「お疲れ様でーす!」
元気よくれおなが部室に到着すると、水景、淑乃、樹里亜が先に準備を始めていた。
今日は土曜日で、一限と二限の後に部活動が行われる日だった。喫茶室の活動が休みの土曜日は、部室でのミーティングや練習を行われる決まりになっていた。
「磐井さん、お疲れ様です」
れおなを出迎える淑乃は既に着替え途中で、男物のシャツのボタンを留めている最中だった。
「およ? 川嶋さん、ちょっと袖口見~せて?」
れおなはさっと淑乃の左手を取り、シャツの袖口を確認する。
「やっぱり! ボタン、取れかかってるね。ささっと直してあげるからじっとしててね~」
そう言ってれおなは鞄の中から裁縫セットを取り出し、手際よくボタンを縫い付ける。
「で~きた!」
「ありがとうございます、磐井さん。磐井さんにはいつもお世話になっていますわね。この男装姿の衣装一式、磐井さんが用意してくださっているんですもの」
「それは磐井のおうちが洋品店だからだよ~。ていうか、それ言い出したら紅茶や食器を用意してくれているのは川嶋さんでしょ?」
「我が川嶋紅茶のプロモーションも兼ねていますから、礼には及びませんわ」
れおなと淑乃が互いに褒め合っている横で、手持ち無沙汰な樹里亜は水景に小声で話しかけた。
「波止場先輩、川嶋先輩のおうちってあの有名な川嶋紅茶ですか? 海外の高級ブランド紅茶の輸入と、自社生産・販売をしているっていう……」
「そうだよ、そりゃお金持ちなわけだよね。それでれおなちゃんのおうちの磐井洋品店は、清花と提携して制服のお直しをやってくれているお店なんだ。淑乃ちゃんとれおなちゃんのおかげで男装喫茶部は成り立っていると言っても過言ではないね」
「なるほど……そうなんですね」
「それから忘れちゃいけない陰の功労者は、なんといっても七夏だよ! 七夏が生徒会と男装喫茶部を兼任してくれているからこそ、予算や都合の悪い隠し事のもみ消しをしてもらえているんだ。これは部活存続のためにもかなり重要なことだよ」
「ふぅん……」
水景が自分の功績かのように声高に自慢していると、樹里亜は沈んだ様子で適当な返事をする。
「じゃあ俺たちも着替えちゃおっか」
樹里亜の様子には気づかず、水景はセーラー襟の制服を脱ぎ始める。ジャケットを脱ぎ、スカートの下に先にスラックスを履いてからスカートを脱ぎ、次にブラウスの胸元に結んだリボンを解こうとした時……唐突に、樹里亜は切り出した。
「波止場先輩、『リボンの誓い』って知ってますか?」
「……え?」
解けかけたリボンにかけた手を離し、水景は樹里亜に聞き返す。樹里亜は続けた。
「愛し合う二人は、互いの制服のリボンを贈り合う。そういう愛の誓いの儀式だそうです。……わたしに、波止場先輩のリボン、貰えませんか?」
樹里亜はゆっくりと水景のリボンに手を伸ばす。背後では、「わお」「まあ!」というれおなと淑乃の反応が聞こえていた。
「だ……」
水景は声をふり絞る。そして、樹里亜の手を払いのけた。あまりに強い拒絶に、樹里亜は呆然とする。
「……ダメだよ。これは、俺の大切なものだから……」
水景の目は、笑っていなかった。そんな彼女に、樹里亜はなんとか言葉を返す。
「そう……ですか……」
途端に部室の空気は重くなる。深刻な状況を知ってか知らずか、タイミング悪く七夏が部屋の中へ入ってきた。
「ごめんねぇ、生徒会に顔出してたら遅くなっちゃった~。……あら?」
たった今到着したばかりの七夏には状況が分からない。ただ、無音の部室に何らかの深刻な様子は見て取れたようで、何を言えばいいのか困っている。
(ど、どうしましょう……! わたくしにこの状況を打開できる策があれば……!)
焦る淑乃の横で影が動いた。れおなだ。
(い、磐井さん? いくらあなたがムードメーカーだと言ってもこんな深刻な空気はどうにもできないのではなくて……?)
