車窓から見える景色はビュンビュン、ビュンビュン、物凄い速度で通り過ぎていく。車内の揺れも酷い。
助手席に座る華音は景色も、アクセル全開でハンドルを握る母との会話も、楽しむ余裕はなくすっかり青ざめて項垂れていた。
母はこの交差点もないシンプルな作りの高速道路でも飽きる事なく、1時間以上もこの調子で実に楽しそうだった。
「これだけスピード出しても捕まらないんだから、高速道路サイコー!」
「か、母さん……高速道路の最高速度は100㎞まで……余裕でオーバーしてる」
速度メーターをチラッと見ると、華音はまた項垂れた。
「ん? そうかしら。まあ、いちいち気にしていたら快適な運転は出来ないわよ。あ、次のサービスエリアでちょっと休憩しましょ」
休憩を挟んで回復した華音だったが、再び超高速の車に揺られているうちに最初に逆戻りとなり、目的地へ着く頃には大分疲弊していた。
「華音、車酔い? 大丈夫?」
道沿いでしゃがみ込む華音の隣に、母が心配そうにしゃがんで顔を覗き込んだ。
「母さん……1度自分の運転する車に乗ってみればいいよ」
「私は1人なんだから、それは出来ないわよ?」
「いや、真に受けないでよ。唯の皮肉だから」
華音は立ち上がり、のろのろと石段を上っていった。
「皮肉って! 何でそう言うところまで音夜に似るのよ」
母は不貞腐れながら、息子に遅れを取らない様に後を追った。
石段の先には広大な湖を臨める墓地があり、その一角に音夜が眠っている。
2人は父の墓石に花と線香を立て、合掌をする。
青空を映す湖面は風に揺れて光を散らす。太陽は頂上から少し西へ傾いているが、まだまだやる気一杯の光と熱を地上へ送り届けていた。
華音は目を開け、ハンカチで額の汗を拭った。
「そう言えば今日、父さんが大学の頃よく行ってたって言う喫茶店の元店主に逢ったよ。もう店は畳んじゃったみたいだけど、元気そうだった」
「成田さんに逢ったの?」
応えたのは勿論故人でなく、隣の母だ。
「うん。またいつか母さんと一緒に遊びに来てってさ」
「そっか……お元気そうで良かったわ」
線香の煙がゆらりと揺れた。それはまるで父が応えてくれたかの様だった。
本日はお盆。死者の魂が現世に還って来る特別な日だ。これまで父は還って来る度に居たたまれない思いをしていたに違いないが、今はきっと母子揃って出迎えてくれた事に胸を撫で下ろしている事だろう。
来年はもっと良い報告をしたいと華音と母は誓い、笑顔で父に別れを告げた。
来た道を辿っている途中、同じ様に故人に逢いに来た人達と擦れ違った。
駐車場に戻ると、母の愛車の上で青みがかった烏が羽を休めていた。
華音は心の中で烏の名前を叫ぶと、頭を抱えた。
いつの間について来たんだよ。しかも、そこに停まっちゃ駄目だろ……。
横目で母を見ると、母は俯いて震えていた。
あ。これ、本気でヤバいやつ。
「大丈夫! すぐどかすから」
「華音」
一歩踏み出した華音の袖を母が掴んだ。
深刻そうな声色に振り返ってみると、キラキラとした幼子の様な顔がそこにあった。
「え……」
華音は固まった。
「不思議な鳥ね! 羽毛は青みがかった黒……瞳は青……ちょっと小さめで丸っこいけど、烏かしら。ちょこんとしてて可愛い! 私の車が気に入ったのかしら。もうそれならいっそ、一緒に帰りたいわ」
普段の冷静沈着の社長は何処にもおらず、華音は幼い頃の事を思い出して納得した。
あれは父が出張で北海道に行った時の事。土産に瑞々しいメロンでもなく、凜々しい木彫りの熊でもなく、何故か初々しいエミューの雛を買ってきたのだ。
