私は反射的に振り向いてしまう。すると、鋭利な切っ先が喉元ぎりぎりのところで動きを止めた。その先端からは、冷気が伝わってきた。
──氷の剣だ。私はごくりと息を呑むと、体を硬直させる。
「な……んで……?」
理解が追いつかず、私は呆然としながらそう呟いた。
(なんで、オリバーがこんなことを……)
動揺している私をよそに、彼は静かに口を開いた。
「ある方の命令です。……私だって、本当はこんなことしたくないんですよ」
「……! それなら、どうしてその人の言いなりになっているの……?」
混乱しつつも、何とか会話を試みる。
すると、オリバーは少し悲しそうな笑みを浮かべて答えた。
「理由は聞かないでください。私の要求はただひとつ。役目を終えたコーデリア様に自害をして頂くことです。もし、その要求が受け入れられないのであれば──力ずくであなたを殺すしかありません」
「……!」
その言葉に衝撃を受けた私は、押し黙った。
(そんな……)
オリバーの冷たい視線と突きつけられた剣先を見て、心臓が早鐘を打つのを感じた。
彼は本気だ。本気で私を殺そうとしている。その事実を目の前にして、恐怖と悲しみが入り交じった感情で胸の中が一杯になった。
「コーデリア様!」
そんな私を見て、エマが前に進み出た。そして、オリバーに向かって怒声をぶつける。
「オリバー! あなた、一体何を考えているの!? コーデリア様を殺すだなんて……正気とは思えないわ!」
「エマ、君は黙っていてくれ」
オリバーはそう言って、エマを牽制する。
「……っ!」
その鋭い眼光に気圧されたのか、エマはそれ以上何も言えずに黙り込んでしまった。
「コーデリア様、早く決断してください。お願いします」
オリバーはそう言って私に視線を戻す。光を失ったその瞳からは、何の感情も読み取れなかった。
「──させるか!」
不意にそんな声が響いたかと思えば、ジェイドが炎の玉を放ってオリバーを攻撃する。彼は瞬時に反応し、氷の盾を出現させるとそれを防いだ。
「コーデリアに自害しろ? それができなければ、殺すだと? ……ふざけたことを言うな!」
ジェイドは激昂しながらそう叫ぶと、オリバーに鋭い視線を向ける。
だが、ジェイドの言葉を受けてもなお、オリバーの表情に変化はなかった。ただ静かに彼を見据えているだけだ。
(どうしよう……)
私はこの状況に混乱していた。まさか、こんなことになるなんて思いもしなかったからだ。
そうやって、しばらく対峙した状態で睨み合っていると──やがて、オリバーは観念するかのように静かに目を閉じた。
「……やっぱり、できない。あなたを殺すことなんて、できるはずがない」
オリバーは、震える声でそう言った。
そして、力なく膝から崩れ落ちる。その表情には深い落胆の色が見て取れた。
どうしたらいいかわからず、困惑していると、突然背後から怒声が聞こえてきた。
「──どうして、その女を殺さないのよ!!」
驚いて振り返れば、そこには見覚えのある少女が立っていた。
──ビクトリアだ。自身の片割れであり、同時に憎むべき存在。彼女は、怒りの形相でこちらを睨みつけていた。
「ビクトリア……? どうして、ここに……?」
私は動揺しつつも、何とか言葉を絞り出すようにして尋ねた。
しかし、ビクトリアは質問には答えず、視線をオリバーの方に向ける。
「はぁ……本当に役立たずね。任務に失敗したってことは……どうなるか、分かっているんでしょうね?」
ビクトリアは呆れたようにそう言うと、オリバーを睨みつける。すると、彼は懇願するように声を上げた。
「お願いします! どうか、それだけは……!」
悲痛に満ちた表情を浮かべるオリバーを見て、ビクトリアは嘲笑する。
「どうしましょう? だって、できないんでしょう? それなら、彼女に犠牲になってもらうしかないわよね?」
ビクトリアは楽しそうに笑うと、エマの方を見た。
その表情には、狂気が浮かんでいる。
(彼女って……もしかして、エマのことなの?)
