「懐かしい響きだ」
目の前の青年が、苦笑する。
「いつから気づいていたの?」
その言葉に、私の涙腺はまた緩みかけた。目の前の彼が彗にぃだと、彼本人が認めたその一言。私は涙をぐっと堪え、口を開く。
「ついさっきだよ。でも、きっかけはもっと前。お面の下。彗にぃ、ここに、黒子があったでしょ」
「ここ」と言って、私は自分の顎のラインを指差した。
彗にぃも多分、無意識だろう、私の動きに釣られ、そこにある黒子に手を持っていく。
「これ……」
「ここに来て、私は記憶を失ってた。彗にぃも違う名前で呼ばれてたから、ピンとくることもなかった。でもさっき、秋さんからこの世界と、ここにいる人たちのこと、全部聞いたの。そうしたら、霞がかってた私の記憶が徐々に晴れた。それで彗にぃのことも、思い出して」
「そっか。聞いたんだね」
「うん」
「この世界は生者の記憶を混濁させる。ここに取り込もうとするんだろうね。それに、名前。ここでは生前とは別の名が与えられる。名前を変えないと、いつまでも此岸に魂が縛りつけられてしまうから」
「そう、なんだ……。ねぇ、名前を教えてくれなかったのって」
「 彗の名を? あれは、そうだね、千晴にはあまりその名前で呼ばれたくなかったんだ。君にとっては、ずっと彗にぃのままで、生きていた時の俺のままでいたかったから、かな」
「……そっか」
「まさかここで再び会うなんて、思ってもみなかった」
「びっくりした?」
「それはもちろん。でも、同時に嬉しいとも思ってしまった。千晴とまた話せるのが、嬉しかった。喜んだらいけないのにね。ごめん」
「謝らないでよ。私だって、今、嬉しいんだから」
だって、彗にぃは、私にとって大切な、大切な人。
苦しくて、辛くて潰れそうな夜は、私が泣き止むまで、黙って隣にいてくれた。しょうもないことで、二人して大笑いした。気づけばそうやって過ごす日々が、私にとってはもうどう仕様もなく、かけがえのないものになっていた。
「千晴、ありがとう」
「それはこっちの台詞だよ。ありがとうって言いたいことが、いっぱいあったのに」
「うん」
「余命、宣告されてたって」
「……」
「なんで言ってくれなかったの?」
私の言葉に、彗にぃはハッとしたように目を瞠り、そして俯いてしまう。長い沈黙の後、意を決したように、彼はポツリ、ポツリと言葉を紡いだ。
「いい先生がいるって聞いて、藁にもすがる思いで転院した病院でさ、余命を宣告されて」
「……」
これはきっと、初めて聞く彼の本音。
「余命宣告をされたらどんなかなって、それまでにも考えたことはあったんだ。どんな悲しみに襲われるんだろう、悔しいって思うのかな、理不尽だって怒るのかなって色んなことを考えた。でも実際、本当に言われてみたら、思い描いてた感情はどれも浮かばなくて。『あぁ、終わったんだな』って、そう思った。涙も出なかった。それからはただ無為に過ぎる毎日を見送ってた」
「うん」
「しばらくして、転院した頃は容態も安定していたから、外出許可が出た」
「私に初めて話しかけてくれた日?」
「そう。憂さ晴らしに林檎のスイーツを大量に買い込んで病室に戻って。ふと、君の姿に目がいった。なんの感慨も無さそうに窓の外を眺めてる千晴を見て、思わず声をかけていた」
「そっか」
「それから、色んなことを話したよね。あとは残りの時間を消費するだけって思ってたのに、気づいたら毎日がすごく楽しくて。千晴が笑うと俺も嬉しくなった。こんな日がずっと続けばいいのになんて、それまで未練らしい未練なんてなかったんだけどね」
「私は何にも気づかなかった……気づいてあげられなかった」
「違う、気づかれたくなかったんだ。だから何も言わなかった。だって言葉にしてしまったら、終わりが来てしまいそうで怖かったから。それにね、千晴には最期まで何も知らずに接してもらいたかった。普通のありふれた日常を、最期まで生きていたかった。千晴とのそんな毎日に、俺は救われてたから」
“だからこれで良かったんだと思う”
そう言って、彼は話を締め括った。
なんて勝手で、なんて一方的で、独りよがりな。こちらを向いた彼は笑みを浮かべていた。ねぇ、どうしてそんな悲しい顔で笑うの?
