ある日のことでした。
「大和国へ帰ってきた……これで、父上にも……」
薄ら聞こえた独り言。
「オウスノミコト様!」
「……そなたは」
「私はオトタチバナと申します、オウスノミコト様。お戻りになられたのですね……!」
小碓命様はすっかりお窶れになられてはいたものの、生きて戻ってこられたこと、嬉しくて嬉しくて仕方がありませんでした。そして喜びのままに思わず声をかけてしまったのです。
「オトタチバナヒメ、そう、我は戻ってきた。この大和国へ。だがオトタチバナヒメよ、我はいまやオウスノミコトという名に在らず」
「……?では、今はなんという御名でございますか?」

「大和国の最も強き者、ヤマトタケルよ。」

この名を挙げたのは、そなたが始めてだ。とフフ、と口角をあげて微笑まれました。その微笑みが自分に向かっているなんて、信じられません。
ヤマトタケル様となられたオウスノミコト様は惚けた私を暫く面白いものを見るような瞳で見ておられましたが、その内スッと宮殿の中へ出向かれたのでございました。
私はその後ろ姿を見て、木ノ実を沢山収穫できた童が喜々として親に見せに行く――そんな情景が何故か朧気に浮かびました。
それから一時間も経過せず、ヤマトタケル様の御姿は宮殿前にありました。ヤマトタケル様はじっと戸の前で立っておいででした。
「オウス……ヤマトタケル様!」
「オトタチバナヒメ」
その後ろ姿にお声を掛けると、御返事をいただきましたがそのお顔を振り向かせることはありませんでした。ですが、お名前を憶えていただいていたのが嬉しくて、明るく言葉を紡いだのです。
「天皇からは何と?あの熊襲を討ち取ったのです、さぞ喜ばれ」「明日にはまた東に行け、と仰られた。矛一つと従者を一人賜った以外には、何も。よく帰った、よくやった。流石私の息子だと、そう、言っていただけると、思っていた我は愚かだった、のか……」
そういうヤマトタケル様のご様子が明らかにおかしいのはすぐにわかりました。声が処々掠れて、目は闇よりも暗く、このままでは東国でなく根の堅洲国や黄泉国へ行ってしまいそうな危うさがあったのです。
私はヤマトタケル様を何とかしなければならない、と思いました。何とかできるかどうかはともかく、このまま送り出して良い状態ではないと、そう感じたのです。
「ヤマトタケル様、どうか少しだけお時間を私に下さいませんか」
ヤマトタケル様は暫くそこに佇んでおられるのみでしたが、その内小さく頷いて下さったのです。
「ここはひと目につきます。場所を変えましょう。失礼します」
茫然としているヤマトタケル様の御手を引き(私はなんて大胆なことをしたんだ!と気づくのはもう少し後のことです)草を掻き分け獣道を行きました。
ぱっと視界が開けたと思えば見晴らしの良い崖。来た道は長草だらけで誰からも見えはしません。
「ここは私の秘密の場所なんです」
「そなたが秘密裏に所有する地ということか」
「いえ、そういう訳ではないのですが……。ただ、空気が澄んでいて町の喧騒からも遠く。好きだな〜と思っていて」
「確かに、良いところだ」
ヤマトタケル様の瞳に少しだけ光がさしたのが分かりました。良かったと安堵するやらこんな至近距離でヤマトタケル様とふたりきりで緊張するやら、内心忙しなくありましたが、とにかく、ヤマトタケル様にこの調子で元気になっていただきたいのです。そのためにはどのようなお話をすれば良いか、まずお話はすべきなのか、そこから悩みましたが、成功体験を語っていただければ、元気も湧くのではと浅はかな発想ながら考えたのです。
「どうやって熊襲を滅ぼしたのですか?」
「女人の格好をして、酒をどばどばついでやり、熊襲兄弟がフラフラ酔っ払ってきて、我の胸やら足やらにニヤニヤしながら手を伸ばしてきた時にぐっと掴んで、どりゃー、と飛ばして兄が気絶してる間に剣でぐさっとやって、弟が背を向けて逃げ出したから尻をさくっと刺してひねり殺した」
