生活してきた経験と語学力があれば、いまよりも断然収入が増える。そうすれば、お前の大学費用や将来のためのお金ももっと用意ができると思ってな」
「ちょっと待てよ。だからってイギリスに帰るのか? 前の会社に戻るなら、日本の支社に行けばいいだろう? なんでわざわざ本社に配属される前提なんだ!」
「いいか、イヴァン。今と昔はちがうんだ。おれは歳を取った。日本支社で働くのは主に若い世代に任されている。おれは本社に腰を据えて、上の立場として若者たちに……」
「もういい、やめろ!」
うんざりだ。なんだかんだ言っているが、けっきょくはイギリスへ帰るための口実にしか聞こえない。
父のキャリアアップに付き合うため、俺は住み慣れた日本から強制的に離されるのか? ぶさけるもの、いい加減にしろ。
「俺は、絶対に反対だからな!」
喉が枯れそうになるほど、絶叫した。
最低だ。どうしていつも、こうなんだ。家族に関係することは、父さんが勝手に決めてしまう。俺や母さんの意見なんて聞かずに。というか、母さんは昔から父さんの提案をあまり拒否するタイプじゃなく、はいはい付いていく人だった。俺もそれに流されて生きてきたけれど──今回はそうはいかない。
イギリスには帰らない。帰省だけなら百歩譲っていいとしても、向こうで暮らすなんて百%受け入れられない!
イギリスで暮らすあいつらの顔が、頭の中を過った。俺のこの赤毛を貶し、俺が口を開けば罵ってくる。
思い出すだけでも腹が立って仕方がない。
僕はイライラした気持を抱えながら、リビングから背を向けた。
「待って……イヴァン、朝ごはん残ってるわよ?」
「そんなもん、いらねぇよ!」
俺は母にも毒を吐き、鞄を持って自宅を飛び出した。
高校生にもなって、反抗的な態度を取るなんてみっともない奴。それでも、父の話にはどうしても頷けないんだ。
イライラした気持ちを抱えたまま俺は学校へと向かう。自転車に跨がり、いつもは苦痛と感じる上り坂すら辛いとも感じない。
ついさっき父が話していたことが、頭の中でぐるぐる回転していた。
俺は、どうしたってイギリスに住むつもりはない。だが、決してイギリスが嫌いというわけじゃない。むしろ国自体は好きだ。
レンガ造りの古きよき建物が並ぶロンドンの風景や、アフタヌーンティー文化はイギリスならではと言える。
最も問題なのは、俺を「イギリス人のなり損ない」と罵ったあいつらがいることだ。
自転車を漕ぎながら、不意に過去を思い出してしまう。
あれは俺が小さい頃──小学校に上がる前の話だ。両親と共に父の故郷へ帰省した際、親戚が集うホームパーティに参加したんだ。祖父母の家で、何十人も参加していたのを覚えている。
その頃の俺は日本語を優先的に覚えていて、英語があまり話せなかった。いとこたちが話す内容は理解できたから、俺は知っている単語を駆使してコミュニケーションを取ろうとしていた。
しかし、こんな俺を冷ややかな目で見る奴らもいた。
俺と歳が近いいとこたちが、寄ってたかってこの赤い髪色をバカにしてきたんだ。
どうしてやたらと突っかかってくるのか、さっぱりわからなかった。
でも小学校高学年のとき、ある物語を読んで俺はその理由を知った。
小学校の図書室で出会った、一冊の本。朝読書の時間に、夢中になって読んだ記憶がある。自分自身と重なる部分があり、忘れられないストーリーなんだ。
物語の主人公は、赤毛の少女。俺と同じ、生まれつき赤い髪を生やしていた。彼女は、周囲の人間たちに髪の色をバカにされながら生きていた。なにも悪いことをしていないのに、ただ赤髪ということだけでいじめられる。
悔しくて、彼女は一時的に髪を緑に染めたのだが、どうしようもないほどみっともない色になってしまった。「こんなことなら、赤髪のほうがマシ」と嘆き、彼女はもう一度赤毛に戻すのだった。
物語の一部に過ぎないが、その内容を読んで俺はとても驚いた。どうやら赤毛というのは、国によっては敬遠されるものらしい。
今の欧米社会ではどうか知らないが、少なくとも数人のいとこたちは俺を煙たがっている。「お前はジンジャーだ」と言われたことがあるからわかる。
欧米で赤毛を「ジンジャー」と呼ぶのは、侮辱の意が込められているらしい。日本ではあまり赤毛であることを咎める人はいないから、この事実を知ったときはかなりの衝撃だった。
しかも、赤毛に加えて、俺の英語はイギリス人とは思えないほどカタコトなんだ。
正真正銘、英国人の血を受け継いでいるのに、イギリスのことをよく知らない。「恥ずかしい奴」「イギリス人のなり損ない」と罵られた。
幼かった俺は、ものすごく傷ついた。国籍や人種というものを深く理解していなかった。日本語しか話せないことは恥ずかしいものなのかと、ものすごくショックを受けた。
パーティーのさなか俺に罵声を浴びせてきた奴らは、鬼のような形相で俺を見下ろしていた。
今でもはっきりと当時の光景を覚えている。思い出すだけで、息が苦しくなるほどに。
異常事態に気づいた俺の両親や親戚の大人たちが、慌てて止めに入った。
母さんも駆けつけてきて、泣きそうな顔で俺を抱きしめたんだよな。
パーティーがその後どうなったのかは忘れてしまったが、暗黙の了解により、家庭内であの日の出来事を話題に出すのはタブーとなっている。
