海岸沿いを歩きながら、巷でよく聞く『死にたくなった理由』について考えていた。
たとえばそう。
好きなひとにふられたから。
家族が死んだから。
いじめに耐えかねて。
就職活動が上手くいかなくて。
お金がなくて。
……とか。
僕はどうだろう、と考える。
どれも違う。当てはまらない。
友達はたくさんいるし、好きなひとはいないけど、家族はふつうに仲が良い。生活も苦しくないし、勉強だってそこそこできる。
傍から見た僕はきっと、死ぬ理由なんてひとつもない。
……だけど、生きる理由もなかった。
ざざん。
波の音に顔を上げる。周囲は真っ暗。目の前には微かな月明かりに照らされた大海原が広がっている。
冷えた風が僕を包む。
岸壁に立ち、ぼんやりと波の音を聞いていると、ふと視界に白いなにかが映った。
――ひと?
少し離れた岸壁の際に、白いワンピース姿の女性が立っていた。女性のワンピースが、漆黒の世界にはためく。
「え?」
嘘だろ、と呟く。
女性は今にも海へ身を投げ出そうとしているように見えた。考えるより先に、身体と口が動く。
「あっ……ま、待って!」
女性が振り向く。魚の尾びれのようなワンピースと、長い髪が風に揺れる。
月明かりが、彼女の輪郭を淡くぼかしていた。涼やかで、どことなく浮世離れした美しい女性だった。
「……あ、あの。そんなところでなにしてるんですか」
恐る恐る訊ねると、女性は真顔のまま言った。
「……見て分からない? 死のうとしてるとこ」
淡々とした口調で返され、僕は言葉を詰まらせた。
「君は?」
「え?」
「名前」
続けざまに訊かれ、僕は困惑しながらも、答える。
「……安堂、大地です」
「ふぅん。私は朝陽。……宮野朝陽」
「……どうも」
どう反応したらいいのか分からなくなって、とりあえず小さく会釈する。
女性――宮野さんが、身体をこちらへ向けた。
「……ねぇ、大地くん。少し私と話さない?」
「えっ?」
「この夜が明けるまでだけでもいいから、相手してよ」
今まさに死のうとしていたひとが、僕を見つめて言う。呆気に取られて、僕は言葉の意味を理解しないまま頷いた。
宮野さんは僕が頷くと、小さく微笑んで歩み寄ってきた。
ふと、なにか違和感を感じて、彼女の足元を見る。
「…………」
彼女は裸足だった。岩肌を踏み締める足は青白く、辺りに響く波音のせいか足音はまったくしない。
ひたひた、と静かに肉を着けるような歩き方だった。
「どうしたの?」
「……いや」
すぐそばまで来た彼女の背丈は、僕とそれほど変わらなかった。
年齢も、おそらく僕とそう変わらなそうだ。けれど、彼女は驚くほどガリガリに痩せていた。
白いワンピースはノースリーブ型で、夜空の下にむき出しの手足は枯れ枝のように細い。
痩せているね、と言うにははばかられるくらいに。
じっと彼女を見る。
……さっき、彼女は夜が明けるまで話をしようと言ったけれど。
家に帰らなくていいのだろうか。親は心配しないのだろうか。そんな疑問が脳裏を掠めるけれど、それらの言葉が口をついて出ることはなかった。なんとなく、僕と同じ匂いがしたから。
宮野さんは僕のとなりまでやってくると地べたに腰を下ろした。
じっと見上げられているのも居心地が悪くて、僕も座り込む。
ごつごつした岩肌は痛くて、座り心地は最悪だったけれど、となりに座る宮野さんが涼しい顔をしているものだから僕も我慢する。
「私ね、いじめられてたの」
不意に、彼女が言った。
「私が死のうとしてる理由。気になってたでしょ?」
たしかに気にはなっていたが。
ためらいつつ、訊ねる。
「……学校でですか?」
すると、彼女は首を横に振った。
「ううん、家で」
「家?」
目を瞠る。
「お母さんね、私のことが嫌いなんだって」
「……え……」
