鈴心は少し考えた後、控えめに別の可能性を提示した。
「そうも言い切れないかもしれません」
「──というと?」
永が関心を持ったので、鈴心はまたボールペンを持ってパンフレットに書き加える。
「温室から少し薮の中に入った──この辺りなんですが、大きな倉庫があります」
「あ!」
思い出したように星弥も声を上げた。
「温室には研究員が入れますが、こちらの倉庫は立ち入り禁止で周りを有刺鉄線が囲んでいます」
「何か重要なものを保管している?」
永が問うと鈴心は大きく頷いた。
「──という噂が研究員の間では言われています。身の危険があるので確かめようという人はいませんが」
「なるほどね……萱獅子刀がそこにはないとしても、その倉庫も無視できないな」
「なんで?」
蕾生が聞くと、永は「そもそも」と前置いてから、更に続けた。
「僕らは、未だに鵺の呪いの本質がわかっていない。情けない話だけど、今までの経験から『多分こうだろう』っていう事しかわからないんだ」
「経験則から推測しているので、全くの間違いではないと思いますが、私達の推察が正解であるという証拠がまだありません」
鈴心が引き継いでそう言うと、星弥は呆れたような顔で溜息を吐く。
「そうなんだ。確かに鵺が自ら『お前達をこうこうこうして呪ってやるからな』とか言うはずないよね。それも含めて苦しめたいのであれば」
「うん、そうだね。鵺としては、僕らにどういう呪いがかかっているのかすらも提示せずに、五里霧中で迷いながら苦しめたいんだろうからさ」
「タチが悪いね……」
永の心底困ったような反応に、星弥も眉間に皺を寄せて不快感を示した。
「だからさ、銀騎が今までの僕らとのいざこざで、何か鵺の呪いについて掴んでないかなって思うワケ。なにしろあっちの方が呪いとかの専門家だからね」
「つまり、銀騎の情報を盗みに行くってことか?」
蕾生が聞くと、永は大きく頷いた。
「そう。僕らは何百年も付き纏われてるんだ。鵺の情報くらい還元してもらわなくちゃ、割に合わないよ」
「そういう事なら、刀の事は後に回しても、そっちの倉庫に忍び込む意義はあるな」
蕾生が納得したように頷いて、鈴心も同意を示す。
そこで、永は少し考えてから星弥に尋ねた。
「そこは警備のレベル的にはどれくらいだと思う?」
「そうだね……わたしでも存在を知ってるくらいだからお祖父様の研究室程じゃないかも」
「ただ、確実に皓矢の監視下にある、か」
「うん……忍び込むなんてできるかな……」
星弥が率直に不安を口にすると、永は極めて冷静に言ってのけた。
「まあ、バレずに忍び込めるとは思ってないよ。重要なのはバレてからどれくらい猶予があるか、だね」
「お兄様が駆けつけるまでにハル様とライだけでも逃げることができれば、後は私と星弥でなんとかします」
鈴心の言葉に蕾生は驚いた。
「いや、お前らも危ないだろ?」
「兄さんはわたし達に危害を加えたりしません! ただ、キッツーイお説教と……お小遣いが減らされるくらい、だと、思う、うん」
勢いよく否定した星弥も、言いながら段々と声の調子を落とし希望的観測を述べるに至り、最終的には困っていた。
「皓矢は研究所の外に出たりしないの? 出張とかさ」
「あるよ。お祖父様が外出しないから、所長代理でいろんな所に行くの。なんとか省とか、なんとか会社とか」
星弥の答えに永は膝を叩いて結論を出す。
「じゃ、それだ。皓矢が研究所を留守にする日を狙って、まずはその倉庫を探ってみよう」
「わかった。兄さんのスケジュール調べてみる」
役目を与えられた星弥は両手を小さく握ってやる気を出した。それを後押しするように鈴心も頷く。