れおなはまっすぐ樹里亜の元へ近づき、彼女の制服を脱がしにかかる。
「わーっ! 磐井さんあなたなにしてらっしゃるの⁉」
れおなは目にもとまらぬ速さで樹里亜を男装の衣装に着替えさせ、長い黒髪をまとめてウィッグを被せる。
「はい、完成!」
男装姿の樹里亜――ジュリは、首を回して大きく息をつく。
「……んぁ? なんだよ、俺の出番?」
樹里亜の普段のおどおどとした態度は消え去り、低い声で誰に聞くともなくそう言った。正面に立っているれおなは、シークレットブーツの差で背が高くなったジュリを見上げ、人差し指を立てながら説明する。
「今日は土曜日、つまりミーティングと練習の日です! ジュリくんファイト~。そんじゃ後のことは部長のミカ先輩に聞いてね!」
「……分かった」
れおなはそれだけ説明してジュリの前から離れ、自身の着替えを始める。
「磐井さん、どうやったんですの?」
淑乃は髪をまとめながられおなに小声で訊ねる。
「あの失意の白砂さんのテンションを戻すなんて……! なにか催眠術でもかけたのではなくて?」
「あたしもどうやったのか知りた~い」
七夏も着替えながら会話の輪に入る。
「催眠術とかじゃないよ~。私がなにかしたんじゃなくて、あれは白砂さんの性質だよ」
「どういうことですの?」
「白砂さんは、男装姿になると人格が切り替わるんだよ」
「えっ⁉ そうでしたの⁉ ってそれいわゆる二重人格ってやつですの⁉」
「分かりやすく言うとそんな感じみたいだよ」
「確かに白砂さんは男装モードでは振る舞いが変わる方だとは思っていましたが……。二重人格の方が現実にいらっしゃるなんて……驚きですわ」
淑乃はにわかには信じられないといった様子で頭を振る。
「でもそれ分かるなぁ。芸能人でも『役を降ろすタイプ』……いわゆる憑依型の役者さんって、まるで別人みたいな役に入って、前後の記憶があやふやになっちゃうタイプの人も居るし」
「夜半月先輩が言うと説得力ありますわ……」
「それと似た感じで、白砂さんは普段の服装から男装姿に着替えると、人格が切り替わって『ジュリくん』になるみたい。磐井は採寸の時に気づいたんだけどね。ちなみに『ジュリくん』も『白砂さん』もお互いの人格のことはあんまり把握してないみたいだよ」
「だから白砂さんの落ち込んでいる精神状態をジュリくんは引き継がなかったのですわね」
「そゆこと」
お喋りをしながら着替え終わり、ミカの召集で男装姿になった五人の部員は一所に集合する。
「では本日の部活動を始めます! クリスマスミサの主役狙い企画は結局ボツになりましたが、日々の部活動のクオリティアップのために練習は欠かせません。ということでまずはサーブの訓練ね! 俺と同期の七夏は耳タコかもしれないけど、みんなでチェックしよう」
水景の指示により、ミカ、ナナ、シノ、レオ、ジュリの順に紅茶のサーブを行う。本番と違って焼き菓子の差し入れはないので、練習用のお茶請けとして小さなチョコレートが用意されていた。
「ナナ、砂時計が落ち切ってないよ」
「はいはい~。ミカくんは他人に厳しいですねぇ」
「俺はナナのためを思って……」
「レオさん、お上手です! いつ練習したんですか?」
「シノくんに褒めてもらえると自信がつくよ~! 最近おうちで夕食後に紅茶を入れてるんだよね。お父さんもお母さんも川嶋紅茶は格別って喜んでたよ!」
「ふふ、よかったです。でも、ご両親は磐……、レオさんが入れてくれることが嬉しいのでしょう?」
「なーなーレオ先輩、俺は俺は~?」
シノとレオが交代でサーブ係、お客様役を演じているとジュリがレオに絡んでくる。
「じゃあ次はジュリの番ね! レオさんがお客様役やってあげるから、心してかかってきなさい」
レオがお客様席に座ると、ジュリはいそいそと準備を始める。
「レオさんったら、いつの間にジュリさんの手綱握ったんです?」
シノが小声で話しかけると、レオも耳打ちで答える。
「手綱とかそんな大層なことじゃないよ。シノもジュリのサーブしっかりチェックしてあげて。紅茶部で一番紅茶に詳しいのはシノなんだから」
「それはいいですけれど……」
(ジュリさんばっかり磐井さんに構われていてずるいですわ。わたくしの方が磐井さんに相応しい人間ですのに……)
淑乃は内心で不服に思いながらジュリの練習風景を眺める。
「じゃーん! できたよレオ先輩~。上手だろ?」
ジュリはティーカップをソーサーに載せてサーブし、レオは熱い紅茶に口をつける。
「うん、いい香り。上手にできてる!」
「だろだろ~? もっと褒めて!」
「えらいえらい~」
レオは少し身をかがめて頭を差し出すジュリを撫でる。
(あっ! ジュリさんったら磐井さんに頭なでなでされてますわ! わたくしだってしていただいたことないのに! わたくしも磐井さんに頭なでなでされたいですわ!)