「ぜんっぜん良くない!」
私は衝動のまま、声を張り上げていた。
「良くないよ!」
「……」
ズッと音を立てて鼻を啜る。みっともない顔をしているんだろうな、と思うけれど、今はそんなことどうだってよかった。
「そんな簡単に受け入れないでよ! 格好つけないでよ! どうしてって、何でって、もっと、みっともなく足掻いてよ……」
「千晴」
「人間、そんな簡単に死ねる訳ないじゃない!」
感情が昂る。涙が溢れて、今度はもう止められそうもなかった。
「千晴、ごめん、もういい。もういいんだ」
そう言われても今更だ。こんなに感情に任せて物を言うなんていつぶりだろう。そんな私を見た彼は、困り顔を浮かべ、頬を指で軽く掻いた。
「……あーあ、千晴が俺の代わりに運命に怒鳴り散らしてくれたから、もう俺から怒ることないじゃん」
苦い顔はそのままに
「分かった。千晴にここまで言わせたんだ、白状するよ。聞いてくれる?」
そう言って、軽く両手を挙げてみせた。
「本当はさ、そんな格好いいもんじゃないよ。あの頃は、みっともない姿を見られたくなくて必死だった。俺が死んでも、千晴が俺の分まで未来を生きてくれるって自分に言い聞かせて。俺が死んだ後、千晴が未来で思い出す俺は、頼れる兄さんの姿でありたくて。でも、死ぬ前に、死ぬほど後悔した。言葉がおかしいね。でもそれが真実。今、千晴の手前『これでよかった』って言ったけど、撤回する。本当は全然よくないよね。もっと生きてたいって……死にたくないって、ずっとずっと叫びたかった」
「彗にぃ」
「あぁ、ほんと……悔しいなぁ」
彗にぃはそう言って、初めて私の前で涙を流した。面をつけていても分かる。だってそれはもう、面の下からこぼれ落ち、地面をポタポタと濡らしていたから。
次から次へと溢れる涙は、彼の中にずっとあった、これまで吐き出せなかった思い達。溜まっていたものが全部、全部押し流されていくみたいで。それは、止まる気配がなかった。
それから、彼は、子どもみたいに泣いた。
重くなってしまった空気。そして沈黙。どれくらいそれが続いたか、ふいに彗にぃがふっと息を吐き出す音が耳に届いた。
「千晴、面の下、絶対目真っ赤になってる」
何を言うのかと身構えた私に、彗にぃは小さく、しかし、戯けた調子で言葉を放った。
それから、数秒遅れてくすくすと笑う声が聞こえる。私も何だか気が抜けてしまって。
「……そっちこそ絶対真っ赤じゃない!」
「ハハハッ」
このテンポだ。こんな馬鹿みたいなやりとりを、あの頃の私たちは毎日のように繰り返していた。軽口を叩いて、最後は二人、目を合わせて。
「ふふっ」
どちらともなく笑い出す。心が、じんわりと優しい温かさに包まれていくのが分かる。二人とも、もう充分泣いた。思いの丈をぶつけて、声をあげて泣いたのだ。だから。
「千晴、ここから先、進める?」
「……うん」
もう二人とも、先に進まなければいけないのだろう。
「だいぶ真っ暗だね。それに、すごい邪気だ。嫌な空気が立ち込めてる」
言われて、私は行く手、前方を改めて見た。頬を撫でる生温い風。纏わりつくような、粘つく空気。光の見えない、真の闇が、そこにはあった。
「……嫌な感じは、私にも、分かる。でも、大丈夫」
そうは言ったが、正直、身がすくんだ。後ろ手に隠した両の掌が、小さく震える。
「怪談話の最中、半泣きになって枕投げてきたのに?」
「あれは! あんなに本格的な話をしようなんて言ってなかったのに彗にぃが……。ていうか、それ、もう昔の話でしょ。今は平気」
「ふぅん」
「絶対信じてないよね」
「うん」
間髪入れない返事に、私は思わず彼を叩きそうになっていた。
「ちょ、だめだって。触ったらだめだから」
「そっちが茶化すからでしょ」
「ごめんって。まぁ、それくらい元気なら、もう大丈夫かな」
「そっちこそ」
掌を強く握る。小さな震えは、いつの間にかおさまっていた。
「行こう」
その言葉と同時、二人で一歩を踏み出した。
目の前の青年が、苦笑する。
「いつから気づいていたの?」
