それは地面を叩き付けるほどの強い雨が降る日のことだった。
 泥濘始める道を一人の少女が駆け抜ける。
 (いけない、これ以上酷くなる前に帰らないと)
 視界が悪くなる中、山菜が入った籠をしっかりと抱える。
 額や頬にべたりと張り付く髪の毛が気持ち悪いが、今は気にしていられない。
 真っ黒な雨雲からして雷が発生しても全くおかしくないのだ。
 とある村に住む少女、日女は十八歳。
 幼い頃に病で両親を亡くした彼女は天涯孤独だった。
 家も他の集落から少し離れた場所にあるため、頼れる人がほとんどいない。
 両親が残してくれた小さな畑とこうして山で山菜採りをして何とか食料を確保している状態だ。
 今日もこうして採りに来ていたのだが、天気が急変して急いで山を下りようしているわけだ。
 しかし日女の頑張りも虚しく、着物に雨が染み込んで重くなり、草履は泥で茶色に染まっている。
 「はぁ、はぁ……」
 息を切らしながら緩やかな曲線の道にさしかかったところで、右足がずるりと泥で滑った。
 「わっ!」
 何とか左足に重心を置き、身体を支えようとするが言うことを聞かず、全身がぐらりと傾く。
 ただ、道に転ぶだけならまだ良いのだが滑った場所がいけなかった。
 日女が傾いた先は地面ではなく、崖下だった。
 瞬時に山菜が入っている籠を手放し、何かに掴めないかと腕を伸ばすが、空を掴む。
 「きゃあっ!」
 自分は死んでしまうのだろうとか、もしかして運よく茂みに落ちるかもしれないとか、それすらも考えられなかった。
 ただ、身体が勢いよく下に落ちていく感覚だけ。
 「……っ」
 最初に自分がいた場所から視界がどんどん離れていき、何となく死を察して目を閉じた時。
 地面まであと少しの高さで、ふわりとした柔らかな風が日女の身体を包んだ。
 (え……)
 困惑している間にゆっくりと落ちていき、やがて静かに着地した。
 痛さなど微塵も感じず、気がついたときには既に横になっていた。
 手のひらを空にかざしながら出血していないか確認するが見当たらない。
 どこも怪我をしていないのは奇跡だ。
 「わたしは一体……」
 夢でも見ているのだろうかと思ったが、冷たい雨と手に付着したゆるりとした泥が現実であると実感させられる。
 身に起きた状況を飲み込めないまま、上半身を起こす。
 すると次の瞬間、落ち葉が舞い上がるほどの突風が吹きつける。
 目を開けていられないほどで、咄嗟に腕で顔を隠す。
 (強い風……!本格的に荒れてきたのかな)
 日女もよく山に来ているが、このような天候を体験するのは初めてだ。
 山に登る前から、少し怪しい気配は感じていたが、どうしても食欲には勝てなかった。
 昨夜から何も口にしていなかったので我慢の限界だったというのもある。
 こんなことになるのだったらやはり諦めるべきだった。
 困惑やら後悔やらで頭が混乱している間に風がぴたりと止む。
 (止んだみたい)
 そっと目を開けて息を吐くと、視界の先に一人の男性が立っていることに気がつく。
 「えっ!?」
 心臓がばくっと大きく鳴る。
 先ほどまで人っ子ひとりいなかったはずなのに、いつの間にか他人が現れたことに驚き、反響するほどの声が出てしまった。
 相手もさぞかし大声に驚くかと思ったが、精悍さは崩れないまま。
 (あれ、この人の瞳の色……)
 違和感を覚えた。
 何故なら、日女や村民と同じ黒色ではなく、椿の花のような真紅だから。
 加えて圧倒的な美貌。
 『黒髪に真紅の瞳をもつ者は──』
 いつかの村民達の噂話が思い起こされる。
 山には何百年も前から妖域という場所に世にも恐ろしいあやかしが棲んでいると。
 「貴方はもしかして、鬼?」
 気づけば日女は疑問を口にしていた。
 「そうだ。人間よ、殺されたくなければここからさっさと立ち去れ」
 鋭い眼差しと声はまるで氷のように冷たい。
 鬼と名乗る彼の後ろには巨大な二本の樹木があり、しめ縄が結ばれている。
 日女が落ちたのは妖域の入り口だったのだ。
 (もしかしてわたしを助けてくれたのは)
 鬼ならば不思議な力を使えてもおかしくはない。
 彼が近くにいたのだとしたら、その可能性は十分。
 ぼうっとしている彼女に苛立ったのか、さらに鬼は眉をつり上げた。
 「聞こえなかったか?今すぐ、俺の視界から消えろ」
 「は、はい……!」
 これ以上、居座ると本当に命を狙われてしまうと危機感を覚えた日女は彼に背を向け、全速力で山道を下って行った。

 風を切りながら、細く泥濘んでいる道を駆け抜けて行く。
 時々、伸びている枝が擦れて小さな痛みを感じるが今は気にしていられない。
 足元をとられながらも決して止まらずに進み続けた。
 道が開けると見慣れた村の景色が飛び込んでくる。
 時間帯もあってか、のどかな田畑には村民はいない。
 心底安心した。
 こんな汚れた姿を見られては、怪しまれるから。
 乱れた呼吸を整えながら、雲に覆われた空を見上げる。
 どうやら、雨は止んでいたようで真っ黒さから灰色へと変化していた。
 こうして日女が村へ戻ってくれたのも鬼である彼のおかげだ。
 あれがあやかしの力だとしたならば。
 (つい圧倒されて逃げてきちゃったけど、一言お礼ぐらい言いたかったな)
 あんな風に突き放されては仕方ないのだけれど、命の恩人だということには変わりない。
 そっと振り返り、走ってきた山道を見る。
 追いかけてきているような気配もなく、ただ泥濘みに自分の足跡があるだけ。
 (噂ではあやかしは恐ろしいって聞いていたけど、本当は違うのかもしれない)
 「……くしゅんっ」
 雨と泥で身体が冷えたのだろう。
 温い風でさえ、寒気を増幅させた。
 (風邪をひいたら大変。早く帰らなくちゃ)
 日女は踵を返すと足早に帰路へついたのだった。

 翌日。
 早めに着替えたおかげか、何とか風邪を免れた日女は戸を開けて庭へと出る。
 「いい天気……」
 一晩で昨日の荒れた天候が回復したようだ。
 雲一つない青空が広がり、清々しい。
 「これなら今日は天気の心配はなさそう」
 そう呟くと日女は両端に草花が生える道を歩き出した。
 目的地である山へ向かって。
 昨日の記憶を辿りながら山道を登っていく。
 急いでいたせいか道順が曖昧なところはあるが直感で歩みを進める。
 直感は当たる方だと自負している日女は謎の自信があった。
 「えっと、確かこの道を……」
 すると巨大な樹木が彼女の前に現れる。
 そこにしめ縄が結ばれているということは妖域の入り口である証。
 目的地に到着して安堵した途端、またも突風が吹きつける。
 (昨日と同じ風……!)
