絶え間ない頭痛に悩む彼女。
そんな彼女のMRI画像に、影が映った。
その影を見た医師は、それを脳腫瘍ではなく繭だと言った。
世界でもまだ数例しか報告されていない奇病に治療法はなく、彼女はただ死を待つことになる。
手の施しようのない病に対して、医師は一般的な鎮痛剤の処方と――ただ一つの指示を出した。
◇
「果穂。今日の調子はどう?」
「相変わらず、頭痛かな。でも、お薬飲んだからじきに効いてくると思うよ」
彼女の病を知ってから、毎朝繰り返されるやり取り。
今日も彼女は頭痛を抱えながら、曖昧に微笑む。
彼女の笑みは、初めて出会った大学の新歓コンパの時から変わらない。
成人済みの浪人組に紛れて酒を飲む現役組もいるなかで、彼女は柔らかく微笑みながらもきっぱりと酒の誘いを断っていた。
白く飛ぶようなぼんやりとした表情とは裏腹に、芯が強そうなところに強く惹かれた。
僕はというと、彼女を見習って酒を断っていたはずだったのに、悪ノリした先輩たちにウーロン茶とウーロンハイが挿げ替えられていたことに気づかず、自分は酒を飲んではいけない体質なのだと知った。
謝罪する先輩たちに悪態をつきながらも彼女の介抱を受け、僕は抜け目なく連絡先を交換した。
一年かけて交友を深め、交際に発展した。
お互い地元を遠く離れた下宿生ということもあり、残りの三年はほぼ同棲状態だった。
二人ともUターン就職はせずに下宿先を拠点に就職活動を行い、就職して半年経ったころに正式に同棲を始めた。
お互いの実家に挨拶をという話になったが彼女の両親と祖父母は既に亡くなっており、唯一の親戚である年老いた伯父はあまり関心がないようで電話先での挨拶で終わった。
僕の両親は、結婚を前提とした同棲ではなくさっさと籍を入れればいいのにとため息をついた。
もちろん僕はそれでもよかったのだけれど、彼女の方が何があるかわからないからといつものように微笑む。
半同棲とはいえ24時間365日同じ家で生活してきたわけではないし、暮らしてみてやっぱりちょっとという可能性もある。
まだまだ破局の可能性があると考えると、身が引き締まる思いだった。
けれど、繭の大きさから医師が逆算した内容によると、その頃の彼女の頭の中には、もう……
正しく、虫の知らせだったのかもしれない。
「今日も、いつも通りの時間?」
「うん。遅くなりそうだったら連絡するね」
玄関でスニーカーを履く彼女を見送る。
彼女の仕事はシフト制で、土日も仕事が入ることも多かった。
僕の方はカレンダー通りの休みであることがほとんどで、彼女の帰宅に合わせて夕食の用意をするのが常だった。
タイミング良く料理を完成させられると、なかなかの達成感があり、良いストレス発散になっていた。
彼女を見送ると洗濯機のスイッチを入れ、スマホで近所のスーパーのチラシをチェックする。
生姜焼き用の豚肉が特売になっており、メニューはあっさり決まった。
メインが生姜焼きなら汁物は味噌汁が良いだろうし、つけ合わせはキャベツの千切りをベースにサラダかな。もう一品欲しいところだけど、野菜類は何が安いだろう。拡大したチラシをスワイプする。
彼女の病が見つかったところで、日常はなにも変わらない。
変わらない。
変わらないと、思いたかった。
――二十時。
基本的に彼女の仕事に残業はなく、いつも決まった時間の電車に乗って帰ってきていた。
ドラッグストアとかに寄り道をするなら「買って帰るものある?」といつもLINEを送ってくれる。
それもなく、この時間まで帰ってこないのは変だった。
僕は上着を手に取ると、彼女の通勤路をたどり始めた。
吐く息が白い。
日中はまだ温かいけど、朝晩は呼吸が見えるようになってきた。
彼女が今朝辿り、今辿り返してきているであろう道を行く。
徒歩十分、駅までの道を中頃過ぎる。彼女が使っていない、私鉄の線路を超える橋に差し掛かった。
