————翌日のホームルーム。
宮沢先生は、まるで昨日の僕たちの話を聞いていたかのように、お祭りの話題を出した。
「今年は皆さんご存知。合唱ですね」
先生は僕を見て「朝丘君には何の事だかさっぱりよね」と笑って、一から説明してくれた。もうユキから教えてもらったから別に良かったんだけど、音楽教師である宮沢先生は今回かなり気合いが入っているみたいで、ぼーっと聞いている僕に丁寧にお祭りの感動や、合唱への周りの期待を熱弁した。
「————と言う事で、明日の音楽の授業はパート分けをする為に一人ずつ歌のテストをします」
先生による衝撃の発表にクラス中、特に男子から大ブーイングが起こった。
そりゃそうだ。先生ってみんなの前で歌う恥ずかしさを知らないのだろうか。音楽の授業では度々行われているけど、ホント止めてくれっていつも思う。
みんなの視線が自分に集中する中、静まり返った教室にピアノの音と、別に上手くもない自分の歌声が響き渡る……想像するだけでも恐ろしい。
「先生!」
文句。と言うより、もはや騒いでいるだけにしか見えない教室でユキが手を挙げる。色んな声が飛び交う中でも先生はしっかりとその声を聞き分けてユキを指した。
「はい。どうぞ」
「伴奏はどうやって決めるんですか?」
ユキの言葉に、教室が急に静まり返る。ピンと空気が張りつめた気がした。
確かに伴奏は大役だ。どうやら先生が弾くんじゃないらしい。でもこういうのは大概、ピアノを習っている女子の誰かがやるものだから、僕は関係ない————。
「そうね。ピアノは朝丘君にお願いしようと思って」
「……ん?」
僕は机に頬杖をついたまま固まった。と言うよりむしろ教室の時が止まった。そんな一瞬の静寂も意に介さず先生は満面の笑顔で口を滑らせる。
「お父さんから聞いたわよー? ピアノ結構得意みたいじゃない。助かったわぁ。この学年、君以外にピアノ弾ける子いないのよ」
僕は口を間抜けに開けたままゆっくりと教室を見回す。目を真ん丸に見開いたみんなと目が合う。
……マジ?
「ホタル……ピアノ弾けるの?」
僕と顔を見合わせたカズがいつもなら考えられないくらい普通の音量で喋る。僕はまだ頬杖をついたまま、小さく頷いた。
「う……うん」
どこからとも無く拍手が鳴りだした。それは一つ一つ増えてやがてクラス中に鳴り響く拍手になった。僕はその拍手の渦に飲み込まれながら、お祭りでピアノを弾いている自分を想像して絶望した。
「————しっかしホタルがピアノ弾けるなんてビックリだな! もしかして家にピアノあんの?」
「うん。まぁね」
学校からの帰り道、友達の特技発覚に喜ぶカズとは対照的に僕はえらく落ち込んでいた。
「じゃあさ。今度ホタルの家でピアノ聞かせてくれよ!」
「嫌だよ。もう一年以上も弾いてないんだから」
深く溜め息をついても夏の息は白くならない。自分の吐いた息を探すように下を向くとカズは僕の背中を思いっきり叩いてきた。
「まぁ、そんなに緊張すんなよ。良かったな。これで明日の歌のテストはパスだぜ?」
カズの気の利いた慰めも、今の僕にはてんで慰めにならない。これだったらまだ歌のテストの方がマシだ。僕は大役への緊張と言うより、大舞台でピアノを弾く恥ずかしさや面倒くささ、何よりピアノを弾くと言う行為がたまらなく嫌だった。
でも、今さらそんな事を言ったってどうしようもない。
もう決まってしまったのだから、やるしかないのだ。
僕は家に着いたら早速、ユーヘイに愚痴ろうと決めた。
『あ、もしもしユーヘイ? 実は面倒くさい事になってさ。なんか村のお祭りでピアノを弾かなきゃならなくなったんだ……』
『え? ケイが?』
『うん。まいったよホント……』
『大丈夫なのか?』
『いや、もう決まっちゃったし。やるしかないって感じでさ』
『そっかー。でもちょっとそれ見たいかも』
『いや絶対にやめて』
『ははは! わかってるよ! でも、頑張ってな』
『うん』
『そんな暗くなんなよ! まぁ何かあったらいつでも愚痴ってこいよ! あっそういえばこの前、健太郎がフラれたぜ!』
『え! 誰に告白したの?』
『佐々木! 実はずっと好きだったんだって! あいつ内緒にしてやがった!』
『健太郎の奴。僕にも好きな人いないって言ってたくせに。ざまーみろ!』
『みんなお前と同じ事言って笑ってるよ! 今度、残念会が開かれる!』
『ははは! しょーもな!』
『お! 少しは元気出たみたいだな! また面白ニュースあったらすぐ教えるからさ! ケイ、ピアノ頑張ってな!』
『うん……ありがとう。ちょっと気が楽になったわ。また連絡する』
『はいよー! じゃあな!』
携帯の電源ボタンを押して、畳に寝転がる。真っ暗な部屋にも目が慣れていて、天井の木目まで分かってしまいそうだった。
ユーヘイにはいつも助けられてばっかりだ。一年半前もそう、僕はユーヘイが居なければずっと塞ぎ込んでいたままだったと思う。僕はどんなに落ち込んでいても、ユーヘイの話には何故だか笑ってしまって、その度に少しだけ心が軽くなった。またすぐに元に戻っちゃうんだけど、ユーヘイはいつだって何度だって僕を笑わせてくれた。
深呼吸して起き上がり、携帯を机の充電器に戻して部屋を出た。父さんは台所に居るのか、居間の電気も消えていた。
縁側に座って、夜空を眺める。こっちの夜は暗い。でもおかげで星はよく見える。こっちにユーヘイはいない。おかげで、何が見えるのだろう。僕にはそれがまだ見つけられなかった。
しばらく田舎の夜を眺めていた僕は、おもむろに部屋に戻り、引っ越して来た時からずっと端に佇んでいたアップライトピアノの鍵盤蓋を開けた。
朱色の布を取って、黒鍵を一つ押し込む。
ピンと高い音が鳴って、空気に溶け込んでいく。その音は昔と何も変わらない。
「最後に弾いたの……何だっけ」
椅子に座り、高さを調節して鍵盤に手を置く。無意識に動きだす手。鳴り始めた音楽は、小学校六年生の時に弾いた合唱曲だった。
そうだ。そう言えば僕は合唱の伴奏やった事あるんだった。
