事件は突然起こった。
 
 食事の準備をしようと、いつものようにクーラーボックスを開けた時、一枚の紙がひらりと床に裏返しに落ちた。
 床に落ちたそれを拾って表返した瞬間、さっと血の気が引くのが自分でも分かった。
「これって……!」
「どうしたの」
 窓辺で花を飾ろうとしていたエリカが振り返ったので、慌てて背中に隠す。
「いや、なんでもない……なんでもないよ」
 エリカに知られるわけにはいかなかった。
 紙にはたった一行、乱暴な字でこう殴り書きがされていたのだ。
 
『花の怪物を飼うな』

 これは、僕とエリカの密やかな暮らしが、誰かに知られていることを示していた。
 バレたんだ。いつから? どこから?
 忘れかけていた嫌な記憶が、沼の底からぼこぼこ生まれるガスみたいに湧き上がってくる。

『あの子ったら友達と遊ばないでずっと地面を見てるのよ。何か異常があるんじゃない?』『お花野郎はあっちで花冠でも作ってろよ』『いやあ、オレたちの頭は天才少年様ほど良くないんでね。分かるように話してくんない?』『君の研究は素晴らしい! しかし……学術界がこれを受け入れるかは別問題だが』『お前のせいで俺の研究は全て白紙に戻ったんだよ。この五年間が台無しだ』

『俺は、お前を許さない』
 
「わあっ、わあっ、わああああ!」
 口が勝手に叫び出していた。僕の声に驚いたエリカが手に持っていた花瓶代わりのソーダ瓶を取り落とし、ガシャンと派手な音を立てた。
「ユウっ! どうしたのっ?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……僕はただ、花が好きなだけだったんだ……」
「ユウ、しっかりして! 私を見て!」
 駆けつけたエリカの柔らかなオータムライラックの香りが体を包んだことで、僕の頭の中をぐるぐると回っていた記憶のパレードは姿を消した。自分の荒い呼吸の音がまるで他人のもののように耳につく。ようやく落ち着いて顔を上げると、エリカが僕の肩を抱いて心配そうに覗き込んでいた。
「……ごめん、驚かせてしまったね。もう大丈夫、ちょっと昔のことを思い出してしまっただけだよ」
 なんとかそう笑いかけながら、握りしめていた不穏な手紙をエリカの目に入らないうちに握りつぶしてズボンのポケットにねじ込んだ。
「ごめん……ちょっと一人にしてくれないかな」

 この手紙の主について、僕には心当たりがある。それはまだ僕が「天才」とちやほやされていた頃の話。
 そして、できれば忘れたままにしておきたかった記憶だ。

**
 
 僕は物心ついた頃から植物が好きだった。友達と公園で駆けっこするより、テレビで人気のヒーローの活躍を見るより、最新のゲームをプレイするより、外で花を見ているのが好きだった。
 そんな中、僕が独学で作り出した『植物と対話できる装置』の事が偶然大学の先生の耳に入ったらしく、直々に協力の要請があった。その研究室では学生やプロの研究者が様々な種類の生育環境の調査や、品種の改質なんかを研究している場所で、僕の発明がその研究に大いに役立つとのことだった。
 その頃だろうか。
 僕が『天才少年』としてメディアに取材を受けたり、周りから誉めそやされ始めたのは。
 
 それ自体は喜ぶべきことだ。しかし、誰かが脚光を浴びるとき、その影で悔しい思いをする人がいるのを当時の僕は気がついていなかった。

 実際、僕と共同研究を進めた研究室は、次々と画期的な成果を出した。その種がどこからどんな手段で広まったのかを聞き取ったり、その花に最適な土壌を直接話し合いながら改良することができたからだ。
 その結果の中にはこれまでの常識を覆すようなものもあった。言い換えれば……これまでの研究を、全て覆された研究員もいたことになる。