何とまぁ擬音の多い。よくある凄惨な話ですが、何だか童が話をしているのを聴いているようで、可愛らしくてクスクス笑ってしまった。
「何がおかしい」
「すみません、ですが女人の格……女人の格好!?」
私はヤマトタケル様のお言葉を反復して、その事の重大さに今ようやっと気づいたのです。女人の御召物を纏ったヤマトタケル様……さぞ私も羨む様な美しい女人であったことでしょう。最期に見た人がそんなヤマトタケル様であったなら、私はこの世に悔いもないでしょうが。
「我が叔母上、ヤマトヒメ様にきっと何かの役に立つからと……その言の葉は半信半疑であったが、うむ、流石ヤマトヒメ様。我には考えつかぬ妙案であった。お礼を申し上げに馳せ参じねば」
「すみません、女人の格好とは……」
「そなた、やけにその点を気にするのだな。こう、ひらひら〜っとしていた。」
「ひらひら〜っとした女人の装いに身をつつんだヤマトタケル様…………尊い!尊いです!」
「貴い……?我は神にあらず」
「神のように尊いのです、想像したら……!嗚呼、女人の格好のヤマトタケル様!尊い!!」
「そ、そうか。しかしそなた、表現が奇異だな。悪い気はせぬが。我に対し貴い、とは……フフッ」
「わ、わたしったら皇子様ともあろう方の前で大変取り乱して……失礼しました!」
「良い良い、少し元気が出た」
そう言いすっくと立ち上がると、ありがとう、と一言残され、踵を返されたのです。

「叔母上、叔母上。ただいま戻りました。」
「オウスノミコト……いえ、いまはヤマトタケルでしたね。」
ヤマトヒメはヤマトタケルの帰りを喜ぶと同時に少し驚いた。名前だけでなく、顔も変わったと感じた。あのあどけない雰囲気と神のような強さを秘めたあの顔が、一気に年を重ねた様だったのだ。戦をくぐり抜けると、生まれ持ったものではなく、なにか鬼気迫る……そういった顔つきになるのかもしれない。
「流石、大和国よりの情報は知れ渡るのが早いですね」
「そうですね、貴方が天皇から新たに賜った命も知っておりますよ。すっかり傷心していると思っていたのですが」
「…………。」
「ヤマトタケル……」
「父上は、私に死ねと思っておられるのです。こんな、こんな苦しいことがありましょうか。それでもこうして、ヤマトヒメ様の元へ馳せ参じることが出来たのは、あのヒメが居たからかもしれません。あのヒメに出会っていなければ、五十鈴川にでも、一つの肉塊が游いでいたことでしょう。」
「……とても、良いヒメに出会ったのですね」
ヤマトタケルは小さく頷いた。
そしてヤマトヒメはヤマトタケルに剣と小さな袋を一つ授け、その後ろ姿が大和国へ戻っていくのを見届けた。
事件は明朝におきました。
「オトタチバナ!」
「ふぁ……ぁ、おはよう。なんですか、母様」
「ヤ、ヤマトタケル様が家の前に!オトタチバナに話があると!」
「そういう夢を見たいものだわ〜」
「夢ではありません、現実です!手早く身支度をして出なさい!!」
母様の必死の形相に、段々とその発言が熱を帯び、服を整え髪を整え化粧もそこそこに、私は戸をあけたのです。
すると、待たされたことを意にも返さないように、薄ら微笑んで下さったヤマトタケル様が目に入り、これはやはり夢ではないかと、そう考えてしまうのです。だって、あまりに私に都合が良すぎるのですから。周りから「おい、あれはヤマトタケル様ではないか?」「ヤマトタケル?誰だ?」「オウスノミコト様のことだよ」と言う声があがり、人々が何だ何だと集まり始め、すぐに人による垣根が出来上がりました。
「あ、あの……お話とはなんでしょう」
大体、御子様が私と話をするために、私の家へ伺って下さった辺りから、何かがおかしいと思ったのです。
「婚ひをしてくれぬか」
「えっっっ」
