巡り、巡る、時の狭間の物語

 青年の笑いがおさまる頃には、私も少し、落ち着きを取り戻していた。

「あの」

「何?」

「私、帰り道を探しているんです」

「……うん。知ってる」

「え?」

「迷い込んでしまったんだろう?」

その一言で、彼が何かを知っているのだと確信した。

「あの、ここはどこなんですか?」

「……ついてきて」

直球で問うた私の言葉には答えず、青年は徐にこちらに背を向け、歩き始めた。私は急いで後を追い、彼の横に並ぶ。

「どこに行くんですか?」

「まずは面を買う。その姿じゃ、目立ち過ぎる」

「面?」

「俺たちがつけている、これ。ほら、周りを見てごらん」

そう言われて、改めてあたりをぐるりと見回した。目に映るのは、ごった返した人で賑わう、ありふれた祭りの一会場。あたたかくて、どこか懐かしさを感じさせるその風景の、しかしある一点がはっきりと異質だった。

“面”だ。

そこを行き交う人々の顔には、悉く、その全てに面が貼りついていた。先ほどまでは置かれた状況に困惑するばかりで気にもしていなかったが、こうやって改めて冷静に見ると、明らかに異様な光景だ。

そしてこの世界で、私だけが何の面も身につけていなかった。これではどちらが異常なのか分からなくなる。形を潜めつつあった恐怖が、むくりむくりと、私の中で再び首をもたげ始めようとしていた。

不安が顔に出ていたのだろうか。チラとこちらを見た青年は、私に優しく語りかけた。

「ごめん、不安にさせたかな。大丈夫。俺を見て」

「……」

「君は何も心配しなくていい。必ず帰してあげる」

言い聞かせるように、ゆっくりと、青年はそう言った。今日、ついさっき会ったばかりなのに。彼の声を聞くと、なぜだか私は、ひどく安心した。

「……ありがとうございます」

そう伝えた声は掠れていて、自分でも驚いた。ちゃんと届いたかは分からない。けれど確かに頷いた青年が、面の奥、優しく微笑んだような気がした。



*** ***



 皆がそれぞれ何かしらの面をつけているという点以外、ここにあるのはありきたりな祭りの風景だ。

ずらりと並ぶ屋台の数々。先ほど、私の横を歩く彼は『不味い』と語ったけれど、どう考えても食欲をそそる香りがあちこちから漂ってくる。

子どもたちの笑い声と、太鼓に笛の音、 祭囃子(まつりばやし) 行燈(あんどん) 提灯(ちょうちん)、飾られたその他様々な照明のオレンジ色が、世界を明るく照らし出す。

絵に描いたような『楽しい』景色の中、不安を抱えて彷徨う私は、どこかちぐはぐな存在だった。頼れるのは隣にいる、一人の青年だけ。

「名前」

「うん?」

「あの、名前、聞いてもいいですか?」

行き交う人々の間を縫って、二人歩いている途中。私は彼の名前をまだ聞いていなかったことに気がついた。知らなくてもいいことなのかもしれない。けれど、知りたいと思った。明確な理由はない。それでも無性に、知りたいと思ったから。ただ、それだけのこと。

「俺の?」

「はい。私は 蓮山千晴(はすやまちはる)です。あなたは?」

「……狐」

「え?」

「化け狐に名前なんてない」

彼は自分の面を指さして、少し首を傾げてみせた。

「えっと……」

「好きに呼ぶといい」

「……狐さん」

「それでいいよ」

自分のことを化け狐だと語る青年。その言葉は、どこまでが真実なのだろう。もうこちらを見ていない彼に、私はそっと視線を向ける。私より高い位置にある顔を見ようとすると、自然、少しだけ見上げるような形になった。面と顔の間、そこにわずかな隙間ができている。そこから、顔の輪郭をなぞるラインの線上、顎と左耳の丁度真ん中あたりに、ポツリと一つ、 黒子(ほくろ)が見えた。もう少し、もう少し目を凝らせばその奥が、隠された素顔が、見えそうで。

