スペクルム カノン

 亜熱帯の森、そこが修学旅行最終日を迎えた鏡国高校の生徒らが立ち入った場所だった。
 数名のインストラクターの案内のもと、クラス順に進んでいく。華音達のクラスはE組なので最後尾、更に班ごとに列を作っており、華音は最後尾の中の最後尾だった。
 此処では動きやすく、且つ汚れても良い様に、生徒達は体操着にビーチサンダル、職員達もラフな格好をしている。
 360度何処を見渡しても緑が覆い、シダ植物が彼方此方に垂れている。今の時間容赦なく地面を叩く太陽光も控えめになり、濃密な澄んだ空気が辺りを包んでこの時季でも歩きやすい。また、途中に川や滝などの水場があって十分涼む事が出来た。
 だから、生徒達の元気も有り余っている。
 刃は木から垂れ下がった蔓に掴まり、早速遊び始めた。

「やっほー! これ、めっちゃ楽しい」

 刃を吊るした蔓は、空中をビュンビュン行き交う。直に浴びる風は心地が良く、身軽になった気分を味わえた。
 まさに自然が作り出したアトラクション。
 宮本と品川が次は自分の番だと宣言し、刃の後ろへ並び始める。
 雷と華音はまったく興味なし。並ぶ筈もなくサッサと先に進もうとし、雷が呆れ顔で振り返る。

「小学生じゃねーんだから。ほら、置いていかれちまうぞ」
「そりゃ困る」
「置いてかないでくれ」

 宮本と品川がすぐにその場から離れ、残された刃は慌てて蔓から飛び降りる――――が。

「うおぁ!?」

 着地に失敗して顔面から見事に地面の上にダイブした。

「いてて。あーあ。体操着汚れちまった」

 起き上がった刃は顔についた泥を手の甲で拭い、前方へ視線を向ける。
 もう仲間達の姿は小さくなっていた。

「酷い、華音ちゃん! 桜花ちゃんの時はすぐに駆けつけたのにぃ!」

 華音は足を止め、振り返る。

「お前は自業自得だろ」

 そのまま待ってくれるものだと刃は期待したが、すぐに華音は顔の向きを戻して歩いて行ってしまった。

「ああっ、ちょっとぉ!」

 慌てて刃は追い掛けた。


 結局華音達4人は刃を待ってあげ、そのおかげで前の列と少しばかり距離が開いてしまった。
 刃は4人に感謝し、もう寄り道はしないと口先では誓うもののまだ視線が彼方此方に飛んで落ち着きがない。
 そんな刃のお守りを華音が引き受け、隣を注意深く歩く。

 子供か。そう言えば桜花は大丈夫かな。川辺で足を滑らせてたりとかは……ありそうで心配だな。



 華音の予想通り、先を歩いていた桜花は川辺で足を滑らせた所近くを歩いていた柄本に助けられていた。

「ごめん……柄もっちゃん」
「いいよー。もう、桜花ちゃんってホントにドジだよね」

 桜花には、自分よりも背の低い柄本が大きく逞しく見えた。

「気を付けてはいるのだけれど、気付いたら転んでたり壁にぶつかってたりするの……」
「それは大変。だけどさ、可愛いと思うよ? ほら、護りたくなるって言うか。ああ、此処に鏡崎くんが居ればよかったね」
「な、何で華音が出て来るの」
「ずっと気になってたんだけど、桜花ちゃんも鏡崎くんもお互いに下の名前で呼び合っているよね? それって仲良い証拠なんじゃないの?」
「そ、それは違うの。わたし、華音の苗字はどうも噛んじゃうから……。それに、わたし自分の名前が気に入ってるから、華音だけじゃなくて皆にそう呼んでもらいたいなって」
「あ。そうだったんだぁ。あはは、確かにカガミサキカノンって発音しづらいよね。私も日向って名前気に入ってるけど、柄もっちゃんってずっと呼ばれ続けてるからなぁ。もう何でもいいかも」
「うん。いい名前だよね」

 桜花は足元に注意を十分に配りながら、前列に続いて川辺を無事通過した。

 名前、か。

 最初の頃、華音は自分の名前が好きではないと言っていた。華やかだなんて皮肉みたいだからと……。
 けれど、名前と言うものは個々を示すものであり、唯一無二だ。たとえ、同姓同名であろうと、そこに込められた想いは違う。子供を授かり、名前を付ける親は誰だって想いを込める。
 華音と言う名前もきっと、何か想いが込められている筈だが……。
 それを華音が知る事となるのは当分先かもしれない。


 それから10分は軽く経過したが、一向に景色は変わらず緑一色だった。
 最初こそ雄大な自然に幼子の様に瞳を輝かせていた生徒達もうんざりとし、輝きを失いかけていた。疲労感が積み重なっていく。
 まだ緑に覆われた道は続く。

「まだ続くのか、チクショー!」

 刃が盛大に不満を叫んだ。近くを歩く者は「さっきまではしゃいでいたくせに」と冷ややかな目を向け、華音は家で帰りを待ってくれている金髪ツインテールの少女を連想した。

「好奇心旺盛、飽きっぽい……やっぱり子供だな」
「何か言ったか、華音」

 刃は焦げ茶色の瞳でぎろりと華音を睨む。目尻が垂れている為、あまり迫力はなかった。

「いや? なんでも――――」

 カサッ。

 前方の草むらが揺れ、華音の言葉は途切れた。刃、雷、宮本、品川も、緊張した面持ちで草むらを注視する。
 黒く割と大きな影が一瞬見えた。

「何だ? 今の……。動物?」

 大自然の中であるから、刃の発言は強ち間違いではなかった。
 しかし、それを見た全員が悪寒を感じていた。
 華音は一歩踏み出す。

「……皆からはぐれない様にしよう」

 班全員が頷き、これまでで一番慎重になった。
 幸いまだ列から離れておらず、インストラクターの声が聞こえた。
 ところが、その平和はそれまでだった。
 インストラクターの声を掻き消す様に、彼方此方で悲鳴が上がり始めたのだ。
 前列の方から炎が燃え移る様に、後方へ騒ぎが伝染していきあっという間に辺りは騒然とした空気に包まれた。

「一体何が起きてるんだ……」

 華音は呟くが、此処からでは全く騒ぎの中心が見えない。
 宮本と品川は恐怖と不安のあまり石像と化し、刃はオロオロと頻りに辺りに視線を彷徨わせ、何とか平常心を保てている雷でさえも拳を握ったままそこから一歩も動き出す事が出来なかった。
 その時、また草むらが揺れ動き先程よりもハッキリとした輪郭が前方で固まる生徒達の中へ飛び込んでいった。
 あれは狼だった。黒い影を纏い、赤い双眸を滾らせる……。

「止めなくちゃ!」

 華音は列から離れ、駆けていく。
 刃と雷がハッと気付くが、彼を呼び止める事は叶わなかった。


 鬱蒼と生い茂る植物に行く手を阻まれながらも、華音は足を動かし続けた。向かうのは前列、魔物が飛び込んだ場所。

「……もう遅かった!」

 やっとの事で辿り着いたが、インストラクターと大半の生徒、職員が既に意識を失っていた。
 まだ意識のある者達も恐怖でその場に縛られている。
 華音は辺りに視線を飛ばし、次の獲物へ飛び掛ろうとする魔物の姿を見つけ足元に落ちている枝を投げ付けた。
 見事頭部へ命中。気絶させる事は出来なかったが、標的を変更させる事に成功した。
 華音は向かって来る魔物に背を向けて走っていく。
 隣をいつの間にか、使い魔が飛んでいた。

「ゴルゴ! こんなところに鏡なんて……って、え? こっち?」

 ゴルゴが華音の前へ出、元来た道へ戻っていく。
 後ろからはカサカサと魔物が草を掻き分け追ってくる。
 華音はなるべく振り返らない様にした。視覚の代わりに聴覚が働き、魔物が迫る音を拾った……それも複数。

 数が増えてる。

 視界の端々にポツポツと赤い光が点灯し、一気に不安になった。
 やがて華音にとって見覚えのある風景に変わっていくと、清流の音が聞こえた。
 膝下程度の水が溜まった場所に出て、ゴルゴはそこで進むのを止めて羽ばたいて嗄れた声を上げた。

「カノン、今回は結構な被害だ。急がなければ死人が出るぞ」

 微かに揺れる水面からオズワルドの声がし、近付いてみて華音は納得した。

「水鏡、か」
「そう。水も立派な鏡だ。嘗ては鏡の代わりにしていたと言うからな」
「それにしても、何でこんなところにまで魔物が……」

 辺りを見回したが、上手く撒くことが出来たのか赤い双眸は何処にもなかった。
 華音は水面越しにオズワルドと手の平を合わせた。
 瞬間、そこから青光が生まれて2人と使い魔を飲み込んだ。
 眩い光の中で、華音とオズワルドは向かい合う。
 華音のもとへふわりと近付いたオズワルドは華音を抱き締め、耳元で囁いた。

「此処にはまだ生命力を奪われていない者も居る。もしその者達に私が憑依したお前の姿を見られでもしたら……。カノン、お前は一生私の姿のままだ。たとえ、私の魂がスペクルムに還ってもな」
「ちょ……え!?」

 華音は思わずオズワルドを突き放そうとしたが、オズワルドがそれを許さず、いつも通り魔法使いの身体が華音に重なる様にして消えていった。
 不安な面持ちの華音の姿は、悲しくも別次元の自分と全く同じになった。
 光が消え、内にオズワルドの気配を感じ取ると華音は落胆した。

「そんな重要な話、先に」

 してよ、と続けようとした時、草むらが大きく揺れ動いた。闇の中に赤い双眸は覗えないが、状況からいって魔物。
 華音は杖を構えた。
 草むらから黒い影が2つ分現れ、太陽の下で輪郭と色彩が明らかとなる。

「え……。そんな」

 それは雷と刃だった。
 2人も華音と同じ気持ちで、足を止めてポカンと口を開いた。

「華音……なのか?」

 雷の声で、一層辺りが凍り付いた――――。



「華音……なのか?」

 草むらから現れた雷が夢現の様に問い掛けた先。
 そこには、親友とよく似た不思議な格好の少年が立って居た。
 雷の隣で刃も目を見張ったまま硬直していた。
 両者共に硬直し、暫しの沈黙が降りた。風も止み、緩やかに青空を流れる白い雲だけが時間の経過を告げる。
 華音は俯き、停止しそうな思考を何とか巡らせた。

 あれ? これって普通にまずくない? この姿を見られると、ずっとオレはオズワルドの姿!? いやいやいや、それよりもまずはこの状況をどうにかしないと! オレだって知られる訳にはいかない、絶対に――――!

