夕方になって銀騎皓矢が帰宅した。いつぶりなのか、誰も思い出せないくらいである。
夕食は珍しく母親が作った。皓矢の好物ばかりを何品も並べ、食卓は大変賑やかになっている。
中年女性と中高生の女子二人、それから食の細い成人男性しかいないのに、食べ切れる分量ではなかった。
皓矢はテーブルにつくと苦笑しながらも母の手料理を食べ始める。それを見届けてから星弥と鈴心も食べ始めた。
「嬉しいわ、皓矢と一緒に夕食が食べられるなんて何年振りかしら」
母親は始終弾んだ声で手元のフォークを動かしている。
皓矢も疲れてる気配を見せずに母親と談笑していた。
「大袈裟だな。この前母さんの誕生日には帰ってきたじゃないか」
「あら、気持ちはそれぐらいってことよ。せめて週に一回はこうしてみんなで食卓を囲みたいわ」
「うーん、努力はしてみるよ」
「そうね、あてにしないで待ってるわ」
「厳しいなあ」
皓矢は笑いながらハンバーグを口に運ぶと、それをワインで流し込んだ。あまりアルコールは好まないのだが、母親が上機嫌で栓を開けたものだから、付き合い程度といった量にとどめている。
鈴心は末席で黙々と食べ進めており、星弥は母と兄を交互に見ながらにこやかにグラタンを食べていた。
「そうそう、星弥が最近仲良くしてる男の子がいるのよ」
「お、お母様!」
突然の話題に星弥は思わずホワイトソースを吹き出しそうになった。彼らの話はまだマズイ。
だが時既に遅く、皓矢は興味津々の顔をして星弥の方を向いた。
「へえ、そうなのか?」
「それが入学式で新入生代表の挨拶をした子でね、勉強を教わってるんですって。家に招くのに私には会わせてくれないのよ」
全部喋られて星弥は頭が真っ白になった。急に話題を変えるのはかえって不自然ではないか、などと考えを巡らせているうちに、皓矢が揶揄うような口調で嗜める。
「星弥、お付き合いするならちゃんと母さんに会わせないと駄目じゃないか」
「お、お付き合いなんてしてません!!」
慌てて否定すると、おっとりした母親はどんどん情報をバラしていく。
「あらあ、じゃあ一緒に来たちょっと無愛想な子の方かしら? 遠目で見ただけだからよくわからなかったわ」
「そっちも違います!!」
家に男の子を呼ぶ口実として母親に喋り過ぎた、と星弥は反省する。そして心の中で二人に謝った。
「ね? 皓矢、貴方がしょっちゅう家に帰ってきてくれたら、星弥が男の子を連れて来たって私も安心できるのよ?」
「──わかりました。いっそうの努力をします」
苦笑して言う皓矢の反応を窺い見ても、特に変わった所はない。だが皓矢はポーカーフェイスが得意だし、星弥はこの兄の本心がわかるような場面に遭遇したことがなかった。
自分にとっては優しい兄であるし大好きなのだが、研究者として、または陰陽師としての皓矢がどんな風なのかは星弥にはわからなかった。
いや、今まで意識してわかろうとしてこなかったのかもしれない。そこに踏み入れることは祖父の不興を買うことになるからだ。
「鈴心も彼らに会ったのかい?」
話題が終わるかと思ったら、あろうことか皓矢は黙って食べるだけの鈴心にそれを振った。
星弥は心臓が飛び出る思いで鈴心の反応を見守る。
「……少し」
さすがに星弥より冷静な鈴心は、ただ一言呟いただけだった。
だが皓矢はそれでも食い下がる。
「どんな感じだった? 星弥にとっていい友人だったかな?」
「よくわかりません。星弥がいいなら良いのでは」
「そうだねえ。星弥が選んだ人なら、僕は応援したいな」
一刻も早くこの話題を終えるには自分がピエロになるしかないことを悟った星弥は顔を赤らめて少し高い声を上げる。
「もう、兄さん! そういうんじゃないってば!」
「ははは」
