呪法奇伝ZERO・平安京異聞録~夕空晴れて明星は煌めき、遥かなる道程に月影は満ちゆく~

「それで――、あとはどの様に?」
「うむ――、今回の件……、妖魔王・大百足は頼光達の決死の戦いで討伐されたが――、姫は食われていた……という事で処理された」
「ほう――」

 とある屋敷の一室にて、安倍晴明と源満仲が酒を酌み交わしながらそう会話している。

「――頼光も……、今回の事で思うところがあったらしくてな――。このわしに討伐の失敗と……そしてその原因となった蘆屋道満の助命を願って来たのだ」
「で――、それを聞いて満仲様はそう処理をなさったと? まあ――、対妖魔最高戦力であるそちらが……、こともあろうに討伐失敗などと、不名誉かつ――、人々の気持ちの平安にもかかわることですし、仕方がないですね……」
「うむ――、頼光は多少不満げではあったが、それで納得してくれたようだ」

 そう言って笑う満仲に――、安倍晴明は頭を深く下げる。

「本当に申し訳ない――、まさかあの不肖の弟子がこのようなことをしでかすとは」
「ふ――、構わんさ……、どちらにしろ今回の件はいろいろ裏があったようだしな」
「小倉直光――様ですか?」
「ああ――、姫が妖魔に喰われたと聞いて……、悲しむ素振りすらせず、まるで当然の末路である――、とでも言いたいような態度であった」

 その言葉に安倍晴明はため息をついた。

「結局――、自身の手で始末するか……、相手が始末してくれるかの違いでしかなかったようで――。そうならば、道満の考えと行動は決して間違いでは――」
「ああ――、結局あの妖魔も……、その周りの噂もただの作り話にしかすぎず――、よく旅人を救っていたという話も耳にした」
「無知ゆえの誤解――、そして排斥――、悲しい事ですね……」

 晴明のその言葉に満仲は――、

「で? どこまで予想の範囲だったのだ?」
「はい? どういう意味で?」
「わしが気づかないと思うのか晴明――、今回の件、占術にてある程度知っておったろう?」

 その言葉に少し驚いた顔をした晴明は――、小さく笑って答えた。

「いえいえ――、この様な事態は想定してはいませんでしたとも。占術も詳細が分かるものでもなく――、ただ――」
「ただ?」

 そう聞き返す満仲に晴明は、笑顔を消して静かに答えた。

「――道満を差し向けるのが吉……、その結果は、はるか未来の平安の礎となる――。そのように卦が出たのを信じただけの話――」

 その答えを聞いて――満仲は納得した様子で小さく頷いたのである。


◆◇◆


 蘆屋道満が平安京を去り、妖魔王たちを尋ねる旅をつつけていた時代――、道満はとある土地へと至った。
 近江国は霊山の一つ――、御神山に隠れた大屋敷があり、そこに居を構えるはかつては三つ蛇岳に住まわっていた大百足・千脚大王静寂であった。

「それで――、その老いた龍神の力を継承する形でこの地に至ったと?」
「そうです――道満殿……」

 髪を半ば白髪に変えたその時の道満は、懐かしいものを見る目で目前の大武者を見つめる。

「そもそも、この地には悪しき大百足が住み着き悪さをしており――、その大百足が武者に退治されたのちも、その怨念が龍神を弱らせておったのです」
「その怨念を鎮め――、この地に平安をもたらす……、それを頼まれたと?」
「まあ――、同族の非道をいさめるのも我らのするべき事であろう――、そう考えております」

 その言葉に満足そうに道満は頷いた。

「あと――、そちらは本当に久しいな――姫……、いや今は”今城太夫(こんせいたゆう)”を名乗っておったか」
「はい、お久しぶりです――、道満様」
「お前と静寂の子は?」

 その言葉に笑顔で答える太夫。

「はい、無事生まれ――、すくすくと育って元服も間近……。名は――、昨年亡くなった”栄念法師”の名をいただいていて――”栄静(えいせい)”と」
「ほう――、寂しい話ではあるが……。時が流れるのは早いものだ」

 静かに笑う道満に――、少し笑顔を消して太夫は聞く。

「しかし――、その御髪……、それほどの年齢ではないと思っておりましたが?」
「はは――これか? 先の”あの戦い”で少々力を使い過ぎて――な」
「それは――」

 平安京において行われた”あの戦い”については太夫も聞き及んでいる。
 ――安倍晴明を倒して魔道へと至ったとされた蘆屋道満――、それに従う鬼神群……、そして大江山の大将とその配下。
 ”それ”は、平安京の闇で密かに行われた大決戦であり――、その戦いで多くの鬼神……酒呑童子も含めて――、かの源頼光とその四天王の手で討伐されたとされている。

「さすがに神仏の加護すら得たあの頼光には――、かつて以上の力を出す他なくてな……、逃げるだけで骨が折れたわい――」
「そう――ですか」

 静かに太夫は道満を見つめる。道満は――、決して魔道に堕ち、人に仇名すような者ではないことを太夫は良く知っているから――。

「――は、そう悲しい顔をするな……。どうせ大江山の討伐は近く行われる予定であった。それに拙僧(おれ)が横やりを入れたが、あの頼光に返り討ちにあって逃げただけの事よ」

 はは――、と笑う道満を、太夫も――、静寂も静かに見つめた。

「――それで――だ、今回お前に会いに来たのは他でもない――」
「はい――」
「これより拙僧(おれ)は妖魔の平穏に暮らせる土地を探し――、そこに都を造ろうと考えておる。――お前には拙僧(おれ)にしたがい、その手助けをしてもらいたい」
「――」

 その言葉に静寂は少し驚いた顔をして――、そして恭しく頭を下げた。

「この静寂――、決して道満殿から受けた恩は忘れてはおりません。ゆえに喜んで――それに従いましょう」
「ありがたい――」

 ――かくして、妖魔王・千脚大王静寂は――、蘆屋道満・八大天魔王……、すなわちその護法鬼神として名を連ねることとなった。
 そして――、その力は平安を越えて――平成の未来に至っても……、世の平安を守る力の一つになるのである。
 ――晴明、なあ晴明――、なんでお前は……。

 安倍晴明はその夜――、かつては供にあったとある友人の言葉を思い出す。

 お前はどうして――、そうなんだ? ――結局お前は……。 

 その言葉の先は――、晴明にとって常に傷として残っている。
 晴明は常に他人の言葉を我関せずという様子で聞いている――が、

(――正直、あの言葉だけは……、彼に言われたことだけは――)

 ――お前は結局――、ヒトとは違うのだな……。

(いや――違うぞ……。私はヒトだ――、ヒトたらんとしている……)

 でも――、安倍晴明は思う。

(ああ――、わかっているとも……。私の心にはヒトが当たり前に持っている何かが足りない……)

 だからこそ――、自分は極力、ヒトの世界から離れるべきだと考え――、でもその情から離れることが出来ずにいる。
 中途半端――、なんて中途半端な……、かの賀茂光栄が私を嫌うのも当然の話。

(人以外の血を以て生まれ――、ヒトとしてヒトの中で成長し――、それでもヒトであることを友に否定されてしまった私……)

 私が人の中で生き――、ヒトの世を守ることにこだわるのも……、結局はヒトにあこがれる”ヒトデナシ”ゆえに――。

 ああ――かつての我が友――、源博雅(みなもとのひろまさ)よ……、私は――。


◆◇◆


 その日、安倍晴明にとって最も悲しむべきことが起ころうとしていた。
 弟子である蘆屋道満は、この日、晴明の弟子となって初めて――、師匠がその目に涙を光らせるのを見た。
 昼間のうちに屋敷を出た晴明は、道満を伴ってとある屋敷へと向かう。その屋敷の主とは――、