その件があってからは、イギリスへ帰省したとしても、親戚が集まるパーティーに俺はほとんど参加しなくなった。そのせいで、俺は祖父母ともすっかり疎遠になってしまった。
あれだけ貶されたら自信なんてなくなる。英語を話そうという気など、一切なくなった。
なによりも、俺が育った場所は日本だ。あいつらがいる国で暮らすなんてこと、考えられない。会うたびに俺の英語力とこの赤毛について、嫌味を言われるのだから。
それなのに……
日本の永住許可権を持っている父が、まさかイギリスへ帰国すると言い出すなんて信じられなかった。
それなら勝手にしてくれ。俺は絶対に向こうには行かない。
胸中で毒づいていると──いつの間にか俺は学校の前に到着していた。自転車から降りて校門へと向かう。
俺がこの春入学した、市立村崎高等学校。横浜市内にある、偏差値五十ほどの高校だ。授業は選択制で、五教科のうち三教科を選んで勉強ができる。
それが決め手となり、俺はここを受験した。選択制なら英語の授業を受けずに済むんだからな。
今日も、村高には多くの生徒が登校してくる。連休明けでも変わらない日常が流れていた。
「イヴァンくんー!」
生徒たちに紛れ、俺の名を呼ぶ甲高い声が響いてきた。
振り向くと、そこには、こちらに向かって大きく手を振る女子生徒──杉本アカネがいた。中学からの友人で、高校に入ってからもクラスが同じになった。
満面の笑みを浮かべ、アカネは俺の隣まで歩み寄ってくる。
「おっはよ!」
「ああ……おはよう」
「あれー? イヴァンくん。なんか元気ない?」
「えっ。そ、そんなことないけど」
適当に誤魔化そうとした。元気がないというか、朝の件で未だにイライラが収まらないだけだ。
しかし、顔に出てしまっていたなんて。
いい加減、切り替えないとな……。
「疲れがたまってるのかも。連休中はバイト三昧だったからな」
「いつの間にアルバイトはじめたんだね。どこで?」
「マニーカフェだよ」
「へぇ、意外~! いらっしゃいませ、とか言ってフラッペ作ってるの?」
「そ、そうだけど。なんか文句あるか?」
「全然! むしろ接客してるところ見てみたいなぁ。今度遊びに行くね」
あたしが来たらマニーフラッペ奢ってね、なんて冗談っぽく言うアカネはなんだか楽しそうだ。
「いいなあ、アルバイトしてるなんて!」
「アカネもどこかで働いてみたらいいんじゃないのか?」
「そうしたいんだけどねー。でもあたし、先輩に誘われてチア部に入ったじゃん。結構ガチな部活なの。バイトする時間なんてないかも。連休中もずーっと練習があったからさ」
アカネは中学の頃、体操部に入っていた。運動神経はかなりいい方だ。おまけに明るくて誰にでも積極的に話しかけるタイプなので、友人だって多い。校則を守った上でお洒落にも気を遣っている。男女問わず人気者なんだ。
そんなアカネは、俺に対してとくに話しかけてくる頻度が多い。中学のときは周りから「付き合ってるの?」と揶揄われたことがあったな。
特定の二人がちょっと親しくしただけで、周囲の人間は他人の関係を勝手に妄想したり勘違いしたりする。
アカネは気の置けない相手だ。今さら友だち以上の関係になることは絶対にない。
駐輪場へ立ち寄り、自転車を停める。アカネと他愛ない話をしながら一年の昇降口へ向かうと。数人の風紀委員と生活指導の男性教師が立っていた。
ん……これは、もしかして。
「抜き打ちの身だしなみチェックの日か」
「そうみたいだね」
入学時に聞いたぞ。村高では、一年に何度か風紀委員による身だしなみチェックが行われると。いつその活動があるのかは、事前には知らされない。
制服の乱れはもちろん、化粧はしていないか、余計なアクセサリーをつけていないか、マニキュアもしていないかなどなど、校則違反の有無を見られる。もちろん、髪を染めていないかも確認されるそうだ。
昇降口を通る前、俺はさりげなくブレザーのボタンを全て留めた。ネクタイも曲がっていないか要チェック。それほど着崩しているわけじゃないから、別に目をつけられることもないだろう。
「大丈夫だよね?」
アカネが不安そうな顔をして俺の方を向く。
「アカネはなんの問題もないだろ?」
「うん……あたしじゃなくて。その、イヴァンくんは……」
と、途中でアカネは口を閉ざす。気まずそうに目を逸らした。
ああ、なるほどな。
アカネの言いたいことはわかる。俺のこの、赤毛が気になるのだろう。
「心配はいらない。ちゃんと地毛証明を出したから」
「そうなの?」
たちまち、アカネの顔が明るくなった。
入学時、俺は地毛証明書を学校に提出した。親のサインと共に、この赤色の髪は生まれつきであると記入をしてもらったんだ。
もし風紀委員になにか言われたとしても証明書があると言えば大丈夫。
「じゃ、行こっ!」
安心したように、アカネは歩き出す。
俺も、堂々としていればいい。
風紀委員は五人ほどいて、次々に登校してくる生徒の姿を目で追っていた。
その隣に立つ、生活指導の強面男性教師も同じだった。……なぜか目をかっ開いて、無駄に眉間にしわを寄せているのが気になる。
「おはようございまーす」
軽く挨拶をしながら、俺たちは彼らの真横を通り過ぎようとした。が。
「おい、お前! 止まれ」
突如として、耳元で怒号が響き渡った。驚きのあまり、体がビクッとする。
な、なんだ。何事?
