「あと一人……あと一人やったんや」
「は?」
善丸の声が、急に沈んだように重くなった。
「いやな、わてら鬼にも色々いますんや。人と仲良う暮らす者もおれば、関わりを絶つ者、それに……ええ顔して人に近づいて、パクリと喰らう者」
善丸が、ペロリと舌を出す。
スズは竦みそうになる身体をなんとか踏みとどまらせた。
「まぁお察しの通り、わては最後のパクッと頂く者ですわ。そういう鬼にはだいたいしきたりがありましてな。人を……それもあやかしを見られる者を、10人喰う。それでようやく一人前になれるんですわ。なかなか厳しいですやろ」
「それが……あと一人?」
「そう。そうなんですわ」
善丸の声は踊るようだった。昼間に会ったときとはまるで違う、喜色満面といった様子だ。
「あの時……えらい強い力を持った人間を見かけましてな。幽世であんなんに会うことはそうそうないから喰うたろと思たんでっけど、逃げられましてな。追いかけたら、なんや別のの人間を見つけたんや。さっきのよりは弱いけんど、ぼんやりとでもあやかしを見る力はあるようやったし、まぁコレでええかて思て……そやけど、どういうわけかそいつも見えんようになった。ええ加減腹が立ちましてな。腹いせにそいつの周りにおった人間をみんな喰うたったんですわ。何の力も持ってへんから、何の自慢にもなりまへんでしたけどな」
それは、スズの知る話と酷似していた。だがそこにこもる感情は、スズが抱いているものとは真逆だった。
善丸は、今度は少し顔をしかめている。
「そやけど、さすがにあれはやり過ぎやった……この辺一帯を取り仕切っとる狸のジジイに見つかってしもて、悪さできんようにさせられたんですわ。角を折られ、『善丸』やなんて馬鹿馬鹿しい名をつけられ、人を傷つける存在やないように変えられて……ああ忌々しい……!」
善丸の声は、苛立ちを孕んだかと思ったら、すぐに穏やかに戻った。潮の満ち引きのごとく大きく。そして潮よりずっと早く荒く。
「そやけど、それやったら確かに、うちに何もできませんなぁ。『善丸』さんは、人に悪さできへんのやさかい」
スズがそう言うと、何故だか善丸はくつくつと笑った。
「そうや、わてはあんさんに何も悪いことはせん。あんさんの頼みを聞いてやるだけや」
「頼みなんて何もありません」
「いいや、あんさんはきっとわてにこう頼むはずや。『お父ちゃんらと同じように喰うてほしい』てな」
何を言っているのか、理解できない。スズが一歩下がると、善丸が一歩近づいてくる。
「わてはただ、善意を以てあんさんに話を聞かせてあげるだけだす」
「……話?」
「そうだす。この店の者の最期の様子を、事細かに、唯一の生き残りであるあんさんに、お伝えするんだす。どんな顔やったか、どんな風に逃げ惑ったか、どんな声を出したか、最期はなんて言うたか……一人一人ちゃんと教えてあげますさかい、よう聞いとくれやす。あんさんが『もう死にたい。お父ちゃんらと同じところに行かせて』て言うまで、何回でも話してあげますさかいな……!」
「い、嫌や! 近寄らんといて!」
スズが拒んでも離れても、善丸は近づいてくる。後ずさるばかりのスズの背中に、通り向かいの店の壁が当たった。
「ほら、店の中でゆっくり話しまひょ」
善丸の手が、スズの腕を荒々しく掴み取る。
その時、地響きにも似た声が、響き渡った。
「善丸、やめぃ!!」
周囲の店の者たちが起き出すのではないかと思った。大地を揺らすほどの声は大波のように善丸とスズの身を揺らした。
慌てて手を離した善丸は、声の聞こえる方を向いて膝をついた。
その方向から、大きな大きな狸がふさふさの毛を揺らして歩いてくる。
狸のご隠居だ。巨体だというのに、なんとも優美な歩の進め方に、スズは思わず見惚れてしまった。
(あれ? この歩き方は……)
ご隠居はスズと善丸の間に立ち、毛を逆立てていた。
「善丸、角一本では足りんかったようやな」
「お頭……そ、それは……」
「わしは頭やない。しかし、わしが目を掛けとる者にこないな仕打ちをしたんや。よもやただで済むとは、思とらんやろうな」
「へ、へぇ……! そやけど、お頭……わてはまだ何も……」
「くどい!」
善丸は、ついに悲鳴と共に平伏し、そのまま頭を上げなかった。
ご隠居はくるりとスズの方を振り返った。その顔には、善丸に向けていた気迫は少しも見られない。
「スズさん、難儀やったなぁ……怪我、ないか?」
「は、はい……あの……」
呆けた顔と声でご隠居を見上げる。瞬きの後、スズは思わず、尋ねていた。
