彼とのやり取りは、恋心を自覚してから以前のように気軽に出来なくなっていた。もっとアタックするなり、たくさん話したくなったりするものかと思いきや、変なことを言ったりして嫌われたくない、絡み過ぎてうざがられたらどうしよう、なんて殊勝な感性があったことに、我ながら驚く。
何しろ相手は画面の向こうの存在なのだ。幾ら見た目を取り繕おうと、幾ら仕草を可愛く見せようと意味がない。交わす言葉と載せられる写真だけが、二人を繋ぐものだった。
だから返信はおかしなところがないかと何度も読み返したし、送るタイミングも考えるようになった。そして必然的に、一つ返すのに以前よりも随分時間をかけるようになっていった。
『サクラって、好きなものある?』
そんなある日、眠る前のやり取りの中で、不意に彼から質問され心臓が跳ねる。
サクラはわたしのSNSでのハンドルネームだ。そうやって名前を呼ばれるのも珍しい。そして何より、わたし自身に興味を持ってくれたことや、話題を振って会話しようとしてくれたことが嬉しくて堪らない。つい反射的にいいねを押してしまい、慌てて返事を考える。
「え……好きなもの? これ……『蓮だよ』とか言うとあれかな……?」
好きなものは、たくさんあるはずだった。美味しいスイーツ、可愛い小物、新作の洋服、キラキラのアクセサリー、好きなアイドル歌手の曲。
けれど近頃目を惹くのは、ジルコニアの煌めきよりも月明かりの柔らかな光で、純白のレースよりも高い空に流れる雲なのだ。
「……やっぱり、蓮が好き」
わたしは自分の世界にどうしようもなく広がる彼の存在を自覚して、抑えきれずについ、『蓮』とだけ返事をした。それは可愛げも何もない、シンプルな告白だった。
「い……言っちゃった……」
その後の返答が気になって、心臓がばくばくと煩くて落ち着かない。眠気なんて既に飛んでいってしまい、布団の中でごろごろと何度も寝返りを打つ。暗がりで何度もスクロールして、返事を待った。
そして、しばらくして表示された彼からの返信。冒頭の『俺も』という言葉に歓喜したのも束の間、続く文章に思わずベッドに突っ伏した。
『俺も、蓮の花は好きだ。だからアイコンにしてる』
「そっちかー……!」
なるほど確かに、蓮の花だ。けれどこの場合、蓮は蓮だろう。
さすがに改めて告白するだけの勇気は持ち合わせておらず、わたしは脱力しながら返事を打ち込む。
『お花、いいよね、綺麗で好き』
『そうだな。桜の花も、好きだ』
「……!」
蓮にとって、わたしはサクラだ。桜花という本名を知られている訳じゃない。それでも、彼の指先でわたしの名前の文字が打たれたことに、再び鼓動が跳ねた。
「えー……これだけで嬉しいとか、どんだけ……」
思わずスマホを抱いて、布団の中で丸くなる。自然と口許が緩み、この感覚を閉じ込めておきたいような今すぐ叫び出したいような、不思議な高揚感が身体一杯に広がった。
しばらく噛み締めてから、どうしても我慢出来ずにまつりにメッセージでも送ろうかと思った矢先、スクロールしたタイムラインにちょうどまつりの投稿を見付けた。
『骨折って入院しました、ぴえん』
「……えっ!?」
ぴえんとか絵文字を付けつつも、病室からの夜景を投稿している辺り彼女もぶれない。
しかし骨折なんて大事だ。突然の情報にわたしは先程までの高揚も忘れ、慌てて彼女に連絡しようとして、不意にその手を止めた。
「……あれ?」
まつりの投稿した夜景の写真。よく見るとその見切れた窓枠が、いつも蓮が載せている写真に酷似していた。
思わず保存して、拡大して見比べる。窓なんてどれも四角いし、大して違いもないはずだ。そう思うのに、見れば見る程、形も壁や窓枠の色もそっくりだった。
わたしは少し考えて、まつりへとメッセージを送る。
『まつり、入院って大丈夫!? 明日放課後お見舞いに行くよ。どこの病院?』
『わーん、部活の試合前に骨折とかまじぴえん。美空総合病院の三階だよ~、お見舞いはスターミュージアムさんの星空プリンがいいな! あのめちゃくちゃ映えるやつ!』
『わかった、お大事にね!』
ちゃっかり見た目重視のお見舞いリクエストまでしてくる辺り、元気そうで何よりだ。
「美空総合病院……」
まつりが心配なのも、お見舞いに行きたいのも勿論本心だった。けれど、どうしても気になり聞き出した病院の位置と、以前まつりが話していた青い建物の位置を調べて、確信する。
蓮は、この病院に居るかもしれない。
*****
翌朝、蓮からのメッセージに返事をしていなかったことを思い出し、朝の挨拶がてら声を掛けようとして、ふと見慣れない色味が視界に入りその指が止まる。
空ばかり映していた彼のメディア欄に、ぽつんと、色鮮やかな花の写真が投稿されていたのだ。
『綺麗で好き』
「……」
空よりも深い青や紫の小さな花。たくさん咲いたその写真に添えられた一言は、わたしが昨日彼に告げた言葉そのままだった。明らかに、わたしの影響を受けている。
蓮がわたしの生活に溶け込んでいたように、蓮の世界にもわたしが在るのだと、たった一枚の写真と短い文章で精一杯伝えてくれているようで、胸がきゅうっと締め付けられた。