「そこの赤髪、お前に言っている!」
……えっ。ええ? 赤髪? いま、赤髪と言いました?
周りを見回してみた。だが、この場にいる人間で赤い髪を靡かせているのは、当然の如く俺しかいない。みんな、綺麗な黒髪だ。
嘘だろ。まさか。
恐る恐る、振り向く。のすごい目力でこちらを睨みつける生活指導の先生がいた。パンチパーマの効いた角刈りと、筋肉質の両腕をTシャツから露出させていて、ただでさえ強面なのにより一層恐怖心を煽る外見をしている。
生徒たちの間では密かに「ガチ鬼」と呼ばれるほど恐れられて(うざがられて)いるそうだ。
俺は内心ビクビクしながらも、ガチ鬼と向き合った。
「な、なんですか」
俺とほぼ目線の位置は同じはずなのに、顔を合わせるだけで威圧感がとんでもない。
「とぼけるんじゃないぞ! この髪はなんだ! 明日までに黒に戻してこい!」
ガチ鬼の怒号が、俺の鼓膜を刺激する。
周囲にいた生徒たちも驚いたらしく、その場はしんと静まり返った。さっきまでお喋りに夢中だったアカネまで、口を閉ざしている。
最悪だ……。どうしてくれるんだよ、この状況。連休明け早々、ついていない。
でも、理不尽に怒られるのは受け入れられないからな。ここはしっかり説明をしなければ。
「あの、先生。これには訳があって」
「なんだ。言い訳をする気か?」
「そういうことじゃないんです。話を聞いてくれませんか」
「黙れ! 四の五の言わずに明日までに髪色を直してこい! 言うことを聞かないのなら指導対象にするからな!!」
開いた口が塞がらないとはこのことか。
……なんだよ、この先生。こっちの事情なんて聞かないってか?
腹立たしいにもほどがある。
胸中で呆れつつ、ガチ鬼の圧に負けて主張できない俺自身も情けないよな。
深い深いため息が漏れた。
こんな俺の振る舞い気に入らなかったのか、ガチ鬼は顔を真っ赤にして「なんだ、その態度はっ!」と吠え出す。
ありえないほどの迫力で、足がすくんだ。
ああ、もう終わりだ……この先生に目をつけられたら最後。俺の輝かしかったはずの高校生活は、毎日恐怖の色で染められてしまうんだ。
俺が絶望に陥っている、そんなときだった。
「先生、待ってください」
背後から、女性の冷静な声がした。俺とガチ鬼の目線が、ほぼ同時に彼女の方へ移る。
「……あれ?」
声の主を確認した瞬間、俺の胸が高鳴った。
黒くて艶やかなショートボブヘア。深い感情を秘めたような、切なさが紛れているような、それでいてとても綺麗なブラウンの瞳。
──風紀委員の生徒の中に紛れて立つ「彼女」の存在を、俺はここにきて初めて認識した。
驚きのあまり、二度見、どころか三度見してしまう。
彼女が、目の前に立っていた。以前マニーカフェで、巧みな中国語で俺のことを救ってくれたあの彼女が。
よかった。今日も彼女は生きている。
校内で会えたのはあの屋上のとき以来。
俺は場の空気にそぐわず安堵した。
そんな中ガチ鬼は、彼女を睨みつけて大きな口を開くんだ。
「なんだ、玉木! こいつをかばうつもりか? お前も生活指導の対象になりたいのか!」
「なにを仰います? 先生は彼の事情を知らないんですか」
釈然とした態度で、彼女は怯む様子もなく抗議をはじめた。
ガチ鬼に向かって、よくビビらないな。
だがガチ鬼だって引けを取らず。大声を出し続け、鬱陶しい。
「この学校では髪を染めるのは禁止しているんだぞ。お前、それでも風紀委員なのか!」
「先生こそ、そんなんでよく生活指導をやっていますね? 他人の話を全く聞かないのも問題です」
「なんだとっ。どういうことだ!」
ガチ鬼が威嚇するように騒いでも、彼女は一切表情を変えない。冷静沈着な彼女は、俺の顔をチラッと見てきた。
「あなた、イヴァン・ファーマーよね?」
「えっ? そ、そうですけど」
どうして彼女は俺の名を……?