すっかり忘れていた事実を思い出し、同時に溢れて来る思い出に思わず僕は演奏を止めてしまう。
「……どうしたんだ急に」
「え?」
声に振り向くと、父さんが襖を開けて立っていた。
「い、いや、夏のお祭りで……その、合唱の伴奏をやる事になって……」
僕は鍵盤に布を被せて慌てて蓋を閉じた。別に悪い事していたわけじゃないのに、変に心臓がドクドクと波打った。
「そうか。それは凄いな。楽しみだ。ここなら、いつどれだけ弾いても何も言われる心配ないから、気にせず好きなだけ練習して良いからな」
父さんは少し嬉しそうな声でそう言うと、襖を閉じた。
残念ながら好きなだけ練習する気はまるでないのだけれど、それでも久しぶりに弾いたピアノが少し心地良かったのは確かだった。
————音楽室には、いつになくピリっとした空気が漂っていた。
歌のテストの順番は出席番号順で、男子から始まる。トップバッターはタダシ。そう言えばタダシの名字は相原だった。
奥に二列に並んで座る僕らはピアノを弾く先生と歌う生徒を真横から見える。この光景は正しく地獄だった。タダシは真っ直ぐ先生と視線を合わせていたけど、きっと僕たちが気になって仕方がないのだろう、どこか落ち着かない様子に見えた。
「相原君。リラックスして。いつも通りね」
先生は無茶な事を言うと、タダシの返事なんか待たずに早速、最近授業でやっている曲の前奏を弾き出した。
一層、空気が張りつめる中、タダシの足は少し震えている様に見えた。
みんなの視線がタダシに集中する。
タダシは真っ直ぐピアノを弾く先生を見て歌い出す。やっぱり声も震えていた。
大きくも小さくもない微妙な声量でタダシは何とか歌い終え、先生は名簿に何かを書き込みながら次の人の名前を呼ぶ。まるで死刑宣告みたいだ。
次々に男子が処刑されていく中、依然として張りつめていた空気を一瞬で壊し、みんなの笑いを誘ったのはカズだった。
「あの空をーおぉ? めーざーしてーえぇ?」
何故か語尾が毎回、疑問系になってしまうカズの歌にみんな堪えきれず、クスクスと笑い声が漏れ出す。
「行こーおぉ?」
カズが歌い終わると、まるでダムが決壊したみたいにみんなが一斉に大声で笑い出した。何故か照れくさそうに頭を掻いて会釈をしているカズに、先生も苦笑いしながら名簿に何かを書き込んでいる。
カズは最後まで一貫して疑問系で歌った。常に質問し続けるという全く分けの分からないこの歌い方は、この日からクラスの伝説となった————。
カズのおかげで雰囲気も一気に和やかになり、おかげでテストは程よい緊張感の中でスムーズに進んでいった。女子は男子よりもよっぽど真面目に取り組んでいるから、みんな安定していてあまり代り映えもせず、逆に退屈だった。
しかし、そんな良い雰囲気も一人の女子によって見事に消え去ってしまう。
灰坂祐子。少ないクラスメイトの中で僕が唯一、話した事が無い彼女は、いつからか僕の視界に入る事すらなくなっていた。
そんな彼女が取った行動により、僕は久しぶりに、いや恐らく初めて灰坂祐子をしっかりと視界にとらえる事になる。
初めて僕の目に映った彼女はテスト中、一度も口を開かなかった。いや、口を開こうともしなかった。
灰坂祐子はただ、そこに立っていた。先生のピアノの音だけが虚しくずっと鳴っていて、やがて演奏が終わっても誰も口を開かない。静まり返った教室で、先生は怒るわけでもやり直すわけでもなく、そのまま彼女を下がらせた。
その後も何事も無く、まるで今の数分が幻だったかの様にテストは続いたけど、教室内の空気は今まで感じた事がないくらいに重たかった。
「しっかしゾッとしたなー。今日の灰坂」
「うー、うん……」
ユキはいつものようにカズを冷たくあしらおうともせず、何かを噛み締めるように相槌を打った。
僕は久しぶりにカズとユキと三人で帰っていたんだけど、何故かユキの様子がずっとおかしかった。カズが何を話しかけてもどこか上の空で、なにか別の事を考えているようだった。
「ユキ。大丈夫? なにかあったの?」
「ううん。平気。なんでもない」
ユキは僕に笑ってみせたけど、どう見たってその顔は暗かった。
「なぁカズ。灰坂って昔からああいう感じなの?」
「ん? わかんね。 だってあいつ二年になる時にこっちに引っ越して来た転校生だもん」
カズはユキが何を話しても返事が暗いのがつまらないのか、ぶっきらぼうに答えた。
「って事は僕が来る二、三ヶ月前か……」
進級のタイミングで転校は別におかしくない。でも、あの過干渉なクラスメイトが、あれだけの事をした灰坂に誰も話しかけないっていうのは何かおかしい。友達の一人や二人がフォローにはしってもいいはずなのに。世話焼きのユキですら、それをしないのだから尚更だ。
「なー、ユキ。気にすんなって。別にお前は何も悪い事してねーじゃねーか。いつまでも引きずんなよ」
「うん……うん」
カズが何の事を言っているのか分からないけど、返事をするユキが泣きそうな顔になっているのを見て、僕は思わず口を開いてしまった。
「何かあったの?」
カズが僕に苦い顔を向けて首を振る。やってしまった、と思った。やっぱ今の無し! としたいとこだけど、もう遅い。言ってしまったものは取り戻せない。
「……ごめん。私、先帰るね……」
ユキは目に涙を溜めてそう言い残すと、走っていってしまった。僕とカズはそれを追いかけようとはせず足を止めて、どんどん小さくなっていくユキの背中を黙って見送った。
ユキの姿が視界から消えると、カズは似合わない溜め息をついた。
「なんだかなー。でもホタルは何も悪い事言ってないから気にすんなよ」
「あの……ごめん。何か、よく分からないんだけど……」
ユキの涙に動揺している僕に、カズはもう一度溜め息をついて小さく首を振った
「なんて言ったら良いのかなー。灰坂さ、転校して来てすぐに学校来なくなったんだよ。そんでユキはそれを自分のせいだと思ってる」
「どういうこと? 何があったの?」