「それが分かり次第決行だな」
「──だね」
蕾生と永もやっと見えた行動指針に少し気持ちを昂揚させていた。
鈴心が高校に通うようになって一週間ほどが経った。最初は色めきだった校内もやっと落ち着いてきた頃、星弥から皓矢に関する情報がもたらされた。
鈴心が高校に編入するようになってから、皓矢は頻繁に自宅に帰って来るようになったと言う。母が珍しがってその理由を尋ねると、母からの言いつけを守っていると返事が返ってきた。
母はこれに気を良くし、毎晩皓矢の好物を山ほど作って食卓を彩るようになった。おかげで星弥も鈴心も少し太った、と星弥は困りながら笑った。
後で本当の理由をこっそり聞いて見ると、鈴心の体調が心配だし、最近詮充郎が研究室に篭りっぱなしで研究所に全くこないので補佐する仕事がなく、時間に余裕ができたのだと言ったそうだ。
それを聞いた永はそれも真の理由ではないだろうと言う。だがその辺を勘繰ってこちらの行動を気取られては台無しなので、ひとまずそこに疑問を持つのは置いておくことになった。
そして皓矢が頻繁に自宅に帰ることで、その予定は簡単に掴むことができた。
次の日曜日、皓矢は研究フォーラムに出席するために一日出張に出ることが決まっている。
◆ ◆ ◆
「こっちこっち」
星弥が鈴心を連れて自宅前の門の影から手招きをしている所へ、永と蕾生は監視カメラに映らないように、かつ物音を立てないようにそそくさと合流した。
「皓矢は出かけた?」
小声でスパイよろしく、永が確認すると、星弥も小さく頷いた。
「うん、今朝早くに」
「家の方から倉庫に行けるのか?」
背の高い蕾生は中腰に苦戦しつつもやはり小声で聞いた。腰を屈める必要のない鈴心がそれに涼しい顔で答える。
「ええ。もともと研究員は立ち入り禁止の場所ですから、こちらから回れるようになっているんです」
そうして四人は顔をつき合わせて互いに目配せする。
「じゃあ、レッツゴー」
永の囁きによる音頭とともに、一同はゆっくりと静かに移動を開始した。
「周防くんが剣道やってるとは知らなかったな」
永が背負ってきた竹刀入りの布袋を見上げて、星弥は初めて見る物々しさに驚いていた。
「まあ、武将の生まれ変わりとしては基本だからね。ちなみに弓道も習ってるよ」
少し得意げにしている永に続いて、蕾生も何故か誇らしげに言う。
「永に武器持たせたら、俺も簡単には勝てない」
「あのね、それ武器持ってる僕にも負けたことないっていう自慢だからね、ライくん」
「そうなのか?」
蕾生としては「永はすごいだろ」という意味で付け足したのだが、当の永はお気に召さなかったらしい。
その様子に星弥は思わず吹き出した。
「ふふ、いつかの逆だね」
複雑な顔の永と不思議そうに首を捻る蕾生、それを微笑ましく見ている星弥に、少し先行して歩いていた鈴心が緊張を孕んだ声で雰囲気を正した。
「おしゃべりはそこまでです。見えてきました」
その声に従って全員顔を上げる。
目の前には一軒家ほどの大きさの真四角な建物が立っていた。コンクリートで固められた、窓一つない丈夫な外見の周りには頑強な鉄のフェンス。さらにその上には忍び返しの有刺鉄線が伸びていた。
有刺鉄線を見た永は、眼前の状況を一瞥した後、想定内という表情で呟いた。
「なるほど、一般的なやつだね」
「どうする? ぶち破るのは簡単だけど」
冷静に言う蕾生の言葉に、星弥は内心驚いた。未だ蕾生の力がどれくらいなのかは見たことがないからだ。
星弥は不良をコテンパンにできる、と言ったような凡庸な想像しかしていなかった。
人知れず動揺する星弥を他所に、永は蕾生と相談を続ける。
「それだと派手だなあ。どこかの面に入口があるんじゃない?」