「私のことを殴りながら、いつも言うんだ。どうしてそんなにブスなの。あんたなんか私の子じゃない、生きている価値ない……って。お母さんね、私が家にいると、私を殴るか私の存在を忘れてるか、そのどっちかしかないの。目が合うと殴りつけてくるし、熱湯をかけられたり、農薬がかかったご飯を食べさせられたこともあったな。あのときはさすがに死ぬかと思ったよ、はは」
衝撃のあまり言葉を失くしていると、宮野さんがくるりと振り向く。
「ねぇ、思ったことない?」
宮野さんが、おもむろに問いかけてくる。
「ひとって、なんで生きるんだろう。……不思議だと思わない? だって私たち、どうせ死ぬのよ。それなのに、なんで生まれてくるんだろうって」
「なんでって……」
口を引き結ぶ。
たしかに、僕たちはなんで死ぬのに生まれるんだろう。
なんのために、生きるんだろう。
彼女の言うとおり、どうせ死ぬのに。
僕たちが生まれてくることに、意味はあるのだろうか。
この命に、価値は、意味は、あるのだろうか。
終わりのない迷路に迷い込みそうになった。
「なんてね」
ははっと乾いた笑みを零す彼女に、僕はなにも言葉を返せない。
「……ね、君は? どうして死のうとしてたの」
ハッとして顔を上げると、彼女は僕をまっすぐに見つめていた。
「……僕は」
言いかけて、唇を引き結ぶ。
壮絶な経験をしている彼女を前に、なにを言えるだろう。
「……いい。言わない」
言えることなんて、なにもない。
「どうして?」
「……だって、あなたの環境に比べたら、僕はぜんぜん不幸なんかじゃないから」
小さく答えると、彼女はきょとんとした顔をして首を傾げた。
「なんで私と比べるの?」
「え? えと、それは……」
戸惑いがちに見返すと、彼女は目を伏せ、言った。
「君は今、私の日常を想像して、私の苦しみを想像したのかな。その上で君は、私の方が辛い日常を送ってるって判断した?」
「…………」
ぐうの音も出ないほど、そのとおりだ。
「でも、君が考えたのと同じように私も思ってるとは限らないでしょ。たとえ君が私と似たような境遇に遭ったとしても、君が感じた苦しみと私が感じた苦しみが同じとは限らない。私の苦しみは私だけのもの。簡単に判断されたくない」
「……そう、ですよね。すみません」
しゅんとして謝ると、宮野さんはくすりと笑って首を振った。
「謝らないで。べつに怒ってない。私が言いたかったのは、それは君にとっても同じってこと」
彼女の言葉の意味が分からず、ぱちぱちと瞬きをする。
「僕にとっても……?」
「そ。君の苦しみは君しか経験してないんだから、私の苦しみと比べることなんてできない」
まっすぐな言葉に、僕は目を泳がせた。
「……それは、そうかもしれないけど」
宮野さんは、驚くほど優しい眼差しで僕を見ていた。
「君はなにに怯えてるの?」
不思議なひとだなぁ、と思う。歳はそう変わらないはずなのに、月明かりに照らされた横顔は、まるで母親のような慈愛に満ちている。
「……僕は」
気が付けば、僕は呟くように語り出していた。
「……たぶん、じぶんになにもないから、死にたくなったんだ」
「なにもない?」
足元を見つめたまま、頷く。
「じぶんで言うのもなんだけど、僕はふつうの人間だと思う。学校でハブられてるわけでもないし、家族もべつにふつうだし。勉強も、特別優秀ではないけど、できないわけじゃない」
「……なら、どうして?」
ぎゅっと手を握り込む。
「……だって、ぜんぶ、ニセモノだから」
「ニセモノ?」
「……本当はね、僕も小学生のときいじめられてたんだ」
小学二年生の秋、いじめは唐突に始まった。
クラスのガキ大将的な男子に目をつけられたのだ。
いじめが始まった理由は、厳密にはよく知らない。
でもたぶん、僕が周りより小さくて、痩せていて、言い返せない内向的な性格で、いじめやすかったからだと思う。
変なあだ名を付けられて、無視をされて、影でありもしない噂を流されて、悪口を囁かれた。殴られたり暗い教室に閉じ込められたり、時にはお金をせびられたこともある。
先生はきっと気づいていただろうけれど、助けてはくれなかった。