 華音の内側では、オズワルドがニヤニヤ笑っているが声に出さない限りは華音には分かる筈もなかった。
 華音は顔を上げる。この時には完璧な真顔が作られていた。

「カノンって誰だ? 私はそいつではない。人違いじゃないのか?」

 何故か、オズワルドの口調になってしまい腹立たしく思いつつも、表情そのままで2人の反応を待った。
 少し間を空け、今度は刃が口を開いた。

「いや、華音だろ」
「違うと言っている」

 親友の真っ直ぐな眼差しに、少し華音は後ずさる。背中にひんやりとした汗が伝った。
 刃は華音の目の前まで歩いて来て、透き通った水色の髪に手を伸ばした。

「何でそんなかっこしてんの? コスプレ?」

 その時、刃の背後に禍々しい赤の光が2つ見え、華音は刃の手を摺り抜けて杖を振るう。

「ひぇっ」

 刃は顔面蒼白で身を屈め、背後でドサッと何かが落ちる音が響いた。

「お、狼? ……いや、何か――――また来た!」

 目の前の黒い物体を観察する雷の視界の端に、別の物体が映る。今度は少し大きく、その形状は熊と酷似していた。
 草むらがガサガサと揺れ動き、忙しなく黒の物体は増えていく。狼が大半を占めるが熊も何体か居て、まさに獰猛な肉食獣の集いだ。
 やがて、華音の手では負えない数の魔物が3人を包囲した。
 華音は一般人の親友達を背に庇い、杖を両手で構えて水属性のマナを集める。もう自分の正体がどうとか気にしている余裕はなかった。

「凍れ!」

 言葉と共にマナを放つと、周囲に冷気が漂い前方から順に凍らせる。
 魔物の動きは止まる。だが、ほんの一瞬。奇跡的に冷気の届かなかった位置に居た1体の魔物が口から吐き出した炎により、呆気なく氷は溶かされた。華音が次の行動に移る暇はなかった。
 魔物は一斉に3人へ飛び掛る。
 華音は杖を振り回し、魔物を吹き飛ばしていく。それでも防ぎきれず、うち何体かが背後へと牙を剥く。
 すっかりダンゴムシ状態の刃の横、雷が自慢の拳を握って果敢に立ち向かう。
 鍛え抜かれた身体より繰り出された強力な一撃は見事魔物の腹を穿ち、意識さえも奪った。
 雷の足元に数体の魔物が転がり、華音は目を瞬かせ「おお……」と無意識に感嘆の声を漏らしていた。
 地面が一通り黒で埋め尽くされると、華音は乱れた呼吸を整えて意識を集中させる。
 大気中の水属性のマナが引き寄せられ、脳内には呪文が浮かび上がる。杖を構え直し、はっかりとした口調で声に出す。

「グロスヴァーグ!」
「フレイムレイン!」

 何故か別の声が重なった。
 大波が周囲を飲み込み始めたところに、紅蓮の炎が雨の如く降り注ぐ。
 せっかく獲物に食らいついていた大波が炎の熱に蒸発し始め、やがて相殺。
 華音は地面にしっかり残された魔物を見、落胆した。

「嘘……。せっかく仕留めたと思ったのに……」

 元凶は分かっている。
 火の魔術を放つ者など、リアルムでは1人しか居ない。
 華音は草むらを掻き分けて現れた赤い衣装に身を包んだ少女に、湿った視線を向けた。

「桜花……」
「ご、ごめんね? またタイミング間違えちゃった……」
「それはもういいんだけど、早く……」
「あれ? 高木くんに、風間くんも一緒なの?」

 桜花はアメジスト色に変化した大きな瞳にクラスメイト達を映し、首を傾けた。
 その反応は2人も同じだった。

「まさか、赤松……なのか?」
「桜花ちゃん!?」

 雷、刃は順番に言う。
 華音と同様色合いや服装は異なるが、そうとしか考えられない。いや、名前を呼んだ時点でそれは確かとなってしまった。
 桜花が来るといつも事態が悪化する……と頭を抱える華音だが、視界に蠢く黒を認め瞬時にマナを集め直す。
 親友達が上手い事桜花の気を引いていたおかげで、今度は無事に魔術が発動。大渦潮が全ての魔物を飲み込み、消滅させ、囚われていた生命力を解放させた。

『どうやら、1人も被害が出なかったようだな』

 脳内で響くオズワルドの声に、華音は安堵した。
 フッと気が緩むと、途端に親友達が詰め寄ってきた。

「な、なあ……今の何?」
「華音と桜花ちゃんだよな?」

 雷は消滅した魔物の事を、刃は目の前の魔法使い達の事を、それぞれ気にしていた。
 華音はもう騙しきれないかと肩を竦め、溜め息混じりに応えた。

「そうだよ。オレは華音。こっちは桜花。魔物――――さっきの化け物を倒す為に魔法使いの力を借りてるんだよ……」

 不本意ながらも真剣に真実を伝えたと言うのに、その後に訪れたのは何故か虚しいばかりの静寂だった。
 内側に居る魔法使いも何も言ってくれない。
 此方の空気など関係なしに、向こうでは騒がしい生命の気配が感じられた。先程のオズワルドの言葉通り1人も生命力を失う事なく、皆等しく現世の続きが再開された。
 その余波を受けたのか、雷と刃の石化状態も程なくして解けた。

「魔法使いってマジかよ? どう見てもコスプレ……」

 再び刃の手が華音の髪へ伸びて来て、触れた途端にパッと髪は水色から漆黒に、その他も親友達が見慣れた少年のものへと戻った。
 絶妙なタイミングでオズワルドの魂が別次元(スペクルム)へと還ったのだ。同時に、ドロシーの魂も帰還した様で桜花もすっかり元通りになっていた。使い魔達も動物形態へ戻り、森の中を駆けていった。
 親友達が驚く手前、一番に驚いていたのは華音本人だった。
 自分で確認出来る服装だけでも、魔法使いのものではないと分かる。つまり、あれは嘘だったのだ。

 一生オズワルドの姿のままじゃなかったのか!?

 思い返せば、オズワルドと知り合って間もない頃通行人に目撃されそうになった事があった。あの時は杖で殴り倒した魔物の下敷きにしてしまった事によって、運良く(通行人にとっては不幸でしかなかった)免れたのだ。そんな重大な事であればその時に言っている筈である。従って、本気で狼狽える華音を嘲笑する為についた嘘である事は明白であった。
 華音はフツフツと湧き上がって来る怒りを鎮め、今最も気にするべき現実と向き合った。
 華音の姿が一瞬で元に戻った光景を目の当たりにし、またも親友達は言葉を失って石像と化していた。

「驚いただろうけど、今ので分かっただろ? 言っとくけど、これ現実だから」

 華音の柔らかな言葉により、2人の2度目の石化が解けた。
 刃と雷は同時に瞬きを繰り返し、現状を飲み込む様に唾を飲み込んだ。

「信じがたいが……納得はいった。最近の華音、何っつーか不思議な感じしてたから。思えば、妹と弟が急に道端で倒れた時から色々状況おかしかったしな」

 雷が最初にそう言うと、刃の脳の隅っこで熟睡状態だった記憶が呼び起こされた。

「そういや、何だかんだ華音に言いくるめられてたけど、ゲーセン行った日の出来事はフツーじゃなかったなぁ。でもさぁ……ちょっとまだ分かんないんだよなー。魔物倒す為―とか、それって親玉が居るって事? ほら、アニメとかでよくあんじゃん。悪者が世界征服とか何とか」
「大体はそんな感じ」

 言って、華音はじっと刃を見つめた。
 刃は「何?」と少々くすぐったそうに首を傾げた。
 華音は目を閉じ、瞼の裏に少し前の記憶を映して口を開いた。

「1月ぐらい前、オレと刃が居残りで帰りが遅くなった日があっただろ。始まりはそこからだ。魔物が現れ、刃は生命力を奪われて気を失った。魔物は人間の生命力を奪い、主である魔女へ届けるのが役目だ。刃が倒れた後、オレも襲われて……その時に力を貸してくれたのが魔法使いのオズワルド・リデルだ。オズワルドは別次元……スペクルムって呼ばれている世界に居るオレなんだ。でも、全然性格違うけどね。アイツは何かこう捻じ曲がってる……って今はいいか、それは。とにかく、オズワルド自身はこっちには来れないんだけど、魂だけは来る事が出来る。そうしてオレがその魂を取り込む事によって、オレはオズワルドの姿と魔力を手にする事が出来るんだ。桜花も同じで、桜花はドロシー王女の魂を取り込んで戦ってる。魔物は魔術でしか倒す事が出来なくて、倒せずに魔女に生命力を届けられてしまえば、奪われた人間は2度と目を覚まさない。そうならない為に、オレ達は戦っているんだ」

 話を聞き、刃と雷はゾッとした。
 もし華音が助けてくれなければ、自分や自分の大切な者は2度と目を覚まさなかったに違いない。
 次に飛んで来た雷からの疑問は想定内であった為、華音はすぐに対応した。
 まずは魔女(プラネット)の事、次にその目的。知っている事は全て話した。情報量はとてつもなく、簡素にまとめても説明が長引いてしまった。雷は真剣に耳を傾けてくれていたが、桜花はふらふら近辺を歩き出し、刃は何度も欠伸を繰り返しては目に涙を貯めていた。
 遠くから、華音達を呼ぶ声が聞こえた。
 4人は顔を見合わせ、心の中で頷き合うと自然と足を声のする方へ進めた。
 クラスメイト、教師、インストラクター……意識を取り戻した彼らが、今度は姿の見えない華音達4人を心配しているのだ。
 早く戻らなければ、また変な騒ぎになってしまう。
 4人は急いだ。
 途中雷の視線を感じた華音だが、話の続きはまた追々。苦笑を向ける事で一旦勘弁してもらった。
 蝉の大合唱が既に始まった午前10時。やる気漲る太陽の下、華音はいつもに増して人通りの少ない道を一冊の本を携えて歩いていた。
 頭上からも十分に熱せられた地面からも、ムンムンと熱が伝わってきて生命を維持しているだけでも苦痛だった。
 華音は電柱の陰に入って足を止め、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。こんな日にでも身に付けている七分袖のパーカーが肌に貼り付いていて気持ちが悪かった。
 本を見つめ、ちょっぴり数分前の己の浅はかな判断に後悔した。

そこまで遠くないし、図書館まで歩いていけばいいか……って、オレ馬鹿なの? もう真夏だよ? 何で20分も外を出歩こうと思った?