「別に何もねーよ。クラスが肌に合わなかったんじゃないか? 先生が何とか説得してまた来るようにはなったけど、みんな変に話しかけたりはしなくなったな。もちろんユキもな」
頭の後ろで手を組み、ゆっくりと歩き始めるカズに僕も歩幅を合わせる。
何となく分かった。きっとユキは僕の時みたいに世話を焼こうとしたに違いない。そしたら灰坂が急に学校に来なくなったもんだから、自分が何かしたんじゃないかと思っているんだろう。確かにそれじゃ灰坂が学校に来たって何も聞けない。聞ける訳がない。変に話しかけてまた不登校になったらそれこそ最悪だ。でも————。
「そしたら何でユキは僕の世話を焼いてくれたんだろう? 普通そういうのってトラウマになるもんじゃない?」
僕は頭に浮かんだ疑問をそのままカズに投げる。
「知らねーけど、内心すげービビってたんじゃね? それでも何かせずにはいられない奴なんだよ。自分に何か出来る事は無いかっていっつも考えてる。自分より他人を大事にしちゃうタイプっつーの? だからやっぱり何もしないって選択肢はなかったんだろうな。まぁおせっかいすぎる所もあるけどそこがまた————」
「好きだと」
「そうそう。っておい!」
やっぱり引っかかった。そんなの僕だけじゃなく、みんな知っている。
まぁ今さら恥ずかしがって横でワーワーうるさいカズは置いといて、僕もユキのおかげで色々助かったのは確かだ。だからユキは別に何も間違っていないと思う。でも、だからといって灰坂が悪いってわけでもない気がする。なんとなくだけど。
とにかく、何事も無く無事に合唱が終われば僕はそれで良い。変に掘り起こしたってトラブルが増えるだけだろうし。そんな事に気を回していたくもない。
僕は(これ以上、面倒事が増えません様に)と、カズを無視して道沿いに居たお地蔵さんに祈った。ただ、やっぱりユキの事は少しだけ気になった。
夕食を終えると、僕はさっさと自分の部屋に戻った。頭の後ろで手を組んで畳の上にゴロンと寝転がるこのスタイルもいつからか習慣になっていた。前のフローリングの床じゃ絶対にやらなかった事だ。
天井を見つめながら、ふと今日の灰坂を思い出す。あれは完全に転校の失敗例だ。僕だってこのクラス、いや、この村が肌に合うわけではない。それでも上手くやっている。もちろん周りのおかげも大きい。ようは不器用なんだ灰坂は。大方、イジメとかで転校して来たんだろう。全く、誰も知らないとこに来たんだからもう少しうまくやればいいのに。頼むからもう面倒事は起こさないで欲しい。本当に。本当に!
心に残る一握りの不安がどうしても拭いきれず、僕はずっと灰坂の事ばっかり考えていた。
「おーい蛍。友達来たぞ」
「友達?」
こんな夜に? と僕は起き上がって、呼びに来た父さんに聞くと、どうやら父さんも少しビックリしているようで、うんうんと頷くだけだった。流石にこれは日常茶飯事ではない。とは言え、その友達とやらをずっと待たせている訳にはいかないので僕は急いで玄関に向かった。
「————ユキ!」
「ホタルごめん……こんな時間に」
玄関には申し訳なさそうにユキが立っていた。こんな時間に来るなんて何かあったに違いない。ちょっと驚いたけど、僕はユキの表情や雰囲気でそれを察した。とりあえず、外はもう暗いし、こんな所で話す訳にもいかないので家に上がってもらう事にした。
「はい。これよかったら」
「あ、ありがとうございます」
父さんは居間のテーブルに切り分けたスイカを置いた。ユキはカズと一緒に何度か僕を迎えに来た事もあるから父さんも知っていた。それでも一人で、しかもこんな時間に家まで尋ねてくるのはどう考えてもおかしい。父さんが変な勘違いをしていないと良いけど。
父さんが台所に戻っても僕らはスイカに手をつけるわけでもなく、ただテーブルを挟んで向かい合い、目を合わせては逸らしを繰り返した。
まずい。無言でこんな事を繰り返していると、ますます変な勘違いをされ兼ねない。台所の父さんも気にしていない振りをしながらチラチラこっち見ているし。
「ユキ。縁側で食べようか」
僕は堪え切れず、座布団とスイカを持って立ち上がる。
「う、うん」
ユキも少しぎこちなく返事をして立ち上がった。
縁側に座り、居間の襖を閉める。これで父さんの視線はシャットアウトできた。縁側の明かりは点いてないけど、ガラス戸から入る月明かりでそこまで暗くはない。僕とユキはスイカを間に置いて、外を向きながら目が慣れるのを待った。
「……で、どうしたの?」
僕はスイカを手に取って一口齧る。これは僕の親切心だった。恐らく今のユキは僕が引っ張らないと何も言わない、行動しない。スイカを食べるのも、話をするのも、僕からやらないと埒があかなそうだった。
夕食を食べたばっかりだからお腹いっぱいだったけど、もう一口齧る。出されたのがスイカだったのが救いだ。
「あのさ、今日の事なんだけど……」
ユキがようやく口を開く。スイカには手を伸ばさなかった。
「うん。ごめん。何となくカズに聞いちゃった」
「そっか……」
僕らは目を合わさず、夜を眺める。ほんの数秒の沈黙が重苦しく、僕のスイカを齧る音がまた一つ響いた。
「ごめん。何か急に逃げるように帰っちゃって。気分悪かったよね。ごめん。ホント気にしないで。ホタルのせいとかじゃないから。全然何も関係ないから。ただ私が……何て言うのかな。上手く話せないんだけど……その」
「いや、その。気にしてないから大丈夫だよ」
途中から震え出したユキの声に気づかない振りして、僕は平静を装う。スイカ、冷えてるうちがおいしいから、と促してユキにスイカを持たせた。
「今日の事は本当に気にしてないからさ。ホント。大丈夫だから! 逆に気にされると気にしちゃうよ!」
僕は何とか無理矢理笑ってみせたけど、ユキは悲しそうに笑って頷くだけだった。カズの気持ちが少しだけわかった気がした。
また、お互い外に向き直り、静寂が訪れる。
「……ユキ。僕はユキに感謝してるよ? もちろんカズにも」
