ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
凄まじい轟音が鳴り響く。ばさばさばさっと、校庭中の木々が激しく震える。
頭がぐわんぐわん揺れ、胃の中をかき混ぜられるような、地獄の感覚が全身に行きわたる。
地球が壊れるほど、大きく、強く、長い揺れが収まるまで、俺は地面に投げ出されたまま、指一本も動かせなかった。
永遠のように感じられた長い揺れは、実際には一分ほどで収まった。
「……」
先程まで轟音に満たされていた空間を、今度はまっさらな静寂《せいじゃく》が満たす。風もなにもない。白い雪だけが、何事もなかったかのように空から舞い降りていた。
と、その時。
本能に直接危険を訴えてくる、気味の悪い音が鳴り響いた。
『地震です。…地震です。…地震です』
無機質な女性の声が、嫌な音と交互に、地面に転がる俺のスマホから発せられた。ぞくり、と背筋が凍りつく。
「間宮くん…!怪我はない…?」
杵村さんが俺の側に駆け寄ってきた。その顔は恐怖と焦りに満ちていた。
「あ、ああ。杵村さんこそ…」
言いながら、ふらつく足で立ち上がる。
「ものすごい揺れだったね…」
杵村さんが、自分のスマホをさっとスクロールする。
『緊急地震速報です。7時5分頃、鳥取県で地震が発生しました。最大震度は鳥取県西部で震度7、マグニチュードは7.8』
「震度7…」
俺は呟く。
「東日本大震災で観測された最大震度も、7だったよね」
杵村さんが呟き返す。未曾有の大災害となった東日本大震災。そこで発生したのと同じ強さの揺れが、たった今鳥取を襲ったというわけか。
『津波の発生の可能性が考えられます。海岸付近の方は、ただちに避難してください。はい、えー…津波情報が発表されました。大津波警報が発表されています。繰り返します。大津波警報が発表されました。…大津波警報が発表されたエリアは、鳥取県、島根県、山口県…』
「!」
杵村さんの、息を吞む音が聞こえた。画面の中のアナウンサーが、鬼気迫る声で避難を呼びかけていた。俺たちの間を埋める沈黙を、ゆっくりと顔を上げた杵村さんが、破った。
「津波が来るわ」
*******
「津波が来るぞ!」
「高台に逃げろ!」
「川から離れて!」
「いいから走れ!」
逃げ惑う人々。飛び交う叫び。
そして、舞い落ちる雪。
「本気なのね…」
私は、この世界に問いを投げかける。
「どうして、私をこっちに来させたの?どうして、私の願いを叶えてくれたの?」
答えは当然、返ってこない。その代わりというべきか、矛盾を示す淡い雪だけが、静かに降り続けていた。
りっくんを失くし、私の人生から光が消えた。
ただ流れていく時間に身を任せて、鬱屈とした、夢も希望もない日々を過ごした。
だけど奇跡が起きて、二度と会えないはずのりっくんに、また会えた。
私が会ったりっくんは、私の知るりっくんより、背が高くて、髪も長くて、どこか大人びていた。悪戯っぽい笑みで笑う小学生のりっくんは、もういなかった。
いたのは、高校生の間宮律という一人の青年だった。
だけど、変わらないものもあった。
それは、あの日公園で、泣きじゃくる私に手を差し伸べてくれて。
わざわざ私に、新しい髪飾りを贈ってくれて。
そんな、真っ直ぐな優しさだけは、あの日のままだった。
夜の海で倒れていたところを助けてくれて。お腹が空いて死にそうだった私に、焼きそばを作ってくれて。私の記憶を取り戻すために、手を貸してくれて。