詳しい事情はわからないが……ビクトリアの話しぶりから察するに、恐らくオリバーはエマを人質に取られて脅されているのだろう。
そして、彼女を助ける条件として私の命を奪うように命令された。
とはいえ、異界の門を閉じる前に死なれてしまっては困る。
だから、きっと「コーデリアが役目を終えたタイミングで殺せ」と指示を受けたのだ。
──そう考えると、辻褄が合う。
「オリバー……一体、どういうことなの? 詳しく話して」
エマは困惑した様子でそう尋ねる。そんな彼女に向かって、オリバーは悲痛な面持ちで口を開いた。
「……君には、ある呪いがかけられているんだ」
オリバーはそう切り出すと、ラザフォード家がユリアンによって断罪された日のことについて語り始めた。
あの日、ビクトリアを含むラザフォード家の面々は全てを失った。財産も、名誉も、地位も、何もかもだ。
一家全員が失意のどん底に叩き落とされた。その中でも、ビクトリアの失意は特に深いものだった。
ラザフォード家の長女として生まれ、何不自由なく暮らしてきた彼女にとっては、まさにこの世の地獄だったのだろう。
そして──自暴自棄になったビクトリアは、私への復讐を企てた。
そのためには、比較的私に近い存在で、尚且つ使い勝手の良い駒が必要だったのだ。
そこで、オリバーに目をつけたビクトリアは秘密裏に彼と接触を図ったのである。
当然、オリバーは最初は断ったそうだ。……しかし、最終的にはエマを人質に取られたことで協力せざるを得ない状況に追い込まれたのだという。
エマがかけられた呪いというのは、言わば時限爆弾のようなものだった。
ビクトリアの手によって呪いをかけられたエマは、その期限を過ぎると死に至ってしまう。
私とエマの命を天秤にかけ、オリバーは苦渋の決断をしたのだという。
オリバーにとって、エマはかけがえのない幼馴染だ。彼は、普段はあまり感情を表に出さないタイプではあるけれど、エマへの思いがどれほどのものなのかは計り知れない。
しかし、いざ私を殺そうとした時に、オリバーは躊躇ってしまった。
その様子をこっそりと後をつけて見張っていたビクトリアは、とうとう痺れを切らして私たちの前に現れた──というのが事の顛末だったようだ。
「ふん……もういいわ、オリバー。あなたみたいな腰抜けには頼らないから。……こうなったら、自分でやるわ」
ビクトリアはそう吐き捨てるように言うと、私に鋭い視線を投げかける。
よく見てみれば、彼女の目は血のように真っ赤だった。まるで獲物を狙う獣のようにぎらつき、瞳孔が大きく開いている。
「あの目の色は……」
「──恐らく、さっきのヒュームがビクトリアに取り憑いたんだろう。彼女の中にある強い憎悪や復讐心に、ヒュームが同調してしまったんだ」
隣にいるジェイドが、険しい表情で呟いた。
「取り憑いた……?」
驚いて聞き返すと、ジェイドは静かに頷く。
「ああ、そうだ。ヒュームは、稀に人の精神に干渉して取り憑くこともあるらしい。フランツが気をつけろと教えてくれたんだ」
「そんな……」
私は愕然としながら呟く。
「ラザフォード家が代々契約してきた『異界の悪魔』というのは、きっとヒュームのことなんだろう。……そんな厄介な相手がビクトリアに取り憑いているとなると、一筋縄ではいかないだろうな」
ジェイドの言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「お喋りはその辺にしておきなさい。そろそろ、始めるわよ」
ビクトリアはそう言って不敵に笑うと、こちらに向かって歩いてくる。
そして、彼女は手のひらに黒い炎を生み出すと、それをこちらに向けて放ってきた。
私は慌てて立ち上がると、冷気の嵐を発生させ相殺を試みる。すると、彼女は舌打ちをして氷の剣を生成し、物凄い速さで斬りかかってきた。
「なっ……!」
予想外の速さに、反応が遅れそうになる。咄嗟に魔法障壁を展開することで斬撃を防ごうとするものの、力負けして弾き飛ばされた。
(くっ……!)
地面に倒れる直前に何とか受け身を取った私は、再びこちらに向かって走り寄ってきた彼女に対応しようとする。けれど、そんな私の前にジェイドが立ち塞がり、彼女に向かって魔法を放った。
直後、炎の竜巻が発生する。その竜巻がビクトリアに直撃した瞬間、彼女の体は高く巻き上げられた。
しかし──突然彼女の頭上に黒い雲が立ち込めたかと思えば、それが雷雨となって降り注いだ。
ビクトリアの体を巻き上げていた炎の竜巻は、激しい雨によって一瞬のうちにかき消されてしまう。そして、彼女の体は地面に打ち付けられた。
「……っ! 消されたか!」
ジェイドは苦々しい様子でそう呟く。
ビクトリアは所々に火傷を負っているものの、平然とした顔でむくりと起き上がる。
恐らく、咄嗟に魔法で全身を防御して熱から体を守ったのだろう。
「……あなた、邪魔なんだけど」
そう言って、ビクトリアはジェイドに向かって黒い炎の玉を放つ。
「っ……!?」
突然のことだったせいか、ジェイドは回避しようとするも間に合わず、防御の姿勢を取った。
炎の玉はジェイドに直撃し、勢いよく弾き飛ばされた。彼はそのまま地面に倒れ込む。
「ジェイド様!」
駆け寄ろうとした瞬間、ビクトリアが放った黒い炎の玉がそれを阻むように私の足をかすめる。
「コーデリア……お前だけは絶対に許さないわ。私の人生をめちゃくちゃにした罪、その身で償いなさい!」
恍惚の笑みを浮かべるビクトリアの手には、既に氷の剣が握られている。
彼女は狂気に満ちた瞳でこちらを見据えると、恐ろしい速さで攻撃を仕掛けてきた。
(駄目だわ! この距離だと、魔法障壁の発動が間に合わない……!)