このドキドキがバレてしまわないようにと、文字なのだから伝わる訳がないとわかりつつも、必死にいつも通りを心掛けてメッセージを送る。
『おはよう。綺麗だね! これ、なんて花?』
『おはよう。確かアガパンサス、って聞いた』
返事はすぐに来た。聞き慣れない名前に早速検索をかけると、彼の載せていた物と同じ青や紫や白の小さな花の写真がたくさん表示された。
調べれば簡単に色んな情報が手に入るなんて、本当に便利な時代だ。そんな軽いノリで調べたのだが、ある項目で今度こそ手の動きが完全に止まる。
『アガパンサスの花言葉は「恋の訪れ」「愛の訪れ」』
「!?」
わからない……彼がこの意味を知っているのか。知っていて写真をわたしにわかるように載せたのか。
男の子は、花言葉なんて詳しくないだろう。けれど花の名前を誰かに聞いたということは、調べたとしてもおかしくない。いや、そもそもこんな朝早くに花の名前なんて誰に聞いたのか。
身体は完全に朝の支度を放棄して固まるのに、頭の中はぐるぐると色んな考えが巡る。
結局答えが出ないまま、今朝は遅刻ぎりぎりで登校したのだった。
*****
思わず保存した花の画像を待ち受けにして、わたしは授業中にも机からこっそりと出してはそれを眺める。
彼がもし美空総合病院に居るとして、まつりのように怪我でもしているのだろうか。それとも、年若いお医者さんや看護師さんだったりするのだろうか。研修医という可能性だってある。
色んな想像を巡らせては、画面越しではない本物の蓮について考える。もし万が一会えたとして、わたしは彼の目にどう映るのか。そもそも彼は、現実のわたしに興味を持ってくれているのだろうか。会う約束もしていないし、そもそも会うなんて話もしたことがない。憶測だけで、本当にそこに居るのかすらわからない。
それでも、もしもの空想は止まらなかった。もしも会えたら、もしも直接気持ちを伝えられたら、もしも彼がわたしを好きになってくれたら。恋がここまで身勝手なものだと、彼と出会うまで知らなかった。
まつりに見せるためのノートは取ったものの、授業の内容はあまり頭に入ってこなかった。
放課後になり、駅から少し離れたまつり指定のスターミュージアムという喫茶店まで足を運べば、ショーケースの中キラキラと輝くスイーツ達に目を奪われた。
その店では名前の通り、星や月をモチーフにしたスイーツやドリンクが売られていて、どれもとても可愛らしい。蓮のお陰で夜空も好きになれた今、それらはとても素敵なものとして目に映る。
その中から星空をモチーフにした青いプリンを二つ、テイクアウトすることにした。
「星空プリンお持ち帰りですね、保冷剤はお付けしますか?」
「あ、すぐそこの病院なんで大丈夫です」
「あら、お見舞いですか?」
「はい、友達が骨折しちゃって」
「それは大変……!」
店員の可愛らしいお姉さんは、プリンがお見舞い用だと聞くと辺りを見回して、こんぺい糖入りの桜色のリボンが結ばれた小瓶を一つ手に取って、一緒にショッパーに入れてくれた。
「えっ、いいんですか?」
「ふふ、こっそりサービスしちゃいますね。お友達さんが退院したら、二人でまた食べに来てくれたら嬉しいです」
「はい、もちろん! ありがとうございます」
お姉さんの温かさに触れて、ずっと落ち着かなかった心が少しだけ穏やかになるのを感じた。
店を出て少し歩き、先程のこんぺい糖を取り出す。陽が段々と長くなり、夕方とはいえまだ青みの残る空へとそれを翳せば、小瓶の中で音を立てる甘い星屑がフライングして空に登ったようで可愛らしい。
わたしはその光景を写真に撮り、SNSに載せた。そして小瓶をカーディガンのポケットに入れて、目的地まで向かう。歩く度に小さな音が響き、それが何だか楽しかった。
*****
「まつりー、大丈夫? 骨折だって?」
「あ、桜花! 来てくれてありがとう! えへへ、余所見してたら盛大に転けちゃった……で、運悪く尖った石がそこに……」
「えっ、こわっ……ていうか危ない……!」
白いベッドの上のまつりは、足を頑丈そうなギプスで固定されていた。それでもその表情は元気そのもので、何なら寝ているにも関わらずヘアメイクも完璧だ。
慣れない入院に退屈していたのだろう、わたしを嬉しそうに出迎えてくれた。
四人部屋の窓際のベッド。パイプ椅子を用意する際ちらりと横目に見た窓枠は、やはり蓮の写真と似ている気がした。
「余所見してたって、何かあった? また映え探し?」
「あ、ううん、そうじゃなくてね……えっと」
不意にまつりは、きょろきょろと辺りを見回してからわたしを手招きする。不思議に思い顔を寄せると、彼女は珍しく、こっそりと耳打ちした。
「実はね……私、一目惚れしたの」
「えっ!?」
思わず大きな声が出て、慌てて口を塞ぎ同室の患者さんへと頭を下げる。幸い一瞥されただけでお叱りはなかった。
しかしながら、恋よりも映えを追い求めていた彼女からの突然の恋話に、自らも恋をしている手前何だかドキドキとする。
「え、なに、詳しく!」