 気を緩めれば、すぐに飛ばされそうなほど強い。
 足に力を加えて堪えると、徐々に弱まりやがて止んだ。
 パッと入り口に視線を向けると、昨日に会った鬼の男が立っていた。
 殺気立つ彼とは対称的に日女は顔をほころばせる。
 「お前、何故ここへ来た。それほどまでに死にたいのか?」
 鬼は片手に鬼火を出して追い払おうとするが、それに屈しては目的が果たせない。
 違うという意味を込めて日女は首を横に振った。
 「貴方に会いにきたの!」
 「は?」
 眉間に皺を寄せる彼に一歩近づく。
 それに警戒したのか、鬼火がより一層激しく燃えた。
 「昨日、わたしを助けてくれたのは貴方でしょう?」
 「……妖域の前で死なれては迷惑だったからだ」
 視線を逸らし答える彼に日女は腑に落ちる。
 (やっぱりそうだったんだ)
 「助けてくれて本当にありがとう。貴方がいなければわたしは確実に死んでいたから」
 お礼を言いながら深く頭を下げる日女に鬼は目を見開く。
 少しの間を空けて凛とした声が耳に届いた。
 「お前はあやかしに礼を言うのか。忌み嫌う相手に」
 顔をあげると表情は冷徹さを残したままだったが、鬼火は消えていた。
 対話が出来ていることに嬉しさを感じて、日女は胸の内を明かした。
 「わたしはあやかしを嫌っていないよ。だって貴方達は人間に何も危害は加えていないでしょう?勝手に人間側が恐れているだけで」
 「俺はお前を殺すと脅したのだぞ」
 「本当にそう思っているのだとしたら、あの時わたしを見捨てたはず。貴方と別れてから考えたの。あやかしは恐い存在じゃない、本当は優しいんだって」
 崖から落ちた日女を包んだあの柔らかな風。
 信じてみたかった、あれは氷のような彼に潜む優しさなのではと。
 しかし、その言葉を聞いて鬼は不快さを露わにした。
 「俺が優しい?戯れ言を」
 「戯れ言なんかじゃない。貴方がどう思っていてもわたしはすごく嬉しかったから。相手が嬉しくなれば、それはもう優しさなんだよ」
 黒曜石のような目を細め、朗らかに笑みを浮かべる日女。
 一瞬だけ真紅の瞳が揺れたような気がしたが顔を背けられてそれ以上は覗えない。
 「……違う、俺は」
 『頭領さま?』
 否定しようした彼の声と重なるように茂みがガサリと動いたかと思えば、小さな動物が顔を出した。
 狐のように見えたが、野生以上の艶めく毛並みと額には輝く石が付いていて、すぐにあやかしだと分かった。
 その後ろには小鳥や幼い女の子など複数いて、こちらを目新しそうにしている。
 『頭領さまが人間と話してる』
 『どういうこと?人間は悪者じゃないの?』
 互いの顔を見合わせながら、こそこそと話しているが、全て筒抜けだ。
 しかし、その姿が何とも愛らしく、日女の心をくすぐった。
 「可愛い……!」
 頬を紅潮させ、目を輝かせる日女をぎろりと睨む。
 しかし小妖達に夢中になっている彼女は全く気づかない。
 呆れたように、ため息をつくと今度は茂みへと視線を向けた。
 「小妖達、入り口には近づくなとあれほど言っただろう」
 『だって、頭領さまがかくりよに赴く以外で屋敷から出るの珍しいから』
 『それが二日も続けば気になります』
 『その人間の娘はどうして頭領さまとお話しているのですか?』
 『もしや、妖域を襲撃しに来たのですか!?』
 「襲撃……!?絶対そんなことしないよ!わたしは、このひとにお礼を言いに来たの」
 『お礼?』
 紅葉色の着物を身に纏い、おかっぱ頭の女の子が首を傾げる。
 五、六歳といった年齢だろうか。
 人間のようにも見えるが、小妖と呼ばれていたので恐らく座敷わらしの類いだろう。
 「うん。昨日、そこの崖から落ちたところを助けてもらったの」
 『頭領さまが!?』
 衝撃の事実だったのか、全員が目を丸くしている。
 注目の的になったのがそれほど嫌なのか、またもや険しい顔つきになる。
 「おい、余計なことを言うな」
 「余計じゃないよ。人助けなんて素晴らしいし誇ってもいいと思う」
 『あの頭領さまに人間が意見している……』
 『何という度胸なの』
 あやかしを統べる鬼に負けじと立ち向かう日女に小妖達は感嘆の声を漏らす。
 尊敬にも近い目つきに変わったのを鬼は見逃さなかった。
 「もう話すことはない。今すぐ帰れ。小妖達もだ」
 「あのっ!わたし、もっと貴方や小妖達とお話したい!あやかしのことを知りたいの」
 「しつこい。知ったところでどうせ情報を他の人間へ売るのだろう」
 「売ったりしないよ。出来るならあやかしと仲良くなりたい。人間のことも誤解されたままは嫌だから」