それならば、と私も負けじと氷の剣を生成する。
すぐさま剣の柄を握りしめると、攻撃を受け止めるべく身構えた。剣と剣がぶつかり合う音が響き渡ったかと思えば、激しい衝撃波が巻き起こる。あまりの衝撃に、周囲の空気までも震えた気がした。
ビクトリアの力は凄まじく強い。何とか押し返そうとするものの、ギリギリと嫌な音を立てながら徐々に押されていくのがわかる。
学生時代──平民と同じ学校に通っていた頃は、授業の一環で剣術も習わされた。
当然、その時はろくに剣を扱うことさえできなかったけれど。……だが、どうしてだろう?
自身が持っている魔力を自覚し、受け入れた途端、まるで背中に羽が生えたように体が軽くなる感覚を覚えたのだ。
少し前までの自分は、魔法を使うどころか近接での戦闘でさえ人並み以下の力しか持ち合わせていなかったはずなのに。
──今の自分なら、ビクトリアに勝てる。そう確信した。
(ビクトリアは、分かっているんだ。……覚醒した私に、魔法では勝てないということを)
だからこそ、先ほどから敢えて接近戦に持ち込もうとしているのだ。
剣を抜かせることで、こちら側に魔法を使う隙を与えないようにしているのである。
相手の作戦通りにさせないためにも、ここで下手に逃げの姿勢を見せてはいけない。
「死ねええぇぇぇえええ!!」
ビクトリアはそう叫ぶと、容赦なく私の心臓を狙うようにして刃を振り下ろす。
私は剣を握る手にぐっと力を込めると、逆らうようにしてビクトリアの斬撃を押し返した。剣と剣がぶつかり合ったことで衝撃が走り、互いにバランスを崩しそうになる。
ビクトリアは私が体勢を立て直した隙を突いて、再び切り掛かろうと体勢を低くする。その瞬間、私は地面を蹴り上げる勢いのまま、彼女が持っている氷の剣を薙ぎ払った。
持ち主の手から離れた氷の剣は宙を舞い──地面に叩きつけられた後、一瞬で砕け散る。
ビクトリアは目を見開いたまま硬直していた。私は、彼女の喉元に剣の切っ先を突きつける。
「……ここまでよ、ビクトリア。エマにかけた呪いを解く方法を教えて」
私が静かに告げると、ビクトリアの瞳は絶望に染まる。
「あ……あぁ……嫌……お願いだから、殺さないで……!!」
ビクトリアがそう懇願するのと同時に、彼女の体から黒い靄のようなものが立ち昇るのが見えた。
次の瞬間、ビクトリアは意識を失い倒れ込んだ。
黒い靄は、みるみるうちに姿を変えていく。
そして、黒竜の姿を象ったかと思うと、大きな咆哮を上げた。
鼓膜を震わせるような圧倒的な威圧感と禍々しさに、思わず体が怯みそうになる。
黒竜は、空中でゆっくりと羽ばたきながらこちらを見下ろす。
巨大な赤い目に見下ろされた途端、全身が怖気立った。その視線だけで、命を奪われそうだと本能的に悟る。
呆然としていると、黒竜は長い尻尾を大きく動かした。尻尾が鞭のようにしなると、鋭く尖った先端がこちらに迫ってくる。
(まずい……!)
瞬時に直感して横に転がるように避ける。その後、すぐに立ち上がって構え直すが、休む暇もなく今度は空中にいる黒竜が大きな火の玉を吐いた。
私は何とか魔法障壁を自分の目の前に出現させることで、それを防ぐ。
火の玉が障壁にぶつかることで激しい爆発が巻き起こり、爆煙で視界が覆われる。
直後、耳元で羽音が聞こえた。それに気づいた私は、慌てて防御するべく再び障壁を張ろうとするが──
(駄目だ、間に合わない……!)