「あの……旦さん……清一郎さんやないですか……?」
「え」
ご隠居から、急に清一郎の声が聞こえた。かと思うと、ふさふさの巨体はしゅるしゅると縮こまっていき、スズより頭一つ大きな身の丈の男性の姿に変わった。
面がするりと落ちて露わになったその顔は、夜目にも端整に見えた。鼻筋の整った顔に、細く柔らかく垂れた両目は穏やかそうだ。
祝言の日と似たような黒の羽織と紺の紬を身につけ、闇に溶け込んでいる。いや、闇の中でより黒く浮かび上がっていると言った方がいいだろうか。
スズは、こんな人をどこかで見たことがある気がした。だがそんな感慨を、清一郎の声が吹き飛ばした。
「し、しもた……!」
「あんた……百鬼屋の旦那か? あのいっつも逃げ回っとる……『化け者の清一郎』はん……?」
狸のご隠居ではないとわかった善丸は、ゆらりと立ち上がった。一度竦み上がった姿を見られたため、その怒りは何倍にも膨れ上がっていると見える。
「こら、あかん……逃げるで」
そう言うと、清一郎はスズの腕を掴んで、一目散に走り出した。
スズと清一郎は細い道をあっちへこっちへ曲がりつつ、百鬼屋を目指している。舌を噛みそうになりながらも、スズは抱いていた疑問を清一郎にぶつけた。
「ば、『化け者』て何ですか?」
「よう人に化けるさかい、そない呼ばれるようなったんや。たまーに役に立つんやで、さっきみたいにな」
「でも……なんでさっき、元に戻らはったんですか?」
「正体がばれたら術が解けてまうんや。こんなヘマして、またご隠居に笑われるわ」
「そ、それは……すんまへんでした!」
「今はそんなん言うてる時とちゃう!」
路地に入りこむと、清一郎はスズを庇うように覆い被さりながら袂を探った。取り出したのは、小さな守り袋。スズが持っていたものとよく似たものだった。清一郎はその口を開け、中身を取り出した。
「ええと、これは……これも……これも今はあんまり役に立たん。ああもう、肝心な時に使えんなぁ、わしは……!」
袋からぽいぽい取り出したものは、どれも折りたたまれていた紙だった。よく分からない紋様と文字が書き連ねてある。護符のようなものだろうか。
「あの……似たようなものなら、うちも持ってますけど」
「え?」
スズは自分の着物の袂を探って紙の塊を取り出し、清一郎に渡した。
「これは……あの守り袋の? なんで中だけ持ってるんや?」
「おいえさんに、袋を繕うたげるて言うてもらったから中身だけ出して持ってたんです」
「さすがやな、スズさんは……えぇと何が入って……あれ? 何やこれ?」
スズは幼い頃から、守り袋の口を開いたことなど一度もなかった。だから中に入っていた紙は折りたたまれたままぴったり閉じており、しわも寄ってくしゃくしゃになっていた。それを焦る手つきで開くのは困難だった。
「くっ……あかん、無理に開いたら破れる……」
その時だった。
「旦さん……どこでっか。百鬼屋の旦さん……若ご寮さんもいっしょに、ゆっくりお話させてくれまへんかぁ」
そんな声が、足音と共に聞こえてくる。
「うちがやります」
そう言って、スズは紙の塊を清一郎から受け取った。だが同じく怯えて竦む手元では、小さな塊を破れないように開くことは難しく、震えばかりが増していった。そして……ついに、スズの手のひらから紙の塊が逃げていった。
「あ……!」
紙は、通りの方へとコロコロ転がっていく。それに目を留めたらしい善丸の視界に、清一郎とスズの姿が捉えられてしまった。
「ようやっと見つけましたで……旦さん、若ご寮さん」
善丸が、清一郎とスズへ向けて、一歩歩み寄る。その時――とてつもない音が響いた。
豪雨に大風、烈しい雷鳴、轟轟とした地鳴り、それらが総て合わさったかのような轟音が辺り一帯に響き渡った。
「ぐわあぁぁぁ!!」
善丸は、断末魔のような叫びを上げると、その場に崩れ落ちた。その足下には、黒焦げになった紙の塊の跡がある。
「あれのおかげ……ですか?」
スズが尋ねると、清一郎は「たぶん」と言いながら頷いた。
「あの守り袋には、色んな護符を詰めとったんや。あの頃は今よりずっと怖がってたさかい、かなり強めに痛めつけるもんもぎょうさん入ってたはずや。それが全部いっぺんに効果発揮してしもたんやろなぁ……敵さんながら可哀想に」
「はぁ……」
いずれにせよ、もう大丈夫、ということらしい。
スズも、清一郎も、一気に息を吐き出して、ぺたんと座り込んでしまった。
「まぁ、あとはご隠居はんが片付けてくれはるやろ。お母はんが繋ぎつけてくれてるはずやしな」
「あの……」