 振り返ってみても、ゆらゆら蜃気楼。半分近く歩いてきて、戻るなんて今更だ。
 人通りが少ない――――否、全くないのも当然で、こんな無謀な事をしている冒険者は華音1人だけだった。
 パタパタと微風が吹き、横髪が白い頬を掠めた。気温が高いので熱を孕んでいるが、少しばかり涼しくて心地良かった。
 横を見れば、そこには青みがかった烏が羽ばたきを繰り返していた。

「ゴルゴ、扇いでくれてるのか? ありがとう」

 美しいサファイアブルーの瞳からは感情は窺えないが、主に礼を言われて嬉しそうにしている様に思えた。
 ゴルゴのおかげで少しだけ、気持ちも体温も落ち着いた。
 華音が目的地へ向かって歩き出すと、ゴルゴも隣を羽ばたいてついていく。
 前方のカーブミラーに自分の姿が映し出され、華音は抱えている本の内容を思い出した。
 愛した女に虚像をあげてしまう男の話だった。
 華音にとっての虚像は華音自身の時もあれば、別次元のオズワルドの時もある。もし、この本の様に虚像をなくすのなら、どっちなのだろうと不思議に思った。
 そもそも、オズワルドが鏡面に現れる仕組みが華音はよく分かっていない。スペクルムにある魔法鏡を介して接触しているらしいが、リアルムの鏡は至って普通でどれでも効果は同じだ。鏡と言うよりも、窓の様なものなのかもしれない。

 青々とした街路樹が立ち並ぶ歩道を進むと、目の前に歩道橋が見えて来た。この辺りは横断歩道がないので、向こうへ渡るにはこれを利用するしか安全な道はない。
 腰が大きく曲がったお婆さんが階段をゆっくりと上っているのを見、華音は少しでも苦痛だと思った自分が恥ずかしくなった。サッとお婆さんに駆け寄り、重たそうな手荷物を持ってあげた。

「ちょっとそこまでお持ちしますよ」
「おや、まあ。ありがとうね」

 お婆さんは顔を上げ、皺だらけの顔に更に皺を作った。
 ゴルゴはこの時には空気を読んで消えていた。
 華音はお婆さんと足取りを合わせて、ゆっくりと階段を上っていく。

「親切な人もいるもんだねぇ。あなた、とても綺麗だから王子様が現れたのかと思っちゃったわぁ」
「いえ、そんな事ないですよ。今日は特に暑いですね」
「そうねぇ」

 下り階段になると、お婆さんがハッと思い出した様に語り出した。

「そういえば、あなたは鏡崎くんに似ているわねぇ。その綺麗な姿と言い、親切なところと言い……」
「えっと……? オレ、鏡崎ですけど」
「おや、まあ! じゃあ、あなたは音夜くんの息子さんかい?」
「はい。音夜はオレの父です。お婆さんは父の事をご存知で?」

 有名企業の前社長だから知っていてもおかしくはないのだが、お婆さんは社長としての鏡崎音夜の事を言っている訳ではなかった。

「私ね、20年以上前にこの辺りで喫茶店を営んでいてね。鏡崎くんはよく学校帰りにパフェを食べに来てくれていたのよぉ」
「へぇ。そういや父さん甘いもの好きだったな」
「大学を卒業して親御さんの会社を継いで社長になってからも時々来てくれてたんだけどねぇ……。まさか、あんなに早くに亡くなるなんて」
「そう、ですね……」

 華音の表情が少し陰った。

「ああ! ごめんなさいね……あなたにとっても悲しい出来事だったわよね」
「あ……。いいんです。オレの方こそごめんなさい」

 華音が顔を上げるとお婆さんが悲観に満ちた表情をしていて驚いた。
 お婆さんは表情を少しだけ和らげると、最後の一段をゆっくりと下りた。

「でも、鏡崎くんの息子さんに逢えて良かったわぁ。神様が導いて下さったのかしら。ねえ、あなたのお名前は?」
「華音です」
「かのん……もしかして、(はな)(おと)と書くのかしら?」
「はい。女の子みたいですよね……」
「素敵じゃない! 音夜くんと華織さん、2人の名前が入ってるなんて」
「え? そういえばそうだ……。あんまり気にした事なかったです」

 名前がどうしても好きになれなくて、そんな単純な事にさえ気付く事が出来なかった。それに、父と母。どっちが名付けたのか、その由来は……など、1度も訊いた事がなかった。訊ける筈がなかった。

「母の事もご存知なんですね」

 有名企業の現社長だから……と思ったが、これもまた違った。
 お婆さんは懐かしそうな顔で頷いた。

「いつからか、鏡崎くんが綺麗な女の子を連れてお店に来る様になったのよぉ。それが華織さんだったの。パフェを食べる鏡崎くんの横で華織さんがブレンドコーヒーを済ました顔で飲む光景は、すっごく印象的で忘れられないわぁ」
「あぁ……想像出来ます」
「ふふ。もう喫茶店は畳んでしまったけれど、今度華織さんと一緒に私の家に是非遊びに来てちょうだい」
「はい。きっと」

 またゆっくりと歩き出したお婆さんの後を華音はついて行く。
 街道沿いを進み左へ曲がったところで、目的地と同じ方角である事に気付きお婆さんの自宅へ着く頃には視線の先に一際大きな建造物が見えた。あれこそ、華音が目指していた図書館だ。
 お婆さんと別れ、華音は図書館の敷地内に足を踏み入れた。
 広大な敷地を青々とした樹木が囲い、中央には扇形に広がる階段がドーム状の巨大建造物へと続いている。
 果てしなく思える道程も踊り場の噴水が和らげてくれ、最近ではバリアフリーを取り入れて階段横にスロープが設置されていた。
 先月本を借りに来た時は今日の様に階段を上る事に対して全く苦痛はなかった。
 いつの間にか季節は移ろい、また新たな季節を迎える為の準備を進めていた。
 華音は噴水ではしゃぐ子供達を横目に、正面の自動扉を潜った。
 屋内は冷房が効いていて、先程まで吹き出ていた汗はスッと引いた。
 屋外には人の姿をあまり見掛けなかったが、此処には沢山の人が居た。やはり、皆涼みたいのだ。
 華音は受付で借りた本を返してから、ぶらりと館内を見て回った。特に読みたい本を決めてきた訳ではないし、購入した本をまだ読み始めてもいないので借りるつもりもない。唯の休息と興味本位故だった。
 規則的に整列する本棚はそれだけで静寂さと知的さを感じられ、スマートフォンなどの便利だが疲れる物に日々囲まれて過ごしている現代人の癒やしとなる。
 便利な世の中が当たり前な現代人の1人である華音も、沢山並べられた本を見るとより一層電子書籍よりも紙の書籍の方が好きだと思った。

 硝子張りの手摺りの緩やかな階段を上がっていくと、そこにも沢山の本棚が整列していた。吹き抜けになっているので、1階の様子がよく見えた。
 華音が入って来た自動扉は今も出入りする利用者に反応して開閉していて、受付も度々人が訪ねて来たりと忙しい。
 受付の目の前には本を読む為の寛ぎスペースが確保されており、学生達が必死に勉学に励む長机に、子供達が自由に寝転ぶ事が出来るマット、主婦やお年寄りがゆったり過ごせるソファーが幾つか置かれている。更に、ドリンクも無料で飲む事が出来る。
 2階にも同じ様なスペースがあるが、1階よりも面積は狭く現時点で満席だった。
 華音は休憩スペースを素通りし、宛てもなく通路を突き進んでいった。そうして、行き止まりにぶち当たると踵を返した。
 途中、一冊の本が突き出ているのが見えた。気になって戻そうと手を伸ばす。
 背表紙には『桜が散る頃にキミと恋に落ちる』とある。
 思わず桜で連想してしまった少女の事を想い、そのまま引き抜いた。
 散りぬく桜とその中で見つめ合う制服姿の男女の美しいイラストが表紙だった。
 タイトルからしても表紙からしても恋愛小説である事は間違いなく、華音が好む内容ではない筈だが彼は大事そうに抱えて1階へと下りて行った。
 長机の一番隅で腰を落ち着けた華音は、目の前に置いた本のタイトルと表紙を再確認した。

 恋愛にはマニュアルはない……と思ってたけど、これはきっと参考になるに違いない。自分が桜花の事が好きだと気付いたはいいものの、実際どうしたらいいのか分かんなくて困ってたんだ。

 強い決意を固めると、ページを捲った。
 序盤は少女が少年に恋心を抱く甘酸っぱい雰囲気だったが、距離が縮まる毎に過激になっていき……華音はパタンと本を閉じた。
 目はぐるぐると回り、頬は桜色だ。

 人気のないところで壁ドン!? それで家に誘って、「今日親居ないから」って自分の部屋に招き入れてベッドに押し倒し――――って駄目だ。この先はどうしても読めない! と言うか、これってオレと桜花みたいじゃないか。……オレがヒロインになるけど。

 華音は以前、この小説の少年と同じ様な事を桜花にされた事があった。

 オレがもっと男らしくならなきゃ駄目って事か。

 小説から学んだ唯一の事はそれだった。
 1人頷き席を立つと、不意に名前を呼ばれた。
 振り返ってみると、雷が弟妹を連れて立っていた。

「雷に(めぐみ)風牙(ふうが)。偶然だな」
「華音こそ。恋愛小説なんて持ってどうした?」

 雷に指摘され、咄嗟に両腕に抱え込んだ。

「あー……えっと、まあどんなのかなーって興味本位」
「ほーん。恋愛に疎いお前がねぇ。実際自分が恋に落ちると変わるもんだな」
「えぇー! 華音ちゃんはお兄ちゃんとラブラブなんじゃないの?」

 雨が不満そうに話に割り込んできた。
 周りの視線が2人の男子高校生に向けられた。勉学に励んでいた女子中学生2人組がひそひそ顔を赤らめて話し始め、華音達と同年代の男子は衝撃を受けていた。

 絶対勘違いされてる。早いとこ訂正しなきゃ、近所で変な噂がたってしまう!

 焦燥感にかられた華音が口を開いたのと同時に、雷の大きな手のひらが少し強めに雨の頭を包み込んだ。

「何いつまであのアホ刃のでたらめ信じてんだ。純粋か。いいか? 雨、それに風牙」

 反対の手のひらで風牙の頭を包み込み、身を屈めて弟妹と目線を合わせた。

「華音は男だ。そして、華音が恋してるのは俺じゃなくて同級生の可愛い女の子だ」

 兄の嘘偽りない真剣な眼差しに雨と風牙はこくりと頷き信じた。

「そうだったんだぁ。それならそうと、華音ちゃんも言ってくれればいいのにぃ」

 雨が唇を尖らせ、華音は微苦笑した。本当の性別を知っても尚、ちゃん付けは変わらないようだ。

「何度も言ったんだけどね……」
「ねーねー華音ちゃんが恋してる子って、どんな子なの? 名前は?」
「えっ……えーと……」

 純粋な雨は公共の場だろうと、容赦ない。
 先程まで別の妄想をしていた女子中学生2人組がギラッと目を光らせ、男子は聞き耳を立てた。

 イケメンは大変だな……。

 周りの反応に雷は他人事の様にぼんやり思った。
 華音は周りの反応など関係なしに、単純に気恥ずかしくて授業の様にすらすらした回答を口にする事は出来なかった。
 華音がなかなか答えられないでいると、意外なところから助け船が出された。

「華音の恋バナなんてどーでもいいぜ! それよりもおれはアイスを食いにいきてーぞ」

 どうでもいいとは、直接的過ぎてさすがの華音も少々傷付いたが心の中で風牙にグッドサインを送っておいた。
 アイスと言う単語に、雨もコロッと態度を変えて兄の袖を引いた。

「お兄ちゃん、アイス! めぐね、夕張メロン味がいい! 期間限定なんだよっ」
「それ1番高いやつ。ったく、しゃーねーな」

 雷は弟妹を連れて一歩進んだ。

「じゃ、華音。俺達行くわ」
「ああ」

 弟妹が先に自動扉を潜っていき、続こうとした雷は踵を返して華音に耳打った。

「……今度じっくりと恋の進展聞かせろよ?」
「あ……ああ」
「またな」

 雷はニッと笑い、弟妹達の急かす声に応えて去って行った。
 華音は高木兄妹の姿が見えなくなるまで見送った後、まだ手に持ったままの恋愛小説をギュッと胸に抱えた。
 心臓が高鳴り、頬が熱くなった。

