その後、一時間以上イングリッシュローズの庭を散策した。休日ということもあり、多くの人が訪れていたが、俺の眼中にはもはや彼女しか映らない。
 散歩中はほとんど彼女が話をしていて、俺は聞き役に回った。花に関する知識や想いを熱く語る彼女の顔を見ているだけで幸せだ。

「──ごめんなさいね、私ばかり喋って」

 ベンチに腰かけ、彼女は我に返ったようにそう口にした。
 俺は、彼女の隣にそっと座る。
 ほんの少しだけ、お互いの距離が近くなったように感じた。

「俺はサエさんの話が聞けて嬉しいし、楽しいよ」

 ありのままに言えば、こんなにも口数が多い彼女を初めて見た。意外に思ったけれど、喜びの方が断然大きい。

 やはり、アカネから聞いた噂はただの噂にすぎない。根拠のないゴシップなんかに惑わされてはダメだ。
 今、目の前にいる彼女自身を見る方が重要。普段はクールなオーラを醸しているのに、花を愛でる姿はとても生き生きとしている。時折見せる笑顔が綺麗で、さりげない優しさで他人に手を差し伸べてくれる人。
 俺が見ている彼女が本物なんだ。

 風が囁くように、甘い香りを運んでくる。薔薇の爽やかな匂いが、より一層心を穏やかにしてくれた。
 
 こんなにもムードが最高な場所で、彼女と一緒にいることが奇跡に思う。それと同時に、こんな願望が芽生えた。

 ──彼女に、もっと近づきたい。抱きしめたい。

 突然抱きしめたりしたら、驚かせてしまうかも。嫌がられてしまうかも。それとも、怒られてしまうかも。

 欲求と理性が、俺の中で戦っていた。彼女と二人きりの時間を過ごせるだけでも幸せなはずなのに。
 反面、行動しなければこれ以上なにも始まらないと思った。
 そうだ。悩んでいたって、仕方がない。

 右手を伸ばし、俺は彼女の肩に腕を回す。勢いに任せ、華奢な体を強く抱き寄せた。
 この瞬間、やわらかいぬくもりが俺の胸に伝ってくる。彼女から香る甘い匂いは、薔薇の花よりも癒しを与えてくれた。

「……イヴァン……?」

 驚いたような声を出す彼女。表情は見えないが、もしかして緊張している?
 俺の方は、言うまでもなく緊張している。
 心臓がこれまでにないほど爆音を上げて大変なんだ。

 嫌がられるなら、突き放してもらってもよかった。想いを伝える前にこんなことをしたら、戸惑わせてしまう。
 だが、しばらく待ってみても、彼女はなにもしてこない。「やめて」とも言わない。抵抗しない。
 その心情を読み取るのは難しいが、拒絶されていないと思いたかった。

「サエさん」

 俺は、誰かを好きになるのが初めてだ。駆け引きとかもわからないし、デートの仕方だって知らない。
 だけど彼女を想う気持ちに嘘はなく、日に日に好きという感情が大きくなっていくんだ。
 悩む時間がもったいない。伝えたいときに伝える。これが一番、重要なんじゃないかな。

「俺、サエさんのことが、」

 好き。

 残りの二文字を声に出して言いたい。それなのに、喉元で止まってしまった。
 自覚するよりも遥かに俺は緊張していた。

 いつまでも最後のひとことを口にしない俺に疑問を持ったのか、彼女はおもむろに顔を上げた。
 頬は真っ赤になっていて、瞳の奥まで熱くなっている気がした。

 続きの言葉を、繫ぐんだ。素直に、まっすぐに、想いを綴ろう。
 彼女の目をじっと見つめ、俺が意を決した、そのときだった。

「あれー? 玉木さん?」
 不意に、彼女の名を呼ぶ声がした。聞き覚えない女性のものだった。

 誰だ。彼女との貴重な時間を邪魔する奴は。

 思わず顔をしかめ、声の方を振り向いた。
 俺たちの前に立っていたのは三人の女子。そのうちの二人はミニスカートや露出が多い服を着ていて、メイクもやたらと濃く、面識がない人たちだった。
 だが、残りの一人は、違う。
 思わぬ人物を前に、俺は息を呑んだ。

「……アカネ」

 呆気に取られるように、アカネが俺を見ていたんだ。
 嘘だろ。なんてタイミングだ。
 アカネとは、気まずいままだというのに。『サエさんと仲良くならない方がいい』。そんな忠告をしてきたアカネはこの状況を目の当たりにして、よく思わないだろう。
『イヴァンくん、どうしてサエさんを抱きしめてるの?』『結局、仲良くしてるの?』アカネの目が、あからさまにそう問いかけている。

 もう完全に手遅れだが、俺は咄嗟に彼女の身から手を放した。
 俺の様子をジロジロ見て、女子たちは不適な笑みを浮かべた。

「もしかして君、最近玉木さんと仲良くしてるって噂の一年生?」
「うっそー。ガチでイケメンじゃん!」
「玉木さんってクラスじゃ全然喋んないくせに、イケメンとは仲良くするんだー?」
「やばー! うちらには澄ました顔して避けるのにね! 玉木さんが面食いだったなんてウケる!」

 明らかにバカにしたような口ぶりだ。女たちの態度に、はらわたが煮えくり返る。

 ──なんなんだ、こいつら。なぜそんな風に悪態をつく?

 拳を強く握りしめ、俺は二人を睨みつける。
 激情に駆られ俺が怒鳴り散らそうとした、正にそのときだった。彼女が、信じられない言葉を口にしたんだ。

「彼とはなんの関係もない。見ず知らずの他人よ」

 冷たい声で、はっきりとした口調だった。サッと立ち上がり、彼女は俺に背を向ける。

 ちょっと待ってくれ。俺が、見ず知らずの他人だと? 違う、違うよ。そんなはずないだろ……?