永の予想通りの答えを、先んじて建物の周りを一周してきた鈴心が持ってきた。
「ハル様、こちらです」
その案内に従って少し回り込むと、フェンスの一区画が扉になっている箇所があり、大きな南京錠がかかっていた。
流れるような一連のやり取りに、星弥は三人の阿吽の呼吸とも言える雰囲気を実感する。
「この錠前、随分錆びています」
鈴心が指差して永にそれを見るように促す。
「ここから出入りしてる訳ではなさそうだね」
永がそう言うと星弥も首を傾げた。
「兄さんはどうやって入ってるんだろう……」
「ま、それについては考えても無駄なので──うん、思った通りの形だ。じゃあ、ライくん、これ壊しちゃっていいよ」
「おう」
短い返事の後、蕾生はその南京錠を掴むと、上部の曲がった鉄を引っ張った。するとすぐに南京錠は二つに分かれ、フェンスの入り口が開いた。
「すご……」
蕾生の怪力を初めて目の当たりにした星弥は息を呑んだ。鈴心は特に動じずに永にひとつ確認をする。
「壊してしまってよかったんですか? ハル様」
「ああ、帰りにこの錠前下げていくから。付け焼き刃かもしれないけど、ないよりいいでしょ?」
そう言うと永はウエストポーチから別の南京錠を取り出して見せた。蕾生が壊したものにはあまり似ていないが、古くて錆びている点は共通している。
皓矢がこの南京錠を使っていないなら、代わりにかけておいても少しの間なら誤魔化せるかもしれない。
「さすが永、用意がいい」
蕾生が満足げに頷いて、開いたフェンスに手をかけて入口を広げる。それを当然のようにして永が先に中に入った。
鈴心も続こうとするが、星弥がぽかーんと口を開けているので、その手を引いた。
「星弥? 行きますよ」
「あ、はい」
そうして四人は倉庫の入口までの侵入に成功した。入口は重そうな鉄の扉で閉じられている。かんぬきなどの原始的な鍵はない。周りの有刺鉄線などというアナログな雰囲気とは逆に、近代的な電子ロックがかかっていた。
「最初にして最大の難関だね」
鉄製のドアノブをぐいぐい引くけれど当然ビクともせず、その横のテンキーボタンを睨みながら永は息を吐いた。
「蹴破る──わけにもいかねえよな」
蕾生も悔しそうに考えあぐねていると、横から星弥が吸い込まれるようにドアに寄り、テンキーを触る。
「暗証番号……か」
言いながら星弥は四桁の番号を押した。するとカチリという音ともに扉が開く。
「──え!?」
あまりに自然な出来事に、思わず永は大声を上げてしまう。
「あ、開いちゃった……」
「星弥、何を入力したんです?」
慌てて鈴心が聞くと、星弥も目を丸くしたまま答えた。
「冗談のつもりで兄さんの誕生日を……」
「──」
今度は鈴心の方がぽかーんと口を開けてしまった。
「オウ……」
永が言葉を失って声を漏らす。星弥は罰が悪そうに肩を竦めた。
「なんかごめん……」
「まあいい、入口でまごまごしてる訳にもいかねえだろ。入ろうぜ」
結果オーライ派の蕾生は、その場で深く考えることをさせずに永を急かした。
「そうだね、行こう」
とにかく扉が開いてしまった以上、ここからは時間との勝負だ。それを充分にわかっている永もひとまず頷いた。
中に入ると広い廊下が奥まで伸びている。その左右にいくつも部屋が並んでいるようだった。外見に反して随分広い造りのようだが、照明もつかず薄暗いので全貌は見えてこない。
「すげえ数だな」
左右に並ぶドアの数々を見回して、蕾生が声を上げる。
「時間が惜しい。手分けして探そう。リンは銀騎さんと一緒に」
「御意」
永、蕾生、鈴心と星弥の三手に分かれて端の部屋から調べていくことにした。