 進展って……まだ片想いだし。どうすればいいのか分からないからこれを参考にしようとしてたのに。取りあえず戻して来よう。

 歩き出そうとすると、今度はスマートフォンのバイブレーターに呼び止められた。
 ズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面に通信アプリのメッセージ通知が届いていた。しかも、その送り主は噂の桜花。思わず喫驚の声を上げるところだった。
 一度軽く深呼吸してから冷静になり、画面をタップした。

『やっほー♪ 楽しい夏休み~☆ 華音、元気にしてる? わたしは元気よ! 今日も暑いわね。と言う事で、これが美味しい季節よね』

 絵文字が多数使用されている読みづらいメッセージの後に、画像が送られてきた。
 かき氷を食べている桜花の自撮り写真だ。涼しげな夏の私服姿とあどけなさを残した笑顔が可愛らしく、堂々と映り込んでいる異質に気付かずに無意識に本音を打ち込んでいた。
 しかし、送信ボタンに触れる前にハッと冷静になって画面に表示されている文章に赤面した。急いで『可愛いね』を消し、もう1度画像を眺めた。
 すると、漸く異質に気付いた。
 あの桜花の事だ。唯のかき氷の筈がなかった。さらさらとした氷山にたっぷりの果肉入りのマンゴーソースがかけられ、仕上げにつやつやでぷるぷるの物体がどっさり添えてあった。
 前者だけなら人気フレーバー。けれど、後者まで加えるとなると、見た事がない。
 華音が首を傾げていると、桜花による答え合わせのメッセージが送られてきた。

『珍しいわよね! 夏限定の“ナマコとグソクムシのマンゴーかき氷”よ』

 添えてある物体はナマコ。ではグソクムシとは? 画像の何処にも見当たらない。まさか……と華音が嫌な想像をすると、ご丁寧に断面図の画像が送られてきて華音は今度こそ喫驚の声を上げてしまった。
 バッと、周りの視線がまた華音に集まった。
 華音は静かに謝罪すると、その場を離れた。
 階段の手摺りに寄りかかって恐る恐る2枚目の画像を再確認してみた。

「いや……さすがにこれはないだろ」

 氷の中からダンゴムシのそっくりさんグソクムシがこんにちは。見たところ本物である。

『グソクムシって食べられるらしいのよ。知ってた? これは素揚げにしたものらしいんだけど、さすがに気持ち悪~いっ笑 でも食べるけどね』

 でしょうね……って食べるの!?

 衝撃の連続で華音は返す言葉が見当たらなかった。

『じゃあ、最後にこれ!』

 次に送られてきた画像はコウテイペンギンだった。泳いでいる仲間を岩の上で気怠げに眺めている1羽に焦点を当てた1枚。

『華音そっくり!』

 どの辺が!?

 華音は全ての突っ込みの意味を込め、ハリセンで叩くクマのスタンプを返したのだった。
 図書館を出てすぐ、ゴルゴが羽ばたいてきて華音の肩に停まった。

「ゴルゴ。何か面白いものでもあった?」

 問い掛けると、ゴルゴはサファイアブルーの瞳を輝かせてズイッと嘴を華音に突き出した。

「な、何だこれ。……カブトムシ?」

 ゴルゴはそれをズイズイ華音に押し付けてきた。
 使い魔であるゴルゴには食事は必要ないが、習性で虫などを捕まえる事がある。せっかく捕らえた獲物を愛する主人に是非もらってほしい……と言う事らしいが、当然華音は虫を食べないし欲しくもなかった。

「気持ちは嬉しいんだけど、カブトムシはなー……。もう少し幼かったら嬉しかったかも」

 一応受け取ったカブトムシはまだ生きていた。
 華音はゴルゴに申し訳ないと思いつつもカブトムシを放そうとして、ふと噴水で遊ぶ子供達の姿が目に付いた。

「ねえ、キミ。よかったらカブトムシもらってくれないかな」

 麦わら帽子の1番年下の男の子に渡すと、男の子は大喜びし近くに居た母親に感謝された。
 階段を下り、来た道を辿る。
 相変わらず暑い。寧ろ、先程よりも日差しが強くなっていた。1人きりで上り下りする歩道橋ほど辛いものはなかった。
 何とか渡り終えた歩道橋の日陰で少し休憩すると、最近出来たばかりの硝子張りのオシャレな洋菓子店が丁度目に入った。来た時はまだ閉まっていたが、もう何人か客が出入りしていた。
 華音の家にもオープンのチラシが届いていて、それを見た水戸とアルナがはしゃいでいた。
 以前水戸にモンブランを買う約束をしていた事もあり、丁度良いので寄っていく事に決めて日陰から出た。
 ゴルゴは店内には入れないので外で待機。

 飲食スペースのないこぢんまりとした店だが、ショーケースに並んだケーキはどれも綺麗で美味しそうだった。
 珍しいメニューも並ぶ中、華音は迷わずモンブランを3つ購入した。
 会計の際持ち帰り時間を訊かれて答えていると、レジ横の縦長の鏡にオズワルドが映り華音は妙案を思い付いた。
 そのまま帰る様に見せ掛け、こっそりとその鏡を使って魔法使いを憑依させると速やかに店を出た。
 ゴルゴが不思議そうな顔で近寄って来た。

「思った通り。これなら暑さを感じずに早く家に帰れそうだ」
『…………お前、いつもは人目を気にするくせに躊躇いなかったな。と言うか、私を何だと思ってる?』

 華音の内側にいるオズワルドは不満しかなかった。

「いつもオレに好き勝手するお前への仕返しだよ。今日はオレがお前を使ってやる!」
『まったく。子供だな』

 珍しく自分を頼って来たので好きにさせてみたら、あまりに平和すぎる言動。忽ち不満は消え去り、別次元の自分を微笑ましく思った。
 水のベールに包まれた華音は白いローブを靡かせ、誰も出歩いていない街道を駆け抜ける。
 鏡崎家の邸宅が見えて来た。

「よし! オズワルドもう出て行ってくれ」
『残念。それは出来ないな』
「はあ!? 嫌がらせか」
『お前がそれを言うか。そうではなくて、ほら。丁度お出ましだぞ』

 自宅の反対方向から、大蛇の形状の魔物が3体塀の上を這って来た。
 ゴルゴが青水晶の杖に変化し華音の手に収まる。

「夏休みぐらい休ませろよ。魔女の奴!」

 華音は懐へ飛び込んで来る魔物を杖で次々と吹き飛ばした。
 魔物はそれぞれ塀や電柱に打ち付けられるも、弾力性を兼ね備えたその胴体がバネの役割を果たし更に勢いを増して華音のもとへ戻って来た。
 ガバッと開かれた口から2枚舌が覗き、華音はゾッとした。慌てて左足を後ろへ引く。

「バウンドするなんて聞いてない! 蛇はそんな動きしないからな!?」

 続いて右足を浮かせ、左足を軸にして後ろへ宙返り。塀に着地すると、すぐさま魔物が跳んできて華音は塀を飛び降りる。丁度魔物の頭部目掛けて片足を下ろし、今度は華音がその弾力性を生かして踏み台にし高く遠くへ跳ぶ。
 向かい側の塀に着地した華音は、方向転換に手間取る魔物達目掛け魔術を放つ。

「メイルストローム!」

 空中に描かれた魔法陣から大渦潮が出現し、3体のうち2体を巻き込んでグルグル回転する。
 魔術から運良く逃れた1体はアスファルトを這って電柱によじ登った。
 やがて魔術が消えると、同時に魔物も取り込んでいた2人分の生命力を吐き出して消滅した。
 近くでは先程まで聞こえなかった幼子と女性の声が塀の向こうから聞こえ始めた。
 敵は残り1体。その筈だが、何故か姿が見当たらない。
 頻りに辺りを確認する華音の内側からオズワルドが言う。

『真上から来るぞ』
「うわっ……太陽眩し」

 真夏の元気溌剌太陽を背景に、太くて長い影が縦に降ってくる。
 魔物の大きく開かれた口が華音の頭部に迫る。
 華音が杖を掲げると、見事に口から胴体まですっぽりと収まった。オズワルドからは批難の声が上がった。
 華音は鮎の塩焼き状態で身動きの取れない魔物に魔術で止めを刺す。
 四方から無数に飛んで来た氷の刃に串刺しにされ魔物は消滅。宙を舞う光の中、再び青水晶の杖が姿を現した。

『私の使い魔を魔物の口に突っ込むなんて最低だな……』
「これが1番確実だったんだよ。あとでゴルゴに謝っておくよ。それより、これで終わりだな?」
『ああ。魔女の魔力も感知出来ないし、終わりでいいだろう。心配せずとも今日のところは還ってやる。だが、次こんな事があってみろ。その時は……』
「わ、分かった! 協力してくれてありがとう。あとはゆっくり休んでくれ」

 スッとオズワルドの魂が身体から出ていき、華音の姿は元に戻った。ゴルゴも杖から戻って元気に羽ばたく。

「さっきはごめんな。ゴルゴ」

 ゴルゴは華音の眼前に降りてきて小首を傾げると、鏡崎家の敷地内へと飛んでいき庭木で羽を休めた。
 華音もゴルゴに続き、門を潜った。

 玄関を開けると、いつも出迎えてくれる筈の水戸やアルナの姿がなかった。不審に思いつつ華音は玄関を上がってスリッパを履いた。

「水戸さん、アルナ、ただいまー……」

 リビングに顔を覗かせたが、此処にも2人の姿はなく閑散としていた。
 華音はローテーブルにケーキの入った箱を置き、ソファーに腰掛けずに天井を仰ぎ見た。
 誰も居ないのに冷房が付いていて快適空間となっているのは厳しい日照りの中、華音が帰宅する事を分かっていた水戸が気を利かせたからだ。
 その水戸もアルナも此処に居ないが、気まぐれで好奇心旺盛な幼子みたいなアルナはともかく水戸は華音に黙って外出はしないだろう。
 そうなると、この広い家の何処かに居る筈である。2階には華音の自室の他に、水戸とアルナの自室もあって、そこで各々プライベートを過ごしている。さすがに鏡崎家に雇われているとは言え、水戸は24時間全てを華音に捧げている訳ではないし華音を溺愛するアルナもアルナで色々あるのだ。
 ちなみに、その他の多数ある部屋は全て空き部屋だ。侵入者が潜んでいてもバレなさそうではあるが、門に監視カメラがあったりとセキュリティーは万全でこれまで強盗に入られた事は1度もない。
 自室に居るのなら態々訪ねる必要はなく、同じ屋根の下に住む者同士でもプライバシーは守らなくてはならないと言う思いから華音はじっくりと彼女達が来てくれるのを待つ事にした。