そう思った次の瞬間、凄まじい音と共に雷撃がほとばしった。雷撃は黒竜の体に直撃する。その途端、黒竜は苦しそうに呻き声を上げてよろめいた。
白煙がおさまり、徐々に視界が晴れてくる。一体誰が助けてくれたのかと周囲を見渡せば、少し離れた場所にオリバーとエマの二人の姿があった。
「……! オリバーさん! エマさん!」
どうやら、二人が同時に魔法を放って黒竜の動きを止めてくれたらしい。
怯んでいた黒竜は、やがて体勢を立て直すと、その赤い瞳でこちらを見据えながら咆哮を上げる。
すると、先ほどよりも更に強烈な威圧感が襲いかかってくるような感覚を覚えた。
このヒュームは、きっと何としてもビクトリアを利用して再び異界の門を開かせるつもりなのだ。
だからこそ、その邪魔をする私たちのことを目障りに思っているのだろう。
(それなら、尚のこと負けられないわ……)
そう思いながら、黒竜を睨みつける。すると、黒竜はこちらに向かってゆっくりと歩き始めた。そして、地面を這うようにして低い体勢になると、そのまま勢いよく突進してくる。
体当たりでもするつもりなのだろうか。あの巨体にぶつかられたら、ひとたまりもないだろう。
すぐに魔法障壁を張って、身構える。だが、あれほどの大きさとなると、正直なところ障壁が耐えられるかどうか分からない。
そんなことを考えていると、轟音と共に周囲に凄まじい旋風が巻き起こり、私は思わず目を瞑る。
やがて、旋風がおさまったので戸惑いながらも目を開けると、黒竜の頭上から無数の氷の針が降り注いでいるのが見えた。なぜか、黒竜は必死に目を庇っているように見える。
「コーディ! 大丈夫か!?」
同時に、背後からジェイドの声が聞こえてくる。
どうやら、意識を取り戻したジェイドが魔法で黒竜の突進を食い止めてくれたようだ。
「ジェイド様!」
「奴の弱点は、きっと目だ! あの赤い目を狙うんだ!」
その言葉に、私はハッとして頷く。そういえば、ヒュームが作り出した空間に閉じ込められた時、あの赤い目に吸い込まれそうになる感覚を覚えた。
今思えば、あの特殊な力を持つ目を使って私を取り込もうとしていたのだろう。
──あの目は全てを見通す千里眼であり、心の目。だからこそ、私の精神に干渉してあの空間を作り出すことに成功したのだ。
ヒュームにとってあの赤い目は心臓部も同然。それを潰せば、形勢逆転だ。
黒竜はジェイドの攻撃が止むと同時に、再びこちらに向かって突進してきた。
私は複数の氷の槍を生成すると、黒竜の目を狙ってそれを次々と放つ。だが、目の周辺に氷の槍が着弾するも、竜の強固な皮膚と筋肉によって弾き返されてしまう。
(一体、どうしたら……)
ふと、頭に一つの案が浮かぶ。
(そういえば……魔力が籠もった鉱石は武器の性能を引き上げる能力を持っているのよね)
だから、自分で生成した氷の剣に鉱石をはめ込めばもっと力が引き出せるはず。
ジェイドたちに時間稼ぎさえしてもらえれば、即席で氷の剣に加工を施すことは十分に可能だろう。一か八か、やってみるしかない。
私は意を決すると、ジェイドたちに向かって呼びかけた。
「皆さん! 少しだけ、敵の意識をそらす時間をください!」
三人は驚いたような顔をしたが、やがて私の考えに気付いたのか黙って頷いてくれた。
私は彼らが気を引いてくれている間に急いで作業を行うことにした。
本当なら、一度鉱石の魔力を抽出してから武器に付与したほうがより強力になるのだが……今は一刻を争う状況だ。悠長に魔力を抽出している時間はない。
そう思い、懐から予め持ち歩いていた紫青石を取り出して手のひらに乗せる。紫青石は、その名の通り青紫色を基調とした美しい輝きを放っている鉱石だ。
この鉱石が持っている「物を硬化させる特性」を利用すれば、氷の剣の強度が上がる。恐らく、竜の強固な皮膚をも貫けるほどになるはずだ。
私は祈るような気持ちで紫青石を氷の剣に近づけた。その途端、ちょうどいい窪みが出来て、鉱石がすっぽりと剣に収まった。
魔法で生成した武器は変形が可能だと聞いてはいたが、まさかこんな使い方ができるとは思わなかった。
私はすぐさまジェイドたちに合図を送る。三人は私の意図を察したのか、黒竜に魔法を放ちながらも頷いてくれた。
そして、剣を構えて黒竜に向き直ると、そのまま勢いよく地面を蹴って走り出す。
三人が放った魔法をまともに食らったお陰か、黒竜は怯んでいる。
(今だ……!)
心の中でそう呟きながら、一直線に突進する。
黒竜は私の存在に気づいたのか、尻尾を横に薙ぎ払うようにして攻撃してくる。
私は高く飛んで、何とかその攻撃をかわす。そして尻尾の上に乗ると、そのまま体を駆け上がった。
だが、後もう少しのところで黒竜が大きく羽ばたき、空中で強風を生み出したせいで私は振り落とされそうになる。
その予感は的中し──尻尾にしがみついていた手が離れて、そのまま空中に投げ飛ばされてしまった。
(嘘……!?)