人知れず淑乃が対抗心を燃やしていると、レオは突然切り出した。
「では優秀なジュリに問題です。この紅茶の名前は?」
「え? アールグレイだろ?」
「ジュリはなぜアールグレイを選んだの? 他の茶葉も並んでいたでしょ?」
アッサムとダージリンの缶に視線を送りながら繰り出されるレオの問いかけに、ジュリは口ごもる。
「……レオ先輩がさっき自分の番でアールグレイを使っていたから……」
「俺のを見て真似してくれたんだ? 後輩のお手本として気が抜けないな~」
「な、なんだよそれ! 今の質問の意図を教えろよ!」
ジュリは照れ隠しに声を荒げながら問う。
「アールグレイは柑橘系の香りづけがされているだろ? さっぱりとした柑橘系の風味はチョコレートと合うんだよ。俺がアールグレイを選んだのはそれが理由」
レオは添えられたチョコレートの包みを指しながら答えた。
「あっ……そうか、レオ先輩は食べ物との組み合わせを考えて選んでいたんだ……」
「フードペアリングですね?」
シノが口を挟むと、レオは大きく頷いた。
「これ以上俺から喋るのは恥ずかしいな、シノの方が詳しいから。ジュリはこれからも上手になると思うから、また色々覚えてくれるといいな」
「はい、レオ先輩。勉強になるっす」
素直にレオの話を聞いているジュリを横目に、シノはほくそ笑んでいた。
(ふふ、まだまだですわねジュリさん。わたくしの方が上手ですわ)
ジュリは言われたことをメモに取ったのち、レオに質問を投げかけた。
「ところでレオ先輩。紅茶の技術方面だけじゃなく、接客も大事だよな?」
「勿論」
「レオ先輩的に、理想の接客ってどんな感じ?」
「難しいこと聞くね! お客様が男装喫茶に望んでいるものによって違ってくるから、唯一の模範解答はこれ! って答えるのは難しいな~」
「恋人みたいに接してほしいって方もいらっしゃれば、お悩み相談やただの雑談をご所望の方も居ますしね……」
シノは自分で言いながらふと想像する。
(磐井さんは、喫茶業務でお客様に恋人のように接することがあるのでしょうか)
自分の知らない顔を来客には見せているのではないか、と考え始めると不安は募る。
(そもそもわたくしは磐井さんのことを全然知りませんわ……)
淑乃がれおなに好意を寄せるようになったのはちょうど一年前のある出来事からだった。
***
淑乃は高等部に進級するとともに、紅茶部へ入部した。それは家柄に基づく紅茶への興味と、家から離れる時間を持つためという理由からだった。
帰宅すれば綿密なお稽古事のスケジュールに追われる淑乃は、放課後の部活動に心の安寧を求めた。
当時まだ部員が足りず紅茶研究会を名乗っていた集まりに加入すると、その実態は男装喫茶であった。紹介と実態が食い違っていることに反発する淑乃だったが、すんなりと受け入れた者も居た。それは同時に加入した磐井れおなという少女だった。
「よく分かんないけど面白そうですね! 磐井も頑張ります!」
隣で明るく笑うれおなを見た淑乃の最初の感想は、「お気楽そうな子ですこと」といったものだった。
(きっとこの人は、わたくしのように家柄で生き方を縛られることなんて経験したこともないのでしょうね)
はっきり言って、淑乃はれおなを見下していた。紅茶研究会ならぬ男装喫茶部での活動が始まってからも、れおなはミーティングのたびに冗談を言っては水景と七夏の笑いを取っていた。書記に就任した彼女は、さらさらと議事録ノートに適当な字のようなものを書いていた。そういった軽そうな挙動を見て、淑乃はこう思い込んでいた――磐井さんってアホなんですのね――と。
その認識を改めたのが、紅茶部として参加する初めての文化祭だった。
表向き紅茶部である男装喫茶部が学校の公式行事に男装姿で催し物を行うわけにはいかなかったので、制服にエプロン姿で喫茶店を出店していた。
ピークタイムを過ぎて店内が落ち着いたころ、一人の見知らぬ少女が恐る恐るやってきて注文を済ませ、ある悩み事を打ち明けた。どのようにして尾ひれがついたのか定かではないが、噂話が広まるうちに「紅茶部の模擬店ではお悩み相談を受け付けているらしい」という説が流れ、彼女は紅茶部へ訪れたようだった。
「私、女の子が好きみたいなんです。ずっと仲の良かった友達……女の子の友達が、かわいく見えて仕方なくて。その子のことが好きになっちゃったんです。でも、恋愛って普通は男女でするものなんですよね? 私って変なんでしょうか」
