朝日で目を覚ます。時計を確認すればもう8時だった。ん?8時…?

「…あ、8時半に来いって言われてた。やべ。」

 残り小半時間(こはんじかん)。急いで起きて、服に着替える。元は私服だったのだが、雇い主に「仕事なんだしなんかこう…形だけでも着てこいよ。」と言われ、嫌々ブレザーやらシャツやらを着ている。まあ別に見た目なんて仕事に関係しないんだしと思いつつ、鏡でチラリと確認した。

「あ、ネクタイ忘れた…。…とりあえず持っとけばいっか。」

 少しめんどくさくてネクタイをポケットに突っ込んで家を出た。

「やべー遅刻遅刻ー。」

 走るたびにボタン開きっぱなしのブレザーが風に煽られる。父親が『何か分からないもの』だった影響で、俺はやたらと体が丈夫だ。そして、髪がミルクティーカラーになっている。ちなみにそれ以外は母親譲りの人間なので、宝石はない。あーそういえば、最近全然会ってないな〜。…まあ、会うの恥ずいし、まあいっか。
 『近道』と称した建物の上を渡り歩く行為も、もう何回目か分からない。ちなみに手ぶら。あ、ネクタイがあったか。あとはティッシュが入ってたらラッキーくらい。
 レンガの建物になったらそこから飛び降りて、レンガビルの地下一階へのエレベーターに乗る。地下はエレベーターでしか行けないのだ。
 重いドアを開けると、そこにはいつものあいつが待っていた。
 コンクリート打ちっぱなしの壁と床に、デスクやら棚やらが雑多に置かれた空間の支配者のようだった。

「やあ、コウくん。1分遅刻だね。」
「…どーゆーキャラ…?」
「おいっ!これは『コーヒーとか飲んでそうなめっちゃ優しくて仕事も部下への気遣いもできるカッコいいイケメン上司』のキャラだろ!」
「え…イケメン?」
「そこで突っかかるなよ、このイケメンが!」

 あいつとは、黒井戸(くろいど)ゲンのことだ。多分年齢は三十代前半くらい。最近太ってきたことと、いまだに結婚できていないことを気にしている中年男性だ。黒い髪と黒いメガネが特徴。俺の雇い主でもあり、小さい頃から面倒を見てもらっている、半分父親的なポジションでもある。

「で?要件は?」
「否定しろよ!」
「いや、お前よりは良いかなと思って…。」
「クソがっ!正論なのが刺さる!」
「…で?」

 こほんと咳払いをして、ゆっくりとメガネを持ち上げた。

「…教育係になってもらいたい。」
「ごめん。無理。帰るわ、じゃーね。」
「おいおいおい!ちょっと待てって!」
「なんだよ…。」
「お願いだよ!今、お前にしか頼めねんだって!それに、これからうまくなりそうな子ではあるからさ!しかもお前、ベテランじゃん!もう何年やってきてんだよ!えーと今、11年目?」
「9年目。」
「どっちでも良いだろ!なあ、お願いだよ〜!ちょっとだけで良いからさ〜!」

 まったく…。どっちが年上なんだか。こうなったらもう止められないんだよなぁ…。

「…わかった。でも、使えねぇと思ったらすぐやめるから。あ、給料上げろよ?それと…。」
「それと…?」
「今度、焼肉行こう。あ、もちろんお前の奢りね?」
「…わかったよ!もう焼肉でも寿司でも連れてってやるから!」
「よっしゃぁ。で、そいつは?」

 その途端、ゲンは部屋に入っていってしまった。呼びに行っているのだろうか。どんなやつなんだろう。できれば男がいいなぁ。で、同い年か年下。年上はやりづらい。
 ぎいと音を立てて扉が開いた。そして、うわ…。と思ってしまった。

 昨日見た、黒髪の女だったのだ。
 ゲンはそいつに挨拶を促す。こくんと頷いて、俺をまっすぐと見た。

栗花落(つゆり)モナと言います。よろしくお願いします。」

 髪は肩につくくらいに伸びて、どことなく子供っぽくも綺麗な顔をしていた。鈴が転がるような声だ。

「ほら、お前も。」
「あ、月出(ひたち)コウです、よろしく…。」
「モナちゃんは昨日から給料が入り始めた子なんだよ。仲良くしてあげてね。」

 まあ確かに、昨日のアレが初日なら筋はいい方なのだろう。そこまで足は引っ張らなさそうだし、まあ気楽にやればいいか。
 俺は栗花落の教育係に就任した。
 外に出ると、少し暖かく、春の訪れを感じた。栗花落はトコトコと俺に無言でついてくる。どうしよう。何か話すべき?

