田代直美とは高校2年生の時に同じクラスになって始めて知り合った。目がクリっとした僕の好みの細面の顔立ちで、髪をショートカットにしている活発な可愛い女子だった。また、成績もクラスの上位にいた。
僕はそのころはとってもシャイで女子に話しかけることなどできなかった。ただただ、彼女を横から、後ろから、眺めて憧れているだけだった。そのころ彼女と会話をした記憶は残っていない。ときどき視線が合うとドキドキしてすぐに目をそらせていた。
それで彼女は僕が憧れや好意を持っていることに気づいていたのかもしれない。僕が地元の大学に合格した日に思いもかけず電話をしてきてくれて「合格おめでとう」と言ってくれた。彼女も希望の学部に合格していたので、話がはずんだ。高校が進学校だったのでようやく僕たちは受験から解放された。
その時の僕は彼女が好意をもっていてくれていたなんて思いつかなかった。学部は違っていたけれど、それから僕たちは時々会って話をするようになった。せいぜい2、3か月に1回くらいだったように思うが、まあ、はじめは情報交換といったところだった。
そのうちに学部の学園祭に招待したり、招待されたりして、親しさは少しずつ増していったように思う。ただ、好きだとコクルことや付き合ってくれとかは、お互いに口にしなかった。
そのころの二人は共に学生生活を謳歌して、お互いに自由であって束縛されたくないという思いがあったのだと思う。彼女から見て僕は One of them だったと思っている。今からしてみると、友達以上恋人未満の関係などとは到底言えない間柄だったと思う。
学生生活を謳歌していたこともつかの間で、すぐに僕たちは就職戦線に臨まなければならなくなった。お互いに就職活動のため、次第に会う機会もなくなっていった。
僕は東京の食品会社に就職が決まって上京した。彼女も東京の旅行代理店に決まったと聞いた。それぞれの会社へ勤めだしてからも、仕事に忙しくて、疎遠になっていた。
就職してから2年くらいたって、ようやく仕事を覚えたころ、秋谷幸雄君が幹事になって高校2年生のときの同窓会を地元のホテルで開催してくれた。高校の2年生の時が一番友達付き合いが盛んだった。秋谷君は僕の親友でもあり、同じく東京の大手電機会社に就職していた。
久しぶりに参加すると、そこに田代直美も来ていた。すっかりOLが板について、見違えるように洗練された女性になっていた。
そのころの僕もすっかりスーツが身についた社会人になっていた。また、合コンなどにも参加できるほど仕事にも生活にも徐々に余裕ができていた。でも特定の彼女がいる訳ではなかった。
僕と直美はそこで再会したのがきっかけとなって、また時々会って、まあ、いうなれば社会生活の情報交換をするようになった。時々一緒に食事をしたり、イベントに行ったりしたが、このときもお互いに付き合ってほしいとか言うことはなかった。まあ、学生時代から長く付き合っている友人のままで、男女の関係にもならなかった。
お互いに好意を持っていることは薄々感じていたが、彼女でなければならないとか、運命の人だとかの思いはなかった。でもいつの間にか会わなくなるということもない関係が続いていた。
安全パイをキープしておいて、良い相手が見つからなければ、最終的には結婚もありかな、というような気持ちがあったのかもしれない。彼女もそう思っていたのかもしれない。ただ、お互いに優柔不断だっただけかもしれない。
就職してから5年ほど経っていたと思う。その時まで付かず離れずという怠惰な関係は続いていた。互いに仕事も忙しくて、会う間隔もせいぜい3か月に1回とかになっていた。
誘いもどちらかが一方的ということもなく、どちらかが暇なときに誘うという感じだったように思う。都合がつかなければ断ることもあったが、そういう場合はこちらからその後に誘うようにしていたように思う。
「私、お見合いをしようと思っているの」
久しぶりに会ったときに、直美が唐突に話し出した。
「仕事にでも行き詰ったのか? それとも本当に結婚したくなったのか?」
「どっちもありかな?」
「それなら、会ってみるだけ、会ってみれば」
僕は軽い気持ちで答えてしまった。今でもそれを後悔している。「それなら、会ってみるだけ、会ってみれば」に「僕より良い人ならば、考えてもいいんじゃないか」と軽く付け加えておいたならば、状況は変わっていたかもしれない。
いや、あのとき「お見合いは止めて、僕と結婚する?」と言えば良かったに違いない。でも、その言葉が僕の口から出ることはなかった。思いつかなかったからだ。
彼女はそういう僕のそっけない態度に失望したのかもしれない。それとも本当に会って、彼と僕を比較したのかもしれない。そこのところは分からない。その日が二人で会った最後の日となった。
しばらく音信不通になっていた。仕事が忙しかったのといままでそういうこともあったので特段気にもならなかった。それでわざわざ誘うこともしなかった。
7か月後に結婚したとの挨拶状が手元に届いた。僕は驚いて何度も何度もその挨拶状を読み返した。そのとき、大事なものを失ってしまったと体中から力が抜けたのを覚えている。あのとき声をかけていればと後悔したこともあった。
「失恋したような?」
すぐに廸が問いかけてきたのに驚いた。
「いや、彼女とは付き合っていた訳でもないんだ。ただ、長い間の友人だった」
「でも、時々お互いに連絡して会っていらっしゃったのでしょう」
「ああ、どちらかが一方的に誘うということもなかったけどね」
「しばらく会っていないと話がしたくなったんでしょう」
「まあ、お互いにそういうところかな」
「その方、吉田さんが好きだったのですね。でないとそういうことは話さないから。それに吉田さんもその方が好きだったのは間違いありません」
「確かにその時はそういう意識はなかったけど、あとから少しずつそれが分かってきた。僕はきっと恋愛には向いていないね」
