呪法奇伝ZERO・平安京異聞録~夕空晴れて明星は煌めき、遥かなる道程に月影は満ちゆく~

 ――ああ、楽しい日々であった――。

 俺がまだ世間の穢れをそれほど知らなかった頃、俺には一匹の友達がいた。
 それは――、小さな猿……、でも明らかにそれは普通の猿ではなかった。なぜなら――、

「おう!! 源次――!! これ旨いぜ!!」
「そうか――、これは母上が作ってくれた握り飯だからな」

 その猿は人の言葉を理解ししゃべることが出来た。それはまさしく妖魔であったが――、当時の俺はそんなことは関係がなかった。

 ――そう、とても楽しかった――。
 相手が妖魔であっても友達になれるのだ――、そう”愚かにも”信じていたのだ。


◆◇◆


「――」

 森を妖魔王の屋敷へと駆ける頼光と配下の二人。しかし、不意に渡辺源次がその場に足を止めた。

「兄者?」

 頼光が何事かと振り向くと、源次ははるか後方――、荒太郎たちが蘆屋道満を留めている方向を向き、何やら思考している様子であった。

「――どうしました?」
「ここからは――二人で進め……」
「?」

 その源次の言葉に困惑の表情を浮かべる頼光。代わりに坂上季猛が言葉を発した。

「――まさか、かの蘆屋道満が、我らに追いついてくると?」
「――」

 押し黙って後方を見つめる源次の様子に、少しため息をついて季猛は言った。

「この場でお前一人でかの者を押しとどめるつもりか?」
「――そうだな」

 それを聞いて頼光は驚きの表情をする。

「――かの妖魔王を相手にするのに、これ以上戦力を減らすのは――」
「いや――、大丈夫であろう」
「え?」

 源次のその答えに頼光は困惑する。――源次は続ける。

「もし――、かの妖魔王が……、道満の言うとおりの話であるなら、お前たちでも始末はできる」
「兄者――それは」

 その言葉に驚き見つめる頼光に顔を向けると、源次は小さく頷き――、そして、静かに今来た方へと歩みを進めていった。

「兄者――」

 頼光はその背中を心配そうに見つめる。しかし――、

「兄者――ここは任せました」

 意を決して、季猛と連れだって再び走り始めたのであった。


◆◇◆


 荒太郎――、金太郎を何とか退けた蘆屋道満。彼はそれからすぐに、姫たちの待つ館へと走り始めた。
 ――当然、それは前方を進む頼光達を追う行為であり。彼らとの相対は絶対と思われ――、心に覚悟を宿して全力疾走していたのである。
 ――と、不意に前方によく知る人物の影を見た。それを見た道満の顔は――少し驚きの顔に変わる。

「――な」
「待っておったぞ――、愚か者」
「源――次」

 それはまさに渡辺源次その人であり――、すでにその手は腰の刀に触れていた。

「荒太郎と、金太郎を退けたか――」
「はん!! 当然だ!! 拙僧(おれ)が奴らなんぞに――」
「ほう――、あの者らは、そんなにやすやすとお前を通したのか――」

 その源次の言葉に――、少し考えた道満は言った。

「いや――、今のはただの冗談だ――、あの者達は確かに強敵であった。拙僧(おれ)が策略において読み勝ちしておらなければ拙僧(おれ)はここにはおらん」
「――ふ、そうか――、あの者らは確かに頼光四天王としての矜持を守ったのだな」

 源次はそう言って小さく笑う。

 ――ならば――。

「もはや問答は無用であろう? お前がかの妖魔王と姫を救うべく奔るなら、俺を越えねばならん――」
「そうだな」

 道満はその手で印を結び――、源次はその腰の刀を触れつつ奔る体勢を作る。

「参る――」

 そう言葉を発した源次は――、信じられない速度で道満との間合いをゼロにした。

「く――」

 高速の剣線が三つ空に奔る。血しぶきが飛んだ。

「か――」

 何とかその身を強化してその剣線を見切った道満は、その身に三つの切り傷を受けつつ後方へと飛んだ。

(――近接戦は不味い!! あまりに不味すぎる――!! あの源次の剣戟――、初めてこの身に受けたが、もはや人外の域に入っておる!!)

 それは戦闘経験が豊富だからこそ理解できる領域。あまりに純粋――、あまりに単純――、そして、あまりに正確――。
 源次の動きはもはや芸術の域に入っており、道満はそれに圧倒されていた。

(これは近接戦では奴は倒せん――、ここは遠距離から――)

 さらに数歩後方に飛んだ道満は、その懐に手を入れて符を数枚空へとほおった。

「急々如律……」

 だが――、道満はその起動呪を唱えきることはできなかった。

「甘いな道満――」

 そう呟いた源次が――、はるか距離の空いたその空間を、一瞬にして飛んだのである。

「な!!」

 それはあまりに鋭い剣線――、まさしく光る光の線となって道満を襲った。

(――馬鹿な!! あの距離が――、こ奴の間合い内なのか?!)

 あまりの事態に肝を冷やす道満。呪を中断して回避を優先する。

「く――!!」

 その源次の刃が、道満の右腕へと到達――、

(腕が――)

 道満は腕が飛ぶ想像をした。――しかし、

「?!」

 剣線が一瞬止まる――、道満は何とか回避して、さらに源次との間合いを離した。

(――これは、マズいな――。あまりに攻撃が鋭く単純ゆえに――、並の策略ではこ奴をどうにかすることは出来ん。あそこまで離れてすら間合い内なら――、結局拙僧(おれ)はその内で戦うべきだ……)

 ハッキリ言って、道満は遠距離よりチマチマやり合うのはそれほど得意ではない。ここまでの達人とやり合うなら――、手数を用意できる近接での戦いに持ち込んだ方が道満にとっては有利になる。

(あそこまで鋭い斬撃では、並の被甲呪では切り捨てられるだけ――、ならば……)

 道満は一瞬考えた後に指で印を結び――、呪を唱えた。

「オンバザラタラマキリクソワカ……、千の手と鏡よ――ここにあれ」
「む――」

 不意に空中に光り輝く鏡が生まれる――、それは盾にも見えて――。

「ほう――、それは防御の為の呪か?」
「は――、アンタの連撃に対応するための――な」

 その言葉を聞いて源次はニヤリと笑う。

「ならば――もはや手加減の必要もないな――」
「へえ――、手加減してくれていたのか?」

 その言葉の答えを発することなく源次は空を奔る。そして――、


◆◇◆


 ガキン!

 月下の森の奥にあって――、鋭い剣線が空を奔り、それを術式の光盾が防ぎ打ち砕いている。
 そうして打ち砕かれ一瞬源次の剣戟が停止する瞬間に、道満は自らの剣印を空に奔らせ、その霊力の刃を源次へと打ち込んでいく。
 道満がそうして扱うのは、彼独自の近接戦闘用の霊力手刀である。霊力の刃ではあるが――”なまくら”であり主に敵に対し打撃を与えるものである。
 最も、身体能力を強化しつつ扱う呪ゆえに、その打撃は大の大人を一撃で昏倒せしめる威力を持つ。
 その他の特徴として――、幽体などの実体を持たぬ存在にも打撃を加えることが出来る。
 その霊力手刀を振るいつつ――、道満は明らかに源次と互角にやり合っていた。

「フン――、なかなかやる――、だがここまでだ。道満――、悪しき妖魔に絆された愚かさを呪うがいい」
「――ち」

 道満は舌打ちしつつ術式を展開する。その光の盾は――、今は相手の太刀筋を防いではいる――が、

(相手は――相当な達人……、さすが腐っても頼光四天王――か)

 道満の術式の守りを相手の剣術は上回りつつある。
 千手観音の加護を以て――千の攻撃を防ぎきるとされる防御ですら、源次の連斬撃に対応しきれなくなりつつあるのだ。

「悪しきを討ち、平安を都にもたらすは我らが使命――、それを邪魔する者は……かの晴明殿の弟子でもゆるさぬ」
「――ち、勝手な話を――、渡辺源次。アイツらの想いも……言葉も、まったく聞く気もない頑固者が――」
「妖魔は悪なり――、それが真実でありすべてだ――」

 その渡辺源次の言葉に、さらに顔を歪ませる道満。もはや彼には言葉は通じぬだろう。

「――は、真実だとか……てめえの思い込みはどうでもいい。こうなったからには、拙僧(おれ)が貴様を殴り飛ばして思い知らせる」
「出来るものか――、先の者達と私を同じにするな?」

 問答無用とばかりに激しく打ち合い――躱し合い――、そしてさらに打ち合う二人の男。
 しばらくすると、目に見えて源次の動きが鈍くなり始めた。

(――これは、いけるか?! 奴は持久力に乏しいと見た――)

 その道満の予測通り――、二人の激しく長い戦闘は、源次の乏しいスタミナを大きく削り――、それまで有利に運んでいた源次の戦況を覆し始めていた。

「はあ――はあ、――粘るものだ……道満」
「は――、もうそろそろ決着も近いようだな――」

 明らかに顔を歪め始めた源次に、道満は笑って答える。

「ち――、ここまで粘られるとは――。俺もやきが回ったか――」
「はは――、こっちも結構ギリギリなんだが――。それでもなんとかなりそうだな」
「ふ――、俺を甘く見るな……」