「――晴明……」
「博雅――久しいな」
「――ああ、お前はもう来てくれないと思っていた」
「――」

 病にて床に臥せる源博雅を、寂しそうな目で見る安倍晴明。

「……私は――いつも思っていた」
「博雅……なにを」
「謝りたかった――、傷つける気など無かった」

 床の博雅はその目に涙をためる。それを首を横に振って見つめる晴明。

「――どこに、博雅が謝る事があるというのか」
「晴明――」
「何も私は――、お前に傷つけられてなど」

 それを聞いた博雅は小さく笑って言った。

「――ならば、なぜ会いに来てくれなくなった?」
「――」
「もう自分の心を偽る必要はない――、私にはわかっている……、いや、わかっていたはずであった」

 ――でも、あの時、博雅は何ともなしに呟いてしまったのだ。それで友情に傷がつくとは思いもせず。

「あれは――、私が勝手に――」
「いや――、私が悪いのだ……、あのような言葉を適当な心で発するべきではなかった」

 博雅は病によって急速に老いて――皴だらけとなった手を晴明の手に乗せる。

「ああ――お前はあんなに傷ついたのだな……、すまなかった」
「博雅――」

 安倍晴明――、常に達観し……その心を表に出さない者。――でも、その本心は決してヒトとかけ離れたものではなく……。

「お前は――、この愚かな私の死を悲しんでくれる――」
「お前は愚かではない」
「――ふふ、こうして最後に顔を見られたのは――、この世の幸福の極みだ……」

 そう言って笑う博雅の、弱々しい手をしっかり晴明は握る。

「晴明――、最後に――一つだけ頼みがある……」
「なんだ? 言ってみろ」
「あの娘を――、梨花をお前に託したい」
「梨花?」

 そういう博雅の言葉に疑問の表情を向ける晴明。それを見て博雅は――、その最後の言葉として晴明に一つの遺言を残した。

「私の養女――、梨花……、彼女の友情を――救ってやってくれ。我らのように……ならぬうちに――」

 ――こうして源博雅は、天元三年九月二十八日に薨去――、享年六十三歳であったという。

 一つの友情の物語はここで終わり――、そして、もう一つの友情の物語は始まる。
「それでは――信明殿も、貴方も――養女であった梨花の話はよく知らないと?」

 源博雅がこの世を去って数日――、安倍晴明は、博雅が養女として育てていたとされる梨花の事を調べるため――、博雅の息子である源信貞にふたたび話を聞きに来ていた。
 ――博雅が亡くなった時、血を分けた親族である息子たちはいたが……、梨花らしき娘はどこにも見当たらなかったからである。
 博雅に託された以上探さねばならぬと、その場で息子たちに居場所を聞いてはいたが――、彼らは”知らんな”というだけで、何も詳しい話を聞くことすらなわなかった。

「――ああ、正直、あの歳になって新たな養女など――、と、なるべく関わらずにいたからな」
「ふむ――、それは……」
「その娘を引き取ったのも、ここ最近になってからで――、妙な噂もあったしな」

 余命いくばくもない老人が若い娘を囲う――、それをある事ない事語る者がいたのであろう。だから息子たちも、なるべく関わるまいと知らぬ存ぜぬを決め込んでいたのだろう。
 ――その状況を聞いて晴明はため息をついた。

「その娘は――博雅様の屋敷に住んではいたのですね?」
「ああ――、周りの住人は……、父上を娘がかいがいしく世話していたと話していた」
「ふむ――、ならばなぜ今わの際に娘を傍に置かなかったのでしょうね?」
「さあな――、最後の姿を見せたくなかったのか……、或いは――」

 信貞は頭を横に振って晴明に言う。

「どちらにしろ――、我々はその娘の事をよく知らん……。他をあたってくれ」
「むう――」

 信貞は晴明を嫌なものを見る目で見つつ踵を返す。

(――これでは託された想いを無駄にしてしまう……、しかし、なぜ博雅はあの時に何も言ってはくれなかったのか)

 博雅が床に臥せていたあの時、屋敷には息子たちが代わる代わるに訪れていた。無論、息子以外の博雅のゆかりの者達も――。

(もしや――、博雅は――、娘を他の人間に会わせたくなかった? ――養女を育てていることは周知の事実であったのに?)

 博雅の行動に不審なものを感じた晴明は、再び博雅の屋敷へと向かう事を決意した。


◆◇◆


 その時、源博雅の屋敷は誰もおらず閑散としていた。静かに屋敷の中へと足を踏み入れると、博雅が床に臥せっていた部屋へと入る。

「――私の予想が確かならば」

 そう呟いて周囲を静かに――、丹念に見まわす晴明。そして――、

「――アレは……」

 部屋の隅に一つの古びた箱が置かれていることに気付く晴明。それは、一見すると適当に放置されただけのガラクタに見えたが……。
 晴明は静かに箱に歩み寄り、その蓋を開ける――。そこには――これまたガラクタにしか見えない”木彫りの笛”が入っていた。

「――価値がないものだと放置されたか……」

 晴明は静かにその笛を持つ――そして、

「あ――」

 その笛の側面に――”梨花”と刻まれているのを見つけたのである。

「なるほど――、博雅よ……、これは私に娘の居場所を知らせるための――」

 晴明は納得した風に頷く。そして――、その笛を片手に、もう片方の手で剣印を結んで呪を唱えた。

「オンアラハシャノウ――、その深遠なる知恵を以て祈り給えば、(のが)れし者が遁れしままにあらざること必定なり……」

 それからしばらくのち――、晴明は静かに頷きかつて博雅が寝ていた場所を見つめる。

「――お前は、私にだけ――、その梨花という娘の居場所を教えたかったのだな?」

 それは確信――。源博雅は、安倍晴明ならば自分が何も言い残さずとも娘の居場所を見つけられる――と、そう信じたのだろう。

(ここまで娘の事を親族その他に隠しているとなると――、その梨花という娘……何か秘密があるのか)

 晴明はそう考えつつ屋敷を後にしたのである。


◆◇◆


 ――いいかい? この屋敷は閉め切られて誰も来ないハズの場所。そこを訪ねるとしたら、それはわが友である晴明以外にない。
 ここで静かに隠れているんだ――。お前が多くの者の目に入ったら……、お前の秘密に気付く者もいるだろうからね?

 その娘は――、暗い屋敷の中の一室で、両足を抱えながらただ待つ。

「博雅様――、本当なら……その今わの際までご一緒したかった――」

 でも――、自分が多くの人の目に触れれば……。

「――博雅様……。本当にその晴明という方は――」

 自分を救ってくれるというのか? ――その疑問に答える者はもはやこの世にはいない。
 ただ優しく笑いかけてくれた博雅の笑顔を思い出し――、その目に涙をためる娘。

「――博雅様」

 娘はかつてを思い出す――。平安京に昇って初めての日に、ガラの悪い者たちに囲まれて連れて行かれそうになった事。
 それを――静かな口調と、有無を言わせぬ意志の強い瞳で制して、救ってくださった博雅様。
 自分の秘密をなぜか即座に見抜いて――、そして優しく事情を聴いてくれたあの日――。
 ――あの日から、娘はある目的のために博雅の養女となり――そして……、

「大丈夫だよ――博雅様。私は必ず――静枝を救ってみせる」

 ――と、その時、屋敷の門扉が開く音がした。それを聞いてビクリと体を震わせる娘。

 静かに戸が開いて――、誰かがその部屋へと入ってくる。

「あ――」

 そう娘は呟いて――、現れた男を見つめた。

「――なるほど……、貴方が、博雅が託したかった娘――。どおりで――」
「あ――あの……貴方は?」

 その男――、安倍晴明はすべてに納得したという風で頷きながら――、そして優し気に笑った。

「私の名は安倍晴明――、貴方の養父源博雅の友――、そして」
「貴方が――平安京の陰陽師・安倍晴明――」
「その通りです――。梨花さん?」

 そのすべてを見通すような瞳が、娘――梨花を捉えて……そして、その口から確かにその言葉を発したのである。

「貴方は――、土蜘蛛……なのですね?」

 そう――、彼女は土蜘蛛……。平安京に仇なすとされる妖魔族の一つ。
 梨花はその晴明の言葉に――、静かに恐る恐る頷いたのである。
 誰も住む者がいなかった屋敷より梨花を連れ出した安倍晴明は、黙って梨花を導い言いて自身の屋敷への帰路についた。

「――」

 梨花は晴明の屋敷へと向かう間もただ押し黙るばかりであり、しかし晴明はそれを気にする様子もなく優しく笑いながら彼女の先を歩いていった。

「お、やっと帰ったか、師よ――」

 晴明が屋敷につくとその門前に、弟子である蘆屋道満が立っていた。

「最近、妙に出歩くと思ったら――、ふむ……なるほど」

 道満は、晴明とその後ろの梨花を交互に見つめて、何かを悟ったような表情を作った。

「ただいま――、道満、この娘は……」

 そう言って、後ろに隠れる梨花の肩に触れて、彼女を道満の前に示そうとする晴明。しかし、とうの梨花は、少しおびえた様子で道満を見つめた。

「――あ」
「ふん……」

 自分を冷たい目で睨む道満を、おびえた表情で見返す梨花。その様子に道満は鼻で笑って言葉を放った。

「師よ――、見た目はアレだがもう歳であろう……、女遊びとは自分の年齢を考えたほうがいいぞ」
「え……」

 その道満の言葉に梨花はあっけにとられる。そして――、

「そもそも――、その娘……というか子は、なんとも”ちんちくりん”で――、師の趣味は悪すぎるな」
「――!」

 その道満の言い草に、さすがの梨花も怒りの表情をつくる。そういう道満に対して晴明は笑って答える。

「ははは――、何を言っているのです道満? 私のような(じじい)の相手など、いくら何でも彼女に失礼でしょう?」
「そうか? 師にはそれ相応の娘が似合っておろう? そこの子は――」