「吉田さんに彼女がいないのは分かる気がします。吉田さんは会議で意見が対立しても相手を追い詰めたりは決してしないし、自分が折れて相手の顔を立てたり気配りがすごくできる方です。ただ、自分を抑え過ぎるところがあると思います。女性に対しても自分の気持ちに素直になれなかっただけだと思います」
「僕はその自分の素直な気持ちが認識できないのだと思っている。どうしようもないね」
彼女はこの嘆きのような投げやりの言葉をどう受け止めたのだろう。そしてどこからあんな突拍子もない考えがでてきたんだろう。
「じゃあ、私と『恋愛ごっこ』してみませんか? 素直な気持ちというものが分かるようになるかもしれませんから」
唐突に廸が『恋愛ごっこ』というものを提案したのには驚いた。ふざけていっている印象は全く受けなかった。僕は思わず彼女の顔をじっとみた。彼女のその言葉の意味を図りかねていた。
「『恋愛』じゃなくて『ごっこ』? 恋愛の振りをする?」
「『ごっこ』ですから、ただ、まねごとをするだけです。本気じゃなくていいんです。むしろ本気にならない方がよいかもしれません。その方がお互い気が楽でしょう」
「若狭さんとその『恋愛ごっこ』をすると素直な気持ちが分かるようになれるというのか?」
「はい、おそらく」
今思うと、廸は僕が彼女に好意以上の感情を持っていると確信していたに違いない。それを僕自身が気づいていない、そして気づこうとしていないこともよく分かっていたのかもしれない。
「分かった。若狭さんが協力してくれるなら、その『恋愛ごっこ』をしてみようかな」
どういうわけかその話に乗ってみる気になった。自分でもよくその提案に素直にのったものだと一人になったときに思った。
「でもこのことは絶対に秘密にしましょう。周りからいろいろ言われたり、興味を持たれたり、気を使われたりするのはいやでしょう。職場関係の恋愛は仮に『ごっこ』だったとしても、いろいろリスクが高いですから」
「そのとおりだ。そうしよう」
「それではこの週末にでも1回目の『恋愛ごっこ』をしてみませんか? 会社の誰かにはみられないようにして」
「そうだね」
「それから『恋愛ごっこ』の費用は割り勘でお願いします。そうすればどちらも気兼ねなく『恋愛ごっこ』を楽しめるから」
「分かった。それがいい」
「今週末のご都合はどうなんですか?」
「予定がないからいいけど」
「じゃあ、場所と時間を考えて吉田さんの携帯にメールしようと思いますが、いいですか?」
「ああ、そうしてくれればいいよ」
こうして廸と『恋愛ごっこ』なるものを始めることになった。
『恋愛ごっこ』の約束をした次の日の昼休み、廸から携帯にメールが送られてきた。
[吉田様 今週の土曜日午後1時、銀座線浅草駅の改札口でお待ちします。若狭廸]
第1回目のデートの場所は浅草か、悪くない。すぐに返信メールを送った。
[若狭様 了解しました。吉田進]
◆ ◆ ◆
約束の日、僕は銀座線に乗って浅草駅で下車して、改札口に向かった。銀座線浅草駅の改札口は1か所だけだった。
僕は約束の午後1時の15分前に到着したのだが、改札口では廸が待っていてくれた。ずいぶん早くから来ていたのかもしれない。人を待たせない彼女に好感を持った。また、自分に気を使ってくれていると思うとそれが嬉しかった。
改札口の外から僕を見つけると廸は嬉しそうに微笑んでいる。
「待たせてすまなかったね。それにこの駅は改札口がひとつなんだね。さすが若林さんだ」
「お待たせすると悪いと思って早めに出かけてきました。お気になさらないで下さい。じゃあ、行きましょう。お天気が良くてよかったです」
そういうと廸は地上へ向かって歩き出した。僕は一歩遅れて彼女の後についていった。地上へ出ると、僕は彼女の横に並んで歩いた。
廸が一瞬僕の方を見たようなので、僕が目をやると目を合わさずにすぐに前を向いた。それから彼女の手が僕の手に触れた。迷いながら恐る恐るといった感じで手を差し出したみたいだった。それが分かったので、僕はそっと手をつないだ。
彼女に恥をかかせてはいけない。とっさにそう思ったからだ。勇気を出して手を差し出してくれたんだ。『ごっこ』には『ごっこ』で答えなければならない。それが『恋愛ごっこ』の当然の約束事だと思った。
僕は横目で彼女を見た。僕がそうしたことで驚いたみたいだったが、嬉しそうに僕の方を見た。目が合った。はにかんだ彼女がとてもかわいいと思った。僕は微笑んだつもりだったが、緊張していたので、彼女には微笑みに見えたかどうか分からない。
彼女はそのつかんだ手を振り始めたから、やはりはにかんでいたのだと思う。それに合わせて僕もゆっくり手を振った。大通りに出ると雷門が見えてきた。
「久しぶりに浅草へ来た。ずいぶん人が多いね」
「東京の人気な観光地のひとつですから。なかなか来る機会がなかったので、私も久しぶりです」
「確かに一人ではなかなか来ないね。二人で来るのにはよいところだ。ありがとう。せっかくだからお参りしよう」
土曜日の午後、それも天気が良いから人出も多い。ほとんどが観光客だと思う。外国人も目に付く。まるで雑踏の中を歩いているみたいだ。だから二人で歩くとなると近く寄り添って歩かなければならない。つないだ手をしっかり握りしめて彼女を引き寄せる。
彼女もしっかり僕の手を握りしめている。手というのは自分の感情を相手に伝える格好のツールなのだとその時初めて気が付いた。ひょっとすると言葉以上に気持ちを伝えられるのかもしれない。
常香炉《じょうこうろ》のところへ来たので、二人で線香の煙を浴びた。彼女は僕の頭に煙を手で送ってくれた。お返しに僕も彼女に煙を送った。それから階段を上って本堂にお参りした。
廸は僕よりも長く拝んでいた。廸はどんな願いごとをしたのだろう。それは聞かないでおいた。僕はこの『恋愛ごっこ』がこれからも続くことをお願いした。もし「どんなことをお願いしたのですか?」と聞かれたらそう答えたところだったが、彼女も聞いてこなかった。まだ、遠慮があるのだろう。
「これからどうする?」
「『浅草花やしき』に行ってみたいのですが、どうですか? 私は行ったことがないので」