 ソファーに座り、テレビのスイッチを入れる。
 1人の時間を過ごす時は大抵本かスマートフォンを見る事が多いが、この長い連休中にずっとそればかりだと飽きが来るのでたまにはテレビでも見ようと思ったのだ。
 テレビ画面にパッと涼しげな水中の画像が映し出された。
 大きな水槽の中で色取り取りの魚が優雅に泳ぎ、時折ヘンテコな顔の大きな魚が通り過ぎていった。
 画面上部に記されている文字と取材している女性タレントの台詞で、今話題の都内の水族館である事が分かった。
 最近出来たばかりで休日ともなると都内の人のみならず、観光客まで押し寄せて混雑している。せっかく水辺の生き物に癒やされに来たのに、人を観察して終わると言っても過言ではない。特に小さい子供なんて背丈が低い分人混みに埋もれてしまって可哀想である。

 そう言えば、テーブルセット納品したんだっけ。

 華音は女性タレントが腰掛けたテーブル席を見てぼんやりと思った。
 大手家具メーカ鏡崎家具は、都内を中心に日本全国の施設から受注生産をしていて値段はそれなりに張るものの、高いデザイン性と品質、確かな信頼がある為に顧客満足度が非常に高い企業だ。都内で新設された施設からは必ずと言っていい程注文が来る。
 華音がテーブルセットに気を取られているうちに、女性タレントの目の前には既視感のあるかき氷がドンッと置かれていた。
 さらさらとした氷山にたっぷりの果肉入りのマンゴーソースがかけられ、仕上げにつやつやでぷるぷるの物体がどっさり添えてある――――

『ナマコとグソクムシのマンゴーかき氷です!』

 テレビの声と華音の心の声が重なった。
 女性タレントが恐る恐るスプーンで氷を掻き分けると、そこに現れたのは勿論グソクムシだった。

『きゃああぁぁっっ!?』

 本気の叫びがテレビを震わせた。
 そりゃそうだよな……と華音は苦笑し、ふと桜花の事を思い出した。彼女もこのゲテモノを食べていたと言う事は、同じ場所に居たと言う事だ。
 水族館で連想されるのは家族、そしてカップルだ。

 デ、デートじゃない……よな。いや、もしそうなら彼氏以外の男に近況報告しない筈。うん。

 華音は自分を無理矢理納得させ、テレビを切った。
 実際、桜花はクラスメイトで友達の柄本日向(えもとひなた)と一緒であった。
 モンブランをそれぞれ皿に移し終えた華音は壁掛け時計を見た。

「……遅いな」

 もうすぐ昼食の時間。いつもなら水戸がキッチンに立って居るのだが……。
 自分の食事の事より、いつも通りに行動していない水戸の事が心配になった。同じ屋根の下に居るとは言え、姿が見えないと不安だ。
 朝出掛ける時に見送ってくれた水戸は普段と変わらない様子であったが、実は無理をしていたか、それともその後に急に体調が悪くなったのかもしれない。
 女性は男性よりも体調を崩しやすいと言う。
 水戸が1人部屋で寝込んでいるのかもしれないと思うと、華音は居ても立っても居られず階段を上がった。

 水戸の部屋は長い廊下の突き当たり。自分の家なのに、1度も訪れた事のない場所だった。
 部屋に近付くに連れて音声が聞こえてきた。アップテンポなメロディーは生演奏ではなく、また、独特の高音ボイスは水戸やアルナのものではなかった。テレビから流れているみたいだ。
 テレビが点いていると言う事は寝込んではなさそうで少し安心すると同時に、さっきまではなかった好奇心が湧き上がってきてどうしてか抑えられなかった。
 扉が少しだけ開いていて、良くない事だと頭では分かってはいても身体は言う事を聞かずに室内を覗き込んでいた。

 え? 何これ。

 初めに見えた物はアニメのポスター。華音はアニメや漫画などの2次元に詳しくないが、毎回の様に親友の刃が語ってくるので記憶には残っていた。確かあれは刃も大好きだと言う深夜放送の魔法少女アニメのキャラクターだ。名前までは覚えていないが、フリルたっぷりの可愛い衣装が印象的だった。そして、刃が着るつもりもないのに購入したコスプレ用の衣装もこのアニメに登場するキャラクターのものだ。
 次に視線を向けた先には漫画がズラリと並ぶ本棚に、漫画の間に置かれた魔法少女フィギュアが。
 更に視線を彷徨わせると、仲良く並んでテレビを観ている水戸とアルナとほわまろの後ろ姿を発見した。
 大きなテレビ画面上では魔法少女が激戦を繰り広げていた。丁度、先の華音の様に。
 人間よりも優れた聴力を持つエルフの長耳で華音の足音を聞き取ったアルナが振り返った。

「あ! カノン!」
「え!? か、華音くん!?」

 水戸はギクリと振り返り、華音の姿を認めると凍り付いた。
 華音は引き攣った笑みを作った。

「ごめん……勝手に。2人がいつまで経っても来ないから捜しに来たんだけど」
「マホーショージョって面白いんだな! アルナ、夢中だぞっ。カノンも観るか?」

 アルナがトテトテ走り寄って来て手招く。
 華音はアルナの頭をポンッと軽く叩くと、凍り付いたまま瞬きすら忘れた水戸を見た。
 初めて見る水戸の部屋は完全にプライベート空間であり、例え家主の息子と言えども知られたくなかったに違いない。
 とは言え、もう遅い。見てしまったもの、特に印象的なものはどうやったって記憶から完全消去は不可能に近い。もうお互いに諦めるしかない。
 華音が極力気にしていない風を装って昼食の時間だと言う事だけ告げて去ろうとすると、水戸が観念した様に漸く口を開いた。

「魔法少女、好きなんです! も、もっと言うと私アニメが好きなんです!」
「あ、うん。そうだよね」

 引いている訳ではないが、華音は反応に困った。

「BLも好きです。すみません……私、腐女子なんです。だ、黙っていて本当にごめんなさい! げ、幻滅しましたよね……」

 水戸は耳まで真っ赤に染まった顔を両手で覆い隠した。

「B……? 何かの暗号? えっと、幻滅はしてないよ? 驚きはしたけど」
「ほ、本当……ですか?」

 水戸は開いた指の隙間から華音の表情を窺う。彼は困惑こそしているものの、嫌悪している様子は全くなかった。
 華音は穏やかな顔で再度部屋を見回した。

「そっか。水戸さんはこう言うのが好きなんだね。今まであんまり水戸さんの事を知らなかったから何だか安心した」
「や、優しすぎますよ……華音くん。そんなところがやっぱり……」
「ん? 何?」
「いえ! 何でもありません」

 好きだなんて、家政婦の立場上言える筈がなかった。
 華音は恋愛する事を知った今でも水戸の秘めた想いに気付いていない。

「ねーカノン、マホーショージョ観ようよ~」

 アルナが華音の腕をゆさゆさ揺らし、華音はアルナが居た事を思い出した。

「そう言われても、此処水戸さんの部屋だしさ……」

 華音が引き下がろうとすると、アルナが駄々をこね始め水戸が宥めた。

「元々は華音くんご一家のお家ですから。私なら大丈夫です。逆に……こ、こんな腐女子空間に華音くんをお招きするのが申し訳ないです……」
「そんな事ないよ。じゃあ入るよ?」
「は、はいっ」

 華音は扉を潜ると、水戸とアルナと一緒にテレビ前に並んでアニメを観る。その時、華音はローテーブルの下にほわまろが潜んでいるのを発見した。
 ほわまろは薄暗がりの中で赤い双眸を露わに眠っていた。初めの頃は華音と水戸はそれに驚いたが、アルナから兎は目を開けたまま眠る習性があるのだと言う事を教えてもらって今はもう慣れた。

「このアニメ、確かオレの友達が好きなんだよなー」

 華音がぼやくと、水戸は画面から華音へ視線を移動させた。

「華音くんのお友達?」
「そう。風間刃って言って、見た目はユルい感じの不良だけど中身はアニメオタクなんだ。今月都内で開催されるアニメフェスに行くって張り切ってたな」
「あぁ! もしかして、フワッとした金髪の?」

 水戸は鏡崎家の前でチラッと見た華音の連れの片割れを思い出した。もう1人も不良で特徴的な外見であったが、ユルい感じではなかった。

「水戸さん、アニメが好きなら刃と話が合うかも。……ちょっと不本意だけど」
「それは是非! でも……あの時、追い返す様な事をしてしまって申し訳なかったと言うか……」
「あれは母さんだろ? まあ、刃も雷も気にしてないと思うし、今度家に呼ぼう。母さんはきっと当分家には帰って来ないだろうしさ。……それよりも、こっちの方をどう説明しようかって話だよね」

 華音はアニメに夢中になっている幼女(外見)を見て頭を悩ませる。
 母が滅多に帰宅しないとは言え、いつかは知る事となるだろう。
 水戸も思考を巡らせるも妙案が浮かばず、唸り声が口から漏れるだけだった。

「水戸さんの親戚とか、そう言うのは駄目かな」

 華音が遠慮がちに言うと、水戸はこくりと頷いた。

「そうですね。それしかありません。華織様も私の家系までは知らない筈ですから」
「じゃあ、もし何か訊かれたらそう言う事で話を合わせよう」

 話がまとまると、2人はアニメ視聴に戻った。
 約25分のアニメは作画、声優の演技、物語、全てがハイクオリティで普段アニメを観ない華音でも十分楽しめた。
 エンディングが流れ終わると、画面はブルー一色になった。
 アルナは魔法少女の消えた画面を名残惜しそうに見つめていた。

「もう終わりか!? 続きが観たいぞっ」
「続きはまだ出てないのよ、アルナちゃん。続きが出たらまた観ようね」

 水戸はディスクをケースに収め、アルナに微笑んだ。
 その笑みにアルナは渋々諦め、「約束だ!」と微笑み返した。

「へぇ。面白かったよ。ありがとう」

 華音も笑みを見せ、2人の女子は更に嬉しくなった。

「カノンもマホーショージョにハマったんだな!」
「う、嬉しいです。華音くんにそう言っていただけて」

 華音は普通の幼女の様にはしゃぐ魔女を不思議そうに見た。

「……と言うか、アルナはほぼ本物じゃないか」
「でも、変身は出来るけど出来ないぞ?」
「矛盾……」
「何て言うか、キラってなって服がシャッキーンって変わる感じ? アルナのは単なる惑わしの術だからな。アルナよりも、カノンの方がキラシャッキーンな感じじゃないか? まさにマホーショーネンだなっ」

 アルナが目を輝かせて力説すると、水戸の顔に戸惑いの色が浮かんだ。

「華音くんがキラシャッキーンな魔法少年……?」
「ちょ、アルナ! 何訳分かんない事言うんだよ! み、水戸さん違うからね? 信じちゃ駄目だからね?」

 華音は必死に弁解する。
 幸い存在自体がメルヘンなアルナの言動には説得力はなく、アルナを魔法少女だと本気で信じている水戸もさすがにそれを真に受ける事はなかった。
 しかし、水戸だからこそ斜め上の反応をみせた。

「やっぱり華音くんってそう言うの似合いますよね! キラシャッキーンとはなりませんが、ピッタリな衣装があります!」
「あの……水戸さん?」
「少しお待ちいただけますか。すぐにお持ちします」