それはあまりに突然で、わたしはとてもとても驚きました。それこそ心の臓が口から飛び出してしまうかと思いました。やはりこれは夢。夢です。ですが、周りのどよめき。今のは聞き間違えでもなんでもないと、証人になった沢山の人がいたのです。
驚き、喜び、全てを一度飲み込んで、返事をいたしました。はい、と、これほどまでに私がはっきりと申したことは無かったでしょう。
「嬉しい」
そう、力が抜けた様に笑いながらおっしゃるヤマトタケル様はこの世の何もかもよりも美しくあったのです。
「我はまたすぐに大和国を去らねばならぬ。その実……我も大和国に留まりキュンキュンするような蜜月の一時を過ごせたら、などと思わぬでもないが、こればかりはスメラミコトのご命令。叛くわけにはいかぬ」
何故このお方はこうも私のツボの真っ直ぐ真ん中をつくような真似をなさるのか。
「はい、分かっております。この地続くところまで天皇の恵みを齎すために頑張っておいでですものね」
「……そうだな」

そしてヤマトタケル様はその足で大和国にまつろわぬ者を平らげようとまた出発なされたのです。人懐っこく、美しいヤマトタケル様を慕うものは大和国に数多く、誰かが何かしらの「つて」を使い大体この辺りにいらっしゃる、だとか、伊勢国からこういうルートを行かれただとか、情報は常に大和国に入っておりました。それが天皇のお耳に入っていたかは私の知る由もありませんでしたが、きっと常に気にしておられたのは違いありません。
その内、情報を1日何度も何度も有識者に尋ねるのも嫌になってきました。かといって尋ねるのをやめたとて、ヤマトタケル様が気になり、何も手に付きません。こうなったら、と頭によぎる妄言は素晴らしくあり、その無鉄砲ぶりに自身のことながら呆れもしました。しかし時間の経過と共に実行するしかない、とその妄言は私の脳を支配したのです。
「母様」
「…………行くのでしょう、日嗣の御子様を追って」
母様は何もかもお見通しでした。
「はい」
「死ぬかもしれませんよ」
その言葉は私に重くのしかかりました。
「それでも、いきます」
「……そう。オトタチバナ、あなたはそれだけの夫を持ったのですね……分かりました。行ってきなさい」
母様は最後までこちらを見てくださりませんでした。父様が死んだ後、ずっと一人で私を育てて下さった母様。母様の背は、こんなに小さかったでしょうか。
「ワガママな娘でごめんなさい。そして……ありがとうございます」
私は深々と最敬礼の形で頭を下げました。

私がヤマトタケル様に追いついたのは常陸国辺りでした。白い花が咲き誇っている野での再会でした。ヤマトタケル様は驚いたような呆れたようなお顔を浮かべられた後、にっこり笑って抱きしめて下さったのです。
私もヤマトタケル様も、胡服のあちこちをボロボロにしていましたが、元気に再会できたことを、二人でこれでもかと喜びあったのです。
そして、その時、私はヤマトタケル様に出会えたことで緊張の糸が切れお腹が俄然空いてしまったのです。近くの里に住むという二人の老人にヤマトタケル様が近くで何か捕れるものはないか、と尋ねますと「このあたりの野に群れる鹿の数と申したら大変なもの。ひとつ狩りをなさってはいかがか」と教えてくれました。するともう一人が「いやあ、このあたりは海のさちこそ豊か。漁をなさるといい」と負けずにおっしゃいました。
「……どうする?」「どうしましょう」
「ではとりくらべをしよう、オトタチバナ。我は野に狩りへ、そなたは海へ漁に出てくれ。どちらが沢山とれるか競おう!」
「望むところです!」
「フフ、そなた、ここにくるまでの旅路で強くなられたな」
「そうですか?」おてんばと、軽蔑されたのかと思い眉を下げる私にヤマトタケル様は笑って「そういうところが、また途方もなくうつくしいのだ」と仰られました。
とりくらべの結果はおそれながら私の勝ちでした。沢山の海の幸をヤマトタケル様と分け合い、お腹を満たしました。