そこに彼女はいた。
柵に胸を寄せて、その向こうに両手をたらし、じっと丸い目ではるか下の線路を見つめている。
瞬きもせず、表情もなく――僕は、カマキリを思い出していた。
「果穂」
僕が彼女の名前を口にすると、彼女の瞼が閉じて開いて、光が戻った気がした。
柵に手を置いた彼女が、振り返って微笑む。
「ただいま」
朗らかな笑顔に、胸を撫で下ろす。
彼女が帰ってきた。
「おかえり」
泣きそうな気持ちで僕は彼女の手を取り、柵からそっと引き離す。
彼女の病に対して、医師が出したただ一つの指示――自殺に気を付けてください。
◇
こんなものに例えて申し訳ないのですが。
そう前置きをして医師はカマキリとハリガネムシの話をした。
カマキリを水につけると尻から出てくることのあるハリガネムシ。
小学生の時に、僕もやった記憶がある。
見ていて気持ちのいい光景ではなかったけれど、妙な高揚感があったことを覚えている。
カマキリに寄生して成長したハリガネムシは繁殖のためにカマキリの腹を出て水に潜る必要があったが、宿主であるカマキリは溺水の危険があり天敵も多い水辺に寄ることはほとんどない。
それでも、ハリガネムシは水を求める。
好奇心旺盛な子どものイタズラを、ハリガネムシが待つわけもない。
ハリガネムシは特殊なたんぱく質をカマキリの脳に注入して、カマキリを水辺へと誘う。
入水自殺に誘う。
ハリガネムシに操られるがまま入水したカマキリはそのまま溺死するか、魚のエサになって死ぬ。
運良く生き残れても、待っているのは衰弱死。
彼女の頭の中の繭も、彼女のなかで同じことをするという。
宿主の中で成長して繭になるが、羽化するために宿主を死に追いやるのだという。
神経を狂わし、宿主を死へと誘う、繭。
それが彼女の影の正体だった。
医師は自殺に気を付けるよう言う一方で、一つの症例も示した。
彼女と同じ繭に寄生された海外の男性。
自殺未遂を繰り返し身体拘束を余儀なくされたなかで、彼は自殺した。
どうやって――?
彼は息を止めた。
ただ、自らの意思で息を止めただけだった。
限界まで息を止めたところで、失神すれば呼吸は再開され命に関わることはない。そのはずだった。
でも、彼は死んだ。
止める術のない不治の病だと、彼女は余命を告げられた。
◇
一瞬、雨が降っているのかと思った。
いつの間にか眠っていたらしい。
彼女とくるまっていたはずのブランケットには僕一人しかいなくて、エンドクレジットの流れるテレビをそのままにソファーから起き上がる。
雨音がするのに、窓から見た空は晴れ渡っていた。
ひとつの予感を覚えながら、けだるい足を浴室へと進ませる。
震えそうになる手を、心を凍らせることで押さえつける。
揺れ動きそうになる感情を抑え込みながらポケットのスマホを取り出し、エマージェンシーコールの準備をする。
いい時代になったものだと思う。
前もって設定しておけば、緊急通報の番号や自宅の住所さえ吹っ飛ぶような状況でもなんとかなる。
浴室の扉を開けて、エマージェンシーコールの警告音が鳴り響かせる。
その光景から目を逸せない自分を叱咤して、スマホを操作させる。
画面をスワイプさせてメディカルIDを表示させると、電話の向こうにそれを告げる。
今まで聞いたことがないぐらい、自分の声は震えていた。
浴室には彼女がいた。
彼女はお風呂に入っていた。
洋服を着たまま葡萄酒のような湯につかり、目を閉じている。
彼女の瞼をシャワーの水が絶え間なく濡らして、湯気が立ち込めて白く霞む。
排水溝の金網の上で、カミソリが赤い雫を垂らしていた。
◇
今日も彼女は微笑む。
まぶしくて、涙が出そうになる。
そっと彼女の頬に唇を落とすと、くすぐったそうに笑う。
ハリガネムシに寄生されたカマキリは、生殖能力を失うのだという。
なら、彼女はどうなのだろう?