 先が見え始めた戦い――、その時、ふと道満は他ごとを考える。そして、その思考をそのまま口に出した。

「そういえば――、なぜだ? ――お前はなぜそこまで妖魔を憎む?」
「ふん?」

 その言葉を聞いて、源次は少し目を細めて思考する。

「なぜ――か」
「かの茨木童子に身内を殺されたからか?」
「ああ――アレは」

 と――、その次に源次は驚愕の事実を口にする。

「アレは嘘だ――」
「な?!」
「茨木童子に身内を殺されてはいない」

 その言葉に唖然とする道満。それを見て源次は笑う。

「あの時は――、仇だ何だとうるさいあの鬼神を黙らせたかった――。それだけだ」
「馬鹿な――嘘だと?!」
「その通りだ――、それに……」

 その瞬間、源次は顔を大きく歪ませる。

「俺の恨みの根源は、そこではない――」
「む? ――どういう意味だ?」

 源次は黙って道満を見る。そして、小さく笑って言った。

「わかった――、いい機会だから話してやろう――。俺の恨みの根源を――」
「――」

 それから話すことは――道満の心を強く抉ることになる。
 それは――、源次がいまだ十を越えていない齢の時――。彼には密かな友達がいた。
 それは喋ることのできる猿――、妖魔族を切る剣士の家系にあって――、そのような輩との交流は忌避すべきものであったが、子供である源次にはどうでもよい話であった。
 ある日出会った彼らは、共に遊ぶようになって――、餌付けでもするように家の食べ物をその猿に分け与えた。
 ――おいしい、おいしいと喜ぶ猿に満足して――、そして、楽しく遊ぶ日々。
 そんなある日、猿はこのように源次に言った。

「いつも飯を食べさせてくれるが――、お前の母上とやらは相当に料理がうまいのだな」
「ああ――、上手いぞ!! 母上の手料理は誰にも負けぬさ!!」
「それは――、そのような母上に……、俺も会ってみたいな」
「む?」

 それは困ったと源次は思う。それも当然、家の者に黙って猿と遊んでいることを知られたら、どのように叱られることか。
 しかし――、母を褒められた源次は、猿に自慢の母を紹介してやりたいと思った。

 ――思ってしまった。
 それが――悲劇につながると知らず。

 そこまで語った源次は――、苦し気に顔を歪ませる。道満はそこから全てを察して答えた。

「――まさか、その猿――」
「ああ――、歳へて妖物となったものは変化を覚える。当時の俺は知らなかった――、その小さくかわいい猿が――、巨大で恐ろしい狒々であった事を」
「――」

 その言葉に道満は絶句する――、そのような存在に母を合わせればどうなるか、――最悪の予想はつく。

「お前の考えている通りだよ――。母上は――、猿に合わせた瞬間、頭を食われて死んだ――」
「く――」
「俺は騙されていた――、その猿――狒々に……、俺を奴が喰らわなかったのは――、俺の肉が小さく痩せて――旨そうではなかった……からだと奴本人の口からきいた」

 それは――、あまりにも――。

(――く、そういう事かよ――。何気なく事情を聴くつもりが最悪を踏んじまった)

 道満は後悔する――、彼に過去を聞くべきではなかった。これほどの絶望を彼に語らせるなど――。

(妖魔を――恨んで当然だ――。こんな胸糞悪い話――)

 苦しげに呻く道満を見て源次は小さく笑う。

「これで理解したか? 俺の憎悪の根源を――」
「源――次」
「そうだ――、俺は妖魔が憎い――、だから殺すのだ」
「――」
「――だから俺は、何度もお前に言っている。お前はなぜ妖魔の言葉を簡単に信じる?」

 それは――、かつて妖魔に騙され、大事な母を殺された者だからの当然ともいえる疑問。

「――それは」

 その疑問に道満は二の句が継げない。――道満は――、

(――ち、拙僧(おれ)は――)

 ――ただ黙って顔を歪める。それを見て源次は笑って言った。

「どうした? 妖魔王と姫を救いに行くのではないのか?」

 不意に源次からそう声がかけられる。それを聞いて道満は――、

(――く、拙僧(おれ)は何を考えている!! 源次の過去と――姫たちの話は別だ!! 拙僧(おれ)は――)

「そうだ――。お前の憎悪が本物だとしても――、拙僧(おれ)はおまえを倒して――先に進む」
「妖魔を――、その言葉を、信じるというのだな?」
「ああ――、少なくともあいつらはお前の過去の猿とは違う――。そう拙僧(おれ)は信じている」
「ふん――」

 その答えに――源次は嘲笑ではない、納得したという風の笑顔を見せて言った。

「ならば全力で来るがいい――、貴様の決意を証明して見せろ。俺は――このまま敗北するほど、その憎悪は弱くはないと思え?」

 かくして――、相対が再開される。
 源次はその短い会話の間に息を整えてはいたが――、それでもスタミナを回復させるには至らなかった。
 道満もまた――、動きが鈍くなったとはいえ、信じれないほど繊細な動きで躱し続ける源次に、決定打が打てずに時間だけが過ぎていった。
 ――そうして、永遠に続くかと思われるほどの相対であったが、しかし――確実に決着に向かって進んでいたのである。


◆◇◆


「――む」

 道満はそれからの数撃の打ち合いの後、一つの疑問を心に持ち始めていた。

(――あれから、幾度か打ち合ったが――、その鋭さは未だ恐ろしいが――決定打と呼べるものを打つ気配がない)

 それはまるで手加減をされているような、そのような明らかな意図が感じられた。しかし――、

(いや――そんなことがあるわけがない。あれほどの憎悪を持ち――、妖魔を救おうとする拙僧(おれ)と戦っておるのだ)

 道満はそう思いなおす。あれほどの過去を持つ者が――、そのような事――あるわけが――。

(――いや、まさか――)

 その時、ふと道満はある予想にたどり着く。

(まさか――これは――、手加減ではなく――)

 その考えに至った瞬間、道満の口から自然に言葉が生まれていた。

「そうか――、そういう事か」
「む? なんだ?」

 理解したという表情の道満に、少し困惑の表情を向ける源次――。その困惑を見ながら道満は呟いた。

「――お前は妖魔が憎いのではなく――、かつての事を引きずっておるのか」
「――!!」

 その道満の言葉を驚きの表情で見る源次。

「――何を」
「だから――、お前は、拙僧(おれ)の話が本当の事だろうと理解できても――、戦わざるおえない」
「――」

 それならば納得がいく――。源次は妖魔が憎いといいつつ――、先ほどから”妖魔王と姫を救いに行かなくていいのか?”と道満に語りかけてきている。
 源次はそもそも――、妖魔は悪しき存在で、人のような心など持ってはいない、と考えているのではないのか? そうならば――、そもそも妖魔王と姫の想いなど一笑にふすはず。

「お前は――、妖魔は悪しき存在と言いつつ――、まるで妖魔王と姫の間の想いは理解しているかのようにさっきから話している」
「それは――」

 道満への挑発? それにしては、源次からそれほどの憎悪が感じられないのだ。それは戦い方にしてもソレだとわかる。

「お前は――、初めの斬撃で拙僧(おれ)の腕を叩き落とすことが出来た――。でもしなかった――、躊躇いがあった――」
「――」
「お前ならば――、お前が本当に妖魔を憎悪しているなら――、拙僧(おれ)みたいに妖魔の肩を持つ者も憎悪の対象であるはず――。それなら普通は拙僧(おれ)の腕を断つことをためらったりはしない」

 ――でも、源次はそれをしなかった。できなかった――のではなく。

「俺は――」
「――なんで、あれほどの過去を持ちながら――、拙僧(おれ)に憎悪を向けない? 拙僧(おれ)は憎い妖魔を救おうとしているのだぞ?」

 道満のその疑問に――、不意に何かを悟ったような目で源次は呟く。

「俺は楽しかった――、確かに楽しかったんだ――、あの猿との日々が――」
「そうか――」
「――そして、俺はその猿に騙され――、すべては憎悪となって、そして妖魔どもを駆逐すべく剣を鍛えた――」

 その目ははるか遠くを見つめる。

「でも――、大人になり……世間を知り、善悪を知るにつれ――、俺の憎悪は後悔に変わっていった」
「源次――、お前」
「――そうだ、妖魔にも心はある――、少なくとも俺は今までの経験で理解している。なぜなら――」

 源次は自身の手を見つめる。

「俺は憎悪に捕らわれている間、多くの妖魔をこの手で殺してきたが――、その中には確かに子を想う母や――、子供すらいたのだから――」
「――」
「憎悪を晴らすのは心地よかった――、子を想う母、母を想う子――、そんな妖魔を嬲り殺しにして――、俺は笑っていた」

 源次はついに目に涙を浮かべる。

「だが――それは――、かの猿のやった事と、どれほどの違いがあるのか?」
「――」
「後悔だけが残った――、もはや俺の憎悪は枯れ果てて――。――でも、俺にはこの剣が止められない――。妖魔の心を知っても――、あの時の後悔が俺の心に突き刺さる」

 道満は心から目の前の男を哀れだと感じた。
 理解しても――、止められない――、心の傷が彼の剣を動かしているのだ。

「そうか――、やはりお前は、妖魔が憎いのではなく――」
「――信じることが出来ぬのだ――。それを俺は”憎んでいる”と、そう言い張っているだけの愚か者だ」

 道満はただ源次を見つめて言う。

「ならば――、これから拙僧(おれ)はお前を全力で叩きのめす」
「――」
「お前をここで倒して――、……もう休め――、そう言ってやる」

 その言葉に源次は答える。

「――そうだ、それでいい道満――。俺を倒して見せろ――、俺を止めて見せろ」

 その瞬間、源次はその手の刀を構えて道満へと走る。それを自身の呪力を練り上げ全開にして迎え撃つ道満。

(――俺はかつて――、妖魔と人とは友達になれると信じていた――)