その後は、近くの浜辺で丸い黒石を拾って遊び、船に乗って島々をめぐり、波のまになびく藻に見とれて過ごしました。私の人生の中で最も幸せな時間でした。
それから常陸国を出て歩きに歩き、私たちは相模国に入りました。国に入るなり、住民の蝦夷の長がヤマトタケル様に泣きついてきました。
「この相模野の中に大きな沼があり、その沼に恐ろしい神が住んでおります。お力をもちまして平らげていただけませんか」
「そうか。それは放っておけぬ。よし、任せなさい」
「ありがとうございます、ありがとうございます。問題の沼はこの先に……」
しかし私達がどれだけ歩こうとも、そのような沼はありませんでした。草が生い茂るばかり。
「ヤマトタケル様、もしや、私達ははかられ」
私がそう声を上げたときでした。前方、後方から激しい火の手が上がったのです。生い茂る草にあっという間に引火し、燃え広がりました。私達は火の檻の中です。
「かかったな、大和国の者共はまこと愚かなり!」
蝦夷は声を上げて勝ち誇ったように笑っていました。
「く……っ!危ない、オトタチバナ!!」
ヤマトタケル様は私を火の手から庇いながら、何か打開策は無いかと策を講じていらっしゃいました。そうだ!と顔をあげられ、ヤマトタケル様はヤマトヒメ様に貰ったという袋を開けられました。中には火打ち石が入っていたのです。私とヤマトタケル様はしめた!と顔を見合わせました。
「私がこれで迎え火をお打ちいたします!ヤマトタケル様はどうかその剣で、草を薙ぎ払って下さいませ!」
「分かった、そちらも頼んだぞ!」
「はい!」
みるみる内に火は蝦夷の方へひろがっていきました。焦る蝦夷にヤマトタケル様は斬撃をおやりになり、完全に鎮火した時には、その屍も骨を残すのみでした。
「流石ヤマトタケル様です」
「いや、これはそなたとこの剣、そしてこれを授けてくださった叔母上の先見に助けられたのだ」
「その剣も、ヤマトヒメ様から?」
「うむ。神代、スサノオノミコトが退治した八岐の大蛇の尾からあらわれアマテラスオオミカミに献上した天叢雲剣だとおっしゃった。だが、我にとっては神々がどうこうよりも、草を薙ぎいでくれた剣――草薙剣だ」
その日はとても良い天気でした。心地よく、外で取った御昼の食事も、とても朗らかで楽しいひとときでした。ヤマトタケル様はお食事の感想をよく述べられました。「これは旨い」だとか「酒が進む。素晴らしい食事だ」だとか、それはそれは美味しそうに食べていただけたのです。私もとても嬉しくて、沢山食べていただこうとあれこれ勧めました。従者のお一人が「こんなによく食べるヤマトタケル様は始めて見た。オトタチバナヒメの食事は確かに旨いが、きっとヤマトタケル様はオトタチバナヒメが作られた、というところにさらに価値を見出しているのでしょうな」と仰られたのです。その言葉が嬉しくて、今ならなんだって上手くいくような気すらしていたのです。ですから、航海だって、順調に進むと思っていたのです。
走水を渡ろうとしたその航海で、海峡の神の怒りに触れてしまったのです。天は暗くなり、雨風は酷く吹き荒れ、船は制御がきかず、まるで木の葉のようにただ回され流されるばかりで、進むことも退くことも叶わぬ状況に陥ってしまいました。
「もうダメだ!」「おしまいだ!」そんな悲観する声が従者の方々からあがります。私はただひたすらに顔をふせ、神にお祈りを捧げていましたがそれも最早聞き届けられることなし。そう悟り、私はヤマトタケル様をふりあおいだのです。ある考えを持って。それは大変な決意を必要としましたが、いつだってヤマトタケル様の為であればどんな決意も困難としないのです。
「私は神になります」
「オトタチバナ……!」
