この度、猛獣公爵の嫁になりまして~厄介払いされた令嬢は、旦那様に溺愛されながらもふもふ達と楽しくモノづくりライフを送っています~

 ふと、背後から誰かが私たちを呼び止める声がした。
 振り返ると、慌てて走ってくるユリアンの姿があった。
 その輝くような金髪が乱れることを気にする様子もなく、彼は私たちの元に駆け寄る。

「……申し訳ございません。ご無礼をお許しください、殿下」

 ジェイドはそう言うと、深々と頭を下げた。

「大丈夫だよ、気にしないでくれ。それに、別に出て行く必要はなかったと思うよ。僕がうまくフォローするから、そのままダンスを続けてくれても良かったのに……」

 ユリアンは眉尻を下げつつも、そう言った。

(相変わらず、ユリアン様はお優しい方ね……)

 私はそんなことを思いながら、ちらりとジェイドの様子を窺う。
 自分のせいでダンスを中断させてしまったことに責任を感じているのか、彼は浮かない顔をしていた。

「いえ……これ以上、殿下のお手を煩わせるわけには参りません」

 ジェイドはそう言うと、再び頭を下げる。
 そんな彼を見て、ユリアンは苦笑した。

「本当に君は真面目だね」

(確かに……)

 私は、ユリアンの言葉に心の中で同意する。

「そうだ、今からちょっと付き合ってくれないかな? 以前も言ったと思うけど、コーデリアの発明品について色々と話を聞きたいんだ」

「え? 今から、ですか……?」

 尋ね返すと、ユリアンはにこにこと微笑みながら頷く。

「ああ。……コーデリア。君の発明は本当に画期的だ。僕は、君の才能を買っている。だから、ぜひとも話を聞かせてほしい」

「……! 身に余る光栄でございます」

 領民たちのことを思ってしたことだが、まさかユリアンがそこまで高く評価しているとは思わなかった。
 内心驚きつつ、私は恭しく礼をする。

「立ち話も何だし、場所を変えようか。とりあえず、僕が普段使っている執務室に行こう。あそこなら、誰にも邪魔されないから」

 私たちはユリアンの後に続いて、城の奥へと進んでいった。

「さあ、入って」

 ユリアンはそう言うと、執務室の扉を開いた。
 中には豪華な調度品が置かれており、見るからに高そうなものばかりだった。

(すごい……)

 私は心の中で呟くと、部屋の中へと足を踏み入れる。
 すぐにソファに腰掛けるよう促されたので、私とジェイドは一礼してから腰掛ける。
 ユリアンは向かい側の席に座ると、おもむろに口を開いた。

「じゃあ、早速聞かせてもらおうかな」

 ユリアンがそう言ったので、私は緊張しつつも自身が発明してきた魔導具について説明を始めた。
 話しているうちについ熱が入りすぎてしまったが、ユリアンは真剣な表情で私の話を聞いてくれていた。

「……なるほど。噂に聞いていた通り、すごいね。特に、治癒石は様々な医療現場で役立ちそうだ」

 一通り話を終えると、ユリアンはそう言って頷いた。その表情はとても満足そうだ。

「いえ、そんな……恐縮です」

 褒められて嬉しい反面、恐れ多いので私は慌てて首を横に振る。

「さっきも言ったけど、僕は君の発明品に可能性を感じているんだ。どうだろう? 君のその力をより多くの人々のために役立ててみる気はないかな?」

「え……?」

 ユリアンの提案を聞いて、私は目を瞬かせる。

「僕は、君ほどの才女を埋もれさせたままでいるのは勿体無いと思っている。ぜひ、君が作った発明品を多くの人たちに使ってもらえるような仕組みを作りたいんだ」

(これって……つまり、スカウトなのかしら?)

 まさか王太子直々にお声掛けをいただくとは思わず、私は戸惑っていた。

「勿論、君が発明品を世に出したくないというのであれば無理強いはしない。でも、もし発明品をもっと多くの人に届けたいという気持ちがあるなら……できる限り、力になりたいんだ」

 ユリアンはそう言って、私を見つめる。そんな彼の瞳には強い光が宿っていた。
 彼は私が思っている以上に、常日頃から国民のことを思って行動しているようだ。

「ジェイド。君はどう思う? 彼女の才能をこのまま眠らせておくのは勿体ないと思わないか?」

 ユリアンは今度はジェイドに問いかけた。ジェイドは少し考える素振りを見せた後、口を開く。

「そうですね……彼女の発明品が有益であることは間違いありません。ただ、彼女がどうしたいかが一番重要です」

 ジェイドはそう言うと、私の方を見る。
 彼の視線を受けて、私は思わず俯いた。

(私がどうしたいか……か)

 そんなの、決まっている。
 私は──

「私は、今まであまり自分に自信が持てずにいました。ご存知の通り、生まれた時から魔力に恵まれませんでしたし、それは今でも変わりません。でも、こんな風に殿下やジェイド様に認めていただけてすごく嬉しくて……もっと、色々な人に私の発明品を使ってもらいたいと思いました」

 私は顔を上げて、真っ直ぐにユリアンを見つめた。

「だから──私、もっと沢山の人に発明品を届けたいです。そのためには、殿下のお力添えが必要だと思っています。ご協力いただけますか?」

「そうか……! ああ、勿論協力させてもらうよ。今後とも、よろしく頼むよ。コーデリア」

 ユリアンは嬉しそうに微笑むと、右手を差し出してきた。私はその手をしっかりと握り返し、彼と握手を交わす。

(まさか、私が王太子と手を取り合う日が来るなんて……人生って本当に何が起こるか分からないものね)

 そんなことを思いながらも、私は不思議と高揚感を覚えていた。

 不意に、荒々しくドアがノックされた。私たち三人は顔を見合わせる。

「失礼いたします!」

 そう言って、使用人と思しき男性が慌てた様子で部屋に入ってきた。

「どうしたんだい?」

 ユリアンが尋ねると、使用人は息を整えてから口を開いた。

「そ、それが……実は城門付近に犬が一匹迷い込んだらしく、門番が手を焼いているとの報告が上がりまして……」

「犬……?」

 ユリアンは怪訝そうな顔で首を傾げる。

「近くに飼い主はいないのか? 迷い犬なら、早く飼い主を捜してあげないと……」

「いえ、その……どうやら、普通の迷い犬ではないようなのです。というのも、その犬は王族の証である金と青のオッドアイを持っているとかで……」

 使用人の言葉を聞いた瞬間、ユリアンの表情が強張ったように見えた。

「なんだって……? その色の目を持っているのは、王家の一員かその親戚のみのはず。ましてや、犬がそれを持っているはずが……」

 ユリアンが信じられないといった様子で呟くと、使用人がさらに言葉を続けた。

「もしかしたら、あの犬は失踪したエリオット様と何か関係があるのでは──」

「……! まさか、そんな……」

(エリオット……?)

 私は首を傾げる。ユリアンと使用人の様子を見るに、どうやら非常に重要な人物らしい。

「でも、そんなことがあり得るのだろうか……」

 ユリアンは明らかに動揺していた。額からは汗が滲んでいる。

「あの、殿下。エリオット様というのは一体どなたでしょうか……?」

 私は思い切ってユリアンに尋ねた。

「──エリオットは、僕の弟だよ」

「……!」

 私は驚きのあまり言葉を失った。
 そういえば、以前、噂で第二王子が行方不明になったと聞いたことがある気がする。
 私は実家では新聞やゴシップ誌を読むことすら制限されていたから、世の中の出来事には疎かった。
 そんな私でも知っているくらい、第二王子の失踪事件は世間を賑わせたのだ。

(でも、ちょっと待って……その犬って……)

 一瞬、脳裏にある考えがよぎった。それは隣にいるジェイドも同じだったようで、僅かに眉を寄せている。

「ジェイド様。……私、なんだか嫌な予感がします」

「……ああ、俺もちょうど同じことを考えていたところだ」

 ジェイドはそう言うと、険しい表情で頷いた。
 恐らく、彼もその犬が「レオン」だと睨んでいるのだろう。一体、彼がどうやって王都に辿り着いたのかは分からない。
 しかし、「金と青のオッドアイを持っている犬」となると、やはり彼しか思い当たらないのだ。
「殿下。もしかしたら、その犬は現在ウルス家で保護している犬かもしれません」

「え……?」

 目を瞬かせるユリアンに、ジェイドは経緯を説明する。
 その犬がレオンであるという確証はないが、可能性は高いだろう。

「そうか……そんなことが……。つまり、エリオットはビクトリアを嫌うあまり彼女の元から逃げ出し、今は公爵邸で保護されていると──そういうことだな?」

 ジェイドも、流石にユリアンの婚約者であるビクトリアのことを悪く言うのは気が引けたようだ。
 でも、経緯を説明する上でそれは致し方なかった。
 必然的に、私が長年家族から虐げられていた事実も説明せざるを得なかったわけだが……ユリアンは、それに関しても疑うことなく信じてくれた。

「はい。私たちはずっと彼のことをレオンと呼んでいました。こちらから彼の本名を聞いていれば、もっと早く殿下の弟君であることに気づけたかもしれませんね。……申し訳有りません」

 そう言って、ジェイドは頭を下げた。

「いや、君は悪くないよ。どうか、頭を上げてくれ。それよりも──」

 そこまで言って、ユリアンは言葉を詰まらせた。

「ビクトリアの本性を見抜けず、あろうことか彼女を婚約者として選んでしまった僕のほうが余程愚かだ。そっちのほうが大問題だよ」

「いえ、そんなことはありません。私自身、殿下はとても素晴らしい方だと思っています。日頃から、国民のためを思って行動してくださっていることも知っています。ビクトリア嬢は、そんな殿下の優しさに付け込んだのですよ」

 ジェイドがそう言うと、ユリアンは首を横に振った。

「いや、僕のせいだ。僕がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったはずだ。……この落とし前は、必ずつけさせてもらうよ」

 ユリアンはそう言うと、私とジェイドの顔を交互に見た。
 その瞳からは、強い意志が感じられる。

「とにかく、今は城門前にいる犬を確認しに行くのが先決だ」

「私もお供します」

 ジェイドが名乗りを上げると、ユリアンは頷いた。

「ああ、頼むよ。コーデリアも来てくれるかい?」

「はい、勿論です」

 私は力強く頷いた。そして、私たちは執務室を出て急いで城門前へと向かう。

「殿下! どうしてここに……?」

 兵士は、突然やって来た私たちを見て驚いていた。

「ああ、実は犬が迷い込んだと聞いてね。ちょっと様子を見に来たんだ」

 ユリアンはそう言って微笑むと、兵士たちに尋ねる。

「それで? その犬というのはどこに?」

「あちらです」

 兵士が指差した方向を見れば、格子の向こう側で一匹の犬が門番たちに向かって何かを訴えるように吠えていた。

(やっぱり、レオンだわ……!)