ユキが僕の言葉に反応する。こっちを向いたのがわかったけど、僕は外を見つめたまま話を続けた。
「こんな事言うのも恥ずかしいんだけど……二人が居なかったらこの村に、このクラスに馴染むまでもっと時間かかってたよ。ここだけの話、僕はここに来るのが凄く嫌だったし、田舎を馬鹿にしてたんだ。でも二人のおかげで今ではすっかり村人だよ。いや、それは言い過ぎか。でも少し変われた気がするんだ。少なくとも今はこの生活もそんなに悪い気はしてないからさ。だから、その……ありがとう」
自分の言葉が恥ずかしくて、スイカをもう一口齧る。まさか自分がこんなにクサい事を言うなんて思わなかった。しかもクラスメイトの女子に。
「ホタル……ありがとう」
その言葉に僕が振り向くと、ユキはようやくほんのり笑ってスイカを一口食べた。そしてまた、ガラス越しに夜空を見上げた。
「私もホタルがいてくれて良かった。今日ちょっと気持ちが軽くなったよ。ありがとう」
僕も空を見上げる。返事は出来なかった。聞こえてしまうんじゃないかってくらいバクバク鳴っている心臓を抑えるのに必死だったから。
「あー、何だかスッキリして来た! 話聞いてもらいに来たのに話聞かせてもらっちゃったな! ……ありがとね」
月が照らしたユキの顔はいつもと同じ顔で笑っている筈なのに、いつもと違って見えた。
ユキはスイカをしっかり食べ終えて、父さんにお礼を言うと、そのまま玄関に向かった。お盆を持ちながら僕に「送っていけ」と耳打ちする父さんの顔がどこか誇らしげで、絶対変な勘違いをされていると思ったけど、訂正する時間も無く、僕はがっくり項垂れながら玄関へ向かった。
――――田舎の夜は暗い。
それでも重たくないのは空に広がる星のせいだろうか。と言っても、月明かりにも限界があり、街灯がほとんど無い道は自転車のライトだけでは心許なかった。
二つの円錐が並んで道を照らす。自転車を漕ぐ音がいつもより大きく感じた。
「そういえばさ。聞いてもらいたかった話って何だったの?」
ふと浮かんだ疑問を僕が聞くと、ユキは僕に振り向いて自転車のスピードを少し落とした。僕もギヤを軽くして、ペダルを漕ぐ力を緩める。光の円錐の端がまた重なった。
「うーん。あんな事があったからホタルには言っておかなきゃなって思って。灰坂さんの事。でもカズに聞いたんでしょ?」
「いや、すごく大雑把にね。あんまり話さなかったよ」
ユキは「カズらしい」と笑った。
「きっと私に気を使ってくれたんだよ。カズって意外にそういう優しさ持ってるから」
ユキは言い終わりに「あ!」と声を上げて、自転車を止めた。僕も慌てて急ブレーキをかけると、そこは神社に登る石段の前だった。
「ホタル。ちょっと寄り道しない?」
石段の上を指差すユキに、僕は自転車を降りて頷いた。
初めて登った神社の石段は結構な段数があり、思っていた以上に体力を消耗した。人気の無い夜の神社なんて行った事がないから、肝試しみたいな雰囲気を想像していたけど、上り切ってみると意外にもそこは生い茂る木々も少なく視界が開けていて、月明かりのせいもあってか、そこまで暗く感じなかった。
「この村の隠れ夜景ポイントなの!」
石段を丁度上りきった鳥居の下で、息切れしながら嬉しそうにユキは後ろに振り返った。僕もつられて振り返ると、目の前に広がる風景に目を奪われた。
「うわー……全然灯り無いね」
街灯はもちろん、家の明かりもひどくまばらで地形がまるでわからない。きっと夜を見下ろす僕の顔はとってもガッカリしていたんだろう、ユキは声を上げて笑い出して「違う違う!」と手を横に振った。
「ほら、あそこ!」
ユキが指差した遠く右の方に目を投げる。
「うわー、遠いね」
そこには恐らく街の繁華街であろう灯りが、本当に物凄く遠くの方に少しだけ見えていた。
「ね?」
ユキは嬉しそうに首を傾げた。僕は細かく二度、頷いてごまかした。これじゃ夜景が「隠れてる」ポイントだ。なんて思っても言えなかった。でも、こんな村に綺麗な夜景を求める事自体、無理な話だ。建物が少な過ぎる。ただその分、星が沢山ある。だから見下ろしてダメなら見上げれば良い。なんてまたクサい事を考えていたら、ユキは鳥居の近くに設置された丸太を半分に切っただけのベンチらしきものに座った。僕もユキの横に腰を下ろし、改めてなけなしの夜景を見つめると、ユキは呟くように話しだした。
「私さ、こんな性格だから誰彼構わず話しかけちゃったり、おせっかい焼いちゃうんだよね。じっとしていられない性格って言うか……」
「うん。でもそれでいいんじゃないかな? 少なくとも僕はそれで助かってるわけだし」
僕がそう返すと、ユキは「ありがとう」と微笑みながら続けた。
「それでまぁ、灰坂さんが転校して来たときもホタルの時みたいにいっぱい話しかけて、おせっかいやいたりしちゃったんだよね」
手元をいじりながら話すユキの表情が、ほんの少し曇った。
「そしたら……灰坂さん学校来なくなっちゃったんだ」
「それ、ユキのせいなの?」
ユキは少しだけ僕の方に顔を向けて、俯き加減に小さく頷いた。
「放課後にね。はっきり言われちゃった。迷惑だって。お願いだから二度と話しかけないでくれって。それで私、ビックリしちゃって……何回もごめんなさいって謝ったんだけど、灰坂さん次の日から学校来なくなっちゃって……」
ユキは悲しそうに笑って、僕と目を合わせた。
「ね? 私のせいでしょ? 人それぞれ色んな感じ方があるって事も知らなかったんだ私。自分のしている事が間違ってないって、正解だって勝手に思ってたんだよ」
「……じゃあ何で、僕におせっかいやいてくれたの?」
「感じ方は人それぞれ、だから。なんてね。私きっと自己中なんだよ。おせっかいも自分の満足の為にやってるんだよきっと」
「でも……僕にはそう見えないよ?」
僕は自分の気持ちを正直に伝えた。僕にしてくれた行動はユキの優しさだと思ったから。決して自分の為ではなく、僕の為にしてくれた事だと感じたから。