おかげでいじめは日に日に悪化し、僕はどんどん追い詰められていった。
ひとと喋れなくなり、通学路に出ただけで吐き気がして倒れることが何度かあって、それでようやく、両親はいじめに気付いたらしい。
らしい、というのは、僕には記憶が曖昧なところがあるからだ。いじめのショックか、よく分からないけれど。
とにかくいじめられているという事実を、僕はじぶんから両親に打ち明けることはできなかった。
じぶんが学校に溶け込めない人間だと、弱い人間なのだと認めるのがいやだったのだ。
あの頃は学校に行きたくなくて、あの環境から逃げたくて、毎日死にたいと思っていた。
信号待ちの交差点で、何度道路に飛び出そうとしたか分からない。
毎朝の登校も、休み明けの学校も、僕にとっては命懸けだった。
でも結局、勇気がなくて死ぬことはできなかった。
いじめられても、死ぬことすらできない臆病者なのだと痛感した。
親がいじめに気付いてからは、さすがに先生も見て見ぬふりをすることはできなくなり、保護者会が開かれてちょっとした騒ぎになった。
おかげであからさまないじめは落ち着いたが、今度は先生がよそよそしくなった。
大人たちにとって僕は面倒ごとの象徴。
廊下を歩くだけでひとの視線に晒されているような気分になる。
影でくすくすと笑われているような気がしてしまう。
僕は、ますます学校が恐ろしくなった。
その後、なんとか小学校を卒業した僕は、両親のすすめで中学は知り合いがいない私立校を受験した。
中学ではいじめられないように、キャラを変えた。
無理して明るくおちゃらけたふうを装い、いじられキャラとしてクラスに溶け込んだ。
おかげで、中学以降はいじめられることはなくなった。
全力で演技をすることで、僕はじぶんを守ってきた。
「でも、ふと気付いたんだ。いじめられないために、これからもずっとこんなふうに演じていかなきゃならないのかなって。この六年間、必死に居場所を作って守ってきたけど、これからもこうして生きていかなきゃならないのかなって……」
努力しなきゃ守ることができないこれが、僕の居場所?
これからもいじめられずに生きるためには、僕はこの居場所を努力して守っていかなければならないの?
それなら僕は、素のじぶんでは、一生だれにも受け入れてもらえないのか。
その現実に気づいた瞬間、絶望したのだ。
「……情けないだろ。いいよ、笑っても」
彼女はしばらく僕を見つめたあとで、そっかと呟いた。
「……君にとっての居場所は、命の重さと同じくらいの存在だったんだね」
「……命と、同じ……」
彼女が放った言葉は、僕の胸の深いところにすっと落ちた。
「……そうだよ。だって居場所がなかったら、またいじめられる。くだらないかもしれないけど、僕にとって居場所はすごく重要なものなんだよ……」
気が付いたら、僕の両目からほろほろと涙が落ちていた。
「……くだらなくなんかないよ」
胸の琴線を優しく撫でるような、しんとした声だった。
「好きなひとにふられていなくても、家族が仲良くても、不自由のまったくない生活をしていても……ふと死にたくなるときはある。……絶望の感じ方は、ひとそれぞれでしょ」
「……ひとそれぞれ……」
「そ。それにさ、絶望するってことは、それだけ真面目に人生を生きている証拠じゃん。それだけでじゅうぶん、えらいじゃん!」
遠くを眺めていた彼女が、不意に僕を見て笑う。
「だから、胸を張っていいんだよ」
胸を張る……。
「……自殺しようとしてるのに?」
「そもそも適当に生きてたら、自殺しようなんて思わないでしょ。だから君は、だれがなんて言おうと立派なの。それだけ真剣に生き方に悩んでるんだから」
ふっと胸につかえていたなにかが、落ちていったようだった。
「……そんなこと、初めて言われた」
ざざん、と崖下で白い飛沫が上がる。
「そう?」
宮野さんの長い髪が、風にさらわれる。この世のものとは思えないほど美しい光景だった。