もしかして、マニーカフェでネームプレートを見られていたのか。だとしても、ファミリーネームしか記されていないから、フルネームを知られているのは不思議だ。
疑問符を浮かべる俺をよそに、彼女はもう一度ガチ鬼に体を向ける。
「彼のこの髪色は自然なものですよ。決して染めたわけではありません」
「……なんだと?」
「イヴァン・ファーマーは入学時に地毛証明書を提出しています。保護者の方のサインもちゃんとされていますよ。風紀委員会と生活指導担当が共有しているファイルに挟んでありますが、先生はもちろんご覧になりましたよね」
「……え」
今まで凄んでいたガチ鬼の表情が、一変した。口をパクパクさせて、反論をしようとしているのだろうが、言葉が出てこないようだ。
彼女は更にまくし立てる。
「まさか、確認してないわけないですよね? よければ職員室からファイルを持ってきましょうか。ま、いち風紀委員である私なんかが知っているのに、生活指導の先生がご存知ないなんて絶対にありえないはずですので、必要ないとは思いますが」
なんとも皮肉を込めた言いかただ。ガチ鬼を狼狽えさせるなんて、ただ者じゃない。
他の風紀委員たちも、アカネも、空いた口が塞がらないと言った様子でやり取りを眺めている。
張り詰めた空気の中、ガチ鬼は先ほどよりも遙かに声量を落とした。
「そ、そんなものは必要いらん。いや、そうか……君はファーマーくんだったか。一年生の名前と顔がまだ一致していなくてな。わはは」
渇いた声で誤魔化すように笑うが、ガチ鬼は一切謝罪の言葉を口にしない。
あーあ……この人、生徒たちに嫌われる先生の典型なんだな、と俺は密かに思った。
彼女はさりげなく俺にアイコンタクトを送り『もう行っていいわよ』と伝えてくれる。
彼女に軽く会釈してから、俺はアカネと共にそそくさと下駄箱へ向かった。
また、助けられてしまった。俺が出した届け出を、彼女はしっかり目を通して、覚えていてくれていたんだ。
朝のイライラした気持ちがいつの間にか消え去っていた。
「よかったね、イヴァンくん。指導なんて受けたくないもんね」
上履きに替えてから、アカネは俺の顔をぐいっと覗き込んでくる。
「それにしても……あの風紀委員の人と知り合いなの? イヴァンくんの名前、知ってたよね」
「え? ああ……」
実は彼女、屋上から飛び降りようとしてて、俺がなんとか止めたんだ。そういう縁があって……なんて言えるはずもなく。
階段をのぼりながら、俺はわざと咳払いをした。
「彼女、この前俺のバイト先にお客さんとして来店してきたんだよ」
「ふーん? それってただのお客と店員ってだけでしょ。そんなんでよくお互い覚えてるね?」
アカネは訝しげにそう問いかけてくる。
まあ、たしかに。普通なら忘れるものだよな。
「えーっと。彼女に、助けられたんだよな」
「どういうこと?」
「俺のバ先、海外からのお客さんもけっこう来るんだ。中には丸っきり日本語が通じない人がいて。中国語しか話せないお客さんが来店して俺が対応に困ってるとき、たまたま居合わせた彼女が通訳してくれたんだ」
「……へぇ」
アカネは低い声で頷く。
嘘は吐いてないぞ。俺はちゃんと事実を喋っているからな。
流暢な中国語を早口で話していた彼女の姿を思い浮かべながら、俺はあることに気がついた。
「そういうこともあって、覚えていたわけなんだが……そういえば、俺、彼女の名前を知らないな」
記憶の中を探ってみるも、俺は彼女に名前を聞いた覚えがない。
助けてもらったついでに「せめて、お名前だけでも!」と、どこかで聞いたことのある台詞をあの場で口にしていればよかった。
「じゃあ、あの人とは他人なんだね! バイト中に助けてくれた人が、たまたま同じ高校だっただけで」
「まあ、そういうことだな」
他人……か。否定しようがないが、ちょっと切ない。二度も世話になったというのに、俺は彼女のことをなにひとつ知らないなんて。名前どころか、学年すら分からない。
彼女の見た目や大人びた雰囲気からして、一年ではないだろう。そもそも風紀委員をやっているということは、二年生以上だ。村高では、二年になってからでないと委員会には入れないから。
話しているうちに、あっという間に一年の教室に到着した。クラスは一組。俺とアカネは雑談もそこそこに、自分たちの席に各々着いた。
すでに何人かのクラスメイトが登校していて、雑談したり、授業の準備をしたり、スマートフォンを弄ったりしながら時間を潰していた。
俺の席は一番前の窓側だ。鞄を机に置き、ふと外の景色を眺めた。ここからは、昇降口の様子がよく見える。
まだ風紀委員はいるのかと、目が勝手に彼女の姿を探していた。だが、すでに活動時間は終わったらしい。昇降口には風紀委員もいなければ、あの生活指導のガチ鬼もいなくなっていた。
一年の教室からは、二年生の棟がよく見える。しかし、そこにも彼女の姿は見当たらなかった。
また校内で彼女に会えるだろうか、と淡い期待を抱く俺がいる。
◆
一日中、考えていた。彼女のことを。
屋上で身を投げ出そうとしていた彼女は、今日も生きている。彼女がなにに悩み、苦しんでいたのかは俺は知らない。冷めた目をしているが、普通に学校生活を送れているようでよかった。
そう思う反面、再び彼女がそういった悲しい行動に出てしまうのではないかと心配になる。
隙あらば外を眺め、彼女の姿を探した。
移動教室のときも、昼食のときも、体育のときも。ばったり会えないかと期待していた。
だが、そんなに事が上手くいくはずもない。
そもそもこの学校は、学年によって校舎が分かれている。よほどのきっかけがなければ、彼女に会うチャンスは訪れないだろう。
だとすれば──
帰りのホームルーム。一日のさよならを告げる号令がかかった直後、俺は鞄を持って猛ダッシュで校門へと向かった。
「おい、ファーマー! 廊下は走るな!」と、ガチ鬼の怒号が聞こえたが、気づかないふりをして昇降口を抜け出した。
一年の棟は敷地内の一番奥側にあって、他学年に比べると校門から多少の距離がある。
すでに上級生たちが下校をはじめていた。部活動の準備をする光景もチラホラ目に移る。
彼女は、まだ帰っていないよな?
