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木曜日、ついに研究授業当日になった。
緊張して、いつもより早く登校した。そのおかげか、ロッカーにゴミは入っていなかった。昨日も、一昨日も室内履きはゴミまみれになっていた。昨日の嫌がらせで、佐々木も満足したのだろうか。そうだといいのだけれど。
いつも通り一年生の教室に行った。朝のホームルームをして美術室に向かった。研究授業は二時間目にあるので、授業の無い一時間目のうちに準備をする。生徒に配るプリントを教卓の上に用意し、パソコンとプロジェクターを起動してスクリーンに授業用のスライドを投影する。準備は万端だ。コンコン、と音がして振り返ると、教室の扉を律儀に一ノ瀬がノックしていた。
「澤村さん、おはよう」
一ノ瀬は美術室に入って来ると、教室を見回す。
「おはよう、一ノ瀬くん。どうしたの?」
「いや、今日は澤村さんが研究授業だからちょっと心配で見に来た。昨日、あんなことがあったしね」
「今朝は珍しく何もなかったから、もう大丈夫かも。佐々木さんだって明日、研究授業のはずだし、私に嫌がらせしてる暇はもうないはずだよ」
「そうだといいんだけどね。俺も明日、研究授業だなあ」
「一ノ瀬くんは、二年生のクラスで研究授業するんだよね?」
「うん、作曲の授業してるんだ。明日はその演奏会。結構、おおっと思う曲とかあってすごい楽しい。授業なのに、俺が多分一番楽しんでる自信ある」
「楽しそう、見に行くね。一ノ瀬くんは私と違って、先生に向いてそうだよね」
「そう?澤村さんも向いてると思うけど。真面目だし」
「真面目って言うか、要領が悪いだけだよ。ああ、どうしよう、緊張してきちゃった。私、大きい声出すの苦手だし、教室の後ろに立つ先生まで声届くかな⁉」
「じゃあ、俺後ろまで行くから試しに話してみれば?」
一ノ瀬は言いながら教室の後ろまで下がった。私は適当に教科書の文章を読んでみせる。
「どう?聞こえる?」
「んー、生徒がいるとざわつくから、もう少し大きい声が良いかな。あ、動画撮ったら分かるかも」
一ノ瀬は携帯のカメラを起動して、教室後方の棚の上に置いた。私はもう一度、先ほどより声を貼って教科書を読んでみる。一ノ瀬のもとに駆け寄って、録画した動画を見せてもらった。
「あ、思ったより声が小さい……ていうか、私こんな声なの?なんか変……」
「自分の声を録音すると必ず思うよね」
「緊張で無意識に髪の毛触っちゃってるのも気になるな。結んでおこうっと」
私はヘアゴムで長い黒髪をさっと一つにまとめた。その様子を一ノ瀬がじっと見つめている。
「見過ぎだよ」
「綺麗な髪に目が無くて」
「髪フェチだからってそんなまじまじと見ないで下さい」
「おろしてるのもいいけど、結んでもいいね。俺、もっとこう高い位置で結ぶやつ、ポニーテール?好きだな!」
「あなたの好みは一切聞いてないです」
一ノ瀬と下らないやり取りをしていると、緊張が少しほぐれた。もう一回撮影しようか、と一ノ瀬が携帯のカメラを録画モードにして棚にセットしていると、準備室から高岡先生が顔を覗かせる。
「澤村先生、準備どう?おや、一ノ瀬先生もいたのかい」
一ノ瀬は高岡先生にお邪魔してます、と会釈する。
「さっき、音楽の静先生が君を探していたよ?」
「え、本当ですか!やばい、すぐ行かないとまたしばかれる!あー、何だろう?誤記でもあったかなー⁉それじゃ、澤村さん、頑張って!」
一ノ瀬は大騒ぎしながら、廊下へ駆けて行った。高岡先生は「騒がしい子だね」と苦笑していた。
「それで、研究授業の準備はどう。問題ないかい?」
「はい、後は私がちゃんと授業するだけです。それが一番、難題なんですけど」
「ははは、緊張しているね、澤村先生。失敗も成功も、今後の糧となりますよ。気負い過ぎずにね」
「……頑張ります」
「君の授業で描いている生徒たちの作品を見ましたが、良い作品が多かったですよ。自信を持って。ああ、そうだ。研究授業で先生方に配る指導案をコピーしないといけないんでした。印刷したものはあるかな?」
「あっ、忘れてました、すいません!修正前のものしか、出力したものは手元になくて……」
「データは学内サーバーにあるんだね?じゃあ、職員室の共用パソコンで出力して、人数分コピーすればいい」
「分かりました。共用パソコンって、職員室のどのあたりにありますか?」
「ああ、ちょっとわかりにくい場所にあるからね、僕も職員室に用事があるから一緒に行こうか」
「すみません、ありがとうございます」
一時間目が終わるまであと三十分しかない。高岡先生と美術室を離れ、職員室へ移動して指導案を印刷し、コピーした。高岡先生は管理職に呼ばれて話し込んでいたので、私は先に指導案の束を抱えて職員室を出た。腕時計を見ると、あと十分ほどで一時間目の授業が終わる時間になっていた。私は急ぎ足で美術室に戻った。
教室に入った瞬間、何かを踏んでじゃり、と不快な音がした。ぞっと、肌が粟立つ。下を見るのが怖い、でも見ないと。恐る恐る視線をゆっくりと足元に落とす。小さな硝子の破片のようなものが散らばっている。視線を横に動かして、すぐに悟った。
ああ、私は油断していたんだ。
教卓のすぐ横に、ノートパソコンが落ちていた。ちゃんと、教卓の上に置いてあったはずだ。学校の備品でもあるそのパソコンは床の上でひっくり返っていた。画面が割れて、飛び散っている。落ちただけで、こんな壊れた方をするとは思えない。そもそも、落ちるようなところに置いていない。
絶望と怒りが綯い交ぜになって、私の思考も体も動きを止めていた。数秒して、時計を見あげた。もう数分でチャイムが鳴る。休み時間は十分間。あと十数分で、授業ができるようにしないといけない。私の授業は、基本的に板書は補助程度で主にスクリーンを使って授業をする。それなしで今から板書と口頭で授業をするには内容を授業大幅に変更しなければならない。その前に備品のパソコンを壊したことを報告しないといけない。
一体、何から手を付けたらいい。焦りで頭が回らない。その場に座り込んでぐるぐると考えていたら一時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
ああ、時間が無い。どうしよう、どうしよう。
「澤村さん!」
後ろから声がして、振り返った。私にとって今、一番安心する声がした。声を聞いただけで、涙が込み上げてくる。