幸い各部屋は施錠されていないので容易に見ることができた。部屋は古い本が並べられていたり、植物標本が保管されていたりと、用途別になっているようだった。
その中で永が踏み入れた部屋には様々な動物の剥製が並べられていた。それらをざっと見て、特に異常はないので部屋を出る。
「すごいな、博物館並だ……」
独り言のように呟いた後、蕾生が入ったであろう部屋を通り過ぎる時、そこから震えた蕾生の声が聞こえた。
「永──なんだこれ」
「何かあった?」
足を止めて永もその部屋に入って驚いた。中には壁と見紛うほどの大きな石板が、ドミノのように整然と数枚並べられている。一番前の石板の中央には、動物の上半身を彫刻したようなものがあしらわれていた。
「彫刻……? でもやけにリアルだな……まるで生身の動物が封印されたみたいな──」
永が思わずその顔の部分に触れると、瞳が紅く光り、次の瞬間周りの石板が音を立てて崩れていった。
「──!」
一歩後ずさった永の目の前には、生きたライオンのような生物が立っていた。その獰猛な瞳は永を見据えて低く唸っている。
「永!」
蕾生がすぐさまその間に割って入る。その背の後ろで永も背負っていた竹刀に手をかけた。
「永、どいてろ」
その一言で永は竹刀から手を離し、ゆっくりとその生物から目を離さずに後退りながら部屋を出る。
蕾生も同じように生物から視線を逸らさずに、比較的広い廊下に出た。ライオンのような生物は蕾生に続いてゆっくりと前へ進む。
「どうし──ヒッ!?」
奥の部屋から出てきた星弥が、目の前の生物を見て顔を引き攣らせる。
「銀騎! 来るな! 鈴心、守れ!」
蕾生が怒鳴ると、遅れて出てきた鈴心は即座に星弥の前に躍り出た。星弥を守るように立ち、その生物の後ろで息を潜める。
「こっちだ、来い!!」
蕾生の声に反応して、ライオンのような生物は真っ直ぐ蕾生に飛びかかる。蕾生はその動きを見定めて一撃必殺の拳をみぞおちに叩き込んだ。
「ガアァッ──」
幅のない廊下で、自分の後ろには永が控えているので身を躱すことはできないという状況で、蕾生がとった行動は的確だった。真っ直ぐに叩き込まれた蕾生の拳を受け、その生物は動きを止め僅かな呻き声とともに倒れ込んだ。
「ヒュー!」
永は口笛を鳴らして蕾生の健闘を讃えた。
鈴心も息を吐いて緊張を解く。
「す、すご……こんなにもだったなんて」
星弥は目の前で起こったことに頭がついていかずにその場で座り込んでしまった。
「なんだ、こいつ」
息ひとつ乱さずに蕾生はそれを眺めていた。
「どれどれ」
「ハル様! 危険です!」
倒れ込んだ生物に近づこうとする永に鈴心が喚くが、永もすでに落ち着いていた。
「あー、だいじょぶだいじょぶ、完全に沈黙してる」
「ライオンか……?」
「頭はそれっぽいけど……体に斑点があるね、ヒョウかな? するとこいつはレオポン?」
屈んでその生物をしげしげと見た後、首を傾げながら永が言った。聞き慣れない言葉に蕾生も疑問を口にする。
「なんだよ、それ」
「昔、ライオンとヒョウを掛け合わせた動物が見せ物にされてたんだよ。今ではもちろん禁止されてる」
「動物実験までやってるってことか……」
蕾生の言葉を訂正しながら永は生物の下半身を指差した。
「動物、ではないね。石から出てきたし。こいつの尻尾見てよ」
「──蛇?」
蕾生が覗き込むと尻尾があるはずの場所には違うものが生えている。尻から出ているそれは鱗状の細長い胴で、尻尾の房であるはずの部分は蛇の頭だった。
「これじゃあ、まるで鵺の出来損ないだ」
頭は猿、胴体は猪、尾は蛇、手足は虎──という鵺の姿に、この生物は酷似している。
「これが……?」