しかし結局のところ、そんな小さな隙間から彼の本当の顔を知ることなんて、できる訳もなかった。
「さ、着いた」

彼について歩き、辿り着いた先。

「わぁ」

立ち並ぶ屋台の一角。その一つの店に、大量の面が売られていた。

「いらっしゃい」

声のした方へと視線を向ける。そこにいたのは、どこか妖艶な空気を纏った一人の女性。美しい(くれない)の着物を身に纏い、並んだ面の中央に、ゆったりと腰を下ろしていた。手にしているのは 煙管(きせる)だろうか、紫煙がふわりと漂っている。

「彼女に面を一つ」

青年、もとい狐さんが女性に声をかける。

「へぇ。新入りかい?」

話しかけられた女性はそう言って身を乗り出すと、私を値踏みするように上から下までじろりと眺めた。そして、直後、顔を(しか)める。

「……いや、ちょっと違うね。これはまた……。ふふっ。あんた、彼女をどうするつもりだい?」

「どうもしません。在るべき場所へ帰すだけです」

「ふぅん。どうだかね。まぁ、いいよ。私の知ったことじゃない。お嬢ちゃん」

「えっ、あ、はい」

突然こちらに話を振られ、私は思わずドキリとした。返事をした声がうわずっていて、じわりと恥ずかしさが込み上げる。

「ここじゃあ面は必須だ。うちのはどれも上等だから、安心して好きな物を選びな」

「あ、ありがとうございます」

ぎこちなく、しかし一先ずお礼の言葉を絞り出した私は、気を取り直して売られている面に目を向けた。犬、猫、狐、あれは狸だろうか。動物以外にもひょっとこや天狗なんかをモチーフにした物もあるようだ。

それぞれを手に取って見比べる。改めてそうして見ると、色、形、そして表情に一つとして同じものはなく、どれもが皆、何かしら見る者を惹きつける魅力を備えているのがよく分かった。

「どうしよう、悩むなぁ」

置かれた状況を忘れ、夢中になってあれこれ面を吟味していると、狐さんが横からそっと一つの面を差し出してきた。

「これなんかどうかな?」

それは、真っ白な兎の面だった。額から耳にかけて、桜色の可愛らしい花と水色の生き生きとした葉の模様が描かれている。

「かわいい」

「お兄さん、いい物選ぶねぇ。それ、上物だよ。お嬢ちゃんにも、お嬢ちゃんの浴衣にも似合いそうだ」

狐さんと、そしてお店の女性のお墨付きもあって、私は決めた。

「これにします」



*** ***



 受け取った兎の面をさっそく被る。面なんて身につけたことがなかったから、なんだかとても違和感がある。

「……あの、どうでしょう?」

上手く被れているのか、これで合っているのかよく分からなくて、狐さんに向かって私はおずおずと尋ねた。

「うん。よく似合ってる」

「……よかった」


 これで準備も整い、「さぁ、行こうか」というところで、どこかから誰かの啜り泣く様な声が聞こえてきた。自然と、私はあたりを探る。二、三度視線を巡らせたところで、ふらふらと人混みの間を彷徨う小さな背中に目が止まった。

