林檎のコンポートが乗ったケーキに、プラスチックのフォークを刺して。私は徐に口を開いた。
「私、今日、誕生日なんだよね」
目の前の青年は林檎味らしいカップケーキを食べていた。
「え?」
「ケーキ、ありがとう」
「えっと、たまたまだけど……。何歳?」
「今日で十五」
「そっか。おめでとう。あのさ、ちなみに俺、明日誕生日なんだよね」
「なんかびっくり」と言って笑う彼に、私も尋ねる。
「何歳になるの?」
「明日で十七」
「ふぅん。じゃあもう、今日のこれは二人分まとめておめでとうってことで」
私は机いっぱいに並べられた、甘い物たちを指差す。
「誕生日パーティー?」
彼の言葉に、私はこくりと頷いた。
「林檎、好きなの?」
「あぁ、うん。外に出たら、つい買っちゃう」
「外に出たらって」
「今日の午前、外出許可貰っててさ。親に車出してもらって、店を回って買ってきたんだ」
「で、買い過ぎたんだ?」
「買える時に買わないとって、それが癖になってて。気づいたらどんどんその量が増えてるんだよね」
その言葉に、私はピンとくる。もしかして。
「入院生活、長いの?」
「うん。それなりに、かな」
「でも、ここで見かけたこと、ないけど」
「この前までは違う県の病院に入院してた。いい医者がいるって聞いて、こっちに移ってきたんだ」
「そう」
「君は?」
質問を返されて、私は小首を傾げる。
「ここ、長いの?」
「千晴でいいよ」
「え?」
「名前。千晴でいい。私もあなたと同じようなものだよ。県は移ってないけど、昔から入退院繰り返してるんだ。今回はもうすぐ一年になるかな」
「そっか」
「うん。早くこんなとこ、出たいよね」
私は窓の外に視線を向ける。彼も、同じように外を見た。手を伸ばせばすぐそこにあるのに、こんなにも、遠い、外の世界。その景色は、見慣れたこの窓に切り取られてしまっているせいだろう、色褪せて見えた。
「ねぇ」
「何?」
「俺も、名前でいいよ」
彼の声で、思考の波に呑まれそうなっていた意識が、こちらに戻る。二回、努めてはっきりと瞬きをして。ともすれば再び引っ張られそうになる仄暗い気持ちを断ち切った。
「安西彗杜さん、だっけ」
「うん」
「なんだろう。歳上だからなぁ。……じゃあ、彗にぃでいいや」
「けいにぃ?」
「彗杜お兄さん。略して彗にぃ」
「あぁ、なるほど」
「改めてよろしくね、彗にぃ」
その日から、私たちはほとんど毎日、お茶会ならぬ林檎会を開催した。もちろん、お互い病人だから食べ過ぎる訳にはいかない。彼が買い過ぎた林檎のお菓子を少しずつ消費して。それが尽きたら、時々私が病院の売店で新作の林檎スイーツを見つけて買ってきたり、ただ果物の林檎を剥いたりした。
最初は林檎会から、そしてそれは少しずつ、林檎がない日にも広がって。気づけば毎日、どちらかのベッドに集まって、話をしていた。
「本、好きなの?」
彗にぃが、私のベッドの周りに積まれた本の山を指さした。
「うん。あ、いや、どうだろう」
私は頷いたあと、やっぱりちょっと考えて、言葉を濁す。
「どうだろうって」
「うーん。確かに昔は好きで読んでたんだけど。今となっては好きだから読んでるのか、他にすることがないから本を読むしかないのか、分からなくなっちゃった」
「そんな悲しいこと言うなよ」
「あ、でも。ねぇ、これとか好きだよ」
「どこやったっけ」と言いながら私は本を漁る。
「あった」
手にしたそれは、一冊の小説。
「夏祭りを題材にした、近未来SF恋愛超大作」
「なんか……色々要素が詰め込まれてるね?」
「コメントに困ってるでしょ。ほんとに面白いんだけどな」
「じゃあそれ、貸してくれない?」
「え、読む?」
「うん、俺も結構本好きなんだよ。ここに持って来てないから、最近ご無沙汰でさ。読んでみたい」
*** ***
貸してから五日ほどで、彗にぃはその本を読み終わった。
「ありがとう」
本を差し出す彼に、私は尋ねる。
「どうだった?」
「近未来SF恋愛超大作だった」
「でしょ」