わからないが、今日はバイトが休みだし時間ならいくらでもある。校門前で待っていれば、きっと会えるはず。
なぜこんなにも必死になっているのか、俺自身よくわからない。
彼女が気になる。それに、今朝助けてくれたことも礼を言いたい。
そうだ。俺はひとこと「ありがとう」を伝えたいんだ。
そうやって俺は、彼女に会う口実を探している。
頭を巡らせ校門に行き着いた頃には、すっかり息が上がっていた。
ひとまず呼吸を落ち着かせ、俺は帰路につく生徒たちを一人一人確認しはじめる。
何人かが不思議そうな顔をしてチラチラとこちらを見てきた。中には、怪訝な表情を向けてくる輩もいる。相手と目が合ってしまったときには、やたらと気まずい空気が流れた。
中には「こいつはなぜ赤毛に染めてやがるんだ?」と思った人もいるのかもしれない。明らかに文句がある顔をしているクセに、直接絡んではこないんだ。
俺の赤毛が憎たらしいか? そう問いかけてやってもいいが、無駄な揉め事はやめておこう。好奇の目で見てくる輩なんて無視するが一番。
多少のイラつきを抱えながらも、俺は彼女の姿を探し続けた。
──だんだん帰宅する人数が増えていく。
同級生たちも校門にぞろぞろとやって来た。その波に紛れたクラスメイトの数人が「まだ帰らないのか、イヴァン!」と声を掛けてきたりもした。
だが俺は、首を横に振って適当にあしらうのみ。つまらなそうに去っていく同級生たちを横目に、俺はその場から微動だにしなかった。
人の波がピークに達した頃、一人ずつ目で追うのがさすがに難しくなってきた。前が詰まるのほどの数。下手をすれば、彼女を見失ってしまうかもしれない。
門の隅に寄り、俺はとにかく集中して目を配る。
十分、二十分と時が経ち、やがて人の流れは落ち着きを見せてきた。
校庭から、運動部が盛んに活動をするかけ声が鳴り響いてくる。
活動のない生徒たちはほとんど帰ったのだろう。校門前は再び静まり返った。
……ダメだ。見つからない。もしかして、見失ってしまったのか。それとも、彼女は何か部活に入っているのだろうか。
最終下校時刻は六時。現在は、四時半。あと一時間半は待ってみるべきか。
そこまで待つのは退屈だ、なんて思ってしまう。だが、せっかくここまで粘ったのに帰るのは惜しい。
それに、一目でいいから彼女に会いたい。そんな想いが、たしかに俺の中に存在していた。
退屈だっていいだろ。最後まで待ってみよう。
その前にひと休みをしたいと、俺の喉が飲み物を欲していた。
校内にはいくつか自販機がある。ここから一番近いのは、食堂前だったかな。二年の棟の一階にあったはず。
まだ一度も利用したことがない食堂を目指し、迷いそうになりながらも歩みを進めた。二年の昇降口を通り過ぎ、全くひと気のない道を進む。本当にこっちであっているのだろうか。
多少の不安を抱えながらも、とりあえず奥の方へ進むと──
「あった」
思わずひとりごとが漏れる。
食堂入り口のすぐ横に立つ自販機。やっと見つけたところで、俺はハッとした。
「……あれ?」
本当の目当てはなんだったか、俺は改めて思い起こした。
自販機の真横にあるベンチに、一人の女子生徒が座っていた。足を組み、何かの分厚い本を読みながら、ワイヤレスイヤホンを耳に当てている。
綺麗な黒いショートボブは、西陽に照らされ、今日も一段と輝いて見えた。
間違いなく、彼女だった。
探しものを見つけた瞬間、俺の胸が高鳴った。勢いよくベンチの前に立ち、彼女と視線を合わせるためにサッと跪ついた。
「こんなところにいたんだね!」
彼女がイヤホンをしていてもお構いなしに、俺はガツガツと話しかけてみせた。
こちらの存在に気づいた彼女は、案の定というべきか、驚いたように目を見開いた。
「……ああ、あなたね。驚かせないで」
さりげなく本を閉じ、イヤホンを外すと、彼女はそれらを素早く鞄の中へしまう。
びっくりさせてしまったのは悪かった。でも俺は、彼女を見つけられた喜びが止まらないのだから仕方がない。
「ずっと探してたよ」
「は? どうして」
「ええっと。礼が、言いたくて」
キョトンとするも、数秒だけ間を空けてから彼女は小さく息を吐いた。
「……まさか、今朝のこと? 私は風紀委員なんだから別に気にすることないのに」
「いやいや。あのガチ鬼に対して全然動じず、俺をかばってくれたんだ。感謝してます」
俺の言葉に対し、彼女は戸惑っているようだった。物珍しい人間を見ているような眼差しを向けてくる。
でも俺は、引かれたって気にしないぜ。
「マニーカフェでもあなたの中国語に助けられた。カッコいいなぁ、外国語を喋れるなんて。俺なんかこんな見た目のクセして日本語しか話せないんだ。ははは」
わざと空笑いしてみせた。自分で喋っていて、虚しくなる。
いつものことだ。初めて会った人たちには、あえて伝えている。俺は英語なんて話せないんだと。
『イヴァンはイギリス人だから、英語ができて当然』
そんな偏見ともいえる言葉を、幾度となく浴びせられてきた。大抵は「英語のできないイギリス人」として残念な顔をされる。
うんざりだ。彼女にも、くだらない偏見や先入観で俺を見てほしくない。
身構える俺の前で、彼女はベンチからスッと立ち上がる。ふと笑みをこぼし、こんなことを口にした。
「ここは日本なんだから、日本語が喋れれば充分でしょ」
彼女はさらりと俺から背を向け、校門の方へ歩いていく。
……あれ? 今、普通に流されたか?