「子ども……?」

まるで引き寄せられるかのように、気づけば私はその子の影を追っていた。

「あ、ちょっと待って」

制止する狐さんの声は、その時の私には届いていなかった。
「待ちな」

彼女を追おうとしたところで、背後から呼び止められる。

「あれはここの人間じゃないだろう。あんた、あの子の面倒見てやろうって? 酔狂なやつだねぇ」

俺を呼び止めた面売りの女性は、そう言って一度、煙管に口をつける。

「……ただの気まぐれです」

俺の言葉に彼女が笑う。少し開いた唇から、白い煙がふわりと漏れた。

「ふふっ。そう拗ねた声を出さなくても、別に責めちゃいないよ。揶揄ってる訳でもない」

「拗ねてません」

「ふははっ。そうかい、そうかい。でも、これだけは言っておくよ。あまり積極的にあちらに関わるのは感心しない。ま、あくまでも私の個人的な意見だけど」

「……分かっています」

「それならいい。引き止めて悪かったね。もう行きな。あの子を見失っちゃあ不味いだろう」

「はい。ご忠告、感謝します。では」

「じゃあね」

ひらりと手を振った彼女はもう、こちらへの興味を失ったようだった。どこか胡乱で退屈そうな視線が、夜空に登る煙の行方を、ただぼんやりと眺めていた。
 屋台が立ち並ぶ通り、そこを外れて。店と店との間を縫って、少しだけ奥まった場所へ。聞こえる泣き声に導かれるように、私は一歩、また一歩、足を進めた。

ここはもう、祭りの灯りも届かない。あるのは夜の静寂だけ。どこかでリンと、虫が鳴いた。唐突に、夜空を覆った雲が切れ、現れた月が宵を裂く。少しずつ闇に慣れた私の目に、“その子”が映った。

一本の大木の下、しゃがみ込んで泣く、一人の小さな男の子。

「……に……の」

そっと近づいて、そうして男の子の声に耳を澄ます。

「……どこに……いるの? おかあさん……おとうさん……」

しゃくり上げる呼吸の合間、途切れ途切れに紡がれる言葉。

「とうまにぃちゃん……どこ……」

この子は、家族を探しているのだろうか。お祭りではぐれてしまったのかもしれない。彼の目の前まで近づき、そっと屈んで、声をかける。

「こんばんは」

「……!」

突然の声に驚いたのか、男の子が俯けていた顔をばっと上げた。月明かりに照らされた顔は、涙に濡れている。彼は、“面をつけていなかった”。

「僕、迷子?」

「……うん」

「お母さんたちを探しているの?」

「うん。おかあさんもね……おとうさんも……とうまにぃもね……いないの」

「うん」

「みんな、みんな、いなくなったの。ねぇ、どこにいるの?」

じわり、じわりと、大きな瞳に涙が溜まる。あっという間に再び溢れ出したそれは、もちもちと柔らかそうな頬を濡らしていく。その様は、見ているこちらの胸をきつく締め付けた。

「はぐれちゃったんだね。こわかったね。もう大丈夫だよ」

私はこれ以上彼を不安にさせないように、こわがらせないように、優しい声で語りかけた。

「お姉さんと一緒に、探しに」

「駄目だ!」

突然頭上から聞こえた大きな声に、私はビクリと身をすくませた。同じくその声に驚いたのか、目の前の男の子は一瞬目を見開いた後、今度は大きな声でわんわんと泣き始めてしまった。

私が男の子に差し出そうとしていた手は、先ほどの大声の主、狐さんの手によって、パシンと弾かれていた。痛みが一拍置いてやってきて、思わず「いたっ」と呟きが漏れる。

「……! ごめん!」

遅れて自身の行動にハッとした狐さんが、まるでその場に縛り付けられたかのように立ちすくむ。ゆっくりと視線だけが、先ほどはたき落とした私の手へと向かい。そして次に聞こえたのは、彼の口から漏れた、唖然とした声音。

「血が……」

その言葉に、私は改めて自分の手を見た。手の甲に、薄らと血が滲んでいた。おそらく彼の手の爪が引っかかって、切れたのだろう。

「ごめん、そんなつもりじゃ」

「……私は大丈夫です。それより、この子。そんなに大きな声を出したらこわがらせちゃう。それに、『駄目だ』って……。事情も聞かずに、酷いんじゃないですか」

私は思わず、彼に睨むような視線を送っていた。狐さんが息を呑むのが分かる。

「それは……」

「何の騒ぎかな」

その時、先ほどまでこの場にいなかった声が、唐突に私たちの間に割って入った。
(シュウ)さん……」

狐さんが、声の主に向かってポツリと呟く。

「おや、(セツ)。こんな所にいたのか。急にいなくなったから心配したんだぞ。(スイ)が見つけてくれたのか?」

声の主は、狐さんと似たような面を被り、その身に袴を纏っていた。顔が見えないためはっきりと判断することはできないが、歳の頃は二十代後半といったところだろうか。その彼が、泣いている男の子と、狐さんとを交互に見比べた後、私の方へと視線を向けた。