 その言い草にさすがに頭に来た梨花は、声を荒げて道満に言い返した。

「なんですか!! いきなり”ちんちくりん”などと!! わ――、私のどこが――」
「はは――、お前はまさか、自分がそれ相応の娘に見えておるのか? 少しは慎みを考えたほうが良いぞ」
「く――、貴方のような”馬の尻”に言われたくないです!!」
「む――?」

 道満は梨花に”馬の尻”と呼ばれて少し首をかしげる。その様子に、傍らの晴明は笑いを堪えて横を向いた。

「馬の尻? それはどういう――」
「貴方のその髪の毛――、後ろに雑に束ねる髪は馬の尻尾に見えます!!」
「――なるほど、馬の尻――。ほほう……」

 道満は口元をヒクつかせ、怒りを押し殺す様子で梨花を睨む。それを強い視線で睨み返しながら梨花は言った。

「馬の尻のような頭で、私を”ちんちくりん”など――、よく言えたものですね?」
「よく言った貴様――、そこに直れ……」

 その一触即発の雰囲気の中にあっても、晴明はただ一人”馬の尻――”などと呟きながら笑いを堪えている。
 それを一瞬横目で見た道満は――、すぐに真面目な表情に変わって言った。

「――と、まあ冗談はこれくらいに……。そこの娘――」
「え?」

 その表情の変わりように驚く梨花。それを見つめながら道満は驚きの言葉を発した。

「――お前、土蜘蛛だな? この平安京がどの様な場所なのか、理解して上ってきたのか?」
「あ――」

 梨花はその言葉に、目の前の道満という男がただ者ではないことにいまさら気づいた。

「あなた――、私の事を知ってて……」
「ああ――、当然だ……、そこの晴明はすぐにお前の事を見抜いたのだろう? ならば――、それ以上の”目”を持つ拙僧(おれ)ならば当然」
「それ以上の”目”?」

 その言葉に驚きを隠せない梨花。その様子に傍らの晴明が答えた。

「そうです――、彼の”認識眼”は明確に師である私を越えています。私が見抜けるのなら、彼はもっと正確に見抜くことが出来るのです」
「――晴明様の……上……」

 その驚きの言葉を聞いて梨花は、初めて目前の道満を畏怖の眼差しで見た。

「――で、娘、拙僧(おれ)の疑問に答えろ」
「あ――、あの」

 その強い口調に口ごもる梨花。晴明は優しく笑って道満に言った。

「そんなに強い口調で聞かずとも、すぐに話してくれますよ――。そのために私についてきたのでしょう?」
「ふん――、ならいいが……、都に土蜘蛛では、妙な事態を招くのは必死であろうな」

 道満は冷たくそう言い放って屋敷の中へと入って行った。それを困った表情で見送る晴明。――そして当の梨花は……。

「いいのですよ――。さあ、屋敷の中にお入りください」
「は――はい」

 梨花は暗い表情で、晴明に促されるまま屋敷へと入って行く――。晴明は優しく頷いてその後を進んでいった。


◆◇◆


「――それは、本当だな?」
「ああ――」

 平安京にも闇はある。その人通りのない道の片隅で、一人の少女が深く外套をかぶった人物と会話をしている。

「本当に――その日、あの藤原兼家が羅城門を通るのだな?」
「そうだ――、私が一度でも君を騙したかね?」
「――人間は……信用できない」
「ふむ――、ならば辞めますか?」

 その外套の人物の言い方に、少し顔を歪めて少女は言う。

「――無論、このまま進めるとも……。我々はもう後戻りが出来ない」
「ならば――、少なくとも私の言葉だけは信じてください」
「――わかった……。我らが恨みを――、その悲しみを知らしめるために」

 そういう少女の顔には、あまりに深い憎悪が宿っている。

「――その通りです。我々人間の中にも、あの男のやり方を支持しない者がいることを、貴方には知っていただきたい」
「ふん――」

 その外套の人物の言葉に少女は小さく頷いた。

(――ああ、とうとう復讐の時は来た……。藤原兼家――、お前が指示し行った非道の――その恨みをその身でしっかり受けるがいい)

 そう考えながら――少女は……、静枝はただ暗い微笑みを浮かべたのである。


◆◇◆


 道満と晴明は屋敷に入ると、一室にて梨花を前に静かに座った。その様子に少し怯えながら相対する梨花。

「さて――、もう事情を話していただけますか?」
「はい――」

 梨花は静かに小さく頷く。それを見て優し気な表情で晴明は言った。

「――わが友、博雅が……、貴方の事を匿っていたのには、それ相応の事情があるのでしょう?」
「博雅――様」

 その晴明の言葉に悲しみの表情をつくる梨花。しかし、梨花は小さく頷いた後に意を決した様子で言葉を発した。

「――博雅様は――、私の言葉を信じて……、私のお願いを聞いてくださったのです」
「願い?」
「はい――、幼馴染を――、静枝を救いたいと……」

 その新たな名前に晴明は少し考えて言葉を返す。

「幼馴染……静枝さん? その娘を救うために平安京に来たのですか?」
「はい――、静枝は今――」

 その後の梨花の言葉は、晴明だけでなく、側で黙って聞く道満すら驚かせた。

「復讐をしようとしています――。そのために都のとある貴族の命を奪おうと考えているのです」
「――それは、また大それた」
「はい――、今静枝は、数人の仲間とともに都に潜伏しています。そして、機会を狙っているのです」

 その言葉に黙っていた道満が口を開く。

「――それはわかったが、その狙われている貴族とは?」
「――静枝の言では、藤原兼家――だと」
「――ほう」

 その梨花の言葉に、晴明は静かに考える。道満は首をかしげて言った。

「兼家様? ――それがどのような事を、その幼馴染に?」
「静枝の村を――、滅ぼすように命じた……と」
「ふむ――」

 それを聞いて道満も考え込み始めた。その様子に梨花は少し首をかしげて言った。

「なにか――疑問が?」
「その話――、その村は都の手の者によって滅びた? ――だから、その復讐をするべくその静枝という人は都に潜んでいる?」

 晴明の疑問に頷く梨花。それを見つめながら再び晴明は考え込み始めた。
 少し不安な様子で晴明を見つめる梨花、それに対し言葉を発したのは道満であった。

「――なるほどな、どおりで源博雅殿がお前を匿うわけだ――」

 一人納得した表情で頷く道満。

「だから――、お前は……その復讐を止めたいんだな?」
「――」

 梨花は驚きの表情で小さく頷く。

「源博雅殿が匿っている以上――、藤原兼家様への復讐を、その幼馴染に遂げさせたいという話ではない事はすぐに分かる。そして――」

 道満のその言葉に晴明が言葉を続ける。

「その静枝さんは――、復讐心に捕らわれるあまり、大きな過ちを犯そうとしている――。だから止めたいのですね?」
「――はい」

 晴明と道満の言葉にハッキリと頷く梨花。晴明たちはその様子に納得の目を向けた。

(――なるほど、梨花さんの言が確かなら……、その幼馴染の娘は誰かに騙されて――。或いはどうでもよくなって自暴自棄になっていると――)

 晴明は心の中で考える。

(藤原兼家様は――、……それを知らない土蜘蛛を騙して、従わせている者がいる可能性もありますね)

 土蜘蛛・梨花より知った、藤原兼家が命を狙われているという事実。
 後に歴史的事件にも繋がるその復讐を止めるべく――、晴明と道満はこれから奔ることになる。
 ――そして、その先に――……。

 晴明達の目前には――、平安京を包む巨大な闇が立ちはだかっていたのである。
 晴明と道満が梨花の話を聞き――、その翌日より梨花は道満と共に都に出て静枝の捜索を始めていた。
 その間、晴明は内裏へと昇って藤原兼家に関する情報を収集していた。

「――」

 梨花は気まずそうに隣を歩く道満を横目で見る。それもそのハズ――、この道満という男、何かと自分に対してキツイい言い方をしてくるからである。

「――」
「……なんだ?」
「いえ――、なんでも」

 それも仕方のない話であろうと梨花は思う。土蜘蛛族と言えば、人間にとっての最大の敵ともいわれる異族であるからだ。
 そんなものと共に都を歩くなど――、彼にとっては屈辱……あるいは忌避すべき事なのだろう。
 ――梨花はそのことに少し落ち込みつつ、道満と共に都を歩く。そして――、

