それから小一時間ほど、高岡先生と今後について話した。終礼の鐘が鳴り下校時間になると一時だけ校内は賑やかになったが、私が帰る頃には静けさを取り戻していた。
実習中に行う授業のテーマを決めるという宿題をもらって、私は美術準備室を後にした。先生からは参考にと過去の教材などがぎっしりつまった紙袋を渡された。私は重い紙袋によろけながら廊下をのろのろ歩く。
夕陽が差し込む薄暗い廊下。しんと静まり返って校舎には自分しかいないような、そんな錯覚をしそうになる。
放課後の学校と言えば、吹奏楽部の演奏や野球部の練習する声で放課後は音が溢れているイメージだったのに。そう言えば、今日は水曜日だ。この学校では基本的に水曜日は部活動が休みと決まっている。
他の実習生はもう帰っただろうか。
校門で助けてくれた彼に改めてお礼を言いたかったけれど、如何せん名前が分からない。
私は歩きながら今日もらった書類の中から、実習生の名簿を引っ張り出した。配られたときは時間が無くてよく見ていなかったが、知っている名前があるかもしれない。
上から順に見ながら、ある人の名前を見つけて私は足を止めた。
「うそ……なんで」
見間違いだと思いたいのに、何度見てもその名前はそこにあった。紙を持つ手が震えた。言い様の無い感情が腹の底から湧いてくる。
――――なんでこんな人間が、教育実習に来るの。
「香ちゃん」
見計らったように背後から声がした。鳥肌が立つのを感じて、身体が硬直する。この声を私は知っていた。もう二度と聞きたくない声だった。ヒールの音が近づいてくる。私は恐怖で顔を上げられなかった。
「香ちゃん、久しぶりだね」
彼女は私の隣に来て、私の顔を覗き込むように言った。彼女は相変わらず、綺麗なメイクやヘアアレンジで女性らしさを際立たせ、万人受けする愛らしく整った顔面で残酷に笑う。
「……佐々木さん」
彼女の名前を口にするだけで、吐きそうだった。そんな私の様子など見えていないかのように彼女は久しぶりだね、と普通に話し始める。
「名字違ったからすぐ分かんなかったよぉ。そういえば高三の終わりに名字変わったんだっけ?卒業式の日に急に名前変わってたから普通にびっくりしたの思い出したわ!卒業式の後、クラスのみんなで打ち上げした時も話題になってたよ?香ちゃんは呼んであげなかったけど!みんなでご飯食べてて、いや、澤村香って誰だよ⁉って。あれ、ほんと今思い出してもウケるよー。クラスの男子とかも超笑っててさー、卒業前に親離婚したのかな?かわいそすぎるー!って。てか、聞いてる?返事くらいしてよ、あたし一人で喋ってて何か痛いじゃん」
矢継ぎ早に話し続けていた彼女だが、勢いに圧倒されて無反応だった私に気づいたらしい。やっと彼女の言葉の暴力は止んだ。
「あれ、私のこと忘れちゃった?」
彼女は私の返答を待たずに楽しそうに言葉を続ける。
「私、佐々木美希だよ。まさか私のこと忘れてないよね?同じクラスで仲良くしてたよねぇ」
喉の奥が苦しい。私を嘲笑しながら話すこの女の話し方が私は大嫌いだった。
仲が良かった?何を馬鹿なことを。
いつの間にか握りしめていた拳は、怒りで震えていた。怒りが身体の硬直をやっと解いてくれた。
「……よく私に話しかけられるね」
「え、だって友達でしょ?」
「私とあなたが友達だったことなんて一度もない」
私が言い返すと佐々木美希の嘘くさい笑顔が崩れた。
「えー、何それ。昔は何してもだんまりだったのに。歯向かうようになってる!どうしちゃったの?」
「そっちこそ、何なの。もういい大人なんだから、絡んでこないで。高校生の時と違って、もう子供じゃない。あなたなんか怖くない」
嘘だった。普通に怖かった。この女にいじめられた記憶が恐怖となって、未だに身体に残っている。それを悟られまいと私は無表情を顔に張り付け、必死に平静を装った。
「まだ高校生の時のこと怒ってる感じ?冗談でしょ。ほら、なんて言うの……そう!若気の至り!みたいな?まあまあ、昔のことは水に流して仲良くやろうよ!」
「いい加減にしてよ!」
静かな廊下に私の怒声が響き渡った。佐々木美希はさして驚いた顔もせず、冷めた目で私を見ていた。まるで騒ぎ立てる私が異常者かのように。
「そうやって、慣れ慣れしく話しかけてくる神経が理解できない。意味が解らない。あなたが私にやったことを忘れたの?ただ同じクラスになって、接点なんかほとんどなかった私に執拗に嫌がらせしてきたくせに、今更何事も無かったみたいに話しかけてこないでよ!」