「遊園地だと聞いたことがあるけど、僕も行ったことがないのでいいね。行ってみようか?」
入場してみるとやはり遊園地だった。小規模ながらジェットコースターが目についた。僕はジェットコースターのような乗り物は苦手だ。時々テレビで紹介されているような大規模なジェットコースターに乗ったら、きっとおしっこを漏らしてしまうと思っている。
「ローラーコースターに乗りませんか?」
ローラーコースターというんだ。廸が誘ってきた。苦手だから乗れないとは口が裂けても言えない。でもここは『ごっこ』に付き合うことにした。
規模は大きくないが確かにジェットコースターだった。僕には十分過ぎるほど迫力があったが、隣に座った彼女はすごくはしゃいで楽しんでいた。ほとんど目をつむっていたかもしれないが、何とか彼女に醜態を見せることなく乗り終えた。でも降りてからすぐに言われてしまった。
「結構、怖がりなんですね」
苦笑いをしてごまかした。弱みを握られたみたいだが、それもよしとするか? でも、さらに彼女は誘ってきた。
「お化け屋敷どうですか?」
僕は小さいときから今もとても怖がりだ。テレビでもそういう番組は絶対に見ない。お化け屋敷で彼女に抱きつかれるのは悪くないかもしれないが、偽物だと分かっていても、怖いからこちらが抱きつく可能が高い。これ以上、醜態は見せられないので正直に話すことにした。
「とても怖がりなので自信がない。若狭さんに抱きつかれるのも悪くないが、やっぱりやめておこう」
「私も怖がりなので止めておきましょう」
それを聞いてほっとした。それから、僕は無難な乗り物を探した。そしてメリーゴーランドに廸を誘った。二人は隣同士でまたがって『恋愛ごっこ』を楽しんだ。それからは二人手をつないで園内のほかのアトラクションを見て回った。もう二人は自然に手をつなぐことができた。
ゆったりとした時間が過ぎていった。ただ、あまり会話らしい会話はしていなかった。レストランでコーヒーを飲み終えたらもう4時を過ぎていた。
「どこかで一緒に夕食を食べないか?」
「レストランではなくて、軽く食べられるようなところはどうですか? 1回目からレストランでの夕食となると、このあと毎回場所を考えなければならなくなりませんか? 気軽に入れるお店でどうですか?」
「とはいうものの、しゃれた店へ君を連れていきたい気持ちはあるけど」
「続かなくなりますから、あまり考えすぎない方がよいと思います」
廸はこの『恋愛ごっこ』を続けたい意思を明確に示してくれた。これに応えなくてはいけない。
「それなら、僕がよく行くビアレストランでどうかな? 生ビールでも飲みながら何かつまんで食べるというのは?」
「いいですね。少しアルコールが入った方がよいかもしれませんね」
それで新橋駅近くのビアレストランに行くことにした。僕の会社は虎ノ門にあり、そこは会社の連中とよく飲みに行くところだったが、土曜日だから会社の人は来ていないだろう。
地下鉄から出てくるともう陽が陰って薄暗くなりかけていた。時間が早いせいか混んではいなかった。これならゆっくり飲みながら話ができそうだ。生ビールのジョッキの大を二つとつまみは僕にまかせるというので3品ほど見繕って注文した。
すぐにビールがテーブルに届いて乾杯をする。喉が渇いていたからか、とてもうまい。廸は飲みっぷりがよい。もう1/3ほど飲んでいる。
「歩きまわったから喉が渇いていたみたい。生ビールは最高ね」
「ああ」
「今日は付き合っていただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう。久しぶりに若い女性とデートできて楽しかった。遊園地は良いね」
「気に入ってもらえてよかったです」
「僕はどこでも気にしないから、あまり考え過ぎなくていいよ」
「そうします。でないと続きませんから。それで2回目は1週置いて再来週の土曜日でどうですか?」
「1週空ける?」
「毎週じゃあ、ちょっと窮屈な感じがしませんか? ほかにも用事がありませんか?」
「僕は特段ないけど」
「私もほかの誰かとも『恋愛ごっこ』をしている訳ではありませんが、1週間くらい空けた方が長続きすると思います。あまり負担になっては長続きしないような気がします」
「確かにそうかもしれない。毎週だと話すことがなくなることもあるかもしれないし、ただ、あまり間隔が空くと疎遠になる感じがするので、そのくらいがちょうど良いのかもしれないね。それでいいよ、そうしよう」
彼女は僕たちの『恋愛ごっこ』を長続きさせたいと思っていてくれている。その気持ちを大切にしなければいけないと思った。
それからは誘われて1週空けた週末に『恋愛ごっこ』をするようになった。デートのときには自然に手をつないできたし、腕も組んできた。廸は僕の恋人のように振舞ってくれた。
でも廸は仕事の関係で会議に同席したときや2対2や1対1で打ち合わせをするときも決してそのような素振りは見せなかった。
会議で時々可愛いなと見ていた女性と週末にデートして、そういうことが自然にできることをいつか楽しむようになっている自分がいた。廸と『恋愛ごっこ』で話していると心が和んで癒された。1週ごとの週末に会うのが待ち遠しいと思うこともあった。
僕たちは都内の恋人たちがいきそうなところを2週間毎に訪れた。午後に落ち合って、手をつないで歩きまわった。歩き疲れるとコーヒーショップやマックで一服した。あまり高価な店は避けた。僕はこだわらなかったが、彼女がこだわった。長続きしないから好まなかったのだと思う。
それより『恋愛ごっこ』を繰り返すと新しい行き場所がなくなってきた。廸は日帰りが可能な遠方にも行ってみたいといった。それでディズニーランドに行ったときは丸1日を費やした。
そこで今度は箱根に土曜日に日帰りで行くことにした。朝8時に新宿駅で待ち合わせをして、小田急ロマンスカーで箱根湯本へ、箱根湯本から箱根登山鉄道で強羅へ、強羅からケーブルカーで早雲山へ、早雲山からロープウエイで桃源台へ、途中大涌谷を見物して、桃源台でランチをとった。