これまでにないリアクションに、俺は目を見開いた。
いや、茫然としている場合じゃない。
彼女が行ってしまう。礼を言っただけじゃダメだ。
俺はあわてて彼女のそばへ駆け寄る。
「待って」
俺の呼びかけに、彼女は無表情でこちらを見上げた。なんか、大人っぽい雰囲気だけど、意外に背は高くないんだよな。
そんなどうでもいいことを思いながら、俺は続けた。
「君の名前を知りたい。学年も」
「どうしてあなたに教えないといけないのよ」
やはり、冷めたい眼差しを向けられた。
「君と、友だちになりたいと思って」
「……私と? 友だちになりたいなんて、変わった人なのね」
含み笑いをすると、彼女は小さく息を吐いた。
どうしてそんなリアクションをされるのか、俺には理解できない。変なことを言った覚えもないんだが?
戸惑う俺の目を見つめ、彼女はゆっくりとその名を口にする。
「私は──玉木よ。玉木サエ。二年六組」
「玉木サエさん。そうか、サエさんというんですね! やっぱり先輩だ。俺は一年一組のイヴァン・ファーマーです!」
「知ってるわよ」
「あ……そっか。俺の届け出、ちゃんと確認してくれていたんですもんね」
「じゃないと委員会活動なんてできないわ」
「すげぇな、サエさんは。超真面目!」
俺が言うと、彼女は頬をほんのり赤くしてそっぽを向いてしまった。
「もういいでしょ? 帰っていい?」
「あっ、すみません、呼び止めてしまって」
本当はもう少し話がしたかった。だが、彼女はあまり長居したくないようで早歩きで校門へと歩いていく。
西の陽に照らされる刹那、彼女の後ろ姿には切なさが醸し出されている気がしたんだ。
もうひとことだけ、いいか。彼女に言葉を向けてもいいかな。
「サエさん!」
歩みを止め、彼女はゆっくりと俺の方を振り返る。やっぱりその瞳は冷たかった。
「なによ?」
「またマニーカフェに来てください。抹茶フラッペでもなんでも作るよ。しかも俺の奢りで!」
この言葉に、彼女は口角を僅かに上げた。
「別にいらない」
このときの彼女の口調だけは、あの西陽のように明るく感じた。
俺は彼女の姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を見つめ続ける。胸がいっぱいになり、頬が熱くなった。校舎の窓ガラスに映る自分の顔が、妙に上機嫌に見えたのは俺の気のせいではないはず。
その日以来、俺は校内で彼女を見かけるたび話しかけるようになった。
彼女は表情をあまり変えない。その心情を読み取るのは、とても難しい。それが原因で、余計に俺の中で気になる存在となっていく。
俺が絡んでいくことについて彼女はどう感じているのだろう。後輩のクセしてまともに敬語で喋らない俺を生意気に思っているのか。迷惑しているのか。それともどうでもいい存在なのか。実は内心楽しんでくれているのか。なかなか見当がつかない。
相変わらず彼女からは切なさが滲み出ている。と同時に、あの冷たい瞳には優しさも色づいている気がするんだ。
彼女のことを、もっと知りたい。
言葉では表現しがたいが、俺がこういう気持ちになるのは初めてだった。
彼女と俺は大した共通点なんかない。ただ同じ高校に通っているだけ。
俺がぼんやりしていたら、彼女とは疎遠になってしまうだろう。あっけなく関わりがなくなってしまうだろう。積極的に歩み寄らないと、彼女との出会いがただの思い出として終わってしまう。
そんなの、どうしたって嫌だった。
だから俺は、わざと調子づいて積極的に絡みに行く。ふとしたときに彼女が笑ってくれると、それだけで嬉しくなるんだ。
もちろん学年が違うせいで会えない日もあった。でもそれは、大きな問題じゃない。
彼女に声をかけるチャンスは無数にある。
俺が見かけたとき、彼女はいつも一人だから──
六月上旬。関東地方は梅雨入りをし、今日の横浜市内も朝からどしゃ降りだった。
普段は自転車通学をしているが、さすがに今日はやめた方がよさそう。大粒の雨のせいで道路は水浸し。レインコートを着たって確実に濡れるだろうし、なによりも滑って怪我をしたくない。
やむを得ずバスと電車を使って登校することにした。
自宅から最寄りの東神奈川駅までは、バスを使わなければならない。いつものことだが、雨のせいで車内は激混みだ。
ノロノロ走るバスに揺られ、二十分ほどで駅にたどり着く。