彼女の命の輪郭を見るように、温かな体を撫でる。中の熱を、辿る。
このまま彼女が僕の手をすり抜けて、繭に誘われてしまうのなら。それを確かめてみたい衝動に駆られる。
彼女がここに生きた証を。
僕と紡いだ時間の証を。
けれど、それは出来なかった。
いつ絶えるかもわからない彼女の命に、もう一つの代えがたい命を添えることなど出来なかった。
僕が女であればよかった。
そしたらきっと、願えた願いだった。
彼女を感じながら、涙が止まらない。
彼女の頬に降る涙。
彼女はそれをぬぐわずに、僕の頬をぬぐった。
熱い吐息。
ラテックス越しにとろけそうな彼女の熱を感じながら、本当にこのまま溶けて彼女と永遠になれれば良いのにと思った。
◇
疲弊していた。
彼女の主治医は僕にも薬を処方するようになり、彼女の入院を提案するようになっていた。
僕の両親は帰って来いと言い、彼女の伯父は彼女を引き取ると言った。
それでも僕はわがままだった。
彼女の手を離せなかった。
彼女を手離せなかった。
手を離せばもう二度とこの体温を感じられないかもしれないという恐怖と、手離せば楽になれるという確信が、せめぎ合う。
「果穂」
名前を呼ぶと、瞼の下の目が動いたのがわかった。
点滴の針が刺された腕を撫でると、歪な肌の感触がした。
腕の傷はすっかり治っていた。それでも、救急車のサイレンを聞く日々は続いていた。
リノリウムの床に目を落とし、吐き出しそうになるため息をぐっと堪える。
「かえろう」
掠れた声に目線を戻すと、眠っていたはずの彼女と目が合う。
「うん、帰ろう」
僕は彼女の声に頷き、手を握りしめる。
彼女が死ぬまで、ずっと―ー……
◇
「果穂」
今日も僕は彼女の名前を呼ぶ。
彼女は屋上のフェンスの向こうに立っていた。
白いワンピースの裾がはためく。
振り返った彼女の笑顔は今日もまぶしい。
「かえろう」
震える僕の声に、彼女の笑顔は崩れない。
「……そうね。プリン、買ってたの。忘れてた。一緒に食べよう」
風に乱れる髪を押さえて笑う彼女が、青空によく映える。
戻ってきた彼女の体を抱き締める。
震える僕の体に気づいていないわけがないのに、彼女は晴れやかだった。
彼女が頬を摺り寄せてくる。
噛み締めるように日々を過ごす。
甘い砂糖菓子のように、ほろほろほろほろと溶けていく。
あまりにも穏やかな日々だった。
彼女が死を恐れていないのが、唯一の救いだった。
それが、繭のせいだとしても……
◇
お別れの日は、突然だった。
なぜ気づかなかったのだろうと、愕然とする。
目を覚ますと、隣で彼女が冷たくなっていた。
僕の体に触れる形で手は硬くなり、閉じられた目は二度と開かれない。
けれど、彼女の顔は穏やかだった。
触れなければ、このまままた目を覚ましていつも通り「おはよう」と笑ってくれると信じて疑わなかっただろう。
呼ぶべきなのは救急車なのか警察なのか葬儀社なのか、思考がまとまらない。
胸の奥が冷え切り感情が凍ったように動かない。
「果穂」
そっと彼女の名前を口にしてみても、瞳は乾いままで涙さえ出てきてはくれなかった。
恐怖と安堵。
安堵が勝ってしまったのかと自分に絶望しかけたその時――こそり、と紙をこすり合わせたような音がした。
目を見開いて彼女の顔をじっと見つめると、また乾いた音がした。
永遠に眠る彼女の口元から、その音は聞こえてきていた。
瞬きも出来ずに彼女を見つめ、そっと手を伸ばす。
硬く乾いた彼女の唇に触れ、優しく開くと彼女の綺麗な歯が僕の指を食んだ。
そして生まれた隙間から、“それ”は姿を現した。
不思議な虫だった。
