「潤子……さん?」

 婚姻届けを食い入るように見つめながら、彼が問う。

「はい。潤子です」

 心の迷いを吹っ切るように、私はきっぱりと答えた。

「美咲ちゃんじゃなくて?」

 名前が変わるだけで、敬称まで変わるのが不思議だ。

「かわいいかなと思って、美咲と言ってました」

 彼が絶句するのも無理はない。
 確か、その当時の後輩が美咲という名前だった。
 二十代前半のかわいらしい子だったので拝借した。

「え! 三十九歳……二十八歳じゃなくて?」

 彼が驚くのもしょうがない。
 しかし、だまされる方もだまされる方だ。

 そもそも、私は彼と付き合う気などなかった。
 友人の友人という軽い接点で知り合っただけの二人が、まさか結婚を意識することになるとは思いもよらなかったのだ。
 だから、軽い気持ちで(いつわ)った。

「四歳年下だと思ってたけど、四歳お姉さんだったんだ」

 無理に微笑む彼が痛ましくて、私は直視できない。
 ちなみに七歳年上だ。
 ショックのあまり計算もできなくなっているのだろうか。

 いつかこうなるとはわかっていた。
 いや、もっと早く私が真実を打ち明けるべきだったのだ。

 それでも、やはり言えなかった。
 私も彼を愛してしまっていたから。
 卑怯者(ひきょうもの)の私は、自分から終わりのベルを鳴らすことはできなかったのだ。

「ごめんなさい。もうこんな私なんか嫌いになったよね?」

 涙がほほを伝う。
 彼を見つめる。
 こんな時でも、私はずるい。
 優しい彼に、しがみつく。

「それでもやっぱり、僕は美咲……潤子が好きだよ」

 彼の指が、私の指に触れた。
 その瞬間、私の涙は止まった。

 喉の奥が苦しくなり、しゃっくりがあがる。
 今までとは違う、熱い温度をもった涙があふれた。
 
 苦しいほどの嗚咽(おえつ)に声も出せず、彼の指に、手に、すがりつく。
 彼は優しく私の手をなで、ゆっくりと語りだす。

「実は、僕にも秘密があるんだ」

 涙の向こうで彼の声が聞こえる。
 
 彼がもし、私より年上でもかまわない。
 本当は、頭髪がズルズルでもかまわない。
 水虫でも、なんかいろんなとこ臭くても、変な趣味を持っていても。

 私はあなたの全てが好き。

「実は、貯金が五千万というのは(うそ)なんだ。それどころか五百万ほど借金があって――」

 彼が言い終わるより先に、私は婚姻届けを破り捨てた。