その言葉に、私の涙腺はまた緩みかけた。目の前の彼が彗にぃだと、彼本人が認めたその一言。私は涙をぐっと堪え、口を開く。
「ついさっきだよ。でも、きっかけはもっと前。お面の下。彗にぃ、ここに、黒子があったでしょ」
「ここ」と言って、私は自分の顎のラインを指差した。
彗にぃも多分、無意識だろう、私の動きに釣られ、そこにある黒子に手を持っていく。
「これ……」
「ここに来て、私は記憶を失ってた。彗にぃも違う名前で呼ばれてたから、ピンとくることもなかった。でもさっき、秋さんからこの世界と、ここにいる人たちのこと、全部聞いたの。そうしたら、霞がかってた私の記憶が徐々に晴れた。それで彗にぃのことも、思い出して」
「そっか。聞いたんだね」
「うん」
「この世界は生者の記憶を混濁させる。ここに取り込もうとするんだろうね。それに、名前。ここでは生前とは別の名が与えられる。名前を変えないと、いつまでも此岸に魂が縛りつけられてしまうから」
「そう、なんだ……。ねぇ、名前を教えてくれなかったのって」
「 彗の名を? あれは、そうだね、千晴にはあまりその名前で呼ばれたくなかったんだ。君にとっては、ずっと彗にぃのままで、生きていた時の俺のままでいたかったから、かな」
「……そっか」
「まさかここで再び会うなんて、思ってもみなかった」
「びっくりした?」
「それはもちろん。でも、同時に嬉しいとも思ってしまった。千晴とまた話せるのが、嬉しかった。喜んだらいけないのにね。ごめん」
「謝らないでよ。私だって、今、嬉しいんだから」
だって、彗にぃは、私にとって大切な、大切な人。
苦しくて、辛くて潰れそうな夜は、私が泣き止むまで、黙って隣にいてくれた。しょうもないことで、二人して大笑いした。気づけばそうやって過ごす日々が、私にとってはもうどう仕様もなく、かけがえのないものになっていた。
「千晴、ありがとう」
「それはこっちの台詞だよ。ありがとうって言いたいことが、いっぱいあったのに」
「うん」
「余命、宣告されてたって」
「……」
「なんで言ってくれなかったの?」
私の言葉に、彗にぃはハッとしたように目を瞠り、そして俯いてしまう。長い沈黙の後、意を決したように、彼はポツリ、ポツリと言葉を紡いだ。
「いい先生がいるって聞いて、藁にもすがる思いで転院した病院でさ、余命を宣告されて」
「……」
これはきっと、初めて聞く彼の本音。
「余命宣告をされたらどんなかなって、それまでにも考えたことはあったんだ。どんな悲しみに襲われるんだろう、悔しいって思うのかな、理不尽だって怒るのかなって色んなことを考えた。でも実際、本当に言われてみたら、思い描いてた感情はどれも浮かばなくて。『あぁ、終わったんだな』って、そう思った。涙も出なかった。それからはただ無為に過ぎる毎日を見送ってた」
「うん」
「しばらくして、転院した頃は容態も安定していたから、外出許可が出た」
「私に初めて話しかけてくれた日?」
「そう。憂さ晴らしに林檎のスイーツを大量に買い込んで病室に戻って。ふと、君の姿に目がいった。なんの感慨も無さそうに窓の外を眺めてる千晴を見て、思わず声をかけていた」
「そっか」
「それから、色んなことを話したよね。あとは残りの時間を消費するだけって思ってたのに、気づいたら毎日がすごく楽しくて。千晴が笑うと俺も嬉しくなった。こんな日がずっと続けばいいのになんて、それまで未練らしい未練なんてなかったんだけどね」
「私は何にも気づかなかった……気づいてあげられなかった」
「違う、気づかれたくなかったんだ。だから何も言わなかった。だって言葉にしてしまったら、終わりが来てしまいそうで怖かったから。それにね、千晴には最期まで何も知らずに接してもらいたかった。普通のありふれた日常を、最期まで生きていたかった。千晴とのそんな毎日に、俺は救われてたから」
“だからこれで良かったんだと思う”
そう言って、彼は話を締め括った。
なんて勝手で、なんて一方的で、独りよがりな。こちらを向いた彼は笑みを浮かべていた。ねぇ、どうしてそんな悲しい顔で笑うの?
