「どういうこと?」
 遊女は座敷に入るなり、男に詰め寄った。
「どういうことって?」
 男は鼻で笑う。
「とぼけないで! 死ぬなんて聞いてない!」
 遊女は声を大きくした。
「声が大きいぞ」
 男は冷たく言うと、鋭い眼差しを遊女に向けた。
 遊女は引きつった顔を隠すように男に背を向ける。
「あなたが……殺したの?」
「殺した? まさか! 夕里が死んだのを知って、あの男が勝手に後を追ったんじゃないのか?」
 男は明るくおどけた口調だったが、遊女の背には冷たいものが走った。
 恐怖で手が震え始めたのを感じて、遊女は自分の手首を掴む。
「そんな男じゃないって教えてくれたのはあなたでしょう……?」
「人は変わるからなぁ。死んだのがわかってから夕里を愛してたって気づいたんだよ、きっと」
 男の口調はおどけたままだった。
(どうしてこんな男の言葉を信じたんだろう……)
 遊女は唇を噛んだ。
「なぁ……」
 すぐ耳元で男の声が聞こえ、遊女は身を固くした。
 男が後ろから遊女をそっと抱きしめる。
「憎かったんだろう? 死んでよかったじゃないか。何を気にすることがある?」
 男は遊女の耳に唇を寄せた。
 遊女の顔から血の気が引いていく。
(どうしてこんなことに……)
 遊女は涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
(姐さん……、ごめんね……)
 遊女は静かに目を閉じた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


【五年前】

 真っ暗な部屋に、光が差した。
「野風?」
 光を背にした影が小さく言った。
 その影はあたりを気にしながら、細く開けていた戸からなかに入るとすぐに戸を閉めた。
「誰?」
 影は野風に近づく。
 目が慣れてくると、綺麗な顔をした女がこちらを心配そうに見ているのがわかった。
「心配しないで。心配で様子を見に来ただけだから」
 女はそう言うと手に持っていたものを野風の前に置いた。
「何も食べてないんでしょう? これ、食べて」
 野風が視線を向けると、皿の上に二つおにぎりがあるのがわかった。
「……いらない」
 一日何も口にしていなかった野風の口は乾いていて、小さな呟きは女には届かなかった。
「楼主もひどいわよね! こんな若い子を仕置き部屋に閉じ込めるなんて! あ、お水も持ってきたの。これ……」
 女が竹筒に入った水を野風に差し出す。
「いらないって!」
 野風は声を振り絞り、竹筒を差し出した女の手を振り払った。
 竹筒が鈍い音を立てて床に転がる。
「こんなところにいるぐらいなら死んだ方がマシだ!」
 女が悲しそうな顔で野風を見る。
 野風は気まずくなり、急いで視線をそらした。
「男に媚びへつらうなんて、俺にはできない! いつか俺もお客をとるなんて考えるだけで虫唾が走る!」
 野風は吐き捨てるように言った。
「野風は男の人が嫌いなの?」
「嫌いだよ! あいつらすぐ殴るし……みんな俺を見下してやがる。父さんだって、俺が金になるってわかったら、すぐこんなところに売って……男なんてみんな大嫌いだ」

「そう……」
 女は目を伏せた。
「男の人が嫌いなら、この仕事は少しツラいかもしれないわね……。でも、あなたは幸運なのよ」
 野風は怪訝な顔で女を見る。
「幸運?」
「ここはいずみ屋、吉原でも三本の指に入る大見世よ。大見世に入れる遊女は限られている。ここはね、女が男より優位に立てる場所なの」
「意味がわからない……」
「あなたは男に媚びへつらっていると言ったけど、この見世に男に媚を売っている遊女なんてひとりもいないわ。私たちはね、夢を売るのが仕事なの」
「夢……?」
 野風には意味がわからなかった。

「いずみ屋の敷居を跨ぐまでに、お客がどれだけのお金を払うか知っている? 太夫ぐらいになれば、見世に上がるだけでもあなたのお父様が一生働いても払えない額のお金がかかるの。それだけのお金をかけても、太夫に認められなければ振られる。太夫ほどではないけど、私たちも同じ。男の人たちがひと月、長ければ何年も汗水流して働いてきたお金を私たちと一夜過ごすために使うの。だからこそ、そのお金に見合うだけの夢を見せるのが私たちの仕事。それだけの価値が私たちにはある」
 女は真っ直ぐに野風を見つめた。
「男に見下されたくないなら、まず男や女を語る前に己の価値を高めなさい。貧相な体に教養を感じない言葉遣い、今のあなたに何の価値があるの?」
「な、何!?」
「価値のないものが見下されるのはどの世界でも同じ。ここを出たところで、あなたは見下され踏みつけられる」
 野風は唇を噛む。
「それなら、ここで歯を食いしばり己を磨くべきじゃない? まぁ、まずその貧相な体からなんとかしてね」
 女はにっこりと笑うと野風の肩をつつく。
「さ、触んな!」
「ふふふ、ほら、食べないと一段と貧相になるわよ」
 野風は女を睨む。
 女は野風の様子を気にすることなく、野風の頭をなでた。
「だから、触んな!」
 女は笑顔で野風を見つめている。
(まさか食べるまでここにいる気なのか……)
 野風は女を見つめ返した。
 女は一歩も譲る気がないようだった。
 野風はため息をつく。
「わかった……食べるよ」
 野風はおにぎりに手を伸ばす。
「偉い偉い」
 女はにっこりと笑う。
 野風は渋々おにぎりに口をつける。
「ところで、おまえ誰だよ」
 女は呆れたような顔をする。
「言葉遣い早くなおしなさいよ。私は夕里。姐さんと呼びなさい」
 夕里はまた野風の頭をなでた。
「だから、触るなって!」
「ふふふ」
 薄暗い仕置き部屋の中で夕里の笑い声だけが明るく響いていた。