「ありがと。でも、自分でもよくわかんないんだ自分の事。何であんな事あったのにホタルにまた同じ事しちゃってるのかも。何で自分が全然変わらないのかも。全然わかんない。おかしいよね。自分の事なのに」
ユキは足を真っ直ぐ伸ばすと、ベンチに手をついて空を仰いだ。
「でも、ホタルがありがとうって言ってくれて嬉しかった。何だか自分でもわかんない自分を認めてくれた気がしてさ。なんて言うか気持ちがスッと軽くなった感じ」
夜空を見つめたまま、優しく寂しそうに微笑むユキに僕はなんて言ったら良いのかわからなかった。ユキの考えている事はきっと難しい。僕だって自分の事は良く分からない。なんだかんだ順応しちゃっている自分。ピアノを弾き出した自分。自分が一体何を考えているのかって自分が一番分かっていないのかも知れない。こんなの中学二年に答えは出せないと思う。でも、人から認めてもらえる事がすごく大事な事だっていうのは分かる。自分はこれでいいんだって思える瞬間て、そんな時だけだから。きっとユキは人一倍それを気にする人なんだろう。
そんな事を考えていたら、ふとあいつが思い浮かんだ。
「そうだ。カズは? あいつはいつだってユキを理解して認めてる気がするよ?」
「あいつはもう別件だよ。私だってあいつの事はあいつ以上に分かってる気がするし」
ユキがさらっと凄い事言うので、僕は少し胸が高鳴った。
「カズの事、好きなの?」
それとなく、でも率直に聞いてみた僕の質問にユキは「まさか!」と笑った。
「ないない! ずっと一緒に居すぎて、そんな感情今更湧かないよ!」
まぁ確かに大事な存在だけどね、とユキは付け足した。カズはこれを聞いて喜ぶのか、それとも悲しむのか。微妙な所だ。恋愛感情は湧かないけど大切な存在。親友って事か。
カズ、なんかごめん。
「あー、笑った。ホタルいきなり変な事言うんだもん! でも今日はホントにありがとね。話聞いてもらってスッキリしたし、聞かせてもらってスッキリした。ホタル、ありがとう」
僕は「どういたしまして」と笑い返した。
結局カズの話題で話は終わり、僕とユキは並んで石段を下りた。
一段一段下りながら、今日を振り返ってみる。人それぞれってユキは言ったけど、ホントその通りだ。色々あるんだ、僕にもユキにも灰坂にも。もちろんカズにも。大人になった時、今の自分達を見てどう思うのかな。笑っていられたらいいな。くだらない事で悩んでたなって。色々あったなって、みんなで笑い合えたらいいな。灰坂の歌わなかったテストも。泣いたユキも。ちっぽけな夜景も。僕の葛藤もみんな笑い飛ばせたらいいな。なんて、夜になると大人ぶった事を考えちゃうのが恥ずかしい。僕は一歩前に出たユキの背中を見ながら一人でちょっとだけ笑った————。
「————じゃ、また明日学校で!」
ユキを家まで送って、手を振りながら来た道を引き返す。何度か振り返るうちにユキの家は見えなくなった。
ハンドルを両手でギュッと握りしめる。何となく、カズ以外の人と付き合うユキは見たくないなって思った。
カズ、頑張れ。
僕はギヤを一段重くして腰を上げ、思いっきりペダルを漕いだ。
翌日の放課後。僕は宮沢先生に呼ばれて一人、音楽室に来ていた。
「そんなに難しくないでしょ?」
「まぁ確かにそうですけど」
僕は渡された楽譜をペラペラめくりながら答える。先生はうんうんと頷くと、ピアノの鍵盤蓋を開けて演奏を始めた。僕は先生の隣に置いた椅子に座り、音に耳を集中させながら渡された楽譜を目で追っていく。
なんて事は無い。ありきたりな合唱曲だった。
「これ、合唱の映像か録音した音源ってありますか? 練習でも何でも良いんですけど」
演奏が終わって、僕は楽譜から顔を上げた。伴奏の方は特に問題なさそうだった。後は歌入りを聞いてイメージを掴めばそれで十分。練習の必要もほとんどなさそうだ。
「もちろん。きっと映像の方がいいわよね」
先生は立ち上がって、黒板の横にある棚から一本のビデオテープを取り出すと、デッキに突っ込んでテレビのスイッチを入れた。画面に映し出された映像は音楽室に今の三年生が並んでいるものだった。つまりは去年の二年生の練習だ。
指揮者が指揮棒を掲げると、少し騒がしかった生徒達はみんな話すのを止めて姿勢を正した。指揮者が四拍とってピアノの前奏が始まると、やがて歌が入ってくる。
何だろう。この聞いた事ある感じ。先生の演奏でも何となく感じたけど、歌が入ると一層その感じは濃くなった。
「————先生。この曲ってもしかして有名だったりします?」
合唱の映像が終わり、デッキからテープを取り出す先生に僕は頭にモヤモヤを抱えながら聞いてみた。
「有名なわけないじゃない。この学校のオリジナルよ」
「そうですか」
「何? 知ってたの?」
「いや、知りません」
どうやらこのありふれたコード進行と単純なメロディー、そしてありきたりな青春系の歌詞のせいで色々混ざってしまったみたいだ。なんで合唱曲ってこういうのが多いんだろう。タイトルも似たようなのばっかりだし。区別がつかない。あ、そういえば。
「これ、なんていうタイトルなんですか?」
「僕らはいつまでも。よ」
やっぱりそういうタイトルか。色々わかりやすいけど、ありきたりすぎて逆に覚えにくそうだ。
これは思ったより反復練習が必要かも、と溜め息をつく。とりあえず帰ったら一回弾いてみる事にした。
「そのビデオ借りていっていいですか?」
「もちろんいいわよ。あらなに? 気に入っちゃったの?」
先生は嫌な笑みを浮かべてテープを渡して来た。僕はそれを受け取りながら、そんなわけあるはずがない。ありきたりすぎて色々とごちゃ混ぜになっちゃいそうだから借りていくだけです。と喉まででかかった言葉をグッと飲み込んで、かわりの言葉を口先で話した。
「まぁ……少しだけ。良い曲ですね」
一応、ちょっとは本音だった。と思う。
音楽室を出て教室に戻ると、カズとユキが僕を待っていた。
「ホタル! 終わったか! 神田商店でアイス食ってこうぜ!」
カズが座っていた机の上から勢い良く下りる。ユキが元気を取り戻したからか、カズは朝から上機嫌だった。