水景と七夏と淑乃は上手に答えられずに黙っていた。そこへ食器洗いを済ませたれおなが現れ、悩める少女の前に座った。
「貴方、お花は好き?」
唐突な質問に戸惑いながら少女は答える。
「え? はい、好きですけど……」
「じゃあ、キラキラしたアクセサリーは?」
「まあ、好きですね」
「そっか。女の子は、そういうものが好きな人が多いよね。勿論そうじゃない女の子も居るし、お花や宝石が好きな男の子も居るけどね」
悩める少女はれおなの話の意図をはかりかねて首を傾げる。れおなは続けた。
「女の子が『かわいいもの』を好きって気持ちは、結構多くの人が持っているし、それは変なことだって言われたりしないよね。だからね、女の子が女の子のことを『かわいいな、好きだな』って感じることは、全然変なことじゃないよ」
「……! そっか……。そうかもしれないです」
れおなの話を聞いた少女はぱっと明るい顔になり、頷いた。
「お話、聞いてくださってありがとうございました」
少女は晴れやかな表情で去っていった。水景と七夏はほっとした様子で雑務に戻っていく。
空になったティーカップを下げつつ、淑乃はれおなに話しかけた。
「磐井さんがお悩み相談なんて、わたくしびっくりしましたわ」
「それ磐井がなんも考えてない人間に見えてるってことかにゃ~?」
「うっ……」
墓穴だった。言い訳を考えてしどろもどろになる淑乃をよそに、れおなは気にしていないといった様子で受け流して答えを続けた。
「だってさ、恋愛しているのが男女だろうが、女同士だろうが、そんなことは宇宙レベルで見たら誤差じゃん」
「えっ! ……えぇ? うーん、そう……かしら……?」
れおなの突拍子もない言い回しに淑乃は面食らってしまっていた。
「あはは、今のはちょっと誇張表現。差別はよくないけど、区別が必要なときもあるし、『性別なんて誤差』って言いきれるものじゃないよね。でも、悩んで苦しんでいる人がいるならどーんと背中を押してあげたいでしょ?」
その言葉が、それを紡ぐれおなの真剣な目が、淑乃の心を揺さぶった。
(磐井さんがなんにも考えていない人だなんて勘違いしていたわたくしが愚かでしたわ……)
それ以来、淑乃がれおなを見る目は変わった。
部活でのれおなはいつも明るいムードメーカーだった。廊下ですれ違う彼女はクラスメイトと親しげに話していて、良好な友人関係を構築していることは想像に難くなかった。誰も見ていないときに喫茶室の掃除を行っていたこともあった。適当に書いているように見えた書記の議事録ノートを覗き込むと、中身は速記で埋められていた。そして期末試験の総合順位、れおなは学年一位だった。
(この人アホのふりをしているだけですわ!)
円滑な人間関係と穏やかな生活のために人知れず努力を積み重ねるれおなを見て、淑乃は尊敬の念を抱き、着実に惹かれていった。
(素敵な磐井さんに見合うわたくしにならなければいけませんわ)
れおなへの憧れは、淑乃の自己研鑽へ繋がっていた。
***
「――、シノはどう思う?」
レオから話を振られて、シノは回顧から目の前の状況へ意識を戻した。
「え? あ、すみません、聞いていませんでした……」
「しょ~がにゃいからレオさんがもう一回話してあげよう。あのね、シノってどんな人がタイプ?」
「タイプって……お付き合いしたい方のタイプ、ってことですか?」
「そう! 男装喫茶には『理想の彼氏とお喋りしているみたいな体験』を求める人も居るから。参考までに聞かせてよ」
レオはにっと笑ってシノの答えを待つ。
(磐井さんはわたくしの気持ちに気づいているのかしら……賢い磐井さんのことですから、見抜かれていてもおかしくはありませんわ。好きな方のタイプって聞かれたら磐井さんってことになってしまいますけど、それを答えたところで……磐井さんを困らせてしまうだけかもしれませんし……)
シノはうんうんと唸って散々迷った挙句、気恥ずかしげに絞り出した。
「……何事にも一生懸命で、頑張り屋な方……でしょうか……」
それは紛れもなく磐井れおなのことを指していた。しかし、背後ではナナがシノの発言に耳をそばだてていた。
「そっかー……淑乃ちゃんがそう言うなら、あたしも頑張らないとかな?」
「え? 七夏、何か言った?」
ナナの小さな独り言を聞き逃し、ミカは訊ねた。しかしナナは拒むように首を横に振って追及を封じる。
