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「それで、どうなんだ?」
 
まずい。非常にまずい……。
 
クラス旗係に決まってから今日で五日。作業をはじめて四日目だというのに、色塗りはもちろん、下描きどころかデザインさえまだ決まっていない。
 
佐藤先生は恐らくそのことを美術の先生から聞いたのだろう。放課後呼び出された私は、職員室の前にいる。もちろん里美くんも一緒に。

ドアから少し離れたところに立っている私は、背の高い佐藤先生を見上げた。

「えっと、毎日話し合ってるんですけど、まだデザインが決まってません」

目の前にいる先生は怒っているわけではないけれど、心配してくれているようだ。それから、ちゃんとできるのか担任としては不安もあるのかもしれない。先生が灰色を浮かべたくなる気持ちは私もじゅうぶん分かる。

でも私たちが決して遊んでいたわけではないということは、時々様子を見に来ていた先生だって知っているはずだ。

里美くんの龍はすごく上手だったけれど、本人があまり気に入っていなかったらしい。だったらもう少し色々考えようと私が言って、その後も私は真剣にデザインを何枚も描いてきたけれど、結果的にどれもしっくりこないまま四日が経ってしまった。だから、何もしていなかったわけじゃない。

ただ、自分が考えたデザインでクラスのみんなが本当に納得してくれるのか、喜んでくれるのだろうかと考えると、どれも違うのではと不安になってしまって決められないだけだ。

旗制作は里美くんとふたりだから、みんなの反応()を見ることはできない。多分、それが最大のネックになっている。これが里美くん以外であれば、相手の色を見て判断できるのに。

ちらりと隣を見上げると、両手を頭のうしろで組んでいる里美くんがあくびをした。大きな口を開けても顔が整ったままなのはすごいけれど、(のん)()すぎる。

私は先生に聞こえないように小さなため息をこぼした。

旗制作が進まないのは私の問題でもあるけれど、里美くんにだって大いに問題がある。何しろ、私が何枚もデザインを考えて描いている間、里美くんは一枚も描いていないのだから。あれだけ絵が上手いくせに。

しかも里美くんは、私が描いた絵を見せても『いいんじゃない』としか言わない。感情が分からないから、本当にいいと思って言ってくれているのか判断できなくて、私はそこでまた悩んでしまう。

何枚描いても毎回その繰り返しだから、私は迷宮入りしたまま抜け出せず、今に(いた)るのだ。

「まぁ、あんまり考えすぎなくていいんだぞ。うちのクラス旗係はふたりなんだから、ふたりが一生懸命作った旗なら、みんなも喜ぶと思うし」

本当に、そうなのかな……。

私が考えたデザインで旗を作って、それを見たクラスメイトは本当にみんな喜んで、納得してくれるだろうか。

ダサいとか、変だとか、かっこ悪いとか、他のクラスの旗のほうがいいとか、そんなふうに思う人は、本当にひとりもいないのだろうか。

仕上がった旗をみんなに見せた瞬間、クラスの空気が一瞬にして灰色に染まってしまったら……。どうしても、そんな嫌な想像をしてしまう。

今のクラスでの体育祭は一度しかない。だからこそ、みんなが楽しめればいいなと思うけれど、私が作った旗がみんなのやる気を削いでしまうことになったらと思うと、簡単に決められない。かといって制作期間はあと一週間しかないので、いつまでも悩んでいるわけにもいかないし。

「……は、はい。あの、頑張ります。大丈夫です。里美くんは絵が上手いですし、あと五日あればちゃんと仕上げられます」

先生のまわりの灰色がさっきよりも濃くなっていることに気づいた私は、慌てて答えた。不安しかない本心とは裏腹な笑みを、顔に貼りつけて。

「里美はどうだ、大丈夫か?」

先生の言葉に、私は『ややこしくなるようなこと言わないでよ』と、里美くんに念を送る。

すると珍しく空気を読んだのか、それとも先生に呼び出されているこの状況が面倒になったのか、多分後者だと思うけれど、里美くんは「大丈夫です」とあっさり答えた。

私自身も、時折職員室を訪れる生徒の視線や色が気になるので、できれば早く終わらせたい。里美くんと並んで立っていると、悪い意味で目立つから。

「ならいいが。デザインに悩んでるならヒントになるようなものを見たりしたらどうだ」

「ヒントになるようなものですか?」

「例えば、そうだな……」

私が聞き返すと、先生は腕を組みながら一瞬天井に向けた視線を、私に戻した。

「もうやってるかもしれないが、ネットで色んなイラストを見たり、普段はあまり目にすることのないようなものを見るとか。あとは、外を歩きながらまわりの景色に目を向けるとかな。ふとした時にアイデアが浮かぶこともあると思うぞ」

