「それじゃあ、無事に良庵のところに置いてもらえることになったんだな?」
 叡正の話を聞き終えた咲耶はホッと胸を撫でおろす。

 叡正が法要で橘家を訪れてから三日後、叡正は咲耶の部屋を訪れていた。
「ああ、昨日あたりからもう仕事を手伝ってるみたいだ」
 叡正は咲耶を見て微笑んだ。
「そうか……」
 咲耶は軽く微笑むと目を伏せた。
(正直断られるかもと思っていたが……。了承してくれてよかった……)

「あ、この貸しは高くつくぞとは言ってたけど……」
 叡正が思い出したように付け加えた。
 咲耶は苦笑する。
「まぁ、そうだろうな……」
 咲耶はそれだけ言うと、叡正を真っすぐに見た。

「今回、咲を助けられたのはおまえのおかげだ……。本当にありがとう」
 咲耶の言葉に、叡正は少しだけ顔を赤らめた。
「そんな……たいしたことはしてないから……」
 叡正は照れたように視線をそらす。
 その様子を見て、咲耶はそっと微笑んだ。

(これで残るは……)
 咲耶は息を吐くと、静かに目を伏せた。

「あ、そういえば……」
 叡正は咲耶を見て口を開く。
「あいつ……信が怒っていた……気がする」

「怒っていた……? え? 誰が……?」
 咲耶はポカンとした表情で叡正を見た。
「だから、信が……」
「信……? え……、あの信が……??」
 咲耶は目を丸くする。
 咲耶が知る限り、信が怒ったことは今まで一度もなかった。
 表情が変わることすらあまりない信が、怒るところなど咲耶には想像すらできなかった。

「おまえ、すごいな……」
 咲耶は思わず呟いた。
「あの信まで怒らせるなんて……ある意味才能だな……」
「……ん? いやいや、怒ったのは俺に対してじゃない……! たぶん……」
 叡正は慌てて言った。
「それに、信までってなんだ。までって!」

 咲耶は思わず笑った。
「すまない。つい口が……。……それより、誰に怒ったんだ? あの信が……」

 叡正は何か考えるようにしばらく目を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。
「誰っていうより……行動や言葉に対して……なのかもしれない。あの咲って子……最初は逃げないつもりだったから……。あと『どう生きればいいかわからない』って言葉に対して怒っていた……ような気がする……」
 叡正の言葉に咲耶は目を伏せた。
(ああ……そういうことか……)

 信を助けたとき、信がどのように生きてきたのか、咲耶は大まかに聞いていた。
 信の気持ちまで聞いたことはなかったが、どんな思いで生きてきたか想像することはできた。

(信も、信の姉も生き方なんて選べる状況じゃなかったからな……)
 咲耶はゆっくりと息を吐いた。

「まぁ、あの後すぐいつもの顔に戻ったから、俺の勘違い……かもしれないけど……。あれから、まだ信には会ってないのか?」
 叡正は咲耶を見た。
「ああ、まだ会っていない。明日裏茶屋で会うことになっているから、様子を見ておくよ」
 咲耶は叡正を見て微笑んだ。
「そうか。じゃあ、俺はこれで。そろそろ寺に戻らないと」
 叡正はそう言うと立ち上がった。

「あ、そうだ。叡正」
 咲耶は、襖に向かって歩き始めていた叡正を呼び止めた。
「ん?」
 叡正は少しだけ振り返り、咲耶を見る。
「ここ最近、おまえに助けられてばかりだから、何か礼をしようと思ってな。今度渡すから、近いうちにまた来てくれ」
 咲耶がそう言うと、叡正はなぜか怯えたような顔をした。

(ん? なんだその顔は……)
 咲耶は首を傾げる。
「どうした?」
 咲耶は叡正を見つめた。

「あ、いや……。ここに呼ばれたときは、いつもろくでもないことが起こるから……。しかも、今日は礼がしたいなんて……何かすごく悪いことが起こりそうで……」
 叡正は心底怯えているように見えた。
 咲耶は目を丸くした後、ゆっくり長く息を吐く。

「おまえ……やっぱり……才能あるよ……」
 咲耶は額に手を当てて、小さく呟いた。
「え?」
「なんでもない。ほら、寺に戻るんだろう? さっさと行け!」
 咲耶は額に手を当てたまま言った。

「あ、ああ。……じゃあ、また来る」
 叡正は戸惑いながら、それだけ言うと襖に手を掛けた。
「ああ、またな」
 咲耶は叡正の背中に向かってそう言うと、ため息をついた。

「まぁ、私が悪いな……」
 ひとりになった部屋で、咲耶は叡正をぞんざいに扱ってきたことを静かに反省した。