星弥の態度に騙されてくれたのか、皓矢は笑ってそれ以上は言わなかった。すぐに母親から別の話題が提供されるので久しぶりの団欒はつつがなく続くのであった。
◆ ◆ ◆
家の者が寝静まったのを確認した後、皓矢は自室でパソコンを立ち上げる。しばらくすると祖父からリモートの要請が届く。
それを承認すると暗い画面の中に険しい表情の銀騎詮充郎が映った。
「何かわかったか?」
「星弥と鈴心に接触した人物がいます。例の二人です」
「──確かか?」
皓矢が短く報告すると、詮充郎は片眉だけ動かしてしわがれた声を出した。
「監視カメラで確認しましたが、お祖父様のおっしゃる通りの容貌でしたので間違いないかと」
すると画面の向こうの詮充郎は顔を歪めて高らかに笑う。
「く、く、くははは! そうか! もう転生してきたか!!」
「先日の侵入者もおそらく彼らでしょう」
「結構! 相変わらず行動力が旺盛で大いに結構! つまらない見学会でも開いてみるものだ!」
「では、しばらくは様子見でよろしいのですか? 星弥も巻き込んでいるようなので心配で……」
皓矢の不安をよそに、詮充郎は吐き捨てるように言う。
「星弥が増えたところで、奴らの助けになるとは思えん。寧ろあの子には奴らの情報を引き出してもらおう」
「もしも星弥が人質にされたら……」
「そんなことはせんよ。奴らの弱点は何だと思う?」
「さあ……僕はあの時四歳でしたから……」
皓矢が控えめに首を傾げると、詮充郎は少し得意気に演説ぶって答える。
「奴らは年齢を重ねた経験がない。九百年という年月を経ていても、子どものままだということだ。甘いのだよ、基本的にな」
「そうですか──」
「ふ、ふ。まだ私に機会が残されていたとは! 今夜は久しぶりに良い気分だ。ケモノの王よ! 今度こそその身を頂く!」
すでに詮充郎は皓矢に話してはいない。自身のみで完結して笑い続けた後、通信は一方的に切れた。
今まで滔々と語られてきた、皓矢にとってはその夢物語が、まさか現実として目の前に現れるとは思わなかった。
だが、すでにそれは起きようとしている。星弥と鈴心は無事でいられるのだろうか。皓矢はそれだけが気がかりである。
「……」
傍らに置いた、自分と同い年の父親の姿に視線を移した後、皓矢は自らの掌に意識を集中させる。
青く、輝かしい羽を携えた鳥が皓矢の周りを飛び回った。
「体は大丈夫か?」
酒を手にしたハルが俺の所へやって来たのは、月が高くなって随分と経ってからだった。
「何がだ?」
事後処理が忙しいだろうに、夜が明ける前に俺の様子を見に来てくれたことが照れ臭くてしらばっくれる。
するとハルは笑いながら隣に座って杯を差し出した。
「あれだけ化け物の返り血を浴びたんだ。何か異常をきたしてないか心配で心配で」
「──夜も眠れないか?」
「そうそう。だから一杯付き合ってもらおうと思って」
笑いながらハルは俺の杯に酒を注ぐ。主に注いでもらった酒を飲むには相応しい名月だ。
「うまい」
「だろう? 奥の秘蔵のやつをくすねてきた」
「格別だな」
月と酒。それにお前がいれば、俺の心は満たされる。
「──で、眠れない原因はあっちの方だろ」
離れ屋の方を指してやると、ハルは「ばれたか」とまた笑った。
「あれから少し塞ぎ込んでいると聞いてな」
「そりゃあ、あんな化け物を間近で見たんだ。お前は忘れてるかもしれないが、あいつはまだ子どもだぞ」
「それはその通りなんだが──」
言いかけて、酒を一口飲んだ後、「これは戯言だ」と前置いてからハルは語った。
「リンは、何かを抱えてるんじゃないかと思う」
「何かって?」
「わからない」
お前がわからないことが俺にわかる訳ないだろう。酔ってるのか。
