壁を一枚隔てただけなのに、隣のクラスは別世界のような違和感がある。永と蕾生は入口付近で控えめに中をうかがった。
「いるかな?」
「──あ」
銀騎星弥を見つけたのは蕾生の方だった。するとその視線に気づいたのか彼女の方も蕾生を見定めて席を立ち、こちらへ向かってくる。
「唯くん、周防くん。集めてくれたの?」
早足で息を弾ませながらやってきた彼女の雰囲気には悪い印象など微塵も感じられなかった。人当たりの良さは完璧だと蕾生は思った。
「ごめんね、遅くなって」
「ううん、全然。ありがとう」
にっこり笑った笑顔には見返りを求めない純粋さがあり、その対象に安心感も与える。永調べの「好感度ぶっちぎり」というのも頷ける。
「じゃあ、これよろしく……」
永は紙の束を彼女に渡そうとしつつ、その一番下に潜ませていた用紙を床に落とした。
「あ、ちょっとまって、一枚落ち──?」
「あ、ごめん、違うのが混ざってた!」
いささかわざとらしい声音で言う永は、その落ちた用紙を拾わない。
「これ、うちの研究所のパンフレットだね」
代わりに銀騎星弥がそれを拾い、正体に気づく。少し声の調子が落ちた。
「そうそうそう! この前、見学会に僕達行ったんだ」
獲物がかかった、というような弾んだ声で永は想定通りの台詞を言った。
「そうなの? 二人とも、こういうのに興味あるんだ」
「そりゃあ、あの銀騎博士の研究だもん! 僕達UMAファンからしたらスーパースターだよ、ねえ、ライくん?」
「あ、ああ……」
二人とも、と括られたのは蕾生には不本意だが、乗っておかないと目的は果たせないので渋々頷く。
「唯くんも好きなの? その……未確認生物、みたいの」
「ま、まあ、少し……?」
「そうなんだ、若いのに珍しいね。お祖父様が脚光を浴びた頃ってわたし達まだ生まれてないのに」
言いながら銀騎星弥は苦笑している。お祖父様と呼ぶ様が少しよそよそしくて、あまり喜んではいないように思えた。
「だからさ、この前の見学会はすごくためになったよ。詮充郎博士だけじゃなくて、皓矢博士にも会えたし!」
「兄さん、緊張しいだから頼りなく見えたんじゃない?」
永も彼女の微妙な雰囲気を察したらしく、兄の話題をつけ足してみると、幾分か顔を綻ばせ始めたので、少しほっとした。
「そんな事なかったよ! 皓矢博士のキメラ細胞の研究、医療への実用化に向けて着々と進んでるって聞いて、夢みたいな話だなあって思ったんだよね!」
「うん……最近はそれでずっと研究室にこもっててあんまり会えないの」
寂しそうな顔を見せる彼女に、永は話を畳み掛ける。
「キクレー因子、だっけ? 特殊なDNAで、それを解明すると生物学の根幹が変わるかもしれないんでしょ?」
「すごいね、そんな専門用語まで知ってるなんて」
「そりゃあ、両博士の論文は全部読んだから」
嘘やはったりではなく、永のことだから全部読んだんだろうなと蕾生はこっそりあきれた。
「そうなんだ。論文て全部英語なのに、ますますすごいね」
「僕は銀騎両博士の大ファンだからね!」
両、の部分に力を込めて永は笑った。すると、銀騎星弥は少し言いにくそうに喋り始める。
「あの……もしよかったらなんだけど」
「うん」
もしかして作戦通りのことが起ころうとしているのでは、と永と蕾生の間に緊張が走った。
「周防くんがお祖父様の研究で知ってることを教えて欲しい子がいるんだけど……」
「──うん?」
二人が想像していなかった角度の話が来て、永は思わずうわずった声を上げた。
「あのね、親戚の子を今うちで預かってるんだけど、その子がお祖父様や兄さんの研究についていろいろわたしに聞くの」
「ハア」
遠慮がちに話し始める銀騎星弥を他所に、永は会話の到達点を見失ってしまった。
「でもね、わたし、兄さんみたいに生物学とかさっぱりでよくわからなくて。全然答えられないから、その子に冷ややかな目で見られちゃって……」
「ほう」