蜻蛉のように儚げな影に、宝石を削り出したような眼。
蝶のように艶やかな翅はガラスのように透き通って、尾毛は鳥のようでもあった。
指の関節二つ分ほどの、そう大きくはない虫だった。
とてもとても美しい虫だった。
その虫が翅を震わす。
貝で作った鳴子のような、軽やかな音がした。
早く、窓を閉めなければと思った。
夜が涼しくなってきて、クーラーを止めて窓を開けるようになっていた。
摩耗する日々に日常は疎かになり、破れた網戸は放置されている。
そう思っても、体は動かなかった。
ふわりと舞う。
飛び立つ。
妙なる楽のような羽音が響き渡り、虫は弧を描く。
ひとしきり部屋の中を一巡すると、それはそのまま飛び去っていった。
薄く開いた窓の外、ペンキをぶち撒けたような薄い青空へ。
明るい空に目が眩む。
彼女の繭は行ってしまった。
僕に見向きもせず、彼女に添えられた命は飛び立ってしまった。
それを僕は、呆然と見送ることしか出来なかった。
眩しさに目が痛み、涙が出る。
白く焼けるような、彼女の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
僕は慟哭した。
彼女の亡き骸をかき抱いて、子どものように声を上げて泣いた。
何者も彼女の代わりには成れない。
彼女は永遠に失われてしまった。
「彼女の繭」了
そんな彼女のMRI画像に、影が映った。
その影を見た医師は、それを脳腫瘍ではなく繭だと言った。
世界でもまだ数例しか報告されていない奇病に治療法はなく、彼女はただ死を待つことになる。
手の施しようのない病に対して、医師は一般的な鎮痛剤の処方と――ただ一つの指示を出した。
◇
「果穂。今日の調子はどう?」
「相変わらず、頭痛かな。でも、お薬飲んだからじきに効いてくると思うよ」
彼女の病を知ってから、毎朝繰り返されるやり取り。
今日も彼女は頭痛を抱えながら、曖昧に微笑む。
彼女の笑みは、初めて出会った大学の新歓コンパの時から変わらない。
成人済みの浪人組に紛れて酒を飲む現役組もいるなかで、彼女は柔らかく微笑みながらもきっぱりと酒の誘いを断っていた。
白く飛ぶようなぼんやりとした表情とは裏腹に、芯が強そうなところに強く惹かれた。
僕はというと、彼女を見習って酒を断っていたはずだったのに、悪ノリした先輩たちにウーロン茶とウーロンハイが挿げ替えられていたことに気づかず、自分は酒を飲んではいけない体質なのだと知った。
謝罪する先輩たちに悪態をつきながらも彼女の介抱を受け、僕は抜け目なく連絡先を交換した。
一年かけて交友を深め、交際に発展した。
お互い地元を遠く離れた下宿生ということもあり、残りの三年はほぼ同棲状態だった。
二人ともUターン就職はせずに下宿先を拠点に就職活動を行い、就職して半年経ったころに正式に同棲を始めた。
お互いの実家に挨拶をという話になったが彼女の両親と祖父母は既に亡くなっており、唯一の親戚である年老いた伯父はあまり関心がないようで電話先での挨拶で終わった。
僕の両親は、結婚を前提とした同棲ではなくさっさと籍を入れればいいのにとため息をついた。
もちろん僕はそれでもよかったのだけれど、彼女の方が何があるかわからないからといつものように微笑む。
半同棲とはいえ24時間365日同じ家で生活してきたわけではないし、暮らしてみてやっぱりちょっとという可能性もある。
まだまだ破局の可能性があると考えると、身が引き締まる思いだった。
けれど、繭の大きさから医師が逆算した内容によると、その頃の彼女の頭の中には、もう……
正しく、虫の知らせだったのかもしれない。