 ある日、先生との打ち合わせを終えて部屋を出ると、一人の研究員が僕を待ち構えていた。
 頭の中で、前に一度見せてもらった名簿引き出す。確か、この男は竹田といったはずだ。
「君か? 天才だなんだって調子に乗ってるガキは」
「調子に乗ってるつもりはありませんが……」
「……計画からやり直しだとよ」
「えっ?」
「お前のあの妙な装置のせいで、俺のこれまでの研究結果は全て白紙に戻ったんだよ。最初からやり直すことになった。この五年間が台無しだ」
「それは、すみません」
 僕が謝ることなのかはわからなかったけれど、社会経験も乏しい僕に言い返す術はなかった。ぎょろりと僕を睨む彼の目は、絶望を溶かし込んだように暗いのに僕への憎しみだけがその中心でギラギラと異様な光を放っていた。
「俺の人生を台無しにしやがって。俺は、絶対にお前を許さない……!」
 僕はその目がとても怖かった。 
 それからどうやって家まで帰ったのかは覚えていない。それからしばらくして、彼が研究室を去ったと聞いた。
  
 変な奴扱いを受けるのは慣れっこだったけど、明確な悪意を向けられたのは、あれが最初で最後だった。それからしばらくはあの恐ろしい目が忘れられず、何度も悪夢に見て飛び起きた。そうしているうちに僕の病気が発覚して、逃げ込むようにここへ来たけれど……決して問題が解決したわけじゃないのだ。本当は。

 ポケットの中で、ぐしゃぐしゃに丸めたチラシを握り直す。
 これは、僕自身で決着をつけなければならない。
 エリカを守るためにも。

 その夕方、部屋でうたた寝をしているエリカに気づかれないよう、足音を殺してそうっと庭へ出た。
 庭に敷かれた小道を進み、普段は固く閉ざされた大きな金属製の門に歩み寄って正面に立った。
「ねえ、そこにいるんでしょ。いつかの続きをやりに来たんですか?」
「……おやおや、俺のことを覚えてくれてたとは光栄だなぁ。雲の上の天才から見たら、俺なんて虫ケラ同然だろうに」
「もう、僕のことを天才と呼ぶ人は一人も居ません」
 竹田はニヤニヤしながら門の影から姿を現した。やけに大きなリュックを背負っている。そしてニヤニヤ笑いを顔に貼り付かせたまま「とりあえずさ、そっちに入れてくれよ。門越しに声張り上げて話すことじゃないだろ」と言うので、仕方なく男を庭に入れた。
 この場所に初めて招く客がこんな奴になるなんて、想像もしなかった。なんだか僕たちの花園が汚されたような気持ちになる。
 竹田はきょろきょろと庭を見渡して「こんなとこで楽しくやってんなよな」と小さく悪態をついた。
 僕はこの嫌な時間を少しでも早く終わらせようと、ポケットの中から例の紙を取り出す。
「あの、この手紙、あなたですよね。何が目的なんですか」
「お前、またアレをやってるんだろう? 植物と話すっていう気味の悪いお遊びをさ」
「お遊びなんかじゃない。あれは植物と対話をするための技術です」
「あんなもの、技術とは言わない。手品みたいなもんだろ、植物が喋るなんて。気が触れた奴の戯言だよ。だからお前はこんなところに閉じ込められてる。そうだろ?」
 気が触れているのは竹田の方だ。その目は爛々と輝いているが、決して良い印象を与える輝きではなく、禍々しい興奮を帯びている。
「だから俺が、お前を解放してやろうと思ってなあ! 感謝しろよ」
 そう言って後ろ手でリュックに手をかけ、取り出したのは大きなトリガーのついたホースだった。
「な、なにをするつもりだよ」
「花があるからそこから動かねえんだ。全部枯れたらお前だって社会に出る気になるだろ? ん? だから、これで全部枯らしてやるよ」
 やけに大きいと思ったら、除草剤のタンクを持ち込んでいたのか。適切に使えば有用なツールかもしれないが、ここれそんなものを撒かれたら庭が全て死んでしまう。
「やめてください! 今の僕にとって、ここが世界の全てなんです。ここを失ったら、もう僕には何も残らないんです!」
「かつての俺にとって、それがあの研究だったんだよ! だから! 今度は俺が全部奪ってやる!」
 竹田は高らかに叫ぶとホースの先を空に向かって持ち上げた。
 