「それから、そこのお嬢さんは、はじめましてかな。何かあったみたいだね。二人が迷惑をかけたかな?」

「あ、いえ……。違うんです」

私は、なぜだろう、咄嗟に狐さんにはたかれた方の手を、反対の掌で覆い隠していた。その動きを、(シュウ)と呼ばれた青年は見逃さなかった。おそらく、狐さんがはたく瞬間も見ていたのだろう。

「その手、怪我をしているみたいだね。手当をしよう。ついておいで。(スイ)(セツ)を頼む」

「……はい。いつもの場所でいいですか?」

「うん。夜も遅い。眠るまで側にいてやって」

「分かりました」

静かに答える狐さんに、チラと視線を向ける。気づいた彼が

「大丈夫だよ。行こう」

とそう言うから。私は、ただ黙って頷いた。



*** ***



 連れ立って歩いて十分ほど経っただろうか。

「さ、着いた」

辿り着いたのは境内にある少し大きな建物だった。

「ここは社務所兼僕の自宅でね。さぁ、あがって」
(シュウ)と呼ばれた青年が、立ち止まって建物を見上げていた私にそう説明してくれる。

「じゃあ、俺は(セツ)を寝かせてきます」

狐さんはそう言って、私たちと別れた。(セツ)と呼ばれた少年は泣き疲れたのだろう、その時にはもう狐さんの背におぶられ、うつらうつらと船を漕いでいた。今にも夢の中に旅立ってしまいそうだ。

「お嬢さんはこっち」

二人を見送ったあと、私たちは彼らとは反対方向に向かって歩き始めた。

「そういえば自己紹介がまだだったね。僕は(シュウ)。この神社で、もう長いこと神主をしている」

「私は 蓮山(はすやま)です。 蓮山千晴(はすやまちはる)。数字の千に、晴れるって字を書きます」

「蓮山千晴さんか。いい名前だね」

「ありがとうございます」

「さ、この部屋にどうぞ」

廊下に沿って二つほど部屋を通り過ぎた先、三つ目の(ふすま)を開けて、(シュウ)さんは私を中に通してくれた。畳の井草の匂いが、心地よく鼻口を擽る。

「遠慮せず座って。座布団はこれを使ってね。僕は救急箱を持ってくる。それから飲み物……いや、駄目か」

最後の方は独り言なのだろう。(シュウ)さんは腕を組み、何やら思案顔で唸っている。

「喉は渇いている?」

「実は、少し」

「そうか。お茶を出してあげたいんだけど……。あぁ、水なら飲んでも大丈夫か」

「あの、大丈夫、とは?」

「うん? あぁ。君はここの物を口にしてはいけない。(スイ)から聞いてなかった?」

「え?」

「その様子だと、何も聞いていないのかな?」

「はい。教えていただけますか?」

「……分かった。僕から話そう。けれど手当が先だ。準備をするから少しだけ待っていて。水も持ってこよう」
(シュウ)さんはそう言うと、静かに部屋を出て行った。
「お待たせ」

しばらくして、秋さんは救急箱と、何やら水の入った小さな樽と、同じく水の入った陶製の湯呑みを手に部屋へと戻ってきた。彼は私の前に膝つき、救急箱と樽を床へ、そして湯呑みを机へと順に置いた。