永の相槌はなんだか間が抜けてしまっている。会話の行方を懸命に頭の中で試行錯誤しているからだ。
「わたしの代わりに周防くんにその子の話し相手になってもらえたらいいなって思ったんだけど……どうかな?」
「そ、それはつまり、銀騎研究所に行ってってこと?」
「あ、うん。自宅も研究所の敷地内にあるから、もちろん」
──きた、と蕾生は心の中で拳を握った。
永を見ると、目が喜んでいた。即答しそうになる気持ちをぐっとこらえて一応謙遜してみせる。
「いやあ、でも、身内の銀騎さんを差し置いて、僕なんかができるかなあ」
「そんなに深い内容じゃなくていいの。その子、まだ十三歳だから。外部の人が知ってるような基本的なこともわたしはうまく説明できなくて……」
「そう? それならお邪魔させてもらおうかな」
わざとらしく飄々と永は言ってのける。銀騎星弥は嬉しそうに声を弾ませた。
「本当? ありがとう! ──それと、唯くんも一緒に来てくれる?」
「あ、ああ、俺も行ってみてえな」
自分も無事に呼んでもらえた安堵で蕾生は思わず前向きな回答をしてしまった。嬉しそうな彼女の笑顔につられたのだ。
「よかった! じゃあ、今度の日曜日はどうかな?」
「いいよな、永」
「もちろん」
二人が頷くと、銀騎星弥は上着のポケットから携帯電話を取り出した。
「じゃあ、時間とかは調整してから……連絡先交換しない?」
「あ! 僕、携帯電話カバンの中だ。ライくん持ってるでしょ、交換しといて」
「お、おう……」
永に言われて蕾生はズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
「じゃあ……」
銀騎星弥は自分の携帯電話を蕾生の携帯電話の上にかざした。軽快な電子音が番号の交換が成功したことを伝える。
画面の中に女子の名前が入ったのを見て、蕾生は気恥ずかしい心地がした。
「じゃあ、後で連絡するね」
「おう、また」
満足げに笑った銀騎星弥は、プリントの束を持ってその場から立ち去った。
「ちょっと、ライくーん? 初めて女の子の連絡先記録したんじゃない?」
永はニヤニヤしながら蕾生の腕をツンツン突いて揶揄う。
「うっせ! てか、お前携帯持ってないって嘘だろ」
常に情報を取得できる状態にいないと気が済まない永が、携帯電話を携帯していないなどあり得ない。
「バレてたか」
永はペロと舌を出して目を逸らした。
「あいつの番号、俺から教えても大丈夫な雰囲気だったよな?」
「あ、僕はいいです。知りたくないので」
永はきっぱりと冷たく断った。その態度に蕾生もさすがに首を傾げる。
「お前、あいつに関しては徹底してるな……」
「だから、彼女との連絡係はライくんってことで」
「まあ、いいけど」
「別にイイのよ? それ以外でも使っても!」
「しねえよ!」
「ハッハッハ、青春だねえ」
「永!」
ムキになって声を上げてしまったことと、それを永に見透かされている恥ずかしさで蕾生の手の中の携帯電話は汗まみれになってしまっていた。
少し曇り空の日曜日。待ち合わせ時間通りに家から出てきた蕾生に、永は落ち込んで息を吐いた。
「えええー……」
蕾生は、一週間ずっと同じ調子の永に辟易している。さらに今日は不憫な目で見られたので自然と文句がでた。
「お前なあ、ここんとこ毎朝同じ顔してるぞ。そんな顔で迎えられる俺の身にもなってみろ」
「大丈夫? 寝た?」
それでも永は不安そうな表情をやめない。
「寝たよ、大丈夫だよ」
蕾生にとっては言い飽きた台詞だ。ここ一週間は夢も見ることがなく、自分でも驚くくらいに朝起きた時の頭はすっきりしている。けれど永は疑いの眼差しで首を傾げた。
「ほんとかなあ」
「ていうか、昨日は土曜だから、いつもより寝てるからな。それに今日だって早朝ってほどじゃないだろ」
「えええっ、そんな自己管理ができる子じゃなかったのに!」
