【君の[残り時間]は、あと8,544時間だ】
秋の陽が差し込む自室で、壁にもたれかかって座っていた僕の前に突然現れた、自称・神がそう言った。
僕の部屋にいきなりふっと現れて、【突然すまないね】と言った直後にこれである。訳がわからない。
「は?」
8,544時間。ぴんとくる数字ではない。
スマートフォンの電卓機能を呼び出して計算すると、356日。ほぼ一年後の、10月の初め頃になる。
「残り時間...って、何?余命ってこと?」
【人間の言葉に置き換えると、そうなる】
「何、僕が病気だって言うの?」
【原因がそれとは限らないけど、気になるなら調べれば良いさ。ただ、私が言えるのはそれだけだ。君の残り時間は、あと8,544時間。その時になったら、そこにいる死神(タナトス)が君の命を狩り取るから、よろしくね】
「そこって、誰も」
誰もいないじゃん、と言いかけて、息を呑んだ。
女の子が1人、膝を抱えて床に座っている。
ここは僕の家で、僕の部屋だ。誰かを家に上げたわけではない。
自称・神は何らかの超常現象で家に入ってきたと考えられなくもないが、目の前にいる女の子は、僕のクラスメイトである、鎌代(かねしろ)紗音(すずね)だ。ぽかんとする僕の目を覗き込むように眺めながら、鎌代さんがにこりと笑う。
「よろしくね、愛空(あいら)君」
「...おい、自称・神」
【自称とはなんだ。私は神だよ。正真正銘、神だ。それを君は...】
「良いから聞け。鎌代さんまで巻き込んで、なんの冗談だよ?」
【理解力ないなぁ。やっぱり人間は莫迦(ばか)だね。まぁ、そこがどうしようもなくいじらしくて愛おしいんだけど。
つまりね、彼女は死神(タナトス)なの。人の振りして紛れ込んでるだけ。他にも死神(タナトス)は人間社会のそこここに紛れ込んでる。人間は君含めて、簡単に騙せるからね。私は神だから、世界中の人間を騙すなんて瞬きするよりも簡単なことだ】
「...神でも無駄口を叩かないのは難しいみたいだね。とりあえず話の大筋を理解はしたよ。信じるか信じないかは別としてね。...気になったんだけど、彼女はこれからずっと僕の家に居座り続けるわけ?」
「必要に応じて。普段は姿を見せないようにするから、好きに過ごしてもらって構わない。呼んでもらったら基本いつでも行くよ」
「僕は自称・神に聞いたんだけどな。
それに、構わないって言うけど、ここは僕の家だから、君に何言われてもとりあえず好きに過ごさせてもらうよ。用があるときは有り難く呼ばせてもらうかもしれないけど」
【それなら善し】
自称・神がにっと笑った。
【それなら私は帰るよ。忠告をしに来ただけだし。じゃあ死神(タナトス)・スズネ、後はよろしくね】
「はい」
自称・神が空中に向かって一歩踏み出すと、彼の姿はふっと消えた。

「ねぇ、...鎌代、さん」
2人取り残された静寂の中で、僕はそっと口を開いた。
「なに?」
「聞いても良い?」
「うん」
鎌代さんが柔らかい声で応える。
「タナトスって、何?」
「へぇ?」
彼女が素っ頓狂な声を上げた。
「愛空君、知らなかったの?」
「うん。何、それ?」
「ギリシャ神話に出てくる死神だよ。死を擬人化した神」
「死神...?」
「うん。あとは、死に向かう本能そのもののことでもあるかな」
「...へぇ」
「いま神様が言ってた死神(タナトス)・スズネっていうのは、私のこと。神様は私達のこと、そんな風に呼ぶの」
「そっか、何人も居るんだっけ、その...死神(タナトス)、っていうのは」
「うん」
「で、僕、死ぬの?一年後に」
「そうだね、そうなってるみたい」
「で、その時は君がさくっと僕の首を落とすわけ?鎌か何かで」
「ううん、私が愛空君の心臓に触れる」
「え?」
「お医者さんが聴診器を当てるみたいにね。私が人差し指で愛空君の心臓に触れれば、貴方はことりと死んじゃう」
「っ...」
冷たい汗が、背中を伝った。
「つっても、それをするのは一年後だから。そんなに距離取らなくても大丈夫だよ」
じりじりと後ろに下がっていく僕を見て、鎌代さんは安心させるように言った。
いや、全然安心できない。
鎌代さんが僕を殺す方法を話した時、彼女の瞳には一欠片も嘘がなかったように見える。
「とりあえず、一年間は仲良くさせてもらうよ、よろしくね」
「...出来れば帰ってもらいたいな、早急に」
「それは無理」
爽やかな笑顔でそう言われて、僕は目眩を覚えた。
「手始めに、私のことは名前で呼んでよ。仲良くなりたいしさ」
「...死神と仲良くする趣味はないよ」
「いや、鎌代さんって呼ぶの長いでしょ。紗音の方が遥かに呼びやすい」
「紗音、さん?」
「紗音」
「...紗音」
「うん、よろしくね、愛空」
鎌代さん改め、紗音が嬉しそうに笑う。僕はと言えば、生きた心地がしないという状況を、身をもって学んでいた。
「何してるの?」
1人で部屋にいると、紗音の声が真横から聞こえて、僕は盛大に溜息を吐いた。
「呼んでないんだけど」
「うん、知ってる」
「じゃあなんで」
「暇だったから来た。何してるの?」
彼女はどうやら遠慮とかプライバシーとかいう言葉を知らないらしい。
「そう。見て分からないかな、ギター弾いてるんだけど」
僕の指がクラシックギターの弦を弾くさまを、紗音は吸い寄せられるように眺めていた。
「あ、知ってる、この曲」
「まぁ、有名な曲だからね」
「J-POPでしょ、ちょっと前に流行ったやつ。歌えるよ、歌おうか?」
「...どうぞご自由に」
そう言うと、紗音は顔を輝かせて、そっと息を吸い込んだ。