なるほど。今日の帰りは、いつもと違う道を歩いてみるのもいいかも。

「そうだ、ふたりで美術館とか行ってみるのはどうだ?」

耳を疑うような先生の言葉が突然降ってきて、思考が一瞬停止した。

ふたりっていうのは、まさか私と里美くんのこと?

「この辺だと、無料で入れる美術館もあるし」

学校の二駅先に、区が運営しているという美術館が確かにある。地元出身の画家の個展が開かれていたり、地元の小中学校の生徒の作品が飾られていたりと、内容はその時々で変わるけれど、多くは地元に関係した展示が多い。

「えっと、美術館ですか?」

「なんだ、雨沢は興味ないか? たまには芸術に触れるのもいいぞ」

体育教師の佐藤先生の口から芸術についての話は一度も聞いたことがないので、あまり説得力がないけれど、問題なのは美術館に行くことじゃない。むしろ美術館や博物館は好きなほうだと思う。

でも、里美くんとふたりで行くというのはどうだろう。いくら係の一環だとはいえ、ふたりでそんなところへ行って、もし学校の誰かに見られたら。ただでさえ里美くんは目立つのだから、見られる可能性はじゅうぶんすぎるほどある。

「いえ、興味はあるんですが。でも、その……」

歯切れの悪さから、気乗りしていないことがバレバレだと自分でも思う。

「そんなに口ごもるなんて、雨沢らしくないな」

先生の一層濃くなった灰色の中に、わずかな赤が混ざった。その色を見た瞬間、押さえつけられるような圧迫感を感じ、少しだけ息苦しくなった。

怒っているわけではないと思うけれど、せっかく提案してくれたのに私が微妙な反応をしたから、先生の気分を損ねてしまったのかもしれない。

「行ってみます! 美術館好きなので」

空気を読んだ私は、乾いた笑みを浮かべながら言い切った。

「おぉ、そうか。うん、そうしたらきっといいアイデアが浮かぶと思うぞ」

赤はまだ残っているけれど、さっきまでなかった黄色や緑が見えた。満足そうに頷く先生を見て、私は安堵する。

「じゃあ、何かあったら学級委員や実行委員にも相談して、しっかり進めろよ」

「はい。分かりました」

職員室の中に戻っていく先生を見届けたあと、ヘラヘラと笑みを浮かべたまま隣を見たのだけれど……。

――えっ、なんか怒ってる?

里美くんはなぜか、冷ややかな目で私を見下ろしている。

「なんであんなこと言ったんだよ」

「あんなこと?」

「最初は渋ってたくせに、いきなり行ってみます!とか、元気よく答えてたじゃん」

あれは先生の色が気になったから空気を読んだだけだ。――とは言えないけれど、先生の機嫌を取るためには、あれが一番正しい答えだったと思う。

「そんなに怒らなくても、私ひとりで行くから心配しないで」

噂にでもなったら最悪だと思ったけれど、何も絶対にふたりで行かなければいけないわけじゃない。

「別に怒ってないし、心配もしてないけど」

しかめ面だし、どうみても怒ってるように見える。

「つーか、雨沢は行きたいと思ったからそう言ったんだよな?」

「行きたいっていうか……うん、まぁそうだけど」

「じゃー明日、美術館行くぞ」

そう言って、廊下を歩きはじめた。

「行くって、まさか里美くんも?」

慌ててあとを追う私。

「当然だろ」

思わぬ事態に焦る私をよそに、里美くんはつかつかと足を進める。

「ちょ、ちょっと待って。無理しなくていいよ」

なんとかするために、私は笑いながらできるだけ優しくそう訴えた。

「無理してんのはどっちだよ」

「どっちって……」

色が見えないのは本当に厄介だ。美術館に興味があるようには見えないのに行くと言い出すし、怒ってないと言いつつ顔は怒ってる。里美くんはいったい何を考えているのだろう。

「確か雨沢の家って、遠いよな?」

今度は急に立ち止まり、振り返ってそう聞いてきた。

「え? うん、遠いよ。片道一時間半だからね」

確かって、私の家が学校から遠いのを知っているってこと?