「ははっ。まぁ、それはさて置き。なんか、さ」
「うん」
「率直に、ものすごく、夏祭りに行きたくなった」
それは季節が完全な夏を迎えるには、まだ少し早い、六月のことだった。
「あぁ、分かる。私さ、実は行ったことないんだぁ、夏祭り。夏に入院してることが多くて」
「暑いと体調崩すって人、多いよね」
「ね。私たちの場合、崩すのレベルが違うけどね」
「確かに」
二人してくすくすと笑い合う。笑いがおさまると、私は一つ、息をついた。
「だからさ、夏になるといっつもこの本、読み返してた。この中の夏祭りが、私の知ってる夏祭りの全部なんだ。彗にぃは? 行ったことある?」
「夏祭りか。昔、幼い頃に何回か。最近はもうめっきり行ってないよ」
「そっか」
「行きたいな」
「うん」
「今年の夏、二人とも外出許可貰えたらさ、行こうか」
「え?」
「夏祭り。確かこの病院の近くにある神社で、地域の祭りが毎年あるって」
「あ、うん。よく知ってるね」
「さっき、この本読んでたら行きたくなったって言っただろ? それで、実はちょっと調べた」
「ふふっ。本当に行きたくなったんだね」
「嘘じゃないって」
むくれた顔をする彼に、込み上げてきた笑いはなんとか堪えた。多分、今笑ったら彗にぃは臍を曲げてしまう。いや、そんな大人気ないことはしないかもしれないけれど、そういう“振り”はしそうだから。
「分かってるって。……いいよ」
「え?」
「行こう、夏祭り。二人で」
件の夏祭りの開催は例年、八月中旬。その日が、待ち遠しくてならなかった。
けれどその年、二人で交わした約束が果たされることはなかった。
なぜなら、二人のうち一人
彗にぃが、この世を去ったからだ。
彗にぃの容態が急変したのは、あの約束から一ヶ月が経とうとしていた、ある日のこと。季節は完全な夏を迎え、その日は朝から蝉がうるさく鳴いていた。
後から聞いたことだけれど、彗にぃはこの病院に来た時点で、保って半年と余命を宣告されていたらしい。そんな事、私は一度も彗にぃの口から聞いていなかった。
また私は一人、白く、清潔なこの部屋に取り残された。目の前のベッドは、まるではじめから誰もいなかったみたいに、シワ一つ残さず整えられている。
その日から、私は、林檎が食べられなくなった。
「懐かしい響きだ」
目の前の青年が、苦笑する。
「いつから気づいていたの?」
その言葉に、私の涙腺はまた緩みかけた。目の前の彼が彗にぃだと、彼本人が認めたその一言。私は涙をぐっと堪え、口を開く。
「ついさっきだよ。でも、きっかけはもっと前。お面の下。彗にぃ、ここに、黒子があったでしょ」
「ここ」と言って、私は自分の顎のラインを指差した。
彗にぃも多分、無意識だろう、私の動きに釣られ、そこにある黒子に手を持っていく。
「これ……」
「ここに来て、私は記憶を失ってた。彗にぃも違う名前で呼ばれてたから、ピンとくることもなかった。でもさっき、秋さんからこの世界と、ここにいる人たちのこと、全部聞いたの。そうしたら、霞がかってた私の記憶が徐々に晴れた。それで彗にぃのことも、思い出して」
「そっか。聞いたんだね」
「うん」
「この世界は生者の記憶を混濁させる。ここに取り込もうとするんだろうね。それに、名前。ここでは生前とは別の名が与えられる。名前を変えないと、いつまでも此岸に魂が縛りつけられてしまうから」
「そう、なんだ……。ねぇ、名前を教えてくれなかったのって」
「 彗の名を? あれは、そうだね、千晴にはあまりその名前で呼ばれたくなかったんだ。君にとっては、ずっと彗にぃのままで、生きていた時の俺のままでいたかったから、かな」
「……そっか」
「まさかここで再び会うなんて、思ってもみなかった」
「びっくりした?」
「それはもちろん。でも、同時に嬉しいとも思ってしまった。千晴とまた話せるのが、嬉しかった。喜んだらいけないのにね。ごめん」
「謝らないでよ。私だって、今、嬉しいんだから」
だって、彗にぃは、私にとって大切な、大切な人。
