「今日、良いのか、具合」
『どうしてそんなにカタコト?⠀緊張してる?』
「いいから」
『昨日よりは良くて、一昨日よりは良くない、かな』
「……昨日も一昨日も様子わかんねえよ」


柚葉がどんな毎日を過ごしていて、病状はどうだとか、治療の内容だとか、何も知らない。今日何をしていたのか、僕の送った写真に何を思って、どうして電話をかけてきたのか、全然わからない。

時折、深く息をする音がきこえた。ため息、ではないだろう。疲れを滲ませていることが通話越しにもわかる。あまり長々と話すのは悪いだろうなと思うのに、電話を切るきっかけが見つからない。


「絵の具を見つけたんだ」
『何色?』


唐突に切り出したのに、何の話?とかではなくて何色?と問えるところが柚葉らしい。突拍子もないことをしたり言うのはお互いの専売特許のようなもので、その返しにも慣れている。柚葉の方が随分上手だが。


「橙色。絵の具セット、今度使うんだけど。あ、学校の、文化祭の準備で。それで昔のやつを探していて。橙色の絵の具に柚葉の名前が書いてた」
『六年生のとき、席となりだったもんね。わたしの絵の具セットに入ってるかも、返さなきゃ』
「返さなくていいって。今回使ったら多分全部捨てるし」
『借りたもの、自分で返せるなら返したいんだ。あ、そうだ、この間ね家から持ってきてもらう本を探すのに本棚の写真送ってもらったら、あかねちゃんから借りてた辞書を見つけて……』
「何言ってんだよ、柚葉」


遮るつもりはなかった。変わらない口調で何でもないことのように話すけれど、借りたものは返すという当たり前のことの裏側に、別の意味が見て取れて、口を出さずにはいられなかった。

絵の具も、僕の姉に借りた辞書も、どうだっていいだろうに。中学校に上がったとき、姉が辞書をお下がりでくれると言ったけれど、名前が書いてある上に草臥れた辞書が嫌で断って新しいものを買ってもらった。そしたら、その姉の辞書は柚葉の手に渡っていた。あんたと違ってゆずちゃんはお下がりとか気にしないし文句も言わないのって棘のある言い方をされたことを覚えている。

そのまま捨てたって構いやしない。どうせ返ってきたところで、捨てるだけだ。でもたぶん、持ち主が僕ら姉弟だとか、物がどうだとか、そういうことではなかった。発すれば、耳に届くから。言いたいことは言えるのに、言葉以外で伝える術を持たない。今すぐ顔を突き合わせられたらいいのに、そうすることができない壁が僕たちを隔てている。


『ごめんね、晃明』
「謝るなよ、謝らなくていいから」
『うん、ごめん。もう切るね』
「柚葉、」


三階の部屋を端から端までじっと見遣る。反射でろくに見えやしないけれど、他の部屋よりも広い窓に目を凝らす。糸よりも細い繋がりは引き止める間もなく途絶えて、柚葉の姿も見つけられないまま、明かりの灯り出した街の向こうの橙の空に追いすがった。