「何も言ってないよ。何も、ね」
……
…………
……………………
「ねえ、知ってる? 廃教会の噂」
それは誰かの囁き。白いセーラー襟の肩を並べた少女たちは、帰路につきながら真偽不明の噂話に花を咲かせていた。
「それって、男装喫茶のこと?」
「あっダメダメ、その話は禁止って決まりでしょ。バレたら出禁になっちゃうよ?」
「そうだった。じゃあ、噂って何の話なの?」
夕焼けは学び舎を赤く染める。遠くでカラスが鳴いていた。
「あの廃教会の地下には、死体が埋められてるって話……」
元気よくれおなが部室に到着すると、水景、淑乃、樹里亜が先に準備を始めていた。
今日は土曜日で、一限と二限の後に部活動が行われる日だった。喫茶室の活動が休みの土曜日は、部室でのミーティングや練習を行われる決まりになっていた。
「磐井さん、お疲れ様です」
れおなを出迎える淑乃は既に着替え途中で、男物のシャツのボタンを留めている最中だった。
「およ? 川嶋さん、ちょっと袖口見~せて?」
れおなはさっと淑乃の左手を取り、シャツの袖口を確認する。
「やっぱり! ボタン、取れかかってるね。ささっと直してあげるからじっとしててね~」
そう言ってれおなは鞄の中から裁縫セットを取り出し、手際よくボタンを縫い付ける。
「で~きた!」
「ありがとうございます、磐井さん。磐井さんにはいつもお世話になっていますわね。この男装姿の衣装一式、磐井さんが用意してくださっているんですもの」
「それは磐井のおうちが洋品店だからだよ~。ていうか、それ言い出したら紅茶や食器を用意してくれているのは川嶋さんでしょ?」
「我が川嶋紅茶のプロモーションも兼ねていますから、礼には及びませんわ」
れおなと淑乃が互いに褒め合っている横で、手持ち無沙汰な樹里亜は水景に小声で話しかけた。
「波止場先輩、川嶋先輩のおうちってあの有名な川嶋紅茶ですか? 海外の高級ブランド紅茶の輸入と、自社生産・販売をしているっていう……」
「そうだよ、そりゃお金持ちなわけだよね。それでれおなちゃんのおうちの磐井洋品店は、清花と提携して制服のお直しをやってくれているお店なんだ。淑乃ちゃんとれおなちゃんのおかげで男装喫茶部は成り立っていると言っても過言ではないね」
「なるほど……そうなんですね」
「それから忘れちゃいけない陰の功労者は、なんといっても七夏だよ! 七夏が生徒会と男装喫茶部を兼任してくれているからこそ、予算や都合の悪い隠し事のもみ消しをしてもらえているんだ。これは部活存続のためにもかなり重要なことだよ」
「ふぅん……」
水景が自分の功績かのように声高に自慢していると、樹里亜は沈んだ様子で適当な返事をする。
「じゃあ俺たちも着替えちゃおっか」
樹里亜の様子には気づかず、水景はセーラー襟の制服を脱ぎ始める。ジャケットを脱ぎ、スカートの下に先にスラックスを履いてからスカートを脱ぎ、次にブラウスの胸元に結んだリボンを解こうとした時……唐突に、樹里亜は切り出した。
「波止場先輩、『リボンの誓い』って知ってますか?」
「……え?」
解けかけたリボンにかけた手を離し、水景は樹里亜に聞き返す。樹里亜は続けた。
「愛し合う二人は、互いの制服のリボンを贈り合う。そういう愛の誓いの儀式だそうです。……わたしに、波止場先輩のリボン、貰えませんか?」
樹里亜はゆっくりと水景のリボンに手を伸ばす。背後では、「わお」「まあ!」というれおなと淑乃の反応が聞こえていた。
「だ……」
水景は声をふり絞る。そして、樹里亜の手を払いのけた。あまりに強い拒絶に、樹里亜は呆然とする。
「……ダメだよ。これは、俺の大切なものだから……」
水景の目は、笑っていなかった。そんな彼女に、樹里亜はなんとか言葉を返す。
「そう……ですか……」
途端に部室の空気は重くなる。深刻な状況を知ってか知らずか、タイミング悪く七夏が部屋の中へ入ってきた。
「ごめんねぇ、生徒会に顔出してたら遅くなっちゃった~。……あら?」
たった今到着したばかりの七夏には状況が分からない。ただ、無音の部室に何らかの深刻な様子は見て取れたようで、何を言えばいいのか困っている。
(ど、どうしましょう……! わたくしにこの状況を打開できる策があれば……!)
焦る淑乃の横で影が動いた。れおなだ。
(い、磐井さん? いくらあなたがムードメーカーだと言ってもこんな深刻な空気はどうにもできないのではなくて……?)