 その一瞬――二人の男の影が交差し――。――そして、長い静寂が森を包む。
 後悔に揺れる刃は鋭さを失い――、道満はそれを確かに打ち砕いた。

「――道満」
「ああ――」
「かつての俺の想い――、正しかったのだと証明してくれ」

 それは源次の切なる願い――、道満は確かに頷き。そして――、
 そのまま源次はその意識を闇に没した。
 道満は森を奔る――。
 かの渡辺源次を倒した道満は、それを優しく横たえた後、姫たちが待つであろう三つ蛇岳の頂上の屋敷を目指した。
 月は高く上り――夜は、森の闇をさらに深くしていく。そのような中でも、道満は確かにかの屋敷への道を進んでおり、その速度は疾風のごとくに早かった。

(――追いつけるか? あの二人――、源頼光と坂上季猛に……)

 頼光四天王三人と戦い、時間を浪費しすぎていた道満はその顔に焦りが見られる。もうすでに二人が屋敷についている可能性も考えられるが――、それでも道満は諦めるという事はしなかった。

 ――拙僧(おれ)は誓った――、あの二人の想いを救ってやると――。

 それはもはや理屈ではない――。道満には本来なら彼らを救う義理などない。
 でも一度救うと誓った――その誓いを違えるなど――、道満は死んでも嫌だった。

 その一心で走る道満の目に小さな明かりが見えた。それを見た道満は少し速度を落とし――、その光をめがけて駆けた。

「――む」
「待っていたぞ」

 その明かりの正体は――、頼光四天王最後の一人、坂上季猛の持つ松明の炎であった。

「ふふ――、お早い御着きですね蘆屋道満」
「――貴様、拙僧(おれ)を待っておったのか?」
「ええ、その通りです」

 その言葉に道満は困惑の顔を向ける。

「あの頼光を一人で行かせたと?」
「ええ――、大丈夫でしょう?」

 ――季猛は、その顔に笑みを浮かべて言った。

「――あなたの見立てが正解ならば……、かの妖魔は頼光様だけでも始末はつけられます」
「貴様――」

 さすがに――季猛のその言葉に、怒りの表情をつくる道満。それを微笑みで軽くいなして季猛は言った。

「それで――どうでしたか?」
「ふん? どういう意味だ?」
「貴方が今まで倒してきた者達――、彼らの妖魔に対する考え方について……です」

 その季猛の言葉に少々困惑しつつ道満は答える。

「貴様が何を言いたいのかは知らんが――。少なくとも、”そもそも何も考えておらん”金太郎以外は――、拙僧(おれ)にとっては納得のいく考えを持っていた」
「そうですか――」

 その道満の言葉を満足そうに聞く季猛。彼は少し考えた後、何度も頷きながら話し始めた。

「荒太郎――、彼は妖魔族の血を引く山岳集落の出身です。それゆえに、最も妖魔族に対して公平かつ慈悲深い考えを持っています」
「あの男が――」
「ええ――、彼はあれで結構人見知りでして……。我々仲間内でも自身の事を話したがらないので――。でも本心は最も妖魔族に近しい考えを持っている御仁ですね」

 道満は、あの荒太郎の言葉を思い出す。

”腹をくくれ――蘆屋道満!! お前が本当に操られておらぬのなら――、拙者など押しのけて姫やかの妖魔を救いにいけ!!”

(どおりで拙僧(おれ)の話をあっさり信じてくれるわけだ――)

 納得した風で考え込む道満を、季猛は笑うながら見つめる。

「――そして金太郎――は飛ばして……」
「……」
「渡辺源次殿は――、妖魔に対して最も複雑な考えを持ちます」

 季猛は少し笑顔を消して――、

「彼は――昔は妖魔への憎悪に凝り固まっていました。でも戦いを経るにつれて――、彼の認識も変わったようでして……」
「――」
「憎悪するがゆえに――、強く感情を抱いているがゆえに見えるものもある。彼は――妖魔にも心があり、善悪があることを知ったのです」
「――それで、今まで憎悪によって虐殺してきた、その行為を後悔して――」
「そうですね――、彼は今でも悪しき妖魔なら慈悲なく殺せます。でも――、そうでない妖魔に対しては複雑な想いを抱いている」

 季猛は月を眺めつつ語る。

「――かつて母を殺した妖魔はすでにこの世におらず――、行き場を失った憎悪のままに無益な殺戮を繰り返した。その後悔は果てしなく――、同時に妖魔を信じ切れない心との板挟みになっている」
「――だから、さっき拙僧(おれ)に止めてもらいたくて――」
「ええ――、本気で慈悲を消した源次が相手ならば――、貴方はこの場に立ってはいなかったでしょう」

 その時、道満は納得したという表情を浮かべる。

「そういえば――、アイツは茨木童子に……自分の身内が殺されたって嘘を言っていた」
「ああ――その話は……」
「今ならば理解できるぜ――、アイツは――、茨木童子に自分を見たんだろ?」
「――その通りです。母の仇をおびき出すべく無益な殺戮を繰り返した茨木童子――、それを自分と同じ”愚か者”だと考えて――」
「それで――、あんな嘘を言って、少しでもやり込めたかったのか」

 その道満の答えに満足そうに笑う季猛。それを一瞬不思議モノを見る目で見た道満は――、

「アンタは――、どうなんだ?」
「私ですか?」

 不意の質問に季猛は驚いた表情をして――、そして笑った。

「私は――、どちらかというと源次と境遇が似ています。でも――憎悪も後悔もすでに枯れ果て……、今私に残っているのは、我が主”源満仲(みなもとのみつなか)”様への忠誠のみです」
「源満仲? 頼光ではなく?」
「ええ――、私の正式な主は満仲様です。頼光様とはお目付け役としてお側におります」

 その季猛の言葉に眉を顰める道満。

「――ってことは、主の子供の御守りって奴か?」
「そうですね――、ですから私は満仲様の命令に従い――、”頼光の指示で動け”という命令を今もこなしています」
「その指示っていうのは――、拙僧(おれ)をここで止めろって話か?」

 その道満の言葉に季猛は朗らかに笑って答えた。

「その通りですよ――。まあ、止める方法は特に限定されていませんし」
「――だからこその長話――と?」
「フフ――」

 ――ならば――。
 道満は季猛を睨んでその指で印を結ぶ。それを見て季猛は笑って言った。

「やはり――、戦いになりますか」
「当然だろ?」
「まあ――、そうですね。でも――、最後に一つだけお話が……」
「ふん? 時間稼ぎか? とっとと話せ――」

 不満げな道満を笑顔で制して季猛は語り始める。

「では――、”あの時”道満殿は頼光様の言葉に疑問を抱いていましたよね?」
「――む”あの時”――」

 季猛の言うあの時の言葉とは――。

”なぜ――? 妖魔の命を慮る必要があるのですか?”

「――」
「頼光様は――、幼いころから満仲様より数々の試練を与えられてきました」
「試練? それは――」
「――そう試練。でもその試練は、武人としての成長を促すものがほぼすべてでした。要するに――、悪人を始末する――あるいは人に仇名す妖魔を退治するなどです」

 季猛は笑みを消して話を続ける。

「さらに言うと――、頼光様は弱く優しい妖魔との関わりは全くありませんでした。彼が今まで目にしてきた妖魔は、すべからく退治すべきものだけなんです」
「――まさか」
「考えてみてください――。”害虫”を退治する役割の者が――”害虫”の心を慮りますか?」
「く――」

 その言葉にさすがに怒りが濃くなる道満。

「蟲にも親子はいるでしょう――、心ももしかしたらあるかもしれない。でも頼光様は妖魔を害虫と同列とみなしている。蟲に子があることを知って――、蟲がそれ以上増えることを考えてまとめて駆除することは考えても、その蟲に慈悲を向けることはない」
「――な、それでは――」
「頼光様は――、生真面目で――、正直で――、純粋です。でも――純粋だからと言っても”慈悲深い”とは限らない」
「――」

 道満は季猛の言葉に絶句する。それを見て頷きつつ季猛は言った。

「これが――、貴方が頼光様の言葉から得た疑問の答えです」
「――源……頼光」

 その時道満は妙に納得する。そういえば師である安倍晴明も――、”源頼光ほど融通の利かない御仁はいない”と確かに言っていた。

「それで――、貴様は何が言いたい?」
「ふふ――、もし道満殿が、万が一私に勝って先に進めば――、今までとはまた違った試練になるのでは? ――と予想しましてね?」
「は? 意味が分からん――」

 さすがに困惑する道満に笑いかけながら、季猛はその背に担いだ長弓を手にする。

「――では、お話はこれまでにして――。始めましょうか?」

 月夜の下、妖魔の屋敷を目前にして最後の頼光四天王と相対する蘆屋道満。
 ――果たしてその戦いの先にあるものは?
「――まさか、この近距離で弓を扱うつもりか?」

 道満はそう言って季猛を挑発する。それもそのはず――、今二人はお互いを目前にして相対しているのだ、遠距離攻撃武器である弓が役に立つとは思えなかった。

「ふふ―、試してみますか?」

 しかし、季猛はいたって冷静にそう答える。ここまでの自信を持つという事は――、

(この距離でも弓矢を扱える――、その自信があるから――か)

 冷静にそう分析した道満は、剣印を組んだ指に力を籠め――、そして呪を唱える。

(――だが、相手はあくまで遠距離が専門である弓兵――、運動能力を強化した拙僧(おれ)に追いつけるとは思えん)