「なんだ。待っててくれたの? それじゃ食べてこうか」
「よっしゃ! 決まり!」
「あ、カズ! ちょっと!」
颯爽と教室を飛び出すカズをユキが追いかける。僕も机に掛けていた鞄に楽譜とビデオテープを乱暴に突っ込んで、教室を出た。
「————伴奏教えてもらったんでしょ? どうだった?」
ユキは昨日の帰り道とはまるで別人の様に笑って聞いてきた。その笑顔がいつも通りだったから、何だか僕もホッとした。
「まぁ普通。かな。大丈夫そうだよ」
「じゃ、これから始まる練習から弾くのか?」
「まさか。それは先生がやるだろ。授業なんだから」
僕は、バカな事を言い出すカズを冷たくあしらって、ふと自分がまるでユキみたいになっている事に気づいた。
「ホタルもカズの扱いが慣れて来たねー! 良い調子!」
ユキの言葉に納得する。どうやらカズを冷たくあしらうのは仲良くなった証拠みたいだ。僕もこいつに変に気を使わなくなったって事なんだろう。
「でも、練習か。そういえば、この曲って毎年お祭りでやってるんでしょ? だったらもうみんな歌えるんじゃない?」
「うーんまぁ大体はね。なんとなくなら歌えるかな。でもせっかくの晴れ舞台だから合唱に限らず出しもの全部毎回、歴代最高を目指してすっごい練習するんだよ? なんたって一年に一度の行事なんだから! 特に私たちは去年がもうひどかったから今年は大成功したいって女子はみんな言ってるよ! ほんと……去年はひどかったから」
ユキは隣で鼻をほじっているカズの間抜け面を見て、溜め息をついた。
そこまでひどかったのか去年は。きっとカズは今回もネックになると女子の中では思われているんだろうな。そりゃ、あの歌を聴けば不安になるのも無理は無い。他のみんながカズの声をかき消すぐらいに頑張れば何とかなるだろうか。いや、それも無理だ。なんたってカズは声だけはバカでかい。うん。やっぱりカズがしっかり歌うしか道はなさそうだ。
カズ、頑張れ。
「ん? ホタル何か言ったか?」
「いや、何も」
「ん? そっか。なぁユキ! 今日は俺、チョコアイスにする!」
野生の勘は心の声までも嗅ぎ取るのか。だったらもっとみんなの心配の声に気づけばいいのに。
僕は楽しそうにユキにあしらわれているカズを見て溜め息をついた。
しかし、そんな心配の種は翌日の音楽の授業で見事に消し飛んだ————。
「————指揮者は、野本君にお願いするわ」
青天の霹靂。
パート分けの発表で名前を呼ばれなかったカズは最後の最後で指揮者として名前を呼ばれた。その手があったか。
指揮者としてカズの名前が呼ばれた時の盛大な拍手は、きっとカズではなく先生に向けられたものだ。そんな事には全く気づかず、間抜け面をした野生児は顔を赤らめて恥ずかしそうに頭を掻きながら、未だ鳴り止まぬ割れんばかりの拍手の中、パート毎に分かれて並んだみんなの前に立った。
「よし、以上で発表はおしまい。今日から練習始めるわよ!」
はい! と大きな返事が揃って音楽室に響く。先生の采配は見事としか言えなかった。クラスの士気はこれで一気に高まったはず。でも、僕には一つ疑問が残っていた。
テストで歌っていない灰坂を先生はどう判断してソプラノに決めたのだろう。混声四部合唱の曲だから、パートは綺麗に五人ずつに分けられている。これは非常に微妙な人数で、一人歌わないのがどれほどパートに影響を及ぼすのかまるでわからない。灰坂が歌わないと仮定して、声量のバランスを取ったのだろうか。灰坂がみんなと混ざってなら歌うかも知れないのに? いや、それは無いか。恐らく無い。でも、それを先生が決めつけてしまうのは教師としてどうなのだろう。別に追求する気もないけど、僕はこのモヤモヤした気持ちのせいで元々そんなに無かったやる気が更に失せてしまった。
「はい、それでは始めましょ!」
先生は僕をピアノへ手招きする。
「え?」
「え? じゃないわよ朝丘君。あなた伴奏者よ?」
先生は「当たり前でしょ」と言いたげな表情で更に両手で僕を手招いた。
そうか。きっと先生は歌唱指導に早く入りたいんだ。
しかし、いくらなんでも昨日渡されたばっかりの曲を弾けるわけが無い。ましてや、昨日はカズとユキと結構遅くまで遊んでしまったからビデオテープも楽譜も鞄から取り出す事無く、僕は昨日のままの鞄で登校していた。
「すいません。まだ弾けません。というよりみんなもまだ歌えないでしょう?」
一応、自分が悪いという方向に持っていったがけど、悔しいので少しだけ反撃してみる。
「何言ってるの! 毎年聞いてるんだから歌えるわよ! 去年なんか夏中、ずっと練習の音が学校に響いてるのを聞いてたんだから」
ねぇ? と先生が微笑みながらみんなに振り向くと、ほぼ全員が頷いた。カズだけが頷かなかった。
「ごめんなさい。次には弾ける様にしてきますから今日は先生お願いします」
負けを認めた僕は席から立ち上がって、深々と頭を下げた。
「もちろんいいわよ。朝丘君のピアノ楽しみにしているわね。じゃあちょっと歌ってみましょうか」
僕は先生の「楽しみにしている」と言う言葉にゾッとしながら着席して、対面に整列するみんなを見た。前奏が始まって、歌が入る。
ホントだ。まだまだ色んな所が雑で時折ズレるけど、大体歌えている気がする。これならちょっと練習するだけで本番には確実に間に合うだろう。でも、ユキの言うようにみんな少しでも完成度を上げる為にいっぱい練習したがるんだろうな。って事は僕もたくさんピアノ弾かされるんだろうな。なんて考えると今から憂鬱だった。
僕は列から視線をずらす。そしたら、歌うみんなとピアノに挟まれて何をしたら良いのか分からずモジモジしているカズが目に入って思わず吹き出してしまった。合唱中だったからバレずにすんだけど、本番こいつの指揮を見て、みんなまともに歌えるのか本気で心配になった。
……何となく灰坂に視線を移してみる。やっぱり口は閉じたままだった。
ーーーーこの合唱、大丈夫なのかな?