「今日も、いつも通りの時間?」
「うん。遅くなりそうだったら連絡するね」
玄関でスニーカーを履く彼女を見送る。
彼女の仕事はシフト制で、土日も仕事が入ることも多かった。
僕の方はカレンダー通りの休みであることがほとんどで、彼女の帰宅に合わせて夕食の用意をするのが常だった。
タイミング良く料理を完成させられると、なかなかの達成感があり、良いストレス発散になっていた。
彼女を見送ると洗濯機のスイッチを入れ、スマホで近所のスーパーのチラシをチェックする。
生姜焼き用の豚肉が特売になっており、メニューはあっさり決まった。
メインが生姜焼きなら汁物は味噌汁が良いだろうし、つけ合わせはキャベツの千切りをベースにサラダかな。もう一品欲しいところだけど、野菜類は何が安いだろう。拡大したチラシをスワイプする。
彼女の病が見つかったところで、日常はなにも変わらない。
変わらない。
変わらないと、思いたかった。
――二十時。
基本的に彼女の仕事に残業はなく、いつも決まった時間の電車に乗って帰ってきていた。
ドラッグストアとかに寄り道をするなら「買って帰るものある?」といつもLINEを送ってくれる。
それもなく、この時間まで帰ってこないのは変だった。
僕は上着を手に取ると、彼女の通勤路をたどり始めた。
吐く息が白い。
日中はまだ温かいけど、朝晩は呼吸が見えるようになってきた。
彼女が今朝辿り、今辿り返してきているであろう道を行く。
徒歩十分、駅までの道を中頃過ぎる。彼女が使っていない、私鉄の線路を超える橋に差し掛かった。
そこに彼女はいた。
柵に胸を寄せて、その向こうに両手をたらし、じっと丸い目ではるか下の線路を見つめている。
瞬きもせず、表情もなく――僕は、カマキリを思い出していた。
「果穂」
僕が彼女の名前を口にすると、彼女の瞼が閉じて開いて、光が戻った気がした。
柵に手を置いた彼女が、振り返って微笑む。
「ただいま」
朗らかな笑顔に、胸を撫で下ろす。
彼女が帰ってきた。
「おかえり」
泣きそうな気持ちで僕は彼女の手を取り、柵からそっと引き離す。
彼女の病に対して、医師が出したただ一つの指示――自殺に気を付けてください。
◇
こんなものに例えて申し訳ないのですが。
そう前置きをして医師はカマキリとハリガネムシの話をした。
カマキリを水につけると尻から出てくることのあるハリガネムシ。
小学生の時に、僕もやった記憶がある。
見ていて気持ちのいい光景ではなかったけれど、妙な高揚感があったことを覚えている。
カマキリに寄生して成長したハリガネムシは繁殖のためにカマキリの腹を出て水に潜る必要があったが、宿主であるカマキリは溺水の危険があり天敵も多い水辺に寄ることはほとんどない。
それでも、ハリガネムシは水を求める。
好奇心旺盛な子どものイタズラを、ハリガネムシが待つわけもない。
ハリガネムシは特殊なたんぱく質をカマキリの脳に注入して、カマキリを水辺へと誘う。
入水自殺に誘う。
ハリガネムシに操られるがまま入水したカマキリはそのまま溺死するか、魚のエサになって死ぬ。
運良く生き残れても、待っているのは衰弱死。
彼女の頭の中の繭も、彼女のなかで同じことをするという。
宿主の中で成長して繭になるが、羽化するために宿主を死に追いやるのだという。
神経を狂わし、宿主を死へと誘う、繭。
それが彼女の影の正体だった。
医師は自殺に気を付けるよう言う一方で、一つの症例も示した。
彼女と同じ繭に寄生された海外の男性。
自殺未遂を繰り返し身体拘束を余儀なくされたなかで、彼は自殺した。
どうやって――?