「お気遣いありがとうございます」

「いいえ。お水なら飲んで大丈夫だよ。ここの神社でお清めに使う湧き水だ。“穢れ”はついていない」

「穢れ」

「そう。手を見せて」

言われてそっと手を差し出す。狐さんの爪に引っ掻かれた方の手だ。

「少し血が出た痕があるね。もう塞がってはいるけれど」

「これくらいなら平気です」

「本来なら僕たちが君に触れることも避けた方がいいんだ。傷自体は大したことないけれど、念のために水で清めておこう。絆創膏は自分で貼れるね?」

「はい」

「この樽に手を浸して」

言われた通り樽の水で手を清め、私は渡された絆創膏を傷の上に貼り付けた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

「あの……」

「うん」

「穢れって……。あなたたちは、この世界は一体何なんですか?」

「そうだね。彗がまだ話していないようだから。順に説明しよう」

「彗って、あの、狐さんのことですか?」

私の言葉に、秋さんは少し面食らったようだった。しばらく考えるように小首を傾げ、それからぷっと吹き出してこう言った。

「そこから?」

「……そこから、です」

「ふふっ。狐さんって呼んでたね、あいつのこと。あいつがそう名乗ったの?」

「正確には、ちょっと違います。彼は自分のことを化け狐だと言いました。化け狐に名前はない、だから好きに呼んでと、そう言われて」

「それで狐さん」

「咄嗟に思い付かなくて。結局そのまま」

「なるほどね。名前も名乗らないとは、何を考えているのやら。まぁ、呼ばれたくない理由が思い当たらない訳でもないが」

「理由?」

「そこは僕の憶測になるからね。一旦置いておいて、話を戻そう。気になるなら本人に直接聞くといい」

「分かりました」

「まずこの世界について。蓮山さんは、検討がついているかな?」

「いえ、まだ、はっきりとは。ただ、私は本来なら“ここにいてはいけない人”なんですよね?」

これまでの狐さんの、そして面を売ってくれた女性の言葉。それから、この世界に来てからずっと感じている、言いようのない疎外感。理性と本能、そのどちらもが、ここは私が“元いた世界ではない”と告げてくる。

「うん。なら、さっき雪に君が手を差し伸べようとした時、彗が駄目だと突っぱねた理由、そこからちょっと考えてみようか」

「見ていたんですね」

「全部ではないんだけど。雪を探して歩いていたら、君たちの姿が遠くに見えて。近づいて行くと、少しずつ話し声が聞こえてね。彗が蓮山さんを叩く前に止められたらよかったんだけど、間に合わなかった。ごめんね」

「あ、いえ。それは秋さんが謝ることじゃありません」

「ありがとう」

「狐さん……じゃなくて、彗さんが怒った理由……」

「怒っていた訳ではないと思うけどね。雪はどうして泣いていたの?」

「家族とはぐれたみたいで」

「家族を探していたんだね? それで、君は雪に何をしようとしていたの?」

「一緒に、あの子の家族を探そうと」

「そう……」

私の言葉を聞いた秋さんの顔に、仄暗い影が落ちた。少しの間俯いて、また顔を上げて。そうして私を再び自身の瞳に捉えた彼は、どこか痛みを堪えるような表情で、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「蓮山さん、それはね、“できない”んだ」

もしかしたら、いや、もしかしなくても、もうこの時既に、私は彼のこの言葉を予感すらしていたかもしれない。頭をよぎって、しかし、そうだとは肯定したくなくて、無意識に拒んでいた、事実。

「彼が家族のあたたかな腕に迎えられることは、もう二度とない」

「……」

「叶わない希望を与えることほど残酷なことはない。だから、彗は君を止めたんだ」

「それって……」

「本当は、もう君は察しがついているんじゃないかな? この世界のこと」
 背中に感じる重みが、確かにこの子の存在を伝えてくる。おぶった背に揺られ、今にも夢の中に旅立ってしまいそうな、この幼い子どもの。