れおなはまっすぐ樹里亜の元へ近づき、彼女の制服を脱がしにかかる。
「わーっ! 磐井さんあなたなにしてらっしゃるの⁉」
れおなは目にもとまらぬ速さで樹里亜を男装の衣装に着替えさせ、長い黒髪をまとめてウィッグを被せる。
「はい、完成!」
男装姿の樹里亜――ジュリは、首を回して大きく息をつく。
「……んぁ? なんだよ、俺の出番?」
樹里亜の普段のおどおどとした態度は消え去り、低い声で誰に聞くともなくそう言った。正面に立っているれおなは、シークレットブーツの差で背が高くなったジュリを見上げ、人差し指を立てながら説明する。
「今日は土曜日、つまりミーティングと練習の日です! ジュリくんファイト~。そんじゃ後のことは部長のミカ先輩に聞いてね!」
「……分かった」
れおなはそれだけ説明してジュリの前から離れ、自身の着替えを始める。
「磐井さん、どうやったんですの?」
淑乃は髪をまとめながられおなに小声で訊ねる。
「あの失意の白砂さんのテンションを戻すなんて……! なにか催眠術でもかけたのではなくて?」
「あたしもどうやったのか知りた~い」
七夏も着替えながら会話の輪に入る。
「催眠術とかじゃないよ~。私がなにかしたんじゃなくて、あれは白砂さんの性質だよ」
「どういうことですの?」
「白砂さんは、男装姿になると人格が切り替わるんだよ」
「えっ⁉ そうでしたの⁉ ってそれいわゆる二重人格ってやつですの⁉」
「分かりやすく言うとそんな感じみたいだよ」
「確かに白砂さんは男装モードでは振る舞いが変わる方だとは思っていましたが……。二重人格の方が現実にいらっしゃるなんて……驚きですわ」
淑乃はにわかには信じられないといった様子で頭を振る。
「でもそれ分かるなぁ。芸能人でも『役を降ろすタイプ』……いわゆる憑依型の役者さんって、まるで別人みたいな役に入って、前後の記憶があやふやになっちゃうタイプの人も居るし」
「夜半月先輩が言うと説得力ありますわ……」
「それと似た感じで、白砂さんは普段の服装から男装姿に着替えると、人格が切り替わって『ジュリくん』になるみたい。磐井は採寸の時に気づいたんだけどね。ちなみに『ジュリくん』も『白砂さん』もお互いの人格のことはあんまり把握してないみたいだよ」
「だから白砂さんの落ち込んでいる精神状態をジュリくんは引き継がなかったのですわね」
「そゆこと」
お喋りをしながら着替え終わり、ミカの召集で男装姿になった五人の部員は一所に集合する。
「では本日の部活動を始めます! クリスマスミサの主役狙い企画は結局ボツになりましたが、日々の部活動のクオリティアップのために練習は欠かせません。ということでまずはサーブの訓練ね! 俺と同期の七夏は耳タコかもしれないけど、みんなでチェックしよう」
水景の指示により、ミカ、ナナ、シノ、レオ、ジュリの順に紅茶のサーブを行う。本番と違って焼き菓子の差し入れはないので、練習用のお茶請けとして小さなチョコレートが用意されていた。
「ナナ、砂時計が落ち切ってないよ」
「はいはい~。ミカくんは他人に厳しいですねぇ」
「俺はナナのためを思って……」
「レオさん、お上手です! いつ練習したんですか?」
「シノくんに褒めてもらえると自信がつくよ~! 最近おうちで夕食後に紅茶を入れてるんだよね。お父さんもお母さんも川嶋紅茶は格別って喜んでたよ!」
「ふふ、よかったです。でも、ご両親は磐……、レオさんが入れてくれることが嬉しいのでしょう?」
「なーなーレオ先輩、俺は俺は~?」
シノとレオが交代でサーブ係、お客様役を演じているとジュリがレオに絡んでくる。
「じゃあ次はジュリの番ね! レオさんがお客様役やってあげるから、心してかかってきなさい」
レオがお客様席に座ると、ジュリはいそいそと準備を始める。
「レオさんったら、いつの間にジュリさんの手綱握ったんです?」
シノが小声で話しかけると、レオも耳打ちで答える。
「手綱とかそんな大層なことじゃないよ。シノもジュリのサーブしっかりチェックしてあげて。紅茶部で一番紅茶に詳しいのはシノなんだから」
「それはいいですけれど……」
(ジュリさんばっかり磐井さんに構われていてずるいですわ。わたくしの方が磐井さんに相応しい人間ですのに……)
淑乃は内心で不服に思いながらジュリの練習風景を眺める。
「じゃーん! できたよレオ先輩~。上手だろ?」
ジュリはティーカップをソーサーに載せてサーブし、レオは熱い紅茶に口をつける。
「うん、いい香り。上手にできてる!」
「だろだろ~? もっと褒めて!」
「えらいえらい~」
レオは少し身をかがめて頭を差し出すジュリを撫でる。
(あっ! ジュリさんったら磐井さんに頭なでなでされてますわ! わたくしだってしていただいたことないのに! わたくしも磐井さんに頭なでなでされたいですわ!)