 そう思いつつも、私はノートと自分が発明したペンを手に持ちながら城門の方へと駆け寄る。

「レオン! どうして、あなたがここにいるの!?」

 そう叫べば、レオンが私のほうを見て嬉しそうに「ワン!」と吠えた。

『あっ! コーデリアだ!』

 何とも無邪気な返答に、私は思わず脱力した。

「コーデリア、もしかしてその犬が……?」

 ユリアンがそう尋ねてきたので、私は頷いた。

「はい、レオンです。ビクトリアの元から逃げ出してきて以来、ウルス家で匿っていました」

「……! ということは……」

 ユリアンはそう言いながら、レオンのほうを見やる。
 彼と目が合った途端、レオンは「ワンワン!」と尻尾を振りながら嬉しそうに吠えた。

『兄様!』

 慌ててノートを見れば、ペンはそう書き綴っていた。
 それを見るなり、ユリアンは目を見開く。そして、門番たちに指示を出した。

「門を開けてくれ。……どうやら、その犬は僕の弟──エリオットらしい」

「えっ!? ……承知致しました!」

 門番たちは驚きながらも、門を開けた。

『兄様! 会いたかった!』

 城門が開いたのを確認するなり、レオンはユリアンの胸に飛び込んだ。

「ほ、本当にエリオットなのか……?」

『そうだよ! 兄様!』

「エリオット……!」

 ユリアンは、感極まった様子でレオンを抱きしめた。

「良かった……もう二度と会えないかと思っていたよ」

『ごめんなさい……本当は、もっと早く城に帰りたかったんだ。でも、こんな姿だからなかなか帰れなくて……』

「ああ、分かってる。詳しいことは後でゆっくり聞くから、とりあえず中に入ろうか」

 ユリアンがそう言ったので、私たちは一先ず城内へと戻ることにした。
 レオンにどうやってここまで来たのかと尋ねれば、「たまたま王都行きの荷馬車を見かけて、荷物に紛れ込んだんだ」と経緯を説明し始めた。

「どうして、そんなことをしたの?」

『コーデリアが心配だったからだよ。また、ビクトリアに危害を加えられるんじゃないかって思ったから……』

 だから、レオンは一大決心をして王都に駆けつけたのだという。
 自分の正体がエリオットだと分かれば、ユリアンに私を守ってもらえる──そう考えたそうだ。
 執務室に戻るなり、ユリアンはレオンに尋ねる。

「とにかく、ジェイドとコーデリアの説明のお陰で大体の経緯は把握できたけれど……なぜ、商家の夫婦の元でご厄介になっていたんだい?」

 確かに、それに関しては私も知らない。
 一体、どうしてレオンは平民の夫婦の元で暮らしていたのだろう? それも、王都から離れた場所で。
 考えれば考えるほど不可解だった。

『それは……』

 レオンはそう言うと、これまで自分の身に起きたことを語り始めた。
 なんでも、その日レオンはお忍びで城下町に遊びに来ていたそうだ。
 彼ぐらいの歳だと、遊びたい盛りだろうし王城での暮らしは退屈だったのだろう。
 そんな時、運悪く誘拐犯の一味に遭遇してしまった。
 その一味は、貴族の子供を攫っては身代金を要求している悪質な連中だったらしい。

 レオンはその一味に捕まったものの、隙を見て逃げ出すことに成功した。
 とはいえ、そこは見知らぬ土地。自力で王都に帰ることもできず途方に暮れていたところ、商家の夫婦に拾われたとのことだった。
 つまり、レオンは二度も悪い大人たちに捕まって食い物にされてしまったのだ。
 犬の姿に変わってしまったとはいえ、こうして今も命があるのは不幸中の幸いだろう。

「なるほど……誘拐された先がウルス領だったのか」

 ジェイドがそう言うと、レオンは深く頷く。

『うん』

「そこまでは分かったが……なぜ、何年もその夫婦の元で暮らしていたんだ? 夫婦に事情を話せば、すぐに城に戻れたかもしれないのに」

 ジェイドの疑問に、レオンは目を伏せる。

『おじさんとおばさんは昔、子供を亡くしているんだ。そのせいか、僕を実の息子のように大切にしてくれて……』

「とてもじゃないけれど、『実は、自分はレヴァイン王国の第二王子なんです』なんて言い出せなかった──というわけか」

 口籠ってしまったレオンの言葉を補足するように、ジェイドが続ける。

『……うん、ごめんなさい』

「責めてるわけじゃないよ。エリオットは優しいからこそ、なかなか正体を明かせずにいたんだ。胸を張っていい」

 ユリアンはそう言って、レオンの頭を撫でた。

「それで……結局、なぜエリオットがこのような姿になったのかは分からずじまいなのかい?」

 ユリアンは私たちのほうに向き直ると、そう尋ねてきた。

「ええ、詳しいことは不明です。何しろ、エリオット様ご自身が全く心当たりがないと仰っていますから」

 ジェイドはそう答えると、首を横に振った。

『あ、でも……そういえば』

 不意に、レオンが何かを思い出したかのように語り始める。

『具合が悪くなる直前に変な魔物を見たんだ』

「変な魔物?」

『うん。その日は、おじさんの手伝いでメルカ鉱山の近くまで行ったんだけど……一人でいる時に、真っ黒な体を持つ変わった魔物と遭遇してしまったんだ。慌てて逃げたから、何とか襲われなかったけど』

「もしかして、その魔物って……」

 そこまで言うと、私はジェイドの方をちらりと見た。
「ヒュームのことでしょうか……?」

 私が尋ねると、ジェイドが頷く。

「ああ、その可能性は高い。だが、レオンがそいつを見たのは三年も前だ。時期的に、まだ鉱山内に魔物すら発生していない頃だが……」

 そう言って、ジェイドは首を捻る。

「ヒュームというのは、以前ウルス領を襲撃したという魔物のことかい?」

「ええ。ですが、それ以前にヒュームの目撃情報は上がっておりません。ああ、いや……正確に言えば、五百年前に一度目撃されて以来、一度も姿を現していないはずなのです」

 ジェイドはユリアンにそう説明すると、腕を組みながら考え込む。

「ということは……俺たちが気づかなかっただけで、実はヒュームはその頃から鉱山を棲み家にしていたのかもしれないな……」

 ジェイドの言葉に、私は背筋が凍り付いた。同時に、ある考えが頭をよぎる。

「もしかして、なんですけど……レオンは、その魔物と遭遇したせいで獣化の病に罹ったのでは? 病気を発症させるために魔物がどういう手段をとったのかは分かりませんが、そう考えるのが妥当じゃないかと思います」

「確かに、その可能性は高いな」

 ジェイドは私の言葉に頷くと、レオンのほうを見る。

「とりあえず……獣化の病の治療法に関しては、こっちでも色々調べてみるよ。それはそうと……エリオットは、今後どうしたい? 城に戻るか、それともこのまま公爵邸で暮らすか──ああ、勿論、ジェイドの許可が下りればの話だけれどね」

 ユリアンがそう尋ねると、レオンは考え込むように俯いた。

『僕は……』

 レオンはそう言ってしばらく考え込んだ後、口を開く。

『もう少しだけ、公爵邸にいたい。この姿の僕を、みんなが受け入れてくれるかどうか分からないし……』

「わかった。それなら、そうしよう。というわけで、ジェイド。悪いんだけど……もうしばらく、うちの弟を邸で匿ってくれないかな?」

 ユリアンがそう尋ねると、ジェイドは目を瞬かせた。
 確かに、レオンが城に戻るとなると、国民にも事情を説明をしなければいけなくなる。
 それならば、獣化の病の治療法が見つかるまでウルス邸で匿っておいたほうが無難だろう。

(でも、王族であるレオンをウルス邸で引き続き預かるなんて……そんなこと、簡単に引き受けていいのかしら)

 そんなことを考えながらジェイドのほうを見ると、彼も同じ懸念を抱いていたようで困ったような顔をしていた。
 だが、やがて決意を固めたような表情で答えた。

「ええ、それは構いませんが……」

「よし、それじゃあ決まりだ。いいかい? エリオット。なるべく、失礼のないようにするんだよ」

「しかし、殿下。本当によろしいのですか? せっかく弟君と再会できたのに、また離れて暮らすなんて……」

「いいんだ。エリオットがそう望むのなら、僕はその意思を尊重するよ」

 ユリアンはそう言いながら、レオンの頭を再び撫でる。
 レオンは気持ち良さそうに目を細めると、小さく「ワン」と吠えた。
 そんな二人のやり取りを見て、ふと私は重大なことに気づいた。

(レオンの正体は、実はこの国の第二王子だったのよね。ということは、今までと同じように接していたら失礼なのでは……?)

 そう考えた私は、慌ててジェイドに耳打ちをする。

「あの、ジェイド様。レオン──いえ、エリオット様への接し方は今まで通りで構わないのでしょうか? 一応、王子様なわけだし……」

「ああ、そういえば……」

 ジェイドはハッとすると、改まった様子でレオンのほうを見やる。

「エリオット様が第二王子であらせられるとは知らず……今まで数々のご無礼を働いたこと、どうかお許しください」

 その様子を見て、私自身もレオンに対して失礼な態度をとってきたことを思い出し、慌てて頭を下げた。

「あ、あの……私も、今までエリオット様に対して失礼な物言いをしてしまい……大変、失礼致しました」

『二人とも気にしないで!』

 レオンはそう言うと、ぶんぶんと首を横に振る。

『それに、僕はかしこまられるより今までみたいに普通に接してくれたほうが嬉しいな。呼び方も、今まで通りレオンでいいよ』

 そんなレオンを横目で見ながら、ユリアンが口を開いた。

「まあ、エリオットもこう言っていることだし……今まで通りでいいんじゃないか?」

「……か、かしこまりました」

 ジェイドはそう言って、恭しく頭を下げた。そんな彼に続くように、私も一礼する。
 こうして、レオンの正体は一部の人を除いて伏せられることになったのだった。


「ところで、君たちはこれからどうする? まだ、舞踏会は始まったばかりだし、戻ってダンスの続きをするかい?」

 ユリアンにそう尋ねられ、私とジェイドは顔を見合わせる。

「どうしましょうか?」

「そうだな……俺はコーディに合わせようと思う」

「私は……」

 ジェイドの問いに、私は逡巡する。
 正直、ダンスレッスンは突貫工事のようなものだったし、人前で踊るのはやはり恥ずかしい。
 けれど、せっかくこうやってジェイドと踊れる機会ができたのだ。もう少しだけ、彼と一緒に踊りたいという気持ちもあった。