 全身が痺れるような感覚がした。
 俺の顔を一切見ず、彼女は走り去って行ってしまう。高いヒールの音が、瞬く間に遠ざかっていった。

 たった今、隣に彼女がいたはずなのに。あっという間に彼女の姿が俺の視界から消えてしまった。

 状況がよく把握できない。
 思考を停止させてはダメだ。まだ間に合う。狼狽えている暇があるなら、急いで彼女を追え。
 瞬時に決断を下し、俺は駆け出そうとした。だが、やかましい邪魔が入ってしまう。

「ねえイケメンくん」

 アカネの隣にいた見知らぬ女子二人に前を塞がれた。二人は物珍しいものでも眺めるような目を向けてくる。

「なんであんな子と仲良くしてんの?」
「玉木さんって、無愛想で全然喋らないでしょ。なに考えてるかわかんないよ。怖くないの?」

 は? 彼女のどこが無愛想なんだよ。たしかに普段から冷めた目をすることは多いが、笑った顔はすごく綺麗なのをこいつらは知らないのか。
 それに、彼女が全然喋らないなんてありえない。俺が声をかければちゃんと返事をしてくれるし、花のことになるとたくさんお喋りをしてくれる。
 なにを考えているのかわからないなんて誤解だ。彼女は、将来に関してものすごく真面目に考えているんだぞ。
 本当の彼女を知らないだけだ。そんな奴らに、どうこう言われる筋合いはない。

 苛立ちが募る一方だった。きっと今の俺の顔は、ありえないほど歪んでいる。

 彼女に関してありもしない話をし続ける女たちの横で、アカネは苦笑していた。決して俺と目を合わせてこない。早くこの場からいなくなりたいという感情が、表情だけで伝わってきた。いつも活発なアカネの印象とはまるで違う。

「……あ、あの」

 遠慮がちに、アカネは二人に声をかけた。

「せ、先輩! 早くしないと集合時間に遅れちゃいますよ」
「んー? 今、何時よ」
「もうすぐ三時半です。チア部の交流会、始まっちゃいますよ!」

 アカネは笑顔を繕うも、声色は明らかに焦燥している。
 なるほど、この二人の女はチアリーディング部の先輩か。部活の交流会かなんだか知らないが、さっさと立ち去れ。
 時間を確認した女たちはうだうだ言いながらも、慌てた様子で歩き出した。

 ──しかしこの折。一人の女が、去り際にこんなことを呟いた。

「あんな人と一緒にいたら、君の価値が下がるよ」

 ニヤニヤしながら、女は俺の顔も見ずに歩いていく。

「なんだと? ……おい、それどういう意味だよ」

 よっぽど、叫んでやりたかった。見知らぬ奴らに、なぜそんな風に言われなきゃならない?

 女たちはそれ以上はなにも言わずそそくさと立ち去っていく。俺が無言で女たちの後ろ姿を睨みつけていると、半歩後ろを歩くアカネと視線がぶつかった。その目は、とても複雑な感情が入り交じっていて、見ていられない。
 アカネは、視線だけで俺にこう訴えてきたんだ。

『ごめんね、イヴァンくん』

 俺は、なんのリアクションも取れずにいた。唖然と、アカネたちが離れていく姿を眺めるだけ。
 
 アカネは、なにに対して謝っているのだろう。この前の件についてか。それとも、チア部の女たちの態度についてか。それとも──

 そこで俺は一度、考えるのをやめた。

 なにこんなところで突っ立てるんだ、俺は。
 彼女がいなくなってしまった。追いかけて、捜しに行って、面と向かって話をしよう。

 周りの音や、景色がなくなっていく。華やかな薔薇の色も、歩く人々の姿も、話し声や風の音も、今の俺には無に感じた。
 気が付けば、太陽は灰色の雲に隠れ、空は光を失っていた。

 ほどなくして、冷たい雨が行く道を濡らしはじめる。今日の天気は、一日晴れの予報だったはずなのに。
 つい一時間前に彼女と一緒にのぼったこの坂道を、今度は一人きりで下っていく。
 今日のデートを、俺は楽しみにしていたのに。ドキドキしながら彼女と肩を並べて歩いていたのに。今はどうだ。彼女の姿が見当たらず、焦慮に駆られ胸が苦しくて仕方がない。
 陽の光りは消え失せ、地面が雨に濡れ、人々の姿も減っていった。
 本当にここは、彼女と歩いてきた道なのか?
 そう疑ってしまうほど、別世界に感じた。

 坂を下りきったとき、俺は真っ先に駅の方へ向かった。急がなければ、彼女が電車に乗って帰ってしまう。そう思ったのだ。
 息を整える間もなく走っていったが、元町・中華街駅の前にはなぜか多くの人だかりができていた。何事かと思えば、別の駅で事故かなにかが起きた影響で、電車が止まっているらしい。構内からは、再開の目処が立っていないというアナウンス。事故で運転見合わせなんて珍しかった。

 これによって、彼女がまだ電車に乗っていない可能性が高くなった。駅前に群がる人の中に、彼女がいるかもしれない。一人一人顔を確認してみるが──彼女の姿は見当たらなかった。

「どこに行ったんだ……」

 焦った俺は、スマートフォンを手に握る。彼女が電話に出てくれるとは到底思えないが、僅かな希望を乗せて呼び出し音をタップした。
 電話の向こうから響き渡る、無機質なコール音。

 ワンコール、ツーコール、スリーコール。

 十回鳴ったところで、諦めようと思っていた。
 返事のない電話をするくらいなら、別の場所を捜し回った方がいい。だが、どこへ行けばいい? 当てもヒントもなにもないのに、どうしろと言うんだ。

 俺が狼狽えている、そのときだった。

『……イヴァン?』

 電話越しから、彼女の声がした。とても、悲しみに満ちたような声色に聞こえる。

「サエさん。今、どこにいるんだ!」

 思わず大きな声で問いつめるが、彼女はなにも答えてくれなかった。
 だがこの折、電話口の奥から微かに雨の降る音と──波の音が響いてくるのを俺はたしかに聞き取った。
 どうやら彼女は、海の近くにいるらしい。

「待ってて。迎えにいくから」



 突然降った雨は、止むことを知らない。その雨は、彼女の目から溢れるものを隠してくれた。

 俺が思った通り、彼女は山下公園の遊歩道にいた。その視線の先には、灰色に染まった海。波の音がはっきりと聞こえてくる。
 空からの雫に打たれる彼女の後ろ姿は、これまでにないほど悲哀に満ちていた。