「…あのさ。」
「はい?」
「俺のこと、なんか聞いてた?」
「はい。月出コウ。17歳。男。身長168センチ。体重54キロ。誕生日は5月10日。母がいるが、あんまり会えていない様子。」
「うわー…めっちゃ知ってんじゃん。体重とか俺でも忘れてたのに。」
「私のことは知ってるんですか?」
「いや…。」
「栗花落モナ。16歳。女。身長は…2メートルと言いたいところですが、153センチ…。体重は…恥ずかしいので言いません…。誕生日は9月27日。母と兄がいて、たまに連絡しています。」
「へぇ…。ご親切にどうも。」
「いえいえ。ところで…。敬語の方がいいですか?あんまり慣れてなくって…。年上だし教育される側だし、敬語なんですけど…。」
「あ、別に全然大丈夫。俺もタメ口で話すし。」
「…よかった。私のことはモナって呼んで。私もコウって呼ぶから。で、これからの予定は?何かあるの?」
「特にない。」
「え?」

 いや、事実、本当に特にない。ただ俺たちの仕事は暴走状態に陥ったやつを倒すだけ。誰が暴走するかなんて分からないから、予定も何もない。モナも「確かに…。」と考え込んだ。いちいち表情が変わって少し面白い。

「見回りしつつ、まあゆっくり過ごそう。あ、そういえばネクタイ忘れてたんだった…。」
「貸して、結んであげるよ。」

 さらっとネクタイを奪って、手際よく結んでしまう。

「自分でやれるのに…。」

 少しだけ気恥ずかしかった。
 商店街へ行き、少し見回りをしながら駅へ向かう。

「あ、そこ段差…」
「うわぁっ!」
「言ったのに…。大丈夫?」
「言うのが遅いよ!」

 どうやらモナはだいぶドジだ。ちょっとの段差でも転ぶし、サイダーは開け方ミスって噴射させるし、何かと物にぶつかる。目が離せない。

「あそこのクレープおいしそ〜!いたっ!」
「っ……!」
「もー!ちょっとミスしただけじゃん!」
「いや、ガラスに気づかないとかっ…。あー面白い。」
「そんなに笑わないでよ!」
「あ。」

 大型の「何か」が横を通ろうとしたのでモナの肩を掴んで道を作る。こういうのはぶつかるとトラブルに発展することもあるのだ。俺たち小回りが効く者が道を作らねば。それにしても…狭い肩幅だなぁ。俺より体温が高く、少し柔らかくてあたたかい。でも、とあることを察してすぐに手を離した。
 ん?これってセクハラになるか?…まずいことしたかも?
 モナ本人も、俺に触れられた部分を触って俯いている。なんとも言えない表情だ。あ、これはまずい。

「ごめん…。」
「いや…大丈夫…。…あ、ちょっとトイレ行ってくる…。」

 そのまま小走りで女子トイレに駆け込んで行ってしまった。うーわ、気まず〜。やっぱ女子は苦手だなぁ…。こーゆー異性的な部分もあるし、感情的になりがちで、すぐ泣くし。この後どうしようかな〜。いっそのこと、仕事になってくれた方が助かる。
 5分ほどして、なぜか髪を結んで出てきた。高いところで2つのお団子に結ばれた髪が、より一層モナの子供っぽさを際立たせた。何だか動物の耳みたいにも見える。
 何を話そう。そう思って俯いた時、ふとザラザラとした気持ちに襲われた。顔を上げると、少し遅れてモナもパッと顔をあげる。お互い感じていたことは同じだった。行かないと。仕事だ。