それから箱根海賊船に乗って箱根町港で下船して箱根の関所を見学、箱根町港から箱根登山バスで箱根湯本へもどり、お腹が空いたので食べ歩きをしてから、新宿へ戻ってきた。
二人はいつも手をつないで歩いていた。また、乗り物の中では廸は僕の肩にもたれ掛かって眠ることも度々だった。僕は少しも嫌でなかったし、どちらかというとそれを楽しんでいた。やはり『ごっこ』には『ごっこ』で答えなければならない。それが『恋愛ごっこ』の当然の約束事だと思っていた。
知らない人が見たら、きっと新婚の夫婦か付き合いの長い仲の良い恋人同士のように見えたに違いない。僕もそのような錯覚を感じつつ横目で廸を眺めていた。
ただ、僕が廸に取った態度は、彼女が関連会社の社員で仕事上の付き合いがあるということが前提というか頭の中にあった。また『ごっこ』が前提になっていたので、誠実というか真面目そのものだった。やはり恋愛には向かないやっかいな性格だった。
手をつなぐことは自然にしていたが、彼女の身体に積極的に触れることはしなかった。もちろん、彼女を抱きしめたり、キスをしたりもしなかった。それも『ごっこ』に含まれるとは考えることができなかった。
箱根にいった帰りに廸は今度は1泊どまりで何処かへ行ってみたいと言ってきた。
「ええ、それは『ごっこ』の行き過ぎではないのかな?」
「恋人同士だったら、そういうこともありだとは思いますが?」
「やめておこう。自信がもてない。君に嫌われたくないから」
「考えすぎではありませんか? 『ごっこ』なんですから」
「そうかもしれないが、やめておこう。僕はこのままがいい。長く続けたいから」
「そうですね」
廸は引き下がってくれた。僕が廸をとても大切に思っていたことは間違いない。そして前へ進むことを自ら戒めていたのだと思う。だから「恋愛ごっこ」を続けていても、それ以上に進もうとはしなかったし、できなかった。
今日のプロジェクト会議もなんとか両社の合意を得られて終了した。廸はプロジェクトのとりまとめ時期について、十分に検討した後に行うように主張していた。
ただ、新製品の開発には期限がつきものだ。それに市場が受け入れる時期というものがある。市場のニーズがないときに投入しても空振りに終わることが多い。せっかく先進的な新製品だから投入のタイミングが重要だ。
一方、このタイミングを見ている間に他社に先を越されてしまうリスクも考えておかなければならない。これらの留意事項を説明してようやく了解を得ることができた。
廸は相変わらず会議中ではビジネスライクに徹しており、とてもそっけない。『ごっこ』中に手をつないだり肩にもたれて眠ったりしている穏やかさはみじんもない。そのギャップに怖くなる時がある。廸にどっぷりと入れ込めないのはそのことも関係しているのかもしれない。
結婚して家庭を持って会議中のような議論をすると思うと躊躇するというか心配になる。議論するとなかなか一筋縄ではいかない強情なところもある。『恋愛ごっこ』中の廸と会議中の廸はどちらが本当の廸なんだろうと思う時がある。きっとどっちも本当の廸なんだろう。
でも仕事のパートナーとしたら最強の味方になると確信できる。それなら結婚してパートナーとなっても最強の味方になると思えてくる。
会議を終わって会議室を出てきたが、山口君と廸はまだ中で話をしているようでなかなか出て来ない。5~6分してからようやく二人が出てきた。廸は困ったような顔を僕に見せていたが、何も言わなかった。
帰り道で山口君が僕に話しかけてきた。
「リーダー、相談があるのでちょっと付き合ってもらえませんか?」
「相談? 良いけどなに?」
「飲みながら話を聞いてください」
「ああ、駅前に居酒屋があったね。そこでどうだい。久しぶりに二人で飲むのも悪くないな」
山口君は入社3年目だ。入社して半年の研修を終えてから他の部署に配属されていたが、今年になって僕のチームに配属になった。僕と違って超有名国立大学を卒業している。頭はとてもよくて理解も早い。
一方、いったん思い込むと自分の意見を曲げない強情なところがある。もっと柔軟でないと組織の中では仕事を続けていけない。部長には配属に当たって、もっと頭を柔らかくしてやってくれと注文をもらっている。
この居酒屋には初めて入ったが、落ち着いた雰囲気で、二人でゆっくり話ができそうだ。すぐにビールとつまみを3品ほど注文した。
「ところで話というのは?」
「先ほど会議が終わったあとで若狭さんに二人で会ってほしいとお願いしました」
「何だって、交際の申し込みをしたというのか?」
「もちろんプライベートでの付き合いの話です。仕事とは全く別です。リーダーにはここのところを了解しておいていただきたいと思って」
「了解するもなにも、プライベートなことなら、二人の問題だと思うけど」
「いずれ付き合うことになったら、噂にもなることもあると思うので、その前にリーダーにはお話ししておこうと思って」
「分かったけど、先方の了解は得たのか? OKの返事はもらっているのか?」
「今日のところはお願いしただけですが、しばらく考えさせてほしいとのことでした」
「それなら、まだどうなるか、付き合うことになるか分からないということだね」
「おそらく付き合うことになると思います」
「かなり自信があるんだ。それだけ自信があるから僕に話して了解を得ておこうと思った訳だ」
「仕事上から彼女を知ったということもあるので」
「プライベートといっても、今の状況なら仕事にもかかわっている。そういうことなら、先方に話す前に僕に相談してほしかった」
「これはプライベートなことなのに、ですか?」
「プライベートといっても仕事がらみだからだ。仕事上で知り合った仲だからね。もし交際を断られたら気まずくならないか? 仕事にも影響する可能性がある。できることなら交際の申し込みはこのプロジェクトの終了後にしてほしかった。それならどうなっても何の問題もないからね」
「仕事には影響しないと思います。むしろ好影響があるのではないかと思っていますが」
「そう思うにしても、先方の気持ちもあることだからね」