ショッピングモールで落とした髪飾りを、また一緒に探してくれて。
雪の降る夜、一人バス停で落ち込む私を、元気づけてくれて。
妹の明里ちゃんにも、本当にお世話になった。まだ中学生とは思えないくらい、しっかりした、太陽みたいに明るい子だった。
明里ちゃんなしでは、この数週間を乗り切れなかっただろう。
こんなに楽しくて、充実した夏は他になかった。胸を張って「精一杯生きた」と言える、そんな夏だった。私は、幸せだった。
…幸せだった、はずなのに。
「どうしてこんなに、胸が痛いの…?」
溢れる涙が、視界を濁す。
死刑台の上で、私は世界に向かって問い続けた。
*******
「なぎさ―!なぎさ―!!」
はち切れんばかりの大声で、好きな子の名前を叫び続ける。
思春期の男子なら誰もが憧れるシチュエーションだが、羨望の眼差しはただの一つもない。奇異の視線すらない。
俺と反対方向に走る人々の目に映るのは、恐怖と焦燥だけだった。
「はあ…はあ…っ」
今にも爆発しそうな心臓の痛みに、立ち止まる。叫びながら街中を走り回ったせいで、ちぎれそうなほど喉が痛い。手をついた膝はぷるぷる震えている。
「まだまだ…っ!なぎさ―!!もしいたら返事をしてくれ―!!」
それでも俺は、走る。悲鳴を上げる脚に鞭を打ち、がむしゃらに腕を振る。
諦めなんて感情は湧いてこない。胸の内にあるのは、ただ凪沙に会いたいという、純度100のダイヤより透き通った想いだ。
「うわっ!」
地震で隆起した道路に、足を掬《すく》われる。俺は勢いよく地面に叩き付けられた。鼻に鈍い痛みが走る。
「邪魔だ!どこで寝転んでんだ!」
どかっ!と、誰かの靴が肩にぶつかる。うつ伏せのまま顔を上げると、作業着姿の男の背中が見えた。
「ママ、もう苦しいよー」
「あと十分で津波が来るのよ!?いいから走りなさい!」
エプロン姿の母親に手を引かれる、泣きそうな顔の男の子。
俺は立ち上がり、ポケットからスマホを取り出す。
現在7時20分。津波到達予想時刻は、7時30分。
タイムリミットが、迫っていた。
「くっ…!なぎさ―!」
そしてまた、走る。
ぐにゃりと曲がった街灯をくぐり抜け、古びた公園に辿り着く。
「ここは…」
微かに見覚えがあった。今はベンチ一つしかないが、ブランコやすべり台があれば、記憶の中のあの公園と完全に一致する。
…凪沙と初めて出会った、あの公園と。
「頼むから…逃げていてくれよ…」
掠れた声で呟く。もし凪沙が避難を開始していなければ、事態は絶望的といっていい。いや、もはや一縷の望みすら残されていないかもしれない。既に自ら命を断った可能性もあるからだ。
…だけどもし。
もし、凪沙がまだ息をしていて。
死という絶対的な世界に踏み込むことに、ほんの少しでも躊躇いを感じていたなら。
「俺がもう一度…手を差し伸べることが出来る」
そう考えるだけで、体から無限に力が湧き出た。それは、終わりを迎えた花火が最後に散らす、儚くも美しい火柱とよく似ていた。
ぴろん。
ポケットから間の抜けた音がした。スマホを見ると、明里から一通のLINEが届いていた。
『信じてるよ、おにいちゃん』
「……!」
短いメッセージ。だけどそこに込められた思いは、脆くて、複雑で、熱かった。
「それはだめよ、間宮くん。絶対にだめ」
数十分前。
凪沙を探しに街に戻ると言った俺を、杵村さんは全力で止めた。
「凪沙は今、死のうとしてるんだ!俺が止めなきゃ、凪沙は…」
「自分の命を優先すべきよ」