「えっとね……おばあちゃんがこの病院に入院してて、お見舞いに来てたの。それで、帰りに偶々中庭に寄ったら……もうすっごい格好いい人が居て」
「わあ……一目惚れとか本当にあるんだ……。えっ、その人とは? 連絡先とかは!?」
「うう……そこまで聞く前に転けて大惨事だったから」
「た、確かに……」
通りで彼女の入院先が隣町の総合病院だった訳だ。入院施設のある外科なら近所にもある。病院で怪我をしてそのまま入院となるのは中々のレアケースな気がするが、すぐに処置して貰えたのならきっと治りも早いだろう。
「でもね、その人、転けた私に真っ先に駆け付けてくれて……もうほんと、優しくて、素敵だった……」
「何それ王子様じゃん……名前とかは聞けたの?」
「うん、蓮見せんせー!」
「……先生?」
「うん、研修医なんだって。ちょうどお昼休みだったらしいんだけど……お休み邪魔しちゃった」
少し落ち込むまつりの頭を撫でつつ、一瞬スルーしかけた事実に気付き、心臓が跳ねる。まつりの想い人の名前にも『蓮』という漢字が含まれている。
「……その、蓮見先生とは、そのあとは?」
「えへへ。実はね、目の前で怪我したからさすがに気になったみたいで、忙しい合間に様子見に来てくれたりするんだぁ……これって、怪我の功名ってやつだよね!」
「その例えをするには怪我が物理的過ぎる……。でも、優しい人なんだね」
「うん! この入院期間に何としてもお近付きになりたい……!」
「わあ、骨折ったのに凄いポジティブ……」
すっかり忘れていたお土産のプリンを鞄から出しながら、目の前の映えスイーツよりも憧れの蓮見先生について語る、まつりの恋する乙女の瞳を見る。
やはり恋は人を変える。世界の色が変わるような、価値観をひっくり返されるような、そんな不思議な感覚。
まつりの恋話を聞けたのが、今でよかった。わたしも恋をしていなければ、きっとこんな風に親身に話を聞けなかっただろう。
「あれ、桜花待ち受け変えた? 最近青空だったよね?」
「あ、うん……今朝変えたんだ」
せっかくなので青が鮮やかな可愛らしいプリンを撮影するためにとスマホを取り出した瞬間、横から目敏く覗き込まれる。さすが、写真についてはうるさいまつりだ。そこは変わっていないようで、少し安心した。
けれど不意に、彼女の指先が新しい待ち受け画面の花へと向けられる。
「この花、中庭に咲いてたやつ!」
「……え?」
「蓮見せんせーがね、これ見て笑ってたの。私、その笑顔にきゅんってしたんだ!」
「そう、なんだ……?」
この花を見て微笑む、名前に『蓮』の付く若い男の人。その光景がまだ見ぬ蓮と重なって、胸が締め付けられた。
もしも、『蓮』が『蓮見先生』で、まつりの好きな人だったら。
まつりの恋心を知ってしまった以上、そんな想像をして平静を保てる程、わたしは大人ではなかった。思わず音を立てて、パイプ椅子から立ち上がる。
「桜花?」
「……ごめん、まつり。わたし、今日はそろそろ帰るね」
「あ、うん……来てくれてありがとう! 玄関までお見送り出来なくてごめんね」
「ううん、大丈夫、お大事にね」
半ば逃げるようにして、わたしは病室を出る。そしてそのまま、玄関ではなく中庭へと向かった。
偶々、同じ種類の花なだけかも知れない。まつりは遠目に見ただけで、実際は違うかもしれない。
そんな期待を胸に解放された中庭へと出ると、今日だけで何度も見た花と同じ色味のそれが、同じ色のレンガの花壇の中で、綺麗に咲き誇っていた。
*****
そこそこの広さの中庭には、雨の日でも利用出来るようにか透明の屋根が設置されていた。掃除が行き届いていないのか少し霞んでいて空は見えにくいものの、日当たりには問題ないのだろう。庭先には色とりどりの花が咲いていた。
目に鮮やかな赤や黄色や白。それなのに、その中でも空に少し似たこの花を選ぶ辺り、やはり蓮だなと感じる。
「……」
何と無くわたしは、その花壇の前から動けなかった。ぐるぐる巡る嫌な予感と、蓮に近付いた実感とで頭がパンクしそうだ。
もしもこの花の写真を撮って蓮に見せたら、どんな反応をするだろう。偶然を喜ぶのか、ストーカーかと思われるのか、それとも、ここで研修医をしているだとか、話してくれるのだろうか。
考えが纏まらないまま、僅かに震える手でポケットからスマホを取り出そうとして、入れっぱなしだったこんぺい糖の小瓶が芝生の上に落ちる。
「あ……」
小瓶に結ばれていた可愛らしい桜色のリボンがほどけてしまったのを見て、我に返った。
少しの間を置いて、ころころと転がる小瓶を拾おうとして手を伸ばす。すると、同じく拾おうとしてくれたのであろう誰かと、ちょうど手が重なった。
夏の屋外にしばらく立っていたわたしより少し高めの、しっかりとした人の体温。予想外の感触にわたしは驚いて、反射的に手を引っ込める。
「わっ!? す、すみません……!」
「……いえ」
わたしの動揺とは真逆の、落ち着いた声。小瓶をそのまま拾い上げた人物へと、戸惑いながらもそっと視線を向け、息を飲む。
