「……ベナン」

 女性の脱力しきった声が響く、そんな一室。

 柔らかな新緑色が目に優しい、小さなワンルームだ。家具はほとんどなく、殺風景。本来であれば室内を照らす朝日が射し込んでいるであろう窓すら、そこには存在しない。
 そのかわりというように、室内の片隅にポツンと真っ白なベッドが置かれていた。柔らかなその上には、治療を施されたベナンが、静かな寝息をたてて眠っている。その目は固く閉ざされており、当分開きそうにない。恐らく、暫くはこのままだろう。

 ベッドの傍らに椅子を置き、眠る彼女を見守る二ルディー。落ち込んだように肩を落とす彼女の背中を、部屋の入口近辺に集うジルたちは無言で見つめる。
 なんと声をかければいいのか。彼らにはわからないのだ。

「……死亡フラグは、折れたっぽいんだけどな」

 最悪の事態は免れた。しかし、これではどうも納得がいかない。
 ジルが難しい顔をしている隣、ミーリャが己の髪の先に指を絡ませながら口を開く。

「死んでないだけマシなのよ。普通なら生きてることがおかしいのね」

「それはまあ、そうだろうけども……」

「大体、お前は甘すぎなのね。悪になりたいだなんだと言っておきながら真逆の行動をとりすぎなのよ。自重というものを覚えるといいのね」

 それは自分でも気にしていることである。
 何も返せぬジルに、ミーリャは一度だけ視線を向け、以後、口を閉ざす。言うことはもう何も無い。そういうことだろう。

 ジルはため息を吐いた。それから、どことなく気落ちしているオルラッドへと声をかける。

「ところでオルラッド。その髪そのままでいいのか?」

「え?」

 ジルの指摘にオルラッドは目を瞬いた。それから、己の頭部へと手をやり、一度停止。何かを考えるように眉を顰め、部屋から一度退出する。

「……逃げといた方がいいかな?」

「お前って、なんてバカなのかしらね……」

 元凶が何を言うか。

 近づいてくる足音に肝を冷やしながら、ジルはいつでも逃げられるように小さく身構える。

 足音は扉の前で停止した。扉の向こうには気配がひとつ。恐らく足音の持ち主だろう。
 その持ち主はオルラッドで間違いないと予測しつつ、ジルはゴクリと生唾を飲み込む。

 ゆっくりと開いた扉の隙間。そこから鬼の形相をしたオルラッドが、自分たちの名を恨めしく呼びつつ怒りを露わにしているシーンを想像してしまった哀れなる少年。頭上にある獣耳を頭部にピタリと貼り付けながら、彼は情けなくも大量の冷や汗を流し、心の中でこう呟く。

 ──俺の命日は今日かもしれない……。

 自業自得ではあるがなんとも哀れな呟きだ。

 そんなジルの心情を知ってか知らずか、扉の前の気配が僅かに動いた。ついに入ってくるかと逃走準備に入る少年を嘲笑うがごとく、室内にノックが二回、鳴り響く。

 ──……ノック?

 ジル、それからミーリャの二人は目を瞬いた。

「失礼。デラニアス殿は居られるか?」

 扉の向こう側からそんな問いかけが降ってきた。なんとなく、聞き覚えのある声だ。
 はてさて一体どこで聞いたか。そんなことを考える間もなく、獣族の少年はほぼ条件反射で口を開き答えを返す。

「あ、はい、ここにいます」

「……失礼」

 小さな声と共に、扉が開かれた。
 その向こうから姿を現した人物を見て、ジルの表情が驚愕の色に染まる。

「な、なんっ……」

 震える少年の指先が、あまりにも予想外の登場人物へと向けられた。

 短めの黒髪に赤い瞳。特徴的な片眼鏡と漆黒の神父服。そして愛想の欠けた表情。市役所でジルたちを相手にした役員だ。
 真っ白な手袋をはめた手で片眼鏡の位置を軽く調整する彼に、疑問の声を紡いだのはミーリャ。

「……なぜお前がここにいるのよ」

 ジルを庇うように一歩前に出た彼女を片手で静し、男は室内の奥へと目を向ける。それから、改めてと言うようにジル、それからミーリャを見て、一言。

「ここで話しては迷惑となるでしょう。廊下で構いません。少しお時間を頂戴したい」

 それは眠るベナンを前にし、項垂れる二ルディーを気遣っての言葉か……。

 なにはともあれ、危害を加えに来たわけではなさそうだ。
 悪意のない男の表情を見据えつつ、ジルは軽く頷く。それから、納得のいっていない様子のミーリャを引き連れ廊下へ出た。

「……で、何の用でしょうか?」

 二ルディーとベナンのいる部屋から少し離れた位置にある喫煙コーナー。真四角のスペースには目に優しい緑色の長椅子とどこにでもありそうな自動販売機が存在している。
 椅子に腰掛け問いかけるジルを見下ろし、男は軽く瞳を細めた。その瞳は何かを探るように、小さな少年の姿を見つめている。

「いえなに。あなたに少し、頼みたいことがありましてね……」

「頼みたいこと? 俺なんかに?」

「ええ、あなたでなくてはならないのです」

 俺でなくてはダメ?
 自分で言うのもなんだが、俺は世界最高最弱の獣族なのに?

