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学校とバス停までの間に小さな公園がある。申し訳程度の砂場と小さな滑り台、後はベンチしかない寂れた公園だ。年季の入ったベンチは、腰かけるとミシミシと不穏な音がした。
「本当に大丈夫?」
彼は自販機で買ってきたばかりのお茶を私に差し出した。顔には心配だと大きく書いてあるようだった。
「ありがとう」
私は礼を言いながらお茶を受け取った。夕陽はすっかり沈んで、辺りは薄暗くなって、公園の古びた電灯は時折点滅しながら暗い公園を照らしている。
私を助けてくれた親切な彼は、一ノ瀬律(いちのせりつ)というらしい。
背の高い彼が隣に座るとベンチは余計に小さく見えた。背の高さのわりに威圧感がないのは、くりっとした二重の大きな目が特徴の優しい顔立ちのせいだろうか。
在学中は理系クラスだったらしく、文系クラスの私とは一切面識がなかった。佐々木が去った後、成り行きで彼と帰ることになり、今に至る。
「一ノ瀬くん、説明会の前にも校門でも助けてくれたよね。お礼が言えてよかった、色々とありがとう」
「助けたなんて言うほどのことはしてないよ。それに、さっきだって……」
一ノ瀬は言い淀んでから、いきなり「ごめん!」と頭を下げて謝った。
「俺、本当は助けに入るよりもっと前から見てたんだ。助けに入るべきか、とかいつ行こうとかタイミング考えてたら出て行くの遅くなって……本当にごめん」
「一ノ瀬くんが謝ることなんかないけど、そうだったの?いつから見てたの?」
「澤村さんがいい加減にしてよって言ってたところ辺りから……」
「想像より結構序盤だった」
「ごめん……」
一ノ瀬君は大きな背を小さく丸めた。
「いやいや、謝ることないってば。てことは、全部聞かれちゃったのか」
「俺、三階の階段のところで夕陽きれいだなーって呑気に写真撮ってて、そしたら下から声が聞こえて。ただの喧嘩かなって最初は様子見てたんだけど、殴る蹴るみたいなの始まったから慌てて止めに入ったんだよ。もっと早く止めに入ればよかった。ごめんね」
「だから、一ノ瀬くんは悪くないって。もう謝らないで。それより、今日見たことはどうか他言無用でお願いします」
「先生たちに相談したほうが良いんじゃない?」
「いいの。私たちこれから教育実習で仮にも先生をするのに、教える側の私達がいじめだなんだって騒いでたらおかしいでしょ」
「おかしくないよ。年齢関係なくいじめは許されないことだと俺は思う。高校の時からああだったの?」
「あのくらいなら高校の時より全然マシだよ。いいの、佐々木さんにも昔のことは掘り返さないって言ったし。それにもし、私が今日のことを先生たちに言ったとしても佐々木さんは上手く言い逃れして誤魔化すと思う。確たる証拠でもない限り彼女は認めないはず」
「俺が証言するよ!それに証拠だって……」
「いいの。佐々木さんなら証言は嘘だって言うだろうし、一ノ瀬くんもあることないこと言われるよ」
「別にいい、暴力振るうような人間に何言われても。俺はいじめとかくだらないことする人間大嫌いなんだ」
 彼は冷たい表情で吐き捨てるように言った。彼の言葉には嫌悪感が満ちていた。正義感だけではないような、憎しみすら感じる言い方だった。私はしばらく黙って考えながら、お茶を一口飲んだ。
「こうやって私の味方してくれる人が一人いるだけで十分だよ。教育実習さえ終われば、佐々木さんともう関わることもないだろうし」
「でも」
「高校生の頃のままの私だったら、たぶん佐々木さんに会った時点で逃げて帰って、教育実習もやめてたと思う。でも、私は今日逃げなかった。だから、このまま何事も無く無事に教育実習を終えて、逃げなかったっていう自信を取り返したいんだ」
私はぎゅっと、手に持っていたお茶のペットボトルを握りしめた。