最初は呆れていた母であったが、育てているうちに愛着が沸き誰よりもエミューを溺愛するようになった。以来、他の鳥にも興味を示すようになり家族3人で花鳥園に行ったりもした。母は生粋の鳥マニアであった。
母が近付いても、烏は逃げようともしなかった。
母は嬉しそうに華音の方を見た。
「本当に私の車が好きみたい! 飼っちゃ駄目かしら……?」
華音は言葉に詰まった。
飼うも何も、現在は華音の使い魔だから実質既に飼っている事になる。だけど、そんな事は言えないのでそれっぽい返答をした。
「いや、まず鳥獣保護法に引っかかるよ」
「あ。それもそうね。うーん……残念」
母はあっさり引き下がった。
強めの風が吹く。
ゴルゴは羽を広げ、風に乗って飛び立っていった。
母はゴルゴを名残惜しそうに見送り、運転席のドアを開けた。華音も続いて助手席のドアを開けると、むわっとした熱気が溢れ出た。
「あっつ……」
数分間だけとは言え、この炎天下に晒されていた鉄の塊はもうサウナ状態だった。母はエンジンをかけると、すぐに全ての窓を開けて冷房のスイッチを押した。
「直に涼しくなるわ」
熱気が冷風に押し出され、徐々に車内の温度が下がっていく。
十分に車内に冷風が行き届いたところで母は窓を全て閉め、ハンドルの上に両腕を乗せて前のめりになり華音の方へ顔を向けた。
「ねえ、華音。もう1つ行きたいところがあるんだけど……」
「いいよ。それで何処?」
「私と音夜の思い出の場所」
母の目が優しくなり、華音は微笑ましく思った。
皮肉にも父が亡くなった事が切っ掛けで母子の関係は崩れ、今日まで親子らしい会話はして来なかった。勿論、華音は両親の思い出話など聞いた事がなかった。聞かされていたとしても、それは父が亡くなる前の幼い頃で覚えていなかった。
母が車を発進させ、母子を乗せた車は思い出の場所まで猛スピードで駆け抜けていった。
空は僅かな日の光を残して殆ど闇に呑まれ、こそこそ集まり出した金と銀の星々が歌い始めた。
甲高い歌声に誘われて目を覚ました白い月は目を何度も擦ったらしく、形が正円ではなくなっていた。光もまだ弱々しかった。
夜を迎えつつある空の下には川が穏やかに流れていた。
華音と母は街の喧騒が一切届かない静かな川辺をゆったり歩いていた。
「此処が父さんとの思い出の場所?」
「ええ。正しくは私と音夜と華音、家族3人のね」
華音が首を傾けると、母はクスッと笑った。
「貴方は覚えていないでしょうね。ごく稀に覚えてる人も居るみたいだけど。……その頃はまだ私のお腹の中に居たの」
母は平らな腹を愛おしそうに摩った。
「私も音夜も貴方が産まれて来るのを楽しみにしていてね……。この場所で貴方に名前を贈ったの。此処ってね、10月始め頃になると華やかなお祭りの音が聞こえて来るのよ」
華音の誕生日は10月7日だ。そして華やかな祭りの音……
「だから華音……」
華音は初めて自分の名前をちゃんと意味を持って発音した。
「音夜は女の子みたいな名前だって笑っていたけれど、2人の名前が1文字ずつ入ってる事を教えたら喜んでいたわ」
「母さんが付けてくれたんだ。ずっと気付かなかった……いや、目を背けていたんだ。オレよりも先に成田さんが気付いて「素敵」だって言ってくれたんだ。……そうか、そうだったんだ。オレはさ、母さん……正直に言うとこの名前が好きじゃなかった。嫌いだった」
母は不安げな顔で息子を見た。
「華やかだなんて、裕福で何不自由ない生活を送っている事を表しているみたいで……なんだか皮肉だなって。だけど、それはオレの思い込みだった。オレの心が荒んでいたから本当の美しさが見えなかったんだ。……面と向かってはちょっと照れるけど、ありがとう。母さん」
華音は父とよく似た顔で笑った。瞬間、母の瞳が大きく揺れた。