「まあ、でも、そうだな。今日び何も抱えてないヤツなんていねえよ」
こんな戦ばかりの世で。血と泥にまみれて、それでも生き残った者なら、色んなものを背負っている。
「お前もか?」
純朴な顔をして聞いてくるので、安心させるように笑って言ってやった。
「俺はお前を背負うので精一杯だ」
「──そうか」
安心しろよ、俺が守ってやるから。
「朝になったらリンに干し柿を持っていってやろう」
「また奥からくすねてくるのか?」
「なあ、おれの家のものなのに、どうしておれは自由に持ち出せないんだ?」
「知らねえよ」
夜はこんな風にお前と笑い合えるから好きだ。
そういう夜をずっと過ごしていけると思っていた。
◆ ◆ ◆
「…………」
蕾生が目を覚ますと、目覚ましのアラームが鳴った。
不思議な夢を見たような気がするが、もう何も覚えていない。ただ、懐かしい匂いがした。何の匂いかは思い出せない。
忘れてしまった夢が、心に穴を空けたようだ。言い表せない寂しさが残る。
「あ──くそ!」
蕾生は苛立ちをかき消すように、勢いよく起き上がった。
月曜日の学校は、まだ調子が上がらない者と、リフレッシュ済みで元気な者が半々の不思議な空間だ。
永と蕾生は今週に限っては前者で、昨日の鈴心とのやり取りを経ていたため疲れが少し残っている。
だが、星弥の方は優等生らしく月曜日から溌剌としていた。そんな星弥から昼休み、ある提案がされた。
「ねえねえ、三人でクラブ作らない?」
「うん?」
昼食後、中庭に集められた永と蕾生は桜の木に寄りかかって欠伸を噛み殺しながら聞いていたが、星弥の突然の提案に困惑した。
「なんだよ、藪から棒に」
蕾生が聞き返すと、星弥は少し興奮した面持ちで説明する。
「部室棟の端っこに、狭すぎてどの部も使ってない部屋がひとつあるんだって。でも同好会レベルなら広さは十分だよ」
「へー」
明らかに永の反応はそれに興味がないことを表している。それでも星弥は続けた。
「それをね、わたしがクラブを設立するなら使ってもいいって先生が言ってるの!」
「はいはい、エコ贔屓」
右から左へ受け流す永の態度に、星弥は少し苛ついたように眉毛だけ吊り上げて言う。
「二人はもうウチに来ない方がいいよ」
会話の方向転換が急角度過ぎて、蕾生は思考を繋げることが即座にはできなかった。
「──なんか兄貴から言われた?」
永の方は敏感に察しており、それまで眠そうだった顔を突然真面目にして星弥に向き直る。
二人の両極端な態度に、溜息を吐きながら星弥は言った。
「直接はないけど。多分兄さんには気づかれてると思う」
「ま、そりゃそうか。二週続けて大騒ぎしたしねえ」
永は蕾生が感じているよりも落ち着いていた。その覚悟はすでにあったのだろう。
「すずちゃんが言うように、わたし達の行動くらい筒抜けだと思うの。昨日突然兄さんが戻ったのもタイミングが良すぎて……」
「そう言われると確かに」
ようやく蕾生にも話の方向がわかってくる。
「だからね、兄さんやお祖父様の目の届かない場所が、これからは必要だと思うの」
「あ、そういうこと?」
そこまで聞いてやっと永は膝を打つ。
「そのための部活か」
蕾生もそれに続くと、星弥は眉をひそめて愚痴るように言った。
「そうだよ、察しが悪いよ。単純にクラブ作りたいだけなら誘わないよ」
「あ、ひどい言い方!」
永がわざとショックを受けた様な反応をしたが、蕾生は冷静に納得する。
「それもそうだな」
「ライくん、それでいいの!?」
また永がお得意のワチャワチャをし出す前に星弥が言い放つ。
「で、どうするの? 作るの、作らないの?」
「もちろん作りますとも、銀騎サマ!」
永は完全降伏の意で大袈裟に頭を下げた。
「何部にするんだ?」