 「仲良くなってどうする」
 「きっと毎日が色づいて楽しくなるよ」
 「……!」
 日差しに照らされ、花笑みを浮かべながら答える日女に鬼は僅かに目を見開いた。
 小妖達も彼女が害をなす者ではないと判断したのか、完全に茂みから出て近づいてきた。
 興味深そうに見て話をしてみたいのか、うずうずしている。
 しかし鬼は小さく鼻を鳴らすとそっぽを向いてしまう。
 「俺には必要ない」
 「きっと貴方にとって小妖達が家族なんだね」
 「お前にも両親がいれば十分のはずだろう」
 「……いないの」
 寂しさに満ちる声。
 その場にいる誰もが気づいた。
 彼女は感情を必死に押し隠し、無理しているのだと。
 『いないって?』
 『お、おい!』
 首を傾げながら純粋な眼差しを向ける座敷わらしに他の小妖が指摘する。
 家族がいないという意味を理解して、気を遣ったのだろう。
 その優しさが伝わって胸がじんわりと温かくなる。
 「ありがとう、でも大丈夫だよ。……わたしの両親は十年以上前に流行病で亡くなったの。奇跡的にわたしは感染しなくて生き残ったんだ」
 『あ……。ご、ごめんなさい』
 座敷わらしが申し訳なさそうに眉を下げて着物をぎゅっと握りしめた。
 こんな小さな子に謝罪させるなんて、色々と話しすぎてしまったかと反省する。
 日女は膝を曲げて目線を合わせた。
 「ううん、わたしの方こそ気を遣わせてごめんね」
 『君は一人で寂しくないの?』
 座敷わらしの隣にいた猫又が二本の尻尾を左右にゆらゆらと揺らしながら問いかける。
 日女は上を向き、澄み切った空と流れる雲を見つめながら答えた。
 「少し、寂しいかな。でもお父さんもお母さんもきっと空の上から見守ってくれているから、一人でも頑張ろうって思うの」
 初めて他者に明かした気持ち。
 それも、相手が人間ではないあやかしとは。
 小妖達とのやり取りを鬼も口を挟まずに静観してくれていた。
 きっと彼らと出会えたのも特別な縁なのだと思うけれど、もうこれ以上長居は出来ない。
 「わたし、もう帰るね」
 『えっ』
 「わたしのわがままで貴方達を困らせたくないから。ただこれだけは覚えておいてほしい。人間には、あやかしが好きな人もいるってことを」
 そう言うと日女は小妖達に手を振る。
 そして鬼に会釈をして彼らに背を向けて歩き出す。
 (仲良くはなれなかったけれど、あやかしにはあやかしの環境と想いがあるから……。それを無理矢理壊すわけにもいかないよね)
 特に人間を毛嫌いしていた鬼のためにも、早く去った方が良いと思った日女は足を前へ前へと出す。
 「待て」
 低く凛とした声がはっきりと聞こえ、身体がぴたりと止まる。
 急いでいたせいか、若干前のめりになるが何とか持ち堪えた。
 ぱっと振り返ると鬼がこちらを見つめている。
 「あの……?」
 やはり、迷惑をかけて相当怒っているのかもしれないとおそるおそる伺う。
 鬼はため息を一つ吐くと、口を開いた。
 「少しだけなら構わない」
 「え?」
 「小妖達が悲しそうにしているからお前を話相手くらいにはしてやっても良い」
 「ほ、本当!?」
 「ただし、下手な真似をしたら容赦はしないからな」
 「うん!」
 『お姉ちゃんともっとお話出来るの?』
 『僕、一緒に遊びたい!』
 鬼が許可を出したとたん、小妖達が日女へと我先にと駆け寄ってくる。
 あっという間に囲まれて身動きがとれない。
 その勢いに少し驚いたが、初めて味わう賑やかさに笑みがこぼれた。
 「ふふっ。何して遊ぼうか」
 監視の意味を込めてなのだろう、鬼は木に背をあずけてその様子を見ていた。
 ──これが村娘の日女と鬼との出逢いである。
 大きく運命を変えることを、この時は誰も知らなかった。

 その日を境に日女は、毎日のように妖域へ来ていた。
 最初は鬼に『少しだけと言っただろう』『明日は来るな』などと言われたが、それに反対する小妖達のおかげもあって来られている。
 彼女を拒絶すれば今度は彼らが村に下りかねないと鬼は判断したらしく、しぶしぶ認めたのだ。
 それでもまだ警戒しているのか、監視の目を緩めることはない。
 今日も小妖達と追いかけっこをして遊ぶ彼女を真剣な目つきで見ている。
 『日女ー!早く、早く!』
 『次は日女が私達を追いかける番だよ!』
 「ちょ、ちょっと待って。皆は足が速いね……」
 つかまえる番と逃げる番を交代しながら遊んでいるのだが、何せ相手はあやかし。
 足の早さと体力には自信があった日女も、すぐにつかまってしまい、追いかけるとしてもなかなか距離が縮まらない。