「そうですね。もう少し、踊りたいです」

「意外だな……てっきり『人前で踊るのは恥ずかしいからもういいです』と言うと思ったのに」

 ジェイドは苦笑すると、「それじゃあ、ダンスホールに戻ろうか」と言いながら歩き出す。

「……だって、ジェイド様と一緒に踊れる機会なんて普段はあまりないじゃないですか」

 聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、私はぼそりと呟く。

「ん?」

 ジェイドは聞き取れなかったのか、振り返って不思議そうに首を傾げる。

「あ……いえ、なんでもありません!」

 そんなやり取りをしていると、ユリアンが口を開いた。

「僕は、エリオットを別の部屋に連れて行ってからダンスホールに戻るよ。エリオット、おいで」

 ユリアンがそう言うと、レオンは嬉しそうに尻尾を振りながら彼の元に駆け寄った。

『うん!』

「できるだけ、急いで戻るようにするよ。パーティの主役がいないんじゃ、せっかく足を運んでくれた参加者たちに申し訳ないからね」

 ユリアンは片目を瞬かせながらそう言うと、扉の方に向かって歩き出す。私たちは頷くと、彼を追いかけた。
 執務室を出て回廊を進んでいると、不意に中庭のほうから声が聞こえてきた。

「レオン……?」

 見れば、ビクトリアが二人の令嬢を引き連れてこちらに向かってきていた。
 そういえば、先ほど彼女が取り巻きたちと一緒にダンスホールから出て行くのを見た。
 きっと、中庭で休憩でもしていたのだろう。

「ユリアン様……これは一体、どういうことですか? どうして、ユリアン様が私のペットを──レオンを連れて歩いているのですか?」

 ビクトリアは、そう尋ねながらもユリアンに詰め寄った。
 どうしよう。まさか、彼女と鉢合わせしてしまうなんて。そう思い、なんとか誤魔化そうと思案していると──私よりも先にユリアンが口を開いた。

「ちょうど良かった。ビクトリア、君に大事な話があるんだ」

「え……?」

 質問に答えないどころか逆に「話をしよう」と言い出したユリアンに、ビクトリアは困惑した表情を浮かべる。

「いいから、聞いてくれ」

 ユリアンはビクトリアをまっすぐ見据えると、ゆっくりと話を切り出した。

「君は、今までコーデリアに対して随分と非道な仕打ちをしてきたそうだね。それを聞いた時は、思わず自分の耳を疑ったよ」

「……! 一体、何のことでしょうか?」

 突然そんなことを言われて驚いたのか、ビクトリアは目を白黒させる。

「それも、家族全員──いや、使用人も含めたら相当な人数で彼女を虐げていたそうじゃないか。そんな非道な行いをしておいて、よくもまあ清廉潔白な令嬢を演じていられるものだ」

「そ、それは……」

 ビクトリアは目を泳がせながら、必死に言葉を探しているようだ。
 しかし、そんな彼女に追い打ちをかけるようにユリアンは話を続けた。
 ビクトリアは、窮地に立たされていた。
 昨日までは良好な関係だったはずのユリアンが、恐ろしい形相で自分を睨みつけている。

「な、何のことでしょうか?」

 ビクトリアは震える声でそう言うと、なんとかこの場を切り抜けようと頭を捻った。
 だが、こういう時に限って何も思いつかない。
 ビクトリアは混乱する。「今までずっと上手く立ち回ってきたはずなのに、なぜこんなことになったのだろう?」と。
 恐らく、コーデリアとジェイドに何かを吹き込まれたのだろうが、聡明なユリアンが彼らの言葉を鵜呑みにするはずがない。
 一体、どんな手を使われたのか皆目見当もつかなかった。そんなビクトリアの心中を察したのか、ユリアンは呆れたように溜息をついた。

「君は、以前言っていたな。『妹は忌み子と揶揄されているけれど、私は彼女のことが大好きだし、昔から仲がいいんです』と。ところが、どうだ。本人から証言を聞いてみれば、まるで正反対じゃないか」

「そ、それは……」

「ビクトリア。僕は君の人となりをよく知っているつもりだった。君は聡明で、人の気持ちを考えられる人間だと信じていたよ。ついさっきまではね。……本当に残念だよ。だから──申し訳ないけれど、君との婚約は解消させてもらおうと思う」

 ユリアンの失望したような言葉に、ビクトリアは目の前が真っ暗になった。

「そんな話……きっと、そこにいるウルス公爵がでっち上げたに決まっています! 彼は、きっとコーデリアを脅しているのです! だから、彼女は言いなりにならざるを得なかったのです!」

 ビクトリアは、ユリアンの後ろにいるジェイドを指差して叫んだ。

「全く……何を言っているんだ、君は」

 ユリアンは呆れたように肩をすくめると、やれやれといった様子で首を横に振った。

「そこまで言うなら、目撃者に証言を取ってもいいよ。そうだな……例えば、君が連れているその二人とか」

 そう言って、ユリアンはビクトリアの友人である令嬢たちを見る。

「君たちは、いつもビクトリアの近くにいるね。それなら、彼女が普段どんな振る舞いをしているかよく知っているんじゃないか?」

 ユリアンが尋ねると、二人は気まずそうに顔を見合わせた。

「勿論、嘘をついても構わないよ。ただ……この後、他の人からも証言を取るつもりだから、いずれ君たちの嘘はばれるけれどね。そうなった場合、家門に傷がつくけど……覚悟はできているかい?」

 ユリアンがそう尋ねると、二人は真っ青になって震え上がった。

「ビクトリア様は、日頃からコーデリアを虐げていました! 私たちも、同じように彼女を虐めるよう強要されていて……。コーデリアは、いつも泣いていましたわ!」

「そうです! ビクトリア様は、コーデリアの悪口を言っていたんです! 『お前は私と違って醜い』とか『忌み子が妹だなんて、恥ずかしくて外も歩けない』とか……他にも、色々と酷いことを言っていましたわ!」

 二人は必死な形相でそう訴えた。
 あくまでも、自分たちは強要されていただけということにして、自分たちの無実を主張するつもりのようだ。

「なるほど。君たちの言い分はよくわかったよ」

 ユリアンは頷くと、ビクトリアに視線を戻した。

「あ、あなた達……!」

 ビクトリアは、友人たちの裏切りに愕然とした。

「どうやら、君に味方はいないようだね」

「あなた達だって、楽しそうにコーデリアを虐めていたでしょう!? 私だけが悪いって言うの!?」

 ビクトリアは、友人たちを責め立てる。

「ほう? ということは、自分がコーデリアを虐げていたことを認めるんだな?」

「……っ!」

 墓穴を掘ったことに気づいたビクトリアは、言葉を失った。

「ち、違います! 私は、ただ……」

 震える声で弁解しようとしたが、言葉が続かなかった。
 ビクトリアは何も言い返すことができず、悔しさのあまり唇を噛みしめる。

(もう、おしまいだわ……)

 ビクトリアは絶望に打ちひしがれた。
 ここまで自分の悪事が露見してしまうと、もう破滅を回避することはできないだろう。

「さて、ビクトリア」

 ユリアンは、冷ややかな目でビクトリアを見やる。

「君のような人間は社交界に必要ない。今すぐ、城から出て行ってくれ。勿論、君の家族もだ」

「そ、そんな……! それは、あんまりです!」

 ビクトリアは、泣きそうになりながらも叫んだ。

「私は、今まで全身全霊でユリアン様に尽くしてきました。今でも、心から貴方のことをお慕い申しております。それなのに……こんな仕打ち、あんまりです!!」

「それは逆恨みというものだよ、ビクトリア」

 ユリアンは呆れたように溜息をついた。

「君がコーデリアに対して行った仕打ちは、到底許されることではない」

 ユリアンがそう言い放つ。直後、ビクトリアは膝から崩れ落ちた。

「──全部、あの儀式がうまくいかなかったせいだわ」

 ビクトリアは、ぼそりと呟いた。

「あの儀式……?」

 ユリアンが怪訝な顔で尋ねてきた。

「ラザフォード家が代々行っている、悪魔召喚の儀式です」

 ビクトリアがそう答えた途端、一同は凍りついた。

「なんだって……? 悪魔召喚の儀式……?」

「ええ、そうです。私たちは、それを『人身御供の儀』と呼んでいます。ラザフォード家は、代々その儀式を行うことで悪魔から力を借り、有名な魔導士を輩出してきたのです」

 躊躇なく語るビクトリアに、友人たちは後ずさりした。
 日頃からそばにいた彼女たちにですら話したことがなかったのだから、無理もないだろう。

「但し、その儀式には生贄が必要なのです」

「まさか、その生贄というのは……」

 ユリアンが恐る恐る尋ねると、ビクトリアは頷いた。

「ええ。お察しの通り、コーデリアのことです。──そう、お父様は私の魔力をさらに高めるために、コーデリアを生贄として悪魔に捧げたのです」

「なっ……」

 ユリアンが言葉に詰まる。だが、ビクトリアは構わず話を続けた。

「お父様は、私を優秀だと──自慢の娘だと褒めてくださいました。『お前はラザフォード家の誇りだ』とまで言ってくださったのです。だから、私はお父様の期待に応えるために今まで必死に努力してきました。それなのに……コーデリアが儀式を失敗してからというもの、お父様の態度はすっかり変わってしまいました」

 ビクトリアは、自分が涙目になっていくのを感じた。

「お父様は、段々と私を褒めることが少なくなりました。それどころか、次第に厳しい言動が増えてきたのです。『儀式は失敗したが、お前は世界一の魔導士にならなければならない』と。そんな言葉を毎日のように聞かされてきました。私は、お父様の期待に応えようと必死でした。それなのに、お父様の機嫌は一向に良くならなくて……」

 そこまで言うと、ビクトリアはコーデリアを睨みつけた。

「……そうなったのも、全部コーデリアのせいだわ。コーデリアが儀式を失敗しなければ、私はお父様の愛を一心に受けられたはずなのに!」

 そう言い放つと、気圧されたのかコーデリアは怯えたような表情で後ずさった。
 そんな彼女を守るように、ジェイドが前に立ち塞がる。そして、ビクトリアを睨みつけてきた。