「あの者達に話を聞いてくる――。お前はここで待て……」

 そう言って道満は梨花を置いて人混みへと歩いていった。

「ふう――、仲良くしたい……なんて思わないけど」

 でも――、ここまで嫌われると、心の中から悲しみが湧き上がってくる。人と土蜘蛛――決して相いれない存在なのだと……悲しい事実が梨花の胸に突き刺さった。

「――蘆屋……道満」

 その彼の目を思い出すと震えがくる。冷たい目――、すべてを見透かす目――、おそらく彼は妖魔という存在を嫌っているのだろう。ただ、師匠に従っているだけで――本当は……。
 ――と、不意に梨花の視界の端に、見覚えのある少女の姿が映った。

「静枝?!」

 その面影を探し走りだそうとして――、少しためらう。

(――道満様が……)

 今道満は見知らぬ人と会話をしている最中で、それをその場に置いていくわけには――。

(――でも、さっきのは確かに)

 一瞬ためらった梨花は――、それでも決意して走り出す。

(迷っている暇はない――追いかけないと)

 今すべきことは静枝を探し出すこと。そう心に決めた梨花は――、そうして道満の傍を離れたのであった。


◆◇◆


「――静枝!!」

 走りながらそう叫ぶ梨花。――その前方には見知った背中が歩いている。

「やっと見つけた――静枝!!」

 必死で走る梨花を振り切るかのように、その背中は十字路を曲がって見えなくなる。梨花は見失うまいと必死で走った。すると――、

「あ――」

 十字路に差し掛かった時、不意に前方が暗くなる。大きな何かが梨花の前に立ちはだかったのである。

「きゃ!!」

 梨花はその大きな何かに正面からぶつかってその場にしりもちをつく。そして――、

「てめえ――、どこに目えつけてんだ……」

 その大きな影がそう言ったのである。驚きつつ梨花が顔を上げると――、

「え? あ――」
「ん? お前……」

 その瞬間、梨花は最悪の状況に自分が置かれた事実を知った。その目の前にいたのは――、

「ほう? お前あの時の小娘じゃねえか」
「あ――貴方は」

 自分をいやらしい目で見つめるその人物は――、初めに都に上ってきたときに、自分を攫おうとした男だったのである。

「いやあ――、こういうのは運命の再会って言うのかね?」
「う――」

 そのニヤニヤ顔が梨花に向けられ――、その視線が梨花の全身をいやらしく舐めまわす。

「お嬢ちゃん――、今は一人か? あの爺は傍にいないみたいだな?」
「う――あ」

 その言葉に、さすがの梨花も涙目になって身を小さくする。それを――、何かを悟った様子で楽しげに見つめる男。

「――どうやら一人みたいだな。それは……好都合だ」

 そう言って笑いながら、男はその大きな手で梨花の腕をつかむ。梨花は暴れて逃げようとしたが――、

「おい――、抵抗するな」

 梨花は――、男の剛腕で振り回され、その場に引きずり倒されてしまった。

「ひ――」

 小さな悲鳴を上げて転がる梨花を楽しそうに見つめる男。梨花はその目におびえながら心の中で思った。

(――ああ、こんなところで……。私にも静枝みたいな――)

 梨花は、幼馴染の静枝のような戦いの心得はない。
 そもそも心が優しかったゆえに暴力ごとに無関心で――、さらには物心ついたころから術具制作に打ち込んできたゆえに、体を動かす行為は大の苦手だったのである。
 まさにか弱い少女に過ぎない彼女を――、男はいやらしい笑顔で組み伏せる。

「お嬢ちゃん――、ここで再会したのも縁だし――、俺のモノになりな」
「ひ――」

 その自分を飲み込みかねない欲望の満ちた表情に、梨花はただ涙を流す他なかった。

(――ああ、晴明様――、博雅様――)

 梨花は目に涙をためていやいやをする――、それが男の劣情をさらに刺激したのか、男は梨花に強引に覆いかぶさってきた。

「いや……」

 か細い悲鳴が響く。その時――、

「――最近は、本当に都も荒れてきたな――。昼間っからこれか?」
「む――」

 突然の声に、男が顔を上げる。そこに――、蘆屋道満が立っていた。

「――道満――様?」
「勝手に歩き回るな阿呆が――」

 そう言って、道満は梨花に覆いかぶさる男のもとへと歩いてくると――、

 ドカ!!

 問答無用で男を蹴り飛ばした。その蹴りを受けて男は小さく悲鳴を上げて転がる。

「――て、てめえ!! 邪魔するな!!」

 蹴られた場所をさすりながら立ち上がる男に――、道満は絶対零度の視線を送る。

「おい――、お前……拙僧(おれ)が誰かわかるか?」
「――は? 何言ってんだ? お前がなんだって――」
「そうか――、拙僧(おれ)の知名度も、まだその程度ってことか――」
「何言って――」

 道満は無言で男に近づくと、その襟首を掴んで思いっきり投げ飛ばす。

「が――!!」
「――恐れのないケダモノは――、より強い獣に容易に狩られる……。少しは周りに気を配るべきだぞ」

 そういって道満は投げ飛ばされてその場に這いつくばった男の頭を足で踏みつけた。

「おい――お前……」
「ぐ……え?」
「この娘に何しようとした?」
「う――」

 道満に睨まれたそれだけで男の身体は恐怖に支配される。言いようのない絶望感に、男の目に涙が見え始める。

「言え――」
「は――、俺は……」

 涙目で道満を見る男に――、何かを悟った様子で頷く道満。

「――どうやら、ただの人さらいだったようだな」
「すみません――」

 道満の言葉にただ泣いて謝る男。それを見てやっと道満は男の頭から足をどかした。

「ひいいいいい!!」

 その瞬間、悲鳴を上げながら逃亡を始める男。道満はそれをため息をつきながら見送った。

「――あ、あの」
「おい――バカ娘」
「う――」

 道満はその冷たい目を今度は梨花へと向ける。梨花は怒られると思って身を小さくした。

「――無事か?」

 ――と、次に道満が発した言葉は、梨花の無事を確認する言葉であった。それを聞いて驚きの目を道満に向ける梨花。

「あの――」
拙僧(おれ)が目を離したのが悪いとはいえ――、いきなりあのような面倒に巻き込まれるな」
「すみません」
「――ふう」

 梨花が謝ると――、道満は安心した様子でため息をついた。それを見て梨花は――、

「心配――してくださったのですか?」
「――ん? 当たり前だろうが――」
「え――でも」

 その道満の言葉に疑問ばかりの梨花。その表情を見て道満は何かを察して言った。

「む――、どうやら、妙な勘違いをさせていたのか?」
「勘違い?」
「すまんな――、お前に対し少しきつく当たりすぎていたかもしれん」
「え?」

 そう言って頭を下げる道満に梨花は驚きの目を向ける。

「――貴方は……私を嫌って――」
拙僧(おれ)が? お前を嫌う? なぜ?」
「だって私は妖魔で――」
「は――」

 その梨花の言葉に、道満は小さく微笑んで言葉を返した。

拙僧(おれ)はお前を嫌ってなどおらん――」
「でも――」
「――うむ、お前の事を警戒していたのは――、妙な災いを師にもたらすのではないかと――、そう思っていたからだ」
「師――晴明様?」
「――ふ、師には内緒だぞ?」

 そう言って道満は優しく笑う。それを見て梨花は――、やっと道満という男の事を見誤っていた事実に気づいた。

「――梨花……、これからは拙僧(おれ)の傍をなるべく離れんようにな?」
「はい――すみませんでした」

 そう言って梨花は笑う道満に頭を下げる。やっと梨花はこの目の前の男に心が通じたと感じた。

「あ! そうだ!!」
「ん? どうした?」
「さっき静枝を見たんです!!」
「なに?」

 梨花の言葉に眉を寄せて聞き返す道満。梨花は静枝らしき人物が去った方角を指さして言った。

「静枝は――、静枝らしき人はあっちのほうへと歩いていって――」
「ふむ――」

 道満は梨花が指さす方を見る。その先には――、

「平安京の正面――、羅城門へ向かう道?」

 その視線の先には――、今は古びて修繕されることもなく佇む羅城門が見えていたのである。
 燃える建物群――、その傍らには無数の土蜘蛛の遺骸が転がり、それを無数の兵士が踏み荒らし蹴り飛ばしていく。
 そこはまさに地獄――、始まりは突然。少なくとも静枝にとっては、何が起きたのか理解できない事であった。

 悲鳴を上げて逃げ惑う生き残りの土蜘蛛を、それを追う兵士が射殺していく。

「――なんで? なんで?」

 静枝は訳も分からず泥にまみれて転がっている。先ほど流れ矢で脚を負傷し、身動きが取れなくなっていたのだ。
 しかし、それが彼女を生かすきっかけとなった。兵士たちは彼女をただの死体だと勘違いし――、その傍を気にせず素通りしていったからである。