「サエさん」

 俺が声をかけてみても、彼女は反応しない。ただひたすら、海の向こう側を眺めているだけ。
 彼女の隣に立ち、俺はそっと囁いた。

「風邪引くよ。駅に戻ろう」

 俺のひとことに、彼女は首を振った。

「電車が止まってた。戻っても意味ないわ」
「そんなことない。駅で雨宿りしながら電車を待とう」

 そう言っても、彼女は頷いてくれない。

「あなたまでびしょ濡れじゃない。私のことは放っておいてよ」
「そんなわけにはいかないだろ」
「どうして? 私は……私たちは、ただの他人よ」

 彼女の声が震えた。

 ──またそうやって、俺を他人呼ばわりする。

 俺は彼女の顔をじっと見つめた。雨で濡れた目元は、赤く腫れてしまっていた。

「酷い言い草だな。デートした相手を他人だと思ってるのか」
「デート? 勘違いしないで。ただ二人で薔薇を見に行っただけでしょ」
「あんなムード最高のスポットで二人きりの時間を過ごしたんだ。デート以外のなにものでもないだろ?」

 独り善がりな俺の持論に対して、彼女はなんともいえない表情をする。ほんの僅かに、頬も緩んだ気がした。

「……まったく。あなたって人は。私と関わらない方がいいって言ってるのに」
「もしかして、さっきの奴らのことか? 関係ないよ。俺がサエさんと仲良くしたいだけなんだからな」
「……そういう問題じゃないの」

 彼女はすぐに神妙な面持ちになった。なにかを考えるように黙り込むが、しばらく経ってこんなことを口にする。

「あなたを巻きこみたくない。また、リュウジの二の舞になってほしくないから……」

 彼女のひとことに、俺は目を見張った。

 ──リュウジ? リュウジって、彼女と同じクラスの柔道部の彼のことか?

 おそらく俺の予想は的中しているだろうが、なぜこのタイミングで彼の名前が出てくるのか理解できない。
 彼の名を口にした彼女はハッとしたように首を振った。

「ごめん。今のは忘れて。あなたにリュウジのことを言ってもわからないわよね」

 それから彼女は、今度こそ口を噤んでしまった。
 
 知ってるよ、リュウジさんのことは。ただのクラスメイトじゃないんだろ? 二人になにがあったのかは知らないが、深い事情があるんだよな──?

 俺が悶々としている間にも、雨はさきほどよりも更に強くなった。いい加減、彼女を屋根のある場所へ連れていかなければ。

「とにかく駅に行こう。店の中でもいい。びしょ濡れの状態じゃ、本当に体調を崩すよ」
「……」
「なあ、聞いてるか?」
「……」

 なぜ返事をしてくれないんだ。
 違和感を覚え、俺はもう一度彼女の顔を覗き込む。

「サエさん?」

 このとき、俺はやっと異変に気がついた。

「大丈夫か……?」

 彼女の顔が、真っ赤になっている。額に手を当てると──とんでもなく熱くなっているではないか。

「嘘だろ。すごい熱だ」

 足もとがフラつく彼女の体を俺は咄嗟に支えた。動転しながらも、これからすべきことを整理する。

「今すぐ帰ろう。電車はいつ動くかわからないから……親御さんに迎えに来てもらうしかない。家の電話番号を教えて」

 スマートフォンを取り出し、俺はそう促すが、彼女は小刻みに首を横に振るんだ。

「……それは、ダメ。親には電話しないで」
「どうして?」
「今日のことは内緒にしてるの。塾の自習室で一日勉強するって誤魔化してきたから。電話したら嘘がバレる。私の親、厳しい人で……」
「そんなこと言ってる場合か? だったらどうするつもりだよ!?」
「夜に帰れば、大丈夫」

 なにが大丈夫だ。全身びしょ濡れなんだぞ。夜まで待っていたら、もっと体調が悪化してしまう。
 弱る彼女を支えたまま、俺は思考を巡らせた。

 電車は止まっている。両親の連絡先も彼女は教えてくれない。日曜日だから病院すらやっていない。
 とにかく、ゆっくり休める場所を──

「そうだ」

 ひとつだけ、方法がある。通常ならありえない選択肢だが、今は緊急事態なんだ。あれこれ悩んでいる暇はない。

 俺は彼女の目をまっすぐ見ながら言った。

「うちに来るか?」

 一瞬、驚いたように眉をひそめる彼女だったが、この状況で断る余裕などなかったのだろう。
 彼女は弱々しく、頷いた。
 一刻も早く、彼女を休ませたい。すぐさま行動に移すべきだ。

 俺はスマートフォンを握りしめ、配車サービスアプリをダウンロードし、早急にタクシーを呼び出した。数分もしないうちにタクシーがやって来て、俺は彼女を支えながら車に乗り込む。
 ずぶ濡れ状態の俺たちを見た運転手は、とても驚いた顔をした。シートには防水カバーが施されていたものの、いくらなんでも迷惑だったかなと不安が過る。
 だが運転手は快く迎え入れてくれた。なおかつタオルまで貸してくれた。
 タクシー以外に帰る手段が思いつかなかったので、本当に助かる。
 山下公園から自宅マンションまでは、およそ十分の計算。バイト代で料金は支払えるだろう。

 タクシーに乗った安心感から、肩の力が抜けた。大丈夫、きっとなんとかなる。
 俺が束の間安堵していたときだった。隣に座る彼女が、俺の肩に頭をそっと乗せてきた。虚ろな目をし、息が上がってしまっているではないか。
 いたたまれなくなり、俺は自然の流れに任せて優しく彼女の肩を抱きよせる。
 色んなことが重なって、急遽自宅に彼女を招く事態となった。冷静に考える余地もなかった。俺の肩に身を委ねる彼女を見て、俺は急激に全身が熱くなる。

 彼女をしっかりと守らなければ。

 タオルで彼女の背中を包み、俺はそっと手を握りしめた。その指先は、とても冷たくなっていた。



「ずいぶん、手際がいいのね」

 掠れた声で彼女は呟いた。
 俺は料金を支払い、運転手にタオルを返して礼を言ってからタクシーから降りる。
 よろける彼女の肩に腕を回し、俺はすかさず体を支えた。

「手際がいいって?」
「タクシーを呼ぶなんて驚いたわ」
「ああ……だって、それしか方法がないだろ?」
「迷惑かけて悪いわね」
「全然。それより、早く家に行こう」

 彼女は一切「辛い」と口にしない。体が小刻みに揺れ、素直に俺に身を委ねてくる様子からして、だいぶ体に負担がかかっているはずなのに。

 エントランスへ入り、エレベーターに乗り、五階を目指す。
 無言でいると、彼女の辛そうな呼吸音がはっきりと聞こえてしまう。耳を逸らすように、俺はなんでもない話で場を和ませようとした。