俺たちは真っ向から対立した。杵村さんの顔にいつもの柔らかさはなく、あるのは厳しさだけだった。
「間宮くん、もう少し冷静に考えて。あと30分もしないうちに、津波が迫ってくるのよ?今から街に行くなんて、それこそ自殺行為だよ」
「だから何だよ。凪沙を見捨てて助かる命なんて、俺はいらない」
そう言って、踵を返す俺。すると、突然俺の手を柔らかな感触が包んだ。
「間宮くんが死んだとして、明里ちゃんはどうするの?妹を一人置き去りにして、あの世に旅立つの?」
俺の手を握りしめた杵村さんが、必死に訴えるような瞳で見上げてくる。
「明里を置き去りになんて、出来るわけが…」
「だったら、今すぐ逃げるべきよ。救える人間には、限りがあるのよ」
「…っ!」
気付けば俺は、杵村さんの手を思い切り振り払っていた。杵村さんは小さく叫んで、地面に尻餅をついた。
「……」
「……」
無言で見つめ合う。ようやく自分がやった行為を理解すると、凄まじい自己嫌悪が襲いかかって来た。
「ごめん杵村さん…俺…」
「死んじゃ嫌」
「え?」
立ち上がる杵村さん。少し歩いて、再び俺の手を握ってくる。
「私、間宮くんが死んじゃうの、すごく嫌」
俺を見上げる杵村さんの表情から、先程までの厳しさが消えた。代わりに現れたのは、幼い子が駄々をこねるような、そんな表情だった。
「杵村さん…」
「間宮くんにもう会えなくなるなんて、そんなの嫌だ!絶対に嫌だ!」
声を荒げ、俺の胸に顔をうずめる杵村さん。ぐすん、ぐすんと鼻が啜られ、なにか熱いものが俺の服を濡らした。
「お願い…行かないで…」
涙が滲む瞳で見つめられ、気持ちが揺らぎそうになる。
「だけど俺は…凪沙を…」
「お願いだから!行かないで!」
「くっ…」
あれほど胸が痛んだのは、多分人生で初めてだった。引き剝がそうにも、腕が震えて動かなかった。
「おにいちゃん!」
その時、声が聞こえた。
「明里…!」
「きゃっ!」
体育館の方から駆けて来た明里が、勢いをつけたまま、杵村さんに体ごとぶつかった。
その衝撃に耐え、なんとか踏みとどまった俺だが、杵村さんは再び尻餅をついた。
その瞬間、俺は自由になった。
「間宮くん!だめ!」
すぐに立ち上がった杵村さんが叫ぶ。俺はまだ、動けずにいた。
「おにいちゃん!行って!」
「!」
明里の声で、我に帰った。明里は、俺の手を掴もうとあがく杵村さんを、必死で押さえ付けていた。
「凪沙さんのところ、行くんでしょ!?だったら早く、走って!」
「明里…」
途端に全身の細胞が、目を覚ましていく。心と体が一つになり、向かうべきゴールが、色鮮やかに定まった。
「凪沙のもとへ」
脳が発した信号を受け取った体が、動き出す。
杵村さんの悲痛な叫びを背中で噛み締めた俺は、ラストランのスタートを切った…。
そして今。
「はあ…はあ…」
全身汗まみれの俺は、道路の真ん中で膝に手をついていた。
もう周囲に人はいない。壊滅した家々だけが残った、空虚な街並み。
それもそのはず、現在の時刻は7時29分。
津波到達まで、一分を切っていた。
「なぎさ―!なぎさ―!」
ダメ元で名前を呼ぶが、やはり返事はない。俺の叫びは、雪降る空に消えていった。
「はあ…はあ…もう、これまでなのかよ…」
遠くで、サイレンが鳴り響いていた。
もう津波が来てしまう。
「くそ…!くそ…っ!」
世界はどうして、こんなにも残酷なんだ?無数にある世界の中から、どうしてよりによって、こんな結末を辿る世界を、俺は選んだんだ?