 よくわからない展開に、ジルの目が点になる。ミーリャも訝しげな表情だ。

「……お前、自分が何言ってるかわかってるのかしら? この恐ろしく雑魚なジルになにかを頼むなんて……頭のネジが外れたとしか思えないのね」

「ミーリャさんひどい」

 しかし事実なので言い返せない。それだけ彼は自分の弱さを理解している。
 だが、男はその言葉を否定するように軽く首を振るだけ。物事を頼む人物を変える気はないようだ。
 ミーリャの呆れた視線すら気にすることなく、彼は戸惑うジルへと目を向ける。

「デラニアス殿」

 紡がれた名。そして、続けて吐き出されたのは衝撃的な問いかけ。

「──貴殿は、前世の記憶を保持しておられますね?」

 それは疑問というより、己の中にある結論を明確にするための質問に近かった。


 
 ◇◇◇


 ──一体どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 あまりにも衝撃が大きすぎて、呼吸すらままならずにジルは時間の感覚を消失する。実際にはさほど経過していない時の流れ。しかし、今の彼にとって、それは酷く長いもののように感じ取れた。

「……な、なに言ってんすかパイセン?」

 やっとのことでどこかへ旅立ちかけていた意識を戻したジル。その口から発されたのは驚愕と混乱を合わせたような震え声だ。
 パイセンという単語を知らないのか、神父服の男は1度小首を傾げてから、ダラダラと汗を流すジルを見据える。射抜くような鋭い色を灯す赤い瞳に、既にビビリ少年は逃げ腰だ。

「やはり、間違いはなかったか……」

 小さく紡がれたそれは、小柄な少年の耳には届かない。聴覚の優れた獣族でありながらそのずば抜けた能力を発揮できぬとは。それほどまでに、彼にもたらされた混乱は大きなものなのだろう。

 見ているだけで悲しくなるほどに情けない少年。そんな少年とは裏腹に、今現在のこの状況を不審気な顔で見守る少女は、しっかりとその呟きを聞いていた。聞いていたために、その眼差しは敵を見るような目に変化している。
 どこか気の抜けた様な瞳の奥に、確かに見える敵対心。神父服の男はそれに気づいているのかどうなのか、一度瞳を伏せてから言葉を続ける。

「今の問いの答えが『YES』であるならば、なおさらあなたに頼まねばならない。これは、あなたに課せられた運命といっても過言ではないのですから……」

「……運命? 何言って──」

「デラニアス殿。あなたに託す願いは二つ」

 男の口が、弱き少年の言葉を遮り、その内に秘めたる願いを告げる。

「一つは『悪代表を捕らえる』こと。そしてもう一つは『未開の森に住む番人を葬り去る』ことです」

「待つのよ」

 少年が疑問の声を紡ぎ出す前に、ミーリャは彼を庇うように前へ。自分よりも背の高い男を勇ましくも見上げる。

「ジルはしがない旅人もどき。悪代表のことはこいつには関係ないのね。それによう……未開の森の番人を葬り去れ? バカバカしくて笑えるのよ。こんな雑魚が番人を倒せると思ってるの? 天地がひっくり返ってもありえないのね」

「ミーリャ……」

 些か言い過ぎな気はするが間違っていないので訂正は不可能。庇いたいのか、はたまた貶したいのかよくわからないミーリャの言葉のお陰で、ジルはようやく落ち着きを取り戻していく。
 だが、だからと言って男が言葉を止めるわけもなく。彼は次なるセリフを口にする。

「言ったはずですよ。これはデラニアス殿に課せられた運命だと……」

「運命だろうがなんだろうが、無理なものは無理なのよ。諦めて他を当たるといいのね」

「ふむ……では問いましょう」

 男の視線と、ミーリャの視線がぶつかり合う。

「あなた方は私がこの願いを口にせずとも、悪代表の元へ行く気ではなかったのですか? 未開の森を目的地としてはいなかったのですか?」

「……」

「これは決められた道筋であり天命なのです。デラニアス殿は決して逃げられない運命にある。だからこそ、彼にその能力は与えられた」

 ジルに与えられた能力。訊かずとも、それが何であるかを二人は悟った。
 突然目覚めた予知夢の力。恐らくそれに違いない。
 苦々しい顔で、ミーリャは眉間にシワを寄せる。

「反吐が出るのよ」

 少年はそっと同意した。