死神の歌なんて全く期待していなかったのだけど、想像に反して彼女は歌が上手かった。
ギターを奏でながら横目で見ると、まるで指揮棒を振るみたいに人差し指で拍を取りながら、こちらを見て楽しそうに笑っていた。僕はと言えば、どんな顔をすれば良いのか分からなくて、ふっと目を逸らしてしまったのだけど。

曲が終わると、紗音は
「ギター上手いね」
と感心したように呟いた。
「紗音も歌上手じゃん」
僕がそう返すと、彼女は少し頬を赤らめて照れ臭そうに笑った。こう見ると、本当に普通の人間みたいだ。とても死神になんて見えない。
可愛い子だな。
ふっとそう思ったけど、彼女は死神なのだと思い直して慌てて頭を振った。
「どうしたの?」
僕の気持ちなんて露知らず、紗音が不思議そうに首を傾げる。
「...や、なんでもない」
そうぶっきらぼうに言った僕の頬が熱くなったように感じたのは、きっと気のせいだろう。


「おーい、紗音」
空中に向かって声を上げると、紗音は透明な階段を降りてくるみたいに僕の前にふっと現れた。
「なぁに?」
「これからちょっと出掛けるんだけどさ。紗音も来る?」
「行っていいの?」
彼女が目を輝かせながら大声を上げた。
「...ダメって言ってもどうせ付いてくるだろうから、最初に聞いておいた方が驚かないと思って」
「お、分かってるじゃん。ちなみに、どこ行くの?」
「公園」
「公園ん?」
「割と広いところね。散歩しようと思って」
「行くぅ!」
「はい、分かった」
「やったぁぁあ」
「落ち着け。さっきから語尾が伸びまくってるぞ」
ぴょんぴょんと跳ね回る紗音本人に華麗にスルーされたことによって、僕の忠告は無かったことにされてしまった。

「ねぇ、愛空」
「ん?」
横を見ると、並んで歩く紗音と目が合った。
「愛空の誕生日っていつ?」
「10/23だけど」
「あ、もう終わってるんだ」
「うん、...どうやらもう誕生日は来ないみたいだけどね。紗音は?」
「2月、14日」
「お、バレンタインじゃん」
「高校入試の日でもあるよ」
「ゔ」
もう僕たちは高校入試を終えた身ではあるけど、高校入試を他人事として考えられるほど、時間は経っていない。
「...じゃあ、その日はお祝いだな」
「お祝い?」
「紗音の誕生日の、お祝い」
「...死神の誕生日を祝うの?」
彼女の自嘲の籠った笑い声が聞こえた。
顔を上げると、紗音は公園に生えている見事な紅葉の木を見上げていた。
彼女が葉の一枚に人差し指を当てると、その唐紅の一葉はみるみるうちに色褪せて、はらりと地面に落ちた。それを紗音は、なんとも言えない寂しげな瞳で見つめている。
「...本当のこと言うと、死神の存在も、自分の余命も、糞食らえって感じだけどさ。でも、紗音の誕生日を祝わない理由にはならないんじゃないか?」
僕がそう言うと、紗音の肩が微かにぴくりと動いた。
「...そう、かな」
「うん」
「そう、なんだ」
「うん」
「ありがとう」
紗音の瞳が、優しげに笑った。