「俺の部屋、ちょっと散らかってるけど笑わないでくれよ?」
「……ええ。気にしないわ。でも、本当にお邪魔してもいいの?」

 エレベーターが五階へ到着し、俺は彼女の歩幅に合わせて部屋を目指した。自宅前に到着し、玄関ドアをゆっくりと開ける

「いいよ。今、親もいないし」
「……え?」
「旅行に行っててさ。結婚記念日なんだ。うちの両親、すごく仲良いんだよな」

 ちょうどよかったよ、と俺は笑う。
 なぜだか彼女は、怪訝な表情を浮かべていた。

「ご両親が、いないの……?」
「そうだけど」
「他に家族は?」
「いないよ。だから、気遣わなくて済むだろ?」
「……」

 玄関ドアが、静かに閉まる。
 彼女はさっと背中を向け、首を大きく振る。

「だったら、帰るわ」

 帰る、だって? 立っているのも辛そうなのに、今さらなにを言い出すんだ。

「そんなフラフラな状態で帰るのか?」
「あなたも少しは察して。誰もいない家に女を上げるなんて、非常識よ……?」

 そう言われ、俺の心臓が飛び出そうになった。
 
 冗談じゃないぞ。意識しないよう密かに努力していたのに、まさか彼女の口からそんな言葉が出るなんて。
 流れる血が沸騰しそうになるほど、俺の全身が熱くなる。
 
 取り乱すな。ここは、落ち着いて話をしよう。彼女を休ませてあげることだけを考えろ。

「俺がそんな悪い奴に見えるか?」
「……そういうわけじゃないんだけど」
「俺の気遣いが足りなかった。それは悪いと思ってるよ。だけど、辛そうなサエさんを放っておくなんてできない」

 俺は彼女の前に立ち、じっと目を見つめた。

「ゆっくり休んでほしいから、部屋を貸すだけだよ。あとはなにもしない」

 こんな状況になるなんて、俺も予想していなかった。自宅に呼び出し、好きな人と二人きりで過ごすなんて、なにか間違いが起こってもおかしくない。
 と言っても、俺は恋愛経験が全くないチェリーボーイだ。その気があっても行動にする勇気なんてないんだ、悲しいことに。
 だが、これだけは自信を持って言える。彼女が嫌がるようなことは一切しない。彼女のためを思って、最善のことをしてあげたいだけなんだ、と。
 頭の中で並べた数々の台詞を、俺は心の中だけで留める。

 彼女は、小首を傾げて弱々しくこんなことを訊いてきた。

「……どうして、イヴァンはそこまでしようとするの?」

 どうしてって。そんなの決まってる。「サエさんのことが好きだから」。声にして言うことはできないが、それが一番の理由だ。
 彼女に微笑みかけ、俺は別の理由を口にした。

「サエさんは今まで俺を助けてくれた。だから、今度は俺がサエさんを助ける番」
 俺の言葉を聞いた彼女は、目を見開く。なぜか、悲しげな声で

「私に、優しくしないで」

 そう言った。

「……どうして?」
「私は、あなたになにもしてあげられてないし」
「そんなことないよ。マニーカフェでも身だしなみチェックの日にも助けてくれたじゃないか」
「あんなの大したことじゃない。私の方が、あなたに救われたのよ」

 俺に救われた……って。
 このひとことが、俺の中に強烈に響く。
 もしかして、それって。

 俺の脳裏に『あの日』のことがよぎる──
 四月。あれは、俺が入学して間もない頃の出来事だ。
 最終下校時刻を過ぎた学校の屋上で、彼女は身を投げ出そうとしていた。
 信じられない光景を前に、俺は内心とても焦っていた。
 彼女が飛び降りてしまったらどうしよう。どうしたら止められるのだろう。
 あの場で俺が狼狽えたら終わりだと思った。だから、表向きは冷静な振る舞いをした。心臓はバクバク言ってうるさかったのに。
 彼女の足もとには、綺麗に並べられた靴と数通の手紙のようなものが置かれていた。風のせいで手紙の一枚がめくれていて、俺はふとその内容の一部を読んでしまった。
 彼女が綴ったであろうあの手紙──おそらく遺書──は日本語と中国語で書かれていた。
 生きていることに対する苦痛。それに悩み。そして戸惑い。
 
『家にも学校にも居場所がない』
『人と関わるのが怖い』
『自分の未来すらも親に決められる』
『私は自分が誰であるかわからない』

 全文を読んだわけじゃないが、それらの文言を俺は今でも忘れられずにいる。
 居場所がない。人と関わるのが怖い──これらに関しては、なんとなく思い当たる節があった。
 彼女の周りにいるクラスメイトたちの反応や、さっきイングリッシュローズの庭で鉢合わせたチア部の女たちの態度。彼女を見下すようなあの言いかたと目つきが忘れられない。
 しかも、アカネまでこんな話をしていた。

『サエさんの方からみんなを避けてるみたい』
『誰かに話しかけられても、大抵は無視して他人と関わろうとしないんだって』

 ……もしかして、他人と関わるのが怖いから? だから周囲の人間を避けているのか?
 どちらにせよ、事情は彼女本人からも聞かなければ。
 
 俺ならば、彼女の苦悩を解消してあげられるかもしれない。
 人間関係に悩んでいるはずの彼女が、俺とは関わりを持ってくれている。俺にだったら全てを打ち明けてくれるに違いない。
 そう思っている俺は、完全に自惚れていた。

「なあ、サエさん」
「なに?」
「悩みがかあるんだろ?」
「……え?」

 彼女の声が、低くなった。
 あくまで俺は、穏やかな口調を心がける。

「俺はまだ、サエさんを完全に救えてないよ。だって、問題は解決してないんだから」
「なに言い出すの、イヴァン」
「わかってるよ。サエさんは寂しそうにしてるから。校内で見かけても、いつも一人でいるだろ。二年生の間でなにがあったか知らないけど……俺はサエさんの支えになりたいんだ。だから、辛いことがあったら抱え込まないで、俺に話してほしい」

 つかの間の沈黙。
 彼女は目を伏せた。拳を握りしめると、小さく首を横に振る。

「あなたには、関係ない」
「そんなこと言うなよ」
「とんだおせっかいね。どうして私があなたに悩みを言わなくちゃいけないの?」
「いや、だから。俺はサエさんの支えになりたいんだよ」
「いらない。そんなの、私は望んでない」

 彼女は声を荒らげた。鋭い目つきでこちらを見て、語尾を強くした。

「やっぱり、同情してるのね」
「してないよ。できないし」
「だったらなんなのよっ?」
「だって、サエさんには二度と同じことしてほしくないから」
「は?」
「初めて会った日……サエさん、屋上でとんでもないことしようとしてただろ? 俺、あのとき見ちゃったんだよ。手紙の内容」
「え……まさか。遺書を……?」