誰に向けてのものかは分からない。ただひたすらに、俺は問うていた。
拳を握りしめ、灰色の空を見上げる。
どうして、どうして―。
「……?」
その時、声が聞こえた気がした。
俺と同じように、答えのない問いを投げ続ける、そんな誰かの。
「間宮くん…?」
道路脇、鈍色《にびいろ》のビルの屋上。
雪のように真っ白な病衣を纏い、俺を見下ろす、凪沙の姿があった。
凄まじい轟音が鳴り響く。ばさばさばさっと、校庭中の木々が激しく震える。
頭がぐわんぐわん揺れ、胃の中をかき混ぜられるような、地獄の感覚が全身に行きわたる。
地球が壊れるほど、大きく、強く、長い揺れが収まるまで、俺は地面に投げ出されたまま、指一本も動かせなかった。
永遠のように感じられた長い揺れは、実際には一分ほどで収まった。
「……」
先程まで轟音に満たされていた空間を、今度はまっさらな静寂《せいじゃく》が満たす。風もなにもない。白い雪だけが、何事もなかったかのように空から舞い降りていた。
と、その時。
本能に直接危険を訴えてくる、気味の悪い音が鳴り響いた。
『地震です。…地震です。…地震です』
無機質な女性の声が、嫌な音と交互に、地面に転がる俺のスマホから発せられた。ぞくり、と背筋が凍りつく。
「間宮くん…!怪我はない…?」
杵村さんが俺の側に駆け寄ってきた。その顔は恐怖と焦りに満ちていた。
「あ、ああ。杵村さんこそ…」
言いながら、ふらつく足で立ち上がる。
「ものすごい揺れだったね…」
杵村さんが、自分のスマホをさっとスクロールする。
『緊急地震速報です。7時5分頃、鳥取県で地震が発生しました。最大震度は鳥取県西部で震度7、マグニチュードは7.8』
「震度7…」
俺は呟く。
「東日本大震災で観測された最大震度も、7だったよね」
杵村さんが呟き返す。未曾有の大災害となった東日本大震災。そこで発生したのと同じ強さの揺れが、たった今鳥取を襲ったというわけか。
『津波の発生の可能性が考えられます。海岸付近の方は、ただちに避難してください。はい、えー…津波情報が発表されました。大津波警報が発表されています。繰り返します。大津波警報が発表されました。…大津波警報が発表されたエリアは、鳥取県、島根県、山口県…』
「!」
杵村さんの、息を吞む音が聞こえた。画面の中のアナウンサーが、鬼気迫る声で避難を呼びかけていた。俺たちの間を埋める沈黙を、ゆっくりと顔を上げた杵村さんが、破った。
「津波が来るわ」
*******
「津波が来るぞ!」
「高台に逃げろ!」
「川から離れて!」
「いいから走れ!」
逃げ惑う人々。飛び交う叫び。
そして、舞い落ちる雪。
「本気なのね…」
私は、この世界に問いを投げかける。
「どうして、私をこっちに来させたの?どうして、私の願いを叶えてくれたの?」
答えは当然、返ってこない。その代わりというべきか、矛盾を示す淡い雪だけが、静かに降り続けていた。
りっくんを失くし、私の人生から光が消えた。
ただ流れていく時間に身を任せて、鬱屈とした、夢も希望もない日々を過ごした。
だけど奇跡が起きて、二度と会えないはずのりっくんに、また会えた。
私が会ったりっくんは、私の知るりっくんより、背が高くて、髪も長くて、どこか大人びていた。悪戯っぽい笑みで笑う小学生のりっくんは、もういなかった。
いたのは、高校生の間宮律という一人の青年だった。
だけど、変わらないものもあった。
それは、あの日公園で、泣きじゃくる私に手を差し伸べてくれて。
わざわざ私に、新しい髪飾りを贈ってくれて。
そんな、真っ直ぐな優しさだけは、あの日のままだった。
夜の海で倒れていたところを助けてくれて。お腹が空いて死にそうだった私に、焼きそばを作ってくれて。私の記憶を取り戻すために、手を貸してくれて。