「それにしても、山口君は若狭さんには関心がないと思っていた。懇親会でもほとんど話をしていなかったしね」
「気がない素振りをしていただけです。そっけない態度をとっておいた方がかえって気を引くと思って」
「それも作戦のうちだったということか? 油断のならないやつだな」
「先方がこちらに関心を持っていても、こちらが無関心ならあきらめるでしょう。そこで無関心ではないことを打ち明けると嬉しいでしょう」
「そうかもしれないが、そんなにうまくいくのか?」
「今までは割と成功しています」
「山口君ほどの学歴と能力があればそうかもしれないな」
「リーダーもこのやり方を試してみたらいかがですか?」
「僕はそんな駆け引きには向いていないことがよく分かっているから」
「だから彼女もいないのかもしれないですね」
「はっきりいうな。ただ今回の君の行動がプロジェクトに影響しないことを祈るだけだ」
とは言ったものの、僕たちの『恋愛ごっこ』を考えると、その付き合いが仕事に影響しかねないと再認識をした。あの帰り道、彼女から『恋愛ごっこ』を提案されたときには深く考えることもなく了解した。
ただ、あのときはで本気ではなく『ごっこ』で、振りをするだけといわれて割り切って了解したが、もう少し深く考えるべきだったかもしれない。もし、断っていたら、プロジェクトに影響が出たかも知れない。安易に了解したことがよかったかどうか今となってはどうすることもできない。
でも『恋愛ごっこ』があるにしても、ないにしても、廸ならば影響させなかったに違いない。いや、『恋愛ごっこ』があるから、人柄が分かってかえって忌憚のない意見が言い合えることになっているのかもしれない。むしろ、彼の言うように良い影響があったのかもしれない。考えれば考えるほど分からなくなってくる。
「山口君、やはり二人で会う話、プロジェクトが終了してからにしてくれないか? 若林さんにそう言い直してくれないか? これはプロジェクトリーダーの僕からのお願いだ。若林さんも即答はせずに考えさせてほしいといったのだろう」
「そうですが」
「若林さんも僕と同じようにプロジェクトへの影響を考えて、即答は避けたのだと思う。もし君の申し出をすぐに断ったとしたら、影響が出ると思ったからじゃないか」
「断らないで受け入れたらよい影響があると考えるかもしれないじゃないですか?」
「いずれにしても、即答はなかったのだから、今回の答をプロジェクト終了後にもらうことでいいのではないのか? そう若林さんに伝えてほしい。これはプロジェクトリーダーとしての要望だ」
「分かりました。そう伝えます。プロジェクトが終了したら、勝手にやらせてもらうことでいいですか」
「もちろん、思い通りにしてくれていい」
いずれにしても、廸がどう回答するかは彼女自身の問題だ。
前回は遠出したので、今回は近場ということで、明治神宮周辺を散策することになっていた。表参道駅で待ち合わせをした。僕は山口君のことが気になっていたので、いつもより早く待ち合わせ場所に到着した。すぐに廸が現れた。表情が硬いのがすぐに分かった。
「お待たせしました」
「いや、今着いたばかりだから少しも待っていない」
僕たちはいつものように手をつないで歩きだした。
「ご相談したいことがあります」
「察しがついている。プロジェクト会議の終了後に山口君から交際の申し込みをされた。そのことだろう」
「そうです。山口さんは吉田さんに相談したのですね」
「ああ、帰り道で彼は若狭さんにプライベートに二人で会ってほしいとお願いしたと言っていた。仕事には影響しないと思うけど僕に話しておくと言ってね。どういう話だったか具体的に聞かせてもらっていいかな」
「仕事には影響させないから、二人で会って下さいと言われました。返事は後日で構わないとも言われました。まだ、お答えはしていません。それでどうしたらよいかと思って」
「若狭さんの気持ちはどうなの? お付き合いをしたいと思っているのかな。彼は超有名国立大学を出ているし、頭脳も明晰だ。悪い相手ではない」
「私には向かないと思います。性格が合いません。それに仕事にも影響しかねないからお付き合いするのは良くないと思っています」
「仕事への影響については僕も考えていたのだけど、僕と若狭さんは『恋愛ごっこ』だとしても、プライベートに付き合っている振りをしている。その違いはあるにしても仕事に影響していないか心配になっている」
「私たちの『ごっこ』は仕事に影響していません。私はそう確信しています。むしろ好影響だと思っています」
「それはどういう意味?」
「お互いにより性格というか考え方が分かってきていますから」
「それなら返事はどうするつもりなの?」
「もちろん、お断りするつもりですが、相談というのは彼に悪い印象を与えないために、プロジェクトに影響させないためにはどうお断りすればよいかということについてです」
「断り方か? 好きで付き合っている人がいると言えばいいじゃないか?」
「覚えていますか? 最初に4人で懇親会をしたときのことを」
「どんなこと?」
「あの時、山口さんが私に彼氏いるんですかと聞いていました。私は特にいないと答えました。本当にいなかったものですから」
「僕は覚えていないけど、彼は今回のことを想定して聞いていたのかもしれないな」
「だからそういう答えは適当じゃないと思います」
「確かにそうだね。彼は交際を受け入れてもらえると自信を持っているみたいだったから」
「それなら、なおさらのこと断り方が難しいです」
「僕に若狭さんが『恋愛ごっこ』をしませんかと誘ってくれた時は、僕が断るとは思っていなかったのですか?」
「もちろん断られる確率が高いと思っていました。断られても『ごっこ』が断られたわけですから、仕事に影響があるとは思いませんでした。でも山口さんは違います。本気ですから」
「確かに後を引かないように断るのは難しいね。僕の感じだけど山口君は自信家でプライドが高いような気がする。断り方でこじれる可能性は高いかもしれないな」
