森の奥にひっそりと建てられたこのサナトリウムは花で溢れている。 
 毎朝、僕は朝日の眩しさに目が覚める。ここでは早朝のアラームや緊急の電話に叩き起こされることはない。日の高さから時間を推測して、今日はゆっくり寝過ぎたなとか、まだこの時間なら朝食はコーヒーでも挽こうかなとかそんな事を考える。
 いや、その前にやることがあるんだった。ベッドから抜け出した僕はまず一番に庭に出る。庭に咲く花のうち目についた一本をそっと手折り、ソーダ水の入っていた瓶にその花を差してテーブルに飾った。
「……うん」
 誰にともなく、ひとり頷く。
 花を愛しく思えるということは、今日も僕は僕でいられたみたいだ。
 
 開け放たれた扉から一歩外へ出ると、広大な庭が広がっている。どちらを向いても隙間がないほど花で埋め尽くされていて、自由に伸びた植物のツルが今にもこの洋館全てを覆い隠してしまいそうだ。
 穏やかな春の空は爆発したみたいな満開の桜や、幻想的な藤の滝で華やかに彩られているし、足元に目を向けると豪華な花びらを惜しげもなく披露しているのはダリア、小さな花冠を懸命に空に伸ばすのはマーガレット。夏や秋にはまた別のメンバーで、今とは違った表情を見せてくれるに違いない。
 むせ返るほどの花の匂いに包まれながら、ゆっくりと庭を歩く。まるで天国にいるみたいだ。
 
 良い場所だと思う。
 だけど――ここに居る人間は僕ひとりだ。
 
 僕のことを天才と散々持ち上げた周囲の人々は、僕が精神を患ったらしいと知った途端、潮が引くように一斉に姿を消した。
 僕が突然叫び出したくなる衝動に支配されてしまうことや、これまで当然頭に入っていた知識がある日すっぽり抜け落ちてしまうことが周囲に恐怖を与えてしまったのかもしれないし、単に僕を疎ましく思う誰かにていよく厄介払いされたのかもしれない。
 そんなわけで、僕にはいつのまにか何かしらの病名が与えられ、気がついた時にはこのサナトリウムで隔離生活を送る手続きがなされていた。
 
 正直、今の精神状態は僕自身にもよくわからない。
 この生活がいつまで続くのか、僕の病状はどの程度のものなのか……日々少しずつパズルのピースが欠けていくような安定感のない思考回路では論理的な判断をするのは難しかった。
 そんな僕でも断言できるのは、数年後には自分自身のことさえも分からなくなるだろうということ。そして、この言いようのない不安を吐露する相手もここには居ないということ。
 
 せめて話を聞いてくれる誰かがここに居れば……
 
 そうやって立ち尽くす僕が、風に揺れる花々が触れ合って起こるざわめきで包まれた時だった。頭の中にあるアイディアが降ってきた。

「そうだ……一つ方法がある」

 春の盛りのよく晴れた日。 
 始まりの予感が、花の香りを巻き込んだ突風とともに舞い上がった。

 僕はすぐさま抱えられるだけの庭園の花をかき集めた。ゼラニウム、ジャスミン、ツツジにヒナギク。部屋に持ち込んだそれらをバランスよく配置していく。
 大きなピンクの綿菓子みたいなアリウムはワンピースに、カンパニュラは切れ長の目に……って具合に。
 茎や蔓をより合せて人の大きさまで形作ったそれは、言うなれば等身大の花人形だ。
 
 そして最後に、最大の仕上げ。
 
 僕は柔らかい半透明の素材で出来た小さなキューブを持ってくると、そっと“彼女”の胸元に埋め込んだ。
 すると、“彼女”はゆっくりと目を覚ます。白い綿毛の睫毛を震わせながら。

「やあ、はじめまして」
「ここは……?」
「ここは、誰にも知られていない花園だよ。僕はユウ。君の良い友達になれたらいいな」
「私の、友達?」
「そう、そして君は……」
 僕はそこで少し言葉を止めた。大切なことをまだ決めていなかった。
 目覚めてまだ間もないせいでどこか緩慢な彼女を改めて見る。すごく美しい。それが率直な感想だった。つま先から頭の先まで、色とりどりの春の花で埋め尽くされている。視線の終点で、頭に差した小さなエリカの花が目に入ったことで、次に言うべき言葉が決まった。
「そして……君の名前は、エリカだよ」
 理解できたかは分からないが、エリカは小さく微笑んだ。体を起こそうとして、途中で何かに阻まれたように動きを止める。まだ体のコントロールがスムーズでないみたいだ。視界の動きを確かめるようにゆるゆると頭を振って言った。
「ねえユウ。私、ずいぶん長いこと眠っていたみたい。少し喉が渇いたわ」
「うん、うん! 水を持って来るよ。ここで待ってて」