僕は彼女を、じっと見つめた。
「だって……死にたいって言ったら、みんな大抵、明日はいいことあるよとか、そんなに思い詰めるなとか、もっと楽に生きればいいとか、どうせそんな気ないくせにとか、そういうことを言うのに」
「あぁ、よく聞くセリフだ」と、彼女は乾いた笑みを零した。
「でも思うんだけどさ、あれほどの暴言ってないよね。明日のことを考えられるならそもそも死のうとなんてしないし、何回もそう信じて裏切られてきたから、死を選ぼうとしてるのよ、死にたがりの人間は」
ちらりと宮野さんを見る。
暴言、か……。たしかに彼女の言うとおりだ。
「……たとえばだけど。映画の試写会ってあるじゃない?」
「映画?」
「あれってよく、試写会のあとのインタビューの感想とかをCMで流したりするじゃん。たぶん、あれと一緒だよ」
「一緒って……なにが?」
「観客は同じ一本の映画を見たはずなのに、みんな感想がバラバラなの。それと一緒。育ってきた環境がバラバラだから、同じものを見ても、感じ方もひとによってぜんぜん違う。……だからさ、たぶん、君が相談して、明日はいいことがあるよって言ったひとは、明日じぶんにとっての楽しみがあったんだと思う。どうせそんな気ないくせにって言ったひとは、君の話をいつもの冗談だと思ったんじゃないかな」
思いもよらない言葉だった。
「……じゃあ、みんな……僕をバカにしてたわけじゃないってこと……?」
宮野さんは困ったように笑う。
「たぶんね。まぁ、そうは言っても、結局のところ分からないけどさ。……大人はよく思いやりを持てとか、相手の気持ちを考えろとか言うけど……ぶっちゃけそんなのムリじゃん。相手が本当にしてほしいことなんて言われなきゃ分かんないし、じぶんがしてほしいことを相手にやったとしても、相手がそれを喜ぶとは限らないもん」
「たしかに……」
「要は、考えろってことじゃないかな」
戸惑う顔をする僕に、彼女は続ける。
「相手がくれた言葉とか、してくれたことの裏にある思いやりに気付けって言いたいんだと思う。結果じゃなくて」
「言葉の裏の思いやり……」
「うん。それで、その思いやりに気付くためには、たぶん、ひとと関わっていくしかないんだと思う」
ひとと関わる。
ひとと関わる……。
心の中で彼女の言葉を復唱する。
「……でも僕、だれかを前にすると、どうしても相手の顔色をうかがっちゃうし、話をするのも、ふざけてないと緊張するし……」
「……分かるよ。他人と話すのは気も遣うし、煩わしいことも多い。じぶんが望まない解釈をされることもあるしね。でも、他人は必ず、じぶんにはないなにかを持ってる」
と、宮野さんは強い口調で言い切った。
「ひとりは楽だよ。どう見られているか気にしなくていいし、自由だから。でも、君はそれがいやで悩んでるんでしょ?」
いや、なのだろうか。少し考えてみる。
「……ひとりはきらいじゃない。でも……ずっとひとりは、いやだ」
ちら、と宮野さんを見ると、彼女は小さく肩を揺らしていた。
「……今、わがままだって思ったでしょ」
「そんなことない。だって、みんなそうでしょ。人間だもん」
膝を抱えていた手を緩めて、顔を上げる。
「それもそっか……」
彼女は風になびく髪を、指先で無造作に後ろへ流した。その姿に、僕はぽつりと呟く。
「……どうしたら、君みたいな考えになれるだろう」
「訓練するんだよ」
「訓練?」
宮野さんは、僕を見て微笑んだ。
「私、いつもここにいるって言ったでしょ。ここにいるとね、たまにいるんだ。私が自殺しようとしてると思って、慌てて止めに来るひと。そういうひとたちと、よくちょっとした会話をするの。それで、そのひとからなにか新しい考え方をもらえたら今日は生きる。そう、決めてる。毎日」
生き方を学んでいるのだ、と宮野さんは言う。
「……じゃあ、今日は?」
恐る恐る訊ねると、宮野さんは海に目を向け、
「生きてみようかなって思ったよ。だって、私が死んだら君も死ぬでしょ。それはいやだからね」