そうなると、同じ小学校だったことも覚えているのかもしれない。

「だったら、休みの日にわざわざ遠い美術館まで行くなんて、面倒じゃねぇの?」

「楽ではないけど、もう慣れたから全然平気」

休みの日に遊ぶような友達は千穂と菜々子くらいで、ふたりとも家は学校から三十分以内の場所にある。だから私が出向くことが多いし、それが嫌だと思ったことは一度もない。私の足が自然と地元から遠のいているというのもあるけれど。

「ていうか、なんでそんなこと聞くの?」

「別に、大変じゃないのかなと思っただけ」

もしかして、私のことを気遣ってくれた? だとしたら、空気を読まない里美くんにも気を使うという一面が実はあるということになる。

確か、前に菜々子が話していたな……。

『あたし、一学期に世界史のグループ学習が里美くんと一緒だったんだけど、適当にやってるように見せかけて、実は一番しっかり調べてたんだよね。あたしがどうしたらいいか分からなかった時もアドバイスしてくれたし。あの顔で実は優しいとか、最強かよ』

私に気を使ったさっきの言葉が、もしかしたら菜々子の言っていた里美くんの優しいところなのかな。

だけど、それとこれとは別だ。ふたりきりで行くのは避けたい。

「大変じゃないし、本当に私ひとりで行くからいいよ」

「なんで、俺もクラス旗係なんだけど」

「で、でも、ほら、里美くんだって休みの日にわざわざ面倒でしょ?」

「そんなに俺と行くのが嫌なのかよ」

表情は変わらず、声だけが少し低くなった。一緒に行くことを拒んでいるのだから、そう思われてもしかたがないし、今度こそ怒らせてしまったかもしれない。

「そういうわけじゃなくて、なんていうか……」

見えないけれど、濃い赤色をまとう里美くんを想像して言葉に詰まった。

「えっと、わざわざ……ふたりで行くことも、ないかなって……」

恐る恐る顔を上げると、廊下の先にいる女子数名が、こちらを見てコソコソ話しをしている。紫色が浮かんでいるし、もしかすると何か疑われているのだろうか。

話したこともない、名前も知らない女子たちだけれど、不穏な色が見えるというだけで落ち着かなくなる。とにかく早くこの場を、里美くんの隣を離れたい。

「だからさ、その、明日は私――」

「なんかめんどくせぇ」

私の言葉を断ち切るように、里美くんが分かりやすく舌を鳴らした。

「どうでもいいから、明日十時に駅前。改札出たところで待ってる」

ハッキリと、廊下の先まで聞こえるような声で言い放ち、里美くんは立ち去った。私の返事は聞かないと言わんばかりの速さで、あっという間にその背中が視界から消えた。

私は、だらりと下げた両手でスカートをキュッと握る。

だから、生徒が行き来する学校の廊下で、そういう誤解を与えるような言葉を堂々と言うのはやめてよ!

本当に里美くんは、空気を読むということを知らない人だ。里美くんにこそ、色が見える力が必要なのではと本気で思う。

もしそうなったら、不安でいっぱいのどんよりとした灰色が、私のまわりに見えたはず。見えていたらきっと、あんなふうに大声でデートの約束だと勘違いされるような言葉は言わなかったはずだ。ひとりで行きたいという私の気持ちを汲んで『じゃあよろしく』と、すんなり納得してくれたのかも。

そこまで考えてから私は腕を組み、首を傾げて「んー」と小さく唸る。そして、色が見えても見えなくても、やっぱり里美くんは変わらないんじゃないかと思った。

なんとなくだけれど、相手の気持ちが見えたところで、気にせず我が道を行くような気がする。

つまり私は、自分と正反対な里美くんが苦手。最終的には、そういう結論に至る。