 そう考えた道満は――、即座に季猛との間合いを詰めると、その剣印に霊気を纏ってその刃で彼の胴を切りつけたのである。

「――」

 その瞬間――、道満は妙なほどの手ごたえのなさを感じて、即座に季猛との距離をとる。――そこに正確無比な矢の一撃が飛んできた。

「くお!!」

 いきなりの事態に驚きの声を上げつつ身をひるがえす。矢はその腕を掠って背後へと飛んでいった。

「――避けましたか」

 いたって冷静にそう呟く季猛は――、先ほどの道満の一撃を意に介した様子がない。道満はそれを見て――、即座に状況を分析した。

(――なぜだ? 拙僧(おれ)の霊手刀を受けて平然としておる? ――命中した瞬間に”立ち消えた”か? いや――そのような感じは一切しなかった)

 その間にも素早く背中の矢筒より矢を三本引き抜いた季猛は――、自ら後方へと後退しつつ連続で射撃を繰り出してきた。
 道満は、自身の強化された俊足を利用して何とか避けてゆく――、が、

(――先ほどの一撃が効かなかった理由が分からぬと――、むやみに攻撃も出来ん)

 そう考えて、距離をはなしていく季猛を黙って見送るほかなかった。

「――どうしました? 近距離ならば自分か有利とは思わないんですか?」

 季猛が楽しそうにそう話す。――それを見て苦虫を噛み潰したような顔で道満は答える。

「お前ほどの武人が、自身の弱点をそのままにしていると――、そう考えるほど拙僧(おれ)は単純な脳はしておらん」
「そうですか――。それは惜しい話だ――」

 道満はその返しに舌打ちをしつつ森を駆ける。その背後の樹木に次々に矢が突き刺さってゆく。

(――不味いな――、不規則に回避せねば、一気に誤差を修正されて狙撃される――。それほど奴の弓矢は正確無比だ――)

 それでも、道満の動きに季猛の射撃は追いつき始める。無数の矢が飛翔し――、少なからず道満の身を傷つけ始めたのである。

(不味い――、これは逆に距離を離すのが吉――)

 そう心の中で考えた道満は――、あえて一目散に季猛から離れた森へとその身を躍らせる。しばらくゆくと、さすがに道満を見失ったのか季猛の射撃は飛んでこなくなった。

(考えろ――、考えるのだ……。なぜ奴には霊手刀が効かなかった?)

 道満はそう考えつつ森を慎重に移動。森に佇む季猛が見える位置に移動すると、その懐から数枚の符を取り出した。

「急々如律令」

 その呪文と――、季猛の反応はほぼ同時であった。
 空を符術の炎弾が季猛へ向かって飛ぶ。それに返すように矢が風切り音と共に道満へと向かった。

「く――」

 その瞬間、驚きの光景が道満の目前に展開される。
 矢を何とか避けた道満は――、季猛に向かって飛んだ炎弾が、ほぼ相手に火傷を与えず消えたのを見たのである。

(”立ち消え”た? ――いや、あれは”抵抗”されたのか!!)

 その段になってやっと道満は気づく。あの季猛という男――、恐ろしいほどの対呪術耐性を持つのだ――と。

(なんてこった――、これでは奴には呪による直接攻撃は無意味だ――)

 ある程度の高さの対呪術耐性を持つ者には、本来なら大火傷を与える炎弾ですら、ただの小さな火の粉程度にしかならないのだ。
 それを理解した道満は――、即座に作戦を立て直す。

(――直接的な呪はほぼ効かないなら――、これからは間接的に呪を扱うしかない。例えば腕力を強化した拳の打撃――、或いは呪を周囲の草葉にかけた足止めや目くらまし――だ)

 そうして――勝利への道筋を組みなおした道満は、季猛の知覚外へと逃げるべくその場を移動した。
 ――果たして、道満の作戦は通用するのか?


◆◇◆


 季猛は森で静かに佇み――、道満が次に仕掛けてくるのを待っている。
 今までの観測射撃で、ある程度の先読みが可能になってきており、そろそろ本格的な追撃が可能だろうと彼は考えていた。

(――さて、彼は私の対呪術耐性に気づいたでしょうか? ――気づいたでしょうね。ならば――)

 次に来るのは当然――。

 「?!」

 不意に森の向こうに道満が走る影を見る。一息もかからず矢をつがえてそのまま放つ。

「――とった?」

 その矢は確かにその道満を、掠ることなく狙撃したように感じた。

「――」

 季猛は黙ってその現場へと歩みを進める。
 慎重に進む季猛の目前に、矢を受けて樹に背を預ける道満が写った。

「ふむ――」

 季猛は黙ってそのまま道満のもとへと歩いていく。その時――、

「む?!」

 その近くの草原より――、風切り音と共に大木が飛んでくる。それは――、

「かかった!!」

 大木が飛んできた――、その草原の向こうから声が響く。それは確かに道満の声であり――。

「は!! ヒトガタの式に騙されてまんまと誘い出されたか!!」

 轟音とともに土煙が舞う。その向こうに季猛は消えてしまった。

「――は、おびき寄せからの、倒木で俺の勝ち――か」

 そう言って笑う道満が、季猛の様子を確認するため草原より顔を出すと。

 ヒュ!!

 土煙の向こうより矢が飛来する。慌てて道満は避けた。

「あら――、さすがに避けられましたか」

 そう言って笑いながら土煙の向こうに佇む季猛。それを見て道満は自身の作戦がまんまと失敗したことを悟った。

「はは――やはりそうなりましたか」
「く――気づいておったか……」
「当然ですよ――、慎重さだけが私の取柄ですし」

 そう言って笑う季猛に、さすがに顔を歪ませる道満であった。

「――さて、もう同じ手は私には通用しませんよ? 無論わかってらっしゃると思いますが」
「ち――、誘い出しての罠は、もう無駄という事か」
「ふふ――」

 笑う季猛――、それとは相反する苦い表情をする道満。

「さて――、もうそろそろ決着と行きましょうか? もう矢が少ないのでね――」
「――ち、その少ない矢で拙僧(おれ)を仕留める――と?」
「はい――、無論、予備の矢を残して詰みですとも」

 それは自身の実力と、状況に裏打ちされた圧倒的な自信。道満は苦しげな表情のまま、踵を返して森の奥へと身を躍らせた。

「また逃げると? ――フフそればかりですね」
「言ってろ――」

 季猛の笑顔に、道満は怒りの表情で返す。季猛は――それまで抑えていた感覚を研ぎ澄ませる。それはまさに獲物を追う猟師の超感覚であり――。

「――まさか、このまま逃げおおせると思っているのですか?」

 その矢をつがえて一矢放つ季猛――、森の向こうで苦し気な呻きが起きた。

 ――その矢の一撃は、確実に森を奔る道満を捉えていた。その左腕に刺さった矢を引き抜いて、素早く霊丹で治療する道満。

「くそ――、すでに森を越えて、狙撃を命中させるか!!」

 そう悪態をつく道満に向かって、季猛が声をかける。

「逃げても無駄です――。もうこの森の状況は把握しました。貴方の動きもだいたい予測できました。後はそれをもとに狙撃するのみです」

 あまりにも凄まじい弓兵としての腕前に、さすがの道満も驚きを隠せない。

「あと――四本――、いや――二本で貴方は詰みです」

 それはまさに死刑の宣告に等しい言葉。あまりの事に道満はその表情に焦りを浮かべた。

「このまま――、狙撃されるのを待つか? いや――それは出来ぬ……。ならばイチかバチか」

 道満はその手を剣印にしてさらなる呪を唱える。それは一気に道満の反射速度を増大させた。

「こうなったら――」

 道満はその森の影を抜けて、一気に季猛めがけて奔る。無論、不規則に蛇行しつつ。

「さすがに考える策も尽きましたか?」

 すごく冷静に笑う季猛その手に二本矢を持ち――、連続で放ったのである。

「く!!」

 矢の一本が道満の脇を掠る――、それを避けるべく身をひるがえす道満。――そこに次の矢が突き刺さった。

「!!」

 その光景を見て季猛は笑う。

「一撃の矢で――不規則な蛇行に規則を与え――、次の矢で芯を獲る――。さすがに避けられなかったようですね」

 季猛のその言葉通りに、道満は命中弾をその胴に受けてその場に転がる。季猛は今度こそ明確な手ごたえを感じていた。

(――まあ、道満殿の事ですから。また罠である可能性は十分あるでしょう――。慎重に状況を確認して――)

 さらに慎重に慎重を重ねる季猛。そのゆっくりとした歩みを睨みながら、倒れる道満は血を吐きうめき声をあげる。

「く――、ここまでとは……」
「ふむ――」

 慎重に道満に近づいた季猛は、その胴に突き刺さる矢を確認――、そこから流れる血も確認した。

「どうやら――、確かに仕留めたようで」
「ち――、お前……慎重が……過ぎるぞ」
「はは――、性分ですから」

 その朗らかな笑いに、道満は苦しげな表情で言った。

「クソ――、やってくれた……」
「残念ですね――、貴方が私に勝つ可能性も考えたのですが」
「ち――」

 季猛はその傷が確かであると確認すると、その場に跪いて傷に手を振れた。

「――フム。止血が必要ですね――、動かないでください」
「ああ――、わかってる……これで」

 と――、不意に道満の腕が季猛の腕をつかむ。それに驚く季猛は――、

「?!」

 不意に自身の視界が反転したのを感じた。

「あ!! え?」

 近くの樹木――、その枝から垂れ下がる蔦によって、足を縛られ逆さ釣りにされる季猛――、その段になってやっと、自分は道満の罠にかかったのを知った。

「まさか――、こんな」
「はは――、上手くいったな」

 道満は笑いながら立ち上がる――、そして、

「く――」

 苦し気に顔を歪ませながら、自身の胴から矢を引き抜いた。

「ふ――、騙すためとはいえ……、矢は痛いな」

 そう言って笑う道満の手にする矢の先端には小さな木片が見えた。

「そ――それは……」
「まあ、いわゆる楯代わり、防御呪を重ねて……な、直接矢を受けるわけにもいかんからな」

 そう言って笑う道満を驚愕の表情で見つめる季猛。

「貴様が慎重すぎるのは分かったからな……。罠にかけるには、ここまでの演技をする必要があると考えたのだ」

 まさに――、血も傷も本物であったゆえに、季猛はまんまと道満に騙されたのだ。

「あの一瞬で――、貴方は矢の軌道を見抜いたのか?!」
「そうだ――、拙僧(おれ)の”直視鳶目の法”はこういった使い方もできるという事よ」
「は――、はは……、これは完敗ですな」