「紗音、前から聞きたかったんだけど」
「うん?」
秋の夕陽に目を細めながら、紗音が応える。
「紗音って、前からずっと死神(タナトス)やってるの?」
「...そうだよ」
「何年ぐらい前から?」
「えーと、10年ぐらい前になるのかな?人間の時間に換算すると。私が死神(タナトス)になった時点で私自身の時間の進みは止まってるから、私はずーっと16歳だよ。永遠の16歳とは私のこと」
ぺらぺらと喋り続ける紗音の言葉を、理解するのには少々時間がかかった。
「え、じゃあ」
僕は驚いて紗音を見る。
「僕と紗音って、同い年じゃないの?」
「同い年だよ?」
「へ?」
「私は16歳で止まってるから、今の愛空と同い年だよ?」
「あ、えーと、紗音は」
表現を間違えたようだ。僕は頭を整理してから、もう一度訊いた。
「僕と同じ、2008年度生まれじゃないの?」
あぁ、そういうこと、と呟いてから、彼女がこくりと頷く。
「私は1998年度生まれだよ。16歳、だから、えーと、2015年か。2015年の春に死神(タナトス)にスカウトされてから、今まで、ずっと」
「そう、なんだ。死神(タナトス)の仕事ってさ、楽しいの?」
「楽しいわけないじゃん。仕事だからやってるけど、快楽殺人犯と一緒にしないでくれる?そういう人は死神(タナトス)じゃなくて殺人鬼になるよ。死神(タナトス)になっても、殺人衝動のコントロールができる訳がない。私は悲劇とか見たら普通に泣くよ」
「へぇ」
「へぇとは何だ」
「じゃあ、紗音は元は人間だったんだ」
死神(タナトス)として活動してる奴の殆どはそうだよ。瀕死の時に神からお声が掛かって、死神(タナトス)になる」
ふーん、と聞き流そうとして、耳を疑った。え、『瀕死の時に』?
僕の心の声は、口を突いて出ていたらしい。
「そうそう、瀕死の時。私は通り魔に突き落とされたんだけどね」
「...え?」
「人気のない高台で、後ろからトンって。真っ逆さまに落ちていって、あぁ、これ私死ぬなって思ってたら、神に声を掛けられてね。まだ死にたくなかったから死神(タナトス)になったの。それから10年間、名を変え場所を変え、死神(タナトス)やり続けて今に至る」
まだ死にたくないから、名を変え場所を変え、死神となって止まった時間の中を生き続ける。
どれほど孤独だろうか。
どれほど苦しいだろうか。
だから(ちまた)では、まだ私のことは突然失踪したJKってことになってるんじゃないかな。なんて、紗音はなんてことないように話していたけど、彼女の手が微かに震えているのを、僕の目は確かに捉えていた。
「愛空」
「...」
「ねぇ、愛空」
「......」
「ねーねー愛空ー、ねーねーねー」
「うっさいな、課題やってる時にわざわざ来なくたって良いだろ」
苛々して悪態を突くと、紗音は大人しく静かになった。
「大体お前、提出明後日だぞ。終わってるのかよ」
「終わってるよー。一体私が、何年高校生やり続けてると思ってるの?本来なら高校10年生だよ。今度の2学期期末試験も10度目だよ」
「あーそうですか、じゃあ先輩、ここ教えて」
「良いよー。あぁ、これね。ここはこっちの公式を使って頂点を求めるから...」
紗音が持つシャーペンが図をなぞり、すらすらと式を書いていく。流石高校10年生と言うべきか、紗音の説明は先生みたいに分かりやすかった。
「ありがと。紗音、教えるの上手いね、教職とか向いてそう」
「嫌だよあんなブラックな職場」
僕がせっかく褒めたのに、紗音は眉を顰めてそう言うと、僕のノートをトントンと突いて言った。
「ほらほら、手が止まってるよ、間に合わないよ、成績下がるよ」
「流れるように脅迫してくるなよ...」
僕が呆れてそう呟くと、彼女は脅迫してないよ、と言いながら楽しそうに笑っていた。

「終わったー!」
「お疲れさま」
紗音がそう言って僕の頭をわしわしと撫でてきたので、払い除けてから窓の外を見た。もう陽はとっぷりと暮れている。
「ありがとう、助かった」
「いえいえー」
「...腹減ったな」
「もうそんな時間か。ご飯、食べてきたら?」
「いや、母さんが仕事から帰ってくるまで待ってるから」
「そっか、じゃあ私ももう少しのんびりさせて貰おうかな」
椅子から立ち上がり、壁側の床に座った僕の隣に、紗音も腰を下ろした。
「紗音は、家に帰らなくて良いの?」
「ないもん。私、家」
「そうなの?」
「家族のこととか、死神(タナトス)になると忘れちゃう人が多いんだよね。私もその内の1人」
紗音の笑顔に、ふっと影がよぎった。
「だから、私は家がどこか分かんない。まぁ、死神(タナトス)は天界に待機所兼休憩所みたいなところがあるから、寝る場所とか勉強する場所には困らないんだけど」
壊れそうな笑顔を浮かべた紗音に、胸が締め付けられるように痛んだ。
「名前、は」
「名前?」
僕の問いに、彼女はきょとんとして僕の顔を見る。
「自分の...本名?っていうのかな。最初の名前。それは、覚えてたりするの?」
「...うん、憶えてるよ」
「なんて名前?」
「... 天音(あまね)矢絣(やがすり)天音(あまね)。天に音で天音」
「天音、か」
僕の呟きは、淀んだ空気の部屋内にゆっくりと溶けていった。
「綺麗な名前だ」
続けてそう呟いた僕を、彼女は驚いたように見つめていた。
「どっちで呼んだら良い?」
「え?」
「紗音か、天音か。どっちで呼べば良い?」
「... 我儘(わがまま)を、言っても良いなら」
「うん」
僕の腕に、彼女の肩が触れる。でも、彼女の身体は、冷たくはなかったけど、温もりもない。まるで実体がないみたいに、温度を持っていなかった。
「我儘を言っても良いなら、...天音。本名が良い」
「分かった。...じゃあ、改めてよろしくな、天音」
僕がそう言って笑うと、紗音、いや、天音が、ほっとしたような笑顔を浮かべた。その時初めて、僕は彼女の素顔を覗けたような気がした。