 土蜘蛛一族――、平安京の北東の山岳地帯に隠れ住む異民族の集落。複数あるそれの中でも、静枝の集落はそこそこ大きなものであった。
 彼らは通常の妖魔のように、強力な牙や爪もなく――、ましてや強靭な肉体すらない。しかし、彼らには卓越した術具制作の技術が受け継がれており、その種族としての特性も相まって人が作るものよりもはるかに精巧なものを生み出すことが出来た。
 それゆえにその技術は人にすら知る処となっており、人の中には妖魔であることを知ったうえで、術具制作を彼らに依頼する者も多くいた。
 山人族――、山に住み、鉱山や鍛冶――、或いは山稼ぎ……木こりや炭焚き――、等で生活をする先住民族の子孫。それが彼らであり――、都の平地民族に山に追われ、それゆえに都と小さくない確執を持っていた。
 それでも、一応は彼らのような存在が生き続けられたのは、彼らの技術を有用であると考える一部の人の思惑と、不安定な世に余計な争いごとを起こしたくないという時代背景に起因する思惑があったからであり、今回のこの件――、土蜘蛛集落の襲撃は寝耳に水と言えるものであった。

「――なんで」

 静枝はその場に這いつくばり泥をかみながらただ考える。そういえば――、最近何処かとの大規模な術具関連の取引があって――。

(まさか――、何か人に――、都に不都合な取引をして……、目をつけられた?)

 しかし、だからと言っていきなり皆殺しはありえない――、そう静枝は涙を流す。

(――畜生……、畜生……)

 歯を食いしばって指で地面を掴む静枝の傍を――、また一人の兵士が走り抜けていった。

 ――それは、現在より四年前――、貞元三年のとある日の事であった。


◆◇◆


 夕方になり晴明の屋敷への帰路についた道満と梨花は、その道すがら会話をしながら歩いていた。彼女が話すのは当然、静枝の過去の事であり――、

「――それから、静枝は近くの集落である私の村に引き取られました。しかし、彼女の人への恨みは深く――」
「隠れて都にのぼる準備をしていた――と?」
「はい――、彼女は賛同する同族を味方に引き入れ……、そして戦いの準備をしていたのです」
「――」

 梨花の言葉に道満は深く頷いた。

「そのような事があれば――、その静枝とやらが都を恨むのも仕方がない事ではあるが――」
「はい――」
「しかし、妙な話だな――」

 そう言って道満は首をかしげる。それを見て梨花もまた首をかしげて言う。

「どういう意味ですか?」
「やはりおかしい――、ここ数年の都の情勢は少々不安定で――、そのように異民族と開戦する余力もなく……。そもそも、土蜘蛛族の集落を滅ぼしたという話自体聞かない」
「え? でも――、あの藤原兼家という人が――」
「そもそもそれがおかしい――。なぜなら……」

 その次の道満の言葉に、梨花は驚愕の表情をつくる。

「集落襲撃が四年前――、貞元三年とすると……、その時期藤原兼家様は理由があって内裏を離れておる」
「え? 待ってください? ソレって――」
「――まあいわゆる政治争いというヤツでな……、その時期の兼家様は――反する勢力もあって容易には動けぬ時期にあったのだ」
「え? え? じゃあ――、兼家という人が土蜘蛛討伐を命じたというのは?」
「れっきとした間違いだな――、そもそも兼家様が復権されたのは、その翌年である天元元年なのだから――な」

 その道満の言葉に――、梨花はいよいよ顔を青くした。

「それじゃあ――、静枝はやはり何か間違えて? ――あるいは騙されて?」
「お前が――、静枝とやらが藤原兼家様を狙っていると知るきっかけは何だ?」
「――はい、私も――、違う集落ではありましたが、昔からの親友として復讐に誘われましたから」
「ふむ――、どれぐらい前だ?」
「ちょうど一年前――、くらいでしょうか? それからしばらくして静枝達は村から姿を消して――」
「お前はそれを追って都へと来たと?」

 道満の問いに頷く梨花。

「――その時、何か気付いたことはないか?」
「気づいたこと?」
「誰か集落外の者と接触していた――とか……」

 梨花は少し考えた後――、顔を上げる。

「静枝は――私の村に移り住んでから――、たびたび村から出て都へと来ていたみたいで」
「その時に――、よからぬ人物と出会ったか――」
「――」

 その道満の言葉に梨花は涙目になって訴える。

「――どうしよう……、やっぱり静枝は――。このままじゃ――」
「まあ――落ち着け……。師が何か情報を持ち帰っているかもしれん」

 そう言って道満は梨花をなだめる。梨花はその言葉に小さく頷いた。


◆◇◆


「それでは――、兼家様に関しては何もなかったと?」
「ええ――、そもそもが兼家様は、ここ数年とある寺院の建立に注力しており、外部のましてや異民族への対策には関わっておらぬそうで」
「ふむ――、やはり師よ――これは」

 晴明と道満は二人で考え込む。それを梨花は心配そうに見つめた。

「――ただ、実は最近兼家様が新たに行おうとしている事業があるそうで――」
「それはなんだ? 師よ――」
「それは――」

 その次に晴明が発した言葉に、道満と梨花は驚きの表情で顔を見合わせる。

「荒れ果ててしまっている羅城門を、再建しようという話で――、数日後に兼家様自ら視察を行うという話がありました」
「――」「――」

 道満と梨花は深刻そうな表情で晴明を見る。晴明は何かを悟った様子で二人の顔を見合わせた。

「どうしました? 道満――、梨花さん?」
「いや――、実は梨花が今日――、羅城門近くで静枝らしき人影を見たらしくてな」
「ほう――」

 その事を聞いて晴明は静かに考え込む。

「ならば――、その視察こそが……、静枝が兼家様を襲う好機であると――?」
「おそらくはそうだな師よ――。その視察は止めることは出来んのか?」
「理由もなしに止められると思いますか?」
「む――」

 晴明の言葉に道満は口ごもる。一瞬道満は、兼家に自分が狙われていることを話そうか――とも思ったが……。

「――静枝の存在がばれたら――、土蜘蛛と都との間に余計な争いが起こる――か」

 そうでなくても今の道満たちのするべきことは――、

「すみません!! 晴明様――道満様!! 静枝の事は――秘密に……」

 そう言って梨花は頭を下げる。――梨花の幼馴染である静枝の命を救い……、二人の友情を守る事こそかの源博雅が望んだことであろう。

「わかっています――、このことはなるべく、私たち以外には秘密で行動しなければなりません」
「うむ――ならば……、今からやることは一つだな師よ」

 晴明と道満が頷き合う様子を梨花は疑問の表情で見る。

「これから――、何をなさるので?」
「占うのですよ」
「え? 占い?」

 その晴明の言葉に驚きの表情を浮かべる梨花。

「占いって――、それで居場所を探ると?」
「そうです――。その静枝さんが羅城門の近くに潜んでいるのは確定でしょうから。そこからなら彼女の潜伏場所を占うことは十分可能です」
「でも――」

 果たして占いというものが本当に効果があるものなのか梨花は疑問に思う。その半信半疑な表情を見て晴明は笑って言った。

「我々はこの占いこそが本分ともいうべきものなのです。無論――、あくまで占う個人の言を信ずるだけの証拠がなければ、特定の事件などの捜査には役に立つものではありませんが」
「はあ――、事件の捜査――ですか?」
「ふふ――、いいですか? もしある事件が起こった時、基本的に我々は……、まず占いで犯人たる人物を特定いたします。そして――、それを立証する証拠を周囲に固めていくのです」
「あ――なるほど」

 要するに陰陽師にとっての占いは――、それ以降の仕事を進めるうえでの単純な方向性を決定するものであり、それをもとに地道な作業で進むべき道を作り出していく――、それをどれだけ上手に素早くできるかが陰陽師という存在の価値に繋がっていくのである。

「とりあえず――、占いでこれからの方針を決めるためにも、静枝さんの居場所を探ってみましょう」
「そうだな師よ――、それからが本番――だな?」
「ええ――」

 晴明は道満に頷くと――、すぐに立ち上がって占いの準備を始める。はたして――それで示されるものは?