母は横を向いて込み上げて来るモノを必死に堪えた。
「お礼を言うのは私の方よ。産まれて来てくれてありがとう。華音は私と音夜の大切な子供よ。……それなのに、私の身勝手で貴方を傷付けてしまった。生涯消えない大怪我を負わせてしまった…………」
堪えきれなかった涙が次々と頬を滑り落ちていった。
「……うん。どんなに謝られたってもう治らないよ。それでもね、起きてしまった事は仕方がないし過去は変えられない。だからこそ、前を向かなきゃいけないんだ。母さんがオレを連れ出したのはそう言う事だろ? オレも一緒に行く事にしたのはそう言う事なんだ」
「うん……そうね。華音の言う通りだわ」
ずっと向き合う事を恐れていた間に、息子はこんなにも大きくなっていた。自分よりも随分と立派で自身が恥ずかしい反面、息子が誇らしかった。
母は過去に嘆いている場合ではないと己を叱咤し、涙を拭って真横に居る華音と向き合った。
「私は今の華音の事が知りたい。情けない事だけど、水戸よりも知らないと思うの。だから、教えてちょうだい」
「今の……か。そう言われても、何を話したらいいのか……」
華音は眉を下げて頬を掻いた。
母はうーんと質問の内容を考え、パッと思い付いた事を口にした。
「学校はどう?」
「それなりに楽しく過ごしているよ。自分で言うのもなんだけど、成績は学年トップを維持してる。まあ、それは総合で美術だけは最下位だけどね……」
「どうしてかしらね? 私も音夜も美術センスは悪くない筈なのに……。そう言えば、玄関に飾ってあったお化けは華音が作ったの?」
「お化け?」
最近玄関に並べた物と言えば、沖縄で製作したシーサーの置物ぐらいだった。母が指すのはまさにそれで、華音の口から正体を明かされると本気で驚いた。
「守り神をお化け扱いするなんて……。祟られるよ?」
「だって、シーサーには見えなかったもの。貴方の方がシーサーに祟られるんじゃない? じゃあ、次の質問。彼女は出来た?」
「居ないよ。でも、好きな娘なら居るよ」
「どんな娘?」
華音は目を閉じ、瞼の裏側にチェリーブロッサムの香りを纏った人形の様に愛らしい少女の姿を映した。
「ドジで勉強が出来なくて……時々男みたいに怪力でガサツだけど、一生懸命で優しくて真っ直ぐな太陽みたいな娘。隣に居ると安心するんだ。……まだ気持ちは伝えてない。今は色々と忙しいから全部落ち着いたらって考えてる」
「そう。良かった。幸せになりなさいね」
華音が目を開けると、母が目を細めていた。
華音は「幸せ」の言葉の意味を考えた。そうして魔女達の目論見に行き着いた。
「さっきさ過去は変えられないって言ったけど、もし変える事が出来るのなら母さんは変えたい?」
母も同じ様に「幸せ」の言葉の意味を考えた。
「そうね……。貴方を傷付ける前、もっと欲を言うなら音夜が生きていた頃に戻りたいっていつも思うわ。だけどね、もし本当に叶ってしまったら今この瞬間貴方と居る時間を失ってしまう。それはとても寂しい。それに、現在を作り上げたのは他でもない私自身だからそれを否定して逃げたくはないわ」
母の言葉は華音の中にストンと収まった。
「オレも同じだよ」
華音はより一層魔女達の野望を阻止する意志を強めた。それを母は察したのか、真摯な顔で華音と目を合わせた。
「華音。何かは分からないけれど、今貴方は大事な使命を背負っている。絶対無茶だけはしないで。私はいつでも傍にいるから」
華音は瞠目し、それから笑った。
「ありがとう。母さん」
ゆらりと川面が揺れ、そこに映っていた華音が別次元の魔法使いに変化した。
母子の間に流れる穏やかな空気に、オズワルドは安堵して微笑んだ。
すると、母が突然川面に視線を向け微笑んだ。