少し伸びた黒い髪、日焼け知らずの色白の肌、涼やかな目元の泣き黒子、いつか見たグレーのカーディガン、そして、小瓶を持つ細くて白い長い指先。
一目でわかった。彼が、蓮だ。
「どうぞ」
「あ……」
心の準備も出来ていない。何を話したらいいのかもわからない。こんな出会い、何度も脳内で繰り返したシミュレーションにもないパターンだった。
差し出した小瓶を中々受け取らないわたしを怪訝そうに見詰める視線に、思わず俯いた顔は一気に熱を帯びた。
「あれ、これって……こんぺい糖?」
不意に、改めて小瓶を確認した蓮が何かに気付いたように目を見開く。
そうだ、わたしはあの小瓶の写真をSNSに投稿していた。蓮にも、わたしがサクラだと気付かれてしまったかもしれない。
そう思った瞬間、わたしは半ば奪うようにして、小瓶を彼の手から受け取った。
「ひ、拾ってくれて、ありがとうございます」
「いえ……あの、それって……」
「あー……えっと、最近流行ってるんです、このお店のお菓子。可愛いですよね!」
「そう、なんですか」
「はい! 本当にありがとうございます。それじゃあまた!」
流行りものなら誰が持っていてもおかしくない。わたしは咄嗟に誤魔化して、深々と頭を下げて踵返す。
お姉さんがサービスにと入れてくれたそれは、売り物として店頭にあったのだから誰でも買える。全てが嘘ではないのだと、自分に言い訳をした。
今度は落とさないようにと握り締めた小瓶は、蓮の手の温もりが残っているようで、じんわりと温かい。
わたしは振り返ることなく中庭を出て、逃げるようにして駆け出す。そのまま玄関まで向かうと、一気に身体の力が抜けた。
こんなにも会いたかったのに。あんなにも焦がれていたのに。いざ目の前にすると、緊張とドキドキに耐えられなかった。
「逃げてきちゃった……」
わたしがサクラだと知られたら、がっかりされないだろうか。彼の目に、わたしはどう映るのだろうか。髪型は、態度は、表情は、いろんな所が気になって仕方なかった。
わたし達の繋がりは、窓枠越しの空と同じ。四角い画面の向こうの、言葉と写真だけの閉ざされた世界だったのだ。それを越えて『サクラ』ではない、現実の『桜花』を認知されることが、急に恥ずかしくて堪らなかった。
「……おや、大丈夫ですか?」
玄関近くで壁に凭れていると、不意に声を掛けられた。服装からして、お医者さんか看護師さんだろうか。心配をかけてしまったと慌てて直立する。
「え、あ……大丈夫です」
「顔が赤いですし、熱中症かもしれません。少し休まれますか?」
「いえ、本当に大丈夫です!」
「……そうですか、ならよかった。お大事にしてくださいね」
わたしの顔を覗き込んでくる爽やかそうな好青年は、そう言ってとびきりの笑顔を向けてくれる。少し影のあるクールで繊細な雰囲気の蓮とはまた違うタイプのイケメンだった。
こんなお医者さんが小児科にでも居たら、初恋泥棒多発待ったなしだろう。
「それでは、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
初恋泥棒さんに手を振り見送られて、わたしはようやく病院から出て駅へと向かう。今日一日で疲労感が凄まじかった。わたしは何度も何度も、動揺を抑えるために記憶を反芻する。
そしてわたしは自分の感情で精一杯で、彼がカーディガンの下に入院着を着ていたことに気付いたのは、家に帰りついてからだった。
入院着、つまり彼は入院患者だ。昼間も返信が早い理由に納得がいった。
そして、彼がまつりの言う『蓮見先生』とは別人であることに安堵したのも束の間、別の意味で動揺する。
「入院するくらい、蓮はどこか悪いってこと……?」
立って歩いていたし、小瓶を拾い上げる仕草にも違和感はなかった。到底入院する程の怪我をしているようには見えない。
けれど触れた手は熱かった、熱があったのかもしれない。肌はとても白かったし、同じ年頃の男子にしては線も細かった。入院生活が長いのかもしれない。
何より彼の撮る写真は、いつも同じ窓枠で切り取られた空だった。あの景色が、日頃病室で過ごす彼にとっての、唯一の自由なのかもしれない。
色々な想像を巡らせては、あの時逃げてしまった後悔に頭を抱える。あれでは第一印象は最悪だろう。
「……とにかく、もう一度会わなくちゃ」
幸いメッセージは相変わらずのノリで返してくれたし、夕方に会ったわたしに対する発言もなかった。
正体がバレていないのなら、サクラとしてではなく桜花として、一からリアルの関係を築くことだって出来るかもしれない。それに第一印象が最悪なら、それ以上下がることもないのだ。
会おうと決意したものの、サクラとして名乗り出る決心はまだつかなかった。
伝えるのは、仲良くなれた後からでもいい。もしも桜花として上手くいかなくても、サクラとして話し続けられるよう保険を掛けていたかった。
恋は人を臆病にさせるのだと、改めて実感した。
*****
わたしは翌日にも、その次の日にも、美空総合病院に足を運んだ。あの日と同じようにまつりのお見舞いをして、その後中庭に通い蓮を探す。その繰り返し。