◆◇◆


「――羅城門への視察――、それこそが我らの好機――」

 外套の人物はそう言って静枝に向かって笑う。静枝はその顔に闇を纏いながら答えた。

「わかっている――、その時に必ず始末する……。それでお前もやりやすくなるのだろう?」
「ふふ――、私を気遣っていただけて、有難いですな」
「ふん――、ただ利害が一致しているだけだがな」

 外套の人物はそれでも笑いながら静枝に答える。

「それで構いませんとも――、利害が一致しているという事は……、その利害があるうちは信用されるという事でしょう?」
「人間は信用しない――が、本来は――と言っておこう」
「それで充分ですとも――」

 外套の人物は静枝の言葉に満足そうに笑った。

(――ふふ、土蜘蛛一族をそそのかして――、兼家を始末させる……、上手くいっても良いし――もし失敗しても……)

 そう――、実はこの者と静枝との間に利害の一致など実は存在しないのだが――、静枝はそれに気づかない。いや――、

(恨みか――、それは容易に人の目を覆う闇になる――、十分利用させてもらうぞ? 愚かな妖魔よ――)

 外套の人物の笑顔にどのような思惑があるのか? ――その時の静枝は全く気付くことはなかった。
「父上――、またあの者達と会っていたのですか?」

 そう言って屋敷へ帰還した外套の人物を出迎えたのは、齢二十代前半であろう青年であった。

「おお――満顕(みつあき)参っておったのか?」
「ええ――計画が滞りないかと……少し心配になりまして」

 その言葉を聞いて、外套の人物は小さく笑って顔を隠す外套を脱ぐ。

「心配いらぬ――、この父に任せておけばよい」

 そう言って笑う男は――、現在正四位下・参議の地位にある藤原満成(ふじわらのみつなり)であった。

「無論、父の事は信じておりますとも――。しかし、父上の後ろ盾であった藤原兼通(ふじわらのかねみち)様が薨去なさってから――、その政敵であった兼家が復権……そのあおりで父の出世も滞り――」
「ふん――、お前の言いたいことはわかっておる……。兼通様亡き今、無茶なことも出来なくなったからな――。”あの事実”が兼家に知られていたら――私も……」
「本当に危ないところで――、まあ弟も反省をしているようなので。父上もこれ以上満忠(みつただ)を責めるのは――」

 そういう満顕に満成はため息をついて言った。

「まあ――わかっておるさ。責めるつもりなど毛頭ない。そもそも――、妖魔など利用できるなら利用すればいい木っ端に過ぎぬ存在。それをどうしたところでとやかく言われる筋合いなどないのだが」
「――まあ、それを利用して父上を、追い落とそうとする者がいるのも事実です」
「今は我慢の時だ――、兼家が消えれば……芽もあろう。そうでなくても――、あまりやりたくはないが、奴に取り入ればよいだけの事」
「――でも、そうであっても過去のアレがついて回る」

 その息子の言葉に満成は頷く。

「――息子が……あずかり知らぬとはいえ、土蜘蛛と通じていたなど、さすがに広めるわけにはいかぬ」
「――満忠は……」
「うむ――、また妙な術にかぶれて――、もはや土蜘蛛のことなど忘れておるようだ」

 満成はもう一人の息子である満忠の事を考える。彼は幼いころより学術方面に才を発揮し、呪法――陰陽道や大陸の仙道にすら手を出して、非公式ながら並の陰陽師すらしのぐ術を扱えた。

「あの子は、興味のある事は徹底的に調べねば気が済まぬタチ――、それゆえに一時期は土蜘蛛の術具技術にこだわっていたが――」
「――同時に、冷めるときはすぐに冷めますからな――。もはやかの技術の事など弟の頭の端にもないでしょうな」

 二人は”困ったものだ”と彼を想う。そもそもこの事態を生んだのは彼のせいである。

「――かかわった土蜘蛛の集落は滅ぼしておる。もはやそれを覚えている者は満忠と――、滅ぼした集落の土蜘蛛しかおらん」
「そして――、その土蜘蛛も――」
「ああ……、少なくともこれから起こる兼家襲撃で――、そのまま死ぬか……あるいは後で始末してしまえばよい」

 満成はそう言ってほくそ笑む。そう――彼にとっては兼家襲撃が成功しようがどうでもいい事なのだ。どうせ生き証人は消えるのだから。

「ついでに兼家を始末してくれたなら喜ばしい話だが――、まあ無理か?」
「ええ――、さすがの妖魔とはいえ、戦闘能力などない土蜘蛛にすぎませんからな」

 ふと満成は笑顔を消して満顕を見る。

「満顕――、かの兼家襲撃の際、私も連中のもとに顔を出さねばならん。護衛を引き受けてはくれぬか?」
「いいですとも――、成功した暁には……わが剣で土蜘蛛を皆殺しにすればよいのでしょう?」
「そうだ――、お前ならば可能であろう?」

 そう言って笑う満成に――満顕は笑って答えた。

「惜しい娘がいるなら手足を捥いで我がモノとするのもよいですな」
「ふ――、お前の悪癖も極まっておるな……。正直、妖魔に手を出すなど信じられぬ話だが」
「アレはアレで玩具としては良いものですぞ?」

 そういやらしく笑う満顕に、少し苦笑いしつつ満成は頷いた。

「まあ――、好みの娘が居たら好きにするがよい。どうするもお前の自由だ……」
「それはありがたい――父上」

 二人はそう顔を見合わせて笑いあう。あまりに悪辣なその会話を、側で聞く者は一人もいない。
 ――ただ夜が更け、空に昇った月だけがそれを聞いていたのである。


◆◇◆


「――」

 羅城門の近くの誰も住まぬ古びた屋敷――。その夜、静枝は一人寝付けず月夜を眺めていた。
 襲撃が間近に迫った今――、準備はすべて整っている。もはや心配することなどない――そのハズだが。

「――私は……」

 静枝は自分の胸を掴んで顔を歪ませる。今でも鮮明に思い出せる。

(――ああ、あの赤い炎……、友の家族の遺骸――)

 それはかつて生き抜いた地獄の光景。

(――復讐する――。思い知らせる――、絶対に)

 それはあの日から胸に秘める強い決意。

(あの男――、人間の言葉は信用できない――)

 あの外套の人物――、彼とは復讐をするために情報を集めていた数年前からの付き合いであり。

(いつもアイツは言っていた――、兼家こそが件の首謀者であると)

 静枝は――でも……と考える。

(正直、それが事実である確証など私にはない――。騙されている可能性も無論ある――)

 でももう自分にとってはそんなことはどうでもいい事である。
 あの日――、地獄を生き延びてから――、寝ても覚めても心をあの地獄が苛んでいる。

(私は忘れることが出来ない――、嫌でも思い出す――)

 それはまさに心に突き刺さった大きな棘であり――、事実彼女の精神はすでに壊れていた。
 ――そう、もはや彼女には後戻りするという手段が残されてはいなかった。
 復讐を遂げなければ――彼女の心は今以上に壊れ――砕けてしまうのだから。

「――梨花」

 静枝は、自分を心配して、いつもそばに居てくれた優しい幼馴染を想う。
 彼女には――、一緒に復讐することを断られ――、そしてそれが理由で喧嘩別れになっている。

「ごめんね――梨花」

 彼女は常に――、第一に自分の事を想ってくれていた。それはわかっていた――、

「でもこれだけは――」

 梨花の悲しげな瞳を想って静枝は空を見上げる。そこに美しい月が輝いている。

(復讐が成功する可能性は高くない――、返り討ちになる可能性の方が高い……)

 でも――、静枝にとっては、心が砕けるか、その身か砕けるかの違いでしかなく――。

「どちらにしろ砕けるのなら――進むしかないのよ」

 それこそが――、不確かな情報すら信じて復讐を実行しようとする真意であった。

 ――ふと、何か物音が静枝の耳に届いてくる。それは、この屋敷の門扉が開かれる音であり――。

「――」

 静枝は黙って闇へと身を隠す。そして――、

「静枝――」

 その声を確かに聴いた。

「え? 梨花?」

 それは確かに大切な幼馴染の声であり――。その声に屋敷内で休んでいた仲間たちが目覚め始める。

「静枝!!」

 仲間の一人が静枝に声をかける。

「待って――、この声は……」

 そういう静枝の目の前に――数人の人物が現れた。

「貴方――」

 それは確かに梨花と――、二人の男。

「貴方が――静枝さんですね?」

 そう言って静に佇む男の一人は――、

「安倍晴明――」

 それは確かに都の守護を司る名の知れた陰陽師であった。
 その光景を見た時――、静枝は何が起こったのか理解出来ずにいた。
 自分の大切な幼馴染が、人間――それも平安京の守護を担うその中心的人物とともに現れたからである。
 そして――、その事は静枝の憎悪に凝り固まった心によって、最悪の勘違いを導く結果となった。