 そう言って季猛は笑う。――その手から弓は離れ、地面に残りの矢と共に落ちていたからである。そうなれば、もはや彼に反撃する法はない。

 かくして、頼光四天王最後の一人は、道満の策略の前に敗北した。
 それは――源頼光との、最後の相対が始まるという証であった。

 ――果たして、道満は姫と静寂を救う事は出来るのか?
「――貴様がここに至ったという事は……、かの者の話はおぬしらには通じなかったか」

 その時、妖魔王・千脚大王静寂は、屋敷の門前にて一人の武者と相対していた。

「いや――、もしくは話すこともなく……、約束を違えたか?」
「ふむ――、なんの話かはわかりかねますが。とりあえず、かの小倉直光様の姫を返してもらいに来ました」
「ふん、事情も解せぬ人風情が言いおる……」

 静寂はその両手の大太刀を構えて威嚇の体勢をとる。それを見てその武者――源頼光は、いたって平然とした様子で腰の刀を抜いた。

「無駄だとは思いますが――、無駄な戦いをせず、私たちの軍門に下り――、姫を返していただく事は……」
「出来るわけがなかろう? どちらにしろわしを切るつもりであろう?」
「その通りですね……、都において多くの負傷者を出した以上――、貴方は討伐すべきものですから。言うだけ無駄な話ではありました」

 まさしく問答無用という様子で頼光は刀を構える。そこには一遍のためらいもなかった。

「フン――、その目は見たことがある」
「――」
「わしの事を何も見ず聞かず――、ただ恐れるか、敵意を抱く者の目だ」
「……どうでもいいですが。――人の領域を犯したという自覚はありませんか? ――ないのでしょうね」
「――はは……、なんと愚かな小僧だ」

 その妖魔の言葉に、眉一つ動かさずに間合いを詰める頼光。

「お前らの今の都すら――、元は妖魔の領域であったろうに!!」

 その咆哮は夜空に響き森の木々を揺らす。

(――妖魔と話すだけ無駄――、そうなのですが……。今日は少し気分が――)

 頼光は、妙な違和感を感じつつも刀を手に一気に千脚大王へと駆けた。
 お互いの間合いはゼロになり、その頼光の刃が閃光のごとく空に直線を描いた。

 ガキン!!

 金属と金属のぶつかる音が森に響く。頼光の刀と妖魔の大太刀がぶつかり合う音である。しかし――、

 ガシャン!!

 妖魔の手にした大太刀が、頼光の刀を受け止めている場所から砕けて折れる。それはほんの一息すらならぬわずかな時間の事であった。

「く――」

 その砕けた大太刀を取り落としつつ、妖魔は身をひるがえして後方へと飛ぶ。頼光の刀はそれを追うように一閃されるが――、妖魔にかわされてしまった。

「――これで一本」

 とくに喜ぶ様子もなく頼光はそう呟く。その光景を見た妖魔は――、

(奴の剣――、なんという鋭さ……、おそらくは相当格の高い霊刀か――)

 その見立ては確かにその通りであるようで――、頼光の手にする刀の刀身は、かすかに月夜で輝いている。

「ち――」

 この状況を見て――、目の前の若武者は、自分がさらに有利になったと喜んでいるのかもしれない。そう考えた妖魔は少し笑ってその刀を失った手の平を地面へと向けた。

「?」

 その不意の行動に疑問を持つ頼光だが――、その答えはすぐに目前に現れる。

「!!」

 それは大太刀――、自分たちが相対する森のその地面から、無数の大太刀が生えてきたのである。

「――これは!! ――妖術?!」
「その通りよ――愚かな小僧……。わしの手にする大太刀は、この通り無限に産むことが出来るのだ」

 その言葉を受けてさすがの頼光も顔を歪ませる。
 まさしく、大太刀が草のように無数に生える”剣の原”にて――、再び両者のにらみ合いが起こる。
 その静寂を破ったのは――、今回は妖魔の方であった。

「は!!」

 気合と共に二刀流で大太刀を振るう妖魔。それを自身の刀で制し簡単に砕いてしまう頼光。しかし――、

「――!!」

 妖魔は残った大太刀でさらなる斬撃を頼光へと走らせつつ――、あいた方の手で側に生えている大太刀を掴んだ。
 ――そして――、

 月下の森に砕ける金属音が無数に響いていく――。次々に大太刀を持ち替える妖魔は、息も出来ぬほどの連続斬撃を頼光に向かって放つ。

「――く」

 その圧に――、さすがの頼光も後退り始める。無論、それだけではなく――、

「は?!」

 不意に頼光はそれ以上後退できなくなる。その頼光の背後には――。

「――刃の壁?!」

 それは地面から無数に生える大太刀と同じく――、刃で出来た防壁であったのだ。もはや頼光はそれ以上後退できなくなって――、必死で妖魔の連続斬撃をいなす他なくなってしまった。

「――ははは!! 小僧!! このまましまいにしてやる!!」
「――」

 妖魔のその宣言を苦しげな表情で見る頼光だが――、

「――妖魔よ……、私を甘く見過ぎです」
「む?」

 その瞬間――、薄く頼光の目が朱に染まった。

「?!」

 それまで刀で防いでいた連撃を、その身の動きのみで避ける頼光。大太刀の刃が頼光の薄皮を断ち血が飛ぶが――、かまわずに身を低くしてその場を駆け抜けていく。

 ドン!!

 その時妖魔の脇から大量の血が噴き出る。それは――、妖魔の真横を駆け抜けた頼光が、その刀で妖魔の脇を断ち切ったからである。

「うがあああああ!!」

 その霊刀の斬撃は――妖魔に普通の刃による斬撃以上の激痛を与える。それはまさしく斬魔の刃であった。

「――な?! 馬鹿な――、それは人の動きか?!」
「無論、人ですとも――、魔を断つ武家における集大成とは言われておりますが」

 そう笑いもせず答える頼光。その目は今も薄く輝く。

「その目――、浄眼? 魔眼? あるいは――」
「まあ、貴方に語っても無意味とは思いますが――。これは、大陸の血から継承された”陰陽眼(インヤンイェン)”と呼ばれるもの――だそうです」

陰陽眼。
いわゆる日本古来の陰陽道とは無関係である魔眼。主に大陸の一部の民族が持つ。
その目は霊界と人間界を隔てる壁を見通すとされ、一般的な霊視覚にも似た効果を持つ。
そして、陰陽道とは関わりがないものの、天地自然の霊脈――龍脈をその目で見通し、そのあらゆる力の流れを把握することが可能となる魔眼でもあり――、
意識を集中するとあらゆるモノの動きが数倍の遅さに感じられ、それらに素早く対応が可能となる戦闘補助副次的効果も持っている。

「――私にとっては、貴方の動きは空を漂う木の葉にすら劣るように見えます」
「く――」

 妖魔は苦しげに呻きつつ――、その両手の大太刀を振るう。しかし――、その刃は一切頼光を断つことなく空を切るばかりであった。

「私がなぜ――、我が武士団において最高戦力と称されているのか。理解が出来ましたか?」
「くそ!! くそ!!」

 その頼光の言葉を横に聞きつつ妖魔は必至で大太刀を振るうが――、

「はあ――はあ――」
「どうやら――、妖力も気力も尽きたようで……」

 さすがの妖魔も――、苦し気に息を吐いて、大太刀を杖にして項垂れるほかなかった。

「――さて……、このまま封印してもいいのですが――、貴方のその能力は、今後都の脅威になりかねません。だから――」
「く――」

 悔し気に頼光を見つめる妖魔に――、まさしく死刑宣告をする裁判官の様子で、頼光は冷たい目を向けた。

(――く、ここまで――か)

 ――そうして、諦めが妖魔の心を犯し始めたその時、不意に森全体に男の声が響いた。

「――そこまでだ!! 源頼光!!」
「あ――」

 その声の主は――、

「待たせたな静寂――、あとは拙僧(おれ)に任せろ」

 それは――、てっきり約束を違えたと思い込んでいたあの人間――、蘆屋道満だったのである。
 その姿を見て呻きに近い声を上げる妖魔――、いや”静寂”。

「なぜ――お前は……」
「二言はないといった――、お前たちの想いを――、拙僧(おれ)が確かに守ってやる!!」
「にん――げん」

 その時になってやっと静寂は、自分もまた偏見を元に人を見ていたことを理解する。目の前のこの男は――、

「ああ――」

 その身に幾つもの傷を負い――、息を切らせながらも走ってきた。その様子をただ眩しいものを見るように見つめる静寂。

「――まさか――、四天王をすべて倒してきたのですか?」

 さすがに驚きが隠しきれない頼光は――、そう言ってその手の刀を道満に向けた。

「ああ――、当然だ……」
「そんなことをすれば貴方は――」
「はは――、いまさら心配してくれるのか? 頼光のぼっちゃん」

 その道満の言葉に眉を寄せて頼光は睨んだ。

「――さあ――、これで最後だ――。この場でお前を……、源頼光を――、この蘆屋道満様が止める!!」

 月光を背景にそう宣言する蘆屋道満――、その顔には、いかなる者にも負けじとする、不遜極まりない――そして大胆不敵な笑顔が宿っていた。
「――人間」

 門前にて傷と疲労で動けず、目前の相対する二人を見守る千脚大王静寂。そこに栄念法師と、それにつれられて来た姫が現れる。

「アレは――、蘆屋道満殿……か」
「道満様――」

 そう二人は呟き――、今まさに睨み合う二人を見つめる。

「――道満殿は……あの傷であの若武者と戦う気なのか?」
「道満様は――、勝つことが出来るのでしょうか?」

 そう口々に疑問を語る二人に――、絶望的は表情で静寂は答える。

「あの道満という人間は――、そこそこやる人間らしい――。だが、あの若武者――、源頼光はもはや人外のナニカと言える存在だ――」
「ならば……」

 静寂のその答えに悲痛な表情を浮かべる姫に、静寂は深く頷いて――、

「勝てる見込みはあるまい――、そうなればわしらも……」
「静寂様――」
「……すまない。姫――、もはやわしはここまで――、命を懸けても守ると誓ったのに」
「いいえ――」