今日は休日だからと時間をずらし昼間から訪れたものの、期待薄だ。初日以降、彼に会うことはなかった。
「はあ……」
「ちょっと、人のお見舞い来て溜め息吐かないでよね」
「ごめんごめん、ちょっと、会いたい人に会えてなくて……」
「えっ、なになに、恋話?」
興味を持ったまつりに詰め寄られ、何と無く気恥ずかしくて言えずにいた蓮への恋心を、観念してぽつぽつと話す。まつりの恋話も毎回聞いているのだ、今更わたしだけ隠すのもおかしな話だろう。
誰にも言っていなかった秘めた想い。言葉にする度に、わたしはどうしようもなく彼に恋をしているのだと実感した。
「つまり、桜花は愛しの蓮くんに会うために通ってるんだ? 私のお見舞いじゃなく?」
「えっ、ちが、勿論まつりのお見舞いメインだから!」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
言葉とは裏腹に、気分を害した様子もなく楽し気に笑うまつり。今日の手土産の星屑ゼリーを頬張りながら、窓の外へと視線を向けた。
「でもさ、この病院結構広いし、探すの大変かもよ?」
「だよね……本名も知らないし」
「まあ桜花の見立て通り外科じゃないとして……他に情報とかないの?」
「えっと……」
そういえば蓮は、以前窓から西日が入ると言っていた。つまり、西側に窓がある病室だ。それから、あの青い建物が見切れる高さの階と角度。
「ねえ、まつり。この条件で、何となくでもわかる?」
「ふふん、名探偵まつりちゃんに任せなさい!」
早速引き出しから館内マップを取り出し条件に合う病棟を調べてくれるまつり。ベッドからも満足に動けない親友は、それでもこんなにも頼もしかった。
*****
「……よし」
まつりに調べて貰い、おおよその目星がついた。西日がよく当たる西向きに窓のある三階以上の病棟。青い建物が見切れる角度にあるのは、おそらく血液内科か循環器科だ。
それでも病室も本名もわからないため、わたしは手当たり次第に病室を覗き込んで行く。完全に不審者だった。
「……どうされました? 迷子ですか?」
そんな行動を見咎められるように、何件目かを覗いていると不意に後ろから肩を叩かれる。思わずびくりとして恐る恐る振り返ると、そこにはこの間帰り際に声を掛けてくれた、初恋泥棒さんが居た。
「おや、先日の」
「あ……この間は、どうも」
「あの後、大丈夫でしたか?」
「はい、おかげさまで何ともないです!」
毎日何百何千人と出入りするであろう病院で、たった数分話しただけの患者でもないわたしを覚えているなんて、さすがの記憶力だ。
彼の首から下がるネームプレートへとちらりと視線を向けると、そこにはなんと、ここ数日幾度も聞いた名前が記されてた。
「あっ、あなたが蓮見先生!?」
「え……はい、研修医なので、まだ先生呼びは気恥ずかしいですね。僕のことをご存知で?」
「あー……あはは、わたし、紫藤まつりの友達で、三雲桜花といいます」
「おや、紫藤さんの。……彼女、毎日友達がお見舞いに来てくれると喜んでいましたよ。あなたのことでしたか」
まつりが一目惚れするのも納得のその笑顔に、ついわたしまで照れてしまう。
しかしながら、お見舞いを喜んで貰えてると知ると、ここに来る目的がまつりのためだけでないことが何と無く申し訳なく感じてしまった。
「ところで、紫藤さんの病室からは遠いですが……迷子ですか?」
「あ……その、実は……」
人当たりの良さそうな蓮見先生の雰囲気に、わたしは思わず、名前も知らない人探しをしていることを白状する。
詳しい事情は伏せて、先日中庭で失礼をしたお詫びに来たのだと説明すると、蓮見先生は少し考えたように口元に手を添えた。
「うーん……成る程。その特徴の患者さんに心当たりはあります」
「本当ですか!?」
「ええ、ただ……お知り合いではないようですし、病室を勝手に教えることは僕には出来ないんです。すみません」
「ですよね……個人情報保護とかそんな感じの……」
目に見えて肩を落としたわたしに、蓮見先生は笑みを浮かべて言葉を続ける。
「教えることは出来ませんが、彼に伝言をすることなら可能です」
「えっ」
「僕から伝えておきますよ。……でも、三雲さんは彼に直接伝えたいんでしょう?」
「は、はい……」
「なので彼には『あなたがお詫びに来ていた、あと三十分は中庭に居ると言っていた』と伝えておきます。彼にも会う意志があるのなら、中庭に行くはずですよ」
「……! ありがとうございます! 三十分どころか三時間でも待ちます!」
「さすがに夏の屋外で三時間待たせるのは、医者の卵として見過ごせませんね……?」
「う……じゃあ心だけ三時間残していきます……」
「生き霊的なあれですかね……」
優しい蓮見先生の提案に深々と頭を下げて、わたしは中庭へと向かう。
彼が会ってくれるかはわからない。けれど、それでも可能性が繋がったのだ。それだけで充分だった。
*****
わたしは中庭のベンチに腰掛けて彼を待った。この位置なら出入口がよく見える。
