「えっ、リアルでファンの子に会ったのはじめてなんだけど!」
 「わーっ! うれしいです!」
 「もうすぐ百万人突破しそうだよね!」
 「去年イベントに出てから、一気に登録者が増えましたよね」
 その日いつものようにお店に出てきたバイトのさくらちゃんと吉野さんが、一台のスマホの画面をふたりで覗き込みながらなにやら盛り上がっていた。
 二十四歳になるわたしは、短大卒業後、地元を出ずにカフェ店員として三年間働きながら経営の勉強をして、最近自分のお店をオープンさせた。さくらちゃんはオープンから手伝ってくれている女子大生だった。一方で吉野さんは女子高生で、まだ入って一週間の新人さんだ。
 「なにみてるの?」
 と、ごくさりげなく尋ねてみる。
 「【テツワニ】さんていう実況者さんの動画です。オンラインゲームをやってることが多いんですけどね、トークがゆるいっていうか、軽いっていうか、とにかくなんか独特のおもしろみがあるんですよ」
 さくらちゃんが、よくぞ聞いてくれましたとばかりに早口で返してきた。
 「登録者数百万人を達成しそうなほど人気なんですけど、年齢も出身地も謎で……」
 「マスクしてるから素顔も謎なんですけど、あれはぜったいイケメンです」
 新人・吉野さんが横から熱を込めて言う。
 「雑談配信もやってるんで、明日菜さんも、ゲームに興味なくてもぜひ一回聴いてみてください!」
 「へぇ……」
 こちらが思っていた以上に推している人物のようで、その熱量にわたしはたじたじとなってしまう。
 とはいえふたりとの会話のネタになりそうなものが見つかったのはうれしかった。
 「若い子の流行はよくわからんわ」
 軽い冗談で肩をすくめると、
 「明日菜さんもじゅうぶん若いじゃないですか」
 とさくらちゃんがけらけら笑った。

 家に帰ってからPCを開く。
 テツワニってどう書くんだろう。などと考えながら検索欄に打ち込むと、いちばん上に【鉄鰐】という漢字出てきた。
 これかな。
 クリックすると、ずらりと動画のサムネイルが表示される。
 ちょうどライブ配信中のようだ。
 再生すると、画面にあやしげな黒いマスクとサングラスの男性が映った。これが鉄鰐さんか。なるほど、完全に素顔を隠して活動している配信者というわけか。
 自宅だろうか。シンプルなグレーのファブリックのソファに座って、緑茶のペットボトル片手に、小さなローテーブルを挟んだカメラのほうを向いて話している。

 「――そんなわけでね、みなさんほんとに応援ありがとうございました。いぇーいカンパーイ」

 その声を聴いた瞬間、わたしはがんと頭を殴られたような衝撃に襲われた。

 「十年で百万人ってのが、俺の目標だったからさあ、まーじで嬉しい。あ、【うじむし】さんスパチャありがとう。『有言実行してえらい』? でしょ〜、もっと褒めて」

 少し高くて軽々しい声に、不思議と心地の良いテンポのトーク。
 わたしの耳は、頭で考えるより早く、鉄鰐さんの声を聴いたことのあるものだと認識していた。

 いや、でも。でもでもでもでも、まさかまさかそんな偶然なこと起こる?

 「とはいえさ、まあ振り返ると俺の人生って別にすべてが予定通りとか順風満帆ってわけじゃ、全然ないんだよね。配信でもたまに言ってるけど、もともと俺はサッカーガチ勢で、小さい頃からサッカー選手になるつもり満々だったんだけど。中三のときに事故って。サッカーが思うようにできなくなって」

 サッカー、中学生三年生、事故。
 すべての情報がパズルのピースがはまるみたいに一致する。
 からだをめぐる血が熱くなり、鼓動が速まるのを感じた。

 「正直この先の人生、なにしたらいいのかわからなかったわけ。そんなときに試しにやってみたのが、ライブ配信のアプリなんだけど。もうないのかな、あのアプリ。まだあるのかな? 知らんけど」

 ああ、どうしよう、やっぱり間違いない。
 彼は、タニグチヤストさんだ。

 中学生の頃、人前で話すのが苦手で、わたしはライブ配信アプリをはじめた。
結局自分で配信をすることはできなかったけれど、受験勉強の息抜きにもなったし、人の話を聴くのは好きだったのだ。