永は大袈裟に後ずさって衝撃を受けたような顔を見せたが、声が明るいのでふざけはじめたな、と蕾生は面倒くさくなった。
「もういい、行くぞ」
プイとそっぽを向いて先に歩き出す蕾生に、永は慌ててついて行った。研究所は学校と公園を越えた先にあるので、歩く景色はいつもとほぼ変わらない。ただの休日なので若干歩いている人が少なかった。
「あー、めんどくさいなー」
道中の半分を過ぎた頃、永がかったるそうにぼやく。
「え?」
正気かこいつ、と蕾生は怪訝な顔で聞き返してしまった。
「リンのことを探らなくちゃいけないのに、親戚のクソガキの話し相手させられるんでしょー」
「そのクソガキがいたから家に行けるんだろが」
「そうなんだけどさぁ……」
永は口をへの字に曲げたままため息を吐いた。
「まあ、ただ部屋で話すだけじゃ、リンのことなんか探れねえけど、どうするんだ?」
「うん……、例えばその親戚のお子様に取り入って、話を盛り上げて、研究施設見たーいって言ったら見せてくれるかなあ?」
「どうだろうな。銀騎の雰囲気なら頼めば少しは見せてくれるか?」
蕾生は学校での銀騎星弥を思い返す。少し意識を向けるだけで、校内のどこでも彼女の姿を確認することができた。
休み時間は教師の手伝いをしているし、放課後になれば校内清掃をしていたり、蕾生が永に無理矢理押し付けられた監査委員会という死ぬほどつまらない会議にも出席し、一年生の議長までやっていた。
とにかく忙しなく誰かのために動いている。しかも嫌な顔もせず、常に笑顔のままで。彼女なら何を頼んでも快く受けてくれると学校の誰もが思っているようだった。
「だからさ、僕はそのクソガキじゃなくてお子様頑張って洗脳するから、ライくんは銀騎さんを頼むよ」
「ええ!? どうやって?」
永が使った物騒な言葉に蕾生は戸惑った。女子と話すこと自体がほぼ無理なのに、洗脳だなんて月まで飛べと言われる方ができそうだ。
「基本的にはいつも通りのライくんでいいよ。なんか彼女、ライくんのこと気に入ってるみたいだし」
「そんなことねえだろ」
銀騎星弥は誰にでも優しくにこやかに接する。自分だって例外ではないと蕾生自身も疑ってはいなかった。
「んもう、朴念仁はこれだからしょうがない! 口下手なりに一生懸命会話してみ? 多分それで結構いいセンいくと思うな」
人の観察眼にかけて、永より優れた人物に出会ったことはない。永の分析がそう言うならそうなのかもしれない、と蕾生は思い直して自分に向けられた彼女の笑顔を思い出す。
「会話、会話か……」
「頼むよー、自然でいいからね!」
「お、おう……」
ほんとかよ、ついでに揶揄ってんじゃねえだろうなと蕾生は半信半疑だった。だが自分が銀騎星弥と話すしかないのはその通りなので、蕾生はにわかに緊張が増した。
なんだかんだと話していると前回来た研究所の物々しい鉄の通用門が見えてきた。しかし、今回はあらかじめ私用邸への通路を教えられている。
通用口にいる無表情の守衛と接触することなく、少し横にそれてみると鬱蒼と繁った藪の中にレンガ敷きの細い通路があった。これは知らないと認識できないだろう。
蕾生は前回来た時、この辺りは隣の森林公園の敷地だと思っていたのでいささか驚いた。芝生もあまり手入れがされておらず、レンガの通路にまで覆い被さって生えている。歩けばサクサクと音がした。
そうして少し歩いた先に西洋風の大きな門構えが現れる。その中にはこじんまりとした石造りの洋館が建っていた。銀騎研究所がここにできてからまだ十年ほどであるのを鑑みると、この建物はわざと古い技術で建てられたようだ。
研究所の近未来を思わせる造りと、一時代遡ったようなこの邸宅にも同様の異質な雰囲気を感じて蕾生は少し身震いした。永を見ると苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、門柱に設置されたチャイムをすぐに鳴らし、その後はいつもの涼しい顔になっていた。