苦しくて、辛くて潰れそうな夜は、私が泣き止むまで、黙って隣にいてくれた。しょうもないことで、二人して大笑いした。気づけばそうやって過ごす日々が、私にとってはもうどう仕様もなく、かけがえのないものになっていた。
「千晴、ありがとう」
「それはこっちの台詞だよ。ありがとうって言いたいことが、いっぱいあったのに」
「うん」
「余命、宣告されてたって」
「……」
「なんで言ってくれなかったの?」
私の言葉に、彗にぃはハッとしたように目を瞠り、そして俯いてしまう。長い沈黙の後、意を決したように、彼はポツリ、ポツリと言葉を紡いだ。
「いい先生がいるって聞いて、藁にもすがる思いで転院した病院でさ、余命を宣告されて」
「……」
これはきっと、初めて聞く彼の本音。
「余命宣告をされたらどんなかなって、それまでにも考えたことはあったんだ。どんな悲しみに襲われるんだろう、悔しいって思うのかな、理不尽だって怒るのかなって色んなことを考えた。でも実際、本当に言われてみたら、思い描いてた感情はどれも浮かばなくて。『あぁ、終わったんだな』って、そう思った。涙も出なかった。それからはただ無為に過ぎる毎日を見送ってた」
「うん」
「しばらくして、転院した頃は容態も安定していたから、外出許可が出た」
「私に初めて話しかけてくれた日?」
「そう。憂さ晴らしに林檎のスイーツを大量に買い込んで病室に戻って。ふと、君の姿に目がいった。なんの感慨も無さそうに窓の外を眺めてる千晴を見て、思わず声をかけていた」
「そっか」
「それから、色んなことを話したよね。あとは残りの時間を消費するだけって思ってたのに、気づいたら毎日がすごく楽しくて。千晴が笑うと俺も嬉しくなった。こんな日がずっと続けばいいのになんて、それまで未練らしい未練なんてなかったんだけどね」
「私は何にも気づかなかった……気づいてあげられなかった」
「違う、気づかれたくなかったんだ。だから何も言わなかった。だって言葉にしてしまったら、終わりが来てしまいそうで怖かったから。それにね、千晴には最期まで何も知らずに接してもらいたかった。普通のありふれた日常を、最期まで生きていたかった。千晴とのそんな毎日に、俺は救われてたから」
“だからこれで良かったんだと思う”
そう言って、彼は話を締め括った。
なんて勝手で、なんて一方的で、独りよがりな。こちらを向いた彼は笑みを浮かべていた。ねぇ、どうしてそんな悲しい顔で笑うの?
「ぜんっぜん良くない!」
私は衝動のまま、声を張り上げていた。
「良くないよ!」
「……」
ズッと音を立てて鼻を啜る。みっともない顔をしているんだろうな、と思うけれど、今はそんなことどうだってよかった。
「そんな簡単に受け入れないでよ! 格好つけないでよ! どうしてって、何でって、もっと、みっともなく足掻いてよ……」
「千晴」
「人間、そんな簡単に死ねる訳ないじゃない!」
感情が昂る。涙が溢れて、今度はもう止められそうもなかった。
「千晴、ごめん、もういい。もういいんだ」
そう言われても今更だ。こんなに感情に任せて物を言うなんていつぶりだろう。そんな私を見た彼は、困り顔を浮かべ、頬を指で軽く掻いた。
「……あーあ、千晴が俺の代わりに運命に怒鳴り散らしてくれたから、もう俺から怒ることないじゃん」
苦い顔はそのままに
「分かった。千晴にここまで言わせたんだ、白状するよ。聞いてくれる?」
そう言って、軽く両手を挙げてみせた。
「本当はさ、そんな格好いいもんじゃないよ。あの頃は、みっともない姿を見られたくなくて必死だった。俺が死んでも、千晴が俺の分まで未来を生きてくれるって自分に言い聞かせて。俺が死んだ後、千晴が未来で思い出す俺は、頼れる兄さんの姿でありたくて。でも、死ぬ前に、死ぬほど後悔した。言葉がおかしいね。でもそれが真実。今、千晴の手前『これでよかった』って言ったけど、撤回する。本当は全然よくないよね。もっと生きてたいって……死にたくないって、ずっとずっと叫びたかった」
「彗にぃ」