「じぶんは死のうとしてるのに、僕が死ぬのはいやなの?」
「いやだよ。当たり前でしょ。君もそうだから、私に声をかけてくれたんじゃないの?」
言われて、ハッとする。
「……たしかに。僕もいやだな」
その瞬間、ものすごくほっとしているじぶんがいた。そんなじぶんに驚いて、思わず笑ってしまった。
「えっ、なになに。なんで笑うの?」
笑っていると、宮野さんが不思議な顔をして僕を見てきた。
「だって……」
じぶんも死ぬ気だったくせに、ひとが死ぬことに対してはものすごく怖くなっているなんて。
「僕たちってまるきり同じじゃないけど、ちょっとだけ似た感覚を持ってるのかな」
「そうだね。私たちはきっと少し似てる。でもきっと、まったく同じ気持ちにはなれない。だって……」
「……他人だから?」
「……うん。でも、他人だったから助けられた。家族に殺されそうになってた私を、他人の君が助けてくれた」
ふとその顔を見る。彼女は、遠い海の向こうを見つめたまま呟いた。
「今でも毎日思い出すの。農薬のあの苦い感じ……。息ができなくなって、苦しくて苦しくて、目の前が真っ暗になっていくあの感じ。……もうずっと前の、子供の頃の話なのに……忘れようとしても、どうしても無理で」
宮野さんは、自身の手のひらをじっと見つめた。
「お母さん、私とそこまで体格変わんないの。でもあの頃私、絶対に勝てる気がしなかった。不良とかユーレイなんかより、お母さんのほうがずっと怖かった。……憎くて、殺したくてたまらないのに、学校でいじめられると、お母さんに頭を撫でてほしくなるの。……慰めてほしくなるの。家にいて楽しかった記憶なんて少しもないのに……それなのに私、家を居場所だと思ってるんだよ」
おかしいでしょ、と笑いながら、宮野さんは目元を無造作に拭った。
「……でも、お母さんもそうだったのかも」
「え?」
「お母さんにとっては、私こそが人生を台無しにした元凶。お母さんにとって、私はいじめっ子。お母さんをいじめてる存在だったんだと……」
「そんなことない! 絶対に、そんなことない! 傷付いてきたのはあなただ! それなのに……あなたがそんなふうに思う必要なんて、絶対にない……!」
思わず立ち上がって否定する。
健気が過ぎる彼女に悔しさを感じて、奥歯を噛み締める。
はっきりと強い口調で言う僕を見て、宮野さんは一瞬目を丸くしてから、からりと笑った。
「……ありがとう。……ふふ、君はすごいね。さっきまで生きる理由が分からないって言ってたのに、私を生かしてくれた。君はじゅうぶん、よく生きてるよ」
――よく生きてる。
ずっと、上手く生きられないことを悩んでいたのに?
日常に息苦しさを感じていたのに?
彼女の目には、僕はよく生きているように映ったらしい。
「……もしそう見えてるなら、それはあなたのおかげだと思う。あなたが、僕に新しい考え方をくれたから」
素直な気持ちを告げると、宮野さんは嬉しそうに笑った。
「私のおかげか。……悪くないな」
にこにことする彼女と目が合い、僕は恥ずかしくなって咄嗟に目を逸らした。
「私たちは間違える。悪いことを悪いことだと知りながらも、そうせずにはいられなかったりする。嘘をついたり、だれかを傷付けたり……。そのことで、返ってじぶんが傷付いたりして……そうして、成長していくんだ」
「……じゃあ、間違えてもいいのかな」
僕の頼りない問いに、宮野さんは力強く頷いた。
「ぜんぜんいい。だって、それが生きるってことだよ」
「……うん」
「いつか本物の死が君の目の前に来たときに死にたくないって思えたら、それがよく生きた証だ」
「……そうだね」
崖下を見る。
目眩がした。急に水面が恐ろしく感じられて、咄嗟に少し後退る。
「……僕、ここ、飛び降りようとしてた……?」
「うん」
「あなたも……」
「うん、してた。怖くなった?」
響く轟音に足が竦む。ものすごく恐ろしく感じる。
どうして?