「いらっしゃい、唯くん、周防くん」
普通ならインターホンが設置してあってこの場で応答するものだが、この建物にはそれがなく、すぐに星弥が玄関から出てきて門を開けた。
「こんにちはー」
「……ウス」
永と蕾生は難なく玄関に招き入れられた。そこは少しひんやりとしていて薄暗い。靴入れや調度品、出されたスリッパに至るまで高価なものだと、一介の高校生にもわかるほどだった。
「いやあ、ほんとに研究所の敷地内にお屋敷があるんだね! この前来た時は全然わからなかったよ」
永はわざとらしく明るい声で話す。そうしてくれたことで蕾生は息がつまりそうな感覚をやっと堪えることができた。
「うん、プライベートな場所は施設内の地図に載せてないから」
「へえ、なるほど……」
「お祖父様は全然こっちには帰って来ないの。兄さんも夜遅くに寝に帰ってくるだけで。母とわたしとすずちゃんだけだと、外に住むよりこっちの方が安全だろうって」
少し困ったように話す星弥は、建物の雰囲気とは逆のラフなカットソーに布製のパンツといった恰好だった。そのおかげで二人の緊張感も少し緩む。
「すずちゃん?」
めざとい永は会話の中の知らない単語をすぐに拾った。
「うん、うちで預かってる子。今連れてくるから、座って待ってて」
「女の子なんだ?」
「うん」
短く返事をした後、星弥は奥の部屋に消えていった。
入れ替わりに黒いワンピースにエプロンをつけた中年の女性が二人を応接室に案内してくれた。
「うそ、これってメイドさん?」
「だろうな」
「生メイド、初めて見た……」
小声であっても聞こえていないはずはないが、家政婦風の女性は何も言わずに二人を案内した後、お茶のポットやお菓子が乗せられたカートをその場に置くと、一礼して部屋から出ていった。
部屋の中が静まりかえる。欧風のソファに暖炉まであり、床には毛の長い絨毯が敷かれている。骨董品と美術品で整えられたその部屋は、応接室のお手本のような完璧さだった。
「ねえ、ライくん。気づいた? 門に付いてるのチャイムだけで、外からの訪問者が名乗ることができなかった」
「うん?」
永の言わんとしてることがわからなくて、蕾生は首を傾げる。
「きっとわからない所に監視カメラがついてて、家人が知ってる人しか入れないんだろうね」
「ああ……?」
「なんか、隠れて住んでるみたい」
その言葉にはたっぷりの侮蔑がこめられていた。表面上はおどけて見せていても、永は敵地に来ているという緊張感を忘れていない。その様子を見て、蕾生も気を引き締めた。
「なあ、永、ここんちの親父さんって──」
「だいぶ前に亡くなってる」
「そっか……」
星弥との会話の中に一度も父親の話が出なかったので、蕾生が一応確認すると永はやはり知っていた。だがそれ以上は今の永には聞ける雰囲気ではなかった。
ふと戸棚の中に小さな写真立てがあるのが見える。銀騎皓矢に似た男性が少し儚げに微笑んでいた。
コンコンと応接室の扉を叩く音がして、蕾生は思考と視線を現実に戻す。星弥が遠慮がちに扉を開けて部屋に入ってきた。
「お待たせ」
そしてその後ろにもう一人分の人影が続く。小柄な少女だった。長い黒髪を左右にレースのリボンで結い、控えめにレースがあしらわれた白いブラウスにピンク色のフレアースカートを纏っている。俯きながら星弥に続いて部屋に入ってきた。
「さ、鈴心ちゃん、ご挨拶して?」
「み、御堂鈴心です。きょ、今日はようこそお越しくださいまし──」
一礼の後顔を上げた少女を見て、永も蕾生も絶句した。
「──」
二人の目の前にいるのは、今最大の目的である人物。リンだった。
「──!」
鈴心と呼ばれたその少女は目を丸くし、口元も開いたまま固まっていた。
「リン!?」
声を揃えて叫んだ蕾生と永に対して、鈴心は少し諦めた様な表情で息を吐く。
「運命には、逆らえないということですか……」
そんな呟きが聞こえる間もなく、反射的に動いたのは永だった。