ショッピングモールで落とした髪飾りを、また一緒に探してくれて。
雪の降る夜、一人バス停で落ち込む私を、元気づけてくれて。
妹の明里ちゃんにも、本当にお世話になった。まだ中学生とは思えないくらい、しっかりした、太陽みたいに明るい子だった。
明里ちゃんなしでは、この数週間を乗り切れなかっただろう。
こんなに楽しくて、充実した夏は他になかった。胸を張って「精一杯生きた」と言える、そんな夏だった。私は、幸せだった。
…幸せだった、はずなのに。
「どうしてこんなに、胸が痛いの…?」
溢れる涙が、視界を濁す。
死刑台の上で、私は世界に向かって問い続けた。
*******
「なぎさ―!なぎさ―!!」
はち切れんばかりの大声で、好きな子の名前を叫び続ける。
思春期の男子なら誰もが憧れるシチュエーションだが、羨望の眼差しはただの一つもない。奇異の視線すらない。
俺と反対方向に走る人々の目に映るのは、恐怖と焦燥だけだった。
「はあ…はあ…っ」
今にも爆発しそうな心臓の痛みに、立ち止まる。叫びながら街中を走り回ったせいで、ちぎれそうなほど喉が痛い。手をついた膝はぷるぷる震えている。
「まだまだ…っ!なぎさ―!!もしいたら返事をしてくれ―!!」
それでも俺は、走る。悲鳴を上げる脚に鞭を打ち、がむしゃらに腕を振る。
諦めなんて感情は湧いてこない。胸の内にあるのは、ただ凪沙に会いたいという、純度100のダイヤより透き通った想いだ。
「うわっ!」
地震で隆起した道路に、足を掬《すく》われる。俺は勢いよく地面に叩き付けられた。鼻に鈍い痛みが走る。
「邪魔だ!どこで寝転んでんだ!」
どかっ!と、誰かの靴が肩にぶつかる。うつ伏せのまま顔を上げると、作業着姿の男の背中が見えた。
「ママ、もう苦しいよー」
「あと十分で津波が来るのよ!?いいから走りなさい!」
エプロン姿の母親に手を引かれる、泣きそうな顔の男の子。
俺は立ち上がり、ポケットからスマホを取り出す。
現在7時20分。津波到達予想時刻は、7時30分。
タイムリミットが、迫っていた。
「くっ…!なぎさ―!」
そしてまた、走る。
ぐにゃりと曲がった街灯をくぐり抜け、古びた公園に辿り着く。
「ここは…」
微かに見覚えがあった。今はベンチ一つしかないが、ブランコやすべり台があれば、記憶の中のあの公園と完全に一致する。
…凪沙と初めて出会った、あの公園と。
「頼むから…逃げていてくれよ…」
掠れた声で呟く。もし凪沙が避難を開始していなければ、事態は絶望的といっていい。いや、もはや一縷の望みすら残されていないかもしれない。既に自ら命を断った可能性もあるからだ。
…だけどもし。
もし、凪沙がまだ息をしていて。
死という絶対的な世界に踏み込むことに、ほんの少しでも躊躇いを感じていたなら。
「俺がもう一度…手を差し伸べることが出来る」
そう考えるだけで、体から無限に力が湧き出た。それは、終わりを迎えた花火が最後に散らす、儚くも美しい火柱とよく似ていた。
ぴろん。
ポケットから間の抜けた音がした。スマホを見ると、明里から一通のLINEが届いていた。
『信じてるよ、おにいちゃん』
「……!」
短いメッセージ。だけどそこに込められた思いは、脆くて、複雑で、熱かった。
「それはだめよ、間宮くん。絶対にだめ」
数十分前。
凪沙を探しに街に戻ると言った俺を、杵村さんは全力で止めた。
「凪沙は今、死のうとしてるんだ!俺が止めなきゃ、凪沙は…」
「自分の命を優先すべきよ」
俺たちは真っ向から対立した。杵村さんの顔にいつもの柔らかさはなく、あるのは厳しさだけだった。