「吉田さんから彼に私と付き合っているからと言っていただく方法はどうですか?」
「彼からこの話を聞いた時にそれを言ってしまおうとも思ったんだけど、彼に言おうとしたことと矛盾することに気が付いた。でもそういってしまったなら若狭さんがこんなに悩むこともなかったかもしれない。すぐにそういうべきだったかもしれない。申し訳ない」
「でも『恋愛ごっこ』をしている訳ですから、本当にお付き合いしているわけではないことからもそう言い方はできなかったでしょう」
「でもとっさに彼にはプライベートといっても仕事がらみだから、もし交際を断られたら気まずくならないか? 仕事にも影響する可能性があるから、できることなら交際の申し込みはこのプロジェクト終了後にしてほしかった、それならば何の問題もないからとは言ったんだ」
「その考え方はよいかもしれません。お答えはプロジェクト終了後まで待ってほしいと答えるのはありではないでしょうか?」
「やはりそれしか無難な方法はないようだ。時間を稼ぐというのはありかもしれない」
いつもは『恋愛ごっこ』を楽しんで浮き浮きした気分で散策したところだけど、二人とも口数も少なく気もそぞろだったように思う。
夕食は彼女が行ってみたいといったオムレツ屋さんへ入った。二人はそれぞれ気に入ったオムレツを注文した。
ようやくプロジェクトが終了した。新製品投入期日は6か月後となった。約1年間のプロジェクトであったが、両社の持ち味がうまく生かせた製品ができたと自負している。最終会議は松本部長も出席した。
プロジェクト会議終了後の懇親会は先方の会社の会議室において午後5時から立食形式で行われた。このパーティーには両社の関係者が多数出席していた。それで、廸とは一言二言位しか話ができなかった。山口君と廸も同じ状況でほとんど話ができなかったようだった。
先方の会社の副社長のお開きの挨拶の後、僕と山口君は帰り道が一緒になった。山口君には話しておきたいことがあったので機会を窺っていた。
「プロジェクトが終わったから、若狭さんとのこと、思い通りに進めてください。もう二人で会って下さいとお願いしたのか?」
「パーティ―のときに後で連絡をいれますと伝えておきました」
「そうか手回しがいいね。それでどうするんだ」
「後で電話したいと思っています。携帯の電話番号は分かっていますので」
「そうか、よい答がもらえるといいね」
「大丈夫です」
「成否を教えてくれないか?」
「プライベートなことなので必要ないと思いますが」
「それはそのとおりだけど、僕にも考えがあってね」
「考えってなんですか?」
「もし、山口君が交際を断られたら、僕も交際を申し込んでみたいと思うようになったんだ。確かに山口君がほれたように若狭さんが魅力的な女性と思うようになったから」
「ええ、先輩もですか?」
「もちろん第一交渉権は山口君にある。万が一にでも山口君が断られたらの話だから、先駆けをしようなんて思っていないから安心してくれていい」
「分かりました。成否はお知らせします。期待しないで待っていて下さい」
「ああ」
◆◆ ◆
次の日、元気なく出社した山口君から若狭さんに交際を断られたとの報告を受けた。
「山口君からの申し込みを断るなんて彼女は人を見る目がないなあ。じゃあ、ダメもとで僕もそのうちに申し込んでみるか?」
「頑張ってみてください」
「まあ、うまくいったら教えるよ」
その晩、僕は廸に電話を入れた。
「山口君は断られたのでしょんぼりしていた。何て言って断ったのか聞かせてくれる?」
「山口さんは頭も良くて行動的なので私にはとてもついていけそうもないと言ってお断りしました」
「そんな理由なのにがっかりしていた。自信家なのでまさか断られると思っていなかったみたいだ」
「でも素直に受け入れていだだきました」
「まあ、断れてよかった。ところで、もし山口君が断られたら、僕がチャレンジしてもよいことにしてあるんだけど、交際の申し込みを受け入れてもらえるんだろうか?」
「そうですね。私にペースを合わせてくれるので、安心してお付き合いできるからお受けしますとお答えしましょうか?」
「ありがとう。そう思っていてくれて。山口君には『恋愛ごっこ』をしていることはしばらく黙っていようと思っています」
「それがいいと思います」
山口君の問題はこうして解決した。でもいつかは付き合っていることを話さなければならない。その時に山口君がどういう反応をするかだ。ただ、時間を置くということは大切なことかもしれない。時間が経過すれば山口君に新しい恋人が見つかっている可能性もある。
いつものように二人はデートの終わりに居酒屋でビールを飲みながら夕食をとっている。
「吉田さんって、いつも夕食はどうしているんですか?」
「ウィークディは会社や駅の近くで外食することもあるけど、最寄り駅近くのコンビニやスーパーで弁当や惣菜を買って帰って、自宅で缶ビールを飲みながら食べている方が多いかな」
「一人自宅でゆっくり食べるのがお好きなんですか?」
「実をいうと僕はお酒を飲みながら夕食を食べたいんだ。そのあとごろっと横になって休みたい。でも外食でお酒を飲むと酔いが回った心地良い時に帰らなければならないのがいやなんだ」
「お酒がお好きなんですね」
「いや、好きというより、飲むとリラックスして1日の緊張がほぐれるから飲みたいんだ。ただ、多くを飲むわけではなくて、ビールなら350ml缶1本、チューハイなら350ml缶1本、ウイスキーの水割りなら1~2杯。それくらいで心地よくなって眠くなるので十分なんだ」
「そういえば、こうして飲んでいても、ほどほどの量ですね。それに酔っぱらったところを見たことがありませんし」
「若狭さんと飲むときは緊張しているから、酔わないし、酔えない。醜態は見せられないからね」
「自分で食事を作ったりしないんですか?」
「土日でデートがないときは、自分で作ることもあるけど、冷食を電子レンジで温めたり、ありあわせの材料で鍋料理を作ったりするくらいかな」
「それじゃ、次回は私の部屋で夕食会をしませんか?」
「若狭さんの部屋で夕食会? 二人で夕食を作るのか?」