「リン! お前だったのか! この前の態度はどういうことだ!? なんでそんなに若い!?」
永はそれまでの冷静さを失って、頬を紅潮させながら必死の形相で鈴心に詰め寄り、その細い腕を乱暴に掴む。
「痛い、痛いです。落ち着いてください、ハル様」
鈴心は顔を歪ませて身を捩った。それでも永は手を離さなかった。
「リン! どうして──」
「周防くん、やめて!」
二人の間に星弥が割って入り、永から鈴心を引き離して守るようにたちはだかる。その顔はそれまでの彼女が見せたことのない、険しいものだった。
「永、落ち着け」
今、冷静でいなければならないのは自分の方だ、と蕾生は我に返って永の肩を掴んで低めの声で言う。
「あ──ごめん」
動揺が収まらない永の、焦点の定まらない目。そんなものを見るのは初めてだった。
「とりあえず、座れ」
蕾生は強引に永をソファに沈める。永は黙って従った後、項垂れて両手で顔を覆いながら悲痛な声を絞り出した。
「訳がわからないよ、リン……」
そんなに弱々しい声も蕾生は初めて聞く。その永を見て顔を青ざめ、唇を噛んでいる鈴心の表情には罪悪感が見てとれた。
そんな二人の間に流れる張り詰めた緊張感と蕾生にはまだわからない空気感に、何も言うことができなかった。
部屋に流れるその異質な空気を、星弥の厳しい声が刺した。
「なんなの? みんなは知り合いなの? リンってなんのこと?」
まるで自分の住処を荒らされた猫のように苛立ちを隠さない彼女に、鈴心がその背に向かって静かに言った。
「星弥、席を外してもらえませんか? この二人と話があるんです」
「ダメです!」
星弥の放つ大きな声は、猫に引っかかれたかのような衝撃を蕾生に与えた。
「星弥……」
鈴心は呆れたように溜息を吐く。
「すずちゃんを見ただけで取り乱すような人と、わたし抜きで話すなんて絶対にダメです!」
「星弥、お願いします」
振り返った星弥の腕に縋って、鈴心は丁寧に頭を下げた。
「とても、大事な話なんです」
その態度に幾らか心を和らげた星弥は、困った顔のまましばらく何かを考えた後、意を決した表情でまず部屋の鍵をかけた。そして窓のカーテンを全て閉めた後、鈴心の方を見て言う。
「これが人払いできる精一杯です!」
頑固な雰囲気を崩さずに星弥は鈴心の隣に座り、そこから動かなかった。
星弥の頑固な態度に、肩で大きく息を吐いて鈴心は永に問いかける。
「ハル様、星弥も同席して構いませんか?」
「……でないと説明してもらえないなら仕方ないね」
永は顔色を少し取り戻しており、薄く笑った。
「ライ、あなたも座りなさい」
立っていた蕾生の方を向いて、鈴心は顎で促した。その偉そうな態度に少し怒りも感じたが、とりあえず何も言わずに蕾生も永の隣に座る。
「星弥、後でわからないことは説明しますから、会話を遮らないように」
「はい!」
永と蕾生の対面に鈴心と星弥が揃って座る。鈴心に釘を刺された星弥は忠犬のように返事をするとともに、鈴心の肩をがっちりと掴んでいた。
「まず……そうですね、今の私の名前は御堂鈴心です。年は十三。今年十四になります」
星弥の過保護な態度に呆れつつも、鈴心は深呼吸した後静かに語る。その言葉に永は意外そうな顔をしてみせた。
「驚いた、初めて教えてくれたな」
「そうですね、今までは私がリンであることが重要だと思っていたので。ですが、今回は私のことは鈴心と呼んでください」
「リンじゃだめなの?」
「星弥が混乱しますので」
短く答える鈴心の言葉に、何故か満足そうに頷いている星弥。その二人の間にある特別な空気を永も蕾生も感じ始めていた。
「私が転生した家は、銀騎の親戚筋のひとつです。ですが、今はこうやって銀騎の家に厄介になっています」
再び語り始めた鈴心の言葉を継ぐ形で星弥が喋り出す。
「あのね、すずちゃんのお母様身体が弱くて、夫婦で転地療養に行ってるの。そしたらお祖父様がすずちゃんはうちで預かることにしたからって──」