彼は息を止めた。
ただ、自らの意思で息を止めただけだった。
限界まで息を止めたところで、失神すれば呼吸は再開され命に関わることはない。そのはずだった。
でも、彼は死んだ。
止める術のない不治の病だと、彼女は余命を告げられた。
◇
一瞬、雨が降っているのかと思った。
いつの間にか眠っていたらしい。
彼女とくるまっていたはずのブランケットには僕一人しかいなくて、エンドクレジットの流れるテレビをそのままにソファーから起き上がる。
雨音がするのに、窓から見た空は晴れ渡っていた。
ひとつの予感を覚えながら、けだるい足を浴室へと進ませる。
震えそうになる手を、心を凍らせることで押さえつける。
揺れ動きそうになる感情を抑え込みながらポケットのスマホを取り出し、エマージェンシーコールの準備をする。
いい時代になったものだと思う。
前もって設定しておけば、緊急通報の番号や自宅の住所さえ吹っ飛ぶような状況でもなんとかなる。
浴室の扉を開けて、エマージェンシーコールの警告音が鳴り響かせる。
その光景から目を逸せない自分を叱咤して、スマホを操作させる。
画面をスワイプさせてメディカルIDを表示させると、電話の向こうにそれを告げる。
今まで聞いたことがないぐらい、自分の声は震えていた。
浴室には彼女がいた。
彼女はお風呂に入っていた。
洋服を着たまま葡萄酒のような湯につかり、目を閉じている。
彼女の瞼をシャワーの水が絶え間なく濡らして、湯気が立ち込めて白く霞む。
排水溝の金網の上で、カミソリが赤い雫を垂らしていた。
◇
今日も彼女は微笑む。
まぶしくて、涙が出そうになる。
そっと彼女の頬に唇を落とすと、くすぐったそうに笑う。
ハリガネムシに寄生されたカマキリは、生殖能力を失うのだという。
なら、彼女はどうなのだろう?
彼女の命の輪郭を見るように、温かな体を撫でる。中の熱を、辿る。
このまま彼女が僕の手をすり抜けて、繭に誘われてしまうのなら。それを確かめてみたい衝動に駆られる。
彼女がここに生きた証を。
僕と紡いだ時間の証を。
けれど、それは出来なかった。
いつ絶えるかもわからない彼女の命に、もう一つの代えがたい命を添えることなど出来なかった。
僕が女であればよかった。
そしたらきっと、願えた願いだった。
彼女を感じながら、涙が止まらない。
彼女の頬に降る涙。
彼女はそれをぬぐわずに、僕の頬をぬぐった。
熱い吐息。
ラテックス越しにとろけそうな彼女の熱を感じながら、本当にこのまま溶けて彼女と永遠になれれば良いのにと思った。
◇
疲弊していた。
彼女の主治医は僕にも薬を処方するようになり、彼女の入院を提案するようになっていた。
僕の両親は帰って来いと言い、彼女の伯父は彼女を引き取ると言った。
それでも僕はわがままだった。
彼女の手を離せなかった。
彼女を手離せなかった。
手を離せばもう二度とこの体温を感じられないかもしれないという恐怖と、手離せば楽になれるという確信が、せめぎ合う。
「果穂」
名前を呼ぶと、瞼の下の目が動いたのがわかった。
点滴の針が刺された腕を撫でると、歪な肌の感触がした。
腕の傷はすっかり治っていた。それでも、救急車のサイレンを聞く日々は続いていた。
リノリウムの床に目を落とし、吐き出しそうになるため息をぐっと堪える。
「かえろう」
掠れた声に目線を戻すと、眠っていたはずの彼女と目が合う。