僕は床に座ったまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ガタガタという物音で、ふっと目を開けた。
時計を見ると、30分程が経っている。たぶん、母が帰ってきたのだろう。
と、ここまで考えて、気が付いた。
僕は、高校で孤立こそしていないものの、友達は多い方ではない。それは昔からそうだ。最後に友達を家に呼んだのはいつだったか。そんな僕が、(見た目)同い年の女の子と、日没後に部屋で2人きり。やましいことはないけど、断じてないけど、説明に困る。
そっと隣を見ると、天音は思い切り僕に寄りかかって寝息を立てている。
動けない。どうしよう。
「愛空ー」
母の声が聞こえた。はーい、と応えたいけど、大声で天音を叩き起こすのも気が引ける。もたもたしているうちに、自分の部屋のドアをノックする音が聞こえて、ドアの隙間から母の顔が覗いた。
「愛空、ご飯」
と言って、あら、という顔をする。
そりゃあそうだろう。僕が困り果てた顔で天音と母の顔を交互に見ていたのだから。
「...彼女?」
天音が眠っているのを見て、母が小さな声で言いながら天音を指差す。
僕は頬が熱くなるのを感じながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「...友達、かな」
「あら、そう。あぁ、愛空、ご飯食べるわよね?」
「うん、食べる」
「その子は?」
「もう帰るってさ」
そう言いながらそっと立ち上がり、天音の名前を呼びながら肩をとんとんと叩く。彼女がうーんと呻き声を上げた。あまり寝起きが良い方ではないのかもしれない。
ご飯よそってるわよ、と母の口が動いて、そっと部屋を出て行った。
ドアが閉まったのを確認してから、天音、ともう一度声を掛ける。
「母さん帰ってきたから、僕あっち行くよ。天音は帰ったってことにするけど良いよね?」
半分眠ったまま、天音がこくりと頷く。
ゆっくりと空中に手を伸ばしたと思うと、その姿がふっと消えた。
それを見届けて、僕は一つ欠伸をしてから、自分の部屋を出た。

「さっきの子、お友達なの?」
「うん、そうだよ。もう帰ったけどね」
「可愛い子ね。なんて名前?」
「天音」
「へぇ、天音ちゃん。珍しい名前ね」
「そうだね、確かにあんまり聞かないかも」
「本当にお友達なのー?」
「そうだよ、母さんが期待しているような間柄じゃない」
母からの質問マシンガンに少々うんざりしながらそう答えても、母はニヤニヤしながら僕の顔を見ているだけだった。
「ねぇ天音、気になったんだけど」
「なに」
天音のくぐもった声が聞こえる。
「てかさ、何その格好。そこ僕のベッドの上だよ」
天音は、僕のブランケットの中に潜り込んでいた。
「愛空の匂いがするー」
「...気持ち悪い」
「酷い」
天音が不満気に身体を丸めて、横向きに寝転がった。
「一応同年代の男子に寝起きを見られたら恥ずかしいじゃん、私もJKなんだから」
引っ付いて寝たのはノーカンなのか、と思いながら僕は手を伸ばして、天音からブランケットを引き剥がそうと試みる。
「僕は他人の布団に潜り込む方がよっほど恥ずかしいよ」
「価値観は人それぞれでしょー。で、何?気になったことって」
天音と一対一で綱引き、ならぬ布引きをしながら、僕はあぁ、と声を上げた。
「僕ってなんで死ぬの?と思ってさ」
「病院行ってないの?」
「行ったよ、健康体だってさ」
「ふーん」
「いや、今はその話をしてるんじゃなくてさ。天音、何か知らないの?」
「知ってる」
「え?」
「ような気がするし、知らないような気もする」
「何だよ」
「それよりもさ、さっきからブランケットみしみし言ってるけど大丈夫?」
「大丈夫な訳あるか。天音、離してよ」
「やだー!愛空が離してよー」
「僕も嫌だ」
軽やかに会話を展開させながら、僕は不思議な感覚を覚えていた。
天音は死神だ。今はもう人間じゃない。
だけど、彼女の隣は居心地が良い。
余命なんてものがなければ、もしも彼女が死神じゃなかったら。
僕は、天音にーーー
「...ゔーーん」
「え、何怖い、どしたの愛空」
急にブランケットの端を握ったまま唸り声を上げた僕に、天音は驚いたように目を見開いた。
「...天音」
「なに」
「僕、座禅でも始めようと思う」
「どうしたの急に、仏教に目覚めたの?」
「...煩悩が。煩悩の中でもかなり面倒な煩悩が」
うわぁ、と天音が顔を顰めて呟く。
「愛空が壊れた」
そう言って、少し困ったように、でもどこか楽しそうに、彼女は笑った。