 静寂の後悔に首を横に振ってこたえる姫。その姫に向かって、不意に道満から声がかかった。

「おい――、お前ら……今のうちに、出来るだけこの場を離れろ――。この三つ蛇岳ではない別の場所へと向かうのだ」
「え? それは――」

 道満の言葉に困惑の顔をする姫。

「――静寂は、この霊山で生まれた妖魔ゆえに――、ここから離れれば大きく力を失うだろう。でも――、生きていれば何とかなる……、何とかして見せろ!!」
「道満――」

 その言葉に驚きの表情を向ける静寂――、しかし、確かにすぐに頷いた。

「わしとしたことが――、この期に及んで何とも情けない姿を姫に晒したものだ。俺は――姫と平和に暮らせるならば――、生まれたこの霊山すら惜しくはない」

 その言葉に涙する姫――、そして、

「それでいい――。達者で……平和に静かに暮らせ――、親子……そしてついでにその法師とも――な」

 その道満の言葉にその場の三人は小さく笑い――、そして肩を貸し合いながらその場を後にする。道満はその背後を見て――、確かに笑った。

「――どういうつもりです? あんなことを――、私があなたを倒して、すぐに追跡すれば同じでしょう?」
「は――、おいぼっちゃん……。もう拙僧(おれ)に勝てたつもりか?」
「――力の差は歴然だと――、私は思いますが?」

 その頼光の言葉に――、道満はいたって強気の表情で言葉を返す。

「そりゃまた――高い鼻だな。へし折りやすくていいぜ」
「冷静に考えたうえでの話です――、なぜなら……。貴方は我が四天王相手に”傷を得て”いる」
「――」

 頼光のその言葉の意味は――、要するに”四天王相手に傷を受ける程度の者”は自分には勝てないという事なのだろう。道満はそれを聞いて――、

「は――」

 まさしく鼻で笑った。

「お前は生真面目で正直なのが取り柄だが――、正直すぎて他人の事など構わんと言ったふうだな」
「はあ? 我が四天王たちは――、今のように言われても怒らないですが?」
「――それが、”他人の事など構わん”っという事だと、理解できんようだな」

 道満のその不敵な笑いに少しムッとする頼光。その手の刀を構えて断ち切る体勢をとる。

「こうなった以上――、道満殿にも痛い目を見てもらわねばならぬようですね」
「――はは、生意気にぼっちゃんが言ってくれるな」
「私の方が年上ですが?」

 静かなにらみ合いは一瞬――、頼光が闇にあって高速で奔った。

「――ふ」

 道満はその”直視鳶目の法”を以て、その動きを見極めようとする。頼光の斬撃は空に光線を描き――、そして道満へと向かう。

(――この軌道なら)

 道満がその剣線を見極め――、そしてその斬撃を左肩すれすれで通そうとしたとき。その頼光の刀の光線が大きく変化を起こした。

「な!!」

 道満の驚きと血しぶきが飛ぶのは同時であった。

「ぐお――」

 左腕が深く切られ――、血が絶え間なく流れる。

「ほう――、切られた瞬間にも何とか軌道を反らしましたか」

 そう言って静かに笑う頼光。それを見てさすがの道満も顔を歪ませる。

(――なんだ? 今、拙僧(おれ)の軌道反らしに対応して、頼光がさらに軌道を変化させたように見えた)

 道満はそう考えつつ頼光を見る。――その頼光の瞳が妖しく輝く。

(なるほど――、こいつも拙僧(おれ)と同一……もしくは拙僧(おれ)以上の異能感覚持ちであったか――。頼光は術師の家系ではないゆえに、おそらく先天的な何か――)

 その一瞬でそこまで見抜いた道満はさすがというべきだが、それで対策が出来たというわけではなく――。

(という事は――、これまでの戦いで戦況を有利にしてきた、”直視鳶目の法”の優位性がほぼなくなったという事か――)

 それはまさに最悪の状況――、言っても蘆屋道満は術師だからである。
 道満は他の術師に比べて近接戦闘が得意である。でも――それは本職に比べれば劣る程度であり、呪による身体強化及び”直視鳶目の法”で何とか達人クラスに至っている状態。
 その片方の優位性が失われれば――、達人クラスの剣士に対しては、近接戦闘においては遠く及ばないことになる。
 ならば遠距離ならば? ――それもおそらく頼光には効かない。なぜなら、頼光が自分と同程度の魔眼を有するのだと仮定すると、遠距離攻撃は完封されてしまうと予想できるからである。
 何より道満は、近接攻撃を得意とする故に――、逆に本来術師なら得意とする遠距離攻撃の手札が少ない。

(――こうなったら)

 道満は心の中で呟きつつ森へと身を躍らせる。

「へえ? 逃げますか?」

 すぐにその後を追う頼光。その視界に背を向けて逃げる道満が写った。

「甘いですね――」

 それはかの渡辺源次とすら互角ともいえる神速の太刀。一気に道満との間合いを詰めた頼光は――、その道満の無防備な背中に切りつけたのである。

「獲りまし――」

 不意に煙と共に道満が消える――。それは一枚のヒトガタとなって空を舞った。

「あ――」

 その瞬間――、頼光は背後からの熱を感じて、本能にしたがって身をひるがえした。

 ドン!!

 森に爆炎と共に衝撃波が広がる――、頼光は寸でのところで回避し地に転がった。そのまま転がるのに身を任せて態勢を整え一瞬で立ち上がる。――そこに道満が突っ込んできた。

「この!!」
「ふ――」

 体勢を整えたとはいえ、少し身のバランスを崩した頼光は、その道満の霊手刀による連撃を防ぐだけになる。

「――この、よく避ける」
「――」

 道満の斬撃は確かに鋭く――、並の達人ならそれで終わっていたであろうが、

「――申し訳ありませんが。見えていますよ」
「ち――」

 頼光は防戦をしつつ後退し、その身のバランスを取り戻していく。そうしてすぐに攻防は逆転した。

「く――」

 今度は頼光の縦横無尽の斬撃に防戦を強いられる道満。その中で道満は考える。

(――頼光の斬撃は。かの源次に比べれば洗練されてもおらん荒れた剣――、でも――、こいつの斬撃軌道は、こちらが避け始めた後から軌道を変えて命中に変えてくる)

 それはようするに後出しじゃんけんそのものであり――、それに何とか追いついて攻撃を避けられているのは、道満の持つ”直視鳶目の法”がかの魔眼と同一の効果を持つ故であった。
 それでも道満は避け切れず全身に切り傷が増えていく。道満の全身は血にまみれて、それが道満の意識すら刈り取りに来る。

「はあ――、はあ――」

 さすがの道満も”直視鳶目の法”を維持し続けることで疲労がたまり、動きが目に見えて遅くなっていく。しかし、頼光はというと――。

(コイツの気力は底なしか――)

 その動きの冴えを見て道満は心の中で悪態をついた。それも当然――、これほどの魔眼を長期間維持して、全く疲れが見えていないのは明らかにおかしいからである。
 道満は舌打ちしつつ、一気に後方へと後退し、再び頼光に背を向けて走り出した。

「逃げるばかりですね――」

 平然と言う頼光に――、何も言わずにただ逃げる道満。

(――これは、打つ手がない――。さすがに拙僧(おれ)でもあんなバケモンを相手に、どうこうできるような呪は――)

 道満は天才とは言え独学で呪を学んできた身。並の妖魔程度ならまだしも――これほどの相手を想定して呪の勉強はしていない。
 それほどこの源頼光は規格外過ぎる力を持っていた。

(――確かに奴の言う通りだ)

 逃げつつ道満は最初の会話を思い出す。

”冷静に考えたうえでの話です――、なぜなら……。貴方は我が四天王相手に傷を得ている”

 頼光の言う通り――、頼光四天王で傷を得ている程度の実力ではここが限界であった――か、
 そう考える道満であったが――、ふとこの場を去った姫たちを想う。

(――このまま逃げるか? なんて――馬鹿なことは思わん。かの者達の想いを守ると誓った。そう――これは彼らの為だけではない――)

 ――そう、これは姫たちの想いを救う、それだけの意味しかないわけではなく。

(――これは拙僧(おれ)の信念――、かつての後悔を決してせぬために――)

 その時――道満は”かつて”を思い出す。自身の実力不足ゆえに、守るべき者を守れずに這いずったあの時の事を――。

(ならば――、躊躇わず進むか……)