さっきまで、ぜんぜん……。
「ここに来るには、かなりの覚悟がないとムリだよ。君は、さっきまでその覚悟があったかもしれないけど、今はもうなくなった。……なんでかな」
彼女のそのセリフは、まるで自分自身に問いかけるようだった。
――そんなの決まってる。
「あなたのせいだ……あなたが、僕の存在を認めてくれたから……死ぬのが、恐くなった」
「じゃあ私は、君の救世主になれたんだ。……そっか、嬉しいな」
嬉しい、と言う彼女は本当に嬉しそうで。なにかを噛み締めているようだった。
「ひとの心って不思議だ。死んでも、何度も生き返る」
そう言ってころころと笑う彼女は、とても美しかった。
***
ふと、まぶたの裏に光を感じて目を開ける。
朝日が刺すように僕の視覚を刺激した。
朝を告げる鳥の声と、押し寄せてくるような波の音に、軽いめまいを覚えた。
身体を起こした瞬間、全身に痛みを感じて眉を寄せる。周囲を見て、じぶんが岩肌に直に寝転がっていたことに気付いた。
「うわ、身体バキバキ……」
そういえば昨日の夜、ひとりでここへ来たのだった。
ここへ来て……どうしたんだっけ、と一瞬考えて、ハッとする。
そうだ、あの子。
僕の目は、考えるより早く彼女の姿を探した。
……いない。
頭が冴えていく。反して、心音は早まっていった。
昨晩、宮野さんも、僕のように死のうとしていた。
もしかしたら、僕が寝た隙に……?
いやなことを想像し、背筋が粟立つ。
急いで探さなくては、と僕は勢いよく振り返った。
「宮野さっ……」
「わっ!」
彼女の名前を叫ぼうとしたとき、すぐ近くで驚いたような声がして、僕は飛び跳ねた。
僕の真後ろには、男性が立っていた。僕に触れようとしていたのか、片手が僕のほうへ伸びている。
「わ、び、びっくりした……!」
「あ、す、すみません、いきなり」
「いえ……」
慌てて謝るが、驚いたのは僕もだった。
男性はひょろりとした体型で、飾り気のないシャツとパンツを履いていた。僕より少し歳上の、大学一、二年、といったところだろうか。手には仏花だろうか、花束を持っている。
再び僕と目が合うと、男性は軽く一礼した。
「……あの、突然で申し訳ないんだけど、君、もしかして視た?」
「えっ……?」
驚いた顔をした僕に、男性は優しげに笑った。
「いきなりごめんね。実は僕、ここでとても不思議な体験をしたことがあって」
男性は僕のとなりに立つと、さっきまで彼女が佇んでいたあの場所を見つめた。
「実は僕、昔ここで死のうとしたことがあったんだ。僕、学校に馴染めなくて中退して……でも、そのあともいろいろ上手くいかなくてさ。真夜中、ふらふらしてたら、いつのまにかここに来ていて」
「……はぁ……?」
困惑する僕にかまわず、男性は続ける。
「それでいざ死のうとしたとき、知らない女の子に話しかけられたんだ。その子もまた、ここで死のうとしていた。彼女は親から虐待を受けていたらしくてね、ガリガリだった。……その彼女が言ったんだ。朝まででいいから、少しだけ話し相手になって、って。……話してみたら、思いのほか話が弾んじゃって」
その瞬間、彼が言っている人物がだれなのか分かった。
「彼女と話していたら、あんなに長いと思っていた夜があっという間に明けていて……あのときはすごく驚いたな。今まで薬がなきゃ眠ることすらできなかったのに、いつの間にかぐっすりで。気が付いたら朝になってて、彼女はいなかった。帰ったのかなとも思ったんだけど、すぐそばにたくさんの花が手向けられていることに気付いて……もしかしたら、って思ったんだ」
そう言って、男性はちらりと視線を僕の後方にやった。つられて見ると、そこにはいくつかの花束が手向けられている。
昨夜は暗過ぎて気付かなかった。