蕾生が聞けば、星弥はうーんと空を見上げながら呟く。
「そうだね……先生に受けが良くて、それでいて他の生徒は微妙に入りたくないクラブ、かな?」
「なんだよそれ、そんなもんあんのか?」
「だよねえ。部員募集しなければいいんだけど、それも角が立つし──」
二人で悩んでいると、横から永があっさりと答える。
「そんなの簡単だよ」
「ええ?」
星弥が目を丸くして聞き返すと、永は得意気に人差し指を立てて言った。
「名付けて『これからの地球環境を考える』部! 活動内容は主に環境問題の研究と校内ボランティア──清掃したり、ちょっとしたお手伝いしたり」
付け足した内容は誰かの普段の行動を連想させた。
「げ。絶対入らねえ」
蕾生が嫌そうに言うと、星弥はにっこりと微笑みながら怒る。
「二人とも、わたしをいじってるんだね?」
「まあまあ、そのおかげでいい思いしてるんじゃない。よっ、部長!」
永が茶化すと星弥は白けた顔をして言った。
「何言ってるの、部長は周防くんでしょ」
「え! なんで!」
「わたしが部長までやったら、先生との癒着がバレるもん」
ついに認めた、と蕾生は開いた口が塞がらなかった。
永の方は抵抗しても意味がないと悟り、すんなり承諾する。
「ハイハイ、わかりましたよ、銀騎サマ。じゃあ、先生とナシつけといてね」
「うん。じゃあ、放課後部室棟に集合ね」
「もう今日からできるのか?」
蕾生が尋ねると、星弥は立ち上がってブイサインを掲げる。
「銀騎サマに任せなさーい!」
勢いよくそう言いながら、星弥は小走りに駆け出し校舎の中に消える。
月曜から行動力があるな、と蕾生はその姿を感心しながら見送った。
永がまたひとつ欠伸をしたところで予鈴のチャイムが鳴った。
◆ ◆ ◆
放課後、永と蕾生が体育館横の部室棟の前で待っていると、星弥が息を切らせてやってきた。
「ごめんね、お待たせ」
「首尾はどうだった?」
永が尋ねると、鍵を目の前にぶら下げてにっこりと笑う星弥は、勝ち誇った金メダリストの様だった。
「もちろん大成功! はい、これが部室の鍵。部長が責任持って預かるようにって」
「さっすが銀騎サマ!」
わざとらしく誉めそやした後、永はその鍵を受け取り、角部屋の扉を開ける。
中に入ると机と椅子が粗雑に置いてあり埃っぽかった。三人は窓を開けて軽く掃除をした後、机と椅子を四つ、班を組む時のように向かい合わせで並べた。
「うん、こんなもんかな」
パンパンと両手の埃を払いながら、星弥が満足そうに部室を見回した。
「じゃあ、まずは祝杯をあげよう」
「──ん」
永の号令に、蕾生は来る前に自動販売機で買ったパック牛乳を配る。星弥はそれを受け取って弾んだ声を出した。
「わあ、用意がいいね」
三人はそれで乾杯をした後、各々席についた。
蕾生と星弥、二人だけの部員に向かって、永が仰々しい口調で切り出した。
「では、コレタマ部の活動を始めます!」
「コレタマ?」
星弥が首を傾げると、待ってましたと言わんばかりに永が説明した。
「これからの地球環境を考える──略してコレタマ部ね」
「……」
星弥が無反応なので蕾生は渋々捕捉してやった。
「あれからずっとそのあだ名考えてたんだと」
蕾生が目撃したのは午後の授業中、永がノートのはじに何かを書いては頭を捻っていた姿だ。
授業が終わる頃、やっといくつか書いた単語の中のひとつに花丸をグリグリと書いた様を後ろから見ていた蕾生は、何とも言えない気持ちになった。
「そうなんだ、か、可愛いと思うよ」
「まあ、俺はなんでもいい」
どもりながら目を逸らす星弥と無関心の蕾生。
二人の否定的な反応にもめげずに永は続けた。
「ふ、ヒラ部員は黙らっしゃい。ンン、初日の今日はとても重大な議題があります」