「ぜんっぜん良くない!」
私は衝動のまま、声を張り上げていた。
「良くないよ!」
「……」
ズッと音を立てて鼻を啜る。みっともない顔をしているんだろうな、と思うけれど、今はそんなことどうだってよかった。
「そんな簡単に受け入れないでよ! 格好つけないでよ! どうしてって、何でって、もっと、みっともなく足掻いてよ……」
「千晴」
「人間、そんな簡単に死ねる訳ないじゃない!」
感情が昂る。涙が溢れて、今度はもう止められそうもなかった。
「千晴、ごめん、もういい。もういいんだ」
そう言われても今更だ。こんなに感情に任せて物を言うなんていつぶりだろう。そんな私を見た彼は、困り顔を浮かべ、頬を指で軽く掻いた。
「……あーあ、千晴が俺の代わりに運命に怒鳴り散らしてくれたから、もう俺から怒ることないじゃん」
苦い顔はそのままに
「分かった。千晴にここまで言わせたんだ、白状するよ。聞いてくれる?」
そう言って、軽く両手を挙げてみせた。
「本当はさ、そんな格好いいもんじゃないよ。あの頃は、みっともない姿を見られたくなくて必死だった。俺が死んでも、千晴が俺の分まで未来を生きてくれるって自分に言い聞かせて。俺が死んだ後、千晴が未来で思い出す俺は、頼れる兄さんの姿でありたくて。でも、死ぬ前に、死ぬほど後悔した。言葉がおかしいね。でもそれが真実。今、千晴の手前『これでよかった』って言ったけど、撤回する。本当は全然よくないよね。もっと生きてたいって……死にたくないって、ずっとずっと叫びたかった」
「彗にぃ」
「あぁ、ほんと……悔しいなぁ」
彗にぃはそう言って、初めて私の前で涙を流した。面をつけていても分かる。だってそれはもう、面の下からこぼれ落ち、地面をポタポタと濡らしていたから。
次から次へと溢れる涙は、彼の中にずっとあった、これまで吐き出せなかった思い達。溜まっていたものが全部、全部押し流されていくみたいで。それは、止まる気配がなかった。
それから、彼は、子どもみたいに泣いた。
重くなってしまった空気。そして沈黙。どれくらいそれが続いたか、ふいに彗にぃがふっと息を吐き出す音が耳に届いた。
「千晴、面の下、絶対目真っ赤になってる」
何を言うのかと身構えた私に、彗にぃは小さく、しかし、戯けた調子で言葉を放った。
それから、数秒遅れてくすくすと笑う声が聞こえる。私も何だか気が抜けてしまって。
「……そっちこそ絶対真っ赤じゃない!」
「ハハハッ」
このテンポだ。こんな馬鹿みたいなやりとりを、あの頃の私たちは毎日のように繰り返していた。軽口を叩いて、最後は二人、目を合わせて。
「ふふっ」
どちらともなく笑い出す。心が、じんわりと優しい温かさに包まれていくのが分かる。二人とも、もう充分泣いた。思いの丈をぶつけて、声をあげて泣いたのだ。だから。
「千晴、ここから先、進める?」
「……うん」
もう二人とも、先に進まなければいけないのだろう。
「だいぶ真っ暗だね。それに、すごい邪気だ。嫌な空気が立ち込めてる」
言われて、私は行く手、前方を改めて見た。頬を撫でる生温い風。纏わりつくような、粘つく空気。光の見えない、真の闇が、そこにはあった。
「……嫌な感じは、私にも、分かる。でも、大丈夫」
そうは言ったが、正直、身がすくんだ。後ろ手に隠した両の掌が、小さく震える。
「怪談話の最中、半泣きになって枕投げてきたのに?」
「あれは! あんなに本格的な話をしようなんて言ってなかったのに彗にぃが……。ていうか、それ、もう昔の話でしょ。今は平気」
「ふぅん」
「絶対信じてないよね」
「うん」
間髪入れない返事に、私は思わず彼を叩きそうになっていた。
「ちょ、だめだって。触ったらだめだから」
「そっちが茶化すからでしょ」
「ごめんって。まぁ、それくらい元気なら、もう大丈夫かな」
「そっちこそ」
掌を強く握る。小さな震えは、いつの間にかおさまっていた。
「行こう」
その言葉と同時、二人で一歩を踏み出した。