足もとを濡らして駅構内を通過し、ホームへ入る。やはりそこでも人の数は多かった。
どれだけ混雑していてもさほど乱れることのない列に並び、おしくらまんじゅうのようにぎゅうぎゅう詰めの電車に乗り込んだ。
たった一駅だけなのに、疲労感がとんでもない。
大きくため息を吐き、乱れた髪の毛を整え、どうにか横浜駅へと降り立った。
改札を出ても、やっぱり雨はやむ気配がなかった。
駅から学校までは歩いて十分ほどだが、まずはこの広い構内から出なければならない。
昼夜問わず人々の群れで溢れる横浜駅構内は、雨の日だと更に人口密度が高い。おまけに蒸した空気が不快感を増してうざい。
一刻も早くこの熱気が充満する場所から抜け出したかった。とにかく俺は、速足で出口を目指した。
──その、途中のこと。
「……ん?」
見覚えのある姿が目に入る。絶え間なく人々が行き交う空間の端で立ち止まるひとつの人影。
赤いリボンにチェック柄のスカート。村高の制服だ。
「彼女」の髪は、雨の日にも関わらず艶のある綺麗なショートボブだった。しっかりと手入れしているんだろうなと思った。
「サエさん」
自然と、彼女の名が口から溢れる。
人の流れに逆らい、俺は彼女のそばへ歩み寄った。
彼女は八の字眉で鞄の中身を漁っている。なにかを探しているのだろうか。
「どうしたんだ?」
俺の存在に気づいた彼女はハッとしたように手を止め、困った顔をこちらに向ける。
「ああ、イヴァンね……。困ったわ。折りたたみ傘が見当たらないの」
「なくしたんすか」
「鞄に入っていないから、電車で落としたのかも」
周辺は、ざわざわと騒がしい。慌ただしく歩く人々の足音。外から響く雨の降る音。
俺はそんな中で、ある考えがよぎった。
──彼女が、困っている。これは、助けるチャンスなのでは?
困り果てる彼女に微笑みかけ、俺は自分のビニール傘をサッと差し出した。
「それじゃあ、俺の傘、使います?」
「なにそれ。あなたはどうするの?」
「どうするって? サエさんと一緒に使うんだよ」
俺がそう言い放つと、彼女の表情がたちまち曇る。呆れたように、わざとらしいため息を吐くんだ。
「遠慮しておくわ」
「えっ、なんで? あれ、まさかサエさん。照れてるのか?」
俺の揶揄いに、彼女は大きく首を振る。
「そうじゃなくて。二人で同じ傘に入るってことでしょう? そんなの、周りに見られたらどう思われるか」
「ふーん。サエさんって、意外に人目を気にするタイプなんだ」
「違うの。なんというか、こう……距離が近いと変な噂を立てられるかもしれないでしょ? そういうの、面倒だから避けたいのよね」
冷静にそう述べた彼女を前に、俺は言葉が止まってしまう。
それは、そうか……。
同じ傘に入ってただけでも、たぶん周りから見たら意味深な二人に見えてしまうのだろう。俺は別に構わないが、彼女の困惑した表情を見るとそうはいかない。
だとしたら──
時刻は八時十五分。このままグダグダしていたら、二人とも遅刻してしまう。
「わかった。それじゃあ……」
俺はもう一度、彼女に自分の傘を差し出した。
「これは、サエさんに貸します」
「はぁ? だから、あなたはどうするのよ」
「途中コンビニがあるし、俺はそこで買えばいい。猛ダッシュするんで、ノープロブレム。メイウェンティ!」
「なによ、それ……」
慌てる彼女を無視して、俺は無理やりにでも傘を手渡した。
「急がないと遅刻だ。先に行きますね!」
「ちょ、ちょっと」
俺は濡れたって構わない。彼女が雨に打たれてしまう方が大変だ。
駅構内にひしめく人々の間をかきわけ、俺は彼女の前から立ち去り、速足で出口へと向かった。
地上に出ると、家を出たときよりもさらに雨あしが強まっていた。屋根から一歩出れば、あっという間にびしょ濡れになるだろう。これでは、途中のコンビニで傘を買ったとしてもなんの意味もない。だったら一分一秒でも早く学校へ辿り着いた方がいい。
ザーザーと大きな音を立てる雫たちを前に、俺は意を決して走ろうとした。が──
「ねえ、待って!」
背後から、焦る声がした。振り返ると、息を上げてこちらを見やる彼女の姿。
あーあ。……あっさり追いつかれたか。
「私なんかのために、あなたが濡れる必要はないでしょ」
囁くように溢すと、彼女は傘を俺に手渡してきた。顔を背けながらも、小さくひとこと。
「仕方がないから、一緒に行きましょう」
マジで? やった!