咳払いで空気感を変え、神妙な面持ちで言えば、つられて二人も固唾を呑んで永の言葉を待つ。
「リンをこの場にどうやって呼ぶのか? ──であります」
改まったわりに想像の域を出なかった議題に、蕾生も星弥も緊張を解いて唸った。
「あー、それな」
「そうなんだよねえ……」
「一番簡単なのはリモート参加だけど、銀騎家の携帯電話やパソコンは無理でしょ?」
永がそう言うと、星弥も即座に頷く。
「だねえ。電波を傍受されてたら、クラブ作った意味がなくなっちゃう」
「鈴心はこの時間だと何やってるんだ?」
続いて蕾生が質問すると、星弥は小首を傾げながら答えた。
「うーんと、多いのは勉強かな。兄さんが毎日パソコンに課題を送ってくるから、それをやってると思う。ここ数年は研究で忙しくてマンツーマン授業ができなくなったんだよね」
それを聞いた永が前のめりになって尋ねる。
「ふうん。じゃあ、以前よりもリンは自由なんだ?」
「そうだね、活動範囲は自宅と研究所だけなんだけど、好きな時に勉強したり、読書したりしてるみたいだよ。研究所も顔パスでどこでも入れるし」
「それは普通に軟禁状態だろ」
「まあ……」
蕾生の冷ややかな指摘に星弥は苦い顔をしてみせた。
「ふむ。やっぱり研究所の敷地より外には出られない感じ?」
永が問うと、星弥は頷きながら答える。
「難しいと思う、お祖父様から禁止されてるし。わたしから兄さんに頼んでみることも考えたけど──」
「怪しまれるだろうな」
「うん……急にそんなこと言い出したら、ね」
蕾生の的確な言葉を肯定して、星弥は困った表情で眉を寄せた。
「せめてあそこから出られたらなー。その後こっちの学校に忍び込むくらいはリンなら簡単なんだけど」
永もぼやくけれど、良い考えは浮かびそうにない。
「アナログだけど、交換日記くらいしか思いつかないかなあ」
「そうだねえ、メールやメッセージアプリは危険だから、手書きのノートでやり取りするのが一番秘密は守れる」
星弥と永のやり取りを聞いて、蕾生は少し苛立って反応した。
「──めんどくせえな、タイムラグもかなり出来るし」
「でも、それくらいしか……」
「思いつかないよねえ……」
結局この日は良いアイディアが出る事はなく、とりあえず星弥がノートを買っておくことだけが決まって散会となってしまった。
特に何もできないまま週末を迎えようとしている永と蕾生に急転直下の出来事が起きた。
なんとなく沈んだ雰囲気を引きずったまま登校すると、一年生の校舎中がどよめいていた。その騒ぎの原因はどうも星弥のクラスから発生しているらしい。
永と蕾生のクラスメート達が入れ替わり立ち替わりで隣のクラスを見に行っている。そのせいで廊下は興奮のるつぼになっていた。
二人は最初は静観していたが、教室に帰ってきたクラスメートの会話から星弥の名前が聞こえてきたので、とうとう廊下に出ることにした。
すると丁度その場にいる生徒達の興奮が最高潮に達したところだった。そこに集まった大勢の視線は、星弥とその隣で俯きながら居心地悪そうに歩く黒髪の少女へと注がれている。
「──」
「──」
永も蕾生もその姿を見て言葉を失った。星弥の隣を歩いていくのは間違いなく制服を着た鈴心だった。
呆けている二人に気づいた星弥が通り過ぎながら小声で二人に言う。
「放課後、クラブで」
永と蕾生はただ頷くことしか出来なかった。
星弥と鈴心が行ってしまうと、他の生徒達もざわつきながらも各々の教室に帰っていく。その波に従って永と蕾生も自教室へ戻った。
「ラ、ラララ、ララララ」
「落ち着け、永」
瞳の焦点が合っていない永をとりあえず席に座らせ、蕾生が宥める。
永は肩で深呼吸をした後、しどろもどろで動揺を口走った。