 そう考えた瞬間、道満は自然と達観した表情になる。

「逃げても無駄だと――」

 逃げる道満を――その最高速にて追う頼光は、すぐに道満に刀の間合いまで迫る。

「ここまで――」

 そう頼光がいった瞬間――、道満の様子が大きく変化を始めた。

「ぬ?」

 頼光は驚きの表情を道満に向ける。その道満の手には小さな刃が握られ――、その刃でもって自傷をしていたからである。

「え? 何を――」
「は――」

 道満は薄く――そして凶悪に笑う。それは――悪しき妖魔の嘲笑にも似て――。
 次の瞬間――、道満の全身から凄まじい光焔(こうえん)(ほとばし)り、森の闇を赤く染め上げてゆく。その光焔(こうえん)は衝撃波を伴い頼光を押し返してゆく。

「な――なんで――。これは」

 その時、頼光は驚愕の光景を目にする。道満の黒い髪の一房が、一瞬にして白く変わったのである。

「道満殿?! 貴方は――、まさか――、寿命――自身の命を削って?!」
「はは――わかるか頼光」
「なぜです?! 何の関係もないただの妖魔に――、どうしてそこまで?!」
「わかるまいな――、お前には」

 その道満の言葉に二の句を告げない頼光。そして――、

【かごめかごめ――、籠牢にて鳴く鳥、いずれ時に解き放たれん。暁の鐘が鳴るときに――】

 道満の歌声が森全体に荘厳に響き渡る。頼光はただ呆然とそれを眺める。

【天を仰ぎし紅蓮の姿――、大地を護る水底の姿――、二つの力が交わる処に、隠されし絶えざる力あり――】

 道満を挟んで――、大空に輝く三角形が描かれ、その反対の大地に闇の三角形が描かれていく。

【後ろの面影に、誰ぞ隠れん――、その名を唱えよ――、オム・マ・ニ・ペ・メ・フーム――】

 道満の歌声と共に――、天の三角と地の三角が交わり合一する。

「あ――」

 それだけを頼光は声に出す。その目に映るのは――、

「六芒星――」

「唱えるは――、六芒の大呪――、その霊威を以て我に……”力あれ――”」

 その瞬間、森を――その天を割いて、上空に至るまでの光の柱が生まれる。その中心にいるのは――、

「道満――、蘆屋……道満」

 あまりの光景にそのまま絶句する頼光。そして――、

 ドン!!

 次の瞬間には、空高く吹き飛ばされていた。

「ぐ――お」

 反吐を吐きながら飛翔する頼光に、無数の光線が収束する。

(は――や)

 実は――、その光線の一つ一つが道満の操る霊手刀の輝きであり、その人の目では不可視に近い存在となった連撃を頼光は黙って受け続ける。

(あ――、なぜ……)

 その中にあっても頼光は考える。なぜ道満は命を削るほどの呪を――、ただの妖魔のために使うのか?

(な――)

 もはや抵抗は無駄となり――、ただ光線に翻弄される木の葉と化す頼光。そして――、

「――」

 そのまま頼光は意識を闇に没したのである。


◆◇◆


(――ああ、馬鹿な事をした)

 その呪を維持しながら道満は考える。

(これで拙僧(おれ)の寿命は――命はだいぶ削れたはず)

 その髪の一房を白髪に変えて――、ただ心の中で呟く。

(――でも、まあいいさ……意地は――、そして約束は守り通した)

 道満は笑いながら目を瞑る。道満は――頼光が意識を失うのを確認した後――、

(ああ――、師よ……。禁じられた呪は使ってしまったが……。これでよかったのだな?)

 そこに後悔は一遍も存在しない。ただ――笑いながら蘆屋道満はその意識を闇に没したのである。
「それで――、あとはどの様に?」
「うむ――、今回の件……、妖魔王・大百足は頼光達の決死の戦いで討伐されたが――、姫は食われていた……という事で処理された」
「ほう――」

 とある屋敷の一室にて、安倍晴明と源満仲が酒を酌み交わしながらそう会話している。

「――頼光も……、今回の事で思うところがあったらしくてな――。このわしに討伐の失敗と……そしてその原因となった蘆屋道満の助命を願って来たのだ」
「で――、それを聞いて満仲様はそう処理をなさったと? まあ――、対妖魔最高戦力であるそちらが……、こともあろうに討伐失敗などと、不名誉かつ――、人々の気持ちの平安にもかかわることですし、仕方がないですね……」
「うむ――、頼光は多少不満げではあったが、それで納得してくれたようだ」

 そう言って笑う満仲に――、安倍晴明は頭を深く下げる。

「本当に申し訳ない――、まさかあの不肖の弟子がこのようなことをしでかすとは」
「ふ――、構わんさ……、どちらにしろ今回の件はいろいろ裏があったようだしな」
「小倉直光――様ですか?」
「ああ――、姫が妖魔に喰われたと聞いて……、悲しむ素振りすらせず、まるで当然の末路である――、とでも言いたいような態度であった」

 その言葉に安倍晴明はため息をついた。

「結局――、自身の手で始末するか……、相手が始末してくれるかの違いでしかなかったようで――。そうならば、道満の考えと行動は決して間違いでは――」
「ああ――、結局あの妖魔も……、その周りの噂もただの作り話にしかすぎず――、よく旅人を救っていたという話も耳にした」
「無知ゆえの誤解――、そして排斥――、悲しい事ですね……」

 晴明のその言葉に満仲は――、

「で? どこまで予想の範囲だったのだ?」
「はい? どういう意味で?」
「わしが気づかないと思うのか晴明――、今回の件、占術にてある程度知っておったろう?」

 その言葉に少し驚いた顔をした晴明は――、小さく笑って答えた。

「いえいえ――、この様な事態は想定してはいませんでしたとも。占術も詳細が分かるものでもなく――、ただ――」
「ただ?」

 そう聞き返す満仲に晴明は、笑顔を消して静かに答えた。

「――道満を差し向けるのが吉……、その結果は、はるか未来の平安の礎となる――。そのように卦が出たのを信じただけの話――」

 その答えを聞いて――満仲は納得した様子で小さく頷いたのである。


◆◇◆


 蘆屋道満が平安京を去り、妖魔王たちを尋ねる旅をつつけていた時代――、道満はとある土地へと至った。
 近江国は霊山の一つ――、御神山に隠れた大屋敷があり、そこに居を構えるはかつては三つ蛇岳に住まわっていた大百足・千脚大王静寂であった。

「それで――、その老いた龍神の力を継承する形でこの地に至ったと?」
「そうです――道満殿……」

 髪を半ば白髪に変えたその時の道満は、懐かしいものを見る目で目前の大武者を見つめる。

「そもそも、この地には悪しき大百足が住み着き悪さをしており――、その大百足が武者に退治されたのちも、その怨念が龍神を弱らせておったのです」
「その怨念を鎮め――、この地に平安をもたらす……、それを頼まれたと?」
「まあ――、同族の非道をいさめるのも我らのするべき事であろう――、そう考えております」

 その言葉に満足そうに道満は頷いた。

「あと――、そちらは本当に久しいな――姫……、いや今は”今城太夫(こんせいたゆう)”を名乗っておったか」
「はい、お久しぶりです――、道満様」
「お前と静寂の子は?」

 その言葉に笑顔で答える太夫。

「はい、無事生まれ――、すくすくと育って元服も間近……。名は――、昨年亡くなった”栄念法師”の名をいただいていて――”栄静(えいせい)”と」
「ほう――、寂しい話ではあるが……。時が流れるのは早いものだ」

 静かに笑う道満に――、少し笑顔を消して太夫は聞く。

「しかし――、その御髪……、それほどの年齢ではないと思っておりましたが?」
「はは――これか? 先の”あの戦い”で少々力を使い過ぎて――な」
「それは――」

 平安京において行われた”あの戦い”については太夫も聞き及んでいる。
 ――安倍晴明を倒して魔道へと至ったとされた蘆屋道満――、それに従う鬼神群……、そして大江山の大将とその配下。
 ”それ”は、平安京の闇で密かに行われた大決戦であり――、その戦いで多くの鬼神……酒呑童子も含めて――、かの源頼光とその四天王の手で討伐されたとされている。

「さすがに神仏の加護すら得たあの頼光には――、かつて以上の力を出す他なくてな……、逃げるだけで骨が折れたわい――」
「そう――ですか」

 静かに太夫は道満を見つめる。道満は――、決して魔道に堕ち、人に仇名すような者ではないことを太夫は良く知っているから――。

「――は、そう悲しい顔をするな……。どうせ大江山の討伐は近く行われる予定であった。それに拙僧(おれ)が横やりを入れたが、あの頼光に返り討ちにあって逃げただけの事よ」

 はは――、と笑う道満を、太夫も――、静寂も静かに見つめた。

「――それで――だ、今回お前に会いに来たのは他でもない――」
「はい――」
「これより拙僧(おれ)は妖魔の平穏に暮らせる土地を探し――、そこに都を造ろうと考えておる。――お前には拙僧(おれ)にしたがい、その手助けをしてもらいたい」
「――」

 その言葉に静寂は少し驚いた顔をして――、そして恭しく頭を下げた。

「この静寂――、決して道満殿から受けた恩は忘れてはおりません。ゆえに喜んで――それに従いましょう」
「ありがたい――」

 ――かくして、妖魔王・千脚大王静寂は――、蘆屋道満・八大天魔王……、すなわちその護法鬼神として名を連ねることとなった。
 そして――、その力は平安を越えて――平成の未来に至っても……、世の平安を守る力の一つになるのである。
 ――晴明、なあ晴明――、なんでお前は……。