 声を震わせる彼女は、信じられないといった表情に変わる。
 やっぱり。あれは、遺書だったんだ。

「あれには、サエさんの苦しみが綴られてた。全部は読んでないけど……充分、辛さが伝わってきたよ。だから」
「やめて!」

 彼女は顔を真っ赤に染め、俺から体を背けた。
 肩で息をしていて、見るからに冷静じゃない。

「もう、私のことは放っておいてよ」
「そんなの無理だよ。友だちだろ」
「勘違いしないで、イヴァン。私とあなたは、他人よ。あなたがしつこく話しかけてくるから、私はそれに答えてただけ」
「それ、本気で言ってるのか?」
「……ええ。本気よ」

 彼女は冷たい声で、はっきりと言い放った。

「だからもう、私と関わらないで」

 冷淡な言葉の数々を聞いた瞬間、俺は息が止まりそうになった。
 彼女の目は、本気だ。

「邪魔して悪かったわね。もう帰るわ」
「え……? なに言ってるんだ。今は帰れないだろ?」
「風邪を引いたって電話して、親に迎えに来てもらうわ。あなたと出掛けたことを言わなければいいだけだし」
「……そんな。服も濡れたままなのに」
「だから早く迎えに来てもらうの」

 彼女は俺の手を振りほどくと、おもむろに立ち上がった。力なく立つ彼女は、さっきよりも体調が悪そうだ。

「待ってくれ」

 部屋を出ていこうとする彼女のあとを追い、俺もさっと立ち上がる。だけど、彼女はそそくさと玄関まで行ってしまう。

「せめて、休んでから帰らないか」
「お願い。これ以上、私に構わないで。優しくしようとしないで」
「だから、なんでだよ!」

 俺が止めようとしても、彼女は聞く耳を持ってくれない。靴を履き、一度こちらを向いて、こう囁いた。

「あなたのためなの。わかって……イヴァン」

 あまりにも真剣な口調だった。俺はそれ以上、なにも言えなくなってしまった。

 彼女はドアノブに手をかけると、無言で扉を開ける。外はまだ、雨が降っていた。戸惑うこともなく、彼女は外へ出ていってしまう。
 扉が閉められた瞬間、俺は孤独に支配された。

 だだ俺は、彼女の悩みを解消してあげたかっただけなのに。
 どうして俺に、関わるなと言うのか。
 彼女にとって、俺はなんなのか。所詮、他人だったのだろうか。

「俺、間違ってたのか? なあ、サエさん……」

 俺が嘆いたところで、彼女から返事がもらえることはない。
 膝から崩れ落ち、俺はしばらくその場から動けなくなった。



 あれから、十日が経つ。
 二人で出かけた日以来、校内で一度も彼女とすれ違わなくなった。放課後に食堂前のベンチを訪れてみても一切姿を現さない。
 最初の数日間は彼女は体調不良で学校を休んでいるのだな、と思った。だが、日が経つにつれてそれは違う可能性を俺は考えはじめる。

 こんなにも会えなくなるなんて、さすがにおかしい。

 マニーカフェにも顔を出してくれなくなった。おまけに、俺がメッセージを送っても返事がこなくなった。
 だから俺は気づいた。彼女に避けられているんだと。

 俺は諦めの悪い男だ。彼女に「関わるな」と言われても納得できない。あの言葉の裏には、なにかがある。彼女の本心とは到底思えなかった。

 俺が悶々としていても、日常は容赦なく流れていく。
 いつものように朝目覚め、学校へ行く支度をしてから家を出た。ぼんやりしながら自転車に乗って学校を目指す。

 なんの代わり映えのない通学路。日に日に色のない背景に変わっていった。それほど、この日常の風景がどうでもいいものに感じた。
 どうしても、気分が晴れないんだ。母やクラスメイトたちに「最近、元気がない」などと指摘されるくらい、俺は落ち込んでいた。
 彼女の件で悩んでいるなんてこと、誰にも相談できるはずもなく一人で抱え込んでいた。考えては落ち込み、また考えて落ち込むことを繰り返してばかり。

 彼女と会いたい。話がしたい。だが、連絡も一切つかない。このままでは解決の糸口は見つからない。

「はぁ」

 大きなため息が漏れる。
 喉が渇いたな。途中のコンビニでなにか飲み物でも買おう。
 通りかかった店の前に自転車を停め、店内へ向かう。だが入口を見ると、三人の男子学生たちがドア前を塞ぐ形でお喋りに夢中になっているのが目に映る。三人とも、村高の制服を着ていた。

 ……邪魔だな。

 多少イラッとしながらも、俺は柔らかい口調で三人に注意をする。

「すみません。そこ、通らせてください」
「おっと。悪ぃ」

 三人は俺の存在に気づくと、すぐさま入口を開けた。

「どうも」と言って、俺がコンビニへ入ろうとしたときだった。
 一人の男子が、俺の顔をぐいっと覗き込んでくるんだ。

「あれ? あんた、もしかして」

 なぜかニヤニヤしながら俺を見てくる。面識のない人だ。

「最近、噂になってる奴じゃん」

 ……噂? なんのことだ?
 見知らぬ相手にわけのわからないことを言われ、俺は首をひねる。
 面倒臭い相手に絡まれたことには違いないので、俺は適当にあしらおうとした。

「なんのことか知りませんけど、人違いだと思いますよ」

 俺が首を振っても、聞き入れてくれない。さらに他の二人も俺の顔をジロジロ見てきては、一斉に喋り出す。

「わっ。ガチじゃん!」
「お前が玉木と仲良くしてる例の一年か」

 ……玉木。その名前を聞いて、俺の心拍が一気に早くなる。
 サエさんのことを言ってるのか。噂って、そんなに話が広まってるのかよ?
 というか、別に俺が誰と親しくなろうが関係ないだろ。どうして突っかかってくるんだ、この人たちは。

「なんか問題あります?」

 無表情で俺が問いかけると、三人はギャハハと笑った。なにが面白いのか、全くもって意味不明。

「いいよなぁ、あんた。玉木って超美人じゃん。おれらにはすげぇ冷たいのになー」
「そうそう。スタイルもめちゃくちゃいいだろ? 入学当時は玉木を狙ってた奴、結構いたんだけどな、あんなんだから誰も落とせなくて」
「付き合えなくてもいいから、一回くらいヤらせてくれたらいいのにな! どんな野郎が近寄ってもフルシカトするんだぞ? ガード固すぎだろ!」

 面白おかしく話す三人を前に、俺の全身がカッと熱くなった。

 ……なんだよ、こいつら。ふざけてるのか?