「なんで? ――梨花」
「静枝――やっと見つけた……」
「梨花――、貴方」

 静枝の顔が青白く変わっていく。それを不思議に思いつつ梨花は言った。

「――静枝……、こんなところで何してるの?」
「梨花――」
「もう――こんなことはやめて……」
「梨花!!」

 不意に静枝が絶叫する。それを驚きの表情で見る梨花。

「――貴方、なんで人間の――そいつと一緒にいるの?」
「え? この二人の事? ――この人たちは」
「裏切ったの?」
「え――」

 その静枝の言葉に、梨花は妙な方向に静枝の思考が向かおうとしている事実に気づいた。

「あ――、違うの――この人たちは……」
「梨花!! ――裏切ったのね?! 人間に私を売り飛ばしたのね!!」
「ちが――」

 その静枝の叫びに、梨花は言葉を返そうとするが。それを周囲にいる静枝の仲間が制した。

「静枝!! 梨花は裏切り者だ!! この場は私たちに任せて逃げろ!!」
「――く……」

 静枝は仲間の言葉に頷き――、そして静かに梨花を睨む。梨花は慌てて叫ぶ。

「静枝――!! 違うの!! これは――」
「何が違うのか!! ――そいつらが誰か、私だって知ってる!!」
「それは――」

 最悪の事態に――、梨花は背後の晴明たちを振り返る。

「晴明様――」
「ふむ――ここは私に任せてください」

 そう言って晴明が梨花の前に進み出る。

「私の名は安倍晴明――、それは知っておられるのですね?」
「――」

 晴明を睨む静枝に静枝の仲間が叫ぶ。

「こいつの話を聞くな!! 逃げろ!!」
「いや――待っていただきたい。我々はあなた方の敵ではない」
「ふん!! 信用できるか!!」

 叫ぶ仲間たちの様子に、少し冷静を取り戻した静枝が言う。

「敵ではない? ならばなんだというのだ?」
「――私は貴方の過ちを正したいのです」
「過ち? 家族の――仲間の仇を討つことがか?」
「いえ――」

 静枝の言葉に晴明ははっきりと首を横に振る。

「貴方が仇だと信じている藤原兼家様は――、貴方の村を滅ぼした元凶ではないのですよ」
「なに?!」

 その晴明の言葉に驚く静枝。しかし――、

「は――、いまさらそのような話で我らを惑わすつもりか?!」
「そうではありません」
「ならば――証拠はあるのか?!」
「あります」

 そう断言する晴明に驚く静枝。それを見て梨花は涙ながらに訴えた。

「――その兼家って人は……、静枝の村が襲われた時期には、政争に敗れて身動きできない状態だったのよ。そもそもそんな命令を下せる状況じゃなかったの!!」
「な――」

 その事を聞いた静枝は仲間たちは驚きの顔を梨花に向ける。

「――そうです。貴方はもしかして、妙な人物に嘘を吹き込まれているのではないですか?」
「――」

 その言葉に困惑気味に静枝を見つめる静枝の仲間たち。

「――それで?」

 その時、不意に静枝がそう呟く。

「え?」
「それで? ――絶対にあの兼家でないという証拠は?」
「いや――だから」

 静枝の妙に落ち着き払った態度に、困惑の表情になる梨花。

「――いまさら」

 そう小さく呟くと――、静枝は仲間たちに向かって叫んだ。

「何を困惑している!! こいつらは人間だぞ?! 仲間を庇うために嘘も付く!!」
「え?!」

 その言葉を聞いて、梨花だけでなく晴明たちすら驚きの表情をつくる。

「――そ、そうか!! そうだよな!!」

 静枝の仲間たちは納得した風で再び警戒態勢をとる。それを見て晴明は――、

「静枝さん――貴方」
「安倍晴明――、仲間を庇おうとしても無駄だ!! 我々は必ず兼家という外道を討つ!!」
「――」

 その言葉に――何かを悟ったような表情を晴明は作った。

「まずいですね――、少々、我々も事を焦り過ぎたようです」

 晴明はその状況を見てさすがに後悔をする。静枝の深層にある心を読み切れていなかったからである。

「待って――、静枝!! この人たちは敵では――」
「人間は敵だ――、それ以外にない!!」
「静枝――」

 梨花の言葉に耳を貸そうとしない静枝。さすがに晴明は考える。

(――私としたことが……、いけませんね――。この歳になってもまだ、ヒトの心というモノの複雑さを理解できていないとは)

 ――と、その時、道満が叫ぶ。

「おい!! 師よ!! 静枝に逃げられるぞ!!」
「――強引に捕まえる――しかないのか?!」

 そんな事をすれば今度こそ――。その段になって晴明は珍しく焦りを得ていた。
 結局今わの際まで語り合えなかった源博雅の事があって、晴明は彼女らもそうなるのではないかという恐れがあったのである。

「静枝殿!! 貴方は本当に――」
「――」

 珍しく焦りを浮かべる晴明を睨んで静枝は踵を返す。

「――梨花――」
「静枝!!」

 梨花の叫びもむなしく、仲間に庇われた静枝は逃走を図る。それを止めようと道満は奔るが――。

「道満様!!」

 邪魔する静枝の仲間を殴り飛ばそうとする道満に、梨花が悲鳴のような声を上げた。

「やめて!!」
「しかし――!!」

 そう言って振り返る道満の目に――、梨花の涙が写った。

(――クソ!! なんてこった!! ――あの静枝という娘の心がここまで頑なだったとは――)

 道満は梨花の涙を見て身動きが取れなくなる。その唇をかみ――、静枝たちが逃走するのを黙って眺める。
 事態は最悪な方へと転がっていく――。晴明と道満は、彼女の本心を読み切れなかった自分たちの事を悔いる他なかったのである。


◆◇◆


「――」

 誰もいなくなった屋敷の中で、ただ梨花の泣き声だけが響く。

「――申し訳ない」

 そう言って晴明は頭を下げる。それに梨花は答えた。

「いいえ――、静枝を見つける事が出来ればどうにかなると……勝手に思い込んでいたのは私です」
「――いや、誤解が解ければどうにかなると――、我々も軽く考えすぎていた。そうならない事態を想定していなかった私たちの落ち度でしょう」
「晴明様――」

 涙にくれる梨花に――晴明は答える。

「一応――式は飛ばして追跡させていますが――。術具にたけた土蜘蛛相手では、どれだけの追跡が出来るかわかりません」
「――すぐに見失う――か」

 晴明の言葉に道満が苦虫を噛みつぶしたような表情をつくる。

「ならば――、もう――、襲撃の時に止める以外に――」

 その道満の言葉に晴明は頷く。

「このことがあった以上――、彼女らの術師への警戒は強くなるでしょう。占いで正確な襲撃時期を予測することはできますが――、止めるには強引な手段が必要になる」

 その言葉に梨花は心配そうな顔を晴明に向ける。

「梨花さん――、彼女らが傷つくのを恐れるのは理解できますが。こうなった以上――」
「――わかりました。でも――一回だけ……、一回だけ彼女と話す機会をください」
「――わかりました。こうなった責は我々にあります。必ずその機会を作って見せましょう」

 その晴明の言葉に、梨花は涙を拭いて決意の表情になる。
 大切な幼馴染に大切な言葉をかけることはできなかった――、その後悔を次は決してしない。それだけを心の中で決意したのである。


◆◇◆


 それから一週間――、結局静枝の行方を見つけることはかなわなかった。そして、とうとう藤原兼家による羅城門視察が始まろうとしていたのである。
 その日、羅城門付近は厳重な警戒態勢にあった。――実は、どこかから藤原兼家が何者かに狙われている――、という匿名の知らせがあったからである。
 検非違使は周囲を警戒し――、その警戒の中心を藤原兼家が歩いていく。
 ――時は正午過ぎ――、晴天に恵まれたその日――、荒れ果てた羅城門はただ何も語らず佇んでいた。

「本当に荒れておるな――」

 口を袖で隠して兼家が言う。それもそのハズ――、羅城門の屋根裏には死んだ人間の遺骸が打ち捨てられ、それゆえに腐臭が漂っていたのである。
 かつてはきらびやかに飾られていた壁や柱も、もはや古び――、或いは装飾がはぎとられてしまい、まさに無残な姿であった。

「この改修は――相当手間になるな。しかし――」

 それだけに自分の名を内裏全体――そして帝へと届ける役に立つだろうと兼家は考えた。
 と――不意に、兼家の鼻に腐臭以外の匂いが届く。それは――、

「む? 何かが焼けるような――」

 ――そう疑問に思う兼家。そうそれこそが、それから起こる事件の始まりとなったのである。


◆◇◆


 起こる事件のしばらく前――。

「――仲間はどうした?」

 外套の人物がそう言って静枝に聞く。静枝は静かに答えた。

「すでに襲撃態勢に入っている」
「――それは、大丈夫なのか? 勝手をされると、こちらの手引きが出来ぬ可能があるが?」
「――いいのだ……、もはや」
「?」

 その静枝の言葉に疑問の表情をつくる外套の人物。それを見つつ静枝は考える。

(あの晴明の言うとおり――、もしかしたら私たちはこの人間にいいように使われているのかもしれない。でも――)