怒りと恐怖が混在して私の手はずっと震えていた。大学で過ごした日々がなかったら、四年の月日が流れていなかったら、この恐ろしい相手に私は今も屈していただろう。
「私は覚えてる!あなたやあなたの取り巻きにされたこと全部。滅茶苦茶にされた教科書やノートも、殴られた痛みも……あなたに壊された私の絵も、すべて!私は絶対に水に流すことなんかしない。私の絵を汚したことを許さない」
真剣に怒る私の顔を見てもまだ、佐々木美希はふざけたようなにやけ顔だった。
「だーかーらー、冗談だったって言ってるじゃん。教科書破いたりとか、ちょっと激しめなコミュニケーション?とかは、まあやったけどさ。高校生のノリじゃん?もう四年も前だよ?同じ教育実習生なんだから仲良くしようよ、香ちゃん」
「仲良くできるはずないでしょう……?どうしてあなたみたいな人間が教育実習になんかに来るの?あなたみたいな、いじめる側の人間がどうして……!」
「だって私、教育学部だもん。しかも、教免取らないと卒業できない学科なんだよねー。だから、教育実習で色々面倒なことあると困るんだよ。つまりね、あんたに昔のことガタガタ言われると困るの。だから、昔のことは忘れて仲よくしようって歩み寄ってあげたのに、なんでここまで言わないと分からないかなあ?香ちゃんがいじめられるのって、そういう空気読めなさすぎな所だと思うよー?見た目も性格も暗いし、ずっと絵描いてて不気味だし!いじめられるべくしていじめられたんだから、私に責任転嫁しないでよねぇ」
なんでこんなことを言われないといけないんだろう。
言葉が通じているのに、通じていないような奇妙な感覚。目の前の人間がエイリアンのようだと思った。同じ国の、同じ地域の、同じ学校に通っていた類似点の多い人物なのに、どうしてここまで話が通じないのだろう。絶望感しかなかった。俯いていると廊下に伸びる影は色を濃くして、どんどん長くなった。呼吸がしにくい。胸が苦しい。お腹が痛い。
ああ、この感覚。本当に身も心も高校生に戻ってしまいそう。
意志に逆らって、涙が滲んでくる。もうこの場から逃げてしまいたい。
実習中に行う授業のテーマを決めるという宿題をもらって、私は美術準備室を後にした。先生からは参考にと過去の教材などがぎっしりつまった紙袋を渡された。私は重い紙袋によろけながら廊下をのろのろ歩く。
夕陽が差し込む薄暗い廊下。しんと静まり返って校舎には自分しかいないような、そんな錯覚をしそうになる。
放課後の学校と言えば、吹奏楽部の演奏や野球部の練習する声で放課後は音が溢れているイメージだったのに。そう言えば、今日は水曜日だ。この学校では基本的に水曜日は部活動が休みと決まっている。
他の実習生はもう帰っただろうか。
校門で助けてくれた彼に改めてお礼を言いたかったけれど、如何せん名前が分からない。
私は歩きながら今日もらった書類の中から、実習生の名簿を引っ張り出した。配られたときは時間が無くてよく見ていなかったが、知っている名前があるかもしれない。
上から順に見ながら、ある人の名前を見つけて私は足を止めた。
「うそ……なんで」
見間違いだと思いたいのに、何度見てもその名前はそこにあった。紙を持つ手が震えた。言い様の無い感情が腹の底から湧いてくる。
――――なんでこんな人間が、教育実習に来るの。
「香ちゃん」
見計らったように背後から声がした。鳥肌が立つのを感じて、身体が硬直する。この声を私は知っていた。もう二度と聞きたくない声だった。ヒールの音が近づいてくる。私は恐怖で顔を上げられなかった。
「香ちゃん、久しぶりだね」
彼女は私の隣に来て、私の顔を覗き込むように言った。彼女は相変わらず、綺麗なメイクやヘアアレンジで女性らしさを際立たせ、万人受けする愛らしく整った顔面で残酷に笑う。
「……佐々木さん」
彼女の名前を口にするだけで、吐きそうだった。そんな私の様子など見えていないかのように彼女は久しぶりだね、と普通に話し始める。