「ふー、ふー! え、何? 何がどうなってんの?」
「なんで鈴心が学校に来てんだ?」
「しかもウチの制服着てたよね? なんで? リンてまだ十三だよね?」
「全然わかんね……」
混乱したまま、気持ちの整理もつかないまま、朝のホームルームが始まってしまった。
その後の授業内容はもちろん頭に入るはずもなく、昼に食べた弁当の味もよくわからないまま、午後の授業も上の空で過ごし、やっと放課後を迎える頃には二人ともへとへとに疲れてしまっていた。
◆ ◆ ◆
「という訳で、転入生の御堂鈴心ちゃんです!」
コレタマ部の部室で星弥の努めて明るい声が響く。
その隣で佇む鈴心は今の所借りてきた猫のように、何も言わずに居心地が悪そうにしている。
あらためて超弩級の衝撃的光景を目の当たりにして、永は目を細めたまま蕾生の腕を引っ張った。
「ちょっとライくん、ほっぺつねってよ。僕は都合の良過ぎる夢を見てるんだ」
「夢じゃねえけど、お望みなら」
素直な蕾生は永の頬をつねると言うより伸ばすように引っ張る。
「──ひててて!」
「ライ、やめなさい!」
永の悲鳴に、鈴心がたまらず蕾生を叱る。
蕾生は少し白けた気持ちで指を離した。糸でも摘むようにそっと行ったつもりだが、永の頬はかなり赤くなっていた。
「やっぱりリンがいるうー、なんでー? なんでー?」
大袈裟ではなく腫れた頬を摩りながら、永は涙目で現状に疑問を呈す。ただし語彙を失っているのでいつもの様にはいかない。
「周防くんがショックのあまりバカになっちゃった……」
斜に構えた様な態度の永しか知らない星弥にはそれが至極新鮮に映ったようで、純粋に珍しいものを見る目をしている。
収集がつかなくなってきた空気を何故俺が、と思いながら蕾生は頭をガシガシ掻きながら星弥に説明を求めた。
「おい、銀騎、どう言う事だ」
「うん、わたしもよくわかんないんだけど──」
そうして星弥は数日前の自宅での出来事を語り始めた。
コレタマ部を作った帰り、星弥は駅前まで足を延ばしてスーパーマーケットに行き、鈴心が喜びそうな可愛らしいノートをいくつか見繕った後帰宅した。
「ただいまあ」
玄関に入ると、母親が弾んだ声で星弥を迎え、急かすように手招きをしている。
「おかえり、星弥! こっちこっち!」
「お母様? どうかしたの?」
促されるまま応接室に入ると、部屋の中央で鈴心が今自分が着ているものと同じ服を着させられて立っていた。
傍らでは銀騎家お抱えのテイラーが、まち針を巧みに操って鈴心の着ている制服を調整している。
「──」
人間は驚き過ぎると何も言葉が出てこないし、思考もうまく回らない。十六年生きてきて、星弥はその事をこの日思い知った。
「ねえ? 可愛いでしょ?」
ウキウキでルンルンの母に尻込みしながら、星弥はなんとか現状について問いかける。
その様を鈴心は居心地悪そうに頬を赤らめながら見ていた。
「あ、う……な、何事?」
「すぅちゃんがね、高校に通うことになったのよ。あなたと同じ一年生で!」
「え!? だってすずちゃんはまだ中学生でしょ?」
母からの突拍子もない説明に驚いていると、すぐ後ろで補足が聞こえてきた。
「──中学の過程はとっくに終えてるからね」
「兄さん!」
振り返ると皓矢がそこに立っており、母親同様に上機嫌だった。
「うん、鈴心、よく似合ってるよ」
「どうも……」
鈴心はますます顔を赤らめて一言呟く。ニコニコの兄に、星弥は改めて聞いた。
「兄さん、どういうこと?」
「うん、ここ最近、僕の研究が忙しくて鈴心にろくに教えてあげられていないからね。最近は体調も安定してるし、学校に行かせたらどうかとお祖父様がね」
「お、お祖父様が!?」