「この日の本の国は、本当に素敵な国です。山も、海も、空も、動物に植物、人も神も……どれをとっても素晴らしい。私は、この国を護り続けたいのです。そのためにはヤマトタケル様、貴方は生きなければなりません。」
「何故、何故そなたを殺す海を、神を素晴らしいと言える!?我には分からぬ!我には……!」
半狂乱になって取り乱すそのお姿すら、かのヤマトタケル様は神々しいと思いました。
ただ、最早私なんぞにかけられる言葉はなく、和々と、ヤマトタケル様の不安や悲しみを煽るような顔をしまいと、それだけを考えていたのです。
「オトタチバナ……」
この状況で私が笑っていることが信じられない、といったご様子でした。
「……もう、そなたは神になってしまったのだな…………」
ヤマトタケル様は拳を握りしめ、奥歯を噛み締めながら、とても苦しそうに黙っておられました。その時間は僅かでも、幾千年の間でもあったように思います。
「……最後に口吻をさせてくれぬか」
「……喜んで」
嗚呼、波しぶきに当たって身体が冷たい。
唇も紫色ではなかろうか。こんなにヤマトタケル様が近くにいるのに。最期位、一番美しい姿で貴方の脳に焼き付けたかった。それだけが哀しい。
「オトタチバナ……」
――あぁ、あつい。何よりも……。
「ヤマトタケル様を誹る神があるのならば、救う神もありましょう。私は神になります。そして未来永劫、貴方と国を護りましょう。――さぁ、かけまくもかしこき海神《わだつみ》よ!我が身体、献上いたす!これをもちて、彼の人らの行く末を阻むのをお控え願い恐み恐み白す!!」
橘は元々この国のものではありません。オオクニヌシノミコトと共に国造りを成したスクナヒコナノミコトが向かった常世国。但馬守も天皇の命で橘を探し求めた常世国。
私はそこに還るのです。
私は大きく柏手を打ち、船から身を投げました。
「オトタチバナァアア!!!!!」

――さねさし 相模の小野にもゆる火の 火中に立ちて といし君はも
(相模野にもえる火の そのただなかに立って わたしの名をよんでくださった やさしい君よ)
誰にも届かない、私の愛のうた。

船の柄を掴み、追って入水しようとするヤマトタケル様と、ヤマトタケル様をお止めする従者の姿が摩天楼のように揺れておりました。
ヤマトタケル様がこぼされた涙が、この大海原の中でも特段光り輝き、まるで翡翠のように私を照らしてくれるのです。きらきら、ぴかぴかと。……ああ、あの人の擬音表現の癖が、うつってしまったようです。

その日はとても良い天気でした。心地よく、外で取った御昼の食事も、とても朗らかで楽しいひとときでした。ヤマトタケル様はお食事の感想をよく述べられました。「これは旨い」だとか「酒が進む。素晴らしい食事だ」だとか、兎も角美味しそうに食べていただけたのです。私もとても嬉しくて、沢山食べていただこうとあれこれ勧めました。従者のお一人が「こんなによく食べるヤマトタケル様は始めて見た。オトタチバナヒメの食事は確かに旨いが、きっとヤマトタケル様はオトタチバナヒメが作られた、というところにさらに価値を見出しているのでしょうな」と仰られたのです。その言葉が嬉しくて、今ならなんだって上手くいくのです。ほら、一時荒れていた海だって、この通り穏やかに。

ヤマトタケル様は無事岸に渡ることが出来ましたが、幾日か魂がお抜けになったかのように日が昇り沈むまで、ずっと来た海を眺めておいででした。私がいつか戻ってこないものか。……戻ってこないにしろ、遺体をこの手に抱けぬものか。私の願望や妄想でなく、確かにそう考えて下さってのことだったのです。嬉しく思いましたが、そう言ってばかりはいられません。従者の方の声も最低限の反応しかおみせにならないのです。食事も睡眠も満足にとられず、そんな状態で1日潮風に当たっておられるのですからこのままでは衰弱してしまいます。しかし、ヤマトタケル様の元に私の身体をやろうとも、身体は既に常世国にありましたので、私が手に入れた神としての力を持ってしても叶いません。ただ、狼狽える神と、消沈する人を哀れに思ってか、神が慈悲を下さいました。一つ気泡と共に浮上するものがあったのです。私の櫛です。櫛には神代より霊力または魂が宿るもの。黄泉比良坂にてイザナミノミコトが仕向けたヨモツシコメやヨモツイクサにイザナギノミコトが追われたときも、今にも八岐の大蛇に差し出される羽目になりそうだったクシナダヒメがスサノオノミコトに救われたときも、櫛というものは大いなる力を発揮してきたものです。