「あぁ、ほんと……悔しいなぁ」
彗にぃはそう言って、初めて私の前で涙を流した。面をつけていても分かる。だってそれはもう、面の下からこぼれ落ち、地面をポタポタと濡らしていたから。
次から次へと溢れる涙は、彼の中にずっとあった、これまで吐き出せなかった思い達。溜まっていたものが全部、全部押し流されていくみたいで。それは、止まる気配がなかった。
それから、彼は、子どもみたいに泣いた。
重くなってしまった空気。そして沈黙。どれくらいそれが続いたか、ふいに彗にぃがふっと息を吐き出す音が耳に届いた。
「千晴、面の下、絶対目真っ赤になってる」
何を言うのかと身構えた私に、彗にぃは小さく、しかし、戯けた調子で言葉を放った。
それから、数秒遅れてくすくすと笑う声が聞こえる。私も何だか気が抜けてしまって。
「……そっちこそ絶対真っ赤じゃない!」
「ハハハッ」
このテンポだ。こんな馬鹿みたいなやりとりを、あの頃の私たちは毎日のように繰り返していた。軽口を叩いて、最後は二人、目を合わせて。
「ふふっ」
どちらともなく笑い出す。心が、じんわりと優しい温かさに包まれていくのが分かる。二人とも、もう充分泣いた。思いの丈をぶつけて、声をあげて泣いたのだ。だから。
「千晴、ここから先、進める?」
「……うん」
もう二人とも、先に進まなければいけないのだろう。
「だいぶ真っ暗だね。それに、すごい邪気だ。嫌な空気が立ち込めてる」
言われて、私は行く手、前方を改めて見た。頬を撫でる生温い風。纏わりつくような、粘つく空気。光の見えない、真の闇が、そこにはあった。
「……嫌な感じは、私にも、分かる。でも、大丈夫」
そうは言ったが、正直、身がすくんだ。後ろ手に隠した両の掌が、小さく震える。
「怪談話の最中、半泣きになって枕投げてきたのに?」
「あれは! あんなに本格的な話をしようなんて言ってなかったのに彗にぃが……。ていうか、それ、もう昔の話でしょ。今は平気」
「ふぅん」
「絶対信じてないよね」
「うん」
間髪入れない返事に、私は思わず彼を叩きそうになっていた。
「ちょ、だめだって。触ったらだめだから」
「そっちが茶化すからでしょ」
「ごめんって。まぁ、それくらい元気なら、もう大丈夫かな」
「そっちこそ」
掌を強く握る。小さな震えは、いつの間にかおさまっていた。
「行こう」
その言葉と同時、二人で一歩を踏み出した。
暗闇の道中、得体の知れない黒い何かが、私たちに近づいてきた。互いを庇うように歩きながら、秋さんがくれたお守りを翳すと、それは弾かれ消えていった。
耳元で聞こえる「おいで」の声は、彗にぃと私が互いを呼ぶ声で掻き消した。
そうしたことを繰り返し、繰り返し。歩くこと、数分。目の前に、大きな赤い鳥居が見えた。
「走ろう」
彗にぃの声と共に、私は駆けた。そして鳥居を、くぐる。
*** ***
「はぁ……はぁ……」
久々に全力で走った私は、肩で大きく息をしていた。そもそも心臓が悪かったから、久々というよりまともに走ったことがない。
「私、大丈夫なのかな、走っちゃったけど……」
「それは大丈夫。今、千晴の本体はここにはないから。息があがっているのも、肉体の記憶を魂が再現しているだけなんだ。その証拠に、ほら、俺はもうその記憶が薄れているから、同じように走っても息があがっていない」
「便利な体……って言えばいいの……?」
「どうだろう」
私の言葉に、彗にぃが少し困ったように笑った。それから気を取り直したように、彼は視線を私から、鳥居の更に先へと向ける。
「千晴、見て。ついたよ」
そこには長い階段があった。下方へと続く、石畳の階段。
「ここを降りれば、秋さんの言う、出口だ」
私は同じようにそこを見下ろす。果ては、暗闇に呑まれて見えなかった。
「振り返らず、真っ直ぐ、前だけを見て降りるんだ」
「……分かった」
私は膝についていた手を離し、真っ直ぐに立つ。そうして彗にぃと向かいあった。彗にぃも私を真っ直ぐに見つめ返す。私より先に、彗にぃが口を開いた。