 復讐を中止する? そんな事は――許されない。なぜなら――、この日のために静枝はすべての準備をしてきたのだから。
 だからここはすべてを黙って襲撃をする。大きな反撃を受けて多くの者が死に――、自分も死ぬだろうが、そんなことはもはやどうでもいい。

(――梨花……、貴方の事を再び見ることが出来た時点で私の未練はなくなった――。ごめんね――、もう私は止まれないのよ――)

 そう考えながら静枝は踵を返す。それを見咎めて外套の人物は言う。

「貴方までどこに? 勝手なことは――」
「兼家を殺せばそれでよかろう?」
「それは――」

 その静枝の物言いに困惑する外套の人物。そして――、

「すべてを終わりにしてくる――」

 そう言って黙ってその場を去る静枝。それを困った顔で外套の人物は見送った。


◆◇◆


 天元三年――、以前にも大風で倒壊し再建された羅城門は――、この時には荒れ放題であった。
 後の書にある「羅城門上層ニ登リテ死人ヲ見シ盗人ノ語」という話によれば、倒壊以前にはすでに荒廃しており、上層では死者が捨てられていたとされている。
 そして――この日、再び羅城門は倒壊する。
 後の書には暴風雨による倒壊とされたその倒壊によって羅城門は失われ――、それ以降再建されることはなかったといわれる。

「――!!」

 藤原兼家はあまりの事態に驚き目を見開く。羅城門の門下に入った瞬間、その周囲が燃え始めたのである。

「誰か!! 火を止めよ!!」

 そう叫ぶ兼家に従い検非違使たちが消火に走り回る。消化しないと兼家自身羅城門から逃げることが出来ないからである。
 ――その瞬間、兼家の周囲を警戒する者はいなくなる。それこそが――、

「――藤原兼家」
「?」

 不意に語かけられ――兼家が振り返る。そこに静枝が立っていた。

「むすめ? お前は――」
「兼家――、我らの恨みを知れ――」

 そういう娘の周りに――さらに見知らぬ女性たちが集まってくる。
 その光景を首をかしげて見つめる兼家。

 ――かくして、羅城門は大火に巻かれ――、悲しい復讐劇が始まる。
 その時、晴明は自身の屋敷内で護摩を焚き祈祷を繰り返していた。しかし、その知覚はその場にはなく――はるか遠く燃える羅城門を視ている。

(――始まりましたか。ここまでは占術の示す通り――、ならば――)

 ただ意識を集中して祈祷を続ける晴明。
 ここまでの運命は変えることは出来ない。――それはすでに占術で示されている。

(だからこそそのうえで事態を覆す――、それこそが事態を先読みできる自分たちのすべきこと)

 祈祷を続ける晴明の屋敷の屋根に、ポツリと小さな雨が落ちる。
 天は急速にかき曇り――、嵐が来ようとしていた。


◆◇◆


「お前たちは――」

 困惑する兼家を睨みながらその手に小さな刃を握る静枝。それを見て――、さすがに何かを察して兼家は怯えた表情を向けた。

「貴様――、どこの者だ?! まさか――亡き兄上の――?」
「――しらんな」

 焦る兼家に――、静枝は黙って刃を振り上げる。燃える羅城門に兼家の悲鳴が響いた。
 ――と、

「そこまでだ静枝――」

 兼家の背後に何者かが立つ。それを兼家は振り返り――、安堵の表情を向けた。

「お前は――蘆屋道満? 安倍晴明の弟子の?」
「――お逃げなされ……兼家様」
「ありがたい!!」

 兼家はそそくさと道満の背後に隠れ――、その場を去ろうとする。それを静枝の仲間たちが慌てて止めようとする。

「――悪いな」

 ――と、兼家に近づこうとする土蜘蛛たちがいきなり宙を舞う。凄まじい暴風が道満――そして静枝たち土蜘蛛と、兼家を隔てる壁になっていた。
 その場に立っているのは静枝と――そして道満だけになる。

「貴様――邪魔を……」
「当然だ――それが梨花の望みだからな」
「――」

 その言葉に静枝は苦しそうな顔をする。

「お前の事情は聴いている――、だから復讐を辞めろ……とは言わん」
「何?」
「――あくまで拙僧(おれ)の意見ではあるが――、間違った目標を仇にしても意味はあるまい? そのような無駄なことはやめろ」
「――知った風な口を」

 道満の物言いに静枝は怒りで顔を歪ませる。その表情を受け止めて――道満は言う。

「仇を討ちたいのなら――自暴自棄になるな。お前は今憎悪で目がくらんでいるのだ――」
「は――」

 その道満の言葉に静枝は小さく笑った。

「――だったらどうした!! 私にはもはや関係のない話だ!!」

 燃え盛る怒りのままにその手の刃を道満に向けて投げる――、そして――、

 ドン!!

 突然発生した衝撃波に、道満は身をよろけさせる。前方――静枝がいたところに、巨大な妖気の塊があった。

「これは!! ――静枝?!」

 その時、静枝の姿は大きく変わっていた。目が八つになり、腕も二対新たに生えていた。
 ――そして、紅蓮の炎のごとき髪が長く生え――、その身を包んでいる。

「これは――、変化? 源身化? ――いや…、土蜘蛛は人間に極めて近い種であるはず」
「――ふふ……、これで理解したか?」
「貴様――、その姿……、そうか――お前はもはや」
「その通りだ――」

 静枝のその体躯は、先ほどの十倍近くにも巨大化していた。もはやそれは人でも――、土蜘蛛ですらなく……。

「ああ――、やっとわかった。そういう事か――」
「そうだ……、もう私は後戻りはできないんだよ」
「――ち」

 その静枝の言葉に舌打ちをする道満。彼はやっと静枝のすべてを理解した。

(――土蜘蛛……、術具制作技術において、人は愚かどの妖魔より優れた種族――。その技術をもし、自らに対して振るえば――)

 静枝は復讐を誓った時点で心が壊れていたのであろう。そして、自分の身すら復讐の道具として顧みることはなかった。
 自らを復讐を達成するための道具そのものへと変化させ――、そして、

「ああ――、お前は阿呆だ……。なんて阿呆だ」
「言うな――」
「なんでお前は――、梨花が泣くと考えない――」
「言うな!!」

 その静枝の言葉は悲鳴に近く――、そして悲しく響く。

「私はもはや土蜘蛛ですらない――、復讐しか意味がないのだ」
「この――」

 その静枝の言葉に――、道満の心の中の炎が燃え上がった。

「――この阿呆が!!」

 その瞬間――道満は一気に静枝との間合いを詰める。それを迎撃するように三対の鉤爪が縦横無尽に振るわれた。

「――俺は!! 誓った!! お前を生かして梨花の前に立たせると!!」
「そんな事は――無駄だ!!」

 一瞬の応酬で、道満の全身が血まみれに変わる。静枝の動きに道満は追いつけていない。

「無駄だ!! こうなった私に人間ごときが対抗できるものか!!」
「無駄でも――押し通す!! 梨花の想いを守るために!! ――そして……」
「は――……そんなもの――」

 一瞬、静枝の鉤爪がひらめいて、道満が天高く吹き飛ばされる。道満は血まみれで……、口から反吐を吐いて地面に転がり――そして這いずる。

「無駄だ――、もう私には意味がないんだ――。梨花との友情も――もはや」
「もはや? なんだ――」

 反吐を吐き――血まみれの道満は。それでも立ち上がる。

「なんだ? お前の――梨花への想いはその程度か?」
「何?」
「――梨花が――、お前のような阿呆と違い、――力のない弱い娘だと、お前自身知っているだろう?」
「――」

 道満は血を口からまき散らしながら、それでも真剣な表情で静枝に言い放つ。

「その梨花が――、自分の身すら構わず……、なぜ明確な敵と言える都までやって来たか――、なんでお前は理解しようとしない?!」
「く――」

 その道満の言葉に顔を歪ませる静枝。しかし――、

「そんな事――、私は……」
「静枝!!」
「――知っているさ……、こんな馬鹿な私を――、救うなんて」

 その時、やっと静枝の目に涙が浮かぶ。それを見て道満は――、

「――それでもお前は止まれない? ――ならば拙僧(おれ)が力づくで貴様を救う!!」
「ああああああああああ!!」

 その道満の言葉を切っ掛けに静枝は絶叫する。その意識が白く塗りつぶされ――、そして殺戮するだけの機械へと変じる。

「心を――閉じたか。本当に貴様は阿呆だな――。そうして心を閉じねば、友の――梨花の想いが障害となって、復讐すらままならぬという事――か」

 ――だったら――。

「お前の横っ面をはたいて――、目覚めさせる。たとえこの身が砕けても――、梨花の言葉を貴様に届かせて見せる!!」

 ――かくて燃える羅城門にて……、復讐の鬼を救うべく道満の戦いが始まったのである。