「ユーレイってさ、無理やりにでもひとを死に追いやるものだと思ってたんだけど、違ったんだね。彼女と話してたらいつの間にか、死ぬのが怖くなってた。まさかユーレイに命を救われるとは思ってなかったから、びっくりして……それ以来、勝手に花を手向けに来てるんだ」
「……そうだったんですか」
「……ごめんね。君もワケありっぽかったし、もしかしたらと思って声をかけちゃった」
と、男性は申し訳なさそうに、もう一度頭を下げた。
「……たしかに、僕も昨夜、ここで宮野さんっていう女性に会いました。僕も、あなたと同じように死のうとしてたんですけど……でも、やめました。彼女と話して、気が変わって」
男性は、静かに『そう』と言った。
「……あのあと知ったことなんだけど、彼女、やっぱり亡くなっていたんだ」
「……じゃあ、僕が昨日会ったのは……」
ユーレイ。
脳裏に浮かぶのは、月夜に揺れる白いスカートと、彼女の淡い輪郭。
「……嘘つき」
……死なない、って、言ってたのに。
悲しさで胸がぎゅっとなる。
……だけど、今なら分かる。
あれは、僕を生かすための嘘だ。僕が、危ういところにいたから。
「……でも、自殺じゃなかった。ずっと前にこの海で幼い少年が流された事故があって、その子を助けて、亡くなったそうなんだよ」
ハッとした。
「少年が流された、事故……?」
話を聞くうちに胸がざわつき、全身が震え出す。
「あの、それっていつの話ですか? もしかして、八年くらい前の話じゃなかったですか?」
男性は、突然詰め寄った僕に驚きながらも、頷いた。
「そ、そうそう。知ってるの?」
ずっと思い出せなかった記憶の蓋が、ぱかりと開く。
知ってるもなにも。
「それ……僕、です」
「えっ!?」
男性が驚いた顔をして、呆然とする僕を見つめた。
新聞やニュースでは、誤って沖に流されたことになっているが、本当は違う。いじめに耐えかねて、死のうとしたのだ。
その日は夏休みの最終日で、遊泳は既に禁止になっていた。
夏休みに入った瞬間から、夏休みが明けたときのことが頭から離れなかった。毎日学校でのことを夢に見て、怯えていた。学校に行っているときより、実際には休み中のほうが辛かったかもしれない。
その夏休みが、いよいよ終わる。
当時、僕の心はすっかり疲れ切っていて、言うなれば目を開けたまま気絶しているような状態だったように思う。
足の赴くまま、僕は海へと入った。
少しづつ、記憶が蘇っていく。
正直、あのときの海水の冷たさも波の音も、ぜんぜん覚えていない。
……だけど途中、だれかに名前を呼ばれた気がして振り返った。
そうしたら、彼女が――宮野さんがいた。
宮野さんは、必死に僕を呼んでいた。
振り返った直後、波に呑まれた僕は意識を失った。気が付くと僕は病院のベッドにいて、両親の泣き顔が見えた。
「あのとき助けてくれたのは、宮野さんだったんだ……」
思い出した真実に愕然とする。
僕は、八年前に宮野さんと出会っていた。
昨夜、僕が会ったのは、記憶の中の宮野さんの姿とそう変わらない。
ということはつまり、あの頃に彼女は亡くなったということだ。
……僕を助けて、彼女は死んだ。
それなのに、僕は……恩人である彼女のことを忘れて、また死を選ぼうとしていた。
「また……助けてくれたんだ」
衝撃的な現実に打ちのめされ、言葉を失くしていると、ふと疑問が湧いた。
「……でも、宮野さんはどうして二度も、僕を助けてくれたんだろ……」
成長していない僕を、見限ったってよかったのに。むしろ、恨んでいたっておかしくないのに。
ぽつりと零した疑問を男性が拾う。
「彼女ね、昔、小学生の男の子に助けてもらったことがあるんだって言ってたよ」
「助けてもらった……?」
記憶を辿るが、そんな記憶はまったく思い当たらない。
「当時、彼女は家にいたくなくて毎日図書館にいたらしいんだ。ある日、図書館の庭で暇を潰していたら男の子が話しかけてきたんだって。雑草を見て、『この花、可愛い』って」
「花……?」