「最後にさ、一つ、謝りたいことがあったんだ」
「何?」
「約束、守れなくてごめん」
彗にぃの言った“約束”。それは、紛れもなく、「夏祭りに行こう」とあの日、二人で交わした約束のことだろう。
その時、ドォンと、地面をも震わす大きな音が聞こえてきた。二人して音のした場所、頭上を見上げる。そこには、大輪の花が咲いていた。
それは、夜空に打ち上げられた、花火。
「……守れたね、約束」
「え……?」
「ほら」
私は指で、次々と打ち上げられる花火を指差した。
「夏祭り、やっと来れたね」
静かな夜を、花火が照らす。心を揺らす、音が響く。眩いばかりの、光が輝く。
「ねぇ、一つだけ、お願い聞いて?」
「何?」
「お面、外して」
「……分かった」
彗にぃは頷き、そっと狐の面に手をかけた。紐がするりと解かれて、現れたのは懐かしい、面影。安西彗杜、その人だった。
「これはさ、ここの住人が、此岸への思いを断ち切るためにつける面なんだ。互いの顔を、人間の顔を見ないように。これを外したの、一年ぶりくらいかな」
私も兎の面に手をかける。紐をそっと、優しく解いた。
「彗にぃ」
「それ、その面はもう千晴には必要ない。俺が預かるよ」
「うん」
「また会えたね」
「うん」
「本当はずっと、会いたかった」
彗にぃの目から、止まったはずの涙が再び溢れる。静かに頬を伝う透明なそれを、今度はちゃんと見ることができた。
「私だって……。ずっと、ずっと、会いたかった」
私も同じ。今日は泣いてばかりだ。
本当は、今すぐ彗にぃの涙をこの手で拭いたかった。抱きしめたかった。けれど、それは叶わない。触れては、いけないのだ。だから、代わりに、ありったけの言葉で。
「彗にぃ」
「何?」
「本当は沢山あったありがとうも、喧嘩した後のごめんなさいも、あの頃の私は言いたかったこと、素直に口にできなかった。ずっと後悔してたんだ。……だから今度は、ちゃんと言うよ」
「うん」
「彗にぃ、聞いて」
「うん、聞いてる。ちゃんと聞いてるよ」
彼の言葉に、私は安心して。
「大好き」
そう言って、めい一杯、笑った。上手く笑えたかは分からないけれど、それでも。それが、今の私にできる、唯一のこと。彗にぃが僅かに目を見開く。その瞳から、涙の最後の一粒が溢れて。
くしゃり、と、彼も笑った。
「俺も大好きだよ」
*** ***
涙がおさまると、雰囲気に任せて「大好き」なんて言ったことが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。それは彗にぃも同じようで、なんだか二人、妙な空気になってしまう。
「……じゃあ、私、そろそろ行くね?」
「あ、うん。じゃあ、また」
「いや、また会ったらまずいでしょ」
「え? あ、そうか。だめだね。そうだった。俺、死んでるんだった」
「ちょっと言い方……」
そう言って、二人で目が合ってから、吹き出すまでがワンセット。やっぱり、私たちはこうでなければ。
「本当に、もう行きな」
気づけばもう、花火の音も消えていた。私たちが二人で過ごす、最初で最後の夏祭り。それが今、終わりを迎えようとしていた。
「さよならだね」
「うん。さよならだ」
「私、あの夏祭り、絶対行くから。二人で行こうって約束した、あの場所に」
「新しい約束?」
「うん。私たちの新しい約束」
そう言って、今度こそ私は彼に背を向けた。
「元気で」
彗にぃの声を後ろに聞きながら、私は目の前の階段へ、静かに足を踏み出した。
ふわりと意識が浮上する。私は、病院のベッドの上に横たわっていた。
視界に映る、見慣れた白い天井。ピッピッと規則正しくリズムを刻むのは、心電図モニターの音だろうか。
夢を、見ていた気がする。長い、長い、夢を。
夢の中、私は何をしていたんだっけ。なんだかぼんやりする頭で、少しずつ記憶を辿る。
階段。確か、私は階段を降りていた。段々と周りが暗くなって、こわくて振り返りたくなって。でも、振り返ってはいけないと言われたから。
言われた。誰に?