ある日の深夜、一度だけ聴いた雑談配信。
そこでわたしは、軽妙な口調でシリアスな話題を飛び越えるように話す彼に出会った。

 「それもねー、一回しかやらなかったんだ。深夜にさ。身内しか聴いてねーわ、って思ってたら、何人か一応、リスナーの方が来てくれてさ」

 ああ、やっぱりあの一度きりだったんだ。
 地球上で七人だけ、あの夜タニグチヤストさんのおしゃべりを聴いていた。

 高校生になってからは、運良く素敵な友人や恩師に恵まれて、歳を重ねるにつれて話すのもそこまで苦ではなくなって、ほかのことに興味を持って、だんだんとそのアプリからは、遠のいていた。
 いつしか色褪せたものとなっていた受験期の記憶が、彼の言葉によって少しずつよみがえる。

 「まあ聴いてる人も少ないし、冗談のつもりで言っちゃったんだよね。十年で人気の動画配信者になってやるわ! ……って。いや実はそのときはまだそんなつもりなくてさ、勢いにまかせてつい口が滑ったわけ」

 えっ……て、え?

 ちょっと待って。
 あのときの宣言って、本気じゃ……なかった?
 「ガチで考えてたんすけど」って言ってなかった? あれ、嘘だったの!?

 追い討ちをかけるように打ち明けられた衝撃の事実に、あやうくむせそうになる。

 「でも聴いてくれてた人のなかでひとりだけ、たったひとりだけ、俺の背中を押してくれた人がいて」

 そうだっけ……。
 わたしはおぼろげな遠い記憶を探る。
 そういえばあのときはじめて、スタンプ以外の文章コメントを送った気がする。

 「『ぜったい叶う。わたしわかる』って」

 ……!?
 息を呑む。鳥肌が立つ。
 ああ思い出したよ、わたしのコメント。
 全細胞が、聞き耳を立てて次の言葉を待っていた。

 「まあ結果的にそのひとことをもらったことによって、おっしゃ、言ったからには実現させないとな! って思ったんだよね。自分の発言には責任を取らないとって。名前も覚えてるわ。アスナさん。ぜっっっっっっったいにこの動画見てはいないと思うけど」

 聴いてるよ。わたし、ここにいるよ!
 叫びたい衝動に駆られて胸元をぎゅっと押さえる。

 ああ、届いていたんだ。
 あの夜わたしの紡ぎ出した苦し紛れのひとことが、彼の心を動かしていた。

 「いやマジで感謝してる」

 鼻の奥がつんと痛くなって、目の奥にじわりと熱いものがこみあげる。

 違う。違うよ。感謝しているのはわたしのほうなの。
 わたしもあの夜、あなたの声を聴いてから、ほんの少しだけど考え方が変わっていったんだよ。
 町のどこかですれ違っているかもしれない。そう思うと世界は少しだけ色づいて見えたの。
 ああ、わたしのこの気持ちが、カケラだけでもいいから、彼に届けばいいのに……。

 あ、そうだ、コメントできるじゃん。

 思いついた自分を天才! と褒めちぎりながらキーボードに手を伸ばし、かたかたと勢いよく文字を打ち込む。

 『アスナです。いまも見てます。わたしも鉄鰐さんのおかげで変われました。ありがとうございます。これからも応援してます!』

 だけどいよいよエンターキーを押すという直前で、指がぴたりと止まった。

 もし、アスナが聴いていることがわかったら、ほかのファンの人たちはどう思うだろう。この一万人の人たちに、気を遣わせてしまうかもしれない。
 わたしは今日たまたま十年ぶりに彼に再会したけれど、十年間ともに歩んできた人だっているかもしれないのに。
 その人たちを押し退けて、自分の存在を主張することに、なんの意味があるのだろう。

 【タニグチヤスト】にとってのアスナは、過去の存在だ。
 【鉄鰐】がこれからつくる未来にはいない。「ぜっっっっっっったいにこの動画見てはいないと思う」とまで断言されるほどだし。
 わたしは匿名の新参者。今日はじめて鉄鰐に出会ったのだ。

 自分で自分に、思い込ませるように心の中でうなずいて、吹っ切れた顔で微笑む。

 「ヤストさんは、ほんとうにえらいよ」

 そっと口にする。もう何万人もの人たちに言われた台詞だろうし、決して届きはしないけれど。

 「百万人、達成おめでとう」