オズワルドは一瞬、母と目が合った気がした。
助手席に座る華音は景色も、アクセル全開でハンドルを握る母との会話も、楽しむ余裕はなくすっかり青ざめて項垂れていた。
母はこの交差点もないシンプルな作りの高速道路でも飽きる事なく、1時間以上もこの調子で実に楽しそうだった。
「これだけスピード出しても捕まらないんだから、高速道路サイコー!」
「か、母さん……高速道路の最高速度は100㎞まで……余裕でオーバーしてる」
速度メーターをチラッと見ると、華音はまた項垂れた。
「ん? そうかしら。まあ、いちいち気にしていたら快適な運転は出来ないわよ。あ、次のサービスエリアでちょっと休憩しましょ」
休憩を挟んで回復した華音だったが、再び超高速の車に揺られているうちに最初に逆戻りとなり、目的地へ着く頃には大分疲弊していた。
「華音、車酔い? 大丈夫?」
道沿いでしゃがみ込む華音の隣に、母が心配そうにしゃがんで顔を覗き込んだ。
「母さん……1度自分の運転する車に乗ってみればいいよ」
「私は1人なんだから、それは出来ないわよ?」
「いや、真に受けないでよ。唯の皮肉だから」
華音は立ち上がり、のろのろと石段を上っていった。
「皮肉って! 何でそう言うところまで音夜に似るのよ」
母は不貞腐れながら、息子に遅れを取らない様に後を追った。
石段の先には広大な湖を臨める墓地があり、その一角に音夜が眠っている。
2人は父の墓石に花と線香を立て、合掌をする。
青空を映す湖面は風に揺れて光を散らす。太陽は頂上から少し西へ傾いているが、まだまだやる気一杯の光と熱を地上へ送り届けていた。
華音は目を開け、ハンカチで額の汗を拭った。
「そう言えば今日、父さんが大学の頃よく行ってたって言う喫茶店の元店主に逢ったよ。もう店は畳んじゃったみたいだけど、元気そうだった」
「成田さんに逢ったの?」
応えたのは勿論故人でなく、隣の母だ。
「うん。またいつか母さんと一緒に遊びに来てってさ」
「そっか……お元気そうで良かったわ」
線香の煙がゆらりと揺れた。それはまるで父が応えてくれたかの様だった。
本日はお盆。死者の魂が現世に還って来る特別な日だ。これまで父は還って来る度に居たたまれない思いをしていたに違いないが、今はきっと母子揃って出迎えてくれた事に胸を撫で下ろしている事だろう。
来年はもっと良い報告をしたいと華音と母は誓い、笑顔で父に別れを告げた。
来た道を辿っている途中、同じ様に故人に逢いに来た人達と擦れ違った。
駐車場に戻ると、母の愛車の上で青みがかった烏が羽を休めていた。
華音は心の中で烏の名前を叫ぶと、頭を抱えた。
いつの間について来たんだよ。しかも、そこに停まっちゃ駄目だろ……。
横目で母を見ると、母は俯いて震えていた。
あ。これ、本気でヤバいやつ。
「大丈夫! すぐどかすから」
「華音」
一歩踏み出した華音の袖を母が掴んだ。
深刻そうな声色に振り返ってみると、キラキラとした幼子の様な顔がそこにあった。
「え……」
華音は固まった。
「不思議な鳥ね! 羽毛は青みがかった黒……瞳は青……ちょっと小さめで丸っこいけど、烏かしら。ちょこんとしてて可愛い! 私の車が気に入ったのかしら。もうそれならいっそ、一緒に帰りたいわ」
普段の冷静沈着の社長は何処にもおらず、華音は幼い頃の事を思い出して納得した。
あれは父が出張で北海道に行った時の事。土産に瑞々しいメロンでもなく、凜々しい木彫りの熊でもなく、何故か初々しいエミューの雛を買ってきたのだ。
最初は呆れていた母であったが、育てているうちに愛着が沸き誰よりもエミューを溺愛するようになった。以来、他の鳥にも興味を示すようになり家族3人で花鳥園に行ったりもした。母は生粋の鳥マニアであった。