 乱れた呼吸を整えると一本の木を指し示した。
 「あそこで少しだけ休憩してきてもいい?」
 『分かった!』
 『じゃあ日女が戻ってくるまで隠れんぼしよう!』
 (皆、元気いっぱいだな)
 再び、駆けていく小妖達を微笑ましく思いながら木陰へ移動する。
 「ふぅ……」
 「何故、隣に来る」
 すでにそこには鬼がいて、休みに来た日女を見て訝しげだ。
 「だって他の場所と比べて風がよく届きそうだから。それに貴方とも話せると思ったの」
 普段は話しかけようとしても、避けられてしまうが今日は場を離れようとしなかった。
 ささいなことでも、それが日女にとって大きな一歩でもある。
 鬼は視線を小妖達に向けたままで、彼女との会話を続けようとしなかった。
 元々、口数が多い方ではないので、それに慣れた日女は無言の時間が逆に心地良かったりもする。
 時折吹く風が火照った身体を撫でて気持ち良い。
 目を瞑ると聞こえるのは、小妖達の楽しげな声と木々が揺れる音のみ。
 そっと目を開けると隣に座る鬼へと視線を移す。
 「ねえ、貴方には名前が無いって本当?」
 出会った当初から名前を聞いても無視されていたのだが小妖達に尋ねたところ、『頭領さまは頭領さまだよ』と答えていた。
 もしかすると、鬼は人間のように名前はなくて肩書きで呼ばれているのかもしれないと薄々勘づいていた。
 「……小妖達に聞いたのか」
 「うん」
 「まったく、あいつらは。余計なことを」
 「もし良ければ、わたしが貴方の名前を考えてもいい?」
 「は?」
 「えっとね、何がいいかな……」
 「おい、勝手に話を進めるな」
 鬼の制止も虚しく、『うーん』と唸りながら考え始める日女。
 こうなった彼女は誰にも止められない。
 鬼は諦めたのか、何度目か分からないため息をついた。
 しばらくして急に『あ!』と声を発した日女に一瞬、鬼は身体をぴくりと揺らした。
 彼が人間に対して少しでも不意を突かれてしまったことに若干悔しがっていたのを日女は知らない。
 「椿はどう?」
 「椿?」
 目を煌めかせながら、ぐいっと顔を近づいてきた日女に圧倒されて思わず鬼は聞き返していた。
 相手は鬼なのにまったく怖じ気づかない彼女は賞賛すべきである。
 名前に興味をもってくれていると勘違いした日女は名付けの意味を説明し始めた。
 「貴方と出会った時、その真紅の瞳が椿の花みたいで綺麗だなって思ったの。だから椿。どうかな?」
 期待の眼差しを向ける日女。
 よほど、その名前がしっくりきたのだろう。
 彼の返事を今か今かと心待ちにしているのが明らか。
 「もう何でもいい。好きに呼べ」
 「……!じゃあ、改めてよろしくね、椿!」
 「っ!」
 長い髪がふわりと風に揺れ、黒曜石のような瞳は嬉しそうに幸せそうに細められる。
 木漏れ日が白い肌を照らして、弧を描く唇は何とも美しい。
 嫌っていた人間に見蕩れてしまう自分に動揺して勢いよく立ち上がると足早にその場から離れていく。
 まるで逃げているようにも見えて日女も慌ててしまう。
 「椿、どこ行くの?」
 「……」
 監視をしない椿など初めてで、される側が困惑してしまう。
 まあ、誓って悪事を働くつもりはないので大丈夫なのだが。
 普段と様子が違う彼に首を傾げていると──。
 『日女、まだー?』
 遊んでいた小妖達が痺れを切らしたのか、こちらに大きく手を振って呼んでいる。
 「あ、今行くね!」
 ちらりと椿に視線を戻すと、彼の姿はもう無かった。
 あらかた、屋敷にでも戻ったのだろう。
 しっかり者の彼なら心配しなくても大丈夫だと思った日女は待ちわびている小妖達に向かって走り出した。
 そして日女は日を重ねるごとに椿への想いが特別なものに変わっていき、冷たい態度をとっていた椿も心の中で彼女の存在が大きくなっていった──。

 さらにそれから月日が流れたある日。
 妖域にはいつも賑やかな小妖達が不在だった。
 月に一度、彼らは現世とは反対の世界である、かくりよへと出向いて勉強会に参加するらしい。
 日女と遊びたいと出発直前まで駄々をこねていたが、椿に怒られて、しぶしぶ出掛けて行った。
 夕方には帰るらしく、それまでは椿と二人きり。
 日女は妖域内を散歩して、その後ろを椿が監視をしながらついてきた。
 それだけが理由じゃない、危なっかしい彼女を心配してくれているのだ。
 その優しさが彼に惹かれる理由でもある。
 募る想いが抑えられなくなった日女はふと足を止めて振り返った。
 「あのね、椿」
 「何だ」