 下品な話をする奴らに虫酸が走る。
 俺が震えるそばで、男たちの妄言は止まることを知らない。

「あいつ、美人なのに暗いからホントもったいないよなぁ。付き合うどころか友だちにもなれねぇわ」
「お前、一年のクセして凄いよな。よくあの玉木を落とせたよな。付き合ってんだろ?」
「どうなんだ。もうヤッたのか? やっぱりすげえのか」

 そう言われた瞬間、俺の中でなにかの糸がぶち切れた。拳を強く握りしめ、三人の下衆どもを睨みつけた。

「あんたら、バカにしてんのか」

 自分でも聞いたことのないほどの低い声だった。
 俺の態度が豹変したことに、三人は一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐに睨みをきかせてくる。

「……あ? なんだよ、一年」
「文句あるのか」

 三人は俺に詰め寄ってくる。だが、俺は怒りと苛立ちで恐怖心を忘れてしまっていた。

「二度とサエさんをバカにするな!!」

 怒りにまかせて、俺は一人の男の胸ぐらを掴んだ。自制が効かなかった。

 全員、ぶっ飛ばしてやる!

 俺は握り拳を高く挙げた。思いっきり男の頬を殴ろうとした──その瞬間。

「やめろ」

 背後から、怒気のこもったテノール声が聞こえてきた。

 この声は……

 ハッとして振り返ると、俺たちの後ろには見覚えのある大男が立っていた。鋭い目つきをこちらに向けて、呆れたような顔をしているんだ。

 彼を前に、俺の怒りの感情は瞬時に消え失せる。
 下衆男の胸ぐらをパッと放し、俺は大男に体を向けた。

「……リュウジさん」

 俺が小さく名を呟くと、リュウジさんは大きなため息を吐いた。
 予期せぬ相手の登場に、俺は固まってしまう。絡んできた三人の男たちも、口をあんぐりさせて言葉が出ない様子。

 リュウジさんは俺たちを眺めながら眉を潜めた。

「なんだ、お前ら。朝から喧嘩か」

 そう問われ、男たちが慌てた様子で弁解し始める。

「いや、そういうわけじゃ……。聞いてくれよリュウジ。この一年の野郎がいきなり殴りかかろうとしてきてさ」
「ちょっと話をしただけで。急にこいつがキレるから、おれらもビックリしたよ!」

 耳を傾けるリュウジさんの表情は渋い。制服の上からでもわかる筋肉質な体がとにかく迫力があり、圧倒されてしまう。三人の男たちが、リュウジさんを恐れているのが見て取れる。

 リュウジさんは両腕を組みながらギロッと俺を睨みつけてきた。

「どうして殴りかかろうとしたんだよ」
「この人たちが、失礼なことを言った。サエさんをバカにされて、許せなかった。ただ、それだけです」

 俺のひとことに、リュウジさんの顔が歪む。
 瞬時に場が凍りついた。

「違う……ジョーダンだって」
「おれらが玉木さんをバカにしたりするわけないじゃん」
「リュウジの幼なじみなんだもんな? 別に変な目で見たりもしねぇし……」
「黙れ」

 強圧的な声で、リュウジさんは叫んだ。それは、悲痛な心の絶叫にも聞こえた。

 男たちは涙目になりながら口を噤む。三人ともガクガク震えて、怯えたネズミのような面をしていた。
 リュウジさんは肩をすくめ、首を大きく横に振る。

「厄介事は勘弁だ。お前らは二度とサエを話題にするんじゃない」
「あ、ああ……」
「無駄な揉め事もするな。わかったらさっさと行け」
「わ、わかった」

 顔を見合わせ、三人は冷や汗を垂らしながらこの場から忙しなく走り去っていった。縮こまる様は、なんとも不格好だ。
 
 リュウジさんはゆっくりと俺の前に立つと、こちらを見下ろして口を開く。

「お前、面貸せよ」
「……はい」

 逃げるわけにもいかず、俺は黙って彼の後を付いていった。

 リュウジさんが俺を呼び出した場所は、学校の体育館裏だった。周囲には誰もいない。誰かが来る気配もない。
 相変わらずリュウジさんは怖い顔をして、俺を見下ろすんだ。

「お前なにしてんだよ。喧嘩っ早い野郎だったのか」
「いえ、そういうわけではないです」
「暴力沙汰になったら、最悪退学になるかもしれないぞ」
「……そうですね」

 力なく頷く俺を眺め、リュウジさんは肩をすくめる。

「あいつが……サエがバカにされたと言っていたな?」
「……はい」
「お前、オレの忠告を無視してサエと仲良くしてるんだってな。二年の間では話が広まってる。しつこく付きまとったんだろ」
「そんな。付きまとってるのは誤解です。サエさんに声をかけて、何回か話をしただけです」
「それだけじゃないだろ」
「……」

 俺は、言葉に詰まる。
 もちろん、それだけじゃない。彼女と連絡先を交換したり、デートに行ったり、挙げ句の果てには家にも招いた。さすがに、そのことをバカ正直に打ち明けるなんてしたくない。
 返事をする前に、俺からも質問をする権利があるはずだ。

 ──なぜ俺は、彼女と関わってはいけないのか。

 これに関する明確な理由を聞いていないので、ずっとモヤモヤしている。ちゃんと訳を教えてほしい。

 俺はリュウジさんの目をしっかりと見た。

「ひとつだけ訊いてもいいですか?」
「なんだ」
「なぜリュウジさんは、俺と彼女が関わることが許せないんです?」

 我ながら意地悪な訊きかただと思った。
 リュウジさんは、彼女となにか深い関係があるのだと思う。俺と彼女が親しくなるのを反対しているのは、嫉妬だったり束縛だったりする可能性だってある。
 だけど、そんな理由でリュウジさんが俺を牽制するとはどうしても思えないんだ。
 もっとこう、特別で複雑で、悲しい事実がある気がしてならないんだ。