学校から帰ってきて自分の部屋に入ると、珍しく天音が勉強机(一応言っておくが、僕の机である)を占領して何かを書いていた。
「ただいま」
声を掛けると、天音はびくっと身を震わせて机の上の何かに覆い被さった。
白い紙に、2、3行の文字が書かれている。隙間から覗いただけだが、まだ書き始めたばかりらしい。
「...おかえり」
「学校から帰ってくるの恐ろしく早くないか?何書いてるの?」
「だって死神だもん。幾らでも速く動けるよ」
「何でもありだな、死神って」
そう言うと、天音が得意げに笑った。
「で、何書いてたの?」
「あー、えー、年賀状?」
「もう終わったよ」
「えーとえーと、クリスマスカード」
「それも終わったよ」
「じゃあ寒中見舞い」
「じゃあって。ふぅん、誰に出すの?」
「愛空」
「僕?」
「そうだよ」
「じゃあ見して」
僕が覗き込もうとすると、天音は再びばっと机に覆い被さった。
「駄目」
にっと笑って、上目遣いで此方を見てくる。僕は反応に困って目を逸らした。
「...そう。じゃあ、楽しみにしてるよ」
僕がそう言うと、ふふ、と彼女は嬉しそうに笑った。
「うん。楽しみにしといて」
僕もつられてふっと笑った。