胸中で歓喜する俺の隣に、彼女はぎこちなく並ぶ。
──ビニール傘に、雨が滴る音が絶え間なく鳴り響く。
俺は、できるだけ彼女を濡らさないよう傘を傾け、歩幅を合わせながら学校へと向かった。自分の肩に雨が染みようとも、全然気にならない。
道中、彼女となにか会話を交わしたのだが、胸がドキドキしてしまい、内容のほとんどを忘れてしまった。
でも、いいんだ。俺の心は晴れやかだったから。
「イヴァン、助かったわ」
校門を通り過ぎ、二年の昇降口前に辿り着くと、彼女はサッと傘から抜け出した。
「お役に立ててなにより。折りたたみ傘、見つかるといいな」
「いいの。だいぶ古かったし、そろそろ替え時と思ってたから」
彼女はおもむろに制服のポケットに手を入れた。
「これ、使って」
「えっ?」
彼女がポケットから取り出したのは、一枚のハンカチだった。パンダの絵がワンポイントあるだけの、シンプルなハンカチ。
俺の手元にそれを差し出すと、彼女はふと微笑む。
「お節介のために風邪引いたらどうしようもないわよ?」
「俺は滅多に風邪なんか引かないよ」
「とにかく、ありがとう。時間がないし行くわ」
背を向け、彼女は二年の下駄箱へ歩いていく。
──参ったな。彼女をできるだけ雨から庇っていたのがバレていたらしい。
茫然と立ちつくしながら、俺は彼女を見送る。
その後ろ姿が、今日は少しだけ明るく感じた。
濡れた足もとは冷たいのに、俺の心はポカポカしている。
水溜まりが出来上がった道を、同じ傘の下で彼女と歩いた。たったそれだけのことが、俺の気持ちを高揚させてくれた。
「洗って返すよ」
パンダのハンカチを握りしめ、彼女には届かない声量で俺はそう囁いた。
予鈴が鳴るギリギリ前に自分のクラスに着く。クラスメイトたちと挨拶を交わしながら自分の机に座った。
肩だけでなく、鞄もずいぶん濡れてしまった。彼女から借りたハンカチで優しく拭いてみるが、簡単に乾くはずもない。
ノートや教科書は無事なので、それはよしとしよう。
「イヴァンくん」
俺が鞄から教科書類を取り出していると、ふっとアカネが目の前にやってきた。
前の席に座り込み、ぐいっと顔を近づけてくる。
登校早々、やけに距離が近いな。
「なんか用か?」
俺の問いに、なぜかアカネは頬を膨らませる。
「ねぇねぇ、見ちゃったよー」
「見たってなにを?」
「あの風紀委員の女の人と、一緒にいたでしょう!」
声量を落としながらも、アカネの口調は若干鋭い。
……ああ、今朝のことか。情報が早いな。
そんなに意識していなかったが、横浜駅を降りてから何人か村高生が俺たちの視線の先で歩いていたのは気づいていた。それにたった今、彼女を昇降口まで見送ってきたわけだし、アカネに見られていても不思議じゃない。
「ああ。サエさんと一緒に登校してきたよ」
俺が平然と答えると、アカネは目を見開いた。
「え……あの人、サエさんっていうんだ? なんで名前知ってるの?」
「この前、教えてもらったんだよ」
「えええー。いつの間にかそんなに仲良くなったの!? 相合い傘までしてたよね?」
だんだんアカネの声が大きくなっている。周囲にいるクラスメイトが何人かちらちらとこちらを見てきた。
さっき、彼女が言っていたことを思い出す。
『距離が近いと変な噂を立てられるかもしれないでしょう? そういうの、面倒だから』
あんまり話が広まると、よくない。
俺はオーバーに首を横に降った。
「たまたま駅で会って、サエさんが傘をなくしたって言うから入れてあげただけだ。ほら……俺、二回もあの人に助けられてるだろ? だからそのお礼ってことでさ」
わざと、大きめの声で説明してやった。周りにいるクラスメイトたちにも、俺の話はしっかり聞こえているだろう。
俺の話を聞いたアカネは、訝しげに問う。
「ふーん。それで相合い傘? 距離感どうなってるの」
どう答えていいものか。たしかに、積極的すぎたかなとは思う。礼を兼ねて、というのだって嘘じゃない。
だが、それとは別の理由もあったのも本当のところだ。
それをわざわざアカネに話すことはできないが。
咳払いをして、俺は小さく首を振る。
「誰かが困っているのを見かけたら、助けてあげようと思うのがおかしいことか?」
「ううん。そういうわけじゃないけど……」
数秒だけ口を閉ざし、アカネはなにかを考えるように両腕を組む。
「そうだね。イヴァンくんって、そういうところしっかりしてるもんねー」
なんとか納得してくれたようで、それ以上深く突っ込んでこなかった。
……よかった。無理やりだったが、これで誤魔化せただろう。
しかし、胸の中がムズムズした。
アカネには、本心を隠している。
本当の俺は、もっと彼女と親しくなりたいと、心の奥で思っているから。