来るかもしれない、来ないかもしれない。まだ蓮見先生と別れて十分程度しか経っていないのに、落ち着かなかった。何度も前髪を指先で直したりしながら、そわそわとしてしまう。
きっちり三十分待って、来なかったら諦めよう。でないと本当に、何時間でも待ってしまいそうだった。
そう思っていると、不意にポケットの中のスマホが震える。この震え方はメッセージの通知だ。今は蓮を待っているのだ、メッセージは後で返そう。そう思い通知を切ろうとスマホを取り出すと、表示されたのはその想い人の名前だった。
『リボン』
「え……?」
たったそれだけのメッセージに、訳がわからず戸惑う。誤送信だろうか。
何と返したらいいかわからずに画面を見詰め悩んでいると、不意に目の前に影が出来る。
雲でも流れてきたのだろうかと見上げると、そこにはスマホを片手に持った彼が立っていた。
「れ……!?」
「……あんたが待ってるって、聞いてきた」
「あ……えっと、はい、この間はその……逃げちゃってすみません」
思わず名前を呼んでしまいそうになり、慌てて口を閉じる。わたしはスマホをポケットにしまい、立ち上がり勢いよく頭を下げた。
「それはいいけど……何で逃げたのにまた来たの」
「ええと……それはですね、何と言えばいいか……」
頭の中が真っ白で、上手く言葉にならない。目の前に蓮が居る。わたしに会いに来てくれた。その事実だけで、胸が一杯だった。
「……また、会いたかったから」
「俺に?」
「はい……」
何とか絞り出した言葉に、蓮は少し間を置いてから、溜め息を吐いてその場にしゃがみ込んだ。
「はー……」
「えっ!? だ、大丈夫ですか!? 具合悪いとか……」
「いや、平気……。よかった」
「よかった……? 何が……」
「あんたに、嫌われたかと思った」
慌てて彼の前にしゃがみ様子を伺うと、眉を下げて笑うその表情に心臓が跳ねる。
何よりその言葉に、動揺を隠せない。わたしに嫌われたくなかったとでも言うような、その口振り。勘違いしてしまいそうになる。
「き、嫌うわけないです。そもそも会ったばかりで、話したのもほんの一瞬で……嫌う要素なんて……」
しどろもどろになりつつもそう伝えると、蓮の視線が真っ直ぐわたしに向けられる。その澄んだ瞳がとても綺麗だと、つい見惚れてしまう。
「そう。ならいい……俺も、あんたに用があった」
「わたしに用、ですか?」
「……これ」
グレーのカーディガンのポケットから彼が取り出したのは、あの日ほどけた小瓶のリボンだった。そういえば芝生に落ちてそのままだった、拾っていてくれたのか。
しかし桜色のそれを摘まむ指先を見て、ようやく先程のメッセージの意味を理解した。
「あ……リボン……」
「あんた、サクラだろ」
名前を呼ばれて、硬直してしまう。彼に正体がバレていたのだとわかり、じわりと冷や汗が滲んだ。
そういえば、今日の蓮は敬語じゃない。最初からわたしを認知して話し掛けていたのだ。
素直に名乗り出る前にバレていた上、会ったばかりだなんて他人のふりまでしたのだ。心証最悪にも程がある。
「あの……この状況でも入れる保険はありますか……」
「……そこになければないですね」
いつも通りの気軽な会話。少し笑って立ち上がったのは、何度も想像した、画面の向こうの蓮だった。
*****
二人並んでベンチに腰掛けて、何から話せばいいかわからずにお互い沈黙する。しばらくしてその沈黙を破ったのは、蓮の方だった。
「なあ、俺に会って、どう思った?」
「どうって……」
「ひょろくて、白くて、男らしくないし……格好悪いって、理想と違うって、幻滅しなかったか?」
「そんなのする訳ない! 蓮は蓮だし……というか普通に美形っていうか格好いいし! 寧ろわたしの方が、嫌われないかって心配で……」
「……そう、か」
格好いいと言われて少しだけ照れたようにする蓮は、可愛くも見える。想像していたよりも、ずっと素敵な人だ。
お互い同じく不安な気持ちだったとわかり、少しだけ緊張が解けた。そのままわたし達は、メッセージでは話せなかった話をした。
友達が入院していること、お見舞いの帰りに偶然会えたこと、蓮がここに居ることは何と無くわかっていたこと。ひとつひとつを、蓮は頷きながら聞いてくれた。
「……でも、何でわたしがサクラだってわかったの?」
「あー、こんぺい糖もそうだし……手が」
「手?」
「前に、あんたが撮った手の写真。小指にほくろがあった」
「えっ、こんな小さいのに気付いたの? めちゃくちゃ細かい所見てるね!?」
「……、……偶々だ」
ばつが悪そうに視線を逸らす蓮に何と無く追撃したくなったものの、わたしも蓮を手で確信したくらいなのでお互い様だった。
「あと……あんた、この間去り際に『また』って言ったんだ。それで、俺の正体にも気付いてるんだなぁ、と」
「完全に無意識……」
「だから……気付かれた上で逃げられたんだって思った。それなのに、メッセージはいつも通りだし……訳が分からなかった」
「それは本当にごめん……」
申し訳ないと思う気持ちはあるものの、わたしがぐるぐる悩んでいたように、蓮もわたしのことをたくさん考えてくれていたのだと、つい嬉しくなってしまう。