初めて見る鵺のようなものに、蕾生は少しの間目を奪われた。鈴心もそれを聞いて一歩足を前に進めて、その姿をよく見ようと目を凝らしている。
「まさか、銀騎研究所は鵺を造ってる……?」
永の言葉に、蕾生も鈴心も言葉を失った。星弥は一人取り残され呆然としている。その背後から黒い影が蠢いた。
「銀騎!!」
「え?」
蕾生が気づいて、星弥が振り返るとその目の前にまた別の生物──今度は黒い犬のようなものが牙を剥いていた。
「星弥ァ!!」
鈴心が振り返った時にはその黒い犬は星弥に飛びかかっていた。鈴心の絶望を孕んだ声がこだまする。
そこに一陣の青い風が吹き抜けた。
「──ルリカ」
涼しげな声とともに、青く大きな鳥が黒い犬を、その牙が星弥を捕える前に押さえつけた。
力で圧倒する青い鳥は黒い犬の眉間に嘴を刺す。すると黒い犬の体は霧のように散り跡形もなく消えた。
「あ……」
「星弥!」
震えてへたり込んだ星弥に駆け寄ってその無事を確認した後、鈴心は明るくなった入口を注視する。
星弥を助けた青い鳥は一回りほど小さくなって飛び、入口に立っている人物の肩に乗った。
「に、兄さん……」
「お兄様……」
二人に呼ばれた人物──銀騎皓矢は乾いた靴音を立てながら近づいた。
「怪我はないかい? 星弥」
「あ、うん、大丈夫……」
あっという間に永と蕾生を通り越して、星弥に手を差し伸べて立たせる。
「今のは──?」
一連の不思議な光景に蕾生が呆けている横で、永は皓矢を睨みつけていた。
その様に困ったような笑みを浮かべて皓矢は一礼した。
「こんにちは、周防永くんと唯蕾生くんだね? 星弥と鈴心がお世話になってます、兄の皓矢です」
「ああ……」
何事もなかったように落ち着き払った皓矢の態度に蕾生は面食らった。
「こうも簡単にレオポンが倒されるとは、ね。おかげで第二のセキュリティが発動してしまったようだ。すまなかったね」
「俺達を試したのか?」
蕾生の問いに、皓矢は全てを見透かすような笑みを浮かべている。
「凄いね、予想以上の力だ」
「こ、の──ッ!」
カッとなった蕾生はそのまま皓矢に掴みかかろうとしたが、永がその肩を掴んで制しながら悔しそうに言った。
「──そうか、僕らはまんまと一杯食わされたんだね、銀騎さん?」
その言葉を聞いて蕾生も鈴心も驚いて星弥に視線を投げる。
「え──?」
「星弥?」
注目された星弥は罰が悪そうにしつつも息を整えた後、落ち着いた声に戻って言った。
「ごめんなさい、さすがにバレバレだったかな」
「いや、そんなことはない。君は中立の立場だってわかっていたつもりだったんだけど、油断してたな」
永は頭を掻きながら歯噛みしていた。鈴心も驚きを隠せずにいる。
「星弥はお兄様が来ることを知ってたんですか?」
「うん、ごめんね、すずちゃん。私が兄さんに頼んだの。彼らと話し合って欲しいって」
謝りながらも冷静に説明する星弥に、鈴心はただ驚いていた。
「兄貴が今日留守ってのは嘘だったのか?」
蕾生が尋ねると、それまで落ち着いていた星弥はピクリと肩を震わせて俯きながら謝った。
「──うん、ごめんなさい」
「……」
油断していた、と永が言った言葉が蕾生の頭に響いている。これまで星弥があまりに協力的だったから、当初の彼女のスタンスを忘れていた。
いや、鈴心が戻ってきた時点で星弥も味方になったのだと、錯覚していた。それを今実感して、蕾生は少し哀しかった。
「星弥を責めないで欲しい。この子は懸命に君達とお祖父様の間に立とうとしている。僕個人としては妹を巻き込まれて少し困惑しているんだけど」
皓矢の擁護はそれまで黙って悔しがっていた永の逆鱗に触れた。