「間宮くん、もう少し冷静に考えて。あと30分もしないうちに、津波が迫ってくるのよ?今から街に行くなんて、それこそ自殺行為だよ」
「だから何だよ。凪沙を見捨てて助かる命なんて、俺はいらない」
そう言って、踵を返す俺。すると、突然俺の手を柔らかな感触が包んだ。
「間宮くんが死んだとして、明里ちゃんはどうするの?妹を一人置き去りにして、あの世に旅立つの?」
俺の手を握りしめた杵村さんが、必死に訴えるような瞳で見上げてくる。
「明里を置き去りになんて、出来るわけが…」
「だったら、今すぐ逃げるべきよ。救える人間には、限りがあるのよ」
「…っ!」
気付けば俺は、杵村さんの手を思い切り振り払っていた。杵村さんは小さく叫んで、地面に尻餅をついた。
「……」
「……」
無言で見つめ合う。ようやく自分がやった行為を理解すると、凄まじい自己嫌悪が襲いかかって来た。
「ごめん杵村さん…俺…」
「死んじゃ嫌」
「え?」
立ち上がる杵村さん。少し歩いて、再び俺の手を握ってくる。
「私、間宮くんが死んじゃうの、すごく嫌」
俺を見上げる杵村さんの表情から、先程までの厳しさが消えた。代わりに現れたのは、幼い子が駄々をこねるような、そんな表情だった。
「杵村さん…」
「間宮くんにもう会えなくなるなんて、そんなの嫌だ!絶対に嫌だ!」
声を荒げ、俺の胸に顔をうずめる杵村さん。ぐすん、ぐすんと鼻が啜られ、なにか熱いものが俺の服を濡らした。
「お願い…行かないで…」
涙が滲む瞳で見つめられ、気持ちが揺らぎそうになる。
「だけど俺は…凪沙を…」
「お願いだから!行かないで!」
「くっ…」
あれほど胸が痛んだのは、多分人生で初めてだった。引き剝がそうにも、腕が震えて動かなかった。
「おにいちゃん!」
その時、声が聞こえた。
「明里…!」
「きゃっ!」
体育館の方から駆けて来た明里が、勢いをつけたまま、杵村さんに体ごとぶつかった。
その衝撃に耐え、なんとか踏みとどまった俺だが、杵村さんは再び尻餅をついた。
その瞬間、俺は自由になった。
「間宮くん!だめ!」
すぐに立ち上がった杵村さんが叫ぶ。俺はまだ、動けずにいた。
「おにいちゃん!行って!」
「!」
明里の声で、我に帰った。明里は、俺の手を掴もうとあがく杵村さんを、必死で押さえ付けていた。
「凪沙さんのところ、行くんでしょ!?だったら早く、走って!」
「明里…」
途端に全身の細胞が、目を覚ましていく。心と体が一つになり、向かうべきゴールが、色鮮やかに定まった。
「凪沙のもとへ」
脳が発した信号を受け取った体が、動き出す。
杵村さんの悲痛な叫びを背中で噛み締めた俺は、ラストランのスタートを切った…。
そして今。
「はあ…はあ…」
全身汗まみれの俺は、道路の真ん中で膝に手をついていた。
もう周囲に人はいない。壊滅した家々だけが残った、空虚な街並み。
それもそのはず、現在の時刻は7時29分。
津波到達まで、一分を切っていた。
「なぎさ―!なぎさ―!」
ダメ元で名前を呼ぶが、やはり返事はない。俺の叫びは、雪降る空に消えていった。
「はあ…はあ…もう、これまでなのかよ…」
遠くで、サイレンが鳴り響いていた。
もう津波が来てしまう。
「くそ…!くそ…っ!」
世界はどうして、こんなにも残酷なんだ?無数にある世界の中から、どうしてよりによって、こんな結末を辿る世界を、俺は選んだんだ?
誰に向けてのものかは分からない。ただひたすらに、俺は問うていた。
拳を握りしめ、灰色の空を見上げる。
どうして、どうして―。
「……?」
その時、声が聞こえた気がした。
俺と同じように、答えのない問いを投げ続ける、そんな誰かの。
「間宮くん…?」
道路脇、鈍色《にびいろ》のビルの屋上。
雪のように真っ白な病衣を纏い、俺を見下ろす、凪沙の姿があった。