これは良い形見になると、私はその櫛をヤマトタケル様の手元に届くよう風を操り、海面を揺らしたのです。ヤマトタケル様は流れてくる櫛に気づかれた瞬間波間を割って海に入り、泳いでその櫛を手に取られたのです。
「これは……違いない、オトタチバナの……あぁっ!!」
ヤマトタケル様はその後、神々に対して恐れ畏む気持ちを忘れてしまいました。
そして伊吹山の白猪神の毒にあてられ、一人ジワリジワリと身体を蝕まれながら、足が三重に曲がり歩けなくなってしまいました。
私は必死に、少しでも毒のまわりを遅らせようとしましたが、ヤマトタケル様の容態が変わることはありませんでした。
「オトタチバナ……オトタチバナ、いるのか。」
ヤマトタケル様は息も絶え絶えに、私の名をお呼びになりました。
「もしも神となり、我を守ろうと四苦八苦してくれておるのなら、もう良い。どうか、もう、そなたの側に行かせてくれ」

「オトタチバナだけではない。父上にも、ヤマトヒメ様にも、昔は仲の良かった大碓命兄様にも、ミヤズヒメにも、民にも、我はあいたい。あいたいぞ……。」
しかし、ヤマトタケル様はそう言いながら山の麓に向かうでなく、登っておられました。このとき既にもう上や下やの感覚が無くなっておいででしたのです。ただ、ヤマトタケル様の思う大和国の方向へおぼつかない足取りを向かわせていたのです。
「大和国へ帰りたい……、皆がおる、大和国へ……」
そう言って、足を何とかあげたヤマトタケル様の眼に映ったのは、山頂で開けた先の美しい山々でした。遠くには大和国も見えます。
「大和は 国のまほろば たたなずく 青垣山隠れる 倭しうるわし」
――大和国は国ぐにの中心をなす すぐれてことに美しい国 かさなりめぐる山やまは さながら青い垣のよう その山脈にまもられた 大和よ美しい わがふるさとよ――
そう涙をポロポロ流しながら仰られました。
なんと麗しく哀しい歌でしょうか。その声を持って紡がれる全ての音が私にとって心地よいものでしたが、その歌は格別でした。
そうして暫くの間じっと、故郷を眺めておられたヤマトタケル様はその内立ってもいられなくなり、一つの巨木にドサリともたれかかりズルズルと腰をおろしたのでございます。
ゲホ、ゲホと咳を手で押さえてみれば、ヤマトタケル様の掌には血がついておりました。
「命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くまかしが葉を 髻華(うず)に挿せ その子」
――おまえたち ともにたたかってきたものよ 命あって大和国に帰ることができたら 平群の山の 美しい樫の葉を頭にかざし 楽しくいわってくれ 楽しく生きてくれ かわいい家来よ――
それは長らく苦労をともにした従者の方へ向けての言葉の花束でした。
「ゲホ、ゴホッ」
「……愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」
――なつかしい大和の 我の家のあたりから もくもくと雲が立ちはじめた――
そこまで歌われて、もう座ってもいられずヤマトタケル様はコテン、と横に倒れられました。もう見ていられません。見ていられませんが、彼の最期を見とれるのは私だけです。大和国のもっとも強き夫を看取るのは、私の役目なのだ、と勝手にそう思っていました。