「は? 先にリンを掻っ攫ったのはそっちだろ? そのお返しに人質にとったって良かったんだぜ?」
「喧嘩腰なのは元気で結構だけど、冷静になってもらえないと僕はますます困るな」
二人の交戦的な空気を読み取ったのか、皓矢の肩に止まっている鳥がチチチと小さく鳴いた。それを素早く察して星弥が声を荒げる。
「兄さん! やめて! わたしのお友達に酷いことしないで!」
「ああ、すまない。この子は僕の心を汲みすぎるところがあってね」
言いながら皓矢は肩の鳥の喉元を撫でる。鳥は気持ちよさそうに頭を皓矢の頬に擦り寄せた。
「周防くん、お願い。冷静に、話し合って欲しい。お互いの妥協点がきっとあるはずだから」
永に向き直って言う星弥の顔は真剣だったが、永はそれを一蹴した。
「前も言ったけど、そんなものがあるなら銀騎とここまで拗れない。──だけど、僕らはその話し合いとやらに応じないと無事では済まなそうだ」
皓矢とその傍の鳥から、威圧のようなものを感じた永はため息を吐いて観念した。皓矢は慇懃無礼な笑みを浮かべて言う。
「本当に申し訳ない。実はお祖父様がとても乗り気で、早く君達と会いたいとおっしゃっている」
「ジジイもいるのか?」
「……ではついてきてくれるね? お祖父様が自室でお待ちだから」
永の詮充郎に対する反応の早さに苦笑しながら皓矢は入り口に向かって歩いた。
「永……」
蕾生が出方を窺っていると、永は二人に向き直って意を決する。
「ライ、リン、行こう。とりあえずあのクソジジイにリンの件について文句言ってやる」
「わかった」
蕾生の返事に続いて鈴心も無言で頷いて、一同は倉庫を後にした。
外に出た途端、湿っぽい風が吹き抜けていく。蕾生は永の剣幕が少し怖かった。
一同は皓矢の後に続いて倉庫を出た後、更に自宅から遠ざかるように奥へと歩いていった。すでに道もなく、見た目には雑草の生い茂るだけの場所で、皓矢は歩みを止めた。
「拝眉枢銀座」
何か短い言葉を発した後、皓矢がふっと息を吐く。消え入りそうな声だったため、どんな言葉かもその意味も誰も理解できなかった。だがすぐに目の前で異変が起こる。景色が蜃気楼のように揺らめいてぼやけ始めた。
蕾生は懸命に目を凝らす。なんとなく白く四角い建物があるように見えた。けれどそれはゆらゆらと朧げで、本当にそこにあるのかも判然としない。
皓矢が右手で何かを切るような仕草をすると、ぼやけた建物の中に扉だけがくっきりと現れた。研究所で見たような、白塗りで鉄製の一般的な扉だった。
「!」
その様子を永は硬い表情のまま、目だけを見開いていた。ごくり、と唾を呑んだことがその喉元に表れる。
「まさか、ここが──」
鈴心が驚きを隠さずに言うと、皓矢は振り返って冷たさを帯びた瞳で語る。
「ここは強固な結界が必要だから入るたびに解いているとコスパが悪くてね。入口を緩めるだけで勘弁して欲しい。それとこの場所のことは公言しないでくれ。お祖父様の研究の全てがあるからね。見た目通り敵が多いんだ」
冗談混じりに笑う様もどこか冷徹さを孕んでいて、蕾生がそれまでに抱いていた人となりの良さそうな科学者の銀騎皓矢像はもう感じられなかった。
皓矢の言葉を挑発ととった永は、一昔前の不良がするようなガン付けで乱暴に言う。
「するわけないだろ、なめんなよ」
永の態度に不安を覚えた蕾生はまた永の前に立って、付け足すように言った。
「言ったところで誰も信じねえ」
「ありがとう。では、どうぞ」
二人の様子に少し笑った後、皓矢がドアノブを引く。施錠も認証機能もなく、すんなりと入口が開いた。
それよりも堅牢なセキュリティが外側にかかっているので、ドアに何もしていないのは自信の表れのように思えた。