「いえ、私が夕食を作ってご馳走します。和食、洋食、中華なんでもいいですよ。リクエストにお応えします」
「料理が得意なの? 知らなかった」
「得意というほどではありませんが、料理は好きです。まあ、食べてみてください」
「招待ありがとう。喜んでご馳走になるよ」
「なにがよいですか?」
「和食をお願いできるかな。あまり食べる機会がないから、食べてみたい」
「分かりました。じゃあ、再来週の午後5時に来てください。最寄り駅と住所を書いてお渡しします。ネットの地図を見てきてください。2階建てアパートの2階の201号室です」
メモを取り出してすぐに住所を書いてくれた。いままでは電車に乗って途中駅で別れていた。住所も教えてもらっていなかった。それに彼女を家まで送っていったことはなかった。
廸が自宅へ招待してくれたが、これをどう受け止めたらよいのだろうか? 僕を信用してくれているからだろうけど、女子から家へ招待されるのは生まれて初めてのことだからどうしたらよいのか分からない。
◆◆ ◆
彼女のアパートはすぐに見つかった。2階の201号室のドアホンを鳴らす。すぐに返事があって、ドアが開いた。エプロン姿の廸が迎えてくれた。
「デザートにアイスクリームとケーキを買ってきた」
廸は笑顔で受けとってくれた。彼女について中に入っていく。1LDKの独身者向けの部屋で僕の部屋と同じようなつくりだった。もうリビングの座卓に料理が2人前並べられている。
「どうぞお座りになってください。和食を一式つくりましたので、お召し上がり下さい」
「これを若狭さんがすべて作ったのか?すごいね」
「お昼過ぎからかかりましたが、一度作ってみたかったので良い機会になりました」
「料理が好きだとは知らなかった。少しも話してくれなかったからね」
「自慢できるほどの腕前か分かりませんから。お酒は何にしますか? 日本酒とビールを用意しましたが」
「和食だから日本酒でお願いします」
「お燗しますか? それとも冷がいいですか?」
「冷でお願いします」
「それでは準備します」
廸にこんな一面があったとは「恋愛ごっこ」を続けていたにもかかわらず気が付かなかった。廸があえて話さなかったからでもある。廸は冷を準備して座卓の反対側に座った。
「どうぞ、お召し上がりください。まずは一杯」
「ありがとう」
ガラスの盃に注いでくれる。
「君も一杯どう?」
「少しいただきます」
廸はお酒に弱いわけではなかった。でも二人で飲むときは控え気味で多くを飲むことはなかった。まして酔っぱらうようなことは決してなかった。
本格的な和食のフルコースだった。先付、吸物、刺身、焼物、酢の物、炊合、蒸し物、揚げ物、ご飯・味噌汁、果物。それぞれ量は少なめに作ってあった。
先付から食べ始める。和食のフルコースは会社の仕事上で接待する側とされる側の両方で何度か食べたことがある。料亭の和食の席ではこれらが一品ずつ運ばれてくる。今日は忘年会のようにすべて配膳されている。
一品一品と食べていくが、どれも味付けがよくておいしい。廸はお酌をしてくれながら自分も僕と同じように味を確かめるように食べている。僕も廸にお酌をしてあげる。食べながら会話が弾んだ。
ご飯は炊き込みご飯だった。電気釜から廸がよそってくれる。お酒のせいか、顔に赤みがさしている。いつもより酔っているのかもしれない。
それからデザートに僕の持ってきたアイスクリームを食べた。
「このアイスクリームとてもおいしい」
「気に入ってくれてよかった。君の料理もとてもおいしかった。ありがとう。後片付けを手伝うよ」
「大丈夫です。ゆっくりしていてください」
後片付けに立ち上がった廸が少しよろけた。僕は慌てて廸を支えた。廸の身体に触れたのはこれが初めてだったと思う。手はつないでいたが身体に触れたことはなかった。柔らかい華奢な身体だった。驚いて手を離した。本当は抱きしめたかった。
「少し酔ったみたい。飲み過ぎました」
「休んでいて、僕が後片付けしてあげる」
「その方がよいみたいです。申し訳ありませんがお願いします」
僕は要領よく食器をシンクに集めて洗ってゆく。洗いものは学生時代に実験用のガラス器具を散々洗っていたから慣れている。実験で使うガラス器具は汚れに気をつけなければならないので慎重に洗っていたが、食器はそれほどの注意は必要ない。
あっというまに洗い終わって、布巾で拭いて食器棚にしまった。食器棚には洋食や中華の食器もあった。
「食器がそろっているね」
「それらは母親が持たせてくれたものです。必要ないといったのですが、今日は役に立ちました」
「終わった。ご馳走になりました。そろそろ引き揚げます」
「ゆっくりしていって下さい」
「長居しては君に迷惑がかかる」
「迷惑だなんて」
廸が何を言おうとしているか分かったが、それを聞いてはいけないと思った。それですぐにその場から逃れようと玄関に向かって歩き出した。
せっかく自分の部屋に招待してくれたのに、このまま帰るといったので、廸は気落ちしたに違いない。でも廸は笑顔を作って、玄関まで見送りにきてくれた。
僕は後ろ髪をひかれる思いがあったにもかかわらず、廸の部屋をあとにした。なぜ、急いで部屋をでてきたのか、自分でもよく分からない。
廸の家で飲んだ日本酒が効いて酔っぱらっていたのかもしれない。家に着くまでの記憶があいまいだ。いや、帰り道ではなぜ急いで廸の部屋を出たのかをずっと考えていたからだった。
廸に悪いことをした。好意を踏みにじった。でもあのまま部屋にいたらどうなるかを想像したからそれを避けたかったのだと思う。廸を大切にしたい、そういう思いがあったに違いない。
廸が好意を見せてくれたのに、自分は廸に好意を持っていながら、一歩が踏み出せなかった。なぜなんだ。僕は本当に恋愛に向いていないのかもしれない。その時改めてそう思った。
でも廸を手放したくない。その気持ちを伝えなくてはいけない。そう思ってすぐに電話をかけた。廸はすぐに電話に出てくれた。