 安倍晴明はその夜――、かつては供にあったとある友人の言葉を思い出す。

 お前はどうして――、そうなんだ? ――結局お前は……。 

 その言葉の先は――、晴明にとって常に傷として残っている。
 晴明は常に他人の言葉を我関せずという様子で聞いている――が、

(――正直、あの言葉だけは……、彼に言われたことだけは――)

 ――お前は結局――、ヒトとは違うのだな……。

(いや――違うぞ……。私はヒトだ――、ヒトたらんとしている……)

 でも――、安倍晴明は思う。

(ああ――、わかっているとも……。私の心にはヒトが当たり前に持っている何かが足りない……)

 だからこそ――、自分は極力、ヒトの世界から離れるべきだと考え――、でもその情から離れることが出来ずにいる。
 中途半端――、なんて中途半端な……、かの賀茂光栄が私を嫌うのも当然の話。

(人以外の血を以て生まれ――、ヒトとしてヒトの中で成長し――、それでもヒトであることを友に否定されてしまった私……)

 私が人の中で生き――、ヒトの世を守ることにこだわるのも……、結局はヒトにあこがれる”ヒトデナシ”ゆえに――。

 ああ――かつての我が友――、源博雅(みなもとのひろまさ)よ……、私は――。


◆◇◆


 その日、安倍晴明にとって最も悲しむべきことが起ころうとしていた。
 弟子である蘆屋道満は、この日、晴明の弟子となって初めて――、師匠がその目に涙を光らせるのを見た。
 昼間のうちに屋敷を出た晴明は、道満を伴ってとある屋敷へと向かう。その屋敷の主とは――、

「――晴明……」
「博雅――久しいな」
「――ああ、お前はもう来てくれないと思っていた」
「――」

 病にて床に臥せる源博雅を、寂しそうな目で見る安倍晴明。

「……私は――いつも思っていた」
「博雅……なにを」
「謝りたかった――、傷つける気など無かった」

 床の博雅はその目に涙をためる。それを首を横に振って見つめる晴明。

「――どこに、博雅が謝る事があるというのか」
「晴明――」
「何も私は――、お前に傷つけられてなど」

 それを聞いた博雅は小さく笑って言った。

「――ならば、なぜ会いに来てくれなくなった?」
「――」
「もう自分の心を偽る必要はない――、私にはわかっている……、いや、わかっていたはずであった」

 ――でも、あの時、博雅は何ともなしに呟いてしまったのだ。それで友情に傷がつくとは思いもせず。

「あれは――、私が勝手に――」
「いや――、私が悪いのだ……、あのような言葉を適当な心で発するべきではなかった」

 博雅は病によって急速に老いて――皴だらけとなった手を晴明の手に乗せる。

「ああ――お前はあんなに傷ついたのだな……、すまなかった」
「博雅――」

 安倍晴明――、常に達観し……その心を表に出さない者。――でも、その本心は決してヒトとかけ離れたものではなく……。

「お前は――、この愚かな私の死を悲しんでくれる――」
「お前は愚かではない」
「――ふふ、こうして最後に顔を見られたのは――、この世の幸福の極みだ……」

 そう言って笑う博雅の、弱々しい手をしっかり晴明は握る。

「晴明――、最後に――一つだけ頼みがある……」
「なんだ? 言ってみろ」
「あの娘を――、梨花をお前に託したい」
「梨花?」

 そういう博雅の言葉に疑問の表情を向ける晴明。それを見て博雅は――、その最後の言葉として晴明に一つの遺言を残した。

「私の養女――、梨花……、彼女の友情を――救ってやってくれ。我らのように……ならぬうちに――」

 ――こうして源博雅は、天元三年九月二十八日に薨去――、享年六十三歳であったという。

 一つの友情の物語はここで終わり――、そして、もう一つの友情の物語は始まる。
「それでは――信明殿も、貴方も――養女であった梨花の話はよく知らないと?」

 源博雅がこの世を去って数日――、安倍晴明は、博雅が養女として育てていたとされる梨花の事を調べるため――、博雅の息子である源信貞にふたたび話を聞きに来ていた。
 ――博雅が亡くなった時、血を分けた親族である息子たちはいたが……、梨花らしき娘はどこにも見当たらなかったからである。
 博雅に託された以上探さねばならぬと、その場で息子たちに居場所を聞いてはいたが――、彼らは”知らんな”というだけで、何も詳しい話を聞くことすらなわなかった。

「――ああ、正直、あの歳になって新たな養女など――、と、なるべく関わらずにいたからな」
「ふむ――、それは……」
「その娘を引き取ったのも、ここ最近になってからで――、妙な噂もあったしな」

 余命いくばくもない老人が若い娘を囲う――、それをある事ない事語る者がいたのであろう。だから息子たちも、なるべく関わるまいと知らぬ存ぜぬを決め込んでいたのだろう。
 ――その状況を聞いて晴明はため息をついた。

「その娘は――博雅様の屋敷に住んではいたのですね?」
「ああ――、周りの住人は……、父上を娘がかいがいしく世話していたと話していた」
「ふむ――、ならばなぜ今わの際に娘を傍に置かなかったのでしょうね?」
「さあな――、最後の姿を見せたくなかったのか……、或いは――」

 信貞は頭を横に振って晴明に言う。

「どちらにしろ――、我々はその娘の事をよく知らん……。他をあたってくれ」
「むう――」

 信貞は晴明を嫌なものを見る目で見つつ踵を返す。

(――これでは託された想いを無駄にしてしまう……、しかし、なぜ博雅はあの時に何も言ってはくれなかったのか)

 博雅が床に臥せていたあの時、屋敷には息子たちが代わる代わるに訪れていた。無論、息子以外の博雅のゆかりの者達も――。

(もしや――、博雅は――、娘を他の人間に会わせたくなかった? ――養女を育てていることは周知の事実であったのに?)

 博雅の行動に不審なものを感じた晴明は、再び博雅の屋敷へと向かう事を決意した。


◆◇◆


 その時、源博雅の屋敷は誰もおらず閑散としていた。静かに屋敷の中へと足を踏み入れると、博雅が床に臥せっていた部屋へと入る。

「――私の予想が確かならば」

 そう呟いて周囲を静かに――、丹念に見まわす晴明。そして――、

「――アレは……」

 部屋の隅に一つの古びた箱が置かれていることに気付く晴明。それは、一見すると適当に放置されただけのガラクタに見えたが……。
 晴明は静かに箱に歩み寄り、その蓋を開ける――。そこには――これまたガラクタにしか見えない”木彫りの笛”が入っていた。

「――価値がないものだと放置されたか……」

 晴明は静かにその笛を持つ――そして、

「あ――」

 その笛の側面に――”梨花”と刻まれているのを見つけたのである。

「なるほど――、博雅よ……、これは私に娘の居場所を知らせるための――」

 晴明は納得した風に頷く。そして――、その笛を片手に、もう片方の手で剣印を結んで呪を唱えた。

「オンアラハシャノウ――、その深遠なる知恵を以て祈り給えば、(のが)れし者が遁れしままにあらざること必定なり……」

 それからしばらくのち――、晴明は静かに頷きかつて博雅が寝ていた場所を見つめる。

「――お前は、私にだけ――、その梨花という娘の居場所を教えたかったのだな?」

 それは確信――。源博雅は、安倍晴明ならば自分が何も言い残さずとも娘の居場所を見つけられる――と、そう信じたのだろう。

(ここまで娘の事を親族その他に隠しているとなると――、その梨花という娘……何か秘密があるのか)

 晴明はそう考えつつ屋敷を後にしたのである。


◆◇◆


 ――いいかい? この屋敷は閉め切られて誰も来ないハズの場所。そこを訪ねるとしたら、それはわが友である晴明以外にない。
 ここで静かに隠れているんだ――。お前が多くの者の目に入ったら……、お前の秘密に気付く者もいるだろうからね?

 その娘は――、暗い屋敷の中の一室で、両足を抱えながらただ待つ。

「博雅様――、本当なら……その今わの際までご一緒したかった――」

 でも――、自分が多くの人の目に触れれば……。

「――博雅様……。本当にその晴明という方は――」

 自分を救ってくれるというのか? ――その疑問に答える者はもはやこの世にはいない。
 ただ優しく笑いかけてくれた博雅の笑顔を思い出し――、その目に涙をためる娘。

「――博雅様」

 娘はかつてを思い出す――。平安京に昇って初めての日に、ガラの悪い者たちに囲まれて連れて行かれそうになった事。
 それを――静かな口調と、有無を言わせぬ意志の強い瞳で制して、救ってくださった博雅様。
 自分の秘密をなぜか即座に見抜いて――、そして優しく事情を聴いてくれたあの日――。
 ――あの日から、娘はある目的のために博雅の養女となり――そして……、

「大丈夫だよ――博雅様。私は必ず――静枝を救ってみせる」

 ――と、その時、屋敷の門扉が開く音がした。それを聞いてビクリと体を震わせる娘。

 静かに戸が開いて――、誰かがその部屋へと入ってくる。

「あ――」

 そう娘は呟いて――、現れた男を見つめた。

「――なるほど……、貴方が、博雅が託したかった娘――。どおりで――」
「あ――あの……貴方は?」

 その男――、安倍晴明はすべてに納得したという風で頷きながら――、そして優し気に笑った。

「私の名は安倍晴明――、貴方の養父源博雅の友――、そして」
「貴方が――平安京の陰陽師・安倍晴明――」
「その通りです――。梨花さん?」

 そのすべてを見通すような瞳が、娘――梨花を捉えて……そして、その口から確かにその言葉を発したのである。

「貴方は――、土蜘蛛……なのですね?」

 そう――、彼女は土蜘蛛……。平安京に仇なすとされる妖魔族の一つ。
 梨花はその晴明の言葉に――、静かに恐る恐る頷いたのである。