母が近付いても、烏は逃げようともしなかった。
母は嬉しそうに華音の方を見た。
「本当に私の車が好きみたい! 飼っちゃ駄目かしら……?」
華音は言葉に詰まった。
飼うも何も、現在は華音の使い魔だから実質既に飼っている事になる。だけど、そんな事は言えないのでそれっぽい返答をした。
「いや、まず鳥獣保護法に引っかかるよ」
「あ。それもそうね。うーん……残念」
母はあっさり引き下がった。
強めの風が吹く。
ゴルゴは羽を広げ、風に乗って飛び立っていった。
母はゴルゴを名残惜しそうに見送り、運転席のドアを開けた。華音も続いて助手席のドアを開けると、むわっとした熱気が溢れ出た。
「あっつ……」
数分間だけとは言え、この炎天下に晒されていた鉄の塊はもうサウナ状態だった。母はエンジンをかけると、すぐに全ての窓を開けて冷房のスイッチを押した。
「直に涼しくなるわ」
熱気が冷風に押し出され、徐々に車内の温度が下がっていく。
十分に車内に冷風が行き届いたところで母は窓を全て閉め、ハンドルの上に両腕を乗せて前のめりになり華音の方へ顔を向けた。
「ねえ、華音。もう1つ行きたいところがあるんだけど……」
「いいよ。それで何処?」
「私と音夜の思い出の場所」
母の目が優しくなり、華音は微笑ましく思った。
皮肉にも父が亡くなった事が切っ掛けで母子の関係は崩れ、今日まで親子らしい会話はして来なかった。勿論、華音は両親の思い出話など聞いた事がなかった。聞かされていたとしても、それは父が亡くなる前の幼い頃で覚えていなかった。
母が車を発進させ、母子を乗せた車は思い出の場所まで猛スピードで駆け抜けていった。
空は僅かな日の光を残して殆ど闇に呑まれ、こそこそ集まり出した金と銀の星々が歌い始めた。
甲高い歌声に誘われて目を覚ました白い月は目を何度も擦ったらしく、形が正円ではなくなっていた。光もまだ弱々しかった。
夜を迎えつつある空の下には川が穏やかに流れていた。
華音と母は街の喧騒が一切届かない静かな川辺をゆったり歩いていた。
「此処が父さんとの思い出の場所?」
「ええ。正しくは私と音夜と華音、家族3人のね」
華音が首を傾けると、母はクスッと笑った。
「貴方は覚えていないでしょうね。ごく稀に覚えてる人も居るみたいだけど。……その頃はまだ私のお腹の中に居たの」
母は平らな腹を愛おしそうに摩った。
「私も音夜も貴方が産まれて来るのを楽しみにしていてね……。この場所で貴方に名前を贈ったの。此処ってね、10月始め頃になると華やかなお祭りの音が聞こえて来るのよ」
華音の誕生日は10月7日だ。そして華やかな祭りの音……
「だから華音……」
華音は初めて自分の名前をちゃんと意味を持って発音した。
「音夜は女の子みたいな名前だって笑っていたけれど、2人の名前が1文字ずつ入ってる事を教えたら喜んでいたわ」
「母さんが付けてくれたんだ。ずっと気付かなかった……いや、目を背けていたんだ。オレよりも先に成田さんが気付いて「素敵」だって言ってくれたんだ。……そうか、そうだったんだ。オレはさ、母さん……正直に言うとこの名前が好きじゃなかった。嫌いだった」
母は不安げな顔で息子を見た。
「華やかだなんて、裕福で何不自由ない生活を送っている事を表しているみたいで……なんだか皮肉だなって。だけど、それはオレの思い込みだった。オレの心が荒んでいたから本当の美しさが見えなかったんだ。……面と向かってはちょっと照れるけど、ありがとう。母さん」
華音は父とよく似た顔で笑った。瞬間、母の瞳が大きく揺れた。
母は横を向いて込み上げて来るモノを必死に堪えた。