私は宙に投げ出され、為す術もなく落下していく。不意に、下からジェイドの声が聞こえてきた。
「コーディ! これを使うんだ!」
ジェイドがいる方向を見ると、彼は氷で出来た巨大な円盤を生成してそれをこちらに向かって放った。彼の意図を汲み取った私は、小さく頷いた。
そして、氷の円盤が自分の真下まで飛んでくると、私はその上に着地する。そして、円盤を強く蹴って黒竜の頭上まで飛び上がり、そのまま黒竜の目を狙って剣を振り下ろした。
黒竜が咄嗟に目を閉じた瞬間。ガキィン、という凄まじい音を立てて剣と鱗が激しくぶつかり合う。黒竜は怯んで僅かに頭を仰け反らせた。
私は剣の柄をしっかり握ると、黒竜の瞼に刃を突き立てた。剣の先端が、確実に皮膚を貫いている感触がある。やがて、黒竜は断末魔のような雄叫びを上げた。
「グオオォォォォォ!!」
鼓膜が破れそうになるほどの鳴き声が辺りに響き渡る。
それに耐えながらも、私はもう片方の目に何度も剣を突き刺す。氷の剣は黒竜の眼球を易々と突き刺し、とうとう二つの目を潰してしまった。
私はとどめを刺すべく、黒竜の脳天に剣を突き立てた。
「──とどめよ!」
「グオオォォォォォォン!!」
黒竜は苦しそうにその場で激しく藻掻き暴れ続ける。
やがて、姿を保てなくなってきたのか、黒竜は徐々にその姿を煙のように変化させていき──やがて、完全に消え去ってしまった。
「わっ……!」
再び空中に投げ出された私は、そのまま落下していく。衝撃に備えて思わず目を瞑ると──数秒後、誰かが体を受け止めてくれたような感覚があった。
目を開けてみれば、ジェイドに抱えられていることに気づく。
彼は、ほっとしたような表情を浮かべながら口を開いた。
「怪我はないか? コーディ」
「ええ、何とか」
私は微笑みながら頷いた。
すると、様子を窺っていたオリバーとエマがこちらに駆け寄ってくる。
「コーデリア様!」
エマは涙を流しながら私に抱きついてきた。
「コーデリア様……ご無事で何よりです」
オリバーも、そう言って涙ぐみながら笑顔を見せる。
私は思わず涙が零れそうになるのを堪えながら微笑み返すと、改めて勝利を噛みしめた。
(あとは、ビクトリアからエマさんにかけた呪いの解き方を聞き出すだけね)
そんなことを考えながら、気を失っているビクトリアのほうを見やる。
一先ず、異界の門を閉じることには成功した。あとは、エマにかかった呪いを解いてあげられるかどうかだ。
無事に任務を終え、鉱山の外に出ると、ケイン、ウィル、ダグラスの三人が出迎えてくれた。
「皆さん、ご無事でしたか!」
ダグラスが胸を撫で下ろしている横で、ケインとウィルも少し興奮気味に声を上げる。
「お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫です。無事、異界の門を閉じることに成功しました」
私はにっこりと微笑む。ダグラスはそんな私の様子に違和感を覚えたのか、僅かに首を傾げた。
「それは良かったです! でも、その……もしかして、中で何かあったんですか?」
そう聞かれたので、私は簡単に経緯を説明することにした。
「なるほど……そんなことがあったんですね。それにしても、よくその状況から形勢逆転できましたね」
ダグラスは驚きながらも、感心したように頷く。
私は苦笑すると、後ろにいるジェイドたちに視線を向けた。
「皆さんのお陰です。皆さんがいたからこそ、あの魔物に勝てたんですよ。私一人だったら、きっと勝てなかったと思います」
そう返すと、ダグラスは納得した様子で「なるほど」と頷いた。
「……皆様、本当にお疲れ様でした!」
ダグラスは労りの言葉をかけてくれる。そして、私たちに向かって敬礼をした。
私たちは顔を見合わせると、喜びを分かち合うように微笑む。
街に戻ると──いつの間にか雪が止み、雲間から太陽が顔を覗かせていた。辺りは一気に明るくなり、積もった雪に日差しが反射してキラキラと輝いている。
久々に目にした明るい景色に見惚れていると、不意に隣にいるジェイドに名前を呼ばれた。
「コーディ。その……さっきの話だが」
「はい……?」
何のことだろうかと首を傾げていると、彼は照れ臭そうに視線を逸らす。
「……いや、その……君も、俺のことを好きだと言ってくれていた件なんだが……あれは、言葉通りに受け取っていいのか?」
確かにそんなことを言ったような気がする。
途端に、あの時の自分の発言に対する羞恥心が蘇ってきた。
「え!? ほ、本当……ですよ」
しどろもどろになりつつもそう答えれば、ジェイドは言葉に詰まりながらも「そ、そうか……」と呟く。
「ということは……つまり、両思いということだな」
「ええと……そうなりますね……」
何と言ったらいいかわからず、私は困ったように笑うことしかできなかった。