「うん、帰ろう」
僕は彼女の声に頷き、手を握りしめる。
彼女が死ぬまで、ずっと―ー……
◇
「果穂」
今日も僕は彼女の名前を呼ぶ。
彼女は屋上のフェンスの向こうに立っていた。
白いワンピースの裾がはためく。
振り返った彼女の笑顔は今日もまぶしい。
「かえろう」
震える僕の声に、彼女の笑顔は崩れない。
「……そうね。プリン、買ってたの。忘れてた。一緒に食べよう」
風に乱れる髪を押さえて笑う彼女が、青空によく映える。
戻ってきた彼女の体を抱き締める。
震える僕の体に気づいていないわけがないのに、彼女は晴れやかだった。
彼女が頬を摺り寄せてくる。
噛み締めるように日々を過ごす。
甘い砂糖菓子のように、ほろほろほろほろと溶けていく。
あまりにも穏やかな日々だった。
彼女が死を恐れていないのが、唯一の救いだった。
それが、繭のせいだとしても……
◇
お別れの日は、突然だった。
なぜ気づかなかったのだろうと、愕然とする。
目を覚ますと、隣で彼女が冷たくなっていた。
僕の体に触れる形で手は硬くなり、閉じられた目は二度と開かれない。
けれど、彼女の顔は穏やかだった。
触れなければ、このまままた目を覚ましていつも通り「おはよう」と笑ってくれると信じて疑わなかっただろう。
呼ぶべきなのは救急車なのか警察なのか葬儀社なのか、思考がまとまらない。
胸の奥が冷え切り感情が凍ったように動かない。
「果穂」
そっと彼女の名前を口にしてみても、瞳は乾いままで涙さえ出てきてはくれなかった。
恐怖と安堵。
安堵が勝ってしまったのかと自分に絶望しかけたその時――こそり、と紙をこすり合わせたような音がした。
目を見開いて彼女の顔をじっと見つめると、また乾いた音がした。
永遠に眠る彼女の口元から、その音は聞こえてきていた。
瞬きも出来ずに彼女を見つめ、そっと手を伸ばす。
硬く乾いた彼女の唇に触れ、優しく開くと彼女の綺麗な歯が僕の指を食んだ。
そして生まれた隙間から、“それ”は姿を現した。
不思議な虫だった。
蜻蛉のように儚げな影に、宝石を削り出したような眼。
蝶のように艶やかな翅はガラスのように透き通って、尾毛は鳥のようでもあった。
指の関節二つ分ほどの、そう大きくはない虫だった。
とてもとても美しい虫だった。
その虫が翅を震わす。
貝で作った鳴子のような、軽やかな音がした。
早く、窓を閉めなければと思った。
夜が涼しくなってきて、クーラーを止めて窓を開けるようになっていた。
摩耗する日々に日常は疎かになり、破れた網戸は放置されている。
そう思っても、体は動かなかった。
ふわりと舞う。
飛び立つ。
妙なる楽のような羽音が響き渡り、虫は弧を描く。
ひとしきり部屋の中を一巡すると、それはそのまま飛び去っていった。
薄く開いた窓の外、ペンキをぶち撒けたような薄い青空へ。
明るい空に目が眩む。
彼女の繭は行ってしまった。
僕に見向きもせず、彼女に添えられた命は飛び立ってしまった。
それを僕は、呆然と見送ることしか出来なかった。
眩しさに目が痛み、涙が出る。
白く焼けるような、彼女の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
僕は慟哭した。
彼女の亡き骸をかき抱いて、子どものように声を上げて泣いた。
何者も彼女の代わりには成れない。
彼女は永遠に失われてしまった。
「彼女の繭」了