「いい? コーデリア。お前が儀式に失敗したせいで、お父様の態度が変わってしまったのよ! その挙句、ユリアン様に余計なことを吹き込んで……! 一体、どれだけ私の足を引っ張れば気が済むの!? ……この役立たずの愚図め!」

「……っ」

 コーデリアは、ジェイドに庇われながら唇を噛みしめている。

「──役立たず? 彼女のどこが役立たずなんだ?」

 突然、ジェイドが低い声音でそう尋ねてきた。彼は、冷たい眼差しでビクトリアを見据えている。

「コーデリアの発明品は、現に多くの人々を救っている。彼女は、君の言うような役立たずなんかじゃない」

 ジェイドはきっぱりと言い切ると、ビクトリアに鋭い視線を向けた。

「ビクトリア嬢。君の言っていることは、ただの言いがかりだ」

「……なんですって?」

 ジェイドは淡々とした口調で続ける。

「君は、自分の思い通りにならないことに腹を立てて、彼女を責め立てているだけだ。それは子供の癇癪と同じだよ」

 ジェイドの言葉に、ビクトリアの唇はわなわなと震えた。

「うるさい! 何も知らない部外者が、偉そうに言わないで頂戴!」

「ああ、確かに俺は部外者だ。だが、これだけは言わせてくれ」

 ジェイドはそう言うと、一歩前に踏み出した。

「たとえ魔力に恵まれていなくとも、俺はコーデリアのことを尊敬している。彼女は自分にできる最善の方法を模索し、それを実行してきた。そして、人々を助けるために日々努力している。それがどれだけ凄いことか、聡明な君なら分かるはずだ。……もう一度言おう。彼女は、役立たずなんかじゃない」

「……!」

 ジェイドの言葉に、ビクトリアは狼狽する。
 どうして、みんなコーデリアの味方をするのだろう。誰も自分の気持ちをわかってくれない。
 世界で一番不幸なのは、自分だ。そんな考えが、頭の中を支配する。

「……うるさい! うるさい! 黙れぇ!!」

 ビクトリアは、半狂乱になって叫んだ。

「全部……全部、お前が悪いのよ! コーデリア! お父様が私を可愛がってくれなくなったのも、レオンが私の元から逃げたのも、ユリアン様から婚約破棄されたのも──全部、お前のせいよ!!」

 ビクトリアは、コーデリアに憎しみをぶつけるように鋭い眼差しを向けた。
 そして、彼女に飛びかかると、その細い首に素早く手をかけた。

「コーデリア……! お前だけは絶対に許さない!!」

 ビクトリアはコーデリアの首を絞めると、怨嗟に満ちた声で叫んだ。
 その瞬間、コーデリアが悲しげな表情を浮かべた気がした。それが気に入らなくて、ビクトリアはますます強い力でコーデリアの首を絞め上げる。
 だが、すぐに止めに入ったジェイドとユリアンによって引き剥がされてしまった。
 コーデリアは、咳き込みながらその場に倒れ込む。それを見たビクトリアは、忌々しげに舌打ちをしてみせる。

(どうして、こんなことになってしまったの……?)

 ビクトリアの心の中に、黒い感情が渦巻く。

(こんなにひどい目に遭ったんだもの。きっと、お父様が慰めてくださるわ。最近は冷たい時も多かったけれど、事情を話せば優しく抱きしめてくださるはずよ。だって、私は悪くないんだもの)

 ビクトリアは、恍惚としながらも微笑んだ。
 ──そう、いつだって悪いのはコーデリアなのだ。出来の悪い妹が邪魔をしなければ、ビクトリアは不幸にならなかったはずだ。

「ビクトリア……! なんてことをしたんだ! いいか!? これは立派な殺人未遂なんだぞ!?」

 ユリアンが何やら激高しながら叫んでいるが、ビクトリアの耳には届かなかった。

「私は悪くない……悪くないわ……悪いのは、コーデリアなのよ……」

 ビクトリアは、ぶつぶつと呟きながら夜空を仰ぐ。雲一つない夜空には、煌々と輝く満月が浮かんでいた。
 バルトとクリフは、王城内を駆け回っていた。
 というのも、ビクトリアの姿がどこにも見当たらないのである。

「父上! 向こうにはいませんでした!」

 廊下の向こう側から走ってきたクリフは、バルトに向かって叫ぶ。

「こっちもだ! くそっ、一体ビクトリアはどこにいるんだ……!」

 バルトはそう言うと、ぐしゃぐしゃと片手で髪を掻きむしった。
 先ほどから城内を血眼になって捜し回っているのだが、一向にビクトリアが見つからない。
 友人たちを引き連れてダンスホールから出ていくのを目撃したという証言を得られたので、一先ず彼女が行きそうなところを片っ端から調べているのだが……。

 もうすぐ、招待客たちの前でユリアンとビクトリアによる重大な発表が行われる。
 というのも、二人が結婚する時期が予定より早まったのだ。その主役であるビクトリアがいないのでは、話にならない。
 そんなことを考えながらバルトが唇を噛んでいると、前方から妻ヘレンと王城に仕えるメイドらしき女性が駆け寄ってきた。

「あなた、大変です!」

「どうした!?」

「それが……このメイドが、ビクトリアが王太子殿下とウルス公爵に羽交い締めにされながら取り押さえられているところを見たと言うのです!」

「な、なんだと……一体全体、どうしてそんな状況になっているんだ!?」

 バルトはその現場を目撃したというメイドに詰め寄る。
 すると、彼女は困惑した様子で答えた。

「わ、分かりません……。ですが……突然、ビクトリア様がウルス公爵夫人に飛びかかったかと思えば、首を絞めたのです。王太子殿下とウルス公爵がすぐに取り押さえたので、何とか事なきを得たようですが……」

「なっ……首を絞めた、だと……!?」

 バルトは額に汗を滲ませながらも、そう叫んだ。すると、ヘレンが宥めるように口を開く。

「あなた、落ち着いてください! ……とにかく、今はビクトリアに話を聞きに行くのが先決です」

「あ、ああ……そうだな……」

 ウルス公爵夫人──ということは、つまりビクトリアはコーデリアの首を絞めたということだ。
 メイドの話によると、その場にいたのはビクトリア、ユリアン、ジェイド、コーデリア、そしてビクトリアの友人と思しき貴族令嬢が二人。それと、何故か犬もいたらしい。
 しかし、妙だ。なぜ、彼らは一緒にいたのか。ビクトリアが暴れるきっかけとなった出来事は一体何なのか。バルトには皆目見当がつかなかった。

「……それで、彼らはどこに向かったんだ?」

「恐らく、応接室に向かったと思われます。そちらの方向に歩いていかれたので……」

「そうか……ありがとう」

 バルトはメイドに礼を述べると、ヘレンとクリフに「行くぞ」と声をかけて応接室へと向かった。

「ねえ、あなた。どう思いますか……?」

 ヘレンが不安そうな表情でバルトに問いかける。

「うーむ……」

 正直言って、嫌な予感しかしなかった。
 ビクトリアが暴れた理由は不明ではあるものの、明らかにこちら側が不利な状況だからである。
 しかも、その場にはジェイドやコーデリアがいたというではないか。
 詳細は不明だが、とにかく何か良くないことが起ころうとしていることだけは分かる。
 応接室の前に到着すると、バルトは近くにいた使用人に声をかけて中に誰かいるかどうか確認を取った。

「ええ。王太子殿下がビクトリア様と、それにお客様をお連れになって入って行かれましたよ。……ただ、少々妙な雰囲気でして」

 使用人の返答に、バルトは眉をひそめた。どうやら、嫌な予感は的中したようだ。

「……妙な雰囲気?」

「はい。何やら、言い争いをされているようでした」

「なるほど……」

 バルトは顎に手を当てて考え込むと、意を決して応接室の扉をノックする。そして、返事も待たずに中に入った。
 まず、最初に目に飛び込んできたのは手を拘束された状態で座っているビクトリアだった。
 そして、そんな彼女を睨むようにして向かい側に座っているユリアンとジェイド。ソファのそばに立っているコーデリアは、足元にいる犬の頭を撫でながら困ったような表情で俯いていた。
 バルトはその犬に見覚えがあった。恐らく、行方不明になったと言っていたビクトリアの愛犬──レオンだろう。
 しかし、どうしてレオンがこの場にいるのか。分からないことがまた一つ増えて、バルトは頭が痛くなる。

「……一体、これはどういうことですか? 殿下」

 バルトがそう問いかけると、ユリアンがゆっくりとこちらを見た。
 そして、どこか冷ややかな声音でこう言った。

「ああ、ちょうど良かった。ラザフォード伯爵。ちょうど今、使用人にあなたを捜しに行ってもらおうかと話していたところだったのですよ」

「私を……ですか?」

「ええ。というのも……ビクトリアが、突然ウルス公爵夫人に飛びかかって首を絞めたんです。何とか宥めましたが、大変でしたよ。本当に」

 ユリアンは、わざとらしく大きな溜息をついた。

「なっ……」

 やはり、あのメイドが言っていたことは本当だったのか。
 バルトはこれから起こるであろう最悪の事態を想像して思わず身震いする。
 そして、ビクトリアのそばまで歩いていくと、彼女に話しかけた。

「……ビクトリア、それは本当なのか?」

 そう問いかけるが、彼女は俯いたまま何も答えなかった。
 バルトは眉をひそめる。すると、その様子を黙って見ていたユリアンが口を開いた。

「とりあえず、僕の方から経緯を説明させて頂きますね。伯爵」

 ユリアンはどこか含みのある笑みを浮かべてそう言うと、ゆっくりと口を開いた。
 バルトは、ユリアンの説明を黙って聞いていた。
 そして──全てを聞き終えた後。取り返しの付かない事態になったことを悟り、思わず頭を抱えた。
 ふと、扉付近に立っているヘレンとクリフの方を見れば、二人とも青い顔をして固まっているのが分かった。
 恐らく、彼らも今後自分たちの身に起こるであろう最悪の事態を想像しているのだろう。

 経緯を説明し終わったユリアンは、顔に微笑を浮かべているが目は全く笑っていない。自分たちを威圧するかのような、凄みすら感じる。
 その隣には、瞬き一つせずにこちらを凝視しているジェイドがいる。こちらは何を考えているのか不明だが、バルトは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 バルトは、思わず固唾を呑む。すると、ユリアンがこちらを見据えながら告げてきた。