【やぁやぁ、久しぶり】
「げ」
1人で部屋にいると、久しぶりに自称・神が現れた。
【げとは何だ。わざわざ神が直々に来てやってるんだぞ、頭を床に擦り付けてひれ伏しても良いくらいだ】
「はいはい、ご用件は」
胡座をかいてスマートフォンを手に持ったまま、自称・神にそう訊いてやる。
【態度が全く改善されないのだが】
「良いでしょ別に」
ったく、と盛大に溜息を吐いてから、自称・神はやっと本題に入った。
【実は、死神(タナトス)の担当を変えようと思ってね】
僕のスマートフォンがガシャンと音を立てて床に落ちる。
「え?」
死神(タナトス)・スズネは、いや、死神(タナトス)・アマネと言った方が良いかな。彼女は、君と仲良くなり過ぎたようだから】
「...天音」
【本来、死神(タナトス)依頼者(クライアント)に深入りしてはならないんだよ】
「初耳だな」
死神(タナトス)・アマネも、それはきちんと理解していて、今までは必要最低限の接触、つまり魂の狩り取り時のみ姿を見せていたから、そこは信用していたんだけどね。どうやら君と死神(タナトス)・アマネは相性が良すぎたみたいだから】
「...これ、抗議ってできるのか?」
【と言うと?】
「最期に僕の魂を狩り取る死神(タナトス)は、天音が良い」
【...我々は、君たちのことを一応依頼者(クライアント)と呼んでいる。ただ、君は我々に依頼した覚えはないだろう?我々もそうだ。私は今ここで、君を力尽くで従わせることもできるんだよ】
「話が見えないな。つまり、抗議はできないと?」
【理解が早くて助かるよ。私も残り時間が少ない君の時間を更に縮めるような真似は、したくはないからね】
「...ここで僕が、はいそうですかって引き下がると思うか?」
【そうだったら有難いがね】
「残念だけど、僕はそこまでお人好しじゃない。従順でもない。天邪鬼なんだ」
自称・神の表情が険しくなった。
僕は挑発的な笑みを浮かべて言い放った。
「とことん足掻かせてもらうよ」
【...君は阿呆か】
「知らないの?人間、大事な人と一緒にいる為なら阿呆にでもなるんだよ」
【みたいだな】
「じゃあ先ず質問だ。...天音は今どこに居る?」
神の眉がぴくりと動いた。
「いつもなら、呼んでもいないのに彼奴は勝手にやってくる。なのに今は呼んでも来ない。何かあった以外考えられない」
【君たちは本当に仲良くなり過ぎたようだね】
神は呆れたようにそう言って、頭の上に手を伸ばした。まるで、何かを掴んで引っ張り出すみたいに。
ごとん、と音がして、後ろ手に縛られた天音が空中から降ってきた。
「天音」
僕が思わず大声を上げると、神が僕の額に人差し指を当てた。たったそれだけで、僕は前に進めなくなってしまう。
神は気絶しているの天音の襟首を掴んだまま、ゆっくりと口を開いた。
死神(タナトス)の採用について、君は死神(タナトス)・アマネから聞いているよね】
何故ここでその話が出てくるのか、理解が追いつかずに困惑した。僕が答えあぐねていると、神が続けて口を開く。
死神(タナトス)・アマネは、ここでは人質だ。私がここで彼女を馘にすれば、死神(タナトス)・アマネは人間だった時の肉体に戻る。良いかい、変わるんじゃない(・・・・・・・・)戻る(・・)んだ。そうなるとどうなるか、想像に易いだろう?】
人間に変わるのではなく、人間に戻る。
人間だった時の肉体に、戻る。
僕の喉がひゅっと音を立てた。
「お前」
僕が弾かれたように立ち上がったのを、神は片手で押さえ込んで楽しそうに笑った。
【瀕死の人間を採用する理由はそこにある。簡単に辞められちゃ、困るからね】
「お前の、それは、支配だ。採用でも雇用でも何でもない」
【可哀想な人間たちが生きたがっていたから、我々はその道を用意したまでだよ】
「それじゃあ、死神(タナトス)は永遠に逃れられないじゃないか」
【永遠なんてことはない】
僕は目を瞬かせた。どういうことだ?
遠山愛空(とおやまあいら)くん。君はどうやら誤解をしているようだ。死神は万能だと。違うか?】
神が冷酷な瞳で続ける。
死神(タナトス)は、採用と同時に人間の時の肉体ではなくなる。だから体温もない、中途半端な肉体の具現化が成されている。でもね、身体の構造は人間だった時と変わらないんだ】
「何が言いたい」
【簡単だよ、死神(タナトス)死神(タナトス)のまま辞める方法さ。
もう一度死ねば良い】
自分の頭がぐらりと揺れた。
自分が息をしているのか分からない。
喉が、からからに乾いていた。
【大丈夫か?君の方が死にそうな顔をしているぞ】
神の声が、どんどん遠くに離れていく。
視界が薄暗くなって、自分の血液が身体の中を流れる音だけが聞こえる。
どさりと音を立てて、僕は床に倒れ伏した。
【あ、起きた】
目を開けると、薄ぼんやりとした視界の中に神がいた。
【君、大丈夫かい?突然気絶しちゃうんだもの、吃驚(びっくり)したよ】
「...天音は」
【大丈夫、まだ馘にはしてないよ】
神が指差した先には、天音が壁に寄りかかって眠っていた。
ほぅと息を吐いたものの、神はもう一度僕を気絶させたいらしかった。
【これから馘にするかどうかはまだ決まってないけどね】
僕はぼうっとする頭を無理矢理叩き起こして、訊いた。
「天音が死神(タナトス)で在り続けるには、どうすれば良い」
【担当を変える】
神がぴっと人差し指を立てた。
歌を歌っている時の天音の仕草と似ている。
【若しくは】
僕は顔を上げた。
【深入りし過ぎないように我々が監視をする、または死神(タナトス)として在る期限を設ける】
ふぅ、と神が息を吐く。
【取り敢えずはこの3つだな】
「...分かった」
「3つ目にします」
聞き馴染みのある声が唐突に聞こえて、僕は頭が取れそうな勢いで振り返った。
天音が目を開いて、神をしっかりと見据えている。
【いつまでにする?】
「10月5日」
【分かった。あと237日か。まぁ、せいぜい楽しむことだ】
神が蔑むように笑って、ふっと姿を消した。それと同時に、天音の拘束も解かれたようだ。
「天音」
「あ、愛空」
僕は立ち上がった天音のところに駆けていった。
「怪我は?」
「ない」
「体調は?」
「大丈夫」
「良かった...」
思わず天音を抱きしめて、安堵の溜息を吐く。
「...愛空」
「ごめん、嫌だった?」
「ううん、それは、ない、けど」
ちらりと目をやると、天音の耳が赤くなっているのが見えた。体温はなくても、血は巡っているらしい。
「じゃ、もう少しこのままで居させて」
「ん、良いよ」
僕が彼女の肩に顎を乗せて呟くと、少し笑いを含んだ、柔らかい声が僕の耳に届いた。
「...そういえばさ、さっきの日付」
「あぁ、あれ?あれはね」
「僕の命日だよね」
天音がほぅと息を吐いた。
「...知ってたんだ」
「うん、前に数えた」
「わざわざ300日以上を?」
「だって気になるじゃん」
「...うん、そうだね」
天音の声が、少し悲しげな響きを伴って聞こえた。