「お礼を言うのは私の方よ。産まれて来てくれてありがとう。華音は私と音夜の大切な子供よ。……それなのに、私の身勝手で貴方を傷付けてしまった。生涯消えない大怪我を負わせてしまった…………」
堪えきれなかった涙が次々と頬を滑り落ちていった。
「……うん。どんなに謝られたってもう治らないよ。それでもね、起きてしまった事は仕方がないし過去は変えられない。だからこそ、前を向かなきゃいけないんだ。母さんがオレを連れ出したのはそう言う事だろ? オレも一緒に行く事にしたのはそう言う事なんだ」
「うん……そうね。華音の言う通りだわ」
ずっと向き合う事を恐れていた間に、息子はこんなにも大きくなっていた。自分よりも随分と立派で自身が恥ずかしい反面、息子が誇らしかった。
母は過去に嘆いている場合ではないと己を叱咤し、涙を拭って真横に居る華音と向き合った。
「私は今の華音の事が知りたい。情けない事だけど、水戸よりも知らないと思うの。だから、教えてちょうだい」
「今の……か。そう言われても、何を話したらいいのか……」
華音は眉を下げて頬を掻いた。
母はうーんと質問の内容を考え、パッと思い付いた事を口にした。
「学校はどう?」
「それなりに楽しく過ごしているよ。自分で言うのもなんだけど、成績は学年トップを維持してる。まあ、それは総合で美術だけは最下位だけどね……」
「どうしてかしらね? 私も音夜も美術センスは悪くない筈なのに……。そう言えば、玄関に飾ってあったお化けは華音が作ったの?」
「お化け?」
最近玄関に並べた物と言えば、沖縄で製作したシーサーの置物ぐらいだった。母が指すのはまさにそれで、華音の口から正体を明かされると本気で驚いた。
「守り神をお化け扱いするなんて……。祟られるよ?」
「だって、シーサーには見えなかったもの。貴方の方がシーサーに祟られるんじゃない? じゃあ、次の質問。彼女は出来た?」
「居ないよ。でも、好きな娘なら居るよ」
「どんな娘?」
華音は目を閉じ、瞼の裏側にチェリーブロッサムの香りを纏った人形の様に愛らしい少女の姿を映した。
「ドジで勉強が出来なくて……時々男みたいに怪力でガサツだけど、一生懸命で優しくて真っ直ぐな太陽みたいな娘。隣に居ると安心するんだ。……まだ気持ちは伝えてない。今は色々と忙しいから全部落ち着いたらって考えてる」
「そう。良かった。幸せになりなさいね」
華音が目を開けると、母が目を細めていた。
華音は「幸せ」の言葉の意味を考えた。そうして魔女達の目論見に行き着いた。
「さっきさ過去は変えられないって言ったけど、もし変える事が出来るのなら母さんは変えたい?」
母も同じ様に「幸せ」の言葉の意味を考えた。
「そうね……。貴方を傷付ける前、もっと欲を言うなら音夜が生きていた頃に戻りたいっていつも思うわ。だけどね、もし本当に叶ってしまったら今この瞬間貴方と居る時間を失ってしまう。それはとても寂しい。それに、現在を作り上げたのは他でもない私自身だからそれを否定して逃げたくはないわ」
母の言葉は華音の中にストンと収まった。
「オレも同じだよ」
華音はより一層魔女達の野望を阻止する意志を強めた。それを母は察したのか、真摯な顔で華音と目を合わせた。
「華音。何かは分からないけれど、今貴方は大事な使命を背負っている。絶対無茶だけはしないで。私はいつでも傍にいるから」
華音は瞠目し、それから笑った。
「ありがとう。母さん」
ゆらりと川面が揺れ、そこに映っていた華音が別次元の魔法使いに変化した。
母子の間に流れる穏やかな空気に、オズワルドは安堵して微笑んだ。
すると、母が突然川面に視線を向け微笑んだ。
オズワルドは一瞬、母と目が合った気がした。