人知れず淑乃が対抗心を燃やしていると、レオは突然切り出した。
「では優秀なジュリに問題です。この紅茶の名前は?」
「え? アールグレイだろ?」
「ジュリはなぜアールグレイを選んだの? 他の茶葉も並んでいたでしょ?」
アッサムとダージリンの缶に視線を送りながら繰り出されるレオの問いかけに、ジュリは口ごもる。
「……レオ先輩がさっき自分の番でアールグレイを使っていたから……」
「俺のを見て真似してくれたんだ? 後輩のお手本として気が抜けないな~」
「な、なんだよそれ! 今の質問の意図を教えろよ!」
ジュリは照れ隠しに声を荒げながら問う。
「アールグレイは柑橘系の香りづけがされているだろ? さっぱりとした柑橘系の風味はチョコレートと合うんだよ。俺がアールグレイを選んだのはそれが理由」
レオは添えられたチョコレートの包みを指しながら答えた。
「あっ……そうか、レオ先輩は食べ物との組み合わせを考えて選んでいたんだ……」
「フードペアリングですね?」
シノが口を挟むと、レオは大きく頷いた。
「これ以上俺から喋るのは恥ずかしいな、シノの方が詳しいから。ジュリはこれからも上手になると思うから、また色々覚えてくれるといいな」
「はい、レオ先輩。勉強になるっす」
素直にレオの話を聞いているジュリを横目に、シノはほくそ笑んでいた。
(ふふ、まだまだですわねジュリさん。わたくしの方が上手ですわ)
ジュリは言われたことをメモに取ったのち、レオに質問を投げかけた。
「ところでレオ先輩。紅茶の技術方面だけじゃなく、接客も大事だよな?」
「勿論」
「レオ先輩的に、理想の接客ってどんな感じ?」
「難しいこと聞くね! お客様が男装喫茶に望んでいるものによって違ってくるから、唯一の模範解答はこれ! って答えるのは難しいな~」
「恋人みたいに接してほしいって方もいらっしゃれば、お悩み相談やただの雑談をご所望の方も居ますしね……」
シノは自分で言いながらふと想像する。
(磐井さんは、喫茶業務でお客様に恋人のように接することがあるのでしょうか)
自分の知らない顔を来客には見せているのではないか、と考え始めると不安は募る。
(そもそもわたくしは磐井さんのことを全然知りませんわ……)
淑乃がれおなに好意を寄せるようになったのはちょうど一年前のある出来事からだった。
***
淑乃は高等部に進級するとともに、紅茶部へ入部した。それは家柄に基づく紅茶への興味と、家から離れる時間を持つためという理由からだった。
帰宅すれば綿密なお稽古事のスケジュールに追われる淑乃は、放課後の部活動に心の安寧を求めた。
当時まだ部員が足りず紅茶研究会を名乗っていた集まりに加入すると、その実態は男装喫茶であった。紹介と実態が食い違っていることに反発する淑乃だったが、すんなりと受け入れた者も居た。それは同時に加入した磐井れおなという少女だった。
「よく分かんないけど面白そうですね! 磐井も頑張ります!」
隣で明るく笑うれおなを見た淑乃の最初の感想は、「お気楽そうな子ですこと」といったものだった。
(きっとこの人は、わたくしのように家柄で生き方を縛られることなんて経験したこともないのでしょうね)
はっきり言って、淑乃はれおなを見下していた。紅茶研究会ならぬ男装喫茶部での活動が始まってからも、れおなはミーティングのたびに冗談を言っては水景と七夏の笑いを取っていた。書記に就任した彼女は、さらさらと議事録ノートに適当な字のようなものを書いていた。そういった軽そうな挙動を見て、淑乃はこう思い込んでいた――磐井さんってアホなんですのね――と。
その認識を改めたのが、紅茶部として参加する初めての文化祭だった。
表向き紅茶部である男装喫茶部が学校の公式行事に男装姿で催し物を行うわけにはいかなかったので、制服にエプロン姿で喫茶店を出店していた。
ピークタイムを過ぎて店内が落ち着いたころ、一人の見知らぬ少女が恐る恐るやってきて注文を済ませ、ある悩み事を打ち明けた。どのようにして尾ひれがついたのか定かではないが、噂話が広まるうちに「紅茶部の模擬店ではお悩み相談を受け付けているらしい」という説が流れ、彼女は紅茶部へ訪れたようだった。
「私、女の子が好きみたいなんです。ずっと仲の良かった友達……女の子の友達が、かわいく見えて仕方なくて。その子のことが好きになっちゃったんです。でも、恋愛って普通は男女でするものなんですよね? 私って変なんでしょうか」
水景と七夏と淑乃は上手に答えられずに黙っていた。そこへ食器洗いを済ませたれおなが現れ、悩める少女の前に座った。
「貴方、お花は好き?」
唐突な質問に戸惑いながら少女は答える。
「え? はい、好きですけど……」