星弥は直感でヤバイと思った。祖父が突然そんなことをするなんて、確実にあの二人が関係しているせいだ。
「とは言え、たった一人で中学校へ行かせて体調を崩したら大変だから、星弥と同じ高校に編入手続きをとったんだよ。飛び級の帰国子女ってことにしてね」
「──」
どうする、反対するべきか。それともこれを逆に利用するのか。周防くんならどうするだろう、唯くんはどう思うだろう。
色々なことが瞬時に星弥の頭を駆け巡っているうちに、皓矢が先んじて結論を突きつけた。
「だから星弥、よろしく頼んだよ?」
「星弥、私からもお願いね」
しかも母の後押し付きで。
こうなっては星弥に状況を覆すことなどできない。そもそも祖父の意向に逆らえるはずもない。
そうしてあれよあれよという間に、今日を迎えてしまった。
「──という訳で、美少女転入生の御堂鈴心ちゃんです!!」
説明し終わった星弥はやぶれかぶれの勢いで、もう一度明るく鈴心を紹介した。
その様に鈴心も蕾生も溜息しか出ない。
「……おっかしい」
永が首を傾げて言うと、星弥はにこやかに凄んで言う。
「すずちゃんが美少女ではない、と?」
「いやそれに異論はないけど」
──ないんだ、と蕾生は心の中でつっこんだ。永と星弥は蕾生の手の届かない次元で言葉を交わしている。こういう時は放置が正解だろうと最近は思うことにしている。
「どうせ罠なんだろ? 絶対おかしいよ」
「デスヨネー」
永の疑いは当然で、星弥もそれを棒読みで肯定した。その空気感に耐えられなくなったのだろう、やっと鈴心が口を開く。
「まあ、タイミングがあれなんで、私もそう思います」
「鈴心はなんか聞いてんのか?」
蕾生が尋ねると鈴心は小さく首を振った。
「いえ。ほんの数日前にお兄様から『学校に行く気はあるか』と聞かれたので、ある、と答えたらトントン拍子に」
「あのジジイ、何考えてんだ……」
永は歯噛みしながら宙を睨んでいた。
「家の外に出られさえすれば、中学に行くふりをしてハル様の所に馳せ参じることができると思ったので承知したら、まさか──」
「全部お膳立てされたって訳ね」
「はい」
そこまで聞いて蕾生からも感想が漏れる。
「バカの俺でもなんかあると思うな」
「そうですね……」
鈴心の相槌になにか含みを感じた蕾生は、思わず掘り下げてしまった。
「おい、今バカを肯定したか?」
「ああ、はい」
悪びれずに頷く鈴心に頭にきて、挑発に乗ってしまう。
「クソガキ、そこに座れ。説教だ」
「冗談でしょう。貴方に説かれる教えなんてある訳がない」
スンとした態度の鈴心に、どうしてくれようかと蕾生が歯を食いしばった所で星弥からタオルが投げられる。
「ストップ、ストーップ! 興奮しないの! すずちゃんたら、いつになくご機嫌だね?」
「すみません、つい」
今のがご機嫌? わかりにくい! ──と蕾生がやり場のない苛立ちを持て余していると、やっと冷静な声音の永が戻ってきた。
「つまりは、向こうも動き出したってことか」
すると鈴心も蕾生を華麗に無視して永に向き直る。
「はい、真意は掴めていませんが。早急に探ります」
「うん、でもあまり目立つなよ? しばらくは大人しく銀騎さんと一緒に学校に通うだけにしな」
「御意」
このガキには後で必ず思い知らせてやると蕾生は密かに誓う。
「駆け引きはもう始まってる。ライ、気を抜くな」
蕾生に向ける永の目はいつにも増して主君然としていて、それだけで蕾生の気を引き締めるには充分だった。
「ああ、わかってる」
おそらく罠なのだろうが、リンがこちらに帰ってきたことを今は喜んでいよう、と言う永に従い蕾生はまた誓いを改める。
鈴心と星弥も含めて四人で協力していく。そして自分は皆の盾になる、と。