「という訳で……ラザフォード家への処分は、父の意見も聞いてから改めて決定します。ですが、恐らく……爵位の剥奪は免れないでしょうね」

「……っ!?」

 バルトは言葉を失った。
 爵位の剥奪──それは、貴族にとって死刑宣告にも等しい言葉だ。バルトは、目の前が真っ暗になった。

「そんな……!」

 ヘレンが悲痛な声を上げる。隣にいるクリフも、呆然とした表情をしていた。

「ビクトリアは、コーデリアの首を絞めました。これは、立派な犯罪だ。公爵夫人への殺人未遂を犯しておいて、爵位の剥奪だけで済むのは奇跡に近い。それくらい、彼女の罪は重いんですよ」

 ユリアンは、淡々と告げた。ウルス公爵家は、代々王家との親交が深い。
 つまり、ビクトリアがウルス公爵夫人であるコーデリアへの殺人未遂を犯したとなれば、当然その一族である自分たちも重い処罰を受けることになるのである。

「ああ、それと……ビクトリアが、少々気になることを言っていましてね」

 ユリアンは思い出したように口を開いた。
 その言葉に、バルトは「まだ、何かあるのか」と不安になりつつも続きの言葉を待った。すると、彼はこう尋ねてきた。

「──『人身御供の儀』ってご存知ですか? 伯爵」

「……っ!」

 ユリアンの口からその言葉が飛び出した途端、バルトは目を見開いた。
 なぜユリアンがその儀式のことを知っているのか。バルトには理解できなかった。
 一方、ユリアンはニッコリと笑みを貼り付けたまま、淡々とした口調でこう続ける。

「実は、ビクトリアが聞いてもいないのに勝手にペラペラと喋ってくれたんですよ。なんでも、生贄を捧げて悪魔を呼び出すとその見返りとして魔力を高めてくれるとか……」

 そこまで聞くと、バルトは顔を引きつらせた。

「ラザフォード家は、代々その儀式を行っていたそうですね。現に、あなたの祖先の中には歴史に名を馳せるほどの魔導士もいた。そうやって、一族の中に何代にもわたって有能な魔導士を輩出することで陞爵(しょうしゃく)を目論んでいた──違いますか?」

 図星だった。この国では、陞爵は名誉なことだがその分条件が厳しくなるのが常である。
 それこそ、何代にもわたって功績を挙げ続けなければ認められないのだ。

「そのために、コーデリアを生贄として悪魔に差し出そうとした。そう、彼女に『この儀式は安全だ』と嘘をついてまで、儀式を行わせようとしたんだ。──ああ、そうそう。王都の図書館には、あなた達が行おうと目論んでいた儀式について書かれた文献があるそうですよ。勿論、儀式の詳細までは載っていませんが」

「……っ!?」

 ユリアンの言葉を聞いた瞬間、バルトの頭にあの日のことが──コーデリアがウルス家に嫁いだ日のことが頭によぎる。
 あの時、コーデリアは何故か儀式のことを知っているような素振りを見せていた。
 彼女はよく図書館に出入りしていたようだし、たまたま手に取ったその本から知識を得ていたとしても何らおかしくない。

(やはり、コーデリアは真実に気づいていたのか……!)

 バルトは思わず唇を噛んだ。こんなことになるくらいなら、やはりあの時コーデリアを殺しておくべきだった。
 ウルス家に嫁がせて経済的支援を得ようなどと考えなければ良かった。欲を出さなければ良かった。
 後悔の念に駆られていると、ユリアンが冷たい声でこう尋ねてきた。

「そろそろ、観念したらどうですか? 伯爵」

 バルトは思わず後ずさったが、いつの間にか背後にいたジェイドに肩を掴まれて動きを止められた。そして、彼は耳元でこう囁く。

「──大人しく罪を認めろ、この下衆め」

 棘のある声音で恫喝され、思わず体が震えた。
 彼らは、きっと全てを知っている──そう思い至ったバルトは、半ば自暴自棄になりながらも罪を認めることを決心する。

(まさか、こんな形で全てを失うことになるとは……)

 そう思い、バルトは顔を歪めたのだった。
 数週間後。
 結局、王都の舞踏会はろくにダンスを楽しむ間もなく幕を閉じてしまった。
 ユリアンの話によると、あの後すぐに国王によってラザフォード家は正式に爵位の剥奪を言い渡されたらしい。
 伯爵位を剥奪されたラザフォード家は財産と領地を没収され、一家は離散することとなったのだという。

 その一連の報告をユリアンからの手紙で知った時、私はようやく肩の荷が下りたような気がした。
 複雑な思いがないわけではないが、少なくともこれで最大の悩みの種だった家族との因縁は断ち切れたはずだ。
 そんなことを考えながら安堵の溜息をついていると、不意に部屋の扉がノックされた。
 私は慌てて「はい、どうぞ」と返事をする。次の瞬間、扉を開けて部屋に入ってきたのはジェイドとオリバーだった。

「ジェイド様……? それに、オリバーさんも。一体、どうなさったんですか?」

 そう尋ねれば、二人は顔を見合わせて頷き合う。そして、オリバーがおずおずと口を開いた。

「突然、押しかけてしまい申し訳ありません。実は、コーデリア様に折り入ってお願いがございまして……。不躾とは思いましたが、こうして伺った次第です」

 そう言って深々と頭を下げるオリバーを見て、私は目を瞬かせる。そして姿勢を正すと、彼のほうに向き直った。

「それで、そのお願いというのは何でしょうか?」

 私が問いかけると、ジェイドはオリバーに目配せをした。
 すると、彼は水晶のようなものを私の目の前に差し出してきた。

「コーデリア様。改めて、あなたに魔力を計測していただきたいのです」

 オリバーが差し出してきたのは、魔力値を計測するための水晶だった。

「それは構いませんが……何故ですか?」

 尋ねると、ジェイドが補足するように言った。

「実は……ラザフォード家が代々行っていた『人身御供の儀』について調べていたところ、ある人物から情報提供があってな」

 彼は、一冊の本を差し出してきた。

「これは……?」

「ラザフォード家の祖先が残した手記だ。いわゆる、内部告発文書のようなものだと思ってくれて構わない。情報提供者の祖先がラザフォード家の人間と交流があったらしく、万が一に備えてこの手記を託されたそうだ」

「つまり、ラザフォード家の人間の中にもあの儀式を行うことに疑問を抱いていた者がいたということでしょうか?」

 そう尋ねると、ジェイドは「ああ」と静かに頷いた。
 私はその本を受け取ると、ゆっくりとページをめくっていく。
 そこには、ラザフォード家に生まれた子供たちが辿った数奇な運命が綴られていた。

「手記によると、ラザフォード家は生まれた子供の中で最も魔力が少ない者を選び、儀式の生贄にしていたらしい。それは、コーディが身をもって経験しただろう?」

「ええ……」

「バルトは先祖の教え通り、コーディを生贄に捧げ儀式を行おうとした。しかし、儀式は失敗に終わった。……何故だと思う?」

「それは……私が出来損ないだから……」

 そう、自分は出来損ないだ。だからこそ、保有している魔力が足りなくて生贄の役目すら果たせなかったのだ。
 しかし、ジェイドは首を横に振って私の答えを否定する。

「いいや、違う。寧ろ、その逆だ」

「逆……?」

 一体、どういうことなのだろう。私は眉をひそめながらジェイドを見る。すると、彼は一呼吸置いてから口を開いた。

「──実は、コーディの魔力量はラザフォード家の歴代の中でも群を抜いていたんだ。それも、わざわざ悪魔の力に頼らずともな」

「え……?」

 その言葉の意味がよく分からず、私は首を傾げる。ジェイドは、さらに話を続けた。

「この手記の最後の方に、コーディと同じように儀式を失敗させた生贄の子供の事例が載っているんだ」

 ジェイドはそう言いながら、ページをめくっていく。
 そして、ある部分で手を止めると私に見せた。

「ほら、ここだ」

 ジェイドに促されるまま、私は彼の指差している箇所に目を通す。そこには、こう書かれていた。

『当初、その子供は魔力をほとんど保有していないと思われていた。だが、実際には違ったのだ。後に、その子供は膨大な魔力を有していたことが判明した』

「そんな……まさか……」

 私は信じられない気持ちで手記を見つめる。著者はこう推測していた。

『恐らく、その子供は水晶では計測できないほどの膨大な魔力を持っていたのだ。だからこそ、数値として現れなかったのだろう。それから、その子が儀式を失敗させた件についてだが……私は、これは防衛反応が働いたのではないかと考えている。水晶で計測できないほどの魔力量を持つ子供であれば、悪魔から身を守り迎撃する術を持っていたとしても何ら不思議ではないからだ』

「防衛反応って……」

 戸惑っていると、しばらく黙り込んでいたオリバーが口を開いた。

「恐らく……コーデリア様は儀式の際、無意識のうちに危険を察知したのでしょう。そして、見事悪魔を撃退することに成功した。けれど──その様子は、周りには失敗したようにしか映らなかったのでしょうね」

 オリバーの話を聞いた私は、呆然としながら再び手記に目を落とした。
 この著者は一体どんな気持ちでこれを書いたのだろうか。きっと、自分たちが行った非道な行いを後世に伝えることに葛藤があったに違いない。それでも尚、真実を書き残そうとしたのだ。

「コーディ。君は、自分のことを魔力に恵まれない出来損ないだと思っているようだが……この手記に書かれていることが真実ならば、寧ろ類まれな魔力を持っている可能性のほうが高い。……もう一度、この水晶を使って魔力値を計測してみる気はないか?」

 ジェイドはそう言うと、私の目を見据える。

「この水晶は、コーデリア様が魔力値を計測した当時のものよりも高い精度で計測できるよう改良されています。だから、きっと今のコーデリア様の魔力量が正確に数値として現れるはずです」

 続いて、オリバーからも懇願するような眼差しを向けられた。二人の目は真剣そのもので、冗談ではないことは明らかだった。
 私はごくりと喉を鳴らすと、恐る恐る水晶に手を伸ばした。そして、そっと手を乗せる。するとその瞬間、水晶の中にぼんやりとした光が浮かび上がった。
 それは徐々に輝きを増していき──やがて、はっきりとした数字となって私の目の前に現れたのだった。

「嘘……」

 呆然としていると、オリバーが静かに言った。

「恐らく、コーデリア様は長年自分を卑下していたせいで無意識に魔法を使うことを拒んでいたのでしょう。それが、悪魔を撃退したことがきっかけで本格的に覚醒し、徐々に本来の力を発揮するようになったのではないかと……」

「そう考えると、ようやく今までのことが腑に落ちるな。鉱石に流し込む魔力量を調整したり、周囲にある鉱石の力を借りて魔物を攻撃したり──そんな芸当ができるのは、高い魔力を持つ人間くらいだ」