「名字違ったからすぐ分かんなかったよぉ。そういえば高三の終わりに名字変わったんだっけ?卒業式の日に急に名前変わってたから普通にびっくりしたの思い出したわ!卒業式の後、クラスのみんなで打ち上げした時も話題になってたよ?香ちゃんは呼んであげなかったけど!みんなでご飯食べてて、いや、澤村香って誰だよ⁉って。あれ、ほんと今思い出してもウケるよー。クラスの男子とかも超笑っててさー、卒業前に親離婚したのかな?かわいそすぎるー!って。てか、聞いてる?返事くらいしてよ、あたし一人で喋ってて何か痛いじゃん」
矢継ぎ早に話し続けていた彼女だが、勢いに圧倒されて無反応だった私に気づいたらしい。やっと彼女の言葉の暴力は止んだ。
「あれ、私のこと忘れちゃった?」
彼女は私の返答を待たずに楽しそうに言葉を続ける。
「私、佐々木美希だよ。まさか私のこと忘れてないよね?同じクラスで仲良くしてたよねぇ」
喉の奥が苦しい。私を嘲笑しながら話すこの女の話し方が私は大嫌いだった。
仲が良かった?何を馬鹿なことを。
いつの間にか握りしめていた拳は、怒りで震えていた。怒りが身体の硬直をやっと解いてくれた。
「……よく私に話しかけられるね」
「え、だって友達でしょ?」
「私とあなたが友達だったことなんて一度もない」
私が言い返すと佐々木美希の嘘くさい笑顔が崩れた。
「えー、何それ。昔は何してもだんまりだったのに。歯向かうようになってる!どうしちゃったの?」
「そっちこそ、何なの。もういい大人なんだから、絡んでこないで。高校生の時と違って、もう子供じゃない。あなたなんか怖くない」
嘘だった。普通に怖かった。この女にいじめられた記憶が恐怖となって、未だに身体に残っている。それを悟られまいと私は無表情を顔に張り付け、必死に平静を装った。
「まだ高校生の時のこと怒ってる感じ?冗談でしょ。ほら、なんて言うの……そう!若気の至り!みたいな?まあまあ、昔のことは水に流して仲良くやろうよ!」
「いい加減にしてよ!」
静かな廊下に私の怒声が響き渡った。佐々木美希はさして驚いた顔もせず、冷めた目で私を見ていた。まるで騒ぎ立てる私が異常者かのように。
「そうやって、慣れ慣れしく話しかけてくる神経が理解できない。意味が解らない。あなたが私にやったことを忘れたの?ただ同じクラスになって、接点なんかほとんどなかった私に執拗に嫌がらせしてきたくせに、今更何事も無かったみたいに話しかけてこないでよ!」
怒りと恐怖が混在して私の手はずっと震えていた。大学で過ごした日々がなかったら、四年の月日が流れていなかったら、この恐ろしい相手に私は今も屈していただろう。
「私は覚えてる!あなたやあなたの取り巻きにされたこと全部。滅茶苦茶にされた教科書やノートも、殴られた痛みも……あなたに壊された私の絵も、すべて!私は絶対に水に流すことなんかしない。私の絵を汚したことを許さない」
真剣に怒る私の顔を見てもまだ、佐々木美希はふざけたようなにやけ顔だった。
「だーかーらー、冗談だったって言ってるじゃん。教科書破いたりとか、ちょっと激しめなコミュニケーション?とかは、まあやったけどさ。高校生のノリじゃん?もう四年も前だよ?同じ教育実習生なんだから仲良くしようよ、香ちゃん」
「仲良くできるはずないでしょう……?どうしてあなたみたいな人間が教育実習になんかに来るの?あなたみたいな、いじめる側の人間がどうして……!」
「だって私、教育学部だもん。しかも、教免取らないと卒業できない学科なんだよねー。だから、教育実習で色々面倒なことあると困るんだよ。つまりね、あんたに昔のことガタガタ言われると困るの。だから、昔のことは忘れて仲よくしようって歩み寄ってあげたのに、なんでここまで言わないと分からないかなあ?香ちゃんがいじめられるのって、そういう空気読めなさすぎな所だと思うよー?見た目も性格も暗いし、ずっと絵描いてて不気味だし!いじめられるべくしていじめられたんだから、私に責任転嫁しないでよねぇ」
なんでこんなことを言われないといけないんだろう。
言葉が通じているのに、通じていないような奇妙な感覚。目の前の人間がエイリアンのようだと思った。同じ国の、同じ地域の、同じ学校に通っていた類似点の多い人物なのに、どうしてここまで話が通じないのだろう。絶望感しかなかった。俯いていると廊下に伸びる影は色を濃くして、どんどん長くなった。呼吸がしにくい。胸が苦しい。お腹が痛い。
ああ、この感覚。本当に身も心も高校生に戻ってしまいそう。
意志に逆らって、涙が滲んでくる。もうこの場から逃げてしまいたい。