 そう言ってキッチンへ急ぎながら、僕は自分のアイディアが成功した喜びを密かに噛み締めた。
 
 何が起こったのかを口で説明するのは簡単だけど、理解してもらうのはきっと難しい。
 本来、全ての植物は元々言葉を持っている。僕は十代の始めの研究で、本来なら人とは通じ合えないそれを人間の言葉に置き換えることに成功した。僕が彼女に埋め込んだ小さなキューブは、植物が持つ言葉を人間に理解出来るように翻訳するスピーカーでもあり、植物が自由に動くための心臓でもある。
 つまりこれがあれば、草花と人間が同じように手を取り合って暮らすことが出来る。
 
 これが僕の最大の発明であり、僕が若くして「天才植物学者 本郷悠」と呼ばれた所以だ。
 これまではフィールドワークでの聞き取りや生育された植物の現状把握なんかに使っていたから、人間と同じ姿形でこれを試したのは初めてだったけど、どうやら上手くいったらしい。
 
 僕は、このサナトリウムでたった一人の――そして、おそらく最初で最後の友人を手に入れた。

 
 **

「昼食にしようか」
「ええ、今行く」
 窓辺に花を飾るエリカの背中に呼びかけると、振り返ったエリカの陰に、ピンク色の鮮やかな花弁が見えた。今日はアマリリスか。
 エリカは最初のうちは動きもぎこちなく、寂れたテーマパークに設置された機械仕掛けの人形みたいだったけど、何日か経つころにはまるで人間と遜色ないほどスムーズに動けるようになり、表情も豊かになった。

 僕はテーブルに自分の分の食事と、エリカのための冷たいハーブティーを用意した。
 これまで僕が花を飾っていたテーブルは二人で使うには少し狭かったから、自ずと花の瓶は窓辺に移動することになった。
 僕は銀のカトラリーを整えながら、エリカの方を盗み見る。花を慈しむ彼女の横顔は、とても美しい。 
 
 彼女は食事をしない。けれど、食事の時間は僕に合わせて冷たい飲み物を摂ることにしてくれている。
 窓から射す日の光が、ハーブティーのグラスを通してテーブル上に柔らかな波紋を映していた。
 エリカよりも先に席に着いた僕は、テーブルの上に並んだ皿を眺めてこっそりため息をついた。

「またシチューとパンだ。……今週多くないか」
「前に苦手だって言ってたものね」
「パンがボソボソしてて口の中にずっと残る感じがするんだよ。……でも、文句を言える立場じゃないからね、用意してもらえるだけありがたいと思わなきゃ」
 
 食事は毎朝、このサナトリウムを運営している財団が一日分の食料をクーラーボックスに詰めて門前まで運んでくれる。僕みたいに社会に適合出来なくなった人間のために、働いてくれている人たちがいるのだ。

「そういえば、エリカは苦手なものとかないの?」
「私は花だもの。味の好みは持たないわ」
「いいなあ、絶対その方が人生に憂いが少ないよ。僕は花に生まれるべきだった」
「まあ」

 エリカは口元に手を当てて、くすくすと笑った。そんなエリカの様子を見て、僕の胸の中にも花が綻ぶようなぬくもりが灯る。
 しばらくそうして見つめ合っていたが、ふとエリカは遠い目をしてぽつりと呟いた。

「でも……悲しいと感じることならあるかも」
「どういう時?」
「誰にも見てもらえない時に」
「見てもらえない?」
「植物が花開くときこんなに鮮やかに着飾るのは、誰かに気付いてもらうためよ。人に限らずね。だけど、誰にも見られることなく一生を終える子たちもいる。それは悲しいことだわ」
「そうなんだ……」悲しそうに俯く彼女の気持ちについて、人間の僕が理解したふりをしてもきっと余計に悲しませるだけだと思う。でも……僕の中に「彼女を元気づけたい」という気持ちが渦巻いているのも確かだ。
 気づけば口が勝手に動いていた。
「じゃあさ、ここに咲く花は、僕が責任持って愛するよ。一輪たりとも悲しい思いはさせない」
「そんなこと、出来るかしら」
「出来るさ。やってみせるよ」
 
 僕の大言壮語に、エリカは目を細めただけだった。
 そんな彼女を喜ばせようと必死になって、僕がこれまで出会った辺境の地の花の話や、ツタがレンガ造りの建物にヒビを入れて右往左往した話なんかをしていると、次第にエリカもリラックスした表情になったので、胸のうちで安堵の息をついた。
 
 当初の見込み通り、僕たちは良い友人になった。
 楽観主義者の僕だって、この関係がいつまでも続くとは思っていない。エリカの心臓は有り合わせで作ったその場しのぎだし、保って一年くらいだと思う。それに、いつ僕の病状が進行して、何もかも分からなくなってしまうかもわからない。
 
 僕たちは、期限付きの友達だ。
 でも、それでいい。
 未来の終わりがすぐそこにある僕たちの関係は、それくらいがちょうどいい。

 そう思っていたはずなんだけどな。
 
 僕は、エリカの笑顔を見ながら頬杖をついた。
 目が合うたびにくすぐったくなる。
 
 ――どうやら、僕は恋をしてしまったようだ。