それなのに、子どもらしい温かさはもう、彼の体からは感じられない。そして、それは俺も同じ。分け与えることも、分け与えられることも二度と叶わない、人肌の、ぬくもり。

秋さんの社務所兼自宅の一室。目的の部屋に辿りつき、その襖を開ける。もともと客用の貸し部屋として使っていたこの部屋は、数日前からこの子の、雪の部屋になっていた。

文机と本棚くらいしかなかった無機質な部屋に、絵本やらぬいぐるみやらをかき集めて。それは、ありあわせの子ども部屋。

部屋の中央に、乱れた布団がぽつんと置き去りにされていた。少し前まで、雪が眠っていた場所。祭りの音に釣られて目を覚まし、秋さんが目を離した隙に起き出して、あの祭り会場に辿り着いたのだろうと思われた。

そこへそっと雪を横たえさせ、掛け布団をかけてやる。少しでも、あたたかくなるように。こんなに暑い夏の夜に、温もりが恋しくなる日が来るなんて、思ってもみなかった。

「雪、おやすみ」

ゆっくりと彼の瞼がおりる。溜まったままになっていた涙の雫が、彼の頬を伝って音もなく消えた。あとにはただ、すぅ、すぅと規則正しい呼吸音が、静かな部屋に満ちていくばかり。

布団の横に置かれた面を、指先でそっとなぞる。犬をモチーフに作られた、子ども用の小さなお面。

それは雪のために与えられた、この世界の住人の証。もう二度と戻れないという現実を、俺たちに突きつける、それは、まるで呪いのような。

俺は雪の隣で横になり、心地よい眠気に自身も微睡みながら、数刻前の時に思いを馳せていた。



*** ***



 俺は社務所の縁側に腰掛け、ぼぅっと夜空を眺めていた。

「彗」

呼ばれて振り向く。「スイ」の名で呼ばれることにももう慣れた。そこに立っていたのは、この神社の神主、秋さんだった。

こちらの世界に来たばかりの時、戸惑う俺を見つけ、最初に手を差し伸べてくれた人。

それからずっと、この人は俺のことを付かず離れずの距離で見守ってくれている。大切な恩人だ。

「秋さん」

「夜涼みかい?」

「はい。夜風が気持ちよくて」

「祭りには行かないの?」

今日は年に一度だけこの世界で開催される、夏祭りの日だった。俺がこの日を迎えるのは今年で二回目。昨年は秋さんに案内される形で一通り店をまわった。しかし、その時は楽しむ気分になれなかったから。“まわった”と言うよりも、“ただこの世界を知るための一環としてその場に赴いた”と言った方が、言葉としては正しいかもしれない。

「秋さんもここにいるじゃないですか」

「あはは。人混みは少し苦手でね。でも、ちょっと顔を出さないといけなくなった」

「何かあったんですか?」

「一人、迷い込んだみたいでね」

「……」

「この神社の祭りだからね。神主として、放っておく訳にもいかない」

「帰してあげるんですか?」

「いや、僕は干渉しないよ。どうするか、その道行を選ぶのは迷い人自身だ。僕はただ、それを見届ける。それだけ」

「自力で帰るのは、難しいんですよね?」

「酷いと思うかい?」

「……いえ、そういう訳じゃ」

「酷いと思っていいんだよ。実際そうなんだ」

秋さんが少し俯き、自嘲気味に笑った。その笑みはどこか痛々しくて、なぜだか見ているこちらの胸が締め付けられた。

「干渉できるのに、それをしない。それはきっと、迷い込んだ人からしたら酷い話だよ。文字通り“人生の瀬戸際”なのにね。それでも、僕はこれまでずっとそうしてきた。同じことがあった時には。そしてそれは多分、これからも変わらないんだと思う」

秋さんがここに来るまでのこと、いつからここにいて、なぜ留まり続けるのか。どうして神主として今の役回りを務めているのか。そうした一切のことを、俺は知らない。話の流れで何度か聞いてみたことはあるが、いつもはぐらかされてしまっていた。