 決して目を逸らさず、溢れるままに告げる。
 高鳴る胸を手でそっと抑えながら。
 「わたし、椿が好き」
 放たれた言葉が風に乗って椿へ届く。
 真紅の瞳が揺れたようにも見えたが、見間違いかと思うくらい、すぐに戻る。
 堂々として風格があり、本心が見えない表情へと。
 「お前が俺を?嘘をつくのなら、もっと上手くやれ」
 「嘘じゃないよ!わたしは本当に椿のことが……!」 
 「立場を分かっているのか?俺は鬼でお前は人間。住む世界が違う俺達がこうして会話をすることすら普通ならばあり得ないのだぞ」
 「種族の違いとか関係ない。わたしは椿自身が好きなの。言葉はきつくても、それが小妖達やわたしを守るための優しさなんだって気づいた。もっと椿を知りたい、傍にいたいって思ってる」
 種族の違いだけで終わってしまう恋なんて悲しすぎる。
 叶うのなら心から愛しているひとの隣にいたいのだ。
 「椿はわたしのこと、どう思ってる?」
 きっぱり『好きではない』と言ってくれたら諦めがつく。
 おそらく、しばらくは引きずるだろうけど、椿の本心を確かめずにはいられなかったのだ。
 「俺は……」
 軽く俯く椿。
 少し伸びた前髪が影をつくり、どこか迷いが感じられた。
 「俺は人間が嫌いだ。事実無根の話を作り上げ、我々あやかしを悪者にする。でもお前は違った」
 椿は顔を上げると、緊張した面持ちで話に耳を傾ける日女を見つめた。
 その瞳からは冷徹さが消えていて、代わりに熱が宿っていた。
 その熱視線に高鳴る鼓動は彼に聞こえてしまうのではと思うほど煩い。
 「小妖達だけでなく俺にもまっすぐ向き合ってくれた。お前の穢れを知らない透明な心が人間を拒絶していた俺を変えた。これからも近くで笑顔を見ていたい。でも」
 一旦、口を噤む彼にもしかしてと期待を抱いていた心がざわめく。
 「もし他の人間が俺達の関係を知れば、ただではおかない。お前に危害が及ぶ可能性もある。だから結ばれるわけには──」
 「椿」
 日女は彼の名前を呼ぶと、そっと歩み寄って抱きしめた。
 彼女の突然な行動に目を見開くが突き放そうとはしない。
 「わたしは椿が傍にいてくれたら恐いものなんて何もない。きっと何があっても大丈夫」
 細い腕が大きな身体を優しく包む。
 出会った頃の椿ならば、すぐさま振り払っただろう。
 しかし今は、顔を埋めて涙ぐんでいる日女にそのような真似は出来なかった。
 「あやかしと人間の恋なんて苦労するだけだぞ」
 「それでもいいよ。どんな困難も乗り越えてみせるから」
 顔を上げ、椿を見つめる日女の瞳は潤んでいる。
 こぼれ落ちそうになった涙を人差し指で拭うと安心させるように微笑んだ。
 「泣くな、涙よりお前の笑顔が見たい」
 「……!うん」
 初めて見る笑みと伝えられる愛の言葉が胸に響いて、しっかりと頷く。
 こうして人間の娘、日女とあやかしの頭領である椿は恋仲になったのだった。

 それから半年が経過した。
 日女が大好きな小妖達も椿との関係を知ってから二人を気遣うようになった。
 遊びたいのを我慢して椿との時間をつくってくれるのだ。
 嬉しい反面、彼らに寂しい思いをさせてしまっているのではと不安にもなる。
 妖域にある屋敷の縁側で椿と共に並んで座る日女は集まった小妖達に頭を下げた。
 「皆、前よりも遊べなくてごめんね」
 『謝らないで。日女と頭領さまが仲良しだと我らも嬉しい!』
 『うん!僕も二人を見てると心がぽかぽかするんだ。だからまた今度遊んで!』
 「……ありがとう。約束するよ」
 広い庭へ駆けていく様子を視線で追いながら、なんて良い子達なのだろうと感心する日女。
 まるで彼らの姉や母親になった気分だ。
 いや、小妖とはいえ日女よりずっと長い時を生きているので逆の立場だが。
 『日女さま、頭領さま。二人にこれを』
 一匹の妖狐が皆と共に行かず縁側に残り、口に咥えている物を二人の目の前に差し出す。
 「わぁ!綺麗な花だね」
 「カスミソウとこっちは……。珍しいな、桔梗の花も咲いていたとは」
 椿がこちらを覗き込んで教えてくれる。
 日女の手には白色と青紫色の可愛らしい花が二輪。
 妖域には特別な霊力が漂っているため、季節を問わずに様々な花が咲いているのだ。
 『二人がこの先も幸せであるよう、僭越ながら祈っています』
 「嬉しい!ありがとう」
 妖狐の頭を撫でると気持ちよさそうに瞳を閉じている。
 「お前は小妖の中でも霊力が強い。俺が留守にしている際は日女を頼んだぞ」
 『かしこまりました』
 妖狐は控えめな性格だが、努力家で霊力は飛び抜けて高い。