ふと、ジェイドと視線が絡み合う。その途端、彼は私の肩を掴んだ。そして、不意に首筋に口づけを落とされる。
──突然のことに、私は硬直してしまった。
「……え?」
しばらくの間、そうやって固まったまま動けずにいた。私は動揺と気恥ずかしさを誤魔化すように、空を仰いでみる。
けれど、流石に何か言わなければと思い、ふと視線を落とした瞬間。ジェイドの柔らかい髪が頬を掠めた。──そう、彼は人の姿に戻っていたのだ。
そのことも相まって、一気に頬が紅潮していくのを感じる。
「ジェ、ジェイド様……」
声をかけると、ジェイドは我に返ったように慌てて私から離れた。
「も、申し訳ない……! 両思いだと知って、嬉しくてつい……」
耳の付け根まで真っ赤に染まった彼を見て、思わず吹き出してしまう。
「ふふっ……あは、あははっ! ジェイド様ったら、顔が真っ赤ですよ!」
そんな私を見て、彼は困ったように眉尻を下げながらも、やがて一緒になって笑い出す。
「ところで、お気づきですか? ……いつの間にか、元の姿に戻っていますよ」
その言葉に、ジェイドは今気づいたという様子で目を丸くした。
「え……!? ああ、本当だ!」
ジェイドは信じられない、といった様子で何度も確かめるように念入りに自分の顔や髪を触ってみせる。
「フランツさんが言っていた通り、異界の門を閉じて瘴気が消えたらちゃんと元の姿に戻れましたね」
私がそう言うと、ジェイドはようやく嬉しさが込み上げてきたのか満面の笑みで私を見据えた。
「ああ。本当に良かった。ようやく、元の姿に戻れたんだな……」
ジェイドは実感したようにそう言った。
再び、空を見上げてみる。今までは街に瘴気が充満していたから、こんなに清々しい気持ちで空を見上げることは一度もなかった。澄み渡る青さが目に染みる。
「そういえば、どうして唇じゃなくて首筋にキスしたんですか?」
からかうように、そう問い掛ける。
すると──ジェイドは急に真顔になったかと思えば、私の腰を抱いて自分の方に引き寄せた。
「……なんだ? 唇のほうが良かったのか?」
そう言いながら、ジェイドはもう一方の手を私の頬に添える。
どこか余裕のある台詞を吐かれた瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。
妖艶とすら感じるほどの熱のこもった眼差しに見つめられ、体が動かなくなってしまう。
「い、いえ……私には刺激が強すぎるので、唇にするのはもう少し待っていただけるとありがたいです……!」
視線を逸らしつつもそう答えると、ジェイドは可笑しそうに笑う。
「なんだ、それは。……わかった、もう少しだけ待つよ」
ジェイドはそう言うと、私の頭を優しく撫でてくれたのだった。
雪が溶け、草木が緑色に輝く。街を歩けば、鮮やかな色の花々が咲き誇り、蝶が舞い、鳥たちの鳴き声が耳に響いてくる。
あの事件から数ヶ月が経った今では人々も落ち着きを取り戻し、街の景色も明るくなり始めていた。
──そう、ついにウルス領にも春が訪れたのだ。
あれからというもの、色々なことがあった。
まず、ビクトリアを始めとする元伯爵家の面々は、世界を危機に陥れた罪に問われ王立裁判所で裁かれることとなった。
判決はまだ出ていないものの、彼らに与えられる刑は相当重いものになるだろうという噂だった。
良くて終身刑。最悪の場合、死刑。そんなところだろう、と皆が話しているのを聞いているだけで背筋が冷たくなるのを感じていた。
ビクトリアは未だに容疑を否認しているらしいが、罪に問われている以上その責任から逃れることは出来ない。
きっと、彼女もいずれ自分の犯した罪の重さを理解してくれることだろう。そうであって欲しいと願うばかりだ。
エマにかけられた呪いに関しては、あの後ビクトリアを問いただしたところ治癒魔法で簡単に解けるものだということが分かった。
すぐにその治癒魔法を試みたところ、何とか無事に解呪に成功し、エマは晴れて呪いから解放されたのだった。
そして──私とジェイドは、改めて結婚式を挙げることになった。
気づけば、結婚してから一年以上が経過してしまったが、ようやく身の回りも落ち着いてきたし正式に挙げるのも良いだろうという話になったのだ。
式場は、街の中央にある丘の上に位置する教会だ。空は快晴。頬を撫でる風が気持ちいい。
控室にて。ウェディングドレスを身に纏った私は、姿見の前で一人佇んでいた。
不意に、扉を叩く音がして扉のほうに視線を移す。
「はい、どうぞ」
返事をすると、白のタキシードを着たジェイドが部屋に入ってきた。髪を後ろに撫で付けており、いつも以上に凛々しく見える。
彼は私と目が合うと、はにかむような笑顔を見せた。私は言葉が出てこず、呆然とその姿を見つめることしかできない。
「よく似合っているよ、コーディ」
そんな風に、耳元で囁かれる。私は、恥ずかしくなってジェイドの顔をまともに見ることができない。