「あなただけじゃありません。二年生の人たちも様子がおかしい。俺とサエさんが親しくすることに対してよくないと思っている」

 俺の切実な疑問に対し、リュウジさんは目を逸らした。

「お前に訳を話す義理はない」
「そんなの納得できないです。サエさんは俺を『普通の高校生』として見てくれた。俺が声を掛けると必ず答えてくれるし、笑った顔は凄く素敵だ。これからもサエさんと仲良くしたいだけです。それがダメな理由がわかりません。ちゃんと話を聞かせてください!」

 興奮のあまり、俺は一気に言葉を並べてしまった。
 だが、俺の話を聞いたリュウジさんの表情が一変したんだ。

「……サエの、笑顔だと?」

 さきほどまでの怒りに溢れた顔ではなくなり、驚いたような目になった。

「あいつが、笑うのか」
「……? そうですけど」

 眉の間に寄せていたしわが少しずつ薄くなっていく。

「あいつの笑った顔なんて、もう何年も見ていない。信じられないな」
「え……なに言ってるんですか。サエさんと話をしていると、時々微笑んでくれますよ。とくに薔薇の話をするときの彼女は一番輝いていた。生き生きと花の魅力を語るサエさんを見て、俺も嬉しくなりました」

 彼女と歩いたイングリッシュローズの庭。あの場所で、彼女と過ごした時間を思い出すと、胸が締めつけられる。

 俺にもう一度目を向けると、リュウジさんは震えながらも口を開いた。

「……その話が本当なら、サエにとってお前は特別なのかもな」
「え?」
「いいか。今から話すことは他言するな。二年の奴らにもお前のクラスの奴らにも。もちろん、サエ本人にもだ。わかったか」

 リュウジさんは時折、声を震わせながら彼女の「過去」を語りはじめた。それはとても複雑で、悲しい過去だった。
 ──彼女は、いじめられていた──
 小学生のときから、今までずっと。

 十歳まで中国で暮らしていた彼女は、来日当時から日本語は堪能だった。物事をはっきりと述べる性格で、クラスメイトだけではなく担任にも構わず指摘するほどだったそう。
 そんな彼女は、移住してきてから最初のうちは日本の常識をあまり知らないようだった。日本の習慣や文化になかなか馴染めなかった彼女は、瞬く間に浮いた存在となってしまい、友人と呼べる相手が一人もできなかったんだ。
 クラスメイトたちから徐々に避けられるようになり、無視され、そして仲間外れにされた。挙げ句の果てには、彼女本人に聞こえるような大声で悪口を言う輩まで出てきた。

『玉木サエはなにを考えているかわからない』
『迷惑な女。関わってはいけない』
『いつも澄ました顔して、いけ好かない』

 彼女の人格を否定する言葉もたくさん飛び交ったのだそうだ。
 どれだけ罵詈雑言を浴びせられても、彼女はいつも冷めたような表情を浮かべていた。まるで「気にしていない」と主張するように。
 クラスが同じだったリュウジさんは、そんな彼女のことを少なからず気にかけていた。
 中国から来た孤独な少女。本当に彼女は、周囲からの雑言を気にしていなかったのだろうか。

 小六になったある日。リュウジさんは、独りで下校する彼女を偶然見かけた。その後ろ姿はあまりにも寂しそうで、あまりにも切なく見えた。いたたまれなくなった彼は、思い切って彼女に声をかけてみることにした。

『お前、いつもぼっちだよな。寂しくねえの?』
『仕方ないの。みんなは私のことが嫌いなんだから。……日本の人たちは、中国が嫌なんでしょ?』

 リュウジさんは、彼女のこの言葉を否定した。国なんて関係ない。ただ生まれ育った場所が違えば、習慣や文化が違う。だから上手くみんなと馴染めていないだけ。郷に従えば、きっと日本の友だちもできるはず。

『だったら、あなたが友だちになってくれるの?』

 もちろん、リュウジさんは彼女の言葉に頷いた。
 無の表情を貫いていた彼女が、初めて笑った瞬間だった。

 ──しかし物事は、都合よく良い方向へ進んでくれることはなかなかない。

 中学に入学し、彼女はますます苛められるようになった。上履きを隠されたり、教科書に落書きをされたり、ものを壊されたり、SNSで悪口を書かれたり。更にたちが悪いのは、テレビやSNS等で中国人がなにか問題行動を起こして炎上すると、なぜか彼女が責められるのだ。

『これだから中国人は』
『玉木も中国人の血が流れてるヤバい奴なんだろ』
『お前は日本人じゃない。日本から出ていけ』

 とんだ風評被害だ。
 聞くに耐えない卑猥な言葉もさんざん彼女は浴びせられてきたのだそう。

『どうして私が責められるの?』

 本当の彼女は、悲しんでいた。気にしていないふりをしていただけ。心ない発言に傷ついていたんだ。

 リュウジさんは、なにがあっても周りに流されることはなかった。むしろ、苛めてくる奴らから彼女を守ろうと心に決めた。
 しかし、その決心は、リュウジさん自身をも傷つける結果となるんだ──

 彼女を嫌う男子たちに、リュウジさんは目をつけられてしまった。
 彼らが中学二年のときだった。同級生の五人の男子たちに学校の体育館裏に呼び出され、リュウジさんは殴る蹴るの暴力を振るわれた。

『なんであの女をかばうのか』
『やべぇ女を守ろうとするお前も同罪』

 わけのわからないことを言われ、罵られ、何度も殴られた。
 当時のリュウジさんは短身であり、体も鍛えていなかった。されるがまま反撃もできず、あばらに大怪我を負ってしまった。
 このとき、彼はこう思ったそうだ。

『サエの痛みに比べたら、オレの痛みなんてどうってことない』

 この怪我について、リュウジさんは「階段で足を踏み外して転落した」と両親や先生たちに嘘を吐いて誤魔化した。大ごとにしたくなかったがために、被害を隠し通したんだ。

 しかし、彼女だけには嘘を吐けなかった。負傷したリュウジさんを見た彼女は、問いつめ、すぐに状況を把握した。

『私のせいで、あなたが傷つけられたのね』

 大粒の涙を流し、彼に謝罪をする彼女は、声を震わせながらこう告げる。

『もう、私と関わらないで。あなたを巻きこみたくないの……』

 ──自分のせいで、あなたを危険な目に遭わせてしまった。
 そう言って何度も何度も、彼女は謝り、彼に頭を下げる。

 彼女のせいではない。悪いのは、彼女を差別的に見る愚かな奴らだ。
 リュウジさんは強くそう言ったのだが、彼女が首を縦に振ることはなかった。

『大事な人を巻きこみたくない』
『傷つけたくない』
『自分だけが我慢すればいい』

 これは彼女の願い。優しい心を持つ彼女だからこその、悲しみの叫び声だった。

 リュウジさんは彼女の考えに、納得もしていないし賛成もしていない。
 だからこそ、心に決めたことがある。
 今後、彼女と関わるのはやめよう。そして、陰ながらに彼女を守り続けようと。
 それには自分自身が強くなければ叶わない。心も体も、強く強く。
 それにより、リュウジさんは身体を鍛えはじめた。柔道もはじめた。
 強くなれば、彼女を守れる。彼女を傷つける奴がいれば、自分が圧をかけて忠告をする。決して手を上げないが、威圧的にしていれば、大抵の奴らは黙るようになった。