やな感じ、と思いながら永が先に中に入ると少し開けた玄関ロビーに見たことのある女性が立っていた。
「あ」
小さな顔。大きな丸眼鏡。長い髪を後ろにまとめ、口元には真っ赤なルージュ。白衣が不釣り合いなほど、その赤は鮮烈だった。
「いらっしゃいませ、奥で博士がお待ちです」
その女性は恭しくお辞儀をして一同を迎える。永の反応に気づいた蕾生が問いかけた。
「永、知ってるのか?」
「説明会で司会してた人だよ。──やっぱりね」
そう言われると見覚えがある気もするが、蕾生にはよく分からなかった。だが永は何かを納得して彼女にも警戒しているようだ。
「奥、ですか?」
聞き返した皓矢に、その女性は無表情のまま淡々と答える。
「はい。博士の御命令でそのように、と。簡単ではありますがテーブルと椅子は運んでおきました」
「わかりました、ありがとう。では皆、こちらへ」
そうして彼女を置き去りにし、皓矢が廊下の奥へ四人を促した。
皓矢の後についていくつもの部屋を通り過ぎながら長い廊下を歩いていると、次第に寒くなってきた。
「兄さん、冷房が効きすぎてない?」
星弥が少し身震いしながら言うと、皓矢はほんの少し柔らかい声音で答える。
「奥の部屋は本当は資料の保管庫なんだ。だから空調管理がしてあってね。あ、寒ければ僕の上着を──」
「い、いいよ! 恥ずかしいから!」
白衣を脱ぎかける皓矢を慌てて制して、星弥は手をぶんぶんと振った。その様子に皓矢は苦笑しつつ、突き当たりの扉の前で止まる。
「さあ、着いた。お祖父様、皓矢です。皆を連れてきました」
ノックとともにそう言うと、中からしわがれた低い声が聞こえてくる。
「入りなさい」
「──失礼します」
重たい鉄の扉を開けて皓矢は四人を部屋に招き入れた。白い床、白い壁の広々とした空間が蕾生達の目の前に飛び込んでくる。その中央には簡素な緑色の絨毯が敷かれ、低いテーブルとソファで構成された応接セットが置かれていた。
確かあの女性は簡単な椅子とテーブルと言っていなかったか、と蕾生は違和感を持った。目の前にあるものは、どう考えても細身の女性が設置できる代物ではない。
「ようこそ」
厳かな声に、そんな蕾生の思考はかき消された。応接セットの更に奥、やや離れた場所に古めかしい木製の机、そこで椅子にゆったりと腰掛けている老人が存在感を放っていた。
「銀騎、詮充郎……」
蕾生が気圧されて思わず呟くと、詮充郎は皺だらけの顔にもう一つ皺を作って微笑んだ。
「何年ぶりかね?」
「さあ、忘れました」
何も言えずにいる蕾生の代わりに永がしれっと答えた。
「──ふ。相変わらず非協力的な態度だ、ええと、今は周防と名乗っているのか」
「すいませんねえ、コロコロと名前が変わって。そっちも相変わらずクソジジイですねえ、いや年老いてさらにクソが増しましたか?」
永の虚勢にも見える憎まれ口には目もくれず、詮充郎は蕾生を舐め回すように眺めてまた微笑んだ。
「ふむ、相棒は今回も丈夫そうだな」
「ライを値踏みすんじゃねえ、殺すぞ」
蕾生も初めて見るようなガラの悪い顔と口で永が凄む。だが詮充郎はそれも余裕で聞き流して声を立てて笑った。
「はっはっは! そう熱くなるな。昔言ったろう? 氷のように冷静であれ、と」
ニヤリと口端を上げた様がその老獪さを物語っている。
「ああ、そうでしたかねえ。ま、とりあえずそちらの話を聞きましょう?」
子どもに言い聞かせるような詮充郎の物言いを、今度は軽くいなして永はドカッと音を立ててソファに座った。
「では、そうしよう。皆もかけなさい」
銀騎詮充郎はあくまで余裕の態度を崩さずに、悠然とそう言った。