「じゃあ、キラキラしたアクセサリーは?」
「まあ、好きですね」
「そっか。女の子は、そういうものが好きな人が多いよね。勿論そうじゃない女の子も居るし、お花や宝石が好きな男の子も居るけどね」
悩める少女はれおなの話の意図をはかりかねて首を傾げる。れおなは続けた。
「女の子が『かわいいもの』を好きって気持ちは、結構多くの人が持っているし、それは変なことだって言われたりしないよね。だからね、女の子が女の子のことを『かわいいな、好きだな』って感じることは、全然変なことじゃないよ」
「……! そっか……。そうかもしれないです」
れおなの話を聞いた少女はぱっと明るい顔になり、頷いた。
「お話、聞いてくださってありがとうございました」
少女は晴れやかな表情で去っていった。水景と七夏はほっとした様子で雑務に戻っていく。
空になったティーカップを下げつつ、淑乃はれおなに話しかけた。
「磐井さんがお悩み相談なんて、わたくしびっくりしましたわ」
「それ磐井がなんも考えてない人間に見えてるってことかにゃ~?」
「うっ……」
墓穴だった。言い訳を考えてしどろもどろになる淑乃をよそに、れおなは気にしていないといった様子で受け流して答えを続けた。
「だってさ、恋愛しているのが男女だろうが、女同士だろうが、そんなことは宇宙レベルで見たら誤差じゃん」
「えっ! ……えぇ? うーん、そう……かしら……?」
れおなの突拍子もない言い回しに淑乃は面食らってしまっていた。
「あはは、今のはちょっと誇張表現。差別はよくないけど、区別が必要なときもあるし、『性別なんて誤差』って言いきれるものじゃないよね。でも、悩んで苦しんでいる人がいるならどーんと背中を押してあげたいでしょ?」
その言葉が、それを紡ぐれおなの真剣な目が、淑乃の心を揺さぶった。
(磐井さんがなんにも考えていない人だなんて勘違いしていたわたくしが愚かでしたわ……)
それ以来、淑乃がれおなを見る目は変わった。
部活でのれおなはいつも明るいムードメーカーだった。廊下ですれ違う彼女はクラスメイトと親しげに話していて、良好な友人関係を構築していることは想像に難くなかった。誰も見ていないときに喫茶室の掃除を行っていたこともあった。適当に書いているように見えた書記の議事録ノートを覗き込むと、中身は速記で埋められていた。そして期末試験の総合順位、れおなは学年一位だった。
(この人アホのふりをしているだけですわ!)
円滑な人間関係と穏やかな生活のために人知れず努力を積み重ねるれおなを見て、淑乃は尊敬の念を抱き、着実に惹かれていった。
(素敵な磐井さんに見合うわたくしにならなければいけませんわ)
れおなへの憧れは、淑乃の自己研鑽へ繋がっていた。
***
「――、シノはどう思う?」
レオから話を振られて、シノは回顧から目の前の状況へ意識を戻した。
「え? あ、すみません、聞いていませんでした……」
「しょ~がにゃいからレオさんがもう一回話してあげよう。あのね、シノってどんな人がタイプ?」
「タイプって……お付き合いしたい方のタイプ、ってことですか?」
「そう! 男装喫茶には『理想の彼氏とお喋りしているみたいな体験』を求める人も居るから。参考までに聞かせてよ」
レオはにっと笑ってシノの答えを待つ。
(磐井さんはわたくしの気持ちに気づいているのかしら……賢い磐井さんのことですから、見抜かれていてもおかしくはありませんわ。好きな方のタイプって聞かれたら磐井さんってことになってしまいますけど、それを答えたところで……磐井さんを困らせてしまうだけかもしれませんし……)
シノはうんうんと唸って散々迷った挙句、気恥ずかしげに絞り出した。
「……何事にも一生懸命で、頑張り屋な方……でしょうか……」
それは紛れもなく磐井れおなのことを指していた。しかし、背後ではナナがシノの発言に耳をそばだてていた。
「そっかー……淑乃ちゃんがそう言うなら、あたしも頑張らないとかな?」
「え? 七夏、何か言った?」
ナナの小さな独り言を聞き逃し、ミカは訊ねた。しかしナナは拒むように首を横に振って追及を封じる。
「何も言ってないよ。何も、ね」
……
…………
……………………
「ねえ、知ってる? 廃教会の噂」
それは誰かの囁き。白いセーラー襟の肩を並べた少女たちは、帰路につきながら真偽不明の噂話に花を咲かせていた。
「それって、男装喫茶のこと?」
「あっダメダメ、その話は禁止って決まりでしょ。バレたら出禁になっちゃうよ?」
「そうだった。じゃあ、噂って何の話なの?」
夕焼けは学び舎を赤く染める。遠くでカラスが鳴いていた。
「あの廃教会の地下には、死体が埋められてるって話……」