 ジェイドとオリバーは、納得した様子で頷き合っている。

「やはり、コーデリア様になら、あの問題を解決できるかもしれませんね」

「ああ、そうだな」

 何やら、二人はそんな会話をし始めた。

「あ、あの……! とりあえず、私にも分かるように説明していただけませんか?」

「ああ、すまない」

 ジェイドは申し訳無さそうに謝ると、私のほうに向き直る。

「実は、俺たちはこの手記を託された人物の子孫に協力を仰いでいてな。その人物から、ある依頼を受けたんだ」

「依頼……ですか?」

 私が首を傾げると、オリバーが説明を引き継ぐようにして口を開いた。

「ええ。その人物曰く──現在、メルカ鉱山の奥には異界へと繋がる門が開いてしまっているそうです。そのせいで、ヒュームのような未知の魔物が鉱山に発生しているのだとか」

「門、ですか……?」

 私は愕然とする。まさか、そんな大ごとになっているとは思いもしなかったからだ。

「ええ。そこで、コーデリア様にはその問題を解決していただきたいのです。具体的に言えば──この世界と異界を繋ぐ門を閉ざしていただきたい」

 オリバーはそう言って、真剣な眼差しを私に向ける。
 壮大すぎる依頼に私は一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り直して首を横に振った。
 異界の門を閉ざすなんて、そんな大それたことが自分に出来るとは思えない。

「そ、そんなこと……私には、出来ません! 無理です! 大体、なんでその門が開いてしまったんですか? 一体、誰がそんなことを……」

 そこまで言うと、私の言葉に被せるようにジェイドが答えた。

「ラザフォード家だ」

「え……?」

 ジェイドの話によると、この門というのは過去に何度かメルカ鉱山の最奥に出現しているそうだ。
 記録として残っているのは、五百年前。ちょうど、ウルス領をヒュームたちが襲撃したのと同時期だ。
 手記の内容と照らし合わせたところ、その襲撃事件が起こる直前にラザフォード家が『人身御供の儀』を執り行ったのだという。

「悪魔を呼び出すためには、まず異界の門を開く必要がある。そもそも、悪魔はその門を通らないとこの世界に来れないからな。だが、ラザフォード家はそんなこととは露知らず安易な考えで儀式を行ったんだ。その結果──この世界と異界を繋ぐ門が開いたままになってしまったという訳だ」

「……!」

 私は思わず絶句する。
 とはいえ、儀式を行ったからといって必ずしも門が開きっぱなしになるわけではないようだ。
 本来ならば、手順通りに儀式を行えば悪魔が異界に帰ると同時に門は閉じるのだが、稀にうまく閉じないことがあったのだという。
 その度に、高い魔力を持つ魔導士が対処に当たっていたらしい。

「でも……それなら、私なんかよりジェイド様のほうがずっと適任なのでは……」

 現に、ジェイドは王家からも一目置かれる程の実力者だ。
 彼ならば、難なく対処できるだろう。そう思ったが、ジェイドは静かに首を横に振った。

「残念ながら、俺にその門を閉じることは出来ない。確かに、俺の魔力は一般的には高い部類だろう。だが……それでも、門を閉じるには力不足なんだ」

 ジェイドの返答に私は言葉を失う。

「だから、コーディ。君の力が必要なんだ。君が持つ膨大な魔力があれば、きっと異界に繋がる門を完全に閉ざすことが出来る」

「で、でも……」

 私は思わず首を横に振ったが、ジェイドは真剣な眼差しで私を見つめる。

「君になら出来るはずだ。君は、自分が思っているよりも強い人間だと俺は確信しているよ」

 ジェイドはそう言うと、私の手をそっと握った。

「ただ、無理強いをするつもりもない。だから、君が望むなら今日の話は無かったことにしてくれても構わない」

 ジェイドの言葉に、私は俯く。確かに、私にしか出来ない仕事なら引き受けるべきなのだろう。
 しかし、どうしても踏ん切りがつかない。私は怖かった。もし失敗してしまったら、皆から失望されてしまうのではないか。そんな恐怖が心を支配しているからだ。

(でも……いずれにせよ、このまま放置しておけばウルス領が──いや、世界中が危険に晒されることになってしまう。自分の大切な人たちを守るためにも、ここで逃げるわけにはいかないわ)

 私は、ぎゅっと拳を握りしめる。

(……やるしかないわ)

 覚悟を決めると、私は顔を上げた。

「わかりました。……やってみます」

 私がそう言うと、ジェイドは嬉しそうに微笑んだ。

「そうか……! ありがとう、コーディ」

「いえ……」

 覚悟を決めたのはいいが、やはり不安は拭いきれない。
 そんな私の心情を見透かしたかのように、ジェイドがそっと肩を叩いてきた。そして、穏やかな口調で言う。

「……大丈夫だ。コーディなら、きっと出来る」

(そうだわ……私には、こんなに心強い味方がいるんだもの)

 そう思い直すと、私は力強く頷いたのだった。
 後日。私たちはある人物に会うことになった。
 その人は、過去に私の祖先から手記を託されたという人物の末裔である。
 フランツという名の、元宮廷魔導士の青年だ。彼は、オリバーとエマの元同僚でもある。
 本当はジェイドと二人で会いに行く予定だったのだが、やはり知り合いが立ち会ったほうがいいだろうということで急遽オリバーとエマも同行することになった。

(以前、エマさんが言っていたわよね。「妙なことを言い残して退職していった同僚がいる」って……)

 恐らく、その人のことなのだろう。
 待ち合わせ場所は、オリバーの実家でもある喫茶店だ。
 私たちは早速店内に入ると、フランツの姿を捜す。すると、店の奥にあるテーブル席にそれらしき後ろ姿を見つけた。

「あの……」

 恐る恐る声を掛けると、その人物は驚いたように振り返った。

「フランツさん……ですよね?」

 私が尋ねると、フランツは「はい」と言いながら頷いた。
 顔色は悪く、随分とやつれているように見える。一体、何が彼をここまで追い詰めたのだろうか。
 オリバーとエマは、元同僚の変わり果てた姿に動揺している様子だった。
 重苦しい沈黙が落ちる。そんな中、先に口火を切ったのはフランツだった。

「到着して早々申し訳ないのですが……本題に入ってもよろしいでしょうか?」

 フランツはそう言うと、私たちを真っ直ぐと見据える。
 その視線には、どこか切実な思いが感じられた。

「ええ、お願いします」

 私は小さく頷く。すると、フランツは一瞬躊躇うような素振りを見せたが、やがて覚悟を決めたのか口を開いた。

「先日、ウルス公爵とオリバーには大体の事情はお話しました。なので……今日は補足も含め、私が知っていることを全てお話ししようと思います」

 フランツはそう言って、ゆっくりと息を吐き出した。
 そして、私たちに向かって深々と頭を下げる。

「まずは、皆さんに謝らなければいけないことがあります。私は……メルカ鉱山に異界へと繋がる門が開いていることを知りながら、見て見ぬふりをしました」

 フランツは、悲痛な面持ちでそう言った。

「怖かったんです。あの門を閉ざすことは、並大抵のことではありません。それができる人間も限られている。それに……注意喚起をしたところで信じてもらえるかどうか分かりませんでしたし、仮に信じてもらえたとしても、その後に待ち受けるであろう責任や重圧を思うと、恐ろしくて仕方がなかった。だから、私は見て見ぬふりをしたんです」

 フランツはそこまで言うと、自嘲した。
 彼の気持ちは痛いほど分かる。自分が同じ立場だったら、きっと同じように行動していたかもしれないから。

「本当に申し訳ありませんでした」

 フランツは再度、頭を下げた。

「……元々、私の祖先はラザフォード家とは浅からぬ縁がありまして、当時の当主とは頻繁に手紙のやり取りをする仲でした。そんなある日、彼はラザフォード家の長男から相談を持ちかけられたのです。『父が恐ろしい儀式を行おうとしている。こんな非道なことは今すぐ止めさせたいから手伝ってほしい』と」

 そう言って、フランツは遠い目をした。

「しかし、彼は『ラザフォード家の当主が言うことは絶対だ。逆らうことは許されない』という考えの持ち主でしたから……結局、その相談に応えずじまいだったそうです」

 フランツは目を伏せると、話を続けた。

「それからしばらくして、彼は『ラザフォード家の次男が失踪した』という話を耳にしたそうです。どうやら、その際生贄に選ばれたのは次男だったようですね」

 そこまで話を聞けば、手記を書いたのが誰なのか自ずと予想がついた。

「つまり、あの手記を書いたのは当時のラザフォード家の長男だったということですか?」

 私の問いにフランツは頷いた。

「ええ、そうです。結局、彼は弟を救うことができなかった。そればかりか、弟の失踪を隠蔽する手伝いまでさせられたようです」

 フランツは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、話を続けた。

「だから、せめてもの償いとして手記を書き残したのでしょう。その後、彼は人生のほとんどを研究に費やすようになったそうです」

「研究……? 一体、何の研究ですか?」

「獣化の病についての研究ですよ。彼は、ウルス領で奇病が流行っている原因がメルカ鉱山で発生した未知の魔物──ヒュームであることを突き止めたんです」

 フランツはそこまで言うと、黙って話を聞いていたジェイドに目配せした。
 すると、ジェイドは補足をするように口を開いた。

「以前、レオンが言っていただろう? 『メルカ鉱山の近くで変わった魔物に遭遇した』と。コーディが睨んでいた通り、その魔物は高確率でヒュームだ。恐らく、レオンはヒュームと遭遇した際、その個体が持つ病原体に感染したんだろう。俺たちは当初、獣化の病の発症原因は瘴気によるものだと結論づけていたが……それはとんだ思い違いだったようだ。本当は、ヒュームがあちこち飛び回っていたせいで空気中や土壌に病原体が持ち込まれていたことが原因だったんだ」

 ジェイドの話を聞いて、私は愕然とした。

「ということは……その当時、騒ぎになっていなかっただけで他にも発症者がいたということでしょうか?」

 私が尋ねると、ジェイドは首を横に振った。

「それは分からない。ただ、レオンのようにすぐに発症する者はほとんどいなかったんだろう。大多数は、潜伏期間を経て数年後に発症した……と考えるのが妥当だ」

 そこまで話を聞いたところで、私はある疑問を抱いた。

「でも……どうして、その頃からヒュームがいたんですか? ラザフォード家が儀式を行ったのは、もっと後のことですよね」

「それに関してだが……恐らく、バルトはその頃から儀式の予行演習を行っていたんだろう。勿論、生贄がいなければ儀式を行ったところで異界の門は開かない。だが、きっと何かの弾みで異界の門がほんの少し開いてしまったんだろうな。そして、その隙間を通り抜けて少しずつ異界の魔物たちが鉱山内に流入していた──というのが俺の推測だ」