「星弥、黙って」
「ごめんなさい!」
冷たい目で鈴心が睨むと、星弥は弾かれたように謝った後、自分の口を両手で覆う。
「これは単なる事実に過ぎませんが、私はいつもより二年遅れて産まれました。それから記憶が覚醒したのはよく覚えていないのですが、とても幼い頃だったように思います」
「おれとライのことも小さい頃から思い出してたのか?」
鈴心に対する永の態度が、蕾生の知る永と少し違うことがその口調とともに露わになっていく。
「そうですね。わかってました。けれど私は行動しませんでした」
「何故!? いつもなら思い出したら真っ先に駆けつけてくれてたろう?」
永は身を乗り出して鈴心に詰め寄る。すると星弥が鈴心を守ろうと半ば抱きつくように手を伸ばす。それをめんどくさそうに払って鈴心は続けた。
「幼かったので、物理的に無理があったのと──今回の転生では自省する時間が多くあったためです」
「……何を考えていたんだ?」
永が聞くと、鈴心は少し躊躇った後きっぱりと言い放った。
「結論から言えば、私はもう嫌になりました。何度も何度も同じ事の繰り返し。希望の光さえ見えない、こんな運命に」
その瞳は、あの温室で見た時のような、拒絶の意思がこもっていた。
「リン、お前を巻き込んだことは本当にすまないと思ってる。だけど、そのことは乗り越えたはずだろう?」
永は驚く様子も見せず、むしろ当然のように受け止めて確かめるように言う。もしかしたら過去にも同じやり取りを何度もしたのかもしれないと蕾生は思った。
「そう、ですね。そうだと思ってました。でもやっぱり思ってしまったんです。貴方達に会わなければ、もっと長く生きられるかもしれないって」
「──!!」
それは、言ってはいけない言葉だ。
蕾生は頭に血が昇っていくのを感じつつもぐっと堪えた。言われた永がとても衝撃を受けていたからだ。
「……お前だけ二年遅れて生まれた理由について考えたことは?」
声を震わせながら、永は話題を変えた。
「わかりません。何度も転生を繰り返しているうちに歪みが生じたのかも」
「御堂の家に生まれた理由も?」
「偶然でしょう。偶々、縁があっただけです」
淡々と話す鈴心に、永は苛立ちながら語気を強めていく。
「お前はこれが偶然だって言うのか? 今までのおれ達の運命に偶然なんて一度だってあったか?」
「私は偶然だと思っています」
「『御堂鈴心、十三歳』! こんなに短い自己紹介文の中に数えきれないほど謎がある! お前だってわかってるんだろう!?」
永は鈴心との距離を遮っているテーブルを叩いて叫んだが、鈴心は冷静な態度を崩さずに首を振った。
「──もう、考えたくないんです」
その拒絶の言葉は、先日会った時よりも感情が込められていて、説得力があった。
「リン、お前が何か大変なことを背負ってるのはおれだって気づいてる! お前に聞きたくても聞けなかったことだってある! 言ってくれよ、考えるから! おれがお前も助けるから!」
悲しい叫びだった。
助ける、と言っているのに「助けて」と手を伸ばしているのは永の方だ。この表情を一度だけ蕾生も見たことがある。
「僕には君が必要なんだ」と笑って差し伸べた手は、本当は手をとってくれるのを待っている。
鈴心にも永の心中は伝わっているはずなのに、微かに微笑んだ後もう一度首を振った。
「ハル様、私にはもう何もないんです」
「リン、どうしてだよ。側に──いてくれよ」
懇願する永の言葉も、隠さずに見せた本音も、断ち切るように鈴心は立ち上がった。顔を伏せたままなのでその表情は見えない。
「話は終わりです。もう鵺なんて忘れてください。そして、できるだけ長く──生きてください」
永に小さな背を向け淡々と言い捨てて、鈴心は部屋を出ようとする。
「待てよ、鈴心」
「……」
蕾生の呼びかけに、鈴心は一瞬立ち止まった。