「をとめの 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや」
――ミヤズヒメのもとに 我がおいてきた太刀よ 大切な太刀よ どうなっただろうか あの太刀は――
「……頭が、ぐわんぐわんする。死ぬのか、一人で死ぬのか。大和国のもっとも強き者は一人で死ぬのか。人間は結局生まれてから死ぬまで真の意味では一人なのか。誰か、誰か、ぎゅっとしてくれ……………………」
こうしてヤマトタケル様は薨去されました。
最後まであまり神を信じられない方でした。私はこうして、ずっと抱きしめていましたけれど、見えないものはヤマトタケル様にとって、無いも同然なのでした。こんなに近くにいて、よもや触れてまでいますが、ヤマトタケル様がオウスノミコト様であった頃、狩りに行かれる御姿をじっと見ていたあの時と同じような気持ちになりました。
ですから、彼は神になれるだけのお力がおありになりますのに、神にはなられませんでした。精神的にしろ物理的にしろ幾度もたぎたぎしい道を行かれたヤマトタケル様、彼はそういったものから開放されたかったのでしょう。ヤマトタケル様の魂は一点の汚れも無い麗しい白鳥となり、大空に舞い上がったのです。
全てを隣で見ていた私でなくとも、その白鳥はヤマトタケル様であると皆が分かるのです。それは不思議なことでありましたが、何故かそれがさも普通のことであるように思えました。大和国へ飛んだ白鳥は天皇のおわす宮に少しの間たたずみ、執務に勤しむ天皇をジッと見ていたのですがその内、情報の早い大和国にヤマトタケル様の薨去の報せが入りました。全ての伝達事項よりも、その情報は最優先で共有され、オオタラシヒコオシロワケノミコトの耳にもそれが伝わったとき、そうか……。と目を伏せ、忙しなく動いていた手先を止められました。私は天皇のお近くにそっと寄り表情を見ていましたが、すうっと一筋の涙がこぼれたのを確かに見ました。ヤマトタケル様を死地へ向かわせたのは紛れもなく天皇なのですが、その涙にどれだけの御子様への思いがこもっているのか、私には図り得ないと思いました。天皇であり父であり、皇子であり子である。きっと、お二人にしか……いいえ、御自分でも分からない感情がおありでしょう。その頬を伝う光が天窓から覗いておられた私の愛しい白鳥に見えたかは分かりません。ですがそのとき、白鳥はずっと背負っていた憂いを精算したかのように、高く遠く舞い上がったのでございます。その羽ばたきには天津神の坐す国、高天原に届かんとする勢いが御座いました。
その羽撃く音が聞こえたのか、オオタラシヒコオシロワケノミコトは天窓の方をぱっと見上げられました。そしてぽつりと「……オウス」と呟かれたのです。
ヤマトタケル様薨去の報せは大和国から少し遅れ伊勢国にも入りました。私と愛しい白鳥の姿もそのとき伊勢国にありました。報せをきいたヤマトヒメ様はその場で膝をつかれ、裾を濡らされましたが、少しして、はたと私の方を見られたのです。その目は確かに、神たる私を捉えていたのです。
「……ヤマトタケル、あなたは本当に、とても良いヒメに出会えたのですね」
その言葉に、私はどれだけ救われたことでしょう。考えれば、ヤマトヒメ様は伊勢神宮の斎宮。神と交信する力をお持ちのお方。現し世にその身をおきながら神の存在を感じ取るなど、彼女にとって造作もないに違いありません。
その時、バサバサと再び白鳥が飛び上がる音が聞こえました。私も追って空へのぼります。私はこの国とヤマトタケル様が好きで良かったと思います。心の底から、そう思います。前を往く白鳥と、遠ざかっていく国へ、オトタチバナより愛を込めて。

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