 それを椿は評価していて頼りにしているのだ。
 丁寧にお辞儀をすると庭で遊ぶ小妖達の輪へ向かって行く。
 ぴょんっと弾ませる足。
 嬉しさを隠せていないのが、また可愛らしい。
 くすりと小さく笑うと手に持つ花に視線を移した。
 「カスミソウは知っているけど、こっちの花は初めて見た」
 「俺も目にするのは久しい。確か桔梗の花にも意味があったな」
 「意味?」
 「ああ。確か──永遠の愛」
 「永遠の、愛……」
 椿からそんな情熱的な言葉が発せられるとは思わず、頬が一気に熱くなる。
 花言葉を教えてくれただけだと分かっているのだが、自分に言われているようで照れてしまう。
 「どうした、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
 「だ、大丈夫だよ」
 「それなら良いが。もう少しで厳しい冬だ。あまり無理はするな」
 「うん。気をつける」
 想いが通じ合ってから椿は少し変わった。
 時折、視線を感じて見れば愛おしげな眼差しを向け、そして別れ際には優しく頭を撫でてくれる。
 日女が危なっかしいのもあるのかもしれないが、こうしてよく気にもかけてくれるのだ。
 椿との時間を過ごすうちに彼の新たな一面を知る。
 その度に日女は幸せを噛みしめていた。
 「……日女」
 椿と見つめ合っていると、名前を呼ばれ彼の目つきがより真剣なものへと変わった。
 張り詰めた空気感に自然と背筋が伸びる。
 庭で遊んでいる小妖達の声も今は遠く聞こえる。
 椿の手が二輪の花を持つ日女の手に重なった。
 「春になったら結婚しないか」
 「……!」
 普段は冷静沈着な彼の頬がほんのりと赤く色づき、触れる手は震えている。
 ああ、精一杯の勇気を振り絞ってくれたのだと理解した。
 日女は目を見開き固まった、嬉しさのあまりに。
 しかし何も言わない彼女に椿は困惑した表情を浮かべる。
 想像していた反応と違っていたのだろう。
 「ど、どうした。もしかして嫌だったか?それなら別に──」
 「違う、違うの」
 日女は彼が勘違いをしてしまわないように、すぐに首を横に振った。
 大粒の涙を流しながら。
 「わたし、いつか椿のお嫁さんになれたらいいなって思ってたから。だからこれからも隣にいていいんだって分かったら嬉しくて言葉が出なかった」
 日女の本心を聞いた椿は安堵したように息をつくと手を握り、自分の方へと引き寄せた。
 「断られたかと思った」
 「椿からの求婚を断ったりなんかしないよ。驚かせてごめんね」
 「まったく」
 その割には怒りなどは感じられず、笑いが滲み出ている。
 彼の背中へと腕を回した日女の手の中にはカスミソウと桔梗の花が小さく揺れていた。
 椿は日女の耳元に唇を寄せると、呟く。
 「桔梗の花と共に俺もお前への愛を誓う」
 それに答えるように背中に添えている手に力を加えた。
 日女は待ち遠しくなった、愛しの椿との祝言を挙げる春がやってくるのを──。

 しかし彼女に春はおろか冬さえ訪れることはなかった。
 幸せから絶望へ突き落とされたのは曇天が広がる次の日のことだった。
 妖域に来ていた日女は徐々に黒へと変わる怪しい空を見上げる。
 「何だか雨が降りそう。わたし、そろそろ帰るね」
 「この季節は暗くなるのが早い。途中まで送るか?」
 「ううん、大丈夫。山を出るまでそんなに時間はかからないから」
 それに、もしも妖域から出てきた椿を他の人間に見られたらまずい。
 皆が皆、あやかしを受け入れてくれるわけではないのだ。
 「分かった。だがお前に何かあったら小妖達も悲しむ。気をつけろ」
 「うん。本当に困った時は椿を頼るよ」
 「ああ」
 『日女、またねー!』
 「また明日」
 彼女にその明日が来ないのを当然誰も予想はしていなかった。
 この時に一人にしなければとここにいる誰もが後に後悔することになる。

 椿達と別れた日女は足早に山道を下っていく。
 木々の間を縫って吹く冷たい風が顔に当たって痛い。
 一人で大丈夫と言ったものの、思っていたより暗くてカラスの鳴き声がより恐怖心を煽っていた。
 (やっぱり頼れば良かったかな。でも見つかったら何をされるか分からないし)
 あやかしを恐れ、忌み嫌っている村民達ならば、悪事に手を染めてもおかしくないのだ。
 椿達の安全のためにも、なるべく一人で頑張らなくてはいけない。
 そうこうしているうちに道が開けてきた。
 出口が近づいている証拠である。
 胸を撫で下ろした日女だったが視線の先に誰かが立っていることに気がつく。