茫然としつつも、スズは声を出した。すると清一郎は急に居住まいを正した。地べただというのに正座して、両手をついて頭を下げる。
「怖い思いさせて、ほんまにすまんかった」
「え、いえ、そんな……うちこそ、迂闊でした。せめて誰かに相談してから来れば良かったんです。ご迷惑をおかけしました。ホンマに、すんまへん」
「迂闊なんは、まぁそうやな。それでのうても、あんな刻限に女子が一人で出歩いたらあかん。どんな目に遭うか……」
清一郎のその反応には、スズはちょっと不服だった。
「普段どこにいてはるかわからへん旦さんが言わはりますか?」
「わしはええのや。どことは言わんけど、安全な場所におるさかい。それに男やしな」
「そんなん、ずるいわ」
「ずるぅない。現に危ない目に遭うたんはスズさんで……」
まだ言い募ろうとする清一郎の着物の裾を、スズは、がっしりと掴んだ。いきなりの行動に清一郎の口がピタリと止まる。そして、入れ替わるようにスズが口を開いた。
「捕まえました」
「……え」
スズの手は、これでもかと言うくらい強く強く清一郎の着物を掴んでいる。
「あのなぁ、今、そんな場合とちゃうやろ……」
清一郎が唖然としながらそう言うも、スズは首を横に振る。
「お守り袋……」
「は?」
「あのお守り袋のこと……何で旦さんが知ってはるんですか」
「何でって……あ!」
一つの疑問が、一つの答えに結びつこうとしていた。
スズは大阪に戻ってから、守り袋のことは限られた人物にしか話していない。話したのは、寿子と狸のご隠居のみ。他に挙げるとするなら、その場にいた善丸くらいだろうか。
少なくとも、清一郎に話したことは一度もない。それなのに、スズの守り袋のことを知っている理由は……考えれば、一つしか答えは出なかった。
「あの日、あの時、うちに来た男の子……守り袋をくれたんは、清一郎さん……なんやね?」
清一郎は、言葉に詰まっていた。あーとか、うーとか、声になるのかならないのかよくわからない声を発して、がっくり項垂れた。
「はい……そうだす」
観念したらしい。そしてスズより大きな図体を、きゅっと縮めていた。
「その……すまなんだ。わしのせいで、スズさんは……」
その先を清一郎が言うより先に、スズは、もう片方の袖をきゅっと握った。そして、声を絞り出して告げた。
「……ありがとう、ございます」
「……え? なんで礼を……?」
「狸のご隠居はんに、言われました……守り袋をくれたお人に、感謝しぃて」
「ご隠居はんが……はぁ、なんでまた?」
清一郎はよく分かっていないようだが、スズは、わかる。あの時、ご隠居と寿子がどんな気持ちでいたのか。
スズの胸のうちには、今、温かい思いが溢れかえっていた。どのように、どれだけ伝えればいいのかわからないほどに。
スズは清一郎の裾を掴んだまま、深く、頭を下げた。
「ありがとうございます。清一郎さんのおかげで、うちは今、こうしてここに居られます。あの時も、今も、うちのことを助けてくれて、ホンマに、ホンマに……ありがとうございます」
「それは……そんなんは……」
「あの時は清一郎さんが迷子で、うちが見つけた。今は、迷子になったうちを清一郎さんが見つけてくれた。そやから、うちらはお互いに迷子にならんように、一緒におらなあかんのと違いますか。もしはぐれたら、すぐに見つけてあげなあかんのやと、そう思うんですけど……どうですやろ?」
スズが、裾を握る手にきゅっと力を込めた。
「そやから……うちは、清一郎さんを捕まえました。清一郎さん……は?」
祈るような視線を、スズは向けた。
そんな視線を、清一郎は避けようとして、失敗していた。そして、裾を握りしめるスズの手をそっと握り返して、告げた。
「はい……スズさんに、捕まりました」
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それからほどなくして、大阪の老舗豪商・百鬼屋にて、再び豪勢な祝言が挙げられた。
以前の祝言よりも更に大勢の客が訪れ、奉公人たちも共に、酒宴は三日も続いたという。
その途中、度々主である清一郎が席を外し、しばらく戻らないといったことが何度もあった。その度に花嫁が中座し、どこからか夫を連れ戻してくるのだった。
客たちはその度に大笑いし、宴席は更に盛り上がったという。
百鬼屋の主は相も変わらず、あやかし嫌いの臆病風。そやけど嫁はんはえらいお強くて、臆病風も吹き飛ばす。鬼面の旦那を追いかけ回す鬼の嫁……などと客の誰かが言ったということは、いついつまでも、語り草となっていた。