 華音の返事を待たずに水戸はクローゼットに向かい、ゴソゴソ漁り出した。
 待つ事数分でそれは華音の目の前に再登場した。

「わ……これ」

 いつか刃が勧めてきた青いラインの入った白地の丈の短いワンピースだった。魔法少女らしくリボンとフリル、宝石がふんだんにあしらわれた可愛すぎるデザインで、今観ていたアニメの登場人物のコスチュームだった。
 水戸が純粋な表情で勧めてくるそれを、華音は全力で押し返した。

「水戸さん! 少し冷静になって考えて!? オレ男だからね? これ着たら変態になるから!」
「きゃ――! ご、ごめんなさいっ! そうですよね!? 私ったらつい、腐女子モードに……!」

 冷静になった水戸は真っ赤に染まった顔を両手で覆い隠して後退った。
 はらりと衣装が落ち、華音は拾って水戸に手渡した。

「オレよりも水戸さんの方が似合うんじゃないかな」

 水戸は衣装で顔の下半分を覆い、首を横に振った。

「でも私20歳過ぎてますし……。いい大人がこんなの着て……それこそ変態になります」

 本当は自分が着てみたくて購入したのはいいものの、結局着る事が出来ずに今日までクローゼットの中に眠っていたのだ。

「アルナも、カノンと同じ意見だぞっ。アルナも年齢とか気にすると、こんな格好許されないからな。アルナはチカゲのマホーショージョ姿見たいぞ!」

 アルナが途中変な事を言った気がしたが水戸は気にせず、最後の言葉だけを受け取って目を輝かせた。
 華音も場の空気に合わせて頷いておく。
 水戸はバサッと衣装を広げた。

「分かりました! 水戸ちかげ、魔法少女になります! ちょっと変身しますので、華音くんはリビングで待っていていただけませんか? アルナちゃんは変身のお手伝いをお願い」
「うん。じゃあ、楽しみに待ってる。あと、モンブラン買ってきたから食後にでも一緒に食べよう」
「アルナ、了解したぞっ」

 華音は水戸とアルナに一旦別れを告げて階段を下りていく。
 今日の水戸は別人の様に生き生きとしている。きっとそれが本来の姿なのだろう。意外な気もしたが、華音は彼女の本来の姿を見られて満足だった。
 華音が1階の廊下を歩いていると、チャイムが鳴った。
 踵を返して玄関のテレビドアホンの映像を確認すると、漆黒の髪と瞳を持った綺麗な女性が映っていた。

 母さん……?

 母が突然帰ってきた事に疑問を抱きつつ、通話ボタンを押した。

『華音。良かったぁ。居なかったらどうしようかと。ねえ、開けてくれる? まあ、鍵持ってるんだけどね』
「あ、うん」

 解錠ボタンを押すとカチャリと玄関が開き、ヒールの音を響かせて母が入って来た。
 華音は母のスリッパを用意する。

「あら。ありがとう」
「お帰り」
「ただいま」

 以前よりも距離は縮まったが、まだ親子としてはぎこちなかった。どちらも笑みを顔に貼り付けているだけで、影が差していた。
 それを誤魔化そうと、母は第三者をそこに引き入れようとする。

「水戸は? 本来なら貴方ではなくて水戸が出迎えるべきではないのかしら」
「たまにはオレでもいいだろ? それより母さんが連絡もなしに帰って来るなんて珍しいね。何かあった?」
「何か理由がなければ駄目かしら?」
「あ、いや。駄目じゃないけど」

 ぎこちない距離感を保ちながら、2人はリビングへ向かった。
 母は重厚な鞄ときっちりしたジャケットを放ってソファーで寛ぎ、華音は隣に腰掛けた。

「やっぱり家が落ち着くわね」
「そりゃあね。さっきの話の続きなんだけど、オレが居なかったらどうしようって事はオレが居なきゃ意味なかったって事だよね。つまり、オレに何か用があって帰って来たんじゃないの?」
「鋭いわね。そう、私は華音に……――――あ! モンブランじゃなぁい」

 母の意識は華音から逸れ、目の前のローテーブルに置かれたモンブランへと向いた。
 母が手に取ろうとすると、華音が制した。

「ごめん。それは母さんに買ってきた訳じゃないんだ」

 母はきょとんと手を下ろした。

「え? でも、3つあるわよ? この家には3人しか居ないじゃない。私、華音、水戸……ほら」
「まあ、オレの分はあってもなくてもいいんだけど。えっと……」

 早速、別次元から来た幼女姿の魔女の説明を上手くしなくてはならないと言う非常事態に直面した。
 水戸の親戚だと言う事で話が落ち着いた筈だが、いざ口に出そうとするとなかなか声にならなかった。
 そこへ――――

「月下の水面で舞い踊りし水の精の化身、魔法少女チカゲ此処に……」

 フリフリの衣装に身を包んだ水戸がノリノリで登場し決めポーズを取ろうとしたところで、華織と目が合った。

「水戸……? 貴女何をしているの?」
「か、華織様……? え、ええええええ」

 水戸はわなわな震え出し、遂には顔を真っ赤にして逃げ出した。

「いやああぁぁっ!! 今のはなかった事にして下さい――っ!!」

 母は目を瞬く。

「何だったのかしら」
「あはは……」

 華音は笑って誤魔化す。
 水戸と入れ違いに、白兎を連れた金髪ツインテール幼女がリビングに入って来た。

「チカゲは元気だなっ。なかなか似合っていたのに。おぉ! これがモンブランか。この前のチラシに載ってたやつでアルナが気になっていたやつだ。アロマーネの作るスイーツも絶品だったが、こっちの世界のパティシエ達の作るスイーツも食べてみたかったんだ」

 アルナが華音と母の間に座り、素手でモンブランを掴んで丸ごと口に押し込んだ。
 母の視線はずっとアルナに向いていた。

「だ、誰? この子……。お行儀悪いし」

 アルナは口をもごもご動かしながら母に顔を向けた。
 まだ言葉を発せないアルナに代わり、覚悟を決めた華音が紹介した。

「アルナって言うんだ。水戸さんの親戚で、暫く家で預かる事にしたんだ。あと、肩に乗ってる兎はほわまろ」
「そう。水戸の……。あぁ、さっきの水戸の不思議な格好はこの子の為だったのね」
「うん。魔法少女ゴッコしてたんだって」

 母が都合良い解釈をしてくれたので、華音もそれに話を合わせておいた。

「母さん忙しいからさ、オレも水戸さんも母さんに伝える事が出来なかったんだよ。驚かせてごめん」
「ええ、それは構わないわ。ふぅん。アルナちゃん、初めまして。私は華音の母の鏡崎華織。よろしくね」

 母がアルナに微笑むと、アルナは口周りのクリームをペロリと舐めニッと八重歯を見せた。

「お前がカノンの母か。アルナはカノンの嫁となった。だから、お前はシュートメだなっ。末永くよろしく!」
「え? どう言う事? 何かの遊びかしら」
「そ、そうだよ。こんな小さい子の言う事を本気にしたら駄目だよ」
「失礼だなっ。アルナは何百年も……むぐっ」

 華音はアルナの口を塞ぎ、きょとんとしている母に苦笑した。

「ね? 母さんもよかったらモンブラン食べてよ」
「え、ええ。じゃあいただくわ」

 母がモンブランを食べ始めたのを横目に華音は一息つく。と、首筋に鋭い痛みが走った。

「いった……。ほわまろ、何だよ」

 ほわまろは何かを訴えるかの様に華音の首筋をガジガジ。
 すると今度は腕をぺちぺち誰かに叩かれた。その腕の先にはアルナの顔があって、手のひらは彼女の口を塞いだままだった。
 アルナはもがき苦しみ、離せと必死に目や仕草で訴えていた。

「あ。ごめん」

 華音が手をどけると、アルナは深呼吸しほわまろからの攻撃も止んだ。
 アルナとほわまろが暫し大人しくなり、母もモンブランを食べ終えた頃。家政婦水戸がパステルイエローのエプロン姿で戻って来た。

「先程はお見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした。ところで、今から昼食を作るんですけれど、華織様も召し上がっていかれますか?」
「そうするわ」
「それでは少々お待ち下さいませ」

 水戸は一礼すると、速やかにキッチンへ移動し調理を始めた。


 ダイニングテーブルにざる蕎麦と海鮮丼が人数分並べられ、皆席に着いた。華音の分だけは蕎麦も丼も大盛りだ。

「華音。貴方、そんなに食べるの?」

 母は初めて知る息子の食生活に目を丸くした。

「いつもこんなもんだよ」
「そうなの。その割には痩せているわね」
「体質かな。母さんも……父さんも痩せ型だし。さあ、食べようよ。アルナも待ちくたびれている事だし」

 華音の正面に座るアルナは幼子の様に足をぶらぶらさせ、手元のフォークとスプーンを弄んでいた。スペクルムには箸を使う風習がない為、当然アルナは使う事が出来ないし使う気もなかったので、蕎麦であろうと焼き魚だろうとどんなメニューに対してもこの2つ(時々ナイフ)を使用する。
 皆で手を合せて食材に感謝を捧げて料理に手を付けた。
 母は蕎麦を麺汁に付けながら目を細めた。

「皆で食事するなんて久しぶり。こう言うのも良いものね」
「それならたまには帰って来ればいいよ」

 華音は生エビを噛み締める。
 息子の横顔は以前程の嫌悪感はなかった。
 母は安心して蕎麦を啜る。

「そうね。そうしましょう」
「ところで失礼かと思いますが、華織様は何故ご帰宅されたんですか?」

 水戸は華音が買ってきてくれたモンブランを視界に入れながら、目の前の食器を空にしようと箸を進めた。
 母は一旦箸を置き、天井を見上げた。そこに今は亡き夫の顔を思い描いて。

「お盆でしょう? 随分と一緒に行っていなかったから……音夜のところに」
「そうだね。なるほど、だからオレが居なくちゃ駄目だったのか」

 いつの間にか、華音は丼を空にして蕎麦を食べ始めていた。

「華音、一緒に行きましょう? 嫌だったらいいのだけれど」
「そりゃ勿論いいよ。予定もないし」
「本当? 良かった。でも、華音……予定ないって、ちゃんと友達居るの?」

 母は急に息子が心配になった。

「予定ない=友達居ない訳じゃないからね? 居るよ。ただ、本当に友達って呼べるのは刃と雷ぐらいだけど」
「これは失礼。あぁ……あの子達ね。見た目はやっぱりちょっとまだ受け入れられないけれど……。そう。信頼出来る友達なのね」