しかし蓮は、少し考えたようにしてから途端に意地悪く笑みを浮かべる。
「……許さないって言ったら、どうする?」
「えっ」
「あんたに逃げられて、傷付いた。あんたのせいで持病が悪化した」
「えっ……え!?」
「なんて言ったら、どうする? ……許して欲しい?」
「も、勿論!」
蓮の考えが読めない。それでもわたしの返答を聞いて満足したように頷いた蓮は、指先で弄んでいた桜色のリボンを片手に、もう片手でわたしの手に触れる。触れた指先は、あの日と同じくらい熱い。
「なら……リアルでも、またこうして会いに来てくれるって、約束して欲しい。……俺は知っての通り、あんたしか話し相手が居ないんだ」
「……! 約束する! わたしも……もっと蓮に会いたい」
「そうか。……なら、約束」
彼は安心したように微笑んで、指切りの代わりのようにリボンをわたしの小指に結ぶ。彼がわたしを見付けてくれた目印が、桜色に彩られた。
「あの……蓮、わたし……」
やっぱり、蓮が好きだ。幻滅なんて冗談じゃない。一分一秒、こんなにも好きが増えていく。
そのまま溢れそうな気持ちを口にしようとした瞬間、別の声に遮られた。
「あら、蓮。こんな所に居たの?」
その声に反応して、蓮がぱっとわたしの手を離す。視線の先には、綺麗で優しそうな大人の女性が立っていた。その女の人は、親しげに手を振り近付いてくる。
反射的に離された手、落ち着かない蓮の様子。もしかすると、年上彼女かもしれない。そんな動揺から思わず身構えていると、苦々しそうな呟きが耳に届く。
「……母さん」
「えっ!?」
「あらまあ、可愛らしいお嬢さん。なあに蓮、ナンパでもしたの?」
「違う!」
「ふふ、冗談よ」
母親にしては若過ぎるだろう。思わず美形遺伝子を実感しつつ呆然と見上げていると、女性はわたしに向けて笑みをくれた。
「こんにちは。蓮の母です」
「……こ、こんにちは……ええと、三雲桜花です」
こんな形で本名バレするとは思わなかった。そもそも蓮は本名も蓮なのか。色々と聞きたいことはあったものの、どうやら彼女は蓮を呼びに来たらしい。
「蓮、先生が呼んでたわよ。手術のことでお話があるんですって」
「手術……?」
「……わかった、戻る。……サクラ、悪い。またあとで連絡する」
「あ……うん、また」
先に戻る蓮の背を見送りながら、手術という単語に少し動揺する。どんな病気で、どんな手術なのか、会いに押し掛けておいて、踏み込んで良いラインがわからなかった。
「……桜花さん、今あの子に『サクラ』って呼ばれてたわよね?」
「えっ、あ、はい」
「あなたが、いつも蓮とメッセージでやりとりしてるサクラさん?」
「……はい」
初対面の好きな人の母親と二人残されて、何と無く緊張してしまう。
というか、蓮はいつもやりとりしていることを母親に話しているのか。何気ない話しかしていないものの、親御さんに認知されているとなると落ち着かない。
何か言われるのか、蓮ともう関わるなとでも言われたらどうしよう。そんな不安から、つい萎縮してしまう。
けれど彼女は穏やかな表情のまま、わたしに視線を向けてくれた。
「ありがとう。あなたのお陰で、蓮が手術を受けてくれる気になったのよ」
「へ……?」
突然の言葉に目を見開く。手術の話はおろか、病気の話だってしたことはない。当然わたしは何もしていなかった。
「あの、わたしは何も……」
「蓮はね、生まれつき病弱な子だったの。……入退院を繰り返しててね、小児科のお友達は居なくなっちゃうことも多かったから……すっかり新しいお友達を作るのにも消極的で」
居なくなる、は、退院だけではないのだろう。せっかく誰とでも繋がれるSNSでも、蓮が壁打ちのように投稿するだけで誰とも話していなかった理由が、何と無くわかった。
「手術もね、嫌だって断ってたの。お金もかかるし、失敗する可能性だってあるし……成功しても、完治じゃないから」
「え……」
彼の病気のことを、わたしは何も知らない。完治することのない病なのかと、心臓が締め付けられる。
「手術なんて無駄なことして、予後に苦しんだりするより、そのまま自然に、楽に死んでしまいたい……なんて、まだ十代なのに、人生を諦めちゃってたのよ」
「蓮、が……?」
「……丈夫に生んであげられなかった私が、少しでも長く生きて欲しいなんてエゴを押し付けられなくて……あの子の決断を尊重するしか出来なかった……」
衝撃的な情報が次々出てきて、頭がついていかない。
そんな衝撃をもたらした彼女の遠くを見詰めるその瞳は蓮に似てとても澄んでいて、愛する人に何も出来ない悔しさも諦めも悲しみも、たくさんの気持ちを孕んで揺れている。
「それでも、あなたとお話しするようになって、あの子に少しずつ笑顔が増えていったの」
「え……」
「ふふ、あの子が花を見たいって言い出した時には、驚いたわ。入院生活も長いのに、この間初めてこの中庭に興味を持ったのよ」
「それって、わたしが、花を綺麗だって言ったから……?」