放課後の合唱練習も終わって、学校からの帰り道。僕は珍しく一人で歩いていた。恐らく、当分はこうやって一人で帰る事になるだろう。
ついさっきの出来事だ。放課後、練習が終わってみんなが教室で帰る仕度をしていると、カズが宮沢先生に呼び出された。また何かイタズラしたのかと思ったら、呼ばれた場所は職員室ではなく音楽室だったので、どうやら違うらしい。
「すぐ終わるんなら待ってようか?」
昨日、カズとユキが僕を待っていてくれたので、一応気遣いで言ってみる。
「うん。ちょっと待っててくれよ。別に何もしてない筈なんだけどな。あれー?」
予想通りと言えば予想通りだけど、カズは遠慮なんか一切しない。頭をポリポリ掻きながら教室を後にする背中を見送って、僕は放課後の教室に居残った。
僕は入っていないけど、この学校にも一応部活動は存在する。規模は小さいけど。カズもユキも入っていないけど、スギは軟式野球部に入っていた。
校庭から野球部と陸上部の声が聞こえてくる。そういえば、こうやって放課後に残るのも初めてだ。
窓を開けると風がサッと廊下に抜けていった。バットの音、掛け声、土を蹴って走る音までも聞こえてくる。その姿も音も真剣そのもので、何だか、ザ青春って感じだった。
「わりぃ! ホタル先帰ってて!」
程なくして、カズが息を切らしながら教室に戻って来た。勢い良く戸を開けたその手には指揮棒が握られていた。
「あの、それ」
「おう! 今日から秘密の特訓だってよ! かっこいいだろ!」
カズは指揮棒を剣のように持ち替え、振り回した。どうやら指揮棒がとても気に入ったようだ。
「そういう事だから! 悪いな! これからはしばらく一人で帰ってくれ!」
カズは手を振りながらまた教室から走り去っていった。僕は振り返した手で窓を閉める。
先生も、カズが不安要素なんだな。
カズ、頑張れ。
僕は家に着くと早々に父さんがまだ帰ってきていないのを確かめ、鞄からビデオテープを取り出した。でも、居間のテレビの前に屈んで僕はようやく気づいた。
「そっか……」
家のデッキはDVDデッキだった。僕の家にはビデオテープを再生する機器が無い。と言うより今時、ビデオデッキを置いている家の方が珍しい気もする。きっとこの村ではまだスタンダードなんだろうけど。
とやかく言っても仕方ないので、僕はビデオテープをしまって、自分の部屋に入った。
鞄から楽譜を取り出して、着替えもせずにピアノの蓋を開ける。椅子に座り、広げた楽譜を追いながら先生の演奏を思い出した。
大きく息を吸って、鍵盤に手を置き、踊るように並ぶ音符を「音」にする。
僕の指がまるでずっと覚えていたかのように、先生と同じメロディーを奏でていく。
そして今日のみんなの歌を思い出し、頭の中で合わせる様に演奏する。カズの姿を思い出し、少し吹き出してしまったが演奏は止まらない。僕の指はブランクを感じさせないくらいに、意外な程しっかり動いてくれた。
「————よし、楽譜見ながらなら、もう弾けるな。って言うか、予想以上に簡単だったなぁ。いくらブランクあってもこれくらい弾けなきゃ……流石にねぇ」
楽譜を捲ってブツブツ文句を呟いていたけど、正直僕は少し嬉しかった。運指が思ったより錆び付いていないとかブランクどうこうではなく、弾いている時も弾き終わった後も不思議と気持ちが晴れやかだったからだ。
ピアノを弾いてこんな気持ちになったのは久しぶりだった。何だか、もう少し弾きたい気分だったけれど、これ以上弾いて変にまた前の気持ちを思い出してしまったら、それこそピアノを弾く気がゼロになってしまう気がしたので、僕はそっと鍵盤蓋を閉じた。
————あれから二日後。
結局、僕はあれ以来ピアノに触れる事無く、約束である次の音楽の授業の日を迎えた。
「じゃあ朝丘君。お願いね」
僕は嬉しそうな先生に会釈してピアノの椅子に座る。高さを調節して鍵盤の上に手を乗せる間もずっとみんなの視線が僕に集中しているのが分かった。こういうのはやっぱり苦手だ。
「えっと、カズは……」
僕はセットした楽譜から顔を上げて、指揮者であるカズに視線を合わせる。カズはピアノを挟んだ真向かいでニヤニヤした顔を僕に向けながら指揮棒で自分の手の平をペシペシと叩いていた。一体どんな特訓をすれば二日でそんな自信満々な態度を取れるんだろう。
「あ。そうそう朝丘君。申し訳ないけど、しばらくは指揮無しでやって頂戴。とりあえずみんなも朝丘君のピアノに合わせて歌って。野本君は一切、指揮しなくていいからとにかく朝丘君のピアノに集中して頭の中で四拍とる練習ね」
先生がパンと手を叩いて僕らに指示をだした。カズは指揮棒を握ったままうんうんと頷いていた。先生の言葉に女子からも男子からもクスクスと笑いが漏れる。
当たり前か。あのカズが二日で指揮なんて出来る筈が無い。
それでも自信満々な顔が全く崩れないカズは、先生に「指揮者は偉い」とでも吹き込まれたのだろうか。指揮棒も必要ないのに離そうとしないし。きっと心は完全にマエストロ気分なんだろうな。まぁ確かに自信って必要だけど、カズの憎たらしいにやけ顔は自信と言うより慢心に溢れている。でも二日で慢心出来るのもある種、才能と言えるのかな? まぁいいや、カズの事は先生に任せよう。
僕はフッと息を吐いてカズから視線を外し、並ぶみんなを横目に見て、楽譜と向き合う。
頭の中でリズムを取って、前奏を弾き始める。ワァッと言う声が少しだけ女子から漏れた事に気づき、恥ずかしくなって男子に目をずらすとみんな驚いた表情で僕を見ていた。
僕がピアノを弾く姿がそんなに珍しいのだろうか。
僕は膨らむ恥ずかしさをかき消す様に、頭の中で鳴るリズムの音を大きくした。
歌が入った。先生はピアノに合わせてって言ったけれど、僕は歌に合わせて弾いた。聞き慣れてはいても、歌い慣れてはいない曲だ。曲の中にあるリズムも掴み切れていない。だからどんなに頑張ってもリズムが不安定になってしまう。
最初からそこばっかり気にして歌うと、きっと窮屈に感じて歌うのがつまらなくなってしまうだろうから、まずは僕がみんなに合わせる。そして自分達がいい感じだと錯覚させてみんなのモチベーションを上げる。これが、好きこそものの上手なれ。つまりは作戦だ。
「————私たち、結構いい感じじゃない? 二回目でこれなら歴代最高の合唱になっちゃうかも!」
演奏が終わると、女子達が騒ぎ出す。作戦成功。
「ってかホタルすごい! かっこいい!」
「えぇ?」
まさかの言葉に驚く僕に、ユキが満面の笑みを向けて拍手を送って来る。他の女子達からも「カッコいい!」と声が飛んできて、やがて拍手は女子全員に広がってしまった。これは流石に予定外だ。ちょっとやりすぎたかも。
僕はまさかの状況に困って、助けを求める様にカズへ視線を逃がす。
カズは指揮棒で手の平をペシペシしながら、鬼のような形相で僕を睨んでいた……べつに僕は悪くないだろ、カズ。
「————ホタルすげーな! ってかズリーよ。ピアノ弾ける男なんてモテるに決まってんじゃん!」
スギがぼやきながらカセットデッキを止めて、巻き戻しボタンを押した。僕は何を言ったらいいのかわからず、空笑いを力なく返すだけだった。