 母の心は何も知らずに外見だけで嫌悪してしまった華音の親友に対する罪悪感で溢れそうだった。

「メラビアンの法則によれば、他人の第一印象って視覚情報が55%を占めるって言うからね。外見があれだから、まあ……仕方ないよ」

 華音はもうとっくに母の事を許していた。

「オボン、オトヤ……一体何の話をしているんだ? 出掛けるのならアルナも一緒だぞ?」

 麺汁まで平らげたアルナが純粋な顔で親子2人を見た。

「んと……お盆は日本の風習。亡くなった人の霊を祀る行事で、主にお墓参りをするんだ。他にも色々あるけど、説明が長くなるから省略」

 華音の説明に、何となくアルナは頷いてみせた。あどけない顔は納得していなかった。

「それでは私はアルナちゃんとお留守番していますので、2人で行って来て下さいませ」

 水戸が柔らかい表情を浮かべると、意外にもアルナは不満の声を一言漏らしただけでそれ以上は大人しくしていた。
 母子の亡き父との再会を邪魔しようなどと、幼女姿の魔女も思わなかった。
 アルナはほわまろをそっと撫で、何百年も前に死別した家族を思い出した。尤も、記憶には殆ど残っていなかったのだが。

「じゃあ、食べ終わったらすぐに出発よ」

 母は蕎麦を完食し、丼に箸を付けた。
 車窓から見える景色はビュンビュン、ビュンビュン、物凄い速度で通り過ぎていく。車内の揺れも酷い。
 助手席に座る華音は景色も、アクセル全開でハンドルを握る母との会話も、楽しむ余裕はなくすっかり青ざめて項垂れていた。
 母はこの交差点もないシンプルな作りの高速道路でも飽きる事なく、1時間以上もこの調子で実に楽しそうだった。

「これだけスピード出しても捕まらないんだから、高速道路サイコー!」
「か、母さん……高速道路の最高速度は100㎞まで……余裕でオーバーしてる」

 速度メーターをチラッと見ると、華音はまた項垂れた。

「ん? そうかしら。まあ、いちいち気にしていたら快適な運転は出来ないわよ。あ、次のサービスエリアでちょっと休憩しましょ」


 休憩を挟んで回復した華音だったが、再び超高速の車に揺られているうちに最初に逆戻りとなり、目的地へ着く頃には大分疲弊していた。

「華音、車酔い? 大丈夫?」

 道沿いでしゃがみ込む華音の隣に、母が心配そうにしゃがんで顔を覗き込んだ。

「母さん……1度自分の運転する車に乗ってみればいいよ」
「私は1人なんだから、それは出来ないわよ?」
「いや、真に受けないでよ。唯の皮肉だから」

 華音は立ち上がり、のろのろと石段を上っていった。

「皮肉って! 何でそう言うところまで音夜に似るのよ」

 母は不貞腐れながら、息子に遅れを取らない様に後を追った。
 石段の先には広大な湖を臨める墓地があり、その一角に音夜が眠っている。
 2人は父の墓石に花と線香を立て、合掌をする。
 青空を映す湖面は風に揺れて光を散らす。太陽は頂上から少し西へ傾いているが、まだまだやる気一杯の光と熱を地上へ送り届けていた。
 華音は目を開け、ハンカチで額の汗を拭った。

「そう言えば今日、父さんが大学の頃よく行ってたって言う喫茶店の元店主に逢ったよ。もう店は畳んじゃったみたいだけど、元気そうだった」
成田(なりた)さんに逢ったの?」

 応えたのは勿論故人でなく、隣の母だ。

「うん。またいつか母さんと一緒に遊びに来てってさ」
「そっか……お元気そうで良かったわ」

 線香の煙がゆらりと揺れた。それはまるで父が応えてくれたかの様だった。
 本日はお盆。死者の魂が現世に還って来る特別な日だ。これまで父は還って来る度に居たたまれない思いをしていたに違いないが、今はきっと母子揃って出迎えてくれた事に胸を撫で下ろしている事だろう。
 来年はもっと良い報告をしたいと華音と母は誓い、笑顔で父に別れを告げた。
 来た道を辿っている途中、同じ様に故人に逢いに来た人達と擦れ違った。
 駐車場に戻ると、母の愛車の上で青みがかった烏が羽を休めていた。
 華音は心の中で烏の名前を叫ぶと、頭を抱えた。

 いつの間について来たんだよ。しかも、そこに停まっちゃ駄目だろ……。

 横目で母を見ると、母は俯いて震えていた。

 あ。これ、本気でヤバいやつ。

「大丈夫! すぐどかすから」
「華音」

 一歩踏み出した華音の袖を母が掴んだ。
 深刻そうな声色に振り返ってみると、キラキラとした幼子の様な顔がそこにあった。

「え……」

 華音は固まった。

「不思議な鳥ね! 羽毛は青みがかった黒……瞳は青……ちょっと小さめで丸っこいけど、烏かしら。ちょこんとしてて可愛い! 私の車が気に入ったのかしら。もうそれならいっそ、一緒に帰りたいわ」

 普段の冷静沈着の社長は何処にもおらず、華音は幼い頃の事を思い出して納得した。
 あれは父が出張で北海道に行った時の事。土産に瑞々しいメロンでもなく、凜々しい木彫りの熊でもなく、何故か初々しいエミューの雛を買ってきたのだ。
 最初は呆れていた母であったが、育てているうちに愛着が沸き誰よりもエミューを溺愛するようになった。以来、他の鳥にも興味を示すようになり家族3人で花鳥園に行ったりもした。母は生粋の鳥マニアであった。
 母が近付いても、烏は逃げようともしなかった。
 母は嬉しそうに華音の方を見た。

「本当に私の車が好きみたい! 飼っちゃ駄目かしら……?」

 華音は言葉に詰まった。
 飼うも何も、現在は華音の使い魔だから実質既に飼っている事になる。だけど、そんな事は言えないのでそれっぽい返答をした。

「いや、まず鳥獣保護法に引っかかるよ」
「あ。それもそうね。うーん……残念」

 母はあっさり引き下がった。
 強めの風が吹く。
 ゴルゴは羽を広げ、風に乗って飛び立っていった。
 母はゴルゴを名残惜しそうに見送り、運転席のドアを開けた。華音も続いて助手席のドアを開けると、むわっとした熱気が溢れ出た。

「あっつ……」

 数分間だけとは言え、この炎天下に晒されていた鉄の塊はもうサウナ状態だった。母はエンジンをかけると、すぐに全ての窓を開けて冷房のスイッチを押した。

「直に涼しくなるわ」

 熱気が冷風に押し出され、徐々に車内の温度が下がっていく。
 十分に車内に冷風が行き届いたところで母は窓を全て閉め、ハンドルの上に両腕を乗せて前のめりになり華音の方へ顔を向けた。

「ねえ、華音。もう1つ行きたいところがあるんだけど……」
「いいよ。それで何処?」
「私と音夜の思い出の場所」

 母の目が優しくなり、華音は微笑ましく思った。
 皮肉にも父が亡くなった事が切っ掛けで母子の関係は崩れ、今日まで親子らしい会話はして来なかった。勿論、華音は両親の思い出話など聞いた事がなかった。聞かされていたとしても、それは父が亡くなる前の幼い頃で覚えていなかった。
 母が車を発進させ、母子を乗せた車は思い出の場所まで猛スピードで駆け抜けていった。


 空は僅かな日の光を残して殆ど闇に呑まれ、こそこそ集まり出した金と銀の星々が歌い始めた。
 甲高い歌声に誘われて目を覚ました白い月は目を何度も擦ったらしく、形が正円ではなくなっていた。光もまだ弱々しかった。
 夜を迎えつつある空の下には川が穏やかに流れていた。
 華音と母は街の喧騒が一切届かない静かな川辺をゆったり歩いていた。

「此処が父さんとの思い出の場所?」
「ええ。正しくは私と音夜と華音、家族3人のね」

 華音が首を傾けると、母はクスッと笑った。

「貴方は覚えていないでしょうね。ごく稀に覚えてる人も居るみたいだけど。……その頃はまだ私のお腹の中に居たの」

 母は平らな腹を愛おしそうに摩った。

「私も音夜も貴方が産まれて来るのを楽しみにしていてね……。この場所で貴方に名前を贈ったの。此処ってね、10月始め頃になると華やかなお祭りの音が聞こえて来るのよ」

 華音の誕生日は10月7日だ。そして華やかな祭りの音……

「だから華音……」



 華音は初めて自分の名前をちゃんと意味を持って発音した。

「音夜は女の子みたいな名前だって笑っていたけれど、2人の名前が1文字ずつ入ってる事を教えたら喜んでいたわ」
「母さんが付けてくれたんだ。ずっと気付かなかった……いや、目を背けていたんだ。オレよりも先に成田さんが気付いて「素敵」だって言ってくれたんだ。……そうか、そうだったんだ。オレはさ、母さん……正直に言うとこの名前が好きじゃなかった。嫌いだった」

 母は不安げな顔で息子を見た。

「華やかだなんて、裕福で何不自由ない生活を送っている事を表しているみたいで……なんだか皮肉だなって。だけど、それはオレの思い込みだった。オレの心が荒んでいたから本当の美しさが見えなかったんだ。……面と向かってはちょっと照れるけど、ありがとう。母さん」

 華音は父とよく似た顔で笑った。瞬間、母の瞳が大きく揺れた。
 母は横を向いて込み上げて来るモノを必死に堪えた。

「お礼を言うのは私の方よ。産まれて来てくれてありがとう。華音は私と音夜の大切な子供よ。……それなのに、私の身勝手で貴方を傷付けてしまった。生涯消えない大怪我を負わせてしまった…………」

 堪えきれなかった涙が次々と頬を滑り落ちていった。

「……うん。どんなに謝られたってもう治らないよ。それでもね、起きてしまった事は仕方がないし過去は変えられない。だからこそ、前を向かなきゃいけないんだ。母さんがオレを連れ出したのはそう言う事だろ? オレも一緒に行く事にしたのはそう言う事なんだ」
「うん……そうね。華音の言う通りだわ」

 ずっと向き合う事を恐れていた間に、息子はこんなにも大きくなっていた。自分よりも随分と立派で自身が恥ずかしい反面、息子が誇らしかった。
 母は過去に嘆いている場合ではないと己を叱咤し、涙を拭って真横に居る華音と向き合った。

「私は今の華音の事が知りたい。情けない事だけど、水戸よりも知らないと思うの。だから、教えてちょうだい」
「今の……か。そう言われても、何を話したらいいのか……」

 華音は眉を下げて頬を掻いた。
 母はうーんと質問の内容を考え、パッと思い付いた事を口にした。

「学校はどう?」
「それなりに楽しく過ごしているよ。自分で言うのもなんだけど、成績は学年トップを維持してる。まあ、それは総合で美術だけは最下位だけどね……」
「どうしてかしらね? 私も音夜も美術センスは悪くない筈なのに……。そう言えば、玄関に飾ってあったお化けは華音が作ったの?」
「お化け?」

 最近玄関に並べた物と言えば、沖縄で製作したシーサーの置物ぐらいだった。母が指すのはまさにそれで、華音の口から正体を明かされると本気で驚いた。

「守り神をお化け扱いするなんて……。祟られるよ?」
「だって、シーサーには見えなかったもの。貴方の方がシーサーに祟られるんじゃない? じゃあ、次の質問。彼女は出来た?」
「居ないよ。でも、好きな娘なら居るよ」
「どんな娘?」