「ねぇ、神」
僕が空中に向かって声を掛けると、なんとも言えない微妙な表情をした神が現れた。
【ねぇ神とはなんだ】
「聞きたいことがあってさ」
僕は神の文句を聞き流して続けた。
【何だ】
「僕の余命ってさ、覆ることあるの?」
【どう言う意味だ?】
「例えば、僕の死因が事故だとするでしょ。もしもその事故を回避したら、僕の余命は白紙に戻るわけ?」
【回避するのは不可能に等しいと思うが、もし回避できたとしても、宣告された残り時間が覆ることはない。苦しむ・苦しまないの違いはあろうがな】
「...そう」
【生き物の時間はな、吊り橋に似ている】
「吊り橋?」
予測不可能(・・・・・)の事故とか、大怪我とかは、吊り橋の橋桁に瓦礫が積み上がっているようなものだ。奇跡的に回避できたら死ぬことはない。ただ、予測ができないから、神も宣告できない。一方で、神が宣告できる余命は、その吊り橋が途中でふっと途切れているイメージだ。そうだな、月並みな例えになるが、運命と言い換えられるような】
吊り橋が途中で途切れている。
そんなの、どうしようもないじゃないか。
「分かった、ありがとう」
【それにしても、なんで急にそんなこと聞いてきた?死にたくない理由でも出来たか?怖気付いたか。】
「理由なんてないよ。ただ、少し、ほんの少しだけ、怖くなっただけだ」
【そうか】
神はふっと顔を背けると、煙のように消えていった。
「愛空」
「なに...ゔ」
天音の声が耳元で聞こえて顔を上げると、背中にずしりと重みを感じた。
「...重い」
「JKに重いって感想はブッ刺されるよ」
「そう、気を付ける」
僕はふぅと息を吐いた。
「...聞いてた?」
「何が?」
天音がきょとんとして此方を向く。
「...ううん、何でもない」
雪が降りそうに冷えた窓の外を、体温のない彼女と眺めながら、僕の心が確かに温まっていくのを、僕はゆっくりと感じていた。
「天音はさ」
「ん?」
「寒いの好き?」
「どうだろう。どうだったかなぁ」
「え?」
死神(タナトス)には体温がないじゃない?だから、暑さ寒さも感じなくなるの。人間だった時は、とにかく身体が動かなくなるから嫌いだった気がするよ。暑くても倒れるから嫌だったけど」
「...全部嫌じゃん」
苦笑いしながら呟くと、あははっと天音が楽しそうに笑った。
「愛空は?寒いの、好き?」
僕の肩に腕を乗せて、天音が訊いた。
「前は嫌いだったけど、今は好きかな」
僕は、窓の外のどんよりと曇った寒空を見上げて、息を吐いた。
「生きてるって感じがするから」
ふふ、という天音の笑い声が聞こえる。
「そっか。生きてる感じがする、ね」
僕の背中に額を押し当てて、天音が嬉しそうに呟いた。
ねぇ、と僕は口を開く。
「さっきからさ、背骨が悲鳴をあげてるんだけど」
僕がそう呟くと、彼女は僕の背中に額をぐりぐりと押し付けてきた。
「痛い、いたいイタイ痛い止めろ!」
大声を上げた僕に、ごめんごめん、と笑いながら謝ってくる。蹲って彼女を睨み上げた僕の頭を、わしわしと撫でてきた。
「ごめんね、ちょっと悪戯したくなった」
「...暴力反対」
「ごめんごめん」
天音がのんびりとした調子で呟く。
僕はむくりと起き上がると、天音に正面から向き直って口を開いた。
「...天音」
「なぁに?」
「誕生日おめでとう」
「...あれ?今日だっけ?」
「2/14だろ。今日だよ」
「そっか。へへ、ありがとう」
天音がふっと表情を緩ませたのを見て、僕の胸がぽうと温かくなったような気がした。
「お祝いになんか一緒に食べる?」
死神(タナトス)はご飯食べないよ。代わりにさ、愛空ともうちょっと一緒にいても良い?」
「ダメって言ったら?」
「...お願い」
僕は、なんだか彼女のせいで押しに弱くなったような気がする。はぁと息を吐いて、頬杖をついた。
「...もう少しだけだよ」
「うん」
背中に微かに残る痛みも、このなんとも言えない楽しさも、安心感も、僕の生存を告げる証拠となっているようで、僕は少しだけほっとしていた。
「もうすぐ新学期かー」
「もうあと半年ないのかー」
天音と僕は、部屋に寝転がってそれぞれ声を上げた。
「...さらっと余命の話折り混ぜてくるの止めて?反応に困る」
「だって、天音だってあと半年弱で死神(タナトス)終わりだろ、変わんないじゃん」
「残念、人間の私はもう死んでるから全っ然違うよ」
「そっちこそ反応に困るんだけど」
「お返しだよ」
「胸糞悪いお返しだな」
「え、口わっる...」
天音がげんなりとした顔で此方を見る。
「良いだろう別に口が悪くたって」
「まぁ、まぁ、うん、そうだね」
複雑な笑みを浮かべて、天音がそう呟いた。

「あ」
「どうしたの?」
戸棚の中を整理していた僕の後ろから、天音が顔を覗かせた。
「いや、線香花火が出てきて。そのまま捨てるわけにもいかないから、一人で...」
そう言いかけて、思いとどまった。
「...え?なに?」
「夏になったら一緒にやろうか、線香花火」
そう言うと、彼女はぱぁっと顔を輝かせた。
「うん!」
力強く頷いて、弾けるように笑う。
「ねぇねぇ、立夏っていつだっけ?」
「まさかその日にやろうとか言わないよね?」
「楽しみなんだもん、早い方が良いじゃん」
「えー、待って。今調べるから」
床に放り投げてあった鞄の中からスマートフォンを取り出して、インターネットに繋げる。
「...あ、5/5だって」
「じゃああとひと月弱ぐらいか。楽しみだなぁ」
「8月とかじゃなくて、良いの?」
「...うん、早い方が良い」
「そう、じゃあ5月あたりにやるか」
僕がそう言うと、やったー、と声を上げて天音が笑った。