 それも複数名。
 妖域があるこの山は普段から人気など皆無なので違和感を覚える。
 「どうしてここに人が……」
 以前の日女のように山菜採りに来たようには見えない。
 何やら待ち構えているようにも見えて胸騒ぎがする。
 ゆっくりと歩みを進めると次第に顔をはっきりと捉える。
 「本当のようだな、お前が妖域へ行っているという話は」
 白髪の老人の男は山の中から出てきた日女を眼光鋭く睨む。
 動かしていた足を止めると、彼らと対峙するような形になった。
 「……村長さん」
 日女の家は集落から離れた場所にあるが月に一度の集会には参加している。
 彼とは挨拶を交わした程度。
 集会では頻繁に『あやかしはいつか村を襲う』『穢らわしい妖域に近づくな』と訴えかけていた。
 洗脳にも近い発言の数々に日女以外の村民達は疑問を抱くことはなく、彼を肯定していった。
 男性を中心とした村民達がそこに立っているのも何よりの証だ。
 手には松明、角材、斧などを手にしており異様な光景に背筋が凍る。
 「何故、妖域へ立ち入っているのだ」
 「あ、の」
 恐怖のせいだろう、喉が詰まったような感じがして上手く言葉が出てこない。
 それがまた村長らを苛つかせる原因となる。
 「下手に誤魔化そうとするな。俺の息子が毎日のようにこの山へ出入りするお前を見たと言っているぞ。山菜採りに行くならば籠を持っていくはずなのに何故、身一つなのだ」
 (まさか見られていたなんて)
 椿や小妖達との楽しい時間に浮かれすぎていたのだろう。
 ここには誰も来ないという思い込みが確認を疎かにしていた。
 あやかしと共存をしたいのは日女だけで他の人間は違う。
 (全ての人に理解してもらうのは難しいかもしれない。だけど椿達もわたしも何も悪いことはしていないもの。堂々としていよう)
 日女は真っ直ぐに彼らを見据えると包み隠さずに明かした。
 「はい。妖域へ行っているのは確かな事実です」
 嘘偽りの無い言葉に村民達は顔を見合わせてざわめくが村長が片手を挙げて静けさを取り戻した。
 「やはりな。して、その理由は何だ」
 「あやかしのことを知りたい、仲良くなりたいと思ったからです」
 「仲良くだと……!?奴らは我らを食らってもおかしくない悍ましさに満ちた存在なのだぞ!」
 「そんなことないです!頭領である鬼は崖から落ちたわたしを助けてくれました。彼らは絶対に人間を襲ったり食べたりしません!」
 「鬼が助けた?ふん、どうせお前を騙して油断したところで殺すつもりなんだろう」
 まるで馬鹿にするように鼻を鳴らす村長や嘲笑う村民。
 何も知らないのに憶測だけで好き勝手にものを言う彼らの姿勢は、はっきりいって大嫌いだ。
 人は人。
 別に無理して仲良くならなくても構わない。
 ただ、あやかしのことを軽蔑したり、妖域のあるこの山を汚したりするのは許さない。
 次々に発せられる侮辱に顔を歪めると再び村長が口を開いた。
 「村の掟を破ったお前の罪は重い。しかし我らにとっても貴重な若者がいなくなってしまえば損失も大きい。どうだ、これ以上妖域へ足を踏み入れないと約束し私の息子と結婚すれば許してやろう」
 村長の背後から出てきた中年の男がおそらく息子だろう。
 にやりとした気味の悪い笑みを浮かべ日女を舐めるように見た。
 どうやら二ヶ月ほど前に妻が他に男をつくって家を出て行ったらしい。
 定例集会に参加していた婦人らが噂話をしているのを耳にした。
 そして二人の間には子供がいない。
 日女が村長の提案に頷けば、その先がどうなるか容易く想像出来る。
 だが、当然受け入れるつもりは毛頭無い。
 「お断りします。わたしには愛する方がいますから」
 「……その相手はまさかあやかしではないだろうな」
 「いいえ。あやかしの頭領、鬼です」
 「な、何だと!!」
 もう何を隠しても無駄だと悟った日女は、はっきりとした口調で告げる。
 おそらく、以前のように村では暮らしていけない。
 本当は祝言を挙げる直前に村を出るつもりだったが、致し方ない。
 きっと椿達も日女の状況を知れば迎え入れてくれるはずだ。
 「わたしはもう貴方達の前に姿を現しません。だからどうか──」
 「そうか。お前がそのつもりなのだとしたらこのまま生かしてはおけない。掟を破る者は徹底的に排除しなくては。……やれ」
 虚ろな目をした村長が指示を出す。
 日女は嫌な気配を察して振り返り妖域へ走りだそうとするが、そこには斧を持った男が待ち構えていた。
 前後を塞がれて逃げ道を失う。
 (助けて、椿……!)