 華音は目を閉じ、瞼の裏側にチェリーブロッサムの香りを纏った人形の様に愛らしい少女の姿を映した。

「ドジで勉強が出来なくて……時々男みたいに怪力でガサツだけど、一生懸命で優しくて真っ直ぐな太陽みたいな娘。隣に居ると安心するんだ。……まだ気持ちは伝えてない。今は色々と忙しいから全部落ち着いたらって考えてる」
「そう。良かった。幸せになりなさいね」

 華音が目を開けると、母が目を細めていた。
 華音は「幸せ」の言葉の意味を考えた。そうして魔女達の目論見に行き着いた。

「さっきさ過去は変えられないって言ったけど、もし変える事が出来るのなら母さんは変えたい?」

 母も同じ様に「幸せ」の言葉の意味を考えた。

「そうね……。貴方を傷付ける前、もっと欲を言うなら音夜が生きていた頃に戻りたいっていつも思うわ。だけどね、もし本当に叶ってしまったら今この瞬間貴方と居る時間を失ってしまう。それはとても寂しい。それに、現在(いま)を作り上げたのは他でもない私自身だからそれを否定して逃げたくはないわ」

 母の言葉は華音の中にストンと収まった。

「オレも同じだよ」

 華音はより一層魔女達の野望を阻止する意志を強めた。それを母は察したのか、真摯な顔で華音と目を合わせた。

「華音。何かは分からないけれど、今貴方は大事な使命を背負っている。絶対無茶だけはしないで。私はいつでも傍にいるから」

 華音は瞠目し、それから笑った。

「ありがとう。母さん」

 ゆらりと川面が揺れ、そこに映っていた華音が別次元の魔法使いに変化した。
 母子の間に流れる穏やかな空気に、オズワルドは安堵して微笑んだ。
 すると、母が突然川面に視線を向け微笑んだ。
 オズワルドは一瞬、母と目が合った気がした。
 夜の静寂の中、軽快な電子音が突如響き渡った。
 華音はサッとズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
 着信は桜花からだった。
 華音が母をチラッと見ると、母は小さく頷いたので画面をタップして耳に当てた。

「突然どうしたの?」
『聞いてよ! わたし、すっごく重要な事を今知ったのよ』

 電話越しに聞こえて来た可愛い声からは焦りが感じられた。

「重要な事?」
『なんと、今夜は夏祭りなの! 屋台に打ち上げ花火、これは行くしかない』
「そう言えばそうだったね」
『という事で行きましょう、華音』
「い、行きましょうって……」

 不意打ちの誘いに心臓が高鳴って頬が緩んだが、東京から大分離れた場所と母の存在が現実だった。
 諦める他ないと心の中で溜息をついて口を開く――――と、

「今から行けばいいじゃない」
「え……?」
『どうしたのよ?』
「ううん。ちょっと今出掛け先だから、すぐには行けないんだけどいい?」
『構わないわ。わたしも準備があるし。それじゃあ、会場で待ち合わせね!』
「また連絡するよ」

 通話を切ると、通信アプリにメッセージ通知があった。開いてみると、刃からで「今から3人で祭りに行かないか?」と言う誘いのメッセージだった。
 残念ながらたった今先客が出来たので、即断りの返信を送信した。
 以前ならどちらの誘いにも応じて皆仲良くを選んだかもしれないが、今の華音は友人よりも想い人を迷わず優先する様になっていた。
 母は息子のスマートフォンでのやり取りを眺め、電話口から聞こえて来た声の主に特別な想いを寄せているのだと分かった。彼女と通話している間、ずっと安心した顔をしていたのだから。
 母はくるりと向きを変え、嬉しい気持ちを抑えきれずに軽やかに歩いて行った。

「さて、こんなおばさんとのデートよりも可愛い女の子とのデートの方が楽しいわよねっ」
「デ、デートじゃないから。……本当にありがとう、母さん」

 こうして、母の協力あって予定よりも大分早く祭り会場に到着した。
 母は華音を車から降ろした後、会社に戻るからと言ってアクセル全開で走り去っていった。
 川沿いを中心に屋台がズラリと並び、夜に溶けた町中をオレンジ色の優しい光で照らしていた。
 川辺で花火師が打ち上げ花火の待機中で、通り過ぎていく人々はその活躍を待ち侘びているかの様にわくわくした顔をしていた。
 昼間は車道として機能していた場所も、今はがらりと役目を変えて歩道となっており大勢の人々が往来していた。
 既に桜花は会場に到着しているとの連絡を受け、華音は彼女が居る場所へ向かっている最中だった。

 知っている場所とは言え、これだけ沢山の人が密集しているとなると大分視界は狭まり、おまけに同じ様に並ぶ屋台が位置感覚を狂わせて目的地へ行くのは容易ではなかった。
 難儀しつつも勇敢に進んでいると、人の合間を颯爽と歩いて行く人の姿が目に付いた。
 すらりと背が高く、背中まで流れる菫色の長髪はさらさら揺れていた。服装は真夏であると言うのにファーの付いた真っ黒なロングコートに、背中から左右の腕に向かって伸びる3本ずつの肋骨の様な形状の太い骨は重量感があった。
 後ろ姿であったし一瞬だけだったので顔も性別も判断が付かなかったが、見て分かった要素だけでも十分その人物の美麗さとミステリアスさを表していた。

 不思議な人だったな。祭りの日だしコスプレなのかも。

 他にも定番の浴衣だけでなく、ゴシックやロリータなどの独特なファッションを楽しんでいる人々も多く居たので異質には映らなかった。

「おーい! 華音」

 不意に名前を呼ばれて人混みの向こうを見ると、桜花が一生懸命背伸びをして大きく手を振っていた。
 華音は人混みを押し退けて駆け寄るや否や、桜花の他にも見知った顔があった事に驚き落胆した。

「何でお前らまで……」
「何でって失礼な。華音こそ、俺らの誘い断っといて桜花ちゃんの誘いは乗るって酷くね? 裏切られた気分だわー」

 刃が態とらしく肩を竦め、雷は苦笑した。
 雷の左右には浴衣姿の弟妹が居て、おまけにアルナも違和感なくそこに並んでいた。

「いや、だって。桜花の誘いの方が早かったし」

 華音が説明を促す様に桜花を見ると、桜花は自信満々な顔で応えた。

「此処に来たら偶然皆に逢ったのよ! せっかくだから一緒に楽しむ事にしたの」

 悲しくも、この状況を最終的に作り上げたのは他でもない桜花であった。
 やっぱり片想いか……と華音が1人落ち込んでいると、生温かな視線が幾つか向けられた。刃、雷、(めぐみ)だった。
 雷が華音の肩を叩いて耳打った。

「赤松と祭り楽しんで来いよ」
「でも……」
「心配すんなって」
「めぐ、応援してる!」

 刃も雨もしっかり頷き、華音を温かく送り出す。
 風牙はイマイチ何も分かっておらず退屈そうにしており、アルナは桜花のもとへ向かう華音の後について行こうとした。

「駄目だよ、キミは。お兄さん達と一緒に遊ぼうねぇ」

 アルナを刃が笑顔で捕まえた。やけに優しげな声も相俟って、その風貌は性犯罪者のそれだった。

「離せ! アルナに触ルナ! てゆーか、お前誰なんだ!」

 アルナがじたばた動き、肩の上のほわまろが主を掴む腕を伝って刃の肩に飛び乗ると思い切り首筋に歯を立てた。

「ぎゃああぁっ! な、何このラビット」

 拍子にアルナを離したが、暫くほわまろからの攻撃は止まなかった。
 華音は踵を返し、ほわまろをむんずと掴んだ。

「こら。無闇に人を噛んじゃ駄目だよ」

 そのままアルナの肩へ戻した。
 アルナはひしっと華音に抱きついた。

「何なんだ、この暴漢! アルナ、性的虐待されたぁ」

 泣き出すが態とらしかった。

「馬鹿な事言うんじゃねー! 俺の性の対象はお前みたいなお子様じゃねーんだよ。もっとこう……」

 刃の視線がチラッと桜花の胸元へ向き、透かさず華音と雷がその金髪頭を殴り付けた。
 桜花は首を傾けて目を瞬かせた。

「アルナはお子様じゃないぞっ。アルナはお前達人間よりも遙か昔から生きている立派な大人だ。アルナから見ればアホ面、お前なんて赤ん坊の様なものだ」

 華音から離れたアルナが八重歯を剥き出しにそう言い放つと、刃と雷は瞠目した。雨は冗談だと思って笑い、風牙の関心はもう屋台の方へと向いていた。

「ちょ……ちょっと待て。この子って人間じゃない、のか? どう見ても人間なんだが」

 雷が恐る恐る言う。

 そうなのだ。雷と刃を始め、華音と桜花以外にはアルナはアルナ自身の魔法によって長耳のエルフには見えずに普通の人間にしか見えない様になっている。違和感のある金髪と赤目も違和感を抱かせないのだ。

「驚いたか。アルナはエルフ族。そして、通り名は月の魔女。8人の魔女(プラネット)が1人だ。元」

 アルナ自ら名乗り、更に刃と雷に衝撃が走った。

「ま、魔女って華音と桜花ちゃんが戦ってる敵じゃね!?」

 刃がアルナから距離を取ろうとする。

「何逃げようとしているんだ。アルナはもう敵じゃない。アルナはカノンの嫁となったんだ」

 今度はアルナから刃へ距離を詰めた。
「は、話が読めねー……。嫁って何、嫁って。話が()()ねーだけに」
 これ以上月の魔女に訊いたところで話が拗れるに違いないと思った刃、そして雷は華音に説明を求めて華音はかいつまんで説明した。
 説明している間に風牙がふらふら歩いていき、それを雨が追っていき無関係な彼らには聞かれずに済んだ。
 話が終わると断りを入れて雷が弟妹を追い掛けていった。

「なっるほどねー。だから“元”なのか」

 刃は何度も頷いた。
 話が一段落したところで、華音には別の疑問が残っていた。

「それはともかく、何でアルナがこんなところに居るんだよ」
「楽しそうな音が聞こえて来たからな。来てみたら、オウカとアホ面と色黒ブラザーズが居たんだ」

 エルフは聴力が優れていた事を思い出し、納得した。

「俺の名前は刃だ! 覚えとけ、ちび魔女。さあ、俺達も行くぞ」

 刃の手が再びアルナを掴み、引き摺っていく。

「アルナはカノンとデートするの! お前となんてやだやだぁ」
「お前も大人って言うなら空気読めよな」
「空気は吸うものだぞ!? ムカつく――!」

 主の怒りと嘆きを感じ取ったほわまろはまた刃の肩に飛び移り、首筋をガジガジ。先程の傷口を容赦なく広げていく。
 刃は激痛に悶絶しながらもアルナを離さず、華音と桜花に手を振った。

「そんじゃ、お祭りデート楽しめよー!」
「デート……」

 声が重なると2人は頬を赤く染めた。
 元々2人で逢う予定であったが、こう改めて2人きりになると意識してしまう。

「じゃあ、行こうか」

 気遣ってくれた親友達にも後ろめたい想いがあったし、ずっとこのままとはいかないので華音は平静を装って一歩踏み出した。

「う、うん!」

 赤茶色の長髪を揺らし、桜花も小走りで華音の後に続いた。