「愛空、今度何かあるの?」
夕飯を食べながら、母が僕に話しかけてきた。
「明日の夕方から夜にかけて、ちょっと出掛けてくるよ、9時までには帰ってくると思うけど。...なんで?」
「ううん、妙に楽しそうだから。天音ちゃんと?」
「...うん、まぁ」
「わぁ、デートだ、青春だ。楽しんでらっしゃい、遅くなり過ぎないようにね。ご飯先に食べてて良い?」
「うん」
デートじゃないよ、と言いかけたけど、わざわざ訂正する必要もないかと、一つ頷くに留めておいた。

翌日の日没直前。
家のインターフォンが鳴ったので玄関を開けると、浴衣姿の天音が立っていた。
「...なんか違和感あると思ったら、普段インターフォンなんて鳴らさないじゃん、天音」
「そこ?服装じゃなくて?頑張ったのに」
「...うん、似合ってる、可愛いよ」
僕がそう言うと、天音は嬉しそうに笑った。
「僕、思いっ切り普段着だけど大丈夫?浴衣で合わせられないよ」
「良いよ良いよ、私が突然思い立って浴衣にしただけだし。花火持った?」
「あ」
「おい」
「なんてね、持ってるよ。行こうか」
「どこ行くの?」
「公園」
「また夢のない...海とかじゃないの?」
「安全第一、近場でやりましょう」
「はーい」
天音がそう言って、てくてくと僕の先を歩いていく。
「ねぇ」
僕は天音が手に持っているものに気づいて声を掛けた。
「それなに?」
「ん?」
「手に持ってるやつ。それなに?」
「あぁ、これ?向日葵だよ」
天音がガサガサと音を立てて取り出したそれは、残光の中でも眩しいくらいに咲き誇っていた。
「向日葵?まだ早くない?」
「最近の生花業界はすごいんだねぇ。売ってたよ。だから買ってきた」
「へぇ、良いね」
3本の向日葵を抱えて、天音が嬉しそうに笑った。
ふわりと風に乗って薫った匂いに、僕は首を傾げた。
「これ、向日葵の匂いなの?なんか菊みたいな...」
「そうだと思うけど...私は分かんないや、鼻いいね。てか、なんで菊の匂いが分かるの」
「前に嗅いだことがあって。なんか鼻がいいって褒められてもあんまり嬉しくないのはなんで?」
さぁ、と言って天音がくるりと回る。
「ほら、着いたよ」
陽が沈んだ公園に、人気はなかった。
花火を取り出して、バケツに水道の水を汲む。
戻ってくると、天音は向日葵の花を近くのベンチに置いて戻って来たところだった。
「ライターは?」
「ここ」
「ローソクは?」
「要らないでしょ。じゃ、はい」
花火の袋を手渡すと、天音はガサゴソと音を立てて袋を探り、一本の線香花火を取り出した。僕がライターを持って火を点けると、夜の静寂の中に柔らかい破裂音が響いた。
「これ、なんて名前の花火?」
「...線香花火?」
「そうじゃなくて。聞いたことがあるんだけどさ、線香花火にも柳とか松葉とか、名前があるんじゃないの?」
あぁそれか、と思う。
天音が言っているのは、線香花火の種類ではなくて、花火の火花の散り方の話だろう。
「これが松葉」
ぱちぱちと音を立てる線香花火を指差して、僕は静かに言った。
「へぇ、これが」
「で、これが柳」
「え?」
「火花の散り方の名前なの。さっきよりも少し静かでしょ。だから柳」
「へぇ。花火の種類じゃないんだ」
「うん。...で、これは、散り菊」
ちりちりと微かに火花を散らす線香花火は、不思議な美しさに満ちていた。
派手でもないし、大きな音が鳴るわけでもない。でも、これほどに目が離せなくなるのは何故だろうか。
「あ、落ちた」
天音の声で我に返ると、紅葉色の火の玉がシュウと音を立てて地面に落ちるところだった。
「もう一本やる?」
花火の燃え殻をバケツに投げ込みながら問うと、天音が目を輝かせて頷いた。
「やる!愛空も一緒にやろ」
「うん」
2人で並んで、線香花火が儚く美しい花を咲かせるのを、黙って見ていた。

「終わったね」
「もうないの?」
「うん、終わり」
僕が空になった袋を畳んでポケットに入れたのを見ると、天音は少し寂しそうに「終わりかぁ」と呟いた。
「でも、楽しかった。ありがとう」
「此方こそ」
「あ、そうだ、バケツどうするの?」
「家で捨てるよ」
「ふーん、じゃあ、一緒に帰っても良い?」
「うん」
そう答えると、天音が嬉しそうに笑った。

「天音、今日はどうすんの?帰る?」
「うーん、そうだね。もうすぐ9時だし、帰ろうかな。じゃあこれだけ渡しておくよ」
天音は僕の手に3輪の向日葵を押し付けると、くるりと身を翻らせて行ってしまった。
「...よく分かんないやつ」
そう呟きながら抱えた向日葵は、相変わらず小さな太陽みたいに咲き誇っていた。