 そう助けを求めた瞬間、男は振りかざした斧を日女の腹部へと狙いを定めた──。

 「……っ」
 『頭領さま?いかがなさいましたか?』
 椿は走らせていた筆を止めると顔を上げ、外へと視線向ける。
 開いていた障子から見える空は日女と別れた時よりも黒へと変化していた。
 ひゅう、ひゅうと音を鳴らしながら吹く風はまるで不吉な出来事を予兆しているよう。
 屋敷内にある書斎で妖狐と共に書類仕事をしていた椿は立ち上がると廊下に出た。
 普段は集中を切らさない彼が作業を中断するのは珍しく、妖狐は不思議そうに見上げる。
 「今、日女の声がしなかったか?」
 『日女さまの?いえ、私には何も……』
 彼女が妖域に戻ってきたのだろうかとふたりは辺りを見渡すが誰もいない。
 小妖達は部屋で休んでいるため、近くに気配は感じなかった。
 『気のせいでは?きっとお疲れなのでしょう。そろそろお休みになってはいかがですか?』
 妖狐はちらりと文机を見ると、そこには書類の束が山積みになっていた。
 その近くには年季の入った数冊の書物が重なっており彼の努力家の性格が垣間見られる。
 しかし椿は妖狐の提案に頷くことは無く、どこか落ち着かないようだった。
 「……やはり日女が心配だ。様子を見てくる」
 『妖域を出られるのですか?日女以外の人間にでも見つかれば危険です』
 「それでも彼女の安全を優先する」
 有無を言わせない口調と断固として揺らぐことのない意思。
 妖狐は悟った。
 心配しなくても彼ならきっと上手くやれる、それほど信頼出来る力を持っているからと。
 「おひとりで大丈夫ですか?」
 「ああ。留守を頼んだぞ」
 「かしこまりました」
 そう言うと椿は力を行使するために屋敷を出る。
 日女の顔を思い浮かべると強き風が彼を包み込んだ。

 椿には鬼火以外にも瞬間移動の力を有していて思い浮かべた人や場所の元へとすぐに移動出来る。
 崖から落ちた日女も森に棲む精霊が危険を知らせたおかげで間一髪のところで助けられたのだ。
 しかし目の前に広がる光景に椿は目を疑った。 
 日女を見つけたというのは間違っていないのだが──。
 「貴様ら日女に何をした……!」
 ぐったりと横たわり、腹部から大量の血を流している日女と斧を持つ男を見て声を荒らす。
 流れ出る血は止まることなく地面や落ち葉さえも赤く染め上げていく。
 「ひっ!」
 突如として現れた鬼に日女を取り囲んでいた村民は顔を青ざめさせ後ずさりする。
 黒髪と真紅の瞳は紛れもなく鬼である証のため一目で分かったのだろう。
 椿は彼らに一切目もくれず、倒れ込む彼女の元へと駆け寄った。
 「しっかりしろ、日女!」
 「つ、ばき……」
 消え入りそうな辿々しい口調。
 朦朧としながらも助けに来た椿に小さく笑みを浮かべる。
 「ごめんね。いつ、も迷惑かけて……」
 「無理して話さなくていい。今、助ける」
 椿が日女の腹部に手をかざした瞬間、光が溢れる。
 たちまちどんな怪我を治す治癒の力。
 しかしこの力は大幅な霊力を使うため、鬼の椿もかなり影響を受ける。
 彼との長い時間を過ごしてきた日女もそのことは知っていて──。
 血の付いた手をそっと椿の手の上に重ねた。
 「もう、いいよ。椿の身体がこわれ、ちゃう」
 「良いわけがないだろう。たとえ俺が倒れようともお前だけは必ず助ける」
 確固とした意思は決して揺らぐことはない。
 しかし椿の額には汗が浮かんでいて、かなり疲弊しているのが分かる。
 よほど霊力を消耗しているのだろう。
 「どうしてだ、何故傷が塞がらない……!」
 初めて聞く焦りの声。
 椿が力を行使し始めてしばらく経つが日女が一向に回復する兆しはない。
 それどころか顔はさらに白くなり、血は溢れ出していく。
 日女は薄々勘づいていた、もうこの怪我は治らない。
 椿の治療が遅れたわけではなく死の淵に立っているのだと。
 彼の汗がぽたりと滴り落ちる。
 「椿との約束、果たせなくてごめんね」
 「俺は諦めない。あと少しできっと──」
 「椿」
 日女の最後の力を振り絞ったような声に椿は我に返る。
 彼女の顔へと視線を向けると弱々しい瞳には涙が溜まっていた。
 「気づいているでしょう?わたしはもう助からない」
 「……っ」
 椿は腹部からかざしていた手を離した。
 それと同時に光も収まる。
 「嫌だ、お前が死ぬなんて嫌だ」
 重ねられた日女の細い手を強く握りしめた。
 これから起きる出来事を信じたくないように、受け入れたくないように。
 「だい、じょうぶ。生まれ変わったらまた会いに行くから」
 日女も握り返そうとするが、もうその力は残っていなかった。
 「……ずっとここで待っている」
 「うん。来世こそは、椿のお嫁さんになりたいな」
 待ち望んでいた祝言の日を迎えられなかったのが唯一の心残り。
 それを汲み取ったのか、椿は思考を巡らせたあと、握っていた手を緩めて甲に口づけを落とした。
 唇が離れるとそこには桔梗の花の模様が浮かんでいた。
 「これ、は?」
 「お前が俺の伴侶であるという証、桔梗の花痣だ」
 その言葉を聞いて日女は嬉しそうに目を細めると血で汚れた頬に一筋の涙が伝う。
 「ありがとう、最期にわたしの願いを叶えてくれて」
 「何でも叶えてやる。愛する妻の願いなら」
 「椿に出逢えて良かったよ。わたしも、愛してる」
 ゆっくり瞼が閉じると小さな手が椿の手からずるりと抜け、地面へと落ちる。
 完全に動かなくなった日女を静かに見つめると、その亡骸を抱き上げた。
 そしてふたりのやり取りを傍観していた村民達を一瞥する。
 その瞳は悲しさと怒りが入り混じり焔のように燃えさかっていた。
 「いいか、人間よ。今後、手の甲に桔梗の花痣が浮かんだ娘は俺の妻だ。共に暮らし始める十八まで丁重に扱わなければ次こそは容赦はしない」
 本当ならば日女を殺した村民達を村共々、消し去りたかった。
 しかしそんなことをすれば優しい彼女は悲しむ。
 必死に殺意を抑えながら背を向ける。
 忠告を聞いた村民達の中には逃げ出す者、立ち尽くす者、腰を抜かして座り込む者、様々だ。
 椿は冷たくなった日女を抱きかかえながら妖域へと歩き出した。
 後にこの忠告は伝承へと変わり、国中に知れ渡ることになる。
 こうして日女は十八年という短すぎる人生に幕を閉じたのだった。