「ジェイド様こそ、よくお似合いです。その……すごく格好いいです」
そう言って思わず俯くと、くつくつと微かな笑い声が聞こえてきて思わず顔を上げる。
目の前には、優しい眼差しで私を見つめるジェイドの姿があった。視線がぶつかった瞬間、思わず頬が熱くなる。
ふと、部屋の扉をノックする音と同時に聞き慣れた声が聞こえてきた。
「コーデリア! 僕も御めかししてみたんだ! どう? 似合う?」
返事をする前に勢いよく部屋に飛び込んできたのは、レオンだった。
くるりとその場で回りながら自分の姿を確認する様子に、思わず口が綻ぶ。
さらさらとした金髪に、王族特有の金と青のオッドアイ。そのあどけない顔は、兄であるユリアンによく似ていた。
礼服に身を包んだレオンは、子供ながらにその佇まいを凛として見せる。彼の将来が楽しみで仕方がない。
私はレオンの頭を軽く撫でると、にっこり微笑んだ。
「ええ、とてもよく似合ってるわ」
その瞳は星を散りばめたかのように輝いており、彼が本当に王子なのだということを実感させられた。
どうやら、人間の姿に戻っても彼は相変わらず撫でられるのが好きらしく、目を細めて嬉しそうにしている姿が愛らしい。
「でしょ? 僕も、ついに大人の仲間入りをしたんだなって思って」
「ふふ……元の姿に戻っても、レオン様は相変わらずですね」
そう言って、くすくすと笑いながら遅れて部屋に入ってきたのはサラだった。
彼女もまた礼服に身を包んでおり、いつもよりもずっと大人びて見えた。
「失礼します。レオン様はこちらにいらっしゃいますか? ああ、いたいた。肝心なネクタイを結ばずに、一体どこに行ったのかと思えば……」
アランは室内にレオンがいることに気づくと、呆れたように溜息をつく。
よく見てみれば、確かにレオンの首元にはネクタイが結ばれていなかった。
「アラン! 僕ね、大人になったんだよ!」
レオンは嬉しそうに飛び跳ねながらそう答えると、その場でくるりと回ってみせる。
「……それは良かったですね」
そう言いながら、アランは手際よくレオンのネクタイを結んでいく。
そんな微笑ましい二人のやり取りを、私は頬を緩ませながら眺めていた。
「それにしても……本当にお綺麗ですわ、コーデリア様」
サラは、そう言いながらうっとりした様子ですうっと目を細めた。
「本当に、とてもお綺麗です。コーデリア様」
続いてアランまでもが褒めてくれるので、私は少し気恥ずかしくなってしまった。
「でも……なんだか、少し寂しいです。ついに、コーデリア様もお嫁に行ってしまうのですね」
「あの、サラさん。私、既にジェイド様と結婚していますけど……」
仰々しく涙を浮かべるサラに、私は思わず突っ込みを入れてしまう。
「いえ、そうなのですが……やはり、コーデリア様は私にとっては可愛い妹のような存在ですから。こうやって、改めて晴れ姿を見たら感極まってしまいまして」
サラはそう言って寂しげに微笑んだ。
彼女は私にとっても姉のような存在だ。事あるごとに私を「可愛い」と言う彼女に最初はむず痒くなったりもしたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。
いつも、陰ながら見守ってくれる彼女の優しさや強さが私は大好きだ。
「サラさん……ありがとうございます。私も、サラさんのことは本当の姉のように思っています」
私はそう言うと、サラをそっと抱きしめた。すると、彼女は優しく抱きしめ返してくれる。
そんな様子を見ていたレオンが、羨ましそうに声を上げた。
「僕も! 僕もコーデリアとぎゅってしたい!」
そう言ってこちらに駆け寄ってくるので、私は「おいで」と両手を広げた。それを見たレオンは、嬉しそうに私の胸に飛び込んでくる。
「さて……そろそろ時間ですね。では、皆様。移動を始めましょうか」
頃合いを見て、アランが移動を促す。
私たちは頷くと、控室から礼拝堂へと移動したのだった。
扉が開けられると、待ちきれないといった様子の参列客の視線がこちらに向けられる。
参列席には、王太子であるユリアンやオリバーやエマと始めとする宮廷魔導士たちの姿も見える。
(オリバーさんとエマさんが仲違いしなくて、本当に良かった……)
オリバーは、ビクトリアに弱みを握られていたとはいえ私を殺そうとしていたのは事実だ。
本来ならば、相応の処罰を下すべきなのも理解している。けれど、十分に情状酌量の余地があったため私からごく軽い処遇に留めて貰うよう提案したのだ。そのため、短期間の謹慎処分で済んだのである。
後でエマから聞いたのだが、オリバーをあんな風に追い詰めてしまったことに関しては自分にも責任があると感じていたらしい。「オリバーを守ってくださって、本当にありがとうございました」とお礼を言われてしまえば、行動して良かったと心から思える。