言いつけを守って、最後の一段。やっと地面に足がついたと思ったら、急に視界がぐにゃりと歪んで。暗転。そこからの記憶は、ない。今、目覚めたら私はここにいた。
「千晴? 千晴!」
突然、名前を呼ばれ、まだ寝ぼけていた頭が少しだけ覚醒する。
「千晴、目が覚めたんだな!」
声がする方に首をそっと向ける。そこには、両親と、白衣の男性の姿があった。
「千晴さん、分かりますか? ちょっと眩しくなりますよ」
白衣の男性は、よく見るといつもお世話になっている私の主治医の先生だった。ヒョロヒョロした体躯がなんだか今にも折れてしまいそうで、実はいつも心配している。
先生が、胸ポケットに入れていたペンライトのようなものを、私の目に翳す。言われた通り、その光は寝起きの目にはかなり眩しい。
「よく頑張りましたね」
そう言った彼が、私の頭を優しく撫でた。
「お父さん、お母さん。手術は昨夜お伝えした通り、無事に終了しています。今、意識も戻りました。これで峠は越えましたよ。もう大丈夫です」
「先生、本当に、ありがとうございました」
母が泣き崩れる。そんな母の肩を支えながら、父はしきりに先生に向かって頭を下げていた。
先生が言っていた昨夜の手術。そう、私は昨日の朝から、約十時間に及ぶ大きな手術を受けた。成功率は半々。このまま目覚めない可能性もあるという説明を受け、それでもこの心臓が完治する未来に賭けた。手術が終わった後、そのまま眠り続けた私は、翌日の夕方になってようやく意識を取り戻したのだ。
目覚めてからは少し 忙しなかった。看護師さんや他の先生たちが、順番に私の容態をチェックしたり、点滴をかえたりと、入れ替わり立ち替わり病室にやってきたから。
それがひと段落すると両親も、「家から着替えを取ってまた戻る」と言い残し、そうして一度、病室を後にした。
誰もいなくなり、静かになった病室で。私はようやく一人、ゆっくり考えに耽ることを許された。思い出しかけていた夢の続き。私は目を閉じ、意識を集中させる。すると掌に触れる、何やら柔らかい感触に気がついた。右手をそっと持ち上げる。
私は、ずっと何かを握りしめていた。
ゆっくりと手を開く。
そこに握られていたのは、赤い、お守り。
「あっ……」
それを目にした瞬間、バラバラになっていた記憶のパーツが瞬く間にはまっていった。夢、違う。夢なんかじゃない。これは、確かにあった、私の記憶。
此岸と彼岸の狭間の世界と、そこで出会った様々な人たち。秋さん、それから、彗にぃ。
彗にぃがこの部屋からいなくなって、約一年の月日が経っていた。
全てを思い出した。途端に、私の目から涙が溢れる。
「彗にぃ」
再び出会い、そして別れた、大切な人。
頬を伝う涙を拭おうと、腕を持ち上げる。手術を終えたばかりの体は、重く、そんな些細な動きさえ、今は億劫になる。
重くて、重くて。
でも、きっと、これが命の重みなのだろう。
「私、帰ってきたんだね」
帰ってきた。この世界で、私は再び目を覚ました。だから、ここで、もう一度生きていく。救われたこの命を、大事に抱えて。
腕にぐいっと力を入れて、涙を拭った。それからゆっくりと、窓の外に視線を向ける。そこにあるのは、見慣れた景色。そのはずなのに。
瞳に映るそれは、驚くほどの色彩を帯びていた。
風が頬をくすぐる感触に、閉じていた瞼をそっと持ち上げる。
瞳に映る景色が、過去の記憶を揺蕩っていた私を、急速に現在に引き戻した。
今年で訪れるのはもう三度目になる、地域の神社の夏祭り。
唐突に、ドォンと遠く、響き渡った一つの音。その一つを皮切りに、次々と生まれ、広がっていく、体の芯をも震わすような、音と光のハーモニー。
「ねぇ、今年も来たよ」
一人、見上げた空には大輪の花。
「綺麗……」
呟いたその声は
花咲く夏の夜空の中に
混ざって、
溶けて、
そうして消えた。
私は手にした赤い林檎飴を、一口齧る。
「甘い……」
その甘さに、思わず苦笑した。ここの林檎飴は毎年甘い。元来甘党という訳ではない私には、少々甘すぎるくらいだ。けれど、その甘さも存外悪くないと思うようになったのは
「彗にぃのせいだよ」
口を尖らせ、夜空を見上げる。なんだか可笑しくなってきて、耐えきれなかった笑いがくすりと漏れた。
艶々と光る林檎飴。その甘さに惹かれ、私はまた一口、目の前の赤に噛み付いた。
完