 ジェイドの推測を聞いて、私は「なるほど」と頷く。
 しかし、まだ腑に落ちない点はあった。

「魔物たちは、ラスター鉱山でも発生していましたよね? ということは……その門は、他の鉱山にも存在するということでしょうか?」

「いや……恐らく、奴らは何か目的があってメルカ鉱山からラスター鉱山に移動したんだろう。基本的に、門は一つしか開かないはずだ」

「なるほど……そう考えると、合点がいきますね」

「もしかしたら、コーディが言っていた通りなのかもしれないな」

「え……?」

「以前、『あの魔物たちは、鉱石を餌にしているのかもしれない』と話していただろう?」

「そういえば……」

 ジェイドにそう言われ、ふとその時のことを思い浮かべる。

(もし本当にそうだとしたら、ラザフォード家はとんでもない過ちを犯してしまったことになるわね)

 何しろ、自分たちが代々行ってきた儀式のせいで未知の魔物(ヒューム)が異界から流れ込み、その魔物たちが持ち込んだ病原体が原因で『獣化の病』という奇病まで流行らせてしまったのだから。

「……今まで、私たちが遭遇した不可解な魔物たちの正体もきっとヒュームだったんでしょうね」

 とっくの昔に絶滅したはずの魔物や青い肌のゴブリン、レオンに瓜二つの魔物──それらの正体に関しても、全てヒュームだったと考えると腑に落ちる。
 異界の魔物なだけあって、その擬態能力の高さにはただ感心するしかない。私の意見に同意したのか、一同は深く頷いていた。

「あの……それで、肝心な治療法は見つかったんですか?」

 成り行きを見守っていたエマが、身を乗り出すように尋ねた。すると、フランツが口を開いた。

「手記にも書いてある通り、具体的な治療法は見つかっていません。ですが……この世界と異界を繋ぐ門さえ閉ざすことができれば瘴気も発生しないでしょうし、体内の病原体は自然と死滅するはずです。異界の病原体は、瘴気がない世界では生きられませんから」

 フランツはそう言い終えると、不意に黙り込む。
 やがて、彼は意を決したように顔を上げると懇願するように言った。

「どうか、お願いします。力をお貸しください。ウルス領に──いや、世界に平和を取り戻してくれませんか……?」

 フランツは私に向かって頭を下げた。その口調からは真摯な想いが感じられる。

「勿論です。元々、そのつもりであなたに会いに来たのですから」

 私が力強く頷くと、彼は感極まったように瞳を潤ませる。

「……! ありがとうございます!」

 一体、自分にどこまでのことが出来るのか──それは、やってみないと分からない。
 けれど、きっとこの世界から災厄を取り除いてみせる。そして、平和を取り戻そう。
 私は、改めてそう心に誓ったのだった。
「コーデリア様。くれぐれもご無理はなさらないようにしてくださいね」

 サラが心配そうに私の顔を覗き込む。

「ええ、分かっています。ありがとう、サラさん」

 私はサラを安心させるように微笑んだ。すると、彼女はほっとしたような表情を浮かべる。

 私たちは、これからメルカ鉱山へと向かう予定だ。
 目的は勿論、開いてしまった異界の門を閉じるためである。
 フランツの話によると、門に近づくにつれて魔物との遭遇率が上がり危険度も増すそうだ。

 今回、私に同行してくれることになったのはジェイド、オリバー、エマの三人。
 そして、メルカ鉱山の入り口にはケイン、ウィル、ダグラスが待機してくれることになった。
 万が一、私が任務に失敗した場合、門を通って一気に異界から魔物が流れ込んでくる可能性もある。それを食い止めるのが、彼らの役目だ。
 さらに、一日経っても私たちが戻らなかったらユリアンが直ちに救援隊を編成してくれる手筈になっている。

(まあ、そうならないに越したことはないのだけれど……)

 そう思いつつ、私は心配そうな顔でこちらを見ているアランとレオンの元まで歩いていく。

「どうしたんですか? 二人とも、顔が暗いですよ」

「コーデリア様……」

 アランが私の名前を呼べば、彼の足元にいるレオンも「クゥン」と小さく鳴きながら心配そうに見上げてくる。
 そんな二人を見て、私は安心させるように微笑んでみせた。

「心配しなくても大丈夫ですよ。すぐに戻ってきますから」

 私がそう言うと、二人は顔を見合わせる。

「コーデリア様……どうかお気をつけて」

「……はい!」

 アランの言葉に、私は力強く頷く。

『コーデリア! 帰ってきたら、一緒に雪で遊ぼうね!』

 レオンは、まるで「離れたくない」とでも言うように自分の足に縋りつき、尻尾をパタパタと振っている。
 私は、そんなレオンの頭を優しく撫でる。

「ふふ……勿論。楽しみにしているわ」

 そして──私は改めて皆の顔を見回すと、声を張り上げた。

「それでは、出発しましょう!」

 その言葉に、ジェイド、オリバー、エマの三人は頷いた。
 私たちは馬車に乗り込むと、メルカ鉱山に向けて出発したのだった。


 ***


 馬車の窓を半分だけ開けると、流れていく風景をぼんやりと眺める。
 空は分厚い灰色の雲に覆われていた。少し前までの青々とした空とは大違いだ。
 ふと、私は今後のことを考えて不安になる。

(大丈夫かな……)

 メルカ鉱山での任務は、今までにないくらい危険を伴うものだ。
 そして、私たちが失敗すれば、この国は未曽有の危機に晒されることになる。

(いや……そんな弱音を吐いている場合じゃないわよね)

 そうだ。ここで弱腰になるわけにはいかない。
 私は自身を鼓舞するようにぎゅっと拳を握りしめた。

「雪、また降りそうですね」

 エマが窓の外を見ながらぽつりと呟く。

「そうだな……メルカ鉱山に着く頃にはちらほらと降り始めるかもしれないな」

 続けて、オリバーが相槌を打つ。

「まあ……天候なんてものは仕方がないさ」

 ジェイドはそう言って肩をすくめる。
 ウルス領は、毎年決まって冬の季節になると大雪が降る。この時期は、メルカ鉱山の麓は辺り一面が雪景色に染まるそうだ。
 その光景は目を見張るほど美しく、領民たちにとっての冬の風物詩となっているのだとか。

「ジェイド様は、やっぱり雪がお好きなんですか?」

「うん?」

 尋ねると、ジェイドは頭の上に疑問符でも浮かべていそうな顔になった。

「なぜ、そう思うんだ……?」

「え? えーと……なんとなく、冬が好きそうなイメージがあったので。雪の上でころころ転がったりするの、似合いそうですよね」

 そう言いながら、私は雪と戯れているジェイドを想像して笑みを零す。
 けれど、そんな風にほっこりと和んでいる私とは対照的に彼は唇を尖らせていた。

「コーディ……人のことを白熊みたいに言うのはやめてくれ。いや、確かに見た目は白熊なんだけどな……」

 ジェイドは不服そうに言った。

「あ、すみません……。でも、その……雪と戯れているジェイド様、きっとすごく可愛いですよ!」

「全然、フォローになってないんだが……?」

 ジェイドは肩をすくめると、溜息をつく。
 それを見たエマとオリバーは、思わずと言った様子でくつくつと笑った。

「そういえば、コーデリア様。そのブレスレットは……?」

 エマは、ふと気づいたように私がはめているブレスレットをじっと見つめた。

「ああ、これですか? 自分で作ったオリジナルのアクセサリーなんですよ」

 このブレスレットは、以前クレイグの店で買ったタリスマンから魔力を抽出して作ったものである。
 元々、ブレスレットに付与されていた「魔力の消費を抑える効果」はそのまま残し、さらにタリスマンが持つ「瘴気から身を守る効果」を付与したのだ。
 つまり、このブレスレットを身に付けている限り、私の体への負担が少なくなるというわけである。

 フランツが言うには、異界の門を塞ぐためには非常に多くの魔力を要するらしい。
 恐らく、その門がある周辺は瘴気が濃いだろうし、長時間瘴気に当たり続ければ体調不良を起こす可能性も高い。
 大事な任務の途中で体調を崩して続行できなくなることだけは、どうにか避けたいところだ。
 試行錯誤の末、何とかそれを補助する役割を担ってくれそうなものに仕上がってくれたのは正直安心した。

「なるほど……魔力が込められたアクセサリーって、あまりたくさん身につけていると体に悪影響が出ますものね。その心配がないのは助かりますよね」

 私が簡単に説明をすると、エマは興味深そうにブレスレットを眺め回していた。

「ええ。私も、それが心配だったので……」

 そう返しつつも、私は苦笑する。
 その懸念事項さえなければ、アクセサリーをたくさん付けた状態で今回の任務に赴いたのだが……。
 しばらくの間、エマとそんな会話をしていると、やがて馬車がゆっくりと停車した。どうやら、鉱山の麓に到着したようだ。

 外へ出ると、しんと静まりかえった広大な平地が広がっていた。綺麗に整備されているのは麓だけで、少し奥の方へ歩けば草花や低木が生い茂っている。
 メルカ鉱山の入口まで歩いていくと──そこは以前来た時よりも禍々しい雰囲気を醸し出しており、私は思わず息を呑んだ。
 それは他の三人も同様だったようで、皆一様に険しい表情を浮かべている。
 鉱山に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

「寒いな……」

 ジェイドがぼそりと呟く。確かに、先ほどから雪がぱらぱらと降り始めたせいか、かなり冷え込んでいるようだ。
 幸いにも、今日は坑道内の照明が消えてしまうほど瘴気が濃くはない。
 だから視界は良好だけれど、魔物の出没も予想されるので警戒を怠るわけにはいかない。

「皆さん、これを」

 私は懐からある鉱石を取り出すと、それを三人にそれぞれ手渡した。

「これは?」

 オリバーが不思議そうに首を傾げながらも尋ねてくる。

「火属性の魔力が籠もった鉱石を加工したものです。元々この石は発熱する性質を持っているのですが、体を温める道具として使うには少々力不足でして……。そこで、この鉱石に特別な加工を施すことで、より効果的に魔力を増幅する性質を付け加えてみたんです」

「なるほど……」

 オリバーは興味深そうに鉱石を見つめると、それをぎゅっと握り締めた。

「確かに……これは温かいですね」

「実はこの発明品、クレイグさんから聞いた東洋の話をヒントに作ったんです。なんでも、東洋ではこうやって特殊な加工を施した火属性の魔力を持つ石のことを『懐炉(かいろ)』と呼んでいるそうですよ」