「……他にもね、食べ物に頓着しない子だったのに、お見舞いを持って来るならどこどこのお店のスイーツが食べたい、なんてリクエストしたり……あとはそうね、あのアイドルの曲はどこで聴けるのかって聞いてきたり」
「全部、わたしが話したやつ……」
花も、スイーツも、アイドルも、全部わたしと話したことだ。その時は然して興味もなさそうな返事をしていたのに。それ以降、食べただとか聴いただとか話してきたこともなかったのに。
わたしが蓮の見る世界に影響されたように、蓮の世界をわたしが広げていた。その事実に、何だか無性に泣きたくなった。
「あの子の世界を彩ってくれたの。全部、あなたのお陰でしょう?」
「わたし……」
「だからね、ありがとう、桜花さん。ずっと伝えたかったの」
「……いえ。わたしの方こそ、本当に……蓮を生んでくれて、ありがとうございます」
「……そんなこと、初めて言われたわ」
わたしと蓮のお母さんは、二人で少し泣いた。俯いた時に、涙の粒が小指のリボンを濡らす。
しばらくして落ち着いた頃、見上げた透明の屋根越しの空は、やっぱり少し霞んでいた。
*****
それから、今後はあらかじめ待ち合わせをして、蓮に会うことになった。
わたしをサクラじゃなく桜花と呼ぶ声に、画面越しではなく直接同じ世界を見られる時間に、わたしの恋はより明確なものになっていった。
リアルでもSNSでも、彼との時間は愛おしくて、かけがえのない大切なものだった。
時々お見舞いの時間が被って会うこともある連の母親とは、彼に内緒で情報交換をした。
先の長くない息子に付き合わせてしまうなんてと申し訳なさそうにしていたけれど、彼と居るのはわたしの意思だった。
蓮見先生にも病気のことや手術のことを教えて貰って、まつりに入院生活の話を聞いて、わたしは蓮の負担にならない範囲で彼との交流を続けた。
初めて会った時よりも痩せたように見える彼とのお別れまでの時間は、見て見ぬふりをした。
言葉を重ねて、時間を重ねて、彼のことを知る度に、何故この人なのだろうと悔しさにも似た気持ちを覚えた。
けれど限られた時間、その先の悲しみよりも、今目の前の彼と居られる喜びを謳歌したかった。
その日の会瀬は中庭ではなく、彼の病室だった。初めて訪れたそこには、見慣れた窓に切り取られた青空。
窓際のベッドに寝転んだままの蓮は、わたしに気付いて身体を起こした。
「……なあ。この空、どう思う?」
「綺麗だけど……窓枠って、絵の額縁みたい」
「だよな……やっぱり狭い。中庭の空も、屋根で遮られてるし」
肩を竦めた蓮は、窓の外の広い世界に焦がれるように、点滴に繋がれたその白い手を伸ばす。
「手術が成功して、少しでも元気になったら……広い空の下で日向ぼっこしたい」
「いいね。芝生のある公園とか?」
「ん……それから、綺麗な桜の花を見に行きたい」
「うん。大きな桜の木がある神社に、一緒にお花見に行こう」
「あとは……海に行ってみたい。あんたの好きな喫茶店にも行きたいし、秋になったら落ち葉を踏んで歩きたい。満点の星空も見に行きたいし……それに……」
彼が希望を語る度、僅かにその指先が震える。手術を受けるのは、明後日だと聞いた。きっと希望と同じだけ、不安なのだろう。けれどその不安を、彼は決して口には出さない。
「いいよ、全部行こう。わたしが案内する」
あの日涙に濡れた小指のリボンの代わりに、今日はそっと指切りを交わす。絡めた指先の震えは、次第に収まっていった。
彼の手術は、病状を緩和させるものだ。完治する訳じゃない。彼に残された時間が、大幅に延びるわけでもない。
それでも、少しでも元気になる見込みがあるのなら、わたしは彼の傍でその時間を彩りたいと思う。
わたしはこの始まったばかりの恋に、寿命をつけたくなんてなかった。
「……ねえ蓮。手術が終わったら……わたしが一番好きなものの話、聞いてくれる?」
「あんたの、一番……?」
「そう。今まで話したものの中でも、一番好きだって自信を持って言えるもの!」
「……わかった。なら、俺の好きなものも、その時話す」
「蓮の好きなもの……? 空じゃなくて?」
「空も好き、だけど……それより好きなものが、最近出来た」
「へえ……なら、それを聞けるの、楽しみにしてるね!」
そう語る彼の瞳は、愛おしそうに和らぐ。本当に好きなのだろう。少し妬いてしまいそうにもなったけれど、彼の世界を知れるのはとても楽しみだった。
「あ、あとね、退院したらまつり……友達に蓮のこと紹介したいし……伝言してくれた蓮見先生にも改めてお礼して……あ、蓮のお母さんにもまたご挨拶したい!」
「……やりたいこと、たくさんだな」
「うん! 全部やろうね!」
「ん。……約束」
これから先の日々、彼の撮る写真が、彼の瞳に映る景色が、切り取られた空と白い部屋ではなく、限りなく広い空色と鮮やかな世界であるようにとわたしは祈る。
わたしとの時間が彼に一歩踏み出す勇気を与えたように、彼がわたしの世界を彩ってくれたのだ。その彩りを、傍で共に感じたかった。
この先、どんな瞬間も彼の一番傍に居られるようにと希望を込めて。始まりの四角い空の下、命を燃やす熱い指先と、わたしは何度も約束を交わすのだった。