「今、家に着いた。夕食ありがとう。すぐに帰ってしまったので気を悪くしたのではないかと思って。すまなかった。どうしてもいたたまれなくなって。君を大切に思っている。『恋愛ごっこ』を続けてくれるね。お願いだから」
「はい、分かりました」
そっけない返事だったが、しっかりとした口調だったので修復はできたと思えた。思いは伝わったはずだ。
ああいうことがあったので、廸もこれが限界だと思ったのだろう。次に会ったとき、僕に真正面から仕掛けてきた。
「お見合いの話があるので、もう『恋愛ごっこ』を終わりにしたいのですが?」
廸が僕を試すためにお見合いの話を持ち出したのはすぐに分かった。廸には僕の失敗談を話していたからだ。でも、それを聞いたとき、自分の素直な気持ちが分かった。そして僕の答はもう決まっていた。過去の失敗を繰り返してはいけないことも分かっていた。
「ああ『恋愛ごっこ』はもう終わりにしよう。終わりにする代わりに僕と結婚してくれないか?」
僕ははっきりと言った。でもこんな時にこんなタイミングでプロポーズの言葉を言うことになろうとは思ってもみなかった。でも僕はもうすっかり変ってしまっていた。今なにをなすべきか分かっていた。
廸は突然の僕のプロポーズに驚いたのか、期待していなかったのか、黙ってしまった。突然のその沈黙に僕は気が動転してしまった。その沈黙の時間がとても長く感じられた。
僕の思い過ごしだったのか? いやいや、そんなはずはない。それでもここで引き下がるわけにはいかない。なんとかしなくてはいけない。
「すぐに決められないなら、僕と本気で恋愛してみてくれないか?」
とっさに口に出た言葉だった。すると彼女は僕の目を見てニコッと笑った。
「はい、結婚を前提にした恋愛をお受けします」
プロポーズの答は得られなかったが、結婚が前提の申し込みは受け入れられた。
それからの僕は堰がきれたように急速に廸との関係を深めていった。すぐに彼女を誘った。
「今度の週末は僕の部屋に遊びに来ないか?」
「はじめてですね。部屋に来ないかなんてどうしてですか?」
「どうしてって二人だけでゆっくり話がしたい」
「いつも二人だけでお話しているではありませんか。どうしても貴方の部屋でなければならないのですか?」
「はっきりいうと下心があるから、だめならいいんだ。無理することはないから」
「そういう言い方あなたらしいわ。誠実ですね」
「誠実?」
「聞いてくれますか? 私の話を」
「ああ、聞かせてくれないか?」
「以前、お付き合い人がいました。でも元彼というほどの関係ではなく、単にお付き合いしていただけと言った方が合っているかもしれません。出会ったのは入社して2年目で、仕事にもようやく慣れてきて生活にもゆとりができたころでした。
人数合わせに誘われた女子大時代の先輩の合コンに参加して、そのときに出会いました。彼も人数合わせで参加したとのことなので、それがきっかけとなって時々会うようになりました。
彼は大手商社に勤めている有名大学出身のエリート社員でした。5歳ほど年上で、見た目もかっこ良く、優しくて女性の扱いにも慣れている感じがしました。何事にもそつがなくて食事をする時も洗練された店に連れて行ってくれました。それで誘われて何回かデートをしました。
そのうち合コンに誘ってくれた女子大の先輩と二人で自分のマンションへ遊びに来ないかと誘われました。現地集合となっていたので彼のマンションを訪ねました。
マンションで待っていてもなかなかその先輩は現れませんでした。彼に問い正すと二人きりになりたかったので、嘘をついてしまったといわれました。そして私をいきなり抱き締めてきました。とても強い力でした。
私は力一杯抵抗して、その腕を振り払って部屋を飛び出してきました。後ろで俺が好きなんだろう、いいじゃないかと叫ぶ声が聞こえました。でも振り返らずにエレベーターに飛び乗って急いでマンションを離れました。
彼に誠実さが感じられなくて、とても不快な気持がしました。そのあと彼からの連絡が途絶えました。私に失望したのかもしれませんが、私こそ彼に失望しました。私を一人の女友達としか見ていなかったのかと思って惨めな気持ちになりました。また、私を大切に思ってくれていなかったのが悲しかったのを覚えています」
「そんなことがあったんだ」
「私は進学校の女子高校から女子大へ進学したので、恋愛の機会も少なくてそれまで恋愛経験がありませんでした。だからかえって恋愛に無頓着だったのかもしれません。一人の人を好きになって愛することなど深く考えたことがありませんでした。
ただ、彼とのことが契機になったのは間違いありません。人を好きになるってどういうことだろうと考えるようになりました。それで吉田さんと出会って、あんな提案をしてしまいました。
吉田さんと『恋愛ごっこ』をしたら、人を好きになる素直な気持ちというものが分かるようになるかもしれないと思ったからです」
「『恋愛ごっこ』は僕のためだけでなく、自分のためでもあったんだね。それで分かったのかい。人を好きになる素直な気持ちが」
「あなたの誠実な気持ちが分かりましたし、私の気持ちもはっきり分かりました。だから結婚を前提にした恋愛をお受けしました」
「『恋愛ごっこ』が役に立ったということだね。ありがとう、良いことを考えてくれて」
僕は横に座っている廸の頬にそっとキスをした。突然、僕がそういうことをしたので、廸は驚いて目をしっかり開けて僕を見た。
「はじめてキスしてくれましたね」
「ごめん。どうしてもしたくなったから」
「いままでそういう気持ちになったことはなかったのですか?」
「何度かあった。抱きしめてキスしたいと」
「どうしてしてくれなかったのですか?」
「『恋愛ごっこ』中だったからかな」
「『ごっこ』だから、振りをしてくれてもよかったのに」
「キスの振りって、どうすればいいんだ」
「『ごっこ』の振りでキスしてくれればよかったのよ」
「できなかった。僕はそういう不器用な男だから」
「誠実だからです。それが吉田さんのよいところです」
「それで週末に僕の部屋に遊びに来てくれるのか?」
「はい、必ず行きます」