「そうか、では離婚ですね」
 目の前の年若い皇子はそう告げた。
「はあぁ?」
 思わずあたしはすっとんきょうな声を上げた。
 何を言われているのかわからない。
 それにも構わず皇子は几帳面に笏を胸の前に構えて「うむ。そういうことになるな、離婚だ」とうんうんと一人で勝手に納得している。
「では、化け狸族の皇女、早々に狸の宮にお帰りください」
 皇子のその一言であたしは我に返った。
「待って! だってあたしはこのヒノモトノ国の平穏の為にお輿入れをするんだって聞いてきたのよ、ですよ?!」
 あたしは思わず手に持った丸い扇をぶんぶん振り回した。
「ほら、結婚の証の指環だって狐の宮から届いてるし!」
 あたしは勢いよく肩にかけた領巾をはね除けた。そして筒袖をめくり上げて皇子に左手の薬指を見せた。そこには大きな水晶が光っている。
 彼はめんどくさそうな目をこちらに向けた。
「だから『離婚』だと言っているでしょう。結婚が成り立っていなければ『婚約破棄』でしょうが」
 そしてあたしの左手首を掴み、すっと薬指から水晶の指環を抜き取った。
「あっ! それ気に入ってたのに! 泥棒!」
 あたしが喚くと、皇子は懐から何か小さな物を取り出した。
「ほら、これ返してあげますから。化け狸族の、えっと……」
「狸香です! 狐月皇子!」
 こいつ、結婚相手の名前すら覚えてねえな、と憤ったあたしの手のひらに、皇子はぽんと婚姻の証の翡翠の腕輪を載せた。
「あ、こっちもいい感じ」
 あたしはそれをありがたく受け取った。高く結い上げた髪の真ん中に、今日は翡翠の髪飾りをつけている。ぴったりだ。
「では狸香皇女、お元気で」
 あたしが腕輪をいそいそと嵌めていると、皇子は無表情のまま立ち去ろうとした。
「いや、あの、待って!」
 ここはヒノモトノ国。ここには色々な種類の「人間」が暮らしている。
 一番数が多いのは、何者にも化けることのできない人間だ。彼らがこの国をおさめている。帝という者がトップに君臨している。
 人間以外に化けられる一族は貴重だ。帝をお守りする高官には、動物に化けられる一族の者が多く就いていた。中でも勢力を誇るのは、狸に化けることのできる我が一族、化け狸族と。
「我が化け狐族の元には、このような木簡が届いていたのだが、皇女はご存じないのですか?」
 そう、彼の一族が化け狸族と勢力を二分する化け狐族だ。
 皇子はあたしの目の前で薄く巻かれた木の束を広げた。
「今朝帝から早馬が来ましたよ。『このたびの化け狐族と化け狸族の縁組みは無用となった』と。皇女の元には届いていなかったのですか?」
「知らない……。届いたのかどうかすら」
 あたしは力なく答えた。狐の宮に今朝届いたのなら、狸の宮にももう届いているかもしれない。でもあたしが輿入れのために狸の宮を出たのは三日前だ。
 皇子は「そうですよね、失礼しました」と素直に詫びた。
「まあそういうことのようです。我ら両族が手を結ぶ必要がなくなったのでしょう」
「え、なんでですか」
 あたしは目を見開いた。何故だ。
 皇子は首をひねった。
「いや、実は私にもよくわからないのですよ。ひとまず我が一族からそちらに輿入れするはずだった三の皇女の出発は取りやめにしましたよ。まあ、追って次の木簡が届くでしょう」
 皇子は心ここにあらずな様子で布製の冠を直しながらそう言った。
 なんで国家の一大事にこんなに呑気でいられるんだ?
 あたしは憤った。この両族の縁組みは国家の一大イベントだったはず。
 化け狐族と化け狸族が勢力争いをしつつも、帝の善政によってなんとか均衡が保たれていたこの国に、災厄がもたらされたとの噂が巷に流れたのは、ほんのふた月前のこと。
「カラノ国から海を渡ってとんでもない一族がやってきた」
 化け狸族の王であるあたしの父上は早速情報を集めた。災厄が上陸したという南方に早馬を飛ばし、南方からやってきた旅人を集め。そして情報が集まってくるにつれ、人々は青くなっていった。
「その一族はあっという間にヒノモトノ国の人間を支配下におさめ、徐々に北上してきている」と。
 その騒ぎは我が宮から少し離れた帝のおわす宮でも同様だったようだ。帝から「国を挙げてカラノ国からの災厄を倒すのだ」との命令が出るまでさして時間はかからなかった。
 父上は第五皇女であるあたしと、第二皇子である兄上を呼び出してこう言った。
「このヒノモトノ国一丸となって戦う為には化け狸族と化け狐族の融和が必要だ! 皇子よ、そなたは化け狐族の三の皇女を娶ること! そして皇女は化け狐族の第五皇子に嫁ぐこと!」
 あたしたちが選ばれたのは単なる年齢のつりあいかららしかった。あちらの第五皇子は二十歳だそうで、十七のあたしが丁度良かった、というそれだけの話だ。
 が、あたしの妹の第六皇女は十六だ。妹だって良かったはず。
「あたしは父上に見込まれた! この国の平和はあたしが守る!」と意気込んだ。そして気合い十分にこの狐の宮に乗り込んで来たのに。
 父上から聞かされたあの災厄の話はどうなったのだ。
 あたしが悶々としているうちに、皇子はその場を去ろうとしていた。
「あ、ちょ、」
 あたしが呼びかけると、皇子は無表情で振り向いた。
「どうしました、化け狸族の皇女。早くお帰りなさい」
 舌打ちが出そうな冷たい声で告げられる。あたしは青くなった。皇子に冷たくされたからではない。あたしはとんでもないことを思い出したのだ。
「帰れません」
「何故」
 あたしは半泣きになった。俯いて自分の沓のひらひらと装飾が付いたつま先を見つめた。
「帰れる足がありません……」