高校生の時、いじめに耐えかねて不登校になった。しばらくして学校に戻ったが、教室には余り行けずに授業は課題をすることで何とか単位をもらって卒業した。逃げたことがずっと心に残って、枷のようにずっと心に引っかかっていた。逃げたことが悪いことだとは思ってない。逃げないと壊れてしまいそうだったから。
教育実習だって、逃げようと思えば逃げられた。卒業後も母校には近寄るだけで吐き気がして、ずっと避けてきた。それでも、今なら立ち向かえるんじゃないかと、逃げなかった記憶に塗り替えられるのではないかと、多分私はそう思ってここに来たのかもしれない。
「だから、今日のこと秘密にしてください。お願いします、一ノ瀬くん」
私が真っすぐに彼を見ると、かれは眉間に皺を寄せて困ったような顔をした。それでも私が見つめ続けると彼は折れて「ああ、もう……わかったよ」と小さく答えた。
「ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。澤村さんの意志を尊重はするけど、実習中にさっきみたいなことがあったら俺は迷わず止めるし、学校に報告するからね」
「佐々木さんも無事に教育実習終わらせたいみたいだからその心配はいらないよ」
「分からないよ、ああいう人は何しでかすか……とにかく気をつけて。困ったことがあったら俺のこと頼ってよ」
ね、と念推すように彼は私に迫った。
「今日初めて会ったのにどうしてそこまで良くしてくれるの?」
「俺、本当にいじめとか大嫌いなんだよ。だから、目の前にそういう人がいたら絶対助けるって決めてるだけ。それに一緒に帰ってこうして話してるんだし、もう友達でよくない?友達なら普通に助けるでしょ」
私は思わず、ふっと笑いを漏らした。
「その発想はなかった。友達って……私たちもう二十歳も過ぎてるのに」
「何で笑うの?大人になっても友達は友達でしょ!」
きょとんとした顔をしてから、一ノ瀬は不服そうに言った。
「そうだね、たしかにそうだ。一ノ瀬くんって友達多そう。私と真逆の人間って感じ。友達になったら面白そうだ」
私はなんとか笑いを収めて、すっと手を差し出した。
「じゃあ、オトモダチってことで来週からよろしく」
よろしく、と一ノ瀬は力強く握り返した。
お茶を飲み切るまで少しの間、雑談をした。バスが来る時間になって、私たちはバス停へ移動した。普段なら部活終わりの生徒でごった返しているバス停の待合室も、部活動が休みの水曜日なので閑散としていた。辺りはもう夜になって真っ暗だった。
「はい、荷物」
一ノ瀬は私が高岡先生から渡された重い紙袋を持ってくれていた。私は礼を言って受け取る。一ノ瀬はいちいち振る舞いが紳士だった。気障というよりは、自然にやっている感じだ。
「澤村さんって、金沢駅まで行くの?」
「うん、駅からバス乗り換えるの」
「そっか。じゃあ、次のバスだね。すぐ来るみたい、良かった」
「一ノ瀬くんは?」
「俺は家が近くて歩きなんだ」
「えっ!じゃあ、一緒に待っててくれたの?いいよ、先に帰って!」
「もう遅いし、人気もないし、バスが来るまで一緒にいるよ」
「でも、悪いよ」
「澤村さん、女の子なんだから危ないって」
「はあ、お手数おかけします……」
一連のやり取りに何だか照れてしまって、私はそれきり静かになった。今まで周りに女の子扱いしてくるような紳士な男子はいなかった。特に大学の男子は制作に夢中な変わり者ばかりだったので、こういうやりとりは新鮮で余計に照れてしまう。
暫くすると、駅に向かうバスが来て、ゆっくりとバス停の前に止まった。バスのドアが開いた。
「じゃあ、またね。今日は本当にありがとう」
「うん、また来週ね」
バスのステップを上って整理券を取った時に、私はそう言えば、と後ろを振り向いた。
「一ノ瀬くんって何の科目の実習生なの?」
「音楽だよ」
バスの扉が音を立ててぱたんと閉まる。一ノ瀬はガラスの向こうでにこやかに手を振っていた。私は反射的に手をひらひらと振り返す。バスが発車して彼の姿はすぐに小さくなって、見えなくなった。
音楽、と聞いて私は放課後に聞いたピアノの音色を思い出していた。
「……まさかね」