 もう駄目かと目をギュッと閉じたその時だった。
 
 僕の背後からゴゴゴゴと不吉な音を立てて、大きな影が立ち上がったのだ。
「な、なんだよ……あれ」
 竹田が顔を引き攣らせて見上げた瞬間、その大きな影は真っ赤な夕日を背に俯いた顔をグンッと勢いよく持ち上げた。ギョロリと大きな目が、僕たち二人を見下ろした。
『立チ去レ……コノ地ノ草木全テノ呪イヲ受ケタク無クバココカラ立チ去レ……!』
「ひいぃっ! 俺は、俺はただ……」
 ぐわんぐわんとあちこちから反響するいびつな声が、みるみる大きくなる。
『呪イヲ受ケルガ良イ!』
 そう叫んだ瞬間、バンッと大量の葉や花びらが爆発したように宙に解き放たれた。
「うわああっ! やめろ! 怪物が俺に関わるな!」
 彼は取り乱して、足をもつれさせながら僕に背を向けて一目散に逃げ出して行った。取り残された僕は、怪物と一対一で対峙する。恐ろしい姿を目の前にしても、僕の心は穏やかだった。
「……またエリカに助けられてしまったね」
「気がついてたのね」
 怪物の後ろから、エリカが顔を覗かせた。
 巨大な怪物だと思ったものは、庭の草花をより合わせて作ったオブジェだった。僕がエリカの体を作るときにやる事とほぼ同じだ。
 この怪物は自分で動くことはない代わりに、長い枝や丈夫な蔦でマリオネットのように動かす仕組みになっている。あの恐ろしい声は、おそらく見えないところにスピーカーを置いてあるんだろう。
 僕だって最初からそれに気がついていたわけじゃない。僕が怖がらなかったのは別の理由がある。
「だって、香りがしたからね。君と同じオータムライラックの香り」
 昼間に抱きしめられた時と同じ、優しい香りが僕の方まで届いていた。それで、ああエリカがそこに居る、とわかったのだ。
 エリカはホッとした様子で一度大きく息をついて、僕の方へ駆け寄った。 
「怪我はない? 痛いところや、苦しいところは?」
「大丈夫、大丈夫だよ。ありがとう」
 おかげで被害に遭う前に、あいつを追い払う事ができた。
「あれだけ脅かしておけばもう馬鹿な真似はしないはず。でも……かわいそうな人ね。過去に囚われてしまうなんて」
「こういう偏見を受けるのは初めてのことじゃないから僕は大丈夫だけど……彼はちょっと心配だよね。人は、自分自身と向き合うのが一番怖いんだ」
「それは違うわ。怖い気持ちがあるからって他人に危害を加えて良いことにはならない。それはユウが誰よりも気にしていることだって、私は知ってるもの」
「エリカ……」
 思わず涙が出そうだった。僕が日々、病に蝕まれていく恐怖に押しつぶされそうになっているのも、それが溢れ出さないように必死に抑え込んでいるのも、エリカは気づいていたのだ。
 気づいていて、あえて見守ってくれていたのだ。
「僕、エリカと出会えて良かった」
「改まって言われると、なんだか照れるわ」
 エリカはくすくすと笑った。 
「それにしても……これはすごいね」
 夕日を浴びて禍々しく影を伸ばす『花の怪物』を見上げた。急ごしらえにしては迫力満点だ。
 赤い実を風に揺らしているフウセンカズラが絡み合ってザワザワと囁き声のような音を立て、奇妙な色形でよく目立つ大輪のトケイソウがギョロリとした両目に据えられている。
「結局、人は見たいものを見る生き物なのよ。怪物が居ると思っていたから、こんなものでも本当に怖くなったんでしょうね」
「なんというか、エリカはたくましいな」
「あら、私はただの可憐で儚い秋の花よ」
 エリカが後頭部でまとめていた長い髪を解き放つと、オータムライラックの香りがふんわりと広がった。

 僕はその華やかななのにどこか哀愁のある秋の香りに包まれながら、この幸福な気持ちをずっと覚えていよう、と思った。
 エリカの花の香りや、秋の夕日の美しさや、肌に触れる空気の冷たさみたいな、なんてことないひとつひとつを宝物にしよう。
 これからも、こんな日々を丁寧に紡いでいこう。

 そんな風に自分の事ばかり気にしていたから、気が付かなかったんだ。
 
 ……エリカの様子が最近おかしいことに。