「いちいち記憶がリセットされる俺よりも、お前の方が永と濃い時間を過ごしてきたんだろ。なんでそんな簡単に切り捨てられるんだ?」
「……」
永の好意も誠意も踏み躙った鈴心には、ぶん殴ってでも謝らせたい程に蕾生は怒っていた。けれどそれは永が望まないだろうから、努めて冷静に言い聞かせるつもりで言う。
「お前には今の永の言葉が──気持ちが、届かなかったのか? 永はお前が必要だって言ってるんだぞ!」
すると鈴心はふと笑って視線だけ振り返った。
「ライ……相変わらずハル様第一ですね」
「相変わらずかどうかは覚えてねえ」
「あなたはそれでいい。ハル様を頼みます」
そう言うと、今度こそ鈴心は踵を返して部屋を出ていった。
「鈴心!!」
静かに扉が閉まる。蕾生の叫びは空を切って散っていった。
蕾生の叫びが空しく響いた後の部屋には重い空気感が漂っている。
星弥は永と蕾生を交互に見るけれど、どう声をかけていいのかさっぱりわからなかった。
かたや肩を落として力無く座っている者と、かたや立ち尽くしたまま世界を滅ぼしかねない程怒っている者。どちらの気持ちを思っても、何を言っても軽々しいものになりそうで。
仕方なく星弥はすっかり存在を忘れていたお茶のセットに手を伸ばし、淹れはじめた。
「えっと……もう少し事情を聞いても?」
温かく湯気の出た紅茶を携えてテーブルにそれぞれ並べた後、そう切り出した星弥に蕾生は少しバツが悪そうに謝った。
「ああ、悪かった。騒いじまって」
「ううん、いいの。それに、すずちゃんの方が一方的で悪かったよう……な?」
星弥の言葉に蕾生は少し驚いた。今までの態度からすれば鈴心側に立って言いそうなものなのに、こちら側にも一定の理解を示してくれるとは。
「いや、悪いとかじゃないと思う」
「そうなの?」
ならば、と蕾生は星弥にあらましを教えてみてもいいかもしれないと思った。今、永はその判断ができないから。
「俺達三人は、鵺の呪いってやつでずっと昔から転生を繰り返しているらしい」
「らしいって?」
星弥の言葉尻を捉えた質問は的確で、もともと説明することが苦手な蕾生は無意識に頭を掻いた。
「俺は呪いが一番濃いみたいで、記憶がねえんだ。だから、俺も知ったのは最近で」
「そう……」
「永の方はずっと──最初に呪いを受けた時からの記憶があるし、鈴心もそうらしい」
「すずちゃんも?」
言いながら、自分がわかっている情報を整理しようとするが整理するほどの引き出しがなくて、蕾生は情けなくなってきた。
「永と鈴心は鵺の呪いを解こうとして転生を繰り返してる。俺は覚えてないから過去に何をしてきたのかわからねえ」
「そうなんだ……」
「鈴心は昔からリンって呼ばれてて、毎回俺達のところに十五ぐらいでやってきて、呪いを解くために動いてたっぽい……」
「ああ、それで『なんで若いんだ』って言ってたんだね? すずちゃんはまだ十三歳だもん」
「まあ、そうだ。──で、えーっと……あー……」
引き出しの中身が尽きた。頭の中のタンスは蹴っ飛ばしてもひっくり返しても、もう何も出てこない。
「おい、永! いつまで落ち込んでんだ! 俺じゃ、これ以上はわかんねえぞ!!」
蕾生が癇癪をぶつけると、それまで落ち込んでいたはずの永は肩を震わせて笑いをこらえていた。
「はあー、ライくんの理解度がこんなもんだとはねえ……」
「お前がほとんど教えてくんねえからだろ!」
蕾生が喚くと、永は顔を上げて見せる。そこにはいつも通りの人を食ったような表情の永がいた。
永はうんと伸びをして座り直し、すっきりした顔で笑った。
「──よし! 落ち込むのやめ! ありがと、ライくんが場を繋いでくれたおかげで冷静になれた」
「お、おう……。で、これからどうするんだ?」
「リンのことは絶対にあきらめない。あいつは何かを隠してる」
永はブレていなかった。それでこそだ、と蕾生も安心した。
「──だろうな」
まだこれからだ。二人の間にはまだ諦めるという選択肢はない。希望はあると信じて頷き合った。