「カイロ、ですか……」

 私の話に興味を持ったのか、エマが聞き馴染みのない単語を反芻するように呟く。
 彼女は自分の懐に収まった鉱石の温かさを確かめながら、「確かに……これは便利ですね」と感心していた。

「確かに、暖を取るためにいちいち火属性の魔法を使うのは魔力の消費も激しいし、効率的とは言えないからな」

 ジェイドも感心したように頷いている。

「コーデリア様。この発明品も、商品化したらきっと人気が出ますよ! 魔力を持たない人々にとっては、冬の救世主のような存在になるはずです」

 エマはそう言って、目を輝かせた。

「ふふ、そうですね。上手くいけば良いのですが……」

 私は苦笑しながらも、内心では商品化の可能性も視野に入れていた。

「──でも、それは無事異界の門を閉じてから、の話ですよね」

 エマは表情を引き締めると、坑道の奥を見据える。

「そうですね……まずは、目の前の任務に集中しましょう」

 そう言うと、三人は力強く頷いてくれた。
 私たちは、周囲を警戒しつつも奥へと進んで行く。
 今のところ、魔物らしき姿は確認できない。

 地図を頼りに坑道を進んでいけば、やがて開けた空間に出た。
 不思議なことに、ここに来るまでに一度も魔物に遭遇していない。なんだか、嫌な予感がする。

「フランツの話によると、この辺りに異界の門が出現しているはずなんだがな」

 不意に、隣にいるジェイドが辺りを見回しながら言った。

「そうですね……でも、何もありませんね」

 そう言って、首を傾げた瞬間──突如として、目の前に異空間へと続く禍々しい裂け目が出現する。
 それは、まるで私達の声に呼応するように姿を現したのだった。

「……! 一体、どこから現れたんだ!?」

 ジェイドが唖然とした様子で裂け目を見つめる。

「いや……多分、見えなかっただけでずっとここにあったんですよ。フランツさんが言っていたじゃないですか。『その門は、人知の及ぶ領域のものでは無い』って……」

 エマが緊張した面持ちで言った。

「これが、異界の門……」

 私は呆然と呟くと、目の前の裂け目をじっと見つめた。
 この裂け目の向こうには、未知の世界が広がっているのだろう。

(……怖い)

 足が竦むのが分かる。思わず後ずさりしたくなる気持ちを必死に抑えながら、私は静かに深呼吸をした。
 その刹那──裂け目はまるで生き物のように蠢き始めた。そして、あたかも門であることを示すようにゆっくりとその口を開けたのだ。
 空間の底知れぬ深みに呑み込まれるような錯覚を覚えて、私は思わず息を呑んだ。
 やはりと言うべきか、門からは瘴気が漏れ出している。

「それでは……早速、門を閉じますね」

 私は三人に向かってそう言うと、門に向かって手を翳した。
 フランツから教えてもらった通り、私は体内の魔力を一気に放出するイメージを思い浮かべる。
 次の瞬間。まるで見えない何かがぶつかったかのように裂け目がぐにゃりと歪んだかと思うと、異界へと繋がる門は徐々に小さくなっていった。

(良かった、うまくいきそう……)

 ──そう思った瞬間だった。小さくなった裂け目から、黒い何かが強引に這い出てこようとしているのが目に入る。

「え……?」

 私は思わず固まった。──あれは、ヒュームだ。そう確信した私は思わず後ずさる。
 ヒュームは裂け目から這い出ると、スーッと私のほうに移動してきた。そして、目の前でピタリと静止した。

「……っ!?」

「コーディ!!」

 ジェイドが私の名前を叫んだ瞬間、辺り一面が闇に覆われた。
 それがヒュームの仕業だということに気づくのに、そう時間は掛からなかった。
 暗闇の中で、ヒュームのものであろう二つの赤い目だけが爛々と輝いている。

 ──怖い。

 私はその場に立ち尽くしたまま動くことができなかった。
 すると、突然目の前にいるヒュームが人の姿へと変身した。光を帯びたその姿に、私は目を見張る。

(幼い頃の、私……?)

 ヒュームが変身した姿が、幼い頃の自分に似ていることに気づいた瞬間。来る日も来る日も、家族や使用人たちに意地悪をされていたあの日々がフラッシュバックする。

「ビクトリアと違って、私はいらない子なのよ」

 目の前にいる、幼い頃の自分によく似た少女は抑揚のない声で言葉を発した。
 少女の声なのに、まるで悪魔の囁きのように聞こえる。

「私に居場所なんてない」

「……そんなこと……ない」

 必死に声を絞り出してそう言うと、少女が私の言葉を否定するかのように尋ねてきた。

「なぜ、そう言えるの? あなたに存在意義などない。それは、自分自身が嫌というほど分かっているでしょう!?」

「……っ!」

 私は耐えきれなくなって、目を瞑って耳を塞ぐ。
 暗闇の中で響く、耳を劈くような少女の怒声に心が抉られていくようだ。それでも、何とか私は反論をしようとする。

「違う……! 昔は、確かにそう思っていたわ。でも、公爵家に嫁いでからは、段々と考えを改めるようになったの。ジェイド様たちは、私を必要としてくれた。才能を認めてくれた。そして、何より──私が死んだら悲しいと言ってくれた。だから、私はもう自分を卑下したりなんかしない。誰からも必要とされていないなんて思わない。そう思えたら、自信が持てるようになったの!」

「本当に、そう思ってる?」

「どういうこと……?」

「だって……あなた、すごく打算的な人間じゃない。そんな人間を、彼らが本気で好いてくれると思う?」

「打算的……?」

 私は思わず首を傾げる。
 しかし、少女はそんな私を見て嘲るように笑った。

「あなたは、自分の価値を示そうと必死になってるだけよ」

「え……?」

 戸惑う私に向かって、少女は追い打ちをかけるように淡々と言葉を並べた。

「あなたはいつもそうやって誰かの期待に合わせて、都合のいい笑顔を浮かべて、気に入ってもらえるような振る舞いをしている。……なぜなら、本当は自分が誰からも好かれていないんじゃないかって不安で仕方がないから」

 少女の言葉に、私は息を呑んだ。
 確かに、その通りかもしれない。ウルス領に来て以来、私は邸の皆や領民たちに喜んでもらおうと必死だった。
 魔導具の発明に夢中になったことも。そして、それが誰かの役に立つのなら惜しみ無く提供することも。それらは、自分を認めてもらいたいがために始めた行為だ。
 そうやって、自分が誰かから必要とされるような人間だと示すことでしか安心できなかったのだ。……そう考えると、自分の中に巣食う黒い感情にも説明がつく気がした。

(ああ、そうか……)

 結局、私は何も成長できていないのかもしれない。他人からの好意を、心の奥底では信じ切れていないのかもしれない。
 そう悟り、全てを諦めたように自嘲めいた笑みを浮かべた瞬間。

「……コ……ディ!」

 突然、背後から誰かの声がした。聞こえづらいが、確かに声が聞こえる。
 慌てて振り返れば、ぼんやりとした光を帯びた人影が見えた。
 私は、思わずその人影に向かって手を伸ばす。だが、その正体が分かった瞬間、手を引っ込める。

「コーディ! こっちに来るんだ! このままだと、そいつが作り出した闇に飲み込まれてしまう!」

「ジェイド様……」

 ここは、恐らくヒュームが私を取り込むために作り出した空間だ。
 それなのに、どうしてジェイドがこの空間に入ってこれるのだろうか。そんな疑問を抱きつつも、私は俯いた。

「……行けない」

「コーディ?」

「ジェイド様、ごめんなさい。私……もう、そっちには行けない」

 私がそう言うと、ジェイドはしばらく黙り込む。そして、静かに尋ねてきた。

「……どうして?」

 私は震える声で言葉を紡ぐ。

「……怖いの」

「怖い……?」

 ジェイドはそう返すと、眉をひそめた。

「自分を本気で好きになってくれる人なんて、本当はいないんじゃないかって。そう考えたら、すごく怖くなって……」

 私は、そう言いながらもぎゅっと拳を握りしめる。

「私、本当はすごく打算的なんです。皆のためと言いながら魔導具の発明を続けていたのは、ただ自分が認められたいからだった。誰かの役に立ちたいっていうのも、自分の存在価値を確かめたかっただけなんです。それなのに──」

 私は自嘲しながらも、言葉を続ける。

「綺麗事ばかり並べて、いい人ぶって。……こんな人間に、愛される資格なんてない。それなのに、『愛されたい』という欲求だけは一丁前で。私は、そんなことにも気づかないまま偽善行為を続けてきたんです」

「コーディ……」

 ジェイドは私の名前を呼ぶと、黙り込んだ。
 きっと、幻滅しているに違いない。私は彼の顔を見ることができなかった。

「ビクトリアは太陽で、私は月だった。いつだって、私は姉の引き立て役で……双子なのに、どうしてこんなに違うんだろうってよく考えていました」

 周囲の評価は、天と地ほどの差があった。その事実は、より一層私の劣等感を刺激した。

「毎日、必死に『私はここにいるよ。お願い、誰か気づいて』って心の中で叫んでた。でも、誰も気づいてくれなくて……私の心の痛みも、苦しみも、誰にも理解してもらえなかった。そんな幼少期を送っていたせいか、ひどく愛情に飢えているんです。ビクトリアはいつも綺麗な服を着て、両親からも可愛がられていて……孤独とは無縁の世界にいた」

 一度、気持ちを吐露してしまえば、もう止まらなかった。

「私だって、愛されたかった。姉さんのついででいいから、愛して欲しかった。……貴族の家なんかに生まれなくて良かったから、無条件で愛してもらえるような環境が欲しかった!」

 自分の中に留めておこうと思っていた言葉が、次々と溢れてくる。
 きっと、今自分はものすごく醜い顔をしていると思う。取り繕うことのできない己の弱い部分を、全てさらけ出してしまっているから。

「……コーディ」

 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、ジェイドと目が合った。
 彼は真っ直ぐに私を見据えると、静かに口を開いた。

「ついでなんかじゃない。現に、俺は君を助けるためにここまで来たんだ。己の危険を顧みず、単身でヒュームが作り出した空間にまで足を踏み入れた。──なぜなら、コーディ。君を愛しているからだ」

 私はジェイドの言葉に思わず言葉を失った。
 愛されている? 私が……? そんなはずはないと否定しようとするが、上手く言葉が出てこない。
 そんな私を見て、ジェイドはふっと微笑んだ。