記憶のぜんまいが巻かれていく。
『――この花、可愛い』
『――こんなの、雑草だよ。なんの価値もない』
「それ……覚えてる」
心が震えた。
「『そんなの、だれかが勝手につけた名前でしょ』」
声が被る。男性が驚いた顔をして僕を見た。
「そう! 彼女、そう言ってた!」
……思い出した。小学生になってすぐの頃、僕は一時期、図書館に通っていたことがあった。
パートを始めた母親が、仕事が終わって迎えに来るまでの間だけ、学校近くの図書館で待つように言われていたのだ。
本なんてぜんぜん好きじゃなかった僕は退屈で、いつも館内をふらふらしていた。
彼女のことを知っていたわけじゃない。
僕にとっては、記憶の片隅にも残らないほど些細な一コマ。
庭でひとことふたこと話しただけのひとだ。
でも、たしかに会っていた。
あれはたしか……。
「――シロツメクサ」
白い花がぽんぽんとしていて、大福みたいで可愛いと思ったあの花。
花を見て、僕は言った。
『この花、可愛い』
すると、すぐ近くにいた高校生くらいの女の子が、僕を見て言った。
『こんなの、雑草だよ。なんの価値もない』
『違うよ。そんなの、だれかが勝手につけた名前でしょ』
「……そうです。僕、あのときたしかに宮野さんに会っていた。それで……シロツメクサに、名前を付けたんです。彼女が雑草だなんていうから。僕が名前をつける、この花は大福にする、って。その頃僕、ハムスターを飼いたくて仕方がなかったから、この花を一緒に飼おうよ、って彼女に」
そう言ったら、宮野さんは涙を流して笑ったのだ。なんで泣くんだろう、と不思議だった。悲しくもないのに。
僕にとっては、なんでもない会話だった。
だけどもしかしたら、僕の言葉が、死に際だった彼女を生かしたのかもしれない。
「彼女はそれまで、じぶんは雑草だと思っていたって。親にすら愛されない、みんなに踏みつけられる雑草なんだって。……君のことを嬉しそうに話していた。大地くんという男の子が、私を救ってくれたんだって」
涙をこらえる僕の背中を、男性が優しくさする。
「彼女は心から、君の幸せを願っていたんだろうね」
「嘘……つかれましたけどね」
「でもその嘘が、君を救ったんだろ? というかそもそも、君が彼女を覚えていたら嘘にはならなかったわけだしね」
痛いところを突かれて、唇を引き結ぶ。
男性は手に抱いていた花束を彼女に手向けると、振り返って僕を見た。
「……さて。僕はそろそろ行くよ。……君はどうする? 車で来てるから、良かったら送ろうか?」
「…………」
戻るつもりなどなかった日常に、手招きされて困惑する。
彼は、今会ったばかりの、名前も知らない男性。僕と同じように人生に絶望して、そして、彼女に救われたひと。
『絶望するってことは、それだけ真面目に人生を生きている証拠じゃん。それだけでじゅうぶん、えらいじゃん』
『他人はじぶんにはないなにかを絶対持ってる』
『いつか本物の死が君の目の前に来たときに死にたくないって思えたら、それがよく生きた証だ』
本当に、彼女の言うとおりかもしれない。
――生きたい。
彼女と話して、男性と出会って、素直にそう思えた。
「……お願いします」
小さく返すと、男性は優しく笑った。
「そうだ。帰りに牛丼屋でも寄っていかない? 奢るから」
なんて、男性が少し砕けた口調で訊いてくるものだから、思わず僕は、
「……あの、さっき人生あんまり上手くいってないって言ってたけど……お金とか大丈夫なんですか?」
男性が困ったように笑う。
「牛丼くらいなら大丈夫だよ」
「そうですか」
「……まぁ、たしかに僕今一浪中だし、お金はないけどさ……」
素直に白状した男性に、少し親近感を抱く。
「あの、名前聞いてもいいですか」
男性はくるりと振り向き、嬉しそうに頷いた。
「――僕の名前は」
僕たちの背中を、優しい朝日が包んでいた。