きっと、秋さんには秋さんなりの思いがあるのだろう。ここにいる人はみんなそう。その心を知らずして、彼の行いを『酷い』の一言で表するのは、 躊躇(ためら)われた。

「……」

「彗も気になったら出ておいて。夜は長い」

袴の裾を翻し、そう言い残して秋さんは縁側を後にした。



*** ***



それから。

迷った末、俺も腰を上げ、祭りの喧騒の中へと足を向けることとなる。

まさか、そこで“彼女”の姿を見つけることになるなんて。

この時の俺は、予想だにしていなかった。
「本当は、もう君は察しがついているんじゃないかな? この世界のこと」

秋さんがじっと、私の瞳を覗き込んでくる。

「……この世界は」

私の喉はどうしてだろう、カラカラに乾ききっていた。さっきまで、普通に話していたのに。

「この世界は」

しぼり出した声は、頼りなく震えていた。





「“死後の世界”ですか?」





根拠はない。けれど、本当は頭の端にずっとあった、一つの仮説。認めたくなくて、考えないようにしていた、この世界の正体。

考えないようにしていたのは、誰かに話して、肯定されてしまったらと思うとこわかったから。それなのに。反面、早く誰かに「そうだ」と言ってもらって、諦めてしまいたいという思いも確かにあった。

だって、一人で恐怖し、怯えを胸に仕舞い込むのは想像以上につらい。それなら早々に諦めてしまう方が、よっぽど楽だ。

思いの狭間で、揺れていた。それを、見透かされた気がした。

秋さんの目が、スッと細められる。あぁ、答え合わせの時間だ。

「……惜しい〜」

「……へ?」

果たしてどんな言葉が返ってくるのか。

身構えた私に向けられたのは、張り詰めた空気にそぐわない、なんとも気の抜けた声だった。
「千晴さんは、自分が死んだと思ってる?」

「違うんですか?」

問うと、秋さんは右手を顎に当て、小首を傾げた。

「少し違う。千晴さんは今、これから死ぬか、それとも生きるか、生と死の、その境界線上に立っている存在なんだ。だから“まだ”、死んではいない」

「どういう意味ですか? 私は、この世界は結局……。どうして私はこんな所に?」

困惑する私に、秋さんは根気強く、諭すような口調で言葉を続けた。

「ここはね、生者が住まう 此岸(ひがん)と、死者が棲まう 彼岸(ひがん)、その“狭間の世界”なんだ」

「此岸と彼岸の、狭間?」

「そう。人は死んだらまずここへ来る。そしてそれぞれ、ある程度の時を過ごしたら、さっき千晴さんが言った、 所謂(いわゆる)本当の意味での“死後の世界”へと旅立つ。人の言葉で言うと、“成仏する”んだ」

「……あの、ここが私の言いたかった死後の世界とは少し違う場所だということは、分かりました。でも今、死んだらまずここに来るって仰いましたよね? だったらやっぱり私、死んでるんじゃ」

「今日、外で何が行われてたかな?」

唐突な話題の転換に、頭がついていかなくてポカンとしてしまう。

「外? え、えっと、お祭り……ですか?」

しどろもどろになりながら返した答えは、正解だったのだろうか、秋さんが満足気に頷いた。

「うん。年に一度の縁日なんだ。お祭りの日は、あの世とこの世、彼岸と此岸の世が繋がりやすくなる。そして時々いるんだ、千晴さんみたいに、此岸の世からここに迷い込んでくる人が」

彼の口から紡がれた言葉と、これまでの話を繋いで。

「此岸から……? じゃあ、私、生きてる……?」

言葉の意味を頭が理解した途端、私は一気に自分の体から力が抜けていくのを感じた。知らず、詰めていた息が、口から漏れる。

しかし、それも束の間。秋さんの一言が、再び私の身に緊張を走らせた。

「“まだ”、ね」

「え……」