 しかし、それでは根本的な解決策にはならなかったんだ。
 ──過去の経験から、彼女は人間不信になってしまった。
 リュウジさんがそう確信したのは、高校に入学してからすぐのことだ。

「村高で、サエと同じ小中に通っていたのはオレだけだ。あいつをいじめてきた奴らと、やっと離れることができたんだよ。だからオレは、これでサエが苦しみから解放されると思った」

 リュウジさんは、切ない瞳を俺に向ける。

「だけど、なぜかサエは高校に入ってからもろくに他人と関わろうとしなかった。サエを苦しめてきた奴らとは無関係なのに、あからさまな態度でみんなを避けていた。だから放課後、誰もいない教室で問いつめたんだ。なんでみんなと関わろうとしないのか、と」

 少しの間を置いて、リュウジさんはゆっくりと続きの言葉を並べていく。

「そしたらあいつ、こう言ったんだよ。『他人と関わるのが怖い』って……」

 そのひとことを聞いて、俺の心臓が低く唸り声を上げた。目の奥が熱くなって、寒気が走った。

「サエの心の傷はものすごく深いものになっちまった。他人を避けるだけじゃなく、オレとも距離を置こうとする。オレが関わろうとすればするほど、サエは嫌がるんだ。またオレがバカな奴らに傷つけられると心配してるんだろうな。だから何度も離れようとした。でも、離れらない。まさか高校も同じになるとは思わなかった。クラスもずっと同じ。近くにいるのに……オレじゃサエを守れないんだ」

 彼は震えながらもそう語り紡いだ。

 なんて悲しいきっかけなんだろう。
 彼女は、日本の習慣を知らずに日本で暮らしはじめた。クラスメイトと理解し合えずに人間関係にひびが入り、やがて彼女は他人と関わることすら恐れるようになってしまった。
 どれだけ辛い想いをしてきたのだろう。あの切ない後ろ姿は、彼女の苦悩の表れだったんだ。

「そんな事情があったなんて、全然知りませんでした……。俺はなんてことを……」

 今までの行いを振り返ると、自分自身を殴りたくなるくらい後悔の念に駆られる。
 なにも知らずに、俺は彼女に声をかけ続けていた。
 しかも俺は「支えになりたい」と軽々しく彼女に言った。それすら彼女にとっては負担だったに違いない。

 リュウジさんに正直に話そう。彼は赤裸々に事実を教えてくれたんだ。 

「リュウジさんの言う通りです。俺は彼女に付きまとっていました。サエさんは俺の強引さに、断れなかっただけ。俺、こんなんだから……諦め悪いし、強情だし、周りが見えなくなる。意地を張って、サエさんと仲良くなりたいがために、リュウジさんの忠告を無視してサエさんに近づきました。そうしていたら、俺も彼女に言われてしまったんです。『関わるな』って。泣きながら彼女に突き放されたんですよ。だから俺も避けられているんです。連絡は繋がらないし、校内でも全然会えなくなりましたし……」

 あの日を思い出しては、俺の胸が鋭い刃物に刺されたように痛くなる。
 
『お願いイヴァン。これ以上、私に構わないで──あなたのためなの』

 彼女のあの言葉の意味を、俺はリュウジさんの話を聞いてやっと理解した。

 俺がうつむき加減になると、リュウジさんは呆れた声で呟くんだ。

「これだからバカは嫌いなんだよ」
「……すみません」
「だがな、あいつがお前を避けているのは違うと思うぞ」
「どうしてそう言えるんです? こんなに会えないのはさすがにおかしいです」
「違う。そうじゃないんだ。サエは……学校に来てないんだよ」
「えっ」
「先週の月曜日から、めっきり来なくなっちまったんだ」

 俺は、言葉を失った。
 ……まさか。彼女が学校に来ていないだって? 全然知らなかった。

「でもな、希望はある。独りぼっちのあいつを、お前は笑顔にしたんだよな?」
「……はい」
「それが嘘じゃないなら、諦めんなよ。いや、諦めないでほしい」

 リュウジさんは力強い言葉を俺に向けた。

 ──俺だって、諦めたくはない。彼女の事情を知って、さらにその想いは強くなった。
 だけど、どうすればいいんだ? 彼女は他人を拒絶する。彼女をなぶる人たちだけじゃなく、リュウジさんとの関わりも絶ってしまった。もう一度俺がしつこく関わろうとしても、また嫌がられるだけではないか?

 なにかを思うように俺をじっと見つめると、リュウジさんは声を落としてこんなことを言った。

「下らない差別をサエは受けてきた。偏見で決めつけられてきた。……もしかすると、自分と似たような悩みを抱える相手に対して、あいつは共感したのかもしれないな」
「サエさんと、似たような悩み……」

 話を聞いて、俺は彼女のあの言葉をふと思い出した。

『私たちは、同じ人間よ。──国籍や人種がどうであれ、同じ空の下で生きているの』

 これは、俺が初めて自分の中に抱えた悩みを打ち明けたときに彼女が綴った言葉だ。
 俺にとって、心の支えとなったもの。思い返せば、彼女自身が自分に言い聞かせている台詞だったのかもしれない。

 俺になにができるのだろう。
 彼女に会いたい気持ちが大きくなっていく。
 俺ができることなど、なにもないかもしれない。だとしても、いいんだ。彼女に会って、ひとことでも話がしたい。

 リュウジさんは急に真顔になって、俺の両肩にそっと手を添えてきた。眉を下げ、懇願するようにひとこと。

「無理を承知で言うが、どうか助けてほしい。あいつを……サエを笑顔にできるのはお前だけだ。そうだろ、イヴァン」

 俺は、上手く返事をすることができなかった。その代わり、大きく、大袈裟に首を縦に振った。