こちらを感慨深そうに見つめてくるエマに向かって、私は片目を瞬かせる。すると、彼女は感極まったらしく一筋の涙を流した。
そんな彼女の肩をオリバーが優しく抱けば、二人で仲睦まじい姿を見せてくれる。二人の手は、しっかりと固く握られていた。
「緊張しているのか?」
隣にいるジェイドは、私の様子が普段と違うことに気づいたようだ。
優しく手を握ると、そのまま安心させるように微笑みかけてくれる。
「……ええ。でも、それ以上にすごくワクワクしています。結婚式って、まるで物語の始まりみたいな気がします。ここから、もっと楽しい生活が始まるんだって思うと──」
そこまで言うと、私は言葉を区切る。そして、胸に手を当てると、そっと目を閉じた。
「本当に、楽しみで仕方ないんです!」
「ああ。俺もだ」
二人で手を取り合い、ヴァージンロードを歩く。
祭壇の前では、神父が柔らかな表情で待ち構えていた。
──挙式を終えて退場すると、教会の外では領民たちが溢れんばかりに詰めかけていた。
暖かい歓声に包まれながら、私はジェイドと共に足を踏み出した。
「みんな……!」
教会の階段を二人で降りると、領民たちは嬉しそうに祝福の言葉をかけてくれた。
「あっ……クレイグさんも来てくれたんだ」
よく見てみれば、人波に押されながらも必死に「おめでとう!」と叫んでいるクレイグの姿が確認できた。
皆が祝福してくれていることが、目に見えて分かる。そのことが嬉しくて、それだけで胸がいっぱいになった。
「……コーディ。俺と結婚して幸せか?」
不意に、ジェイドがそんなことを尋ねてきた。
「え? どうして、そんなこと聞くんですか?」
「その……なんだ、一応確かめておこうと思ってな」
自信がなさそうな様子で言葉を返すジェイドに、私は笑みを漏らしてしまう。
そんな彼が可笑しくて、愛おしくてたまらない。少し意地悪をしたくなった私は、無言で俯いてみせる。
「コーディ……?」
ジェイドは怪訝に思ったのか、顔を覗き込もうとする。
その瞬間、私はジェイドの首に手を回し、つま先立ちになるとそのまま唇を塞いだ。
誓いのキスは軽く触れる程度だったけれど、今は言葉だけでは到底伝えられないほどに嬉しい気持ちが溢れてしまった。
周りの目なんて気にしない。ありったけの愛を口付けに乗せて、直接伝わればいい。
そう思いながらジェイドから離れると、私は悪戯っぽく微笑む。
「……そんなこと、わざわざ言葉にしなくても伝わるでしょう?」
最初は驚いていた様子のジェイドだったが──私が甘えるように腕に力を込めれば、彼の腕が背中に回り力強く抱きしめてくれた。
***
暖炉の効いた暖かい部屋で、老婆がロッキングチェアに揺られながら幼い少女に絵本を読み聞かせている。
少女は、孫──いや、ひ孫だろうか。ベッドに腰掛けながら、老婆が読む物語を興味津々な様子で聞いている。
「はい、これでおしまい」
「えー! もう、おしまいなの!? もっと、聞きたいわ。他に何か面白いお話は無いの?」
少女は身を乗り出すと、きらきらと目を輝かせながら老婆が読む昔話を「もっと聞きたい」とせがむ。
すると、彼女は肩をすくめた。
「おやおや……リジーは本当に好奇心旺盛なのね」
老婆は困ったような笑みを見せると、少し思案してパタン、と本を閉じる。
リジーと呼ばれた少女は不満そうに頬を膨らませると、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
その様子が可愛らしくて、口元が自然と綻んでしまう。老婆はリジーの隣に座ると、彼女の頭を優しく撫でながら静かに口を開いた。
「それじゃあ……あの話をしようかしらね」
「あの話……?」
リジーは再び目を輝かせると、老婆の方に振り返った。
「どんなお話なの?」
「──ある自信のない女の子が、白い熊の姿をした心優しい公爵様の元にお嫁に行くお話よ。その女の子は、公爵様や周りの人達のお陰で少しずつ明るく前向きになっていくの」
老婆はそう言いながら微笑むと、少し屈んでリジーと同じ目線になる。
リジーはそれが嬉しいのか、話を聞こうとますます体を前のめりにさせる。
「白い熊さん……? その公爵様って、人間じゃないの?」
「人間よ。でも、彼は奇病を患っていてね。ある日を境に、獣の姿になってしまったの」
そう言いながら、老婆はどこか懐かしそうに目を細める。
「へえ……コーデリアおばあさまは、色んなお話を知っているのね!」
「ふふ、伊達に長く生きてはいないわ。……それじゃあ、話していくわね」
暖炉のパチパチとはぜる音を背に、コーデリアはそっと目を伏せた。そして、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
最期の瞬間まで全身全霊をかけて愛してくれた、最愛の夫との思い出を振り返りながら──。