今日から放課後はパート練習に当てられる事になる。お祭りの準備や練習で部活動が休みになったからだ。まだ一ヶ月以上先なのに、この気合いの入れようは確かにスゴいと思う。
パート練習はパート毎にカセットとデッキを渡され、それぞれ指定された教室でそれを聞きながら合わせて歌う形になっていた。ちなみにカズは今日も秘密の特訓。あの時の鬼のような顔を思い出す。きっと今ごろユキにカッコいいって言わせる為に必死に練習しているのだろう。
「俺もピアノ弾いてりゃ良かったよ。羨ましいね」
スギはデッキに手を置いたまま、大げさに肩を落として見せる。僕は少し笑って、首を傾げた。
「そうかな? 男でピアノって少し恥ずかしい気もするけど」
「まぁ男らしさはないけどさ、でも別の魅力があるじゃんか。やっぱりズリーよ。カッコいいもん」
僕は女子から言われるより、スギにカッコいいと言われる方が嬉しかった。なんだか、スギが僕のピアノを認めてくれた気がした。
「ありがとう。そう言ってくれると弾きがいがあるよ」
「何か気持ち悪いな。ホタルもしかして……」
「違うよ!」
僕が本気で否定すると、テノールパートのみんなが笑った。スギも「冗談だよ冗談!」と腹を抱えて笑った。
大した練習もしていないのに、もうほとんど楽譜を見ないで弾けるようになっている僕に宮沢先生は、ピアノの練習より今はみんなの指導に当たってくれと言いだした。
結果、僕は先生と手分けして毎日別のパートについて色々手助けをする事になったので今日はこうしてテノールパートのみんなと放課後を過ごしている。男子に対しては主に見張りって感じがするけど、でも、なんだかんだ男子もさぼる事無くしっかり練習していて、みんなの歌は一週間で格段にまとまってきていた。
「————ねぇねぇ。私、灰坂さんの隣なんだけどさぁ」
夏休み目前。僕がアルトパートの練習についている時に、一人の女子が口を開いた。
「あの子、いまだに一回も歌ってないけど大丈夫なのかな?」
「えー? まぁいいんじゃない? 大丈夫でしょ。先生もそこは考えてるんじゃない?」
「でも、隣が歌ってないだけで結構集中出来ないんだよねぇ」
「じゃあソプラノパートに頼んで灰坂さん一番外側に移動させてもらったら?」
「うーん。そうしてもらおうかなぁ」
「でもさ、本番一人だけ歌わないっていうのも見栄え悪くない? しかも端っこの人が口も開けないなんて、なんか仲間外れにしてる感じに見えるし」
「せめて口パクでもして欲しいよね?」
「ってか歌ってよって感じ」
「ねぇホタル。ソプラノパートの練習の時はどんな感じなの?」
急に話を振られて、僕はハッと我に返る。慌てて巻き戻し中だったカセットデッキから顔を上げた。
「いや、普通だよ? ちゃんと輪の中にいるし、まぁ確かに発言も無ければ歌いもしないけど……」
僕の言葉にあまり納得いっていない様子の女子達は「うーん」と首を捻った。
僕は初めて聞く下手をするとクラスメイトの陰口にとられかねない女子の愚痴に、何だか現実を見た気分になった。
村の人たちもクラスメイトもみんな良い人たちだ。それは変わらない。でもやっぱり、こういう部分もあって当然なんだ。前の学校の女子もこんな感じだった。田舎は違うと勝手に思い込み始めていた僕は正直少しショックだったけれど、だからと言ってみんなが嫌いになったわけではない。ただ熱を入れすぎて、溜まりに溜まっていた不満が今、ほんの少し漏れてしまっただけなんだと思う。爆発するよりよっぽど良い。こうやって小出しにしていけば大きな事件になる事も無いだろう。大丈夫、大丈夫。
どんどん良くなるみんなの合唱を聞いているうちに、どうやら僕は少し楽観的になっていたみたいだ。それは普通にピアノを弾けたせいもあるかも知れない。
僕は問題を軽く見ていた。女子達は合唱からではなく、灰坂が転校して来たときからずっと気にしていたのだ。不満はもっと前からあった。
僕は翌日の音楽の授業で、ようやくそれに気づく。
「灰坂さんさ。なんで歌わないの?」
演奏終わりに灰坂の隣に居た女子が、みんなに聞こえる様にわざと大きめの声で問いかけた。
「練習なんだからさ。間違っても良いじゃん。別に誰も文句言わないよ? でもそうやって口を閉じたまま黙っていられると練習すらする気ないの? ってイライラする」
灰坂が黙っているので、アルトパートのその女子は自分の思いをどんどんぶちまけた。でも、僕はそれを聞いて、やっぱり悪い人じゃないんだなって思った。その子の言っている事は間違っていないし、口調は荒めだけどそこには優しさがある気がした。
「みんなとなら、少し歌えない?」
逆隣のソプラノパートが灰坂に声をかける。気を使っているのがこっちにもヒシヒシと伝わってきた。
「無理しないでいいから、少しずつで良いからさ」
別の女子も声をかける。でも、灰坂は口を開かない。別の女子も声をかけたけど、それは変わらなかった。
そんな状況に業を煮やしたのか、とうとう男子が口を挟む。
「いいじゃん別に歌わなくても。最悪、本番は口パクでもしてくれりゃそれで問題ないでしょ」
彼なりのフォローだったんだろうけど、それで女子が納得する筈が無い。それで良いなら、そもそもこんな事になっていない。
「そういう問題じゃないでしょ!」
女子が声を荒げた。何だか、雰囲気がどんどん険悪になって来ている気がする。
「いや、だって歌が嫌いな奴に無理矢理歌わせるのも良くないだろ」
歌わない。それ、すなわち嫌い。と単純明快な答えを出す男子はあっけらかんと言い放つ。その態度に女子の怒りは更に刺激されたようで、足をバンと踏み鳴らした。
「なんでそうやって決めつけるのよ! 灰坂さんが歌嫌いっていつ言ったのよ?」
「はー? 見りゃわかんじゃん! 大体、お前らが次々に話しかけるから灰坂も口開く暇もなくて困ってんじゃん!」
「はぁ? 何それ! 灰坂さんが喋らないのはいつもの事だし! ……あっ!」
女子は自分の失言に気づき、自ら口を塞ぐ。
「はい。そこまで」
ここで先生がようやく騒動を止めに入った。ビックリしてピアノの前で見ている事しか出来なかった僕も大概だけど、先生はもう少し早いタイミングで止めるべきだったんじゃないだろうか。
先生が互いに全然納得言っていない女子と男子をなだめる中、灰坂は俯き加減で唇をギュッと結んでかすかに震えていた。涙を堪えているのだろうか。何を思っているのだろうか。それを知る術は、僕にはなかった。
「さ、練習再開しましょ」
先生は、僕に演奏の合図を送った。指示されるがまま、ピアノを弾き始める。
僕は色んな事を完全に見誤っていたのに気づいて、ひどく後悔していた。
大丈夫だと思っていた矢先に爆発だ。しかも何も解決しないままうやむやになっている。これは多分、いや、確実にまずい。だって、さっきの合唱がまるで嘘の様にみんなの歌が噛み合ず、チグハグになっている。リズムも音程も全部投げやりだ。やる気の無さが全面に出てしまって、